Ⅵ-0947本福寺跡書 (一) 本福寺每年十二ケ月之念佛御頭之事 正月十八日 【法住の弟】法西 二月十八日 【とぎや】道圓 三月十八日 【なかむらの】唯賢 四月十八日 【あぶらや】法覺二郎兵衞入道 五月十八日 與五郎左衞門 六月十八日 【いまかたゝばんあみのだうぢやう】善法小五郎兵衞入道 七月十八日 【(外戸)せとのだうぢやう】法覺 八月十八日 【まのいまじゆく】慶了衞門五郎兵衞入道 九月十八日 和邇宿明善 拾月十八日  【かうじや】太郎衞門 十一月十八日 大北兵衞 十二月十八日 【あぶらや】又四郎衞門        【にしうら】彌助        【にしうら】藤兵衞 (二) [源家]凡鴨次郎義綱の御息、二才の御時、丹波の【(野老)】ところほり、山路の邊にして、御家の御系圖御卷物を肩にわいかけさせ申、路次にこの小兒を捨置たりしを、かの男拾奉りいだき獻、三上社殿へ御養あれと申程に、養子奉り、家督神職を繼申たり。一年、公方樣御尋の間、その御系圖と申は、唐錦に三重裹たる御卷物、御拜見の處に、彼卷物上一重開給、三重を解せらるゝに及、二重目に至て開とし給へば、親たⅥ-0948ちどころに煙出によて、元の如納給、三上の御社御寶殿に籠られたりとなん。總じて三上社の家に三家あり。家督神主職を、則鴨次郎の御息小兒へ讓奉り、總領と號。これまた源の朝臣爲。假名は次郎、御諱は義綱字を用、かの家代々、土ほうろくに食事を認、木具・土器を用。裝束公卿衆の如、かりそめに人の參會に、破風の家へ俳徊せり。野洲川の江鮭魚、九月九日より前に食せず。總領を繼人の、せなかの腰左の邊にあざあり。 三上大明神の御紋、面の釘貫(◆)如此。其國の守護は、禮儀の時はひろえんに祗候す。爰に等持院殿樣御代、社殿の舍弟に  寺法師  は、つくしたゝらはまの合戰、數度の忠功在之。當座のほうびを思召の處に、御陣屋にたゝみてはんべりし幕へもりのかゝりたるあり、みれば二筋にあり。卽これをこそは家のもんにくだされたる、左右なう頂戴申。それよりして二ひきりやうに、その下に前に記面の釘貫の座を一著らるゝ也。  寺の家は與次郎と號す。是亦源の氏たり。亦飯田彌次郎、この家根本の神職の家たれば、神祕に巨細可有。已上三家如此。 就中、奉公の三上宗三子息兵庫郡實は、 妙住院殿、岡山九里宗忍が城にて御  、深隱密の已後、諸國相調法、永正七 八月御入洛と相ふれ、郡實大將にて御出張の風聞在之。【【ホソカワ】】高國京をのきたまひ、たゝらの大内、丹波越に京落行に、奧丹波赤井、路次をしきる間、空遠國にはてんより、洛中□てかばねをさらさんと京へ立返を、ふな岡山にして、郡實・九里弟の竹内、打死にす。郡實、たゝら方の豐田彈正がくさずりをたゝみ上て、脇ざしをもて二刀さす。又とよたがらうどうおりあひ、郡實の頸を取。然に 【【尊】】高氏將軍の御代に、三上八郎と名乘、包平の太刀にて數度の高名によて、御判の物數通在之子孫也。この家Ⅵ-0949にも宗三にあざあり。息【【ヒヤウゴ】】郡實にはなき也。その息□  にあざあり。一代はさめてあるなり。氏もまがはず源といふ。 (三) 本福寺善道俗姓之事 人王五十六代の尊、夫淸和天皇後胤、鴨大明神の社殿御息小兒を野洲郡三上社の家督に備いへども、不慮の題目出來在之W舍弟依殺害之罪科R。小篠原へ退、ほどなく鳥羽へ【敗北】とりのき、已後堅田移住、年々歲霜を送訖。栖定屋敷は、宮濱の北濱の屋敷より北へをしとをり、舟の出入するせきの南の磊地まで海底をつきあげたり。善道、釋敎求にたらざりし刻、京都東山大谷殿より御同宿淨信御房、東國へ御下向の砌、當津にをひて少御逗留の故より、弘願眞門に歸し給き。爰に善道の息覺念は、奉公の高山明亭・息明達父子、一味同心に兩檀那として高德庵を建立し、達摩の敎に携て禪法を興ず。去覺念の息法住、とし十七才の比、疫癘の病中に、夢の告に、【薄】うす墨染の貴僧二人、私宅の佛檀にたゝせたまひ、汝拙々と鳥の羽にてはらはせ給へば、押板より色々の虫、はらはらと落とおぼへて夢さめ、母儀の妙專にかくと語ば、それこそ一人は黑谷上人、一人は本願寺上人にておはしますべし。これよりほかには、更に別の御僧まみえ給ふべからず。□□違例とりもなをさば、かならず御本所まいりをせよ。親の覺念は、座敷座上のつき合なんどをかまいて、高山といゝあはせ、禪宗になられしを、兩上人かなしくやおもひたまひ、ゆめにみえさせ給ふと、ねんごろにいひ【含】ふくめのたまへば、げにもと【心得】こゝろえ、Ⅵ-0950【旣】すでに本腹のことなれば、【勸】すゝめに【任】まかせて、東山 大谷殿樣へ、とぎ屋の道圓・かうじや太郎衞門など、若きときの事なれば、引具してまいらるゝ處に、粟田口のみざれ・いはざれ・きかざれの猿の邊上れば、北の方より三間めの茶屋へつき、こしかけ休給ふ。その比、 大谷殿樣は至て、參詣の諸人【【曾】】かつて【【御座】】おはせず。【【然】】しかるに 谷佛光寺名帳・繪系圖の比にて、人民雲霞の如これに擧。耳目を驚すの間、法住もまいりてみんとせしに、佛光寺の弟西坊いはく、これはいづかたよりのをかたがたぞと。江州堅田の者にて候。ちと聽聞ののぞみ候とありしかば、さらばとて、『辯述名體鈔』を談ぜらる。別してたふとくこそはおもはれける。あいつゞき兩三ケ年を經處に、佛光寺住持、その同朋にあふみといふあり。弟の西坊を、かの住持の謀をもて、かの同朋にてきたはせ殺害すWこれは佛光寺の中居の女にてをかけたるといふ。しつとゆへのことなりR。ひふんのことなり。これならず、つねにつじぎりをし、萬事あしきはたらきのみの人なりと[云云]。この事ふかくおんみちせらるゝことなれども、「かうじもんをいでず、あく事千里をかくる」なれば、京にはゞかるほどのものさたにて、法住も上洛したまひ、佛光寺にあいとひ給へば、かの住持、その事に候、何とやらん、あふみと口論をしつるに死して候とあり。法住、御入魂の事に候。そつとみ申さんと、かほをひきあげみたまへば、とゞめをさしたり。こはなにごとぞ。佛光寺とは、ほとけのひかりの【寺】てらとかけり。かゝる殺害は、とにかくにさたのかぎりと、そのいきどをり、ついに御公事、官領・奉行所へいだせり。畠山  御いせいなれば、佛光寺も以外迷惑せりといへども、御公事をへなをし、官領より、かたゝからの義がつよい、法住をへよと、色々の扱によて、まづ落居す。 Ⅵ-0951(四) 一 妙專のやうしは、辻三郎兵衞その父、又畠中の又太郎その父、この二人は覺念のやうしなり。 又、南道專、その父は覺念のゑぼしごなり。いつも出入をし、客人のをりをりは、【料理】れうり・【包丁】はうちやうのかた、うけとりがほの【體】ていなりとかや。 (五) 妙專尼懷妊夢相之事Wその子は法住のことなりR 妙專尼、法住にのたまふやう、そちを【懷妊】くわいにんせうとて、夢相に、うすゞみぞめの衣めしたる御老僧、汝これよこれよとて、御手に御袈裟一帖もたせたまひ、これをあたふるなりと。わらはがふところへ御手にてをしいれたまふ。たゞごとゝはおもひたまふべからずと、仰せおはるとおぼへゆめさめ、ほどなくやがてくわいにんす。應永四年たんじやうぞや。能々佛法を心に入たまへと、色々きかせをしへたまふとかや。 (六) 妙專尼は四月十日往生したまふ。そのだびには與五郎左衞門小兒にてのときなれば、ちやうけんをきせて、かたにのせて、ともをさせられたり。この與五郎左衞門は、【(雄琴)】おうぐつこんせん坊そのめい、坂本の八でうの少路の東のはしにすて子をひろい、【【オウグツノ】】こんせん坊むすめを法住の【【ヒラノ森小三郎母ハコノムスメ メウケイトイフ】】妻女にて、そのえんにいだきて、きたるをやしなはれける。のちにきけば、坂本のかうじん殿原が子ときく。 (七) 應仁二年、花の御所の御材木上る年よをみなみたまはる、幷公方の御藏奉行もみ井方財物に海賊をかくる。Ⅵ-0952その罪科故、延曆寺へいきどをりありて、山門より成敗によて關上乘を途津・三濱・馬借等、陰憐堂にたてをきたり。其已後、又三院より途津・三濱を發向のとき、堅田衆手をくだき退治を加べき一義有之間、堅田四方の兵船のてづかいをもて、命をちりあくたにかろんじてせめ入、こみくづし燒はらい、本意に落居す。仍關上乘を取返處也。殿原も全人衆も、雙方切限に、一切一切のすい兵、一艘一艘にとりのりとりのり、そのたゝかい、名を末代に殘と鑓のしほくびをにぎつて、【(会稽)】くわいけいを雪訖。紙上にのするにいとまあらず。かゝる惣庄の大慶に、上の關を全人衆へ殿原衆出の砌、一兩年知行の處に、本福寺の明顯、異見に關をとるに、萬端かまふ儀多かるべし。たゞこの關を斟酌して、公儀國方のまかない、家別屋別ときならぬ出錢くゝり事、何しらずになりて、この上の關にてせらるべきなりと、返てよかるべきとの義にて、その理にて上の關屋をかへしたりけり。 (八) 明應五冬の比、堅田大宮の面、鳥居の東西の脇の磊と、幷に 文德天皇の染殿の后、堅田へながされたまひ、十八講御歸進と[云云]。その田地を地下番頭沽却によて、かの講たえたるを買返たまひ、今に十八講相續あるは、近松蓮淳樣へ明顯・明宗御談合致、この二色を堅田新在家御坊御建立の御ゑしやくにめされつけたり。そのいひつき、【【ソノトキ五郎トイフ】】濱帶刀左衞門三貞・【【道圓子ゾ】】林與三郎忠次兩人ぞや。 (九) 文明三年、 蓮如上人樣、北國御下向あり、吉崎殿御建立。其後河内國に出口殿を御建立ありて、文明 年に思召立たまひ、野村殿に御影堂、同年號十四年に御建立、のちの年に御本堂御滿作了。山城國宇治郡山科の郷小野の庄の内野村西中路と申ところにⅥ-0953ておはします。 (一〇) 東山大谷殿樣にての、十八日存如上人樣の每月御佛事、別て廿八日の御佛事、 御開山聖人樣知恩報德の御いとなみを、御破ののち、堅田へ御下向の已後、近松殿へひかせられ、野村殿樣御開白、近松殿にての御佛事、每月兩度の御頭を、野村殿樣へひかせ、つとめさせられたまひおはりぬ。 去程に東山 大谷殿樣にて、每年五月廿八日の 御開山聖人樣の御頭を、往古より退轉なくつとめ行申す處を、 大谷殿樣破させたまひて已來、近松殿へひかせられ、每月兩度の御講、各々つとめきたれり。しかるに野村殿樣御建立ありて、近松殿にてつとめさせられし御講、ことごとくひかせられ、東山大谷殿樣にてのごとく、野村殿樣にて勤行せられける。 御南殿に蓮如上人樣おはしまし、 實如上人樣は御北殿樣と申て、御代御家督まいりたりけるに、御奏者下間丹後法橋賴玄、法名は蓮應と申せしが、明顯に五月の御頭を、これさまへはなにとて御引ないぞやと、よりよりの仰也。惣中へ此ときかせ申さるれば、善知識はどれどれも同じ御事也。野村殿樣は、事外てびろに御座ある間、つとめかね申さうず。名聞がましく近松殿をつとめてをり候へと、くちぐちにいひあへり。又賴玄御使として、東山よりの御頭を、なにとてひかれぬぞ。かまへて御くやみ候な御くやみ候なと、しきなみの仰なれども、御門徒は 上樣の御兄弟をも善知識とたつこはうこおもはるゝ。ことにものゝ多くいるべきと、利養をもてうけいらず。蓮淳樣は、明Ⅵ-0954顯・明宗父子をば、ちともものをいはせじと、わつぱと仰らる。惣中には、親子のちがひあらば、われ惡名つけあげんと、みいださんみいださんとする人のみなり。うとくにて志のある人は、昔から何事もいはれぬぞ。てかかれてものゝいることをきらい、すこしのとがもあれば、よしすゞめのさへづるがごとくぞや。 (一一) 无㝵光の御本尊御下向之事Wこれをうつぼ字とまうすとかやR 「歸命盡十方无㝵光如來」[泥にて蓮如上人樣御自筆也] 御銘文には、 「設我得佛、十方衆生、至心信樂、欲生我國、乃至十念、若不生者、不取正覺、唯除五逆、誹謗正法。又言、其佛本願力、聞名欲往生、皆悉到彼國、自致不退轉。又言、必得超絶去、往生安養國。橫截五惡趣、惡趣自然閉。昇道无窮極。易往而无人。其國不逆違、自然之所牽」。同下の御文には、「婆藪般豆菩薩『論』曰、世尊、我一心歸命盡十方无㝵光如來、願生安樂國。說願偈總持、與佛敎相應。觀彼世界相、勝過三界道。究竟如虛空、廣大无邊際。又、觀佛本願力、遇无空過者。能令速滿足功德大寶海。愚禿親鸞敬信尊號」。御うらがきには、「方便法身尊號、江州志賀郡堅田馬場之道場本尊也。願主釋法住。長祿四年W庚辰R二月廿四日、大谷本願寺釋蓮如[御在判]」。 (一二) 御開山聖人樣御影幷蓮如上人樣御壽像御免之事 親鸞聖人W御面像右へむかせおはしますR 蓮如W御面像左へむかせたまふR 御銘文には、上に蓮如上人樣御眞筆をもてかゝしめたまふ。 「本願名號正定業、至心信樂願以因、成等覺證大涅槃、必至滅度願成就、如來所以興出世、唯說彌陀本願海、五濁惡時群生海、應信如來如實言、能發一念喜愛心、Ⅵ-0955不斷煩惱得涅槃、凡聖逆謗齊廻入、如衆水入海一味」。 御うらがきには、 「大谷本願寺親鸞聖人之御影、江州堅田法住道場常住物也」。 「寛正二歲W辛巳R十二月廿三日、大谷本願寺釋蓮如[御在判]」。 蓮如上人樣御壽像、いづくへも御斟酌おはしけれども、はじめて法住に御免なりとかや。 (一三) 御傳繪御免之事[御うらがき] 一卷・二卷・三卷・四卷、 「大谷本願寺親鸞聖人之縁起、江州志賀郡堅田法住道場常住物也」。 「寛正五歲W甲申R四月廿三日、大谷本願寺釋蓮如[御在判]」。 いづれのよりも人形をいかにもおほきにかけ、法住このみぞと仰ける。 (一四) 无㝵光の御本尊、うつぼ字ばかり本福寺門徒に、明應五年の日記に、十九福おはします也。墨字の 御眞筆二百福もこそはおはすらん。あまたの日記を失申たり。まづ本福寺のうつぼ字の无㝵光御本尊は、しる谷の光明ぼんより、はゞひろにをたけながく、あめがしたに大きさたぐいなくこそはおはしけるなる。 (一五) 御本寺樣の御開山生身の御影樣御下向之事W馬場本福寺へ光御の御事也R 寛正六歲大簇中旬比、京都室町へうつしまうされし後、今法寺へ御移あり。みぶより、應仁元曆交鐘上Ⅵ-0956旬の比、當寺へ御下向なさる。御船にて下馬場からさきの濱へ御著岸あり。同年の霜月廿一日の夜より七晝夜、廿八日に至、御佛事するすると御いとなみわたらせたまひおはりぬ。希代未曾有の御下向、倂法住をたすけたまはん御方便かとよ。 (一六) 【【山南・細川合戰ス 文明十一年マデ京亂ルヽ也】】應仁元年の京亂に、栗本安養寺へ七十日計、生身の御影樣御逗留とかや。かうし坊の代の事也。【(了法)】れうほうのおやなり。れうほふの子は道了といふ。 (一七) 唯賢道場火事之事 應仁第二Wかのへ子  R二月二日、中村濱の道場、東向の佛檀にておはしけるに、押板の脇の方に、すみ字の御本尊「无㝵光如來」を、蓮如上人御筆にておはせしをかけ奉る處に、かの燒失に道場やけしほのほのなかより光を放て、金色の阿彌陀如來、下ばゞの嶋につみならべたる磊のいしと、ゆいけんいしくらとのあはひ、石のはざまへ飛給ふと、西浦□れうし、舟のなかより拜奉る。たれまきたる人なきに、きりきりとまきおさまりておはしますなりとかや。 (一八) 存如上人樣幷蓮如上人樣、門田法西へ御下向之事 當國北郡へ御下向に、をついでながら本福寺へ御著岸ありて、門田左衞門道場へ御出をなさる。忝ともたふときとも、申ばかりもおはしまさず。この道場をば淨善弟の九郎入道淨珍といふにあづけ、その子與四郎兵へにあづけ、死してのち弟九郎二郎官九郎さへもん入道淨法にあづけらる。弟二郎三郎大夫・弟與五郎、丹波に  あり。弟彌二郎官彥衞門といふあり。淨法子は、九郎五郎・二郎四郎・九郎二郎、法西ちやくし淨善をば、かたゝ西浦に道場をかまへ、四月十日に妙專御往生ある。その日每月念佛の日に定て、念佛を退Ⅵ-0957轉なくまうさる。この念佛とまうしならはせるを、蓮上人御尋を□さるゝ間、かくと申し上ければ、よいぞと仰けるなりと、明顯の物語したまふなり。 (一九) 本福寺北の栴檀の木へ宮仕釣上る事 當大宮へ、酉の剋に燈明を宮仕まいらせんと、闇燈をとぼし、あふちのきの下を通處を、【【スヅキリデシ太郎衞門ヲヤ】】かの男の腰のへんを、あやまたず大木の一の枝へつりあげてんけり。その時、件の男驚、わがさし刀をぬきもて、二刀ちやうちやうとうちきるとおぼへて、さうなうかの男を大地へをとしたり。これはなにものゝたぶろかし引上たるをば、曾しらずとはいへども、男のさしたるちさ刀は、名譽の銘のものなれば、かくこそはうんをひらきたるなる。その時分は、覺念のばうずとて、童子ども、日のくれには、一人もその木の下をばとをるものなし。ひがしうらへまわりとをりたりとかや。 (二〇) 道場のなげしに、よなよな扇長ほどの小男いかほどもあり。まくら返とて、通夜の人を、かくこそはたぶろかす化者ありとかや。 (二一) 本弘寺大進公手次爭事 法住二十才の比、出仕の時、 上樣へ申次をしたり。わが手次と謂ける。法住は手次に賴候とは申さず。其時、御祗候にて萬を御計にて御異見を渡るればこそ、吾のみならず、諸國の御さいばんあるにて候へ。人次に當座の申次を理つるに、なにごとに、そなたの御手次と仰らるゝぞ。覺悟の外の承ごとゝいはれⅥ-0958ければ、思もよらぬ、我を背てぢきに參せ申間敷と、十三年が間押籠られてぞ有ける。國々の御門徒をば、擅に謂すくめてをかれたる人なる。萬事を 上樣も、是非共にすくめられておはします御やうたいなりとは申せども、かたゝに手次はあるまじきと仰出さるゝ。さて、かねのもりの道西、 存如上人の御壽像を望申さるゝ。御免あるべきと仰らるゝに、本弘寺きゝつけ申、かゝる御れうじの仰かな。御影樣を拜申さんために、諸國よりまいらるゝ御門徒に、國々へ御免ならば、これさまへは一人も參詣の人あるまじといゝまはらるゝ間、道西、本弘寺へ一貫文の禮錢にて、 存如上人の御壽像をそこで御免あるとかや。然に 存如上人樣御意に、堅田に手次あるまじきなり。あのおうぢ善道よりの一寺たるを、爭は不然可と被仰處に、ことに岳をも種々に馳走すと謂たりしに、本福寺と云は、さらためての寺號にあらず。燒失の間、今度新認下すことにこそ、さはあるまじと仰堅固なるによて、手次なきに落居す。 本福寺よりは、何事も 上樣の御奏者よりほかは、當寺の事を人にとはるまじく候。もとより御一家の御坊へも、または御堂衆、又は御祗候の大坊主衆にも、ゆめいさゝかの事も御とひあるべからず候。のちのち手次といひまはるゝとき、大事あるなり。 康正三年六月十八日、存如上人樣御往生あり。 (二二) 東山大谷殿破却之事[比叡山西塔院の惡僧等所行也] 寛正六年正月九日の日の事也。凡兼日に山門より人數を率して打入べきよし風聞によて、野洲・栗本より御番衆十餘人罷上、御門のくわんのきをさゝずして扉をおしたてゝ、御門にひるねをしてある處へ、人數百五十人計、御近所の惡黨等も、みだりがはしくおりⅥ-0959をえて御坊へみだれ入、正珍を上樣ぞとひつたて申。御方樣をもとらへ申。御坊はいまだくづさずといへども、御財物は殘さずわれもわれもとうばいとりをはんぬ。御方樣の御長太刀もたせられしを、敵うばいけるを、赤野井の野干五郎太郎、はやき者にて、 靑蓮院北の邊にておつかけ、しやつ原どこへのがすべきと、けたをして取返けり。しかればこの一事、國々へあひふれらる。まづ堅田へは西浦法西に、十日の念佛の日にて、ときのゆのむ人もあり、のまぬ人もありける處へ、此とはやうちありければ、腹卷武者八十人以上、その勢貳百餘人、逢坂を上、四宮より粟田口へ馳參る也。町人これをみて、みごとのはきものなりとげじげじあはせをして、しくづさんと、手をねぶるつらだましいあらはなりけるに、法住の門徒に、かたゝいをけの尉、四、五日御坊に桶をいわせられて、それに 上樣をごらうぜらるゝ折節へ亂入たれば、ひつたてまいらするていにもてなし、御門よりそとへいづれば、この尉、すまいのぎやうじ、すつぱのてがらし、軍に意得、人の見知たるなれば、彼等が【友】ともぞと心得て、たつた、つれていでよいでよといふを、 上樣をば定法院へをとしまいらせて、さて町面のやつばら、この諸勢を仕崩、具足に目を懸をみて、いをけの尉、常の時だにがうせいなるに、この大事をと心得、六具さしかためて、こともなのめならず。勇々て、ちつとも町やつ原緩怠致ば、續松を手に手にもて、町々へ火をかけ燒崩、煙の下にて合戰し、打死にしてはたせよやと、東西南北を高聲に訇れば、町人も始こそ面白さうに飛廻つるが、げにも火をやかけなんⅥ-0960とおもひて、すくみかへりて定とみえしを、猶荒言には、面にすゝむやつばら五人も十人もふみたをし、我鑓先にかけんといふ。かの尉くせものなる間、京の者も少々は見知者もあり。此て御坊の御番も、いつをいつとてかなはじと、老衆扱になさんとあり。 上樣たのみ入せ給ふ定法院の同宿一人【罷】まかり【出】いで、諸勢に向申やう、御問答の段は、はや落居候間、各々御歸陳候へと云處を、江州大物の兵庫走懸、あのもとくびがしなしぞ、たゞなかとをさんと、ひたかゝりにかゝるを、そばなる人とりさへたり。ものゝ大事なるはこの法師がしなしとは、 上樣御存知なくして、後にこそ御耳に入て候へ。 然に御坊中  の宗論あるべき分にて、一問答・二問答・三問三答の器用の仁を相定らるゝ處に、その義にはあらで、件惡僧等、偏執の惡黨等が所行なれば、同心に申合、過分の禮錢に相果といふ。 上樣へ此と申ければ、不可然と仰ける處へ、三川の佐々木坊主如光、飛却のものと上つき、旅の體改々申さるゝは、 上樣、正法ぢや正法ぢやと仰られつるに、けさいないと思た。早我等往生は治定ぞや。一向專修專念眞實の御勸化有にけさいないと不審を致つるに、あはやけさゝをなせる不思儀さよ。眞の善知識にあひ奉る宿習の程の貴さよと、喜るゝ事なのめならず。大學生なれば、此こそは申あはれたる。その日の九日より十一日までため□い、諸勢も引、相定樣に見し其砌の事なれば、山門わうわうに國々在所在所御門徒をせばめ  狼藉、たゞなをざりの禮錢・禮物を申かけ、理不盡の沙汰を成り。剩歸命盡十方无㝵光如來の御本尊ひきまくり、うばい取て、諸人を惱こと云に及。まづ金の森道西をはじめて、金森に楯籠、合戰をはじむる。山徒は一味にをしよせたり。城にも銘譽の兵籠、輒懸破らるべき樣もなし。また森山日Ⅵ-0961淨坊、責衆の大將にて責寄、てづかひの働をなすに、城より十七、八町とり出、あやまたず日淨坊をうちとり、當座打捨は三人なり。此と注進申に、 蓮如上人樣仰には、この事しそこなうなといひし處を、言語道斷、誰かしなしぞや。定而【慶乘ぞや】太輔がしわざか。邪正の分別をもて相果べきを曲事ぞ。急金の森をひらけと仰ける間、各々かねのもりを自燒して、在々所々へちりうせぬ。かたゝのいをけの尉・今堅田小五郎兵衞籠を、にしうらの松田、尉が主なれば、松田、尉にきたれと云。行ければ、鮒の汁に鮒鮨、鮒なますの飯を用意しもてなし、淸酒いゝわんにて三盃をひたものしいぬ。尉それをのこさずのみくい、すごさぬていにしなしければ、松田、さては人のいふはそらごとゝいふたり。尉三ケ所の疵、ちとも相違なきなり。爰元の體、山門領にて、【【ミヤウケンハヽゴ】】妙住をも取籠、百貫禮錢をとる。去法住を成敗せんとす。飯室の松善院は、今堅田藤田兄、東塔北谷八部の覺恩坊入魂の事にて、根本中堂に衆徒衆會の砌、そこもと悉皆取持にて、同道にて道すがら松善院いはれやうは、本願寺この法を三十年押定またれたらば、骨も折で勸らるべきを、時が少はやき故、旁々もかゝる辛勞候と、大碩學なれば此こそは謂たる。法住は、うつぼ字の无㝵光一福所持し奉り、かの堂内衆會の處に、邪法にあらず正法たる分別せん、道理速申明られよとのことなれば、はや入堂におつかゝり、かの 无㝵光の本尊を正面の大 の柱にかけ奉り、少たちのき候に、覺恩坊・松善院これへこれへとあり。少いざりよりしに、いかんいかんと有。法住曰、本願寺勸化にをひて、末代在家止Ⅵ-0962住の族、愚昧の尼入道、十惡五逆・五障三從の女人・惡人、破戒・四罪・謗法・闡提の類は、ひとへに超世の悲願にたのみをかけ奉る。【(婆薮槃豆)】ばそばづ菩薩『淨土論』に、「世尊我一心、歸命盡十方、无㝵光如來、願生安樂國」と[云云]。ことに淨土の三部經には、十二光のなかに、第三に无㝵佛これなり。上佛說より發、下先德の偈釋より起。これをもて邪法の義に非と申。下根最劣の在家止住の一文不知の愚智の男女、出家淸淨の上根の修行にをひては輒ずと心得、彌陀の敎に憑を【懸】かく。いまこの本尊、邪義の道理たらんと申べしやといふ。衆徒そこほどにくらかるにや、三院にゆるさぬを、これを世界にむねと流布させじといふ成敗と[云云]。その本尊免許と。これによりて、山門聊寛【樣】さまなり。 本福寺より山の義をもて、かたゝ侍、大宮の鳥居のまへえ八十貫文つませたり。それを【取】とるもの【惡】あしくはてたり。 山より、かたゝ唯賢、かねのもりの道西にも、本尊をゆるすとあり。金の森の楯籠ことは私ならずと、内證を山門へきこえて、かの城敗軍ののちに、叡山に一首、 いもつけぬ かねがもりなる 【【善從ゾ】】道西が 所行ときけば 无常なりけり と詠てぞ聞たる。 早旣に御扱種々の籌、御内談には【【ケウヲンインドノゾヤ】】阿伽御料樣を【【ジチニヨ上人ヲ申】】光耀丸と號し奉り、御本坊は西塔正敎房、筑前殿本房は同谷西覺房、法住本房は東塔北谷覺恩房、ことに北谷一谷の末寺に相償てなだめけり。 【【サヽキゾヤ】】如光いはく、山門には問答に及、禮錢をほしがるなれば、國より料足をば足にふません。たゞ料足をもて【調】とゝのへられよと申されしなり。【造作】ざうさもなう申さるⅥ-0963べい【異見】いけんを、をぢをそれて、上樣を【敬】うやまひころばかし申さるゝと【謂】いはれたり。 北雄琴の【【タウユウゾ】】掃部、十餘度あまりしばりて山へ引登す。その砌よりして、南雄琴の法義退轉す。 去も十六の谷へ料足三千貫入とかや。其後三十ケ年經て、西覺房いはく、 本願寺より錢を取たるもの、みな悉く惡果たりと語れたる。かゝる成敗より末寺と申しかけ、末寺役三十貫文、三塔院へ登。西覺房さいばんあり。使はかたゝ唯賢也Wゆいけん、そのこ五郎三郎といふ。そのこ三郎衞門仕るを、しんしやくさせられたり。明宗のこゝろえ也R。三塔の外、飯室へは不動堂へ一貫五百文、油錢は御開山慈鎭和尙御弟子として、无動寺の【【ジチンノゴバウゾ】】尾崎の坊に常に御座。无動寺・飯室はかつての谷なれば、いゝむろ妙覺坊とかやに住給ふ故、燈明料每年御寄進とかや[云]。 (二三) 生身御影樣大津濱御著岸之事Wかたゝ發向によてなりR 應仁二年正月九日、山門にをひて堅田發向すべき衆儀、六十三人の評定在之。故いかんといふに、湖上海賊擅の働、剩京都花御所御造營の御材木上その年餘南給る、その緩怠によて被成御下知也。旣可被責の間、御開山生身御影樣、いづくへ入可奉の内談にふす。爰に大津濱の道覺といひし入道は、本福寺門徒たるのことなれば、其外戸に一間四面の御新殿を造立し奉り、さて御座船をば、夜に入、當寺の東辻の濱より御船に可被召に定らる。この濱は、昔大友の皇子、この浦へ流されおはしまし、いつもこの辻をとをらせたまひ、つりをたれたまふはまにてありけり。御里の町とは、居初の社の邊より、こⅥ-0964のあたりを申つたへたり、かの明神すませたまふ御在所なれば申とかや。またいなりを、しれいのいしの堂と申社にくわんじやう申と[云云]。當庄に下馬をなすは、大友の王子すませたまふかゝるいゝありと。然ば、法住つなぎつかふ船なれば、ろを五侹たてゝ、四屋の七ケの關を飛と、御けいごの衆、目を驚。武者屋形に參る。則御輿を東辻より濱から御船にめさる。あやまたずをいいだし奉り、こゝをせんどゝ【(水夫)】かこにまいらるゝ人、腹筋を切てをし申に、雄琴の【【コノホトケハカネノモリノホトケ シユゼンノナガサルヽトカヤ】】流佛のさしむかふ奧の邊にて、今堅田の藤次郎と云しもの、ろをおしはづして海中へ落たり。されども御座船へ取乘てその煩なし。はやとかくせしまに、關ををしとをり、大津に御著岸わたらせたまひ、御新造へ移奉り、法住は御前にまいり、御番まうさせらる。比は同年三月十二日の日なり。蓮如上人樣も、御あとにつかせたまふ。かの道覺がときの主は萬德院なれば、法住家につたはるあをいの太刀一腰つかはれ、南院・中院・北院三院をからくみをもてとゝのへらるゝ間、等閑もなく入魂なれば、 蓮如上人樣しばらく御逗留おはしますなり。ほどなく文明元年  に、近松寺たかわらをきりはぎ、御坊御建立あり。寺號は顯證寺となづけたてまつらるゝなり。 (二四) 應仁二 三月廿四日より、堅田大責とあひふれて、敵の諸勢、堀のきはまでとりよるを、雄琴【(苗鹿)】なうかまで追拂こと度々なり。つ合の勢百八、里の軍勢手にたまらずとはいへども、湖上海賊のその罪のがれがたきといひ、剩多の人をころせし重科といひ、公方樣の御藏奉行もみ井方財物なれば、山門へあひふれて、如此御成敗の旨しのぎがたくて、衆徒もせちかくと、當所を調伏せしこと、いふに及ず。なにとかしたりけん、坂本のもの一人、西浦のしらはまのらんぐいをつⅥ-0965たふて、南よりの大風に、法住の弟法西の大くずやへ火をつけ、風にまかせやきたてゝ、たまらずその軍に取負て敗軍す。おきにはいかをかきて萬のものををくに、のきざまにみな船に入、とりのりとりのり、かたゝ惣庄の旗をそのまゝすてたるなり。もんはあをゑなり。順風なれば、ほをあげて奧の嶋へおちゆきけり。ときのまにはせつく。 同廿九日、小のつもごりなれば、あくる四月一日、かたゝの祭禮をはじめのまつりなれば、はやしたてたり。 今堅田は、かたゝに同心すまじきとて、せめ衆に一味してせむるとはいへども、かたゝのやくるとび火に、今堅田のいへ、ことごとくのこさずやきたり。 (二五) 文明二年、堅田逃 の衆、擧て還住の談合と[云云]。地下はすな三合の所を、過分の禮錢・禮物をもて山門をとゝのへ、惣次にまして、なを法住は三百八十貫文、弟法西は八十貫文、大北兵衞は百二十貫文、鹽津兵衞入道法圓は百貫文、堅田庄内へ引違、如此歷然也。地下住人の枠とはいへども、配當の禮錢なき人は、その砌地下の別をなす。又人の下人・下部・譜代のものには、出錢をいたさせず。 (二六) 堅田三方とは、【【きたうら】】宮切・【【ひがしうら】】東切・【【にしうらなり】】西切也。今堅田を加て四方とす。宮の切を餘の切より北の切といふ。大宮この切のなかにおはせば、かたどり、宮の切といふ。これを、を里の町ともいふ。大友すませたまふ御里なればいふなり。當所の總領也。又東の切衆、渡崎の町とて、わが切さとのはじまりといふ。先かたゝは、Ⅵ-0966絹河の川にいでたる里なり。そのまへは古川の庵のあたりへ川つくなり。後は西浦から浮御堂へ流たり。その川さきに東の切いでき、梢濱へ船渡をはじめけり。石燈呂のあたりは、川のつゝみといへり。このつゝみについたる里なり。いまはにしうらへこの川流たり。眞野のれうし、かたゝにゐそめて、れうをし、わたしもりをす。柳田庄といふ里なるを、さごろもの中將といひし人、堅田とつけられたりとかや。さて已後のわたしは、【(尼前)】あまうぜがはまにてわたしたり。なをのちは、新在家御坊の北の邊にてわたす。今は今在家にてわたし庭をするなり。東の切は舟わたしのさきなれば、渡崎とはわたすさきとかけり。宮切と數度取合て、かちせん度々に及といへども、北の切にかつことなしと傳たり。西浦よりは今堅田はじまる。何事にもにしうら・いまかたゝ・東切一味なれども、かたざるなり。 (二七) 一 あをえの二ばのもん、堅田四方のはたじるしに、かもよりゆるされたり。かたゝさむらいなりと、あをえのもん、かたぎぬにきるものあり。いはれぬことなり。 (二八) 一 堅田へ三の名字、宜布禰より出。居初・刀禰・小月也。大宮へ出仕に四の村あり。いはゆる本村・神主村・大村・新村これなり。本村へ居初黨つく、てうしひさげの【紋】もんのまく。大村へ刀禰黨つく、さゝぶねのまるのもんの【幕】まく。神主村へ小月黨つく、岩に松のもんつくまくをうつ。新村は  柳のもんのまくをはしらかしたり。 (二九) 一 しれいのやぶの上に、いしの堂といふ社あり。これをいなりの宮といふなり。 堅田四月の祭禮、巳の日、普門・佐川・眞野・南谷Ⅵ-0967口・堅田・今堅田、一味同心にはやしたて、一 の神事を普門・眞野の堺なるみうねはたけにて事いでき、大死により、里々にてはやし行といへり。後の神事は、寅の日にとり行。比叡山法性房、東國より上給に、そのおいに伊豆權現のりうつり、かたゝにしうらのとりゐのまへ、唐崎にみ御供まいる。柳にをいをかけ休給に、白蛇とまみえ給、柳の枝に上すゝみ給ふを、法性房この所に御縁ありて思召留か。但このをいに乘移給やと申されしに、ついにかのやなぎのえだに御座あるなり。いまにくわんじやう申奉おんかみなりとかや。 (三〇) 當堅田湖九十九浦知行は、尼前が濱に、波やらいの石を長々とつき出す。なぎさにはどいに【(皁角子)】さいかしをうへたり。上下の船に海賊をかくるなり。浦々の船もとをりかねて、堅田によきえんを一人づゝ相定もて、舟のへさき、はたじるしのごとく、ひらひらを【指】さし【上】あげて、そんぢやうそこへまいるふねと理てとをれば、相違なくするするととをすほどに、それよりその浦から、そんぢやうその【上】うは【乘】のりにて候とて、上乘をうりかいにして、たちばたちばをさうこくして、命を果こと度々なり。かくする程に、浦々知行になすこと、永正 年に至て、二百餘ケ年と[云云]。 (三一) 一年、鎌倉殿御前にて、六角方と堅田と、おきのよしを對決の事、かたゝの使者は、つゞれをきて、かいを杖につき下向す。卽御前にて左座にさぬき圓座を重じきにしかせられ、そもそもこの奧のよしと申はとⅥ-0968申あげければ、はや湖當所知行の奧と御分別ありて、利にふせらる。六角方の使者、右座にありて、ゑんざもなく非に【成】なさるゝ間、かたゝの使者を、路次にて討留られしとはいへども、いまにゑんざを當大宮のほうでんにこめしとかや。みづうみ十二こほりの知行のゆへ、てきの使者より【座敷】ざしき【手增】てましとおぼえたり。 それに大友も、 文德天皇のきさき染殿のきさきも、この浦へ流され給ひ住られし。京ちかければ、源平藤橘によらず、牢人の落たまるさとなりけり。 (三二) 新田・足利の戰、堅田に新田殿たまらず、眞野のふけの下の海道にて軍ならず。今堅田のき、海津へあがり、つるがへのきたまふ。足利殿、堅田船八艘にて、かいづへ追懸給に、八艘の名せんあしきとて、さゝ船一そう、さゝのはにてつくり、九艘と號しておしかけらる。新田殿、越前にて、てづから自わが頸をうち落し、御身の足にて泥田へふみこみ給ひ訖。三百人のうちもらし、土屋みなみ谷口にあり。その子孫かたゝにてんかくといふあり。足利殿は軍にかたせ【給】たまひ、堅田へせきを成下さるゝこと、今度忠節を致ほうびと[云云]。 (三三) 宮切と東切と千萬歲を爭て、合戰は、馬場面には法住・法西兄弟してかゝへらるゝ。餘は中村東の辻に擧敵のくみ、西切・今堅田・東切にて切負、白濱へよしの【中】なかへ流にげさるなり。 (三四) 大宮參詣に【兵庫が法名ぞ】道幸夢相之事 當社大明神へ、西切兵庫入道道幸、社參百度詣を致也。御殿の白洲に長牀をしき、心をすます處に、夢とやせんうつゝとやせん。神殿の扉を押開、衣冠たゞしき俗人、烏帽子・【【アサギイロノ】】直衣めし、ようがん美麗に、Ⅵ-0969さもけだかくまみえ給ひ、汝後生の【【祈誓】】きせい致よな、こよと仰られ、鳥居をいでさせられ、本福寺の乾のすみ、柴垣の角かとおぼしきに、これへゆきて出離の大事を問べしと、仰られもあゑず、御姿を見失奉る。さては本福寺へ參尋よとの御靈夢よと心得、明顯へかくと語あはせ、卽後生たすかる道や候と問申せば、彌陀の悲願は五逆・十惡を攝する證あり。橫超の本願親あやまつ處なしとの法門ありしかば、かの二人の妻女尼になし、一味同心に眞門に歸せられき。しかのごとき佛法に歸せし元意をいへば、出羽のはぐろ山より山臥十五人、京都莊嚴院へ小兒【【得度】】とくどのためのぼらるゝを、わが船にのせをくりしを、からすまがさきにて、ふなやかたをかまへ、しきりをむすびむすびて、鑓にて船ぞこよりいづる處を、一人一人さしとをしさしとをし、みなさしころすなり。こうけんの法師一人少兒一人になるに、法師いはく、船頭どのに申候、愚僧はいのちおしからず、こゝに少兒十三才になり候命を申請たく候といへば、心得たといひながら、法師も兒をもころしたり。そのなかに一人そら死にして下笠へにげはしり入、かくと語、莊嚴院へ上り、京都へ相ふれ、御下知以外の動なれば、堅田へたゝりあり。惣庄は、かの罪人は【【現形】】げんぎやうの事なれば、なにかは在所に大事かゝり可申とちんじける。かの親の彈正・息兵庫父子、海津に居はんべり。かたゝより飛却にてよびければ、親の彈正おもふやう、餘人の代、殊にわが子の兵庫が代に、一身はらをきつて、頸京へのぼらば、堅田なにかは苦かるべきと、いそぎのぼり、かたゝの我屋敷に戸板をしき、たゝみをしき、あやまたず腹Ⅵ-0970を切て、頸京へのぼり、それにより地下案隱なり。かゝるものうき生涯より、發心いたくをこり、比叡山・【紀州】ねごろ・小川・【(多武峯)】たうのみね・高野、此國六十餘州の靈佛・靈社へ心をはこび、宗々をこゝろみるに、更に五逆・十惡の罪人助といふことをきかする人なき間、百度詣を致候に、かゝる御靈夢にまかせ、只今殊勝の道理を承、難有候也とかたらるゝなり。惡につよきものは善に強とはこれなりと[云云]。 (三五) 法住癰を煩ければ、大津近松殿より、 信證院殿樣幷願成就院殿樣、御下向をなされ、 蓮如上人樣、法住になにとかあると仰ければ、法住雙眼よりなみだをながし、天にも餘、地にもあまりて忝、そも御座あるべき御事が、かゝる冥加をそろしき御事こそ候はねと、首を地につけ、御らん候へ、あの【【ホフカクヲイフ】】二郎兵衞がこの體にしなして候。これよりこれまで、この癰くづるゝやうにしなして候と、たとへばはらべが人のをやにものをつげ申がごとく、くどきたてゝつぶつぶと御耳にいれ申せば、 蓮如上人樣も幷に順如樣も、かんるいをもよほさせたまひ、くせ事ぞや、二郎兵衞は何事に心に入ぬぞ、いそぎなにともしてなをせと、なのめならずにしかりたまへば、あまりの御事なれば、法住なみだせきあゑず。さて御歸寺おはしまして、重々の御下向、中々ことばもたえて、是非の御うけこたへだにもなく、ことのは申ばかりなしと[云云]。 (三六) 一 東山大谷殿樣へ、法住と大夫とまいりたりしに、大夫に无㝵光ほしいかと仰ければ、そのことでをりやる、あれがほしうをりややると申處に、御御堂の御脇にかゝらせ給ふ 无㝵光如來、うつぼ字にてましますを、御かほにてほしいかと仰ければ、御うけを申せば、安事よとほゑほゑとわらはせおはしまし、卽御Ⅵ-0971うら書をあそばし御付屬ありて、今案置申處也Wこの大夫は坂本しやうげんじR。社人の子を法覺やしないて、大夫と云なをつけたるは、このゆへなり。 (三七) 文明三年、北國吉崎殿へ 信證院殿樣御下向のとき、西浦法西宿へ夜に入、御出をなさる。此地に御坊御建立あらば寄進申べきと、ひえい山の方を御おふぎにてさゝせられ、あれが近ぞと仰ける。  法住御あとをしたい吉崎へ下、此と 蓮如上人樣へ申上ければ、いそいであわうあわうと仰ける。旅のていを改てと申ば、そのたびの姿つくろはずに、勝事や、いそがういそがうと仰ければ、御意にしたがひ奉り、その儘まいられければ、御きげん中々申ばかりなくこそはおはしける。 (三八) 野洲・栗本老衆、法住は佛法がちとしかしかとないといふ沙汰を、蓮如上人樣へ御耳に入られければ、わう、法住は佛法たらはず、信がうすいぞや。なれどもあれは 聖人に生あはれたる人ぞと、おほせごとありとかや。 (三九) 野村殿にて 蓮如上人樣、これに時の大鼓をうちたい、不斷香なふてはと仰ける。法住、御存知はないかと申せば、あうしらぬと仰ける。在所に存知仕るもの候。めしよせ御めにかけ申さんと、明顯しうと高山玄乘のちやく子、まの北出須專庵重阿に、ねんごろにとひ、香ばんをさゝせ、自身まへにかゝへて御亭へまいるを、ものごしに御らんぜられたれども、御をくにおはします。御ひまござないかと心得てかへらんとす。 上樣Ⅵ-0972御ていへ御出ありて、かうばんにことをかいたと、たかだかとものごしにおうせらる。さては御ていへ御座ありたよと心得、はしりて御目にかけんとすれば、またをんおくへおはします。しばらく祗候申せども、更御ざない。さてはまづやどへかへらんとしければ、また御ていへ御座ありて、かうばんにまちかぬる、勝事や勝事やと仰けるほどに、まいればまたをくへいらせらるゝこと數度なり。あまりの御たわぶれなれば、なにとかありけん、みつけ申、かうばんたゞいまかくと申、御いるりのはいにかたをして、これからこれへなんどきなんどきとをしへ申す。なにともをれはこゝろえがいかぬ。ついにがつてんえせぬと仰らるゝ間、これは二ど三どでは御心得まいるまい。さいさい御ならいなうてはと申せば、いよいよ御きげんよくぞみえさせをはします。法住正直にほけほけとある心を御てうあいおはします。 (四〇) 河内出口殿にて御佛事御座ある間、法住・同息與次郎W家次R・與太郎・二郎三郎・左衞門五郎・與五郎めしつれまいらるゝ。 蓮如上人樣、萬の事御尋ありて、「御文」をかたかなまじりにあそばされて被下を、御かけ字に御へうほうゑつかまつらるゝ。 根本の生身の御影樣は、近松殿樣におはしましけれども、御佛事はきんぜさせられたまひぬ。そのときは、野村殿樣はいまだ御建立なく、近松・出口兩御坊をかけておはします。出口殿を建立の人は、いはみ入道空念といふ。法住と御堂にて、二人のたうといと申御ことばを、問答ありしをあそばされけるおんことばなり。 (四一) 出口殿に 蓮如上人樣御座の御時、歲始の御禮に法住出仕に、雪風吹、事外の寒なれば、老體のことにて、岡といふ里に晩にかゝれば宿をとり、一夜逗留しⅥ-0973たまふ。息與次郎W家次R、まづ出口殿へまいり、かくと申けるに、言語道斷、あのとしよりをさむき處にすてゝをいたよな、いそぎ早馬を迎にやれと仰られて、御きげん以外惡御ことなれば、法住まいりつかるゝに御使ありて、その旅裝束でまいられよと御定にまかせまいり給ふ。老體のはるばるの遠路をしのぎ、ゆきのうちにまいるこゝろね、せちに思召て、やがて御詠一首、 この春は 八十にあまる としよりを さむき嵐に 【身ををかぬ里】をかぬさとかな とあそばされ、やがてやがてと仰ありしかば、法住つゝしんでそでのゆきもはらはず、かたく辭しまうせしかども、切々の御意なれば、 いのちほど めでたきものは よもあらじ またもまいりて をがむ君かな とつかまつりければ、御かんなのめならず。御えいか幷法住御返事、この二首、 信證院殿樣御自筆をもてあそばされ、くだしたまはるを、ひきうしない申ておはせず。大事のものゝ本をば、人にありとはいふまじきことなり。 (四二) 文明十一年十二月九日の夜、ある男夢に、本福寺の御本尊の御前に畏る處に、御よはい五十餘計の貴聖人、佛檀よりおりさせ給を拜奉ば、御指をさし、堂よりもたつみの方に當てさゝせられ、佛入滅あるは、まいりて拜と仰ける。身の毛よだちたふとくて、仰のごとくまいりみ奉れば、一間間中四面の堂、東の方はさまがうしなり。よはい八旬にあまらせたまふ程のⅥ-0974老 、くちびるをあき、ものによりかゝりたまふ。拜とすればはやさめぬ。去あくる十日の朝、こよいのあかつきがたより、法住違例し給ふと承り、まいりてみまいらすれば、道場のたつみの方にある小座敷に、法住口をあかせ給ひ、腰懷、よりかゝり給ふ風情、聊違ず候と、のちに語たり。然ば、十日より一七日ををへ、十六日の申の剋に、八十三才にて往生とげ給ふ。荼毗は、ばゞよりきたうらの三昧へしらすをちらし、野にてのてうしやううかゞい申せば、たれなりとも善門衆のなかに、志の人にと仰ける間、とぎやの道圓にまうさせられけり。 (四三) 堅田新在家に、文明九年の比、御坊を二間三間のくずやに造立ある御坊なり。御地も法住歸進の御ことなり。法住往生已後、息明顯、北郡福勝寺の堂を買德に、百貫とあるを七十貫わたして、新在家の御坊に立申に、こゝもと山門領山法師、六借敷事を謂かくる間、進上申せば、【【山科】】音羽の御坊に建させられたり。 (四四) 文明拾年十二月十六日、法住八十三才往生し給ひき。 (四五) 延德三年十二月七日の夜、かうじやと油やとの間より火出、本福寺を燒、この町のこる宅なし。あまりのさわぎなれば、妙住のめいこむめ、尼に成、妙讚といふ。その子彥三郎官彥左衞門と云。そのいもうとしやくの懷のうちに、猿千代、その年の三月晦日に生る子なるを、北浦の道乘へにげゆきて、このこゑいどころになくをきゝつけみれば、さかさまにこそをいたるなれ。日吉の猿樂の大夫、山王の猿をかたどり、猿千代とつけたり。 本福寺の堂建んとて、あくる明應元年二月に、谷口の大恩庵を買德せんとすれば、料足なしとて、いかゞせⅥ-0975んとする處に、蓮如上人樣へ現錢借用申かねしを、御耳にたて、貳十貫文御奉加とてくだされける。色々辭退仕るに、こざかしい、思召子細ある。 御影樣へ御寄進と仰なれば、明顯是非に及ずいたゞき拜領せしむ。ときの御奏者駿河殿なり。このするがどの、をさなうて當寺に御供のとき、朝の御勤にね入すごし、御勤行にはづれた、をこしてたまはる人なしと、あめさめとなきたまふ。筑前殿の御子息たちのなかの乙子なれば、乙千代どのとつけらる。其後近松蓮淳樣は、上へ備錢被申候事、沙汰のかぎりに被仰。 (四六) 一 本福寺法住の代に、十二月下旬比より同晦日に至て、そのときの老白米十合二升・餘は一升、三升升、さかます三升升・四升升、はたご錢五十文宛、御鏡二枚、斗桶にて法覺・大北兵へは、だしぬきやうて獻せ、崇敬の事也。錢は侘敷衆は、米の上に卅文・廿文・十文・五文宛運寄られたり。是は法住上下のまかないとなる也。翌日初春元三の寅剋の朝には、堂内へ朝拜とて、夫婦・孫子共、つけつかふる衆、各々參詣せらるゝ。老の母尼、はなのぼし・ぢきとつ、女房は絹小袖をかづき、或はかたびらかづき、男衆はゑぼうしかみしもをきつれてまいり、をのをの參錢を裹るゝ。 (四七) 一 御本尊・御開山御前へ、三々九度の御盞まいる。三々九度、法住に御盞を、明顯御酌にて被下る。惣御門徒衆は二種肴にて、いも・たうふのかんあり。さやうの御調法も、法住の御まかない也。 Ⅵ-0976(四八) 一 每月十八日存如上人御命日、念佛の御頭十二人より勤らるゝ。そのしなじなは、小豆粥、くき味噌水・酒・だんご・こわいゝなどの、おもひおもひの供養あり。 (四九) 一 本福寺へ二季彼岸錢は、老衆は五十文宛、卅文宛の衆、廿文宛の衆、十二文宛の人、その仁によりて捧らるゝ處也。御本寺樣へ參百文上らるゝ、御奏者丹後殿へ百文、以上四百文。其外は法住、常燈・御けそく、御本尊・御開山御前へまいるべし。上下のまかないなる。 (五〇) 一 本福寺へ參錢・寄米・御鏡・二季彼岸錢、萬參物にをひて、御門徒衆のかたへ一粒一錢も更にけいばうなし。法住上下の路錢を惣中へ御かけなし。 然に明顯の代より、なを每年正月四日の出仕に參貫文、惣中よりくゝりぜにをして明顯へわたさるゝ。 (五一) 一 上樣へ年始の進物は、御鏡二枚・白米一斗五升・鮒鮨五【獻】喉・【江鮭】あめのすし五つ・魦五升・串柿一蓮・くるみ御樽一挺、錢五百文。御方樣へ貳百文、御鏡壹つ。百文、鏡一つ、丹後殿へ。此外惣中の御禮は 上樣へまいる。十分一ほど、奏者丹後殿へまいる也。御意よきかたがたへ、百文・五十・卅・廿・十六文づゝまかないあるべきなり。 (五二) 一 御御戸を申にをよばず、御開山へ百文御參錢まいるべし。 (五三) 一 御本尊へ百文御參錢まいるべし。 Ⅵ-0977(五四) 一 地下九門徒は、正月【にしうら】法西、二月道圓、三月唯賢、四月【あぶらや二郎兵へ】法覺、五月【法住のひろい子】與五郎左衞門、六月【今堅田】善法、七月【せとのだうぢやう】法覺、八月【まのしゆくの】慶了、九月【【(和邇)】わにのしゆくをけや】明善、十月【かうじや】太郎衞門、十一月【大北】兵衞、十二月【にしうらあぶらや】又四郎衞門・【にしうら】彌助・【にしうらふな大工】藤兵衞。今堅田・海津・和邇・眞野W普門・門田・谷口・雄琴・眞野北出R、合十二ケ月。 いまかたゝ・まの・きぬがは、所役けだいなき村なり。ふもん・かどたは人數たえたり。この兩在所は、西浦の空了弟五郎衞門ありし時は、正月と七月の盆とに、十日の日、ときをしてよびあつめ御勸化を聞られたる間、御もんともありき。死去已後なければ、みな參る人なし。殊に與四郎兵衞の弟の九郎左衞門淨法、その子九郎五郎・二郎四郎をばにくに、その弟九郎二郎にあとめをいゝつけて、正體なしにて、ことにうつぼじ无㝵光を九郎まうされたるを、明宗にあづけまうせしを、色々いゝまわしたらしてうばいとり、しちにをきながしたるを、五郎衞門の子五郎二郎かいもどしたり。 又かいづをけや不參にて、所役無沙汰なり。總じて十二門徒を六分にして、この六分一を淨賢・淨明・淨西までつとめきたるを、野村殿樣の御破より無沙汰す。十二ケ所して本福寺を崇敬の處を、不參にはなりよきものなり。 (五五) 一 本福寺うつぼ字无㝵光如來御本尊・ 御影樣・御傳繪、御懸字、御筆の萬御聖敎等の御事を、御一家又當御門徒の中に、その心得をなして御同心を致て、あⅥ-0978らぬ謀ごとをもて、當住持の坊主を條々の惡名をいひたて、 上樣へ訴、是を非になし非を是になし、恣なる謀略、或は御せつかん、御門徒をはなさせられ、をよびなき公事を巧いだし、種々の御&M065415;をめさるゝには、【雨】あめが【下】したに身をかくすべきやうはあるまじきなり。そのおりは、 まづ无㝵光・御影・御傳繪をあげよ、いやならばまづあづけよ、さなくは惣にあづけよ。たれは全ぞ、それにあづけよ。又は方便をいれても、和をいれても、けいくわいをさせて、そのとき、ぜに・こめのみつぎをせんとたらしても、がうぎをもても、火のとりかよはかしをしてはくせ事。御もんとのむらさとへ、足をふみいれさせては、御門徒□□はあるまじき。これを背、出入をさせん人は、その人いかに彌陀をたのみたりとも、地獄へをちんぞや。さとざとをきびしくあひふれて、けんごに、でいりをするそのむらむらへ、せつせつのつかいをたてゝせめられんときは、その住持せんかたもあるべからず。もし分限ならば、つよい侍によらず百姓によらず、しかるべき在所の人をたのみ、その方へとりのき、□忍あらん本なり。但けいくわいはうにもれたらば、萬のことみなはづが【違】ちがい、首尾があはず【違】ちがふものなり。それもがいぶん、人のまたい【有得】うとくの人をたのみ、あづかり狀をさせてあづけられよ。又その狀をばてにもて、人をみてそれをもあづけべし。あづけものをば、又□あくをつぐるやうに、はしりこみはしりこみみれば、むつかしがりうるさがるものぞ。あまりにひさしくみぬも、ちがふことあり。しかのごときの御いせいのある御一家の御代は、その本福寺住持は、はや死したりとおもひ、かくごをもちたまへ。御侘言をとりつぐ人はあるまじければ、けんめんきれて、いのちとともに忍、堪忍あるべし。 Ⅵ-0979(五六) 一 當門徒を、いかなる人にてもあれ、御一家の御身として、その住持を御敵に被仰なし、或はありつかうしう、 上樣の御前へ色々あしざまにめされなして、直參となづけられて、わが御身の御一家の御門徒にめさるゝをば、なにともしのびがたきものなり。そのときの住持、それゆへ當寺をひらくとも、畏て候、直參させんとはまうさるまじきなり。色々てをかへ色をかへ被仰とも、私の代にては、なにとして畏て候とはまうすべきと、たちのきたまふべき也。當門徒になるまじきため、上々樣の御役を、一役うけとらんと望をも、うけいりつとめさせたまふべからず。又本福寺の年中の役を、惣中へぜにをわたして、かいつけて、なに知ずにしてあらんといふ人もあるべし。これもいやかなふまじといはるべし。この義は本福寺門徒にせたいかたをさばきてをさだめ□らば、わがとりつかはんためにうけいる人あるべし。公事とりに、年行事か月行事かにしたらば、恣なることをばせぬものぞや。なにが入た、なにとつかふた、なになにあつめたと、一合一才を住持の坊主と、一紙半錢も、佛法もつををそれて、いやがらるゝ志の人にも、よみあげきかせまうさるべし。又當寺のためあしき人に、公事のあらんときのことを、をんみつあるべし。手淺なるわつぱといひまわる人にも、をんみちすべし。住持になにごともかくす事は、この寺をやぶる人なり。つめのさきほどもだんがうし、みゝにうつべし。 (五七) 一 底の心僞て、うへには何へもこゝろえよき人とⅥ-0980人にみえて、連歌をし、走舞さいくをこぎようにし、料利・包丁をし、萬すゝどいことをしまわり、しぎ合力をし、極樂賴子をこのみなんどして、諸事ものにかゝり、われほど佛法たしなむものはない、萬きようなといゝまわり、坊主のあくみやうをたくみだしていゝまわり、もとよりあやまりのあるを、それををくのてにかまへ、まづありつかふしういひにせ、だうぢやう朝夕のごんぎやうのぜんごにいゝすくめ、坊主をわろいといふほど、わがよいものにならんため、ことばをかざり、佛法ぎをこまやかに、につこりといゝまわり、わがあやまりをばけしほどもいはず、てゝのあやまりをも、むすこのつゝもたせのごとくなる、わろいたかまををしをとすを、もりにいゝまはり、けをふいてきずをもとむれども、そのあやまりなき人をば、れんが・はいかいをするときの、こゝろをまわす心をそれへやりて、人のうへばかりをいゝ、わがわろいことをばよいとひはんをし、いつりへつらい、まがりかざり、わなりまわり、おめずはぢずおそれず。かゝるこんじやうをさげたるものは、よくよくみしりて、あつめをくやうなるぜにもこめも、かりそめにもあつかはせまじきなり。萬ものをあづくることまでも、ちがゆるものぞや。全い人ぞとたつこはうこさたある人だにも、心の替ことなるに、こうのしよくをするせたいかなわぬものゝ、ものをよみかきするもの、なにをあづくるとも、ちがゆるものぞや。ことばにしやうおりをするほどのことをいふものにかぎりて、わるうてはつるものなり。 (五八) 一 物をあづけて違ぬ人は、佛法の志ありて、ことにせたい心安、有得の人は總じてものをちがへぬものなり。かゝる人には、いかほどあづけてもとらぬものなり。かやうの人は、なにをもあづかるまじい、いⅥ-0981ろうまじいと斟酌あるなり。志の施物をも、をそれいやがらるゝぞや。この人は、にがらるゝも、わらわるゝも、人のいであいたがるゝ人ぞや。 (五九) 一 びんひげをそろへ、ゆやふろにとぎみがけども、をそろしきことをたくみ、わなりたるあしきことをするものをば、いかにもうやまひてたちのけと、志の人の被仰とかや。 (六〇) 一 當住持人にほめられんとするは、こゝろのひがみ、僞、かだましきこゝろよりをこりて、人のほむれば、かつにのりてうれしがるぞ。千人・萬人又は御一家に、わろうつたなういはれまうすとも、无㝵光・御影・御傳繪・御かけじ、御筆のものもち届るを、上々のよき坊主とすべし。それについては、當門徒を直參と號して一人づゝとり御はなしあらんを、當住持【合點】がつてんまうさんことは、返々不可然候者也。 (六一) 一 在所の上々御坊より、當寺の重寶をほしく思召すべし。當座のことたらぬものはまいらすべし。御機にちがはぬやうにあるべし。でくでくしくもあるまじきなり。少のことに大事あらんぞや。 (六二) 一 在所に御坊御ざなきときは、 御本寺樣へまいる御穗もの萬あつめまいらせられたるを、御坊へこそまいらせらるれ、御本寺樣へは、御はつをもの中々かつてもてこれなし。いかにまうさんや、當寺へのはこびは、さらにこれなし。御坊の御座なき道場の、その同Ⅵ-0982宿一人のふるまい程にもなるまじきなり。かまへて過體のふるまいしたまふべからず。もし子どもあまたあらば、一人こそふしやうながらあるべけれ。妻子をすごさんと思はゞ、なにともして料足をてにまうけ出か、大豆か麥か俵、かずをとるほどならばもたるべし。さなくは、この寺をもちやぶるべし。 (六三) 一 子共多くあらば、人のやうしになすか、他國へなりもやり、世を心安ふへるしあはせならば、主あるところへなりともやるか、他宗の出家になりともまづなすべし。御坊御坊より御訴訟と御勘氣のときは、一所にあれば、蛇子のひづまりのごとく、かつゑじに、こじきじに、こゝやかしこにたふれじに、こぎゑじに、ひゑよりのやまひをうけやみじに、かゝる死にやうをするぞ。まことにくわぬがかなしければ、佛ゑさんのも、聖敎・三具そくなど、萬の道具をうりくらいなんどして、悉く拂果て當寺をたやすは、御勘氣のゆへぞ。返々一人は坊主にさだめ、その外の子共を差急、それぞれにかたづけべし。明宗の代に御勘氣三度なり。三度目についにかつえ死にたまひけり。これぞ末代の前車にて候へ。かつゑじには十人、生別死に別十餘人に離ける。 御本寺樣・御一門・御一家の御意に違ふ身は、かゝるうき目にあい申すぞ。御坊御坊よりは、こばながちとちがふかとおもはゞ、三つばの矢を射渡がごとく、御勘氣になるが早ものぞや。 (六四) 一 御いせいなき御一家は、御かんきには御なしなきなり。又その國その郡に、御坊の御ざなき坊主は、かまへて一人も他宗に子をなさゞれ、出家にもなさゞれ。 (六五) 一 法住の代には、 御本寺樣ばかりを專とものを捧げられしに、明宗の代には、人の志はなくして、客Ⅵ-0983人・客來の營、東國・北國の上下の送迎に、まづ下坂までは、舟一艘に仕立には五百文入目ぞ。大船は一貫入ぞ。それにけいご衆五人も十人も、雜用の出立・わりご、それににわ・なみわろければ、十日も日をつやす。その間の物入を御門徒から更になし。かゝるおいつめのつもりにけいくわいあり。又三度の御勘氣といひ、悤劇の野村殿樣御破に、六角方へ國の百姓無念に思、侍の館々をみな燒はらいたるによて、かみそりたる坊主を國を拂。そのおりをえて、家をはねこをし、屋敷・田山を落すものどもあり。 (六六) 一 佛物・憂歎の志の物を、受食費人は、昔から今に至まで、はてはが惡候なり。何樣のわざをもして佛物を費ざれ。佛の變化の御身に遁たまはず、上々樣の御子たちに御報おはしける。まして坊主・妻子・從類・眷屬受もちゐ食費。追つめたちまち冥加につきんことは、しのぎがたきことなり。おもひのさまに、きせくわせはかせ、ほしいまゝのはたらき、この世、のちのよのむくい、とんひしがたものをや。 (六七) 一 いかていの惡行の人、この世に報みえぬ人ありとも、後生は必定惡道にいると云り。又現在にむくいある人あまたあり。明宗・明誓子孫も、いまたゞちに報あるなり。 (六八) 一 當住持田地を買つけんとおもはゞ、他村の他宗にあづけらるべし。そのゆへは、地下に一ケ所もあらば、御勘氣か、御本寺樣御ちがいにをりをえて、調法して、Ⅵ-0984しおとして、をつとるなり。わなりゑぐりまつわり、つゝもたせのすることをみしり、たづなをゆるすべからず。われこそおとなよ、明宗・明誓を大事におもふ親るいとなのりて、とりがちにきもがちにするぞや。 (六九) 一 隣郷いかなる里にも、老に成て得分あり。堅田にも浦々より河役をとりて社中に食ごとあり、なぐさみあり、番頭きうあり。御門徒の老はなにをかぶりてなぐさまんや。道場のものをくうたこそとくよ、つかふたこそ得なれと、あれにかくしこれにかくし、くいつやすばかりなり。是がずいぶんの老ぞと心得たり。永正七より天文十年に至て、さいばんの老かくのごとし。 (七〇) 一 國・所に御一家の御坊御座なき大坊主の大きなるはたらきをけなりがること、言語くせ事のこゝろえにて候なり。御坊よりその御近所の坊主をば、萬事 御本寺樣計を本にして、われを背とよりほかはおぼしめさず。殊に 御本寺樣へ萬ことたらず捧ぐるものを、なを鬱賁におぼしめす。親の佛事を致すとも、 上樣へはひそひやかに袖のしたにをんみちして、錢か米かにて上まうさるべし。愼なければ、御かんきになること、いふにをよばず。 (七一) 一 上樣へ萬進上申べきと、諸國の坊主このこゝろなきは一人もなき處に、その御門徒衆は御坊御坊本にてありと意得けり。ひとことばもこのすぢめをまうせば、御坊へ御みゝにいりてはいかゞせん、つゝしめよ。 (七二) 一 御一家衆のなかに、 御本寺樣へまいられよまいられよとは、御ことばにおうせけれども、その門徒衆の人、 御本寺樣へ計まいれば、その手次の坊主のこゝろえふるやうに思召なり。いはんや坊主はいふにをⅥ-0985よばず。 (七三) 一 上樣へ諸國の坊主衆志なく、同御門徒よりの志なきを、御存知あるまじき樣に思ては一大事ぞ。これをすやるならば、今世・後世とりはづすべし。冥加を存ぜば、かりそめの物をも捧べし。 (七四) 一 法覺と大北とは、だしぬきあいて正月の御かゞみ、斗桶にてとりて、本福寺の御影へまいらせられたり。とうだいの高に、兩のわきに重つみをかれたり。永正年比まで有。かたきちがへず。 (七五) 一 有得の人、十人・廿・卅人の人を扶持するものは、それほどにひやうしが相て首尾とゝのをるぞ。【【ケイクワイゾ】】びらうのものは、わが身一人してとゝのへんとすれども、かなはぬものぞ。佛法領にものをつかへば、上々御内衆も用求したまい、あれかこれかとことばをかけたまふ。たとひひごろは山ほどつかふたれども、いまいまゑしやく、あいれいをせざれば、みぬかほにてことばをかくる人なし。ぶんげんにてものをつかふほど、萬事かなふなり。 (七六) 一 昔かたゝに有得の人は、能登・越中・越後・信濃・出羽・奧州、にしは因幡・伯耆・出雲・岩見・丹後・但馬・若狹へ越て商をせしほどに、人にもなりけいくわいもせり。いまは湖のはたばかり廻ては、なにのまうけのあるべきぞ。そのはたばりかくして心ねをそろしく候ぞ。ぶんげんなれば、心ゆたかに佛法に物Ⅵ-0986をなぐるものなり。 (七七) 一 弓取も春夏はてづかいせず、秋冬は軍をする。佛法に人をすゝむるに、正月・二月は人のひまどき、八・九・十月は秋のまぎれに、米の少もいるをいとはず候へば、細々おとづれてよかるべき里あるべし。又うるさがる人もあるべし。人をみはからい、たちよりすゝめたまへ。御門とのしんるい、をとゝい・いとこ・はつこのえんえんをもてこそは、佛法ひろまるべけれ。まの北での了空・さがは淨德・南庄の淨祐・妙慶を色々方便して、すゝめ入られたる。はじめは坊主よりことたらぬいさゝかの物を遣、樽・筒を運てなびくものぞ。後には坊主になにをがな運と、きづかひをせらるゝぞや。 (七八) 一 いとゞあれたる人に、御本寺樣より坊主衆をおりつめ、御せつかんあるやうにきめまわり、ばちをあたへ、一々にとがをいゝたてゝ、かほさがをし、けにくうあいそもなく、やりはなつたるさばき、ちかごろ邪見ともけうまんとも候なり。ちとようしやあるべきことぞ。五度も十度もそのきあいの人をもて、和を入て敎訓正路にあるべし。片屭贔うるさきものなり。 (七九) 一 りんがう・りんたん御門徒のさとへ、みゝちかなる御聖敎を懷に入て、□行一行をよみたまへ。その一帖を初からをはりまで、よみとをしきかせんとばしおもふべからず。人の機が短、あこびさまたれねむり、いやがらるゝぞや。まちとよみたまへ、きゝたいとあらんほどに、早果たまふべし。さてなを讀とおもはゞ、人の機あいのざふだんをして笑て、人の目さむる、そこで又よみたまへ。 Ⅵ-0987(八〇) 一 御門徒の中へゆきたまはゞ、ときのはやるものを、麥いゝ・粟いゝ・そばのかきもの・なみそづなど、くいたいなとまうさるべし。人に大きがられ、身を重しなして、人つかいの所へは行、さなくはゆくまじきと思こゝろならば、一人も立寄るゝ人はあるまじく候なり。 (八一) 一 おすにおされぬことの候。地山をおとされ身のたてともなく成はて、よろづ亡却し、をや・をとゝい・おうぢ・うばにわかれ、他國ずまいをしてあるに、いかにとすてぶみのおとづれ、ことばのおとづれさへなくして、われはおもふたふりにて、そのむまれつきがゑせわしい。ゑせごとをせわしう、種々さまざまの口をむしりかけ、ことばさすりをし、ことばもんだう、つめもんだう、にくさげをする人は、大事をしかけんとの巧かや。かゝるゑせごとをいふて、果ぬときゝしりみしりながら、その人にからかふこと、返々一ごのしうそう、しのぎがたき野心なり。心のうへに刃ををきたるは忍とよむ。こらゆるとよむとかや。これには持戒苦行もまさることなきとなり。 (八二) 一 坊主の酒、飯椀・汁椀見惡く候。こしるわん・かさわん・づすはよく候。十一月御佛事の御とき・御ひじの御筋の衆、づすにのめと、信證院殿樣御定とかや。 (八三) 一 御本寺樣・御一家・御内衆の料足をかりたまふべからず。なさねば出仕とまるぞ。又わがつくらんとおⅥ-0988もふ年貢田も、かまへてかまへて上々へ祕計いたしてつくるべからず。御年貢無沙汰ならば、これも出仕とまるぞ。その御門徒の人なりとも、御意あしく候べきに、坊主の身はいふにをよばず。 (八四) 一 賀州よねの郡、すがはの願生は、在京のとき、よそよりめしにと御使候といゝければ、はや下りたと申せ。あのぜんだなのいゝくれよ、くうてくだらん。そもや、あなたこなたのめしにまいり御煩に成てのちに、これさまへまいりての御みやげをば、なにをもて申さんや。くだるくだるといふて、つめくだりにくだられたるとかや。 (八五) 一 上々の御役を、田地を買著ば、すゑのとづくぞ。自門徒・他門徒をかりまぜ、をよりをむすび、たうざの出錢にては、とづかぬことにて候也。こゝもとの人數は、作敷をだに一段もたぬ衆、 上々樣の御役をうけとりて、年によりて風そん・水そん・干そん・こぬかむしなどのふじゆくのとし、けだいのとき、その道場御かんきに御なしあることは、恙といふむしのごとくせんかたなし。 (八六) 永正十四年 月 日みの榑三千十四挺のさわらを、相坂をとをさせられんと。園城寺よりは、こまかに兩せきをかゝせられよと。このあらそいにて、惠林院義種の御代のことなれば、御下知にまかせ、こ山よりあはづへ、二時があひだに新路をひらき給ふ。さはら上る船は六十艘、兵船の船底につみ、上には武者を乘、粟津木下が濱へ著たり。顯證寺殿樣は、悉く赤野井の御坊へとりのかせられ、いかにもをせばいほどに、ひろからふずる御坊をおほせつけられよと、御まうしによて、かたゝの坊をと、 實如上人樣おうせける。つⅥ-0989ぐの年、永正十五年十一月五日に、悉くうけとらせらるゝ。月迫に同十七日に御移住ありて、明宗・明誓くせごとぞとおうせいださるゝは、ばゞへみちをつけぬは、近松殿樣へあたりて、あはづへつけたること、近松殿樣五月廿八日御頭にかたゝらんに、御坊けいごもなくて、大事とおもふたを、明宗まいらぬ。明誓をまいらせて、つとめまじきたくみ、盆・正月・ひがんせん、でうでうあやまりたとかいて上よ。さなくは御もんとをみな地獄におとさんと被仰れば、中村の願了・きぬ川の淨念、人をぢごくにおとさしむ、なさけないと、なみだをながさるれども、さらにかきまうさず。已後、支證にはめされまじきとの御意ぞと、眞了御使にてかゝせらるゝ。六十ケでうを、案文をくだされ、かゝせられしなかに、七十貫ぜに・七十石のこめをぬすみたと、かゝせられたりけるかきものをもて、上樣へ御まうしありて、御勘氣になさせられたり。かゝるおちつきばゝ、二季彼岸錢・盆の志をめされつけん御ため、又五月の御頭を東山殿より 御本寺樣にて、廿八日をつとめきたるを、よそはみな野村殿へひかれたるを、そのごとくひかせまじきとの御いためなり。 (八七) 大永七年、堅田稱德寺殿をぬしになしまうされて、新右衞門直參せよと。これゆへ御みゝにたてたいと。かたゝどのへ本福寺のもんとまいらぬがくせごと、これは明宗があやまりなるあひだ、御かんきぞと。この兩度の御かんきに田地下地すきとうりはなしたり。 (八八) 享祿五年八月廿四日、野村殿樣御破に、後卷を明宗せⅥ-0990ぬと御一家被仰。明宗は小者を一人はさまず、【(掘串)】ふぐせが一こしなし、こめが五升うちになし、具足ははしものも一領なし。石佛のごとく働ぬほどに、重々の御かんきに、命のびたるは、きどくなるを、曲事ぞととりどりの沙汰也。そのときになれば、志賀郡御もんと、八月十一日進藤坂本へこす。それより十九日まで、小松よりの衆、かたゝへつめられたり。主々きむるほどに、坊主衆ばかりになりてせんかたなし。高嶋郡からは、東の又二郎・明誓・かもの小大夫・打下明了・同下人、たゞ五人よりほかはなきなり。みうらからはねずみもなし。同十七日の夜巳の剋に、長原兵船七艘にて、御坊のらんぐいによせ、すのこはしへよせんよせんとす。石やぐらの御番衆、てき船つくといふ。御坊中の諸勢具足するをと、らいでんのひゞくがごとし。明誓は酉の剋に、四所に貝をふきたてたるをあやしみ、はまに番をいゝつけたるはこれなり。すのこはしにいでゝみれば、御中居の四郎左衞門・【(猪飼)】いかい孫兵衞、長原のあづけ物をとりにきたるふねなるを、むしや船ぞといふ。さないといへども、きかぬぞと諍。みかたの諸勢にとへば、あの船のかこ一人、かい月へあがり、われは御門との者にて候、御坊をやきについたる舟ぞといふ間、うちよせたりといふ。そこで明誓かたゝからしやぶりたといはるべし。たゞぬす人はそとよりいなせよと、やをいべからず、やりをすべからずとしづめて、てき船にむかひて、奴原五艘十艘きたりとも、よだちはあるまじい、みなおつぱめうするものをと、ざうごんばかりにて、をめをめといなせたり。 かゝる御破に、備中賴盛と同心ぞと御勘氣のことなり。十一月廿八日ひつじの剋、かの兵部御使にて御門徒をはなしと[云云]。 (八九) 一 石畠弘誓寺子息賢智、法住の養子になりて、法住、Ⅵ-0991御本寺樣御堂衆にと被申ければ、更に御りやうしやう常なきを、色々被申處に、御ゆるされにてまいらるゝ。法住をとりをやにまいれり。若本福寺子孫をめさるゝことあらば、かゝるきをこゝろえらるべし。慶聞坊・正珍・賢智也。 (九〇) 一 存如上人樣・蓮如上人樣、細々の御下向には、御かよいを法住まうさる。御酌・御膳をもちてまいらるゝ。 (九一) 一 永正三年三月  越前へ入國のこと。上口よりつのくに天皇子彌二郎・壹岐六郎左衞門・森新四郎、海津への大將也。貝津坊主衆・たかしま東の藤衞門など、心得てくだすといへども、下口はかゞしゆ、しくづされて、石川のにしぐみげんにうち死に、近松殿御内衆佐久良九郎左衞門尉宗久うち死にす。 かいづの衆、のきばをうしない、せんかたなき處に、 實如上人樣、明宗をめして、なにとすべきや、てうはうはなるまじきやと仰ける。畏て候、罷下舟軍をえたらんものにきかせまうさんと、かたゝに下り、數百艘の兵せんをもて、迎船へそのむしやをのせんとせしに、そこもとの衆はすくみかへりてものいはず。かほをさしいだすばうず一人もなし。かいづ三濱のものにくみして、そこもとのもの具足はぎとらんと、うんかのごとくあつまる。はやすでに矢ぶすまをつくりたり。ひかん、はなさんとせし處に、本福寺の明宗、太刀をぬきくつろげ、この武者をこの船にのせてみせん、悉くのれやのれやといかりをだしてのせたり。 Ⅵ-0992又舟木の關にて、太刀一腰をもて人を送り、勢たゞいまかへり候、御禮のため某かくといふ關にせういんにをよばず、一人ものこさずにせきをたまはらんといふ。かほど御禮をまうすに、御せういんなくは、かさねて御禮にまいらんと、舟木のせきををしとをりてんけり。 (九二) 一 永正四年[う]六月廿三日の夜、細川大心院、御風呂にて、政元御生涯について、 敎恩院殿樣堅田へ御下向あるべきか、さてはいづかたへ御出あらんやと、とりどりの御内談なりけるに、明顯七十貫文に御ばいとくの大太郎船を大津浦へつけ、丹州へかくと申ば、中々御ゑつき申す計なし。息明宗は比叡山檀那院无動寺へ登、山門の義をとゝのへ、すでに野村殿樣へ參りけるに、早御下向あるべきとあり。 上樣御供には明顯・明宗・河村孫五郎・二郎左衞門・五郎兵衞・五郎衞門、其外は大津に侍。濱のふなつきには皮籠・唐櫃、あらゆる財寶、深山のごとし。悉く御座ぶねのしたづみにつみ、そのうへに 上樣めす。甲冑をたいしたる御けいご人數五、六十人、ふなやかたになみゐたりしに、東近江より佐々木四郎殿迎に、九里みまさか兵船二艘にてのぼるとていふやう、その舟はなに舟ぞ。あやしいをちぶねとみえた、矢をいかけんといへば、かたゝ舟ぞといふ。とにかくにのがすまじいといふ。心得た、手なみををぼえたぞ、やつばらめにものみせうずよと、射手には二郎三郎・ひこ三郎・小太郎・與五郎・ひこ五郎、てきもみかたも弓をつとり、やをうちつがひ、ひかんはなさんとす。御舟より、その舟はなに舟ぞといへば、人のむかひふねといふ。たゞさらば御通あれと。この舟はかたゝ舟候、御てにあまるべいといふにより和、てきふねもをしとをる。御舟も、てきふねにとをざかり、陰憐堂へんまでは、上樣もものをものたまはず。はやあくる廿四日の早朝に、かたゝⅥ-0993みだうの東のせきへ御ふねついて御著岸おはします。 翌日廿五日拂曉に、かたゝへ黑ぬりの御輿に 御開山めされ、幷に圓如樣、御供は丹後法眼W賴玄R、同御坊のせきより御著岸あり。こゝもとの樣體、實如上人樣こまごまと御尋あり。御堂御えんにて、御けぬきにてをひげをぬかせらるゝとき、明顯に主はなきかと仰けるに、法住申をき候は、御主にも上樣、御師匠にも上樣ぞと申をきて候と申せば、御機嫌よう、さもにこやかに笑られしを、孫の猿千代も、御縁のはしに祗候して承る。かゝる御事をしらぬ衆、なにともして明誓子孫に主をとらせんとらせんと、てうはうしたがるもののみなり。 (九三) 一 諸國の百姓、みな主をもたじもたじとするもの多あり。京のおほとのやの衆も主をもたず。人のいゝをけがし、ひやいたをあたゝむるものは、人の御相伴をせざるぞや。主のなき百姓まち太郎は、貴人の御末座へまいる。百姓は王孫のゆへなれば也。公家・公 は百姓をば御相伴をさせらるゝ。侍ものゝふは、百姓をばさげしむるぞ。 (九四) 一 人の云、世間に住人、世をしそこないて、御流の内へたちより、身をかくすはよし、坊主も御門徒も御流をしそこないては、今世・後世とりはづすと云り。 (九五) 一 御一家より、御てのとづく所の坊主の子どもおほくは、さづけどころなくは、人だにくれよとこはゞ、出家になりともまづなすべし。昔はかりそめにも縁Ⅵ-0994だよりにも、他宗になせば、後生とりはづすとかなしみたり。むかしは 上樣御一人御座候て、又とも御一家と申事は御はせず。さるによて御勘氣といふことは、國に一人か二人かよりほかはなきところに、彼方此方の御坊御坊御はんじやうにて、御一家の御にくみは、御本寺樣ほどに尊敬せぬとの御いきどをりにより、御坊御坊より、わが御身の御ぬしに御成なくて、上野賴慶のかたぞや、或は丹後賴玄・筑前賴秀・備中賴盛がたぞとめされなす。あめが下の坊主・御門徒の、 上樣へたいし奉りて、いかに今世・後世、ばちのあたる人なればとて、御てきをなし申人これあるべきや。そのあとをとらんためか、そのもんとをとらんためか。にくし、きたなし。われをばそむけたる、そのにくみか。 上樣の御意だにもよければ、あらぬたくみをもて、御そせうありて、御勘氣にきもをけす。むかしは御門徒を、山門よりせばめて身のかくしどころなくせんかたなし。このごろは御一家の佛法になぞらへてきめまわり、たつたぞ、ゐたぞ、くせものぞと、 上樣の御前をあしざまにめされなすに、きもをけし、たましゐをうしない、いのちすでにつきたりき。 (九六) 一 萬のげいのうに、人のほむれば、たつみあがりがして、きを上て、せたい・よのなかのをとろへるをも分別せず。それにみをそめて、いへをやぶり地山をうり、だう具・ひやうしきをうりすて、あそここゝをしちはちにをきあげ、てと身とになりはてゝ、しはたすこゝろもちになりはてゝ、身のたてどもなくなりて、うた・れんが・ゆみ・まり・はうちやう・ふゑ・しやくはち・たいこ・つゞみ・おんぎよく・はしりまう・ぶんのものよみ・せゝりがきなんどをして、十人づれにきようなといはるゝぶんにて、五人・十人の人をばふちすること、かなうまじきなり。いへごとにたくさⅥ-0995んなるけざいなりとも、ぜにをまうくるのうをもたずは、よをすぐるたゝずまいなるまじきなり。 (九七) 一 田づくりにまさるおもいてはなし。かぢやは、かじとしに、かま・なた・ふるかねをやすやすとうるをかいとめ、すき・くわ・かま・なたにして、うとくなる人にうるぞ。かまは、月々につかひうしなうてはやるぞ。又いをけしは、年々にをけのがわくさりて、としからけれども、はやらいではかなはぬものぞ。又とぎやも、としからければ、よき刀をやすやすとうるをしなをし、うとくなる人にうるぞ。又番匠も、としのからいとき、うとくの人、ざうさくをはやらする。萬のものをあつらゆるは、ぶんげんしやなり。又しほ・うり・こめ・まめ・むぎなどをうる人、萬のくだもの・もち・ちまき・だんご・やきもちい、萬くいものをしてうるものは、かなしきとし、かつゑしなぬものぞや。萬あなきいものも、だんなにとく人をもつは、よきたよりなり。 (九八) 一 こうや・ぐそくや・いとや・しろがねし、十人づれのしてならば、これらはかじとしに大事のしよくぞや。かつゑしぬべし。 (九九) 一 御本尊箱・御聖敎箱、をゝして、そのをにふうをつくること、をゝわなのはうへかたがたのふたすぢを、その一すぢをかけて、一むすびして、それを三つうちにかたくうちて、そのくみあまりの長をを、きりきりといくまわしもまわして、うちおさめたるなかほどに、Ⅵ-0996みつくりのをならば、そのあひあひへかうがいのさきをとをし入て、そのあなへふうのかみよりを入て、そのむすびめのはしのきわより、よくきるゝ小刀にてきり、ふうむすびめのまんなかに、ふでさきにて、ほそぼそとたてに一もんじのごとく一すぢひく。そのうへをはゞひろに、しらかみを女ばうのたゝみもとゆいよりちとひろくして、そのふうのうへにむすび、はしをみじかくきりて、まへのごとくふでにて、すぢをほそぼそとすみをひきて、ものにあたらぬやうに、まつい入てをくなり。  このふうをきるには、すみのところをきり、そのはんをよくみよ。すてべからず。 (一〇〇) 一 大事のものは、じやうをおろし、そのじやうにふうをつくるなり。 (一〇一) 一 かわごに入るものをば、おしつぶし、みななかの物をぬく。すみとりたるからびつをば、すみをはなしてなかのものを取て、もとのごとくぬりかためてをくと□や。まちやにあづくるものをば、ふうをはすきりにきりて、いゝ・そくいにつけて、すみのところばかりみせて、ぬしのかたへてわたしをするぞや。なかにはなにをいれかへてをくもしらず。 (一〇二) 一 御本尊箱、皮の皮籠、御聖敎を入て、治部助に明宗あづけらる。これをしりて、治部助に酒をすゝめ、よわせてとへば、ありのまゝいふ間、件の衆みければ、そのをゝばやわらかにむすび、憖にみつぐみにをのはしをあらあらとゆるりとくみさげて、ふうのかみよりをば、かみのはゞ一寸ばかりのかみにはんをすゑ、ゆらりとくだくだと、そつとむすび、そのはしを兩方へ一寸ばかりをききりて、そのむすびめのうへには、長命丸をひらめて、ふたにしたるごとく、すみをつけらⅥ-0997れたられば、なかなるものをばなにをぬいてとれどもしられず。あまり聖敎も三分一ほどへりたるところにて、かいだうにゐたる慶誓に、皮籠をあづけられたれば、そのな□のものをば擅にしたる間、次第次第へるところで□□でとりかやし、衞門九郎が龜女が所にをきて、そこでも子□取ぬすみたり。おさあいものにふうをつけならはせべきなり。明宗のいれ物にふうのつけやう、せうしことかきぞ。よくつけなどする子をば、菊女にいわされたまひ、へだてゝあらゆるものをはらいはたしたまふつるなり。 (一〇三) 一 人のなか、口入・くわぼく・わだん・わよの扱、郡・隣郷・國より  あれと、人のいはるゝとも、いろいろに斟酌あるべし。人のことをあつかはゞ、酒手三升のあたいなくは、いろうぞといふ。これはものゝ入一大事、又のがれえぬうらみ・じゆつくわい・へんじう・あつかいおう公事の一大事どもあるなり。まことあつかはんとおもはゞ、人にあつかわせて、よそながらしらぬかほにてあつかふべきなり。 (一〇四) 一 上々樣には、大坊主の門徒悉く直參にめされたがる。又門徒のすゑずゑまで、手次の坊主に門徒をかくしまわるのみにて、ことに直參をのぞむばかりなり。 蓮上人樣、北郡稱名寺の下、【(塩津)】しほつの道場を法住にあづけたまふ。なにとかあるらん、敎珍のさきの坊主、御意惡くなられて、かやうに本福寺にあづけたまへども、御意なをり、もとのごとく稱名寺へ返しつけらる。そのおりは叡山わうわうにて、御流せはせはしくおはⅥ-0998せしの時分は、關東・【(奥郡)】わうぐん・ほつこくぢの大坊主も、御門徒までも、皆堅田本福寺へと問尋、ことには東山殿より被仰付訖。然□…□先年、御開山御光御の御遺跡とや思召候らん、いかにか□御慈悲を下さる。 蓮如上人御代の物語なり。 實如上人御代も、永正四年・五・六の間、明顯・明宗、如在なく馳走のもの、とうかんもない大切がるものと思召きわめられ、御慈悲被下處也。御代御代の御意よきを、いづれの御代へもそのごとくに身もちをなすところにより、御一家樣の御目にあまるぞ。 (一〇五) 一 その國その郡に、 御本寺樣の御意のよき御坊・御一家樣御座あらば、その御にくみあらん坊主、ゆきかたもなく、ちりぢりに、わかれわかれに、ゆきかたしらず。こじきじに、こゞゑじに、かつえじに、ろじ・かいだう・ほり・せゝなげにたふれしぬるぞ。御かんきに御なしありもんとしゆへは、火のとりかよ□□し、目をみあはせたものも、无間地獄へをとすべしと。他宗・世間までも、御てがとづけばはらわせらるゝ、せんかたもなし。今世・後世とりはづすぞ。 (一〇六) 一 御坊御坊御座なき國々は、御かんきとなる坊主は更にきかず。御てがとづかぬゆへぞ。 (一〇七) 一 東山 大谷殿樣に、御代々御座の御ときまでは、國々に御一家御座なかんなる間、諸國に一、二人、法文いゝかへたとの被仰、御意わろき衆候つるとかや。御一家のひろまらせたまふて、國々の坊主衆のとがのみいできて□…□やまだち・がうだう・山賊・海賊、だいぶん三ケて□…□あまりたるとがをないたるものよりも、とがを縱橫無盡にめされなし、まなこざしがなにとある、くちのひろげやうぶさくだつた、ゐた、はⅥ-0999なをなにとかうだ、うへなしにりをいゝひらくは、がいな、くわんたいな、うへなしなど、ひらのやまほどとがをいゝつけたまふものうさは、ねこがぬずみのごとく、たかのきじ、ごくそつの罪人をおつたてゝかしやくににたり。しかれば、おうぢも子も、まご・じゆうるい・けんぞく、がきだうへいきながらさぞおちつらん。かつえしぬるものうさ□、たゞなにともして、御かんきになせば、はや天下はかうぞと思召御一家は御うたてしきばかり、あをきいき・しろきいきをぞつきにける。死ぬればめい□のくるしみにおなじきなり。これを慈悲ぞと、かわい、いとしいなどゝ、しづみはたしみはたしたまふて、いとうしさにかうするとおうせられまわすうたてさは、なにゝたとへんかたなし。 (一〇八) 一 御坊御坊の御くせとして、 御影・ 御傳繪幷无㝵光・御自筆の御聖敎、又あの本この本を、をれがかるにおしむとねめきめめされて、かるかるといふて、とりをかれ御かへしなし。かゝるてうほう・ほうじう御座候や。又御もんとをとりたく思めすにや、大坊主をねめき□、御かんきになしたまふと、人にをそろしがられて、國・こ□□・りんがう・りんたんの御もんとを、てあしをはこばせ、まいりつとはせられん御ためか。いんぐわのことはりぞと、かくごしながらも、かなしくものうく、うきもつらきも、とゞめはてとやせん。 (一〇九) 一 御一家さまへ、けしつぶを千にわりて、そのひとⅥ-1000つなりともこゝろをゆるすな、たづなをゆるめな。はやく御かんきにをなしあるぞ。 (一一〇) 一 御坊を建立申人は、御勘氣ありて地獄へをちずといふことなし。又今生には、人にへだてられ、かつえしなずといふこと更になし。二世とりはづすむくいあるぞや。 (一一一) 一 實如上人樣、永正四 六月廿四日に、かたゝへ御下向ありて、志賀・高嶋兩郡の御講に、明顯よこざの上座に、うしろを佛前のかたへなして座つきをせられたるを、みすのうちよりをごらうぜられ、左座がしらに座のなみにゐられよと、御なをしあり。其後御一家の御身と思食にや、御門徒衆・坊主衆もむかい合、わが御身は御うしろをばおしいたのはうへなさせられ、おもての正面へむいてなをらせられたるを、その御一家のなかにきこしめし、もつてのほかにわろしとおほせられたり。 上樣にあいならべらる、さたのかぎりぞと被仰しとかや。慶聞坊龍玄なども、佛だんへうしろをばむけられざるなり。 (一一二) 一 御本尊・御名號の、事外久しくやぶれさせたまふたるを、諸國より御本寺樣へあげられたるを、御はこにこぼるゝほどいれたまひて、これを明宗、風呂の功德湯のたくかまのしたに入申せとの御意なる間、みなふろがまたく火にほのほとなしたてまつる。 (一一三) 一 御開山御影樣を、世上のそうぞうの時、杉のほそだかき御唐櫃に入、御申のからびつを大津へつけよと御意にまかせ、太郎二郎がやどまでつけまうしたりしに、明宗つき申し、のむらどのまでまいらぬ、くせごとゝおぼしめしたり。これも已後の心得にしるしまうⅥ-1001すなり。 (一一四) 一 かたゝ御坊、御御堂の上だんのたゝみふるしとて、永正十五比より、宰相公實賢さまを住持にめされん御ために、御造作をさせらるゝ間、そのとき、あたらしくさしたてたるはなにごとぞ、さうせよともいはぬものをとおうせけるは、 御開山御下向の忝おりの、御たゝみをさしかへたるよと思召、實如上人樣の御心かと、みなみなかんじ申す。 (一一五) 一 かたゝどの御御堂二間、御本尊の御押板の間二間は、 御開山の御押板の間一間は、御みすの内の間五間なるを、宰相殿樣御下向のありて、そのとしあきすゑに、御本尊の間三げん、西二間御てんの間の心みすの間一間に、ざうさくをめされなをしたり。これも 實如上人樣きよくもなく思召たりとかや。