Ⅵ-1019敎訓[幷]俗姓 當寺開基善道は、加茂二郎義綱の後裔なりW義綱は三上・赤橋兩家の祖なりR。鳥羽院天仁のころ、當國甲賀山に楯籠る。其甥爲義、これを攻て佐渡が嶋に流す。其時義綱が子、二歲ばかりなるを家人抱て、重代の太刀幷一卷の系圖を相添へ、三上山に捨をく。杣人これを拾て、三上の神職某に與ふ。子とし養育して、神職の者となす。それより神職、兩家に分れて二百年の後、善道の時に至て兩家不和なり。善道、一方の神職の者を殺害し、神職を捨て、三上を立去りぬ。然るに佐倉と云小邑、善道領地たり。此時佐倉氏の數輩、善道を供奉し篠原に行き、後堅田に來り善道剃髮して、御當家 覺如上人に歸依し奉る。供奉の家來は、渡世のため叡山に訟へ免許を蒙て、紺屋の職をなさしむ。志賀郡紺屋を停止して、當寺家來のみこれをなす。故に彼等が子孫、今にをひて疎略をなす事あたはず、當寺に仕ふ。則山門免狀數通、當寺にこれあり。 覺念は善道の子、善道存在の時は眞宗門人にして 綽如上人・巧如上人に仕へ奉るといへども、悲きかなや、晩年にをよんで妻子を捨、佛心宗となる。眞宗御勸化をうけがはざるにはあらず、禪家僧徒座配の事に怫て改宗せるなり。三上・高山の氏寺と號して、高德庵を建立す。其妻W後は妙專尼と號すR離別して、其子W法名法住と號すR撫育して、御當家を尊崇す。法住十七、八歲、母妙專尼、不思義の夢の告を蒙り、隨喜して法住に語り、父覺念改宗の過を恨み、勸めて大谷御本寺に參らしむ。巧如Ⅵ-1020上人御代なり。それより六十餘年、善知識に仕へ奉りぬ。別して 蓮如上人御慈悲を蒙る。應仁のころ、忝も 鸞聖人生身の御眞影・蓮如上人、當寺に御下向御滯留、誠に宿縁の淺からざる處なり。 蓮如上人、御壽像他に御免しましまさずといへども、初て法住に下し給ふ。大本金泥十字名號は、大谷御坊に御安置ましますを、法住に下し給ふ。御繪傳・御聖敎等、御眞筆を染させられ下し給ふ。御逗留の間、叡山より妨をなす。安からず御難義に思召し、 蓮如上人、法住と御思慮をめぐらされ、文明のころ、大津近松御坊を御建立。其後吉崎に御下向、法住御供し奉る。又重て兩三度吉崎に下り、御機嫌を伺ひ奉る。其後出口に御移り。霜月御佛事に參上せし時は、大切なる御書を頂戴仕り、年始の御禮に伺公せし時は、御狂歌をあそばし下給ふ。法住癰疽を病む時は、兩三度近松より三里ばかり御下向、法住手を取てこれを問給ふ。かゝる御懇の事、誰人か及べけんや。其餘の細事、これを略す。故に法住動靜、暫時も善知識御恩澤をわすれず。臨終の期に至て明顯に告て云、身を粉にし、骨を碎きても謝しがたきは、善知識の御恩德なり。天地は覆るとも汝が心を動ずべからず、等閑ならぬ御憐愍、他の御門侶と同日にも語るべからず、善知識に身命を奉るべし。吾汝が孝心、これを以て信とに受べしと、遺言して息絶ぬ。明顯、此言を肝に銘じて相守り尊敬し奉る事、法住に異ならず。或時は福勝寺堂を買得して、法住寄進し奉る地に御坊を營み、或時は旦左近が家を求て、新在家に御堂を造り、永正のころ、 實如上人、山科より堅田に御下向の時は、御迎に御座船を奉り、父子參上し御供申奉る。御逗留中、晝夜御前を去らず仕へ奉る。或時御眞影、暫時正宗寺に御移の事あり。其時も、賴玄・賴慶をだにさしをかれ、明顯・明宗父子に尊命を蒙て供奉し、唐櫃に納め奉り、前後につきそひ奉る。Ⅵ-1021かゝる御深切なる事也。故に明顯、命終にのぞんで、法住敎訓一言も違へず遺言す。明宗又明誓に傳ふ。明誓、世々御慈愛を蒙る事を有がたく感謝し、出仕等懈事無く、旦夕忠義を冀ふ。或時實如上人恩許を蒙て、『御本書』六卷御相傳を受奉る。土呂本德寺御同學に參ず。誠に古來まれなる御傳授にあづかり奉る事□…□きわまりなき大恩、言思道斷たり。其後天文のころ、山科御坊大に亂れ、旣に合戰にをよぶ。此時御坊に馳せ參じ警固し奉る。八月御坊放火す。證如上人大坂に御下向、明誓御供し奉る。其比、堺細川元澄を初として、南北處々の武士、大坂御坊を日々夜々にせむる事兩年なり。明誓御坊に相結して、身命を惜まず戰ひ支へ、勳功を勵す事、他の見聞かくれなき處なり。明誓末期にをよんで遺言、又他事なし。御眞影を仰ぎ奉り、善知識に忠節をぬきんづべき事を丁寧に告げ、此一事を守る時は、眞實父母孝養なりと、云終て息絶ぬ。我、此言を骨に鏤め紳に書して、寤寐にわすれず。若し子孫、此旨違背せんにをひては、不孝五逆の罪人たるべし。嗚呼、無常迅速なり、急死・急病あり。吾若最後に此遺言を闕ば、不忠不孝の咎遁がたし。故に先祖の忠孝を追憶し、雙眼に泪を浮め、子孫敎訓の一書、筆を染るものなり。 永祿七W甲子R年三月廿五日[本福寺]明順 『源家系圖』一卷、善道・覺念まで傳りしを、法住母妙專、燒滅せるとなり。子孫に付屬せば、武道を好んで釋門を出ん事必然なり。然る時は、善道剃髮の本懷に背き、其身の流轉のきづなとならん事を監るゆへとぞ。 Ⅵ-1022當寺太鼓は、三上の神木を伐て作れるなり。昔の由緖を以て、後は互に音問す。時の神職の者、當寺に寄進す。太鼓筒の内に書付あり。 東山御本寺二十八日ごと、御齋御頭の事、當國十二ケ寺より每月相勤む。每年五月二十八日、當寺勤之W黑米の御頭となづくR。近松御建立以後、大津にて勤之。山科御建立の時は、山科に引て相勤む。然るを近松蓮淳公、御憤り有て、これより當寺を御惡みあり。剩永正十年のころ、蓮淳公、志賀・高嶋御勸進の事に付て、聊疎略仕らずといへども、如何なる事にか御にくみあるとぞ。 當國北郡稱名寺の下鹽津の道場を、 蓮如上人御意にて、法住に御あづけまします。御厚愛の御事なり。其時節は、關東・北國、大坊主も御門徒も、はるばる當寺を問尋て堅田に來る。 蓮如上人、此旨仰付らる。其ゆへは、先年 鸞聖人生身御眞影、當寺に三年御居住なれば、御遺跡と思召たまひてや。 蓮如上人・實如上人、偉なる御慈悲を下さる。永正四・五・六の間は、明顯・明宗、身命を投て奉仕せしむるゆへ、御馳走の者と思召きわめられ、御慈愛を蒙る處なり。かくのごとき者は、やゝもすれば、御一家の御衆中御惡あるなり。よくよく用心すべし。