Ⅳ-0075善信聖人繪 上 第一段 夫聖人の俗姓は藤原氏、大織冠W諱鎌子内大臣、天兒屋根尊二十一世孫也Rの後胤、弼宰相有國卿五世の孫、皇太后宮大進有範息也。朝廷に仕て霜雪をも戴、射山に趨て榮花をも發べかりし人なれども、興法の因うちに萌し、利生の縁ほかに催しによりて、Ⅳ-0076九歲の春の比、阿伯從三位範綱卿W于時從四位下前若狹守、後白川上皇近臣也、上人養父R前大僧正W慈圓、法性寺殿御息、月輪殿長兄、慈鎭和尙是也Rの貴房へ相具したてまつりて、鬢髮を剃除せられき。範宴少納言公と號す。自爾以來、しばしば南岳・天台の玄風を訪て、ひろく三觀佛乘の理を達し、とこしなへに楞嚴橫川の餘流を湛て、ふかく四敎圓融の義に明なり。 第二段 建仁第一の曆春の比W上人二十九歲R、隱遁のこゝろざしにひかれて、源空聖人の吉水の禪房に尋參給き。是則世くだり、人つたなくして、難行の小路まよひやすきによりて、易行の大道におもむかんとⅣ-0077なり。眞宗紹隆の太祖聖人、ことに宗の淵源をつくし、敎の理致をきわめて、これをのべたまふに、立どころに他力攝生の旨趣を受得し、飽まで凡夫直入の眞心を決定しましましけり。 第三段 建仁三年W癸亥R四月五日夜寅時、聖人夢想告ましましき。彼記云、「六角堂の救世菩薩、顏容端嚴の聖僧の形を示現して、白衲の袈裟を著服せしめ、廣大の白蓮華に端座して、善信に告命してのたまわく、行者宿報設女犯、我成玉女身被犯、一生之間能莊嚴、臨終引導生極樂[文]。救Ⅳ-0078世菩薩、善信に言、此是我誓願なり。善信此誓願の旨趣を宣說して、一切群生に聞しむべし」と[云々]。爾時善信夢中にありながら、御堂の正面にして東方をみれば、峨々たる岳山あり。その高山に數千萬億の有情群集せりとみゆ。そのとき告命のごとく、此文の心を、かの山にあつまれる有情に對して說きかしめをわるとおぼえて、夢悟畢[云々]。倩此記錄を披て彼夢想を案ずるに、偏に眞宗繁昌の奇瑞、念佛弘興の表事也。然者聖人、後時被仰云、佛敎昔西天より興て、經論いま東土に傳る。是偏上宮太子の廣德、山よりも高海よりも深し。吾朝欽明天皇の御宇に、是をわたされしによりて、則淨土の正依經論等、このときに來至す。儲君若厚恩をほどこしたまわずは、凡愚いかでか弘誓にあふことを得ん。Ⅳ-0079救世菩薩は卽儲君の本地なれば、垂迹興法の願をあらわさんために本地の尊容をしめすところなり。抑又大師聖人W源空R若流刑に處せられたまはずは、我もまた配所に赴哉。もしわれ配所に赴ずは、何に由てか邊鄙の群類を化せむ。これ猶師敎の恩致也。大師聖人すなわち勢至の化身、太子また觀音の垂迹なり。このゆへにわれ二菩薩の引導に順じて、如來の本願をひろむるにあり。眞宗因茲興じ、念佛由斯煽なり。是倂聖者の敎誨によりて、更愚昧の今案をかまへず、彼二大士の重願、唯一佛名を專念するにたれり。Ⅳ-0080今行者、錯て脇士に仕ふることなかれ、直に本佛を仰べしと[云々]。故上人W親鸞R、傍に皇太子を崇たまふ。蓋斯佛法弘通の浩なる恩を謝せむがためなり。 Ⅳ-0081第四段 黑谷の先德在世のむかし、矜哀の餘、或時は恩許を蒙て製作を見寫し、或時は眞筆を降て名字を書賜。すなわち「顯淨土方便化身土文類」六云、W親鸞上人選述R「然愚禿釋鸞、建仁辛酉曆、棄雜行兮歸本願。元久W乙丑R歲、蒙恩恕兮書『選擇』。同年初夏中旬第四日、選擇本願念佛集内題字、Ⅳ-0082幷南无阿彌陀佛往生之業念佛爲本與釋綽空、以空眞筆令書之。同日、空眞影申預、奉圖畫。同二年閏七月下旬第九日、眞影銘以眞筆令書南无阿彌陀佛與若我成佛十方衆生稱我名號下至十聲若不生者不取正覺彼佛今現在成佛當知本誓重願不虛衆生稱念必得往生之眞文。又依夢告、改綽空字、同日以御筆令書名之字了。本師聖人今年七旬三御歲也。『選擇本願念佛集』者、依禪定博陸A月輪殿兼實B法名圓照C之敎命所令撰集也。眞宗之簡要、念佛之奧義、攝在于斯。見者易諭。誠是希有最勝之華文、無上甚深之寶典也。渉年渉日、蒙其敎誨之人雖千萬、云親云疎、獲此見寫之徒甚以難。爾旣書寫製作、圖畫眞影。是專念正業之德也、是決定往生之徵也。Ⅳ-0083仍抑悲喜之淚註由來之縁」[云々]。 第五段 おほよそ源空聖人在生の古、他力往生の旨をひろめたまひしに、世あまねくこれに擧、人ことごとくこれに歸す。紫禁・靑宮の政を重する砌にも、先黃金樹林の萼にこゝろをかけ、三槐・九棘の道を正する家にも、直に四十八願の月をもてあそぶ。加之戎狄のともがら、黎民のたぐひ、これをあふぎ、これをたふとびずといふ事なし。貴賤、轅をめぐらし、門前、市をなす。常隨昵近の緇徒そのかずあり、都て三百八十餘人と[云々]。しかりといへども、親その化を受、懃にその誨を守Ⅳ-0084族、はなはだまれなり。わづかに五、六輩にだにもたらず。善信上人、或時申たまはく、予、難行道を閣て易行道にうつり、聖道門を遁て淨土門に入しよりこのかた、芳命をかうぶるにあらずよりは、豈出離解脫の良因を蓄哉。喜の中の悅、何事か如之。しかるに同室の好を結て、ともに一師の誨をあふぐともがら、これおほしといゑども、眞實に報土得生の信心を成じたりといふこと、自他おなじくしりがたし。故に、且は當來の親友たるほどをもしり、且は浮生の思出ともし侍らんがために、御弟子參集の砌にして、出言つかうまつりて、面々の意趣を試と思所望ありと[云々]。大師聖人の云、此條最可然、卽明日人々來臨の時おほせられいだすべしと。而翌日集會のところに、上人W親鸞Rのたまはく、今日は信Ⅳ-0085不退・行不退の御座を兩方にわかたるべきなり。何の座につき給べしとも、おのおの示給へと。其時三百餘人の門侶みなその意を得ざる氣色あり。于時法印權大僧都聖覺、幷釋信空W法蓮上人R、信不退の御座に可著と[云々]。次に沙彌法力W直實入道R遲參して申云、善信御房御執筆何事哉と。善信上人のたまはく、信不退・行不退の座をわけらるゝ也と。法力房申云、然者法力もるべからず、信不退の座にまいるべしと[云々]。仍これを書載たⅣ-0086まふ。こゝに數百人の門徒群居すといゑども、さらに一言をのぶる人なし。是恐は自力の迷心に拘て、金剛の眞信に昏がいたすところか。人みな無音のあひだ、執筆上人W親鸞R自名をのせ給。良蹔ありて大師聖人被仰云、源空も信不退の座につらなり侍べしと。このとき門葉、或は屈敬の氣をあらはし、或は鬱悔の色をふくめり。 第六段 聖人W親巒Rのたまはく、いにしへ我大師聖人の御前に、聖信房・勢觀房・念佛房以下人々おほかりき。その時はかりなき諍論をし侍ることありき。そのゆへは、聖人の御信心と善信が信心と、いさゝかもかわるところあるべからず、たゞひとつなりと申たりしに、この人々とがめて云、善信房Ⅳ-0087の、聖人の御信心と我信心とひとしと申さるゝこといわれなし。いかでかひとしかるべきと。善信申て云、などかひとしと申さゞるべき。そのゆへは深智博覽にひとしからんともまふさばこそ、まことにおほけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のことはりを承しよりこのかた、またくわたくしなし。しかれば、聖人の御信心も他力よりたまわらせたまふ、善信が信心も他力なり。故にひとしくしてかはるところなしと申なりと申侍りしところに、大師聖人まさⅣ-0088しく被仰云、信心のかはると申すは、自力の信にとりての事也。すなわち智惠各別なるがゆへに信又各別なり。他力の信心は、善惡の凡夫ともに佛のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も善信房の信心も、さらにかわるべからず、たゞひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず。信心のかわりあふておはしまさんひとびとは、源空がまいらん淨土へはよもまいらせたまはじ。よくよく心えらるべきなりと[云々]。こゝに面面舌をまき、くちをとぢてやみにけり。 第七段 御弟子入西房、聖人の眞影をうつしたてまつらんとおもふ心ざしありて、日來をふるところに、聖人その心ざしある事を鑑て被仰て云、定禪法橋W七條邊居住Rにうつさしむべしと。入西房、鑑察のむねⅣ-0089を隨喜して、則彼法橋を召請す。定禪左右なく參ず。則尊顏にむかひたてまつりて申ていわく、去夜、奇特の靈夢をなむ所感也。その夢の中に所奉拜の聖僧の面像、いまむかひたてまつる容貌に、すこしもたがふ所なしといひて、忽に隨喜感歎の色ふかくして、身づからすなわちそのゆめを語て云、貴僧二人來入す。一人の僧云、此化僧の眞影をうつさしめむとおもふ心ざしあり。ねがはくは禪下筆を降すべしと。定禪問云、彼化僧誰人哉。今一人の伴僧云、善光寺の本願の御房是也と。爰定禪合掌居跪して、夢中にⅣ-0090おもふやう、さては生身の彌陀如來にこそと、身毛竪だちて恭敬尊重をいたす。また定禪問云、如何可奉寫。本願御房答云、顏ばかりを可寫、ことごとくは予可染筆也と[云々]。如斯問答往復して夢さめをわりぬ。而今この貴坊に參て見たてまつる尊容、夢中の聖僧に少もたがはずとて、隨喜の餘淚をながす。然者可任夢とて、今も御顏ばかりをうつしたてまつりけり。夢想は仁治三年W壬寅R九月廿日夜也。倩この奇瑞を思に、聖人、則彌陀如來の來現といふこと炳焉也。しかれば、弘通し給敎行、恐は彌陀の直說と可謂。また明知、いま如來の大慈無漏の惠燈を挑て、とをく濁世の迷闇を晴し、あまねく甘露の法雨を灑て、ことごとく枯竭の凡惡を潤さんとすといふ事を。可仰、應信。 Ⅳ-0092善信聖人繪 下 第一段 淨土宗興行によりて、聖道門廢退す。是空師の所爲なりとて、忽に罪科せらるべきよし、南北の碩才鬱申けり。「顯化身土文類」六云、「竊以、聖道諸敎行證久廢、淨土眞宗證道今盛。然諸寺釋門、昏敎兮不知眞假門戸、洛都儒林、迷行兮無辨邪正道路。斯以興福寺學徒、奏達太上天皇W諱尊成、號後鳥羽院R今上W諱爲仁、號土御門院R聖曆、承元W丁卯R歲、仲春上旬之候。主上臣下、背法違義、成忿結怨、因茲眞宗興隆太祖源空法師幷門徒Ⅳ-0093數輩、不考罪科、猥坐死罪。或改僧儀賜姓名處遠流、予其一也。爾者已非僧非俗。是故以禿字爲姓。空師幷弟子等、坐諸方邊州經五年之居緖」[云々]。空聖人罪名藤井元彥、配所土佐國W幡多R巒上人罪名藤井善信、配所越後國W國府R此外門徒、死罪流罪みな略之。皇帝W諱爲仁、號佐渡院R聖代、建曆W辛未R歲、子月中旬第七日、岡崎中納言範光卿をもて敕免。此時上人右のごとく禿字を書て奏聞し給に、陛下叡感を下し、侍臣おほひに襃美す。敕免ありといゑども、彼化を施さんために、なをⅣ-0094且在國し給けり。 第二段 聖人越後國より常陸國に越て、笠間郡稻田郷と云所に隱居し給。幽栖を占といへども道俗跡をたづね、蓬戸を閉といゑども貴賤衢に溢る。佛法弘通の本懷こゝに成就し、衆生利益の宿念たちまちに滿足す。此時聖人被仰云、救世菩薩の告命をうけし往夢、旣今與符合せり。 第三段 聖人常陸國にして一向專修の義を弘たまふに、凡疑謗の輩は少、信順の族は多し。而一人の僧W山臥云々Rありて、動ば佛法に怨を成つゝ、結句害心を插で、聖人を時々うかゞいたてまつる。聖人板敷山といふ深山を恆に往反したまひけるに、彼山にして度々相待といゑども、更其節をとげず。Ⅳ-0095つらつら事の參差を案ずるに、頗奇特のおもひあり。仍聖人に謁せむとおもふこゝろ付て、禪室に行て尋申に、聖人左右なく出會たまひにけり。すなわち尊顏にむかふに、害心忽に消滅して、剩後悔の淚禁がたし。良蹔ありて、ありのまゝに日來の宿鬱を述すといゑども、聖人またおどろける色なし。立どころに弓箭をきり、刀杖を捨、頭巾を取、柿衣をあらためて、佛敎に歸しつゝ、終に素懷をとげき。不思議なりし事なⅣ-0096り。すなわち明法房是也。上人つけたまひき。 Ⅳ-0097第四段 聖人東關の堺を出て、花城の路に赴ましましけり。或日晩陰に及て箱根の險阻にかゝりつゝ、遙に行客の蹤を送て、漸人屋の樞に近に、夜もすでに曉更におよむで、月もはや孤嶺にかたぶきぬ。于時上人步寄て案内し給に、まことに齡傾たる翁のうるわしく裝束したるが、いと疾出會ていふ樣、社廟ちかきところのならひ、巫どものⅣ-0098終夜あそびし侍るに、翁もまじわりつるが、いさゝか寄ゐ侍るとおもふ程に、夢にもあらず、うつゝにもあらずして、權現被仰云、只今我尊敬を致べき客人、此路を過給べきことあり、かならず慇懃の忠節を抽て、殊丁寧の饗應を儲べしと。示現いまだ覺終ざるに、貴僧忽として影嚮したまへり。何ぞたゞ人にましまさむ。神敕是炳焉なり。感應最恭敬すといひて、尊重崛請したてまつりて、さまざまに飯食を粧、色々に珍味を調けり。 五段 聖人古郷に歸て往事をおもふに、年々歲々夢のごとし、幻のごとし。長安・洛陽の栖も蹤をとゞむるに嬾とて、扶風馮翊ところどころに移住しⅣ-0099たまひき。五條西洞院わたり、是一の勝地也とて、しばらく居を占たまふ。今時にあたりて、いにしへ口決を傳、面授をとげし門徒等、おのおの好を慕、路を尋て參集たまひけり。その比常陸國那荷の西郡大部郷に、平太郎なにがしとかやいふ庶民あり。聖人へ參たるに、被仰云、夫聖敎萬差なり、いづれも機に相應すれば巨益あり。但末法の今時、聖道の修行にをきては成ずべからず。則「我末法時中、億々衆生Ⅳ-0100起行修道、未有一人得者」(大集經卷四〇日藏分護持品意*大集經卷五五月藏分閻浮提品意)と言、「唯有淨土一門可通入路」(安樂集*卷上)と云。此皆經釋の明文、如來の金言也。而今「唯有淨土」の眞說に就て、忝彼三國の祖師、各此一宗を興行す。所以に、愚禿勸ところ、更わたくしなし。然に一向專念の義は往生の肝府、自宗の骨目也。卽三經に隱顯ありといゑども、文といひ義といひ、共以明々たるをや。『大經』の三輩にも一向と勸て、流通にはこれを彌勒に付屬し、『觀經』の九品にもしばらく三心と說て、是又阿難に附囑す、『小經』の一心終に諸佛證誠す。因之論主一心と判じ、和尙一向と釋す。然則、何の文證によりて、一向專修の義立すべからざるぞや。證誠殿の本地すなわちいまの敎主なり。故に、左も右も衆生に結縁の志ふかきによりて、和光のⅣ-0101垂迹を留たまふ。垂迹をとゞむる本意、たゞ結縁の群類をして願海に引入せむとなり。しかれば、本地の誓願を信じて一向に念佛をことゝせむ輩、公務にもしたがひ、領主にも驅仕て、その靈地を踏、その社廟に詣せんこと、更に自心の發起するところにあらず。然者、垂迹にをきて内懷虛假の身たりながら、強賢善精進の威儀を標すべからず。唯本地の誓約にまかすべし、穴賢、穴賢。神威をかろしむるにあらず、努力努力冥眥をめぐらしたまふべからずと[云々]。これによりて、Ⅳ-0102平太郎熊野に參詣す。道の作法別整儀なし。たゞ常沒の凡情にしたがへて、更不淨をも禁ことなし。行住坐臥に本願を仰ぎ、造次顚沛師孝を守に、はたして無爲に參著す。その夜、件男夢告云、證誠殿の扉を排て、衣冠たゞしき俗人被仰云、汝何我を忽緖して汚穢不淨にして參著するぞ哉と。爾時彼俗人に對座して、聖人忽爾として見給。其詞云、彼は善信が訓によりて念佛する者也[云々]。爰俗人笏を直して、ことに敬屈の禮を著つゝ、かさねて述ところなしとみるほどに、夢さめをわりぬ。おほよそ奇異の思ひをなすこと、いふべからず。下向の後、貴房にまいりて、くわしく此旨を申に、上人其事也とのたまふ。これまた不可思議の事也かし。 Ⅳ-0103第六段 聖人弘長二年W壬戌R仲冬下旬の候より、聊不例の氣まします。自爾以來、口に世事を不交、たゞ佛恩のふかき事をのぶ。聲に餘言を不呈、もはら稱名たゆることなし。而同第八日W午剋R頭北面西右脇に臥たまひて、つゐに念佛の息たへおはりぬ。于時頹齡九旬に滿たまふ。禪房は長安馮翊の邊W押小路南、萬里小路東Rなれば、はるかに河東の路を歷て、洛陽東山の西麓、鳥部野の南邊、延仁寺に葬したてまつる。遺骨を拾て、同山Ⅳ-0104麓、鳥部野の北邊、大谷に是をおさめおわりぬ。而終焉にあふ門弟、勸化をうけし老若、おのおの在世のいにしへをおもひ、滅後のいまを悲で、戀慕涕泣せずといふ事なし。 第七段 文永九年冬比、東山西麓、鳥部野の北、大谷の憤墓をあらためて、同麓より西、吉水の北邊に遺骨を堀渡て堂閣を立、影像を安ず。此時に當て、上人相傳の宗義いよいよ興じ、遺訓ますます盛事、頗在世の昔に超たり。すべて門葉國郡に充滿し、末流處々に遍布して、幾千萬といふことをしらず。其稟敎を重して彼報謝を抽る輩、緇素老少、面々あゆみを運て年々に廟堂に詣す。凡上人在生の間、奇特これおほしといゑども、羅縷に不遑。仍しかしながらこれを略するⅣ-0105ところなり。 E右縁起畫圖之志、偏爲知恩報德不爲戲論狂言。剩又馳紫毫拾翰林。其體最拙、厥詞是苟。付冥付顯、有痛有恥。雖然只馮後見賢慮之取捨、無顧當時愚案之紕繆而已。于時永仁第三曆、應鐘仲旬第二、覃于晡時終書草之篇訖。F E桑門覺如草之F