Ⅵ-1005本福寺門徒記 (一) いなばのみぞのくちに五郎衞門と云人のこと たかしま舟木北はまの左衞門五郎、その妻女は法圓のむすめ、明顯のためにはあねの子にて、その左衞門五郎の子左衞門太郎、いなばのしまといふところにて死す。その弟いなばのみぞのくち左衞門五郎を官途して五郎衞門といふ。その弟近藤といふ、官途して三郎衞門といふ。いなばの【(布勢)】ふせのにうわう堂のあたりにあり。その兄の五郎衞門は、はうきのうのといふさとを、佛法をひらき、人數六、七十人同行をこしらへて、道場を一つこんりうす。又同き國橋本といふところに、道場を一つこんりうす。人數四百人ばかり同行あり。かやうにひらきたるところを、みぞのくちの五郎衞門がてをば、てうはうをもてとりはなして、はうきの國のはしづの八郎左衞門わうりやうす。 (二) はうきの國はしづのさとに渡那部八郎左衞門之事 去比、山門より、 年三月廿九日、堅田たいぢのころより、かたゝ西切の關の代官彌太郎衞門、その子彌藤次、その子八郎二郎官途八郎左衞門と云、その弟藤七と云也。この八郎左衞門、弟の藤七兄弟は、丹後の海賊舟とからかいて、藤七は、かたまなこをいつぶさせたり。その兄の八郎左衞門は、はしづに坊主をもちて、その子かみをそりて、 といふ。門徒四百人ばかりあるなり。 Ⅵ-1006かの彌太郎衞門は、もとよりかたゝ本福寺門徒のことなり。はうきのはしづのわたなべ八郎左衞門所へ、大永四年五月五日に明宗下向あり。其後八郎左衞門、法慶坊へつき、人の養子といひまわしたれども、他宗の人をかうにきて、かすめ申に、本福寺もんとにおちつきて、まぎれなきよしをきこしめしわけさせられて候なり。其後明宗とりつぎにて、はうきの守護方へ御音信あり。 實如上人樣の御代の御ことなり。その御いんしんの手綱・はるび、本福寺明宗して守護方へをくらせられたり。 一 【みぞのくちの】五郎えもんひらきたる、うの・はしづ二ケ所を、わたなべ八郎左衞門、わがものとわうりやうして、五郎えもんをよせつけず。 (三) 法住のいもうと妙圓之事 法住のいもうとに、新在家妙圓といふあり。それへ赤野井の慶實のおぢに、やしまに法善といふは、いりむこになりて、ふうふとなりて、むすめを一人まふけ、それをも妙圓といふ。その後の妙圓には、近藤太郎入むこになりて、男子二人まふけたり。兄は小太郎、弟をば小三郎といふ。北浦の道場と諍にて色々あるに、小太郎をば、宅をつがせて、こうやをさせべし。弟の小三郎をば、こうをさせまじきにさだめければ、北浦の道場の門徒になしければ、兄弟を兩方へしわけたり。かゝるところに、兄の小太郎死したりければ、弟の小三郎家をつがせたり。小三郎の子を入道といふを小太郎といふ、官途は細川高國の御舍弟八郎殿。御らうらうの御宿を申。忠節いたすゆへ、被成治部助訖。これに二人子あり。兄は小太郎、弟は といふ。 (四) [本福寺門徒]眞野今宿南の道場之事[かたゝ道圓相承也] はじめは二間三間のくずや、二、三年の間風呂のやしⅥ-1007きにありつる也。 【慶法の弟】慶圓・【慶了のことぞ】衞門五郎兵衞・【彌六おや也】又四郎衞門・助左衞門慶誓・【かぢやの慶法の養子】祐願・彌太郎左衞門善空・【北での慶圓の子也】彥四郎衞門了空・【慶了の子】四郎太郎けんけう・兵三郎衞門・彌四郎・彌七衞門・兵衞四郎・【石】兵へ太郎衞門覺善・【おけやの又四郎衞門養子】次郎五郎衞門・【慶法の養子】左衞門五郎[新兵衞といふ]。其後は龍花のせん入あんをかいとりてたつる。 (五) 本福寺門徒眞野今宿道場建立人數之事 【慶法のおとゝ】慶圓・【慶了ぞ】衞門五郎兵衞・【彌六衞門おやぞ】【【カタヽイヲケノジヨウ弟也】】又四郎衞門・【慶誓ぞや】助左衞門・兵衞太郎[小五郎おやぞ]。 此中御使一人を定かね、慶圓をとあれば、北出よりは程遠間、衞門五郎兵衞に明顯の儀として被仰候。 又四郎衞門馳走のことなれ共、衞門五郎兵衞は馬場へ志つよい人也。去本福寺炎上の後、道場建立に、たゝみ四十帖さらさしを歸進す。明顯よりついに衞門五郎兵衞□被仰。 其道場は、西は大道面、南は源左衞門屋敷、北は太郎五郎衞門屋敷、まへは二郎五郎、のちは新左衞門有。 其後、彌二郎方南隣、かぢや太郎四郎兵衞、外戸に道場建立す。 永正 年 南向に東西四間、南北五間也。 本福寺御役之事。明應年中已前者、六分一之處に、永正元已來、五分一に所役をなす。 御本寺樣へ 正月四日明顯出仕 御門御番役A五郎左衞門Bひこ太郎C一貫二百文Aぜに五百文B米七斗BもりやまますにてC之内A七百廿文地下B二百四十文今堅田B二百四十文まの・きぬ川・ふもん・かどたC Ⅵ-1008御御堂 御番役 御佛事 十一月廿二日御非時料 本福寺正月・七月 御佛供米・御鏡 二季彼岸錢 八月 念佛御頭之事 蓮如上人樣 三月廿五日御佛事役 近松殿樣御門役 近江屋左近番料 六百文之内、三百六十文堅田地下、百廿文今堅田、八十文まの、廿文絹河、廿文AふもんBかどたC。誓願寺・福田寺・福勝寺・稱名寺・ゆすき淨願寺・石畠法藏寺・西蓮寺・眞宗寺。以上十二月請取。 (六) 道場眞野北出彥四郎衞門建立す 永正十一年三月七日に、明宗・慶了・彥四郎衞門、談合して建立す。御役は九度十度の本福寺、所役は慶了之道場に如形德分のよせめあり。 大永六年八月十四日、北出道場炎上。かぢや彌次郎、火あいまち。 大永八年W丙戌R九月十八日、了空、道場建立す。 享祿五年八月廿四日、野村殿樣御破にやぶる。北出道場の事也。 天文十二年七月廿七日、北出道場建立す。 【かぢや】慶法の養子は、 [兄は]祐願、その子與四郎官與三衞門入道法誓、妻女妙慶といふ。法誓の子彥四郎、弟與四郎、與四郎あねは【藤三郎つま】をさい女、【左衞門四郎つま】をいし女、彥四郎子新發意弟 といふ。 [弟は]【かぢやきやうほふのやうし】左衞門五郎官新兵衞、その子左衞門太郎官新右衞門、弟は左衞門四郎、弟左衞門四郎。 [本福寺門徒]若佐の小濱の【(瀨木)】せぎに道場、太郎と云。人數三十人計あり。 [かたゝの本福寺門徒、ひがしあふみ]薩摩に、かたゝやと新衞Ⅵ-1009門[新在家、たうふや一ぞく也]。 南雄琴左衞門五郎を官途左衞門五郎左近といふ也。 每年十二月 かたゝ十合ます一升、もちの米御鏡のため。同十合五升、うるのこめ御佛供米。 本福寺御本尊幷 御開山御佛供・御鏡にまいる。みなみおうぐつより、ちのへゆき、きのみちのはたの田よりはかる。左衞門五郎左近を、道慶と入道の名をいふなり。 【まの北で】淸冷坊、二月七日に死す。同うは正月十日、天文十二年に三十八年に當る。 慶法 【きやうほふのこ】慶圓、八月十日往生。【きやうゑんのこ】了空、十二月十八日、天文十二年に二十三年に當る。【れうくの妻女】妙宗、五月十日。四郎五郎衞門A了空の入むこBひめまつを妙誓といふC九郎五郎、六月九日、天文十二年、八年に當る。 (七) 進上 謹言上本福寺門徒惣中 右堅田本福寺の寺役六分一を、海津桶屋淨賢、每年無繲怠勤來り候處に、去文明三年の比、北國吉崎へ蓮如上人樣御下向の御座を造榮仕れと、法住、代物五貫文くだし、淨賢につくらせ、御宿をさせ候。殊に法住、吉崎殿へ御跡をしたい申罷下候。路次の上下に淨賢を召具して、參詣仕りて候。彼淨賢は、根本は和邇かさぎの住人にて候へども、子細ありてかい津へ牢人いたし候間、何ともして旅人の宿問をもさせ、渡世をも心安送り候樣にと、海津の堪忍をさせ候はんために、堅田の河村衆上乘・明顯示合、代物貳十貫文宛、合力をもつて、淨賢が屋敷をかいとめ、淨賢・淨明・淨西になして候を、親・おぢよⅥ-1010りの本福寺門徒役をはづし、剩直參と望事、たゞよのつねの御門徒の直參をのぞむごとくにはあるまじきかと存候。今生のすぎわいをしつけ候、其恩をむなしくなし候事、ぞんの外の所行とぞんじ候。殊に永正三年忠節いたし候間、永正四年に直參と掠申候。これによつて、抑永正三年越前入の時、天王寺彌次郎・壹岐美作・森新四郎方、越州へかみぐちの大將にて候。其勢三百人計さしくだされ候。下の手づかいを相待候處に、賀州の手づかいしそこない候へば、天王寺衆のぼりもくだりもかなわず、すくみかへり得ず候。野村殿樣へ注進申候間、明宗を召ていかゞあるべき、てうはうなるまじきかと、ちそうをせよと、 實如上人樣被仰候。畏て候、門徒に談合いたし候はんと申罷下、六、七十艘の兵船をこしらへ、かい津へ兵船をつけ候へば、かいづにしはま・ひがしはまうらのものども、ぐそくにめをかけ、辻・少路に鑓をはしらかし候。いかにも宿問をつかまつるものはたこばかり候へども、一人も面をかたゝ船にみするものなし。天王寺彌次郎衆、はこのうちのとりのごとし。はやかたゝ衆、舟へのれといふに、海津兩はまのてきをなさんとするもの、つまりつまりにやりをなをし、手がらを見せんとするところに、明宗舟よりとつており、かたゝ衆やぶすまをつくりて、とりのせて舟をぞさしいだしける。さてのぼれば、舟木のせきぜき、太刀一腰をもつて禮儀として、とおせといふに、とおすまじきと申。その時せきを【取】とつて見よとがうきをもつてとおしたりける。ちそうをもつて本福寺門とはかりして、一人もそこなわずみなおくりとづけ申候なり。このうへにいかなるものゝちうせついたし候とや。然者、大永 年冬、野村殿樣にして下間賴玄の時、種々穿鑿かくのごとく候。寺役をおけ屋けいくわい仕候。每年二貫文宛運上と侘言いたしてうけ入、野村殿樣御破よりⅥ-1011ぶさた仕候。一とせ、 御開山御影樣幷蓮如上人樣、各御下向なされ、本福寺において、霜月の御佛事御きんしの御事に候。門となく候へば、たいてんに候、なげかしく候。此等之趣御慈悲をたれられ、もとのごとく當寺の六分一を被仰付候はゞ、畏忝可奉存候、恐惶謹言。  月 日 本福寺門徒惣中 下間丹後殿 (八) 一 淨賢は、かい津へらうにんは、人の妻をかどわかして、とがめゆき候間、その女房のつらのかわをはぎておきたりし。この事は人にはいふまじ、心にもちていわぬ事なり。淨賢の弟は和邇宿の明善ぞや。 (九) 一 まいねんに、ほんぷくじ六分一をぶさたの事に候間、としどしかたゝ地下にしよやくを引ちがへて候。 (一〇) 一 下間賴玄の御内中嶋新左衞門あつかいに、本福寺寺役、每年二貫文づゝ、おけ屋ぶりよくについて、わび事色々申候。さて正月・二月・霜月、其外上下には本福寺へ御禮におとづれおも、淨西可申候とかためて、天文三ねん、たいこに明宗かんにんのやどへ、ぜに百文もちて禮にきたりて候。いごは、いんしんせず候。 (一一) 進上 謹言上本福寺門徒惣中 右於堅田本福寺、地下九門徒の其一つ、外戸の道場法覺の子次郎四郎衞門、其子太郎九郎、法覺のうⅥ-1012つぼ字の无㝵光御本尊一福、高嶋南市西の道場妙憐へ代錢八百文に賣りて、明顯きゝつけ、買もどし候はんとあれば、すみ字の无㝵光一福替に御下候はゞと被申候間、すみ字无㝵光一福代八百文下申候へば、うつぼ字の无㝵光返し被申候を、其折節、法義を心懸候と申候間、まづ安置させられよと、八百文代を出し申間、かりそめにあづけ申候處に、うつぼ字の无㝵光の御裏がきに、法住門徒となき間、直參ののぞみと申候。彼外戸の道場法覺は、地下九門徒のその一つにて候。紛なく本福寺を取持法覺にて候。法覺あとをつぎ可申人はいまに候。子細あるゆへ申付ず候也。然者、新衞門は地下中村濱の唯賢の養子たる事曆然也。新右衞門子は孫に候へば、唯賢の孫太郎とつけられ訖。此等之趣御慈悲をもつて、如本法覺は地下九門徒の筋目、殊に新衞門事は、唯賢の養子の筋目にて候。新衞門とは了西事にて候。門徒一人ものき候へば、たいてんになり候。他にことなふ御慈悲を被下候道場に候。被仰付候て、忝畏可奉存候、恐惶謹言。 (一二) 一 新衞門入道了西、永正四比、御本尊を申て直參と申候處、臨終のきわになりて明宗をよび申候て、ちかごろあやまりて候、色々そむけ申候事、ちがいと存候。子共にもせんせんのごとく、御せんかんは可給候と委申候間、何事もひごろにたがわず、御かうにもつき、しよやくとうをも申候。いかにいわんや、了西死去に、だびを明宗せられて候。 (一三) 一 了西その子新衞門、大永七比、直參のむそむとて、御坊ちうのかたがたをたのみ入、本福寺門徒を悉く出仕をおさへ申候。明宗・明誓子孫につたへ、御本寺樣の御門徒を御はなしと、【【くわうおうじどの】】蓮淳さまをたのみ、かくのⅥ-1013ごとく外戸門をとぢさせ候。せうしにれうけんもなく候處に、大かたどのさまへ御ことわりを申あげ候て、御めんになり候處に、新衞門あやまり申候と、ゑんをとり、しよ役をもまへまへのごとく、新衞門・彌二郎・彌三郎、皆々本福寺の御かうにもまいり、たしなみ候はんとて、御かうとうにもつき申候つる。又新衞門そうりやう、明誓へゑぼしごになし、そのなをば、まご太郎にて候事なるに、このごろ新衞門子、まご太郎死に候、その弟孫次郎直參といふと候。かやうにさわがしくのき申候へば、たいてんになり申せうしに候。御慈悲をもつて、如本濱のゆいけんのやうしのすぢめに、本福寺もんとにおうせつけられ候べく候。かたゝ地下九門徒外戸道場をつぎ申候はん人は、彌七官途彌介、入道して法善、その子彌五郎、その子彌五郎にて候。如此被仰付候て、畏忝可奉存候。 (一四) かたゝ中村に、あをと彥衞門の子、その名たうじんや彥太郎、その弟龜といふ、のち彥四郎官彥衞門、その弟乙若、のち源次郎官途二郎左衞門と云。彥衞門・二郎左衞門二人、いづみのさかいのぐちに候也。彥衞門子ういの子、むすめ、その弟さくらぢやうといふ。その弟與三次郎、これは二郎左衞門やうしにて、あとをつぐ。めぐちにあるなり。いづれもみな、こうやをするなり。二郎左衞門まうしうけたる 御本尊は、本福寺明宗して申たり。二郎左衞門、をさななじみに離別して、のちに新妻をまうけ、その後家の女房、御本尊をあづかる。 Ⅵ-1014天文九年六月十三日、彥衞門死去す。同年八月廿一日に、源二郎官途次郎左衞門死去す。 次郎左衞門養子與三次郎、あとをつぎこうやをする。いづみのさかいめぐちと云ところにあるなり。御本尊は、次郎左衞門後家いづみしわなのさとのもの、川内のかな田といふむらのものを男にして、かな田へおとこにひかれえんづきにゆき、はなさずしよぢまうしたり。 (一五) 上仰木兵二郎こうや、本福寺かの兵二郎こうやの子は、兵太郎、弟兵三郎、弟兵四郎はあとをつぎ、こうをする也。死去ごけは、うめといふ。一原野のをはりが妻女になりて、兵四郎とうめとまうけいたしたる子、猿若といふ。上あふぎにありけり。 兵三郎死去して、その子兵三郎といふ、その子。 (一六) 一 【にしうら】法西の子【にしうらに】淨善、弟【かどたの】淨珍、いもうと中村妙忍 門田淨珍、その子與四郎兵へ、弟【ふもん】九郎二郎官九郎ざへもん入道、その子九郎五郎、弟二郎四郎、弟九郎二郎。 【ふもん】九郎二郎、弟二郎三郎、弟彌二郎、その子別所に新九郎。 (一七) 一 當寺の本尊は、惠信僧都の御作、浮御堂千體の本佛也。應仁の亂、山南・細川合戰ありて、諸國寺社悉燒拂玉ふなり。其時、千體佛方々ゑ取去ぬ。そのころ本佛北郡へ取行しを、獵師五郎太郎と云者、代々大谷殿樣御門徒たる故、堅田の因縁思て、當寺法住に寄附すと云々。 (一八) 大本 うつぼ字無㝵光如來の本尊は、忝も大谷本願寺殿樣御Ⅵ-1015本尊たれば、天下の門葉、步みをはこんで相見仕る所に、法住無二の法義者、其外大分の忠功これあるゆへ、蓮如上人樣、當寺の本尊に下し玉ふ者也。 (一九) 能登國 ふちうに舟木敎念のこと たかしまの北濱の誓定の衞門三郎衞門、その子衞門三郎入道して敎念といふ。ふなきにては大田といふ、のとにては船木といふ也。北濱道場の門徒の老なり。その子 といふ。父子共にのとへくだり、若松殿御いせいのとき、御與力になりたり。敎念の子 といふ、その子 といふ、その子 といふ。