Ⅳ-0233執持鈔 (一) 一 本願寺聖人仰云、 來迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆへに。臨終まつこと來迎たのむことは、諸行往生のひとにいふべし。眞實信心の行人は、攝取不捨のゆへに正定聚に住す。正定聚に住するがゆへに、かならず滅度にいたる。かるがゆへに臨終まつことなし、來迎たのむことなし。これすなはち第十八の願のこゝろなり。臨終をまち來迎をたのむことは、諸行往生をちかひまします第十九の願のこゝろなり。 (二) 一 またのたまはく、 「是非しらず邪正もわかぬ この身にて 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」(正像末*和讚)。往生淨土のためにはたゞ信心をさきとす、そのほかをばかへりみざるなり。往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすⅣ-0234ぢに如來にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補處の彌勒菩薩をはじめとして佛智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の淺智をや。かへすがへす如來の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に歸したる信心發得の行者といふなり。さればわれとして淨土へまひるべしとも、また地獄へゆくべしとも、さだむべからず。故聖人W黑谷源空聖人の御ことばなりRのおほせに、源空があらんところへゆかんとおもはるべしと、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも、故聖人のわたらせたまふところへまひるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人の御化導にあづかりて、彌陀の本願をきゝ、攝取不捨のことはりをむねにおさめ、生死のはなれがたきをはなれ、淨土のむまれがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ彌陀の佛智に歸して念佛するが地獄の業たるを、いつはりて往生淨土の業因ぞと聖人さづけたまふにすかされまひらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。そのゆへは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定惡道へゆくべかりつる身なるがゆへにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて惡道へゆかば、Ⅳ-0235ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればたゞ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまひらんとおもひかためたれば、善惡の生所、わたくしのさだむるところにあらずといふなりと。これ自力をすてゝ他力に歸するすがたなり。 (三) 一 またのたまはく、 光明寺の和尙W善導の御ことRの『大无量壽經』の第十八の念佛往生の願のこゝろを釋したまふに、「善惡凡夫得生者、莫不皆乘阿彌陀佛大願業力爲增上縁」(玄義分)といへり。このこゝろは、善人なればとて、おのれがなすところの善をもて、かの阿彌陀佛の報土へむまるゝこと、かなふべからずとなり。惡人またいふにやおよぶ。をのれが惡業のちから、三惡四趣の生をひくよりほか、あに報土の生因たらんや。しかれば、善業も要にたゝず、惡業もさまたげとならず。善人の往生するも、彌陀如來の別願、超世の大慈大悲にあらずはかなひがたし。惡人の往生、またかけてもおもひよるべき報佛・報土にあらざれども、佛智の不可思議なる奇特をあらはさんがためなれば、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを行じて、Ⅳ-0236かゝるあさましきものが、六趣四生よりほかはすみかもなく、うかむべき期なきがために、とりわきむねとおこされたれば、惡業に卑下すべからずとすゝめたまふむねなり。さればおのれをわすれてあをぎて佛智に歸するまことなくは、おのれがもつところの惡業、なんぞ淨土の生因たらん。すみやかにかの十惡・五逆・四重・謗法の惡因にひかれて三途八難にこそしづむべけれ、なにの要にかたゝん。しかれば、善も極樂にむまるゝたねにならざれば、往生のためにはその要なし。惡もまたさきのごとし。しかれば、たゞ機生得の善惡なり。かの土ののぞみ、他力に歸せずはおもひたへたり。これによりて、「善惡凡夫のむまるゝは大願業力ぞ」と釋したまふなり。「增上縁とせざるはなし」といふは、彌陀のちかひのすぐれたまへるにまされるものなしとなり。 (四) 一 またのたまはく、 光明・名號の因縁といふことあり。彌陀如來四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」(大經*卷上意)とちかひたまへり。これすなはち念佛の衆生を攝取のためなり。かの願すでに成就して、あまねく无㝵のひかりをもて十方微塵Ⅳ-0237世界をてらしたまひて、衆生の煩惱惡業を長時にてらしまします。さればこのひかりの縁にあふ衆生、やうやく无明の昏闇うすくなりて宿善のたねきざすとき、まさしく報土にむまるべき第十八の念佛往生の願因の名號をきくなり。しかれば、名號執持すること、さらに自力にあらず、ひとへに光明にもよほさるゝによりてなり。これによりて、光明の縁にきざされて名號の因をうといふなり。かるがゆへに宗師W善導大師の御ことなりR「以光明名號攝化十方、但使信心求念」(禮讚)とのたまへり。「但使信心求念」といふは、光明と名號と、父母のごとくにて、子をそだてはぐゝむべしといへども、子となりていでくべきたねなきには、ちゝ・はゝとなづくべきものなし。子のあるとき、それがためにちゝといひはゝといふ號あり。それがごとくに、光明をはゝにたとへ、名號をちゝにたとへて、光明のはゝ・名號のちゝといふことも、報土にまさしくむまるべき信心のたねなくはあるべからず。しかれば、信心をおこして往生を求願するとき、名號もとなへられ、光明もこれを攝取するなり。されば名號につきて信心をおこす行者なくは、彌陀如來攝取不捨のちかひ成ずべからず。彌陀如來の攝取不捨の御ちかひなくは、また行者の往生淨土のねがひ、なにゝよりてか成ぜん。されば本願や名號、名號や本願、本願や行Ⅳ-0238者、行者や本願といふ、このいはれなり。本願寺の聖人の御釋『敎行信證』(行卷)にのたまはく、「德號の慈父ましまさずは能生の因かけなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁そむきなん。光明・名號の父母、これすなはち外縁とす。眞實信の業識、これすなはち内因とす。内外因縁和合して報土の眞身を得證す」とみえたり。これをたとふるに、日輪、須彌の半にめぐりて他州をてらすとき、このさかひ闇冥たり。他州よりこの南州にちかづくとき、夜すでにあくるがごとし。しかれば、日輪のいづるによりて夜はあくるものなり。世のひとつねにおもへらく、夜のあけて日輪いづと。いまいふところはしからざるなり。彌陀佛日の照觸によりて无明長夜のやみすでにはれて、安養往生の業因たる名號の寶珠をばうるなりとしるべし。 (五) 一 わたくしにいはく、 根機つたなしとて卑下すべからず。佛に下根をすくふ大悲あり。行業おろそかなりとてうたがふべからず。『經』(大經*卷下)に「乃至一念」の文あり。佛語に虛妄なし、本願あにあやまりあらんや。名號を正定業となづくることは、佛の不思議力をたⅣ-0239もてば往生の業まさしくさだまるゆへなり。もし彌陀の名願力を稱念すとも、往生なを不定ならば正定業とはなづくべからず。われすでに本願の名號を持念す。往生の業すでに成辨することをよろこぶべし。かるがゆへに臨終にふたゝび名號をとなへずとも、往生をとぐべきこと勿論なり。一切衆生のありさま、過去の業因まちまちなり。また死の縁无量なり。やまひにおかされて死するものあり、つるぎにあたりて死するものあり、みづにおぼれて死するものあり、火にやけて死するものあり、乃至、寢死するものあり、酒狂して死するたぐひあり。これみな先世の業因なり、さらにのがるべきにあらず。かくのごときの死期にいたりて、一旦の妄心をおこさんほか、いかでか凡夫のならひ、名號稱念の正念もおこり、往生淨土の願心もあらんや。平生のとき期するところの約束、もしたがはゞ、往生ののぞみむなしかるべし。しかれば、平生の一念によりて往生の得否はさだまれるものなり。平生のとき不定のおもひに住せば、かなふべからず。平生のとき善知識のことばのしたに歸命の一念を發得せば、そのときをもて娑婆のをはり、臨終とおもふべし。そもそも、南无は歸命、歸命のこゝろは往生のためなれば、またこれ發願なり。このこゝろあまねく萬行萬善をして淨土の業因となせば、まⅣ-0240た廻向の義あり。この能歸の心、所歸の佛智に相應するとき、かの佛の因位の萬行・果地の萬德、ことごとくに名號のなかに攝在して、十方衆生の往生の行體となれば、「阿彌陀佛卽是其行」(玄義分)と釋したまへり。また殺生罪をつくるとき、地獄の定業をむすぶも、臨終にかさねてつくらざれども、平生の業にひかれて地獄にかならずおつべし。念佛もまたかくのごとし。本願を信じ名號をとなふれば、その時分にあたりてかならず往生はさだまるなりとしるべし。 [本云] 嘉曆元歲W丙寅R九月五日拭老眼染禿筆、是偏爲利益衆生也。 釋宗昭W五十七R 先年、如此予染筆與飛驒願智坊訖。而今年曆應三歲W庚辰R十月十五日隨身此書上洛、中一日逗留十七日下國。仍於燈下馳老筆留之、爲利益也。 宗昭 七十一