Ⅵ-0933本福寺明宗跡書 於本福寺跡書之事 右永正十四の曆、 野村殿樣より、美濃榑三千十四丁、相坂の關御禮義にて被通候へと被仰候へ共、如御法役所可給候とある間、同年十二月十四日、小山より粟津まで、二時が間に新路をひらき給ふ。榑を下づみに兵船六十艘にて、粟津浦へ著訖。明宗・明誓、湖上の下知を加ふ。依之、近松顯證寺W蓮淳R樣、赤野井殿へ御下向あり。餘くつろぎもなき御坊にて、つまりて候。ひろい御坊被仰付候へと、のむらどのへ御申の間、堅田殿を被參。霜月五日に近松殿御奉行、敎信御せたいがたまで、我等かたより請取られ、同廿日に【【レンジユンサマ】】御坊樣、新在家へ御越ありて、その日に赤野井へ御歸ありて、月迫に御移住あり。我等・明誓、進退被仰立、身のおきどころなし。隨而二季彼岸錢あげつけよ、幷に盆にも御志あげつけよ。又近松殿御門徒にてはなしと申たる冥加につき、誤たるとかゝせられたる眞筆判形の物可有。それは、もたせられたる御案文のごとく御かゝせ候。更々覺悟におよばざる條々なり。 永正十六年正月元三の朝より次のとしまで、新在家御坊の物をとり盜たるとあり。つかうしうかけとて、自筆・自判の狀、【【明宗コトイフ】】息明誓、御坊御開白の比は、歲五、六才のものに被書候。御責使は隣郷地下門徒衆、志賀・高嶋・野洲・栗本坊主衆、御使として盜申誤申と被書訖。中にも、近松殿五月廿八日御頭之事、Ⅵ-0934二季彼岸錢、二ケ條誤にかけと被仰候時、我等申候は、盜を仕たらば、腹をきらせられ候へ。先二季の彼岸錢は、覺悟に不及候と申せば、二月に二百文上たる御日きありとの被仰事候。それは御本寺樣の正月御堂の御番にてつとめ申て、下向のとき近松殿へ參、正月の御禮を二月に申可候と申せば、依之何をもしらぬ門とのとしより衆、中村の【【四郎兵衞入道】】願了・衣河淨念、誤とかきあげたらばほとけになさう、かゝずは地獄へおとしたまわんと被仰とて、こゑをあげわつぱとなかるゝ事、いふにおよばず。次に五月廿八日の御頭は、京都東山大谷本願寺殿樣の御頭つとめ來り候處に、比叡山西塔院より惡僧百人計、大谷殿樣へ打入破申候の間、忝御開山樣・蓮如上人樣、本福寺へ被成光御、其歲の報恩講おわします砌、花の御所の材木の年餘堅田の南取申、其緩怠の咎によつて、山門より堅田發向す。依其大津濱の【【太郎衞門オヤ】】道覺とて法住門徒の候、其外戸に一間四面の新殿を作申、御開山樣奉入、法住御番を仕に、程なく文明元年に近松に御坊御建立ありて、大谷殿十二ケ月の廿八日の御頭、近松殿にて各々勤被申訖。抑山科野村西中小路において、御坊を御造營は、文明十年より同十一年に至て、御滿作畢。則十二ケ月の廿八日の御頭をも野村殿樣へ被引、相不替各々勤被申處也。明顯門徒衆心得は、善知識御兄弟は以等き御事と存置て、五月廿八日御頭を引不申候へば、明顯に丹後殿W賴玄R、よりより御頭をひかれずして御くやみ候なと、每度被仰候へ共、顯證寺W蓮淳R樣、明顯・我等にいたるまで御調法ありて、かゝる公事を被仰懸、殊 永正十五年御頭之事、赤野井に御座之時伺申に、堅田は猪飼・【【東浦ノ切】】渡崎取相に不參共と被仰、御頭させられまじきと被仰候。此外に曆然の咎あらば、ふちんさせられよ、此咎御免あれ、初て御役をⅥ-0935可仕とは申間敷候と申處に、野洲・栗本の衆、東近江は、四、五才の者も誤申と狀文被書、御目にかゝりて御返し候。御慈悲の御家にて、世間世上の樣に支證にはめされず候と、荒みの淨西・赤野井の唯念・近松殿御堂衆眞了被申間、五六十ケ條を、同事を一ケ條を三十ケ條程宛にかゝせられ候。其中にとりては、永正十六年・永正十七年、御案文をもたせられ、二季の彼岸錢幷に盆にも御志を、報重・明顯上つけ申て上申さぬと御かゝせ候狀、加樣の狀は迷惑致に、ついに別の狀文は御上なくして、御坊御開白已來の錢米盜た□御□せの狀文をかみさまへ御上候て御勘氣あり。後に承候へば、頸をきられ腹をばきれ共、可樣にはかゝぬものぢやにかいたよな、めづらしいじやうぢやと、實如上人樣、忝も仰けるとかや。其後目安を上申、悉く□…□召被分、重而御免候者也。比は永正十八年八月廿二日也。椙原を車一兩程被書候し。一とせ相すみ候へ共、萬一何方よりも自然何時も被仰出儀候はゞ、此文言寫て御本寺樣へ上可被申也。彼新道の時の御勘氣は、實如上人樣御心得まいる。新衞門を進退之時之御勘氣、【【實誓御兒ニテノ御トキ】】稱德寺殿御主にならせられ御取持、殊に上野殿御勘氣の比にて、同心のものと被仰候に、【【證如上人樣御フクロサマナリ】】大かたどの樣御心得まいり御免候。今は備中と同心と被仰候。其比筑前法眼賴秀、以外御意惡候て、弟備中賴盛に御坊中奏者、萬押被計異見被申候。下間名字さしのけて、 上樣へ直奏は、雨が下にはならⅥ-0936ず、殊更我家は從上古御奏者して物を申家也。法住までは、存如上人樣・蓮如上人樣、御座敷にて御相伴ながら、御前をもちてまいり候御事にては候。然に備中賴盛、天文三 二月十二日の事か、彼働醍醐に候て存知仕ず。さて次の歲か、大坂殿御堂に、賀州衆御堂へ被參候へとさたありて、賀加の番衆一人同宿にて、幸のこと、かくといへと候間、申候へば、それ一人・【【カヾノヨネノコヲリノ】】藤丸二人參候へば、たれか此寄合ふれたると被仰時、西蓮寺・本福寺被仰候と□□□□よつての御事也。又上樣より河那部四郎二郎に何をやらん、明宗にいへいへと被仰出をとづけられずして、御意にはおれがいふ事をきかぬと上樣被仰たると、知音の人きかせられ候間、情ないといへば、四郎次郎方はがわらいてゐられたり。又御堂にて人を成敗届かぬとある間、尼御前等四五人、手荒に仕たると被仰候。是尤の御事と心得申候。其外の御事存知仕ず候に、誤申と書上よ書上よ、御免可有と、光應寺殿樣御意候。更々覺悟の外の仰也。今度はけんめんたゑて、光應寺殿樣・稱德寺殿樣として、 御影幷御傳上よと仰ける。上ずは門徒衆、明宗に中をたがゑ、さなきものは、御開山の御門徒を御はなし可有とのしきなみの御使、地下隣郷の門徒衆に、夜に日についで相ふれらるゝ。今まで三度の御勘氣に、 御影・御傳上よと被仰に、門徒衆も各々あげて御免可有をあげ申さずと、腹立以外也。 右【【本福寺ノコトゾ】】當寺は、御開山已來、御代々御眞筆の御聖敎頂戴致。殊は、御開山御影・蓮如上人樣御壽像、御傳繪四卷、【【金パクニテアソバイタ】】うつぼ字の无㝵光・不可思議光、對法住御懸字、此外猶法住願主として御免において、安置奉申事、是常の事也。如此爲一寺に、地下に御座有御一家なればとて、二季彼岸錢・盆の御志をあげつけよと被仰、更以手次の扱の樣に初たⅥ-0937る御役、仕間敷者也。かまへて此筋目務々不可有相違、返々心得可給者也。抑大谷殿樣御破已後、生身の御影樣、京都【【ミブノ】】今法寺へ御移ありて、軈而本福寺へ御下向なされ、其歲の報恩講勤給訖。依之、 實如上人樣御詞に、何なる國何なる里に上人光御なさるゝ處ある哉、其冥加につき不信なぞと常に仰ける。爰に明應元の比、當寺再興造營のきざみ、忝も 蓮如上人樣二十貫文御奉加まします。かゝる御慈悲を垂らるゝ爲一寺。誠御開山御舊跡とや申べき。然ば、先年野村殿樣御堂の御番を明顯仕に、法住十七年忌の歲、御主殿へ蓮如上人樣・實如上人樣、明顯・我等を召、新在家に坊を作と兩三度仰けれども、有無の御返事申かねてぞありける。其故は山門のいきどおり于今絶ずあり。新在家御坊の御地法住寄進にて、北郡福勝寺堂を百貫に買取建申とはいへども、こゝかしこせばせばしさと申、修理と申、かたがた大義の間、寄進し上申によつて、音羽の御坊に建させられけり。加樣のかまいに御請不申。 蓮如上人樣修理料をくだいて、堅田にそのまゝおかう物をおかう物をと、餘の仰なれば御請を申、御屋敷を引、海底をつき上、明應五年の曆、丹波の山その旦左近宅を買取下たり。是につかゆる事あり。 【【御キタドノサマ】】實如上人樣へ御さしづをあげ申たりしに、近松W蓮淳R樣、赤野井御坊御開白の比にて、【【新衞門入道御坊奉行也】】慶信云、この御坊と堅田に御坊御建立と承候。其を御申有て、兩方を御ふまへありてこそ、近松殿はもたせられ候へけれと被申たるⅥ-0938間、堅田へ御越ありて、事もおよばぬ御調法せんかたなきのまゝ、 【【實如上人サマノ御コトゾ】】御北殿樣は大海のやうに御座有間、違變申、 【【チカマツドノサマ也】】蓮淳樣にて御さしづをあげ申、四間五間の御坊を建申。同年の五月廿日、【【御ミナミドノサマ也】】蓮如上人樣を申。【【山科ノ御本寺樣也】】野村殿樣より新在家御坊へ御下向あり。御座船どれへ著申べきと、明顯御坊へとあれば、【【レンニヨ上人サマ】】やあらわるの心得や、唯賢が道場は、あちかこちかと仰ける。【【舟人ユイケンノ三郎二郎】】やがてこの邊と申、唯賢が浦へつけよ、新在家の坊は、今の事ぢや、明顯道場へ參物をと被仰、當寺へ御出をなされ、御影前の柱に御手をかけ給ひ、明顯ためには、せばいせばいとぞ仰ける。其日に御上洛ありて、御南殿樣にて、としが五つ若は、堅田にゆうする物を、近比おもしろいけいぢやとの給ひける。其後永正二年の春の比、 實如上人樣、堅田の近邊に可然屋敷をゑつにうつし申せとの仰にて、則うつし上申處に、新在家の坊の堀一つ西の田に、坊を建よと仰ける間、さる人にかくと語ば、明顯・明宗さぞ有らん、大事ぢや大事ぢやと口々に皆云相れたる。たゞこの事近松殿へ申て可然と有間、申あげければ有無の御返事なし。それに赤野井の【【新衞門入道】】慶信、たゞこの御坊を御寄進有て可然候、いかんと申に、一里五十ちやうへだてたる事にあらず、堀一つ西にとの御事なればと被申間、野村殿へ御寄進有也。色々御斟酌を再三御座候。猶々御申の間、御りやうしやう候者也。去永正四 六月廿三日の夜、【【政元ノ御コト也】】細川大心院殿、風呂にて御生涯之砌、新在家御坊へ同月廿四日早朝に、實如上人樣御下向。次の廿五日に、御開山樣・同圓如樣、丹後法橋蓮應御ともにて、大津浦より何も【【御ばうの御舟のななり】】大太郎船に召、御著岸あり。然者、其年・次の年の報恩講兩年打つゞきおわします。永正六年三月廿二日、實如上人Ⅵ-0939樣、本福寺へ申。同其日、實如上人樣、山科へ御歸寺あり。【蓮如上人御往生十一 二年ぞ】同六年十月十六日寅剋、明顯歲六十五、堅田御坊御堂の御開山正面の御障子へころびかゝり、はや人の請こたへもなくして、同十八日の卯の剋にいきたえあひおわりぬ。同年十一月十九日に、 御開山樣、山科へ御歸寺の御事なり。御座之間は、明顯・我等・【【明誓コトヲ】】猿千代まで、ちうやのへだてなく御番を大事にかけ申仕る身になされ申事、今世・後世願、本懷滿足、何事か是にしかんや。就中に法住代に、本福寺へ門徒衆所役之事、先春の彼岸錢、頭五十文・卅二文・廿一文。秋の彼岸錢、同前。【【七月十五日ヲ】】宇闌盆には、五十文・白米十合二升、その下は志にまかせ、十二ケ月廿八日頭人より、白米十合二升、 存如上人樣の每月十八日正日を當、十二ケ月御念佛有。其頭人より白米十合二升、志にまかせ、はこき物・だんご・もち・あづきがい・みそうづ・こわいゝ・いゝ・さけなどのくやうあり。十二月歲末には、 御本尊 聖人樣へ、御鏡・御佛供米上白十合二升宛、その下は志にまかす。以上、是は馬場への運を注申候。京都東山大谷殿御役は、法住代に彼岸錢每年五月廿八日御頭勤申計也。其已後、山科野村殿樣御開白已來、御堂御番、報恩講勤申處也。此外、御門御番、やす・くりもとゝ二ケ月の分仕也。我等は歲々おとろへ行候。歲々に御一家の御坊御坊ひろがり給ふ間、あなたこなたの御坊御坊御意、彌々事かなわざれば、惡罷成候。享祿五年【【ミノコクオトワヤクル ムマノコクミヅヲチヤクル】】八月廿四日、山科野村殿樣御破之砌、Ⅵ-0940大坂殿樣へ我等・明誓罷下候へば、泉堺より、細川【【元澄 ノチハ晴元ト申也】】六郎殿・三吉甚五郎・木澤・中山・ねごろの杉坊・日蓮黨・泉松 ・いばらき・芥河・池田・いたみ・たかつきのしろ、南北の武士、日々夜々責つめ申處に、細川【【晴國】】八郎殿方は、大坂殿御みかた也。次の年二月九日に、和泉の堺へ大坂殿より船とくかとの御行有。細川六郎【【ノチハハルモトニニンズ】】元澄、堺を退給ひ、三吉甚五郎・木澤等をおつぱらい、細川紀伊守可竹軒打死。同年四月廿六日、木澤・日蓮宗、京都を引もよおし、同廿九日に和泉の堺へ入津して、同五月二日に天皇子のひろしばに、こやをかけ責よせ、九日にも大坂殿堀のどいへつき、保安寺の南、森の里より西へ十二町が間を、四萬計のまうぜい、こやをかけ、十九日の夜か、保案寺のまへのへい十三間をきる。それにもならずして、六月廿日、三善千熊に扱をまかせて、敵方悉く敗軍す。明誓、御亭より寺内を每夜よまわりの御番を仕。をりふしのかんにんならず、何とやらん、自堪忍いたし候て、ねんなう届申候。然處に大坂殿御堂の御番被仰付に、天文五曆夏の比、伊勢の【【實淳の御弟也】】永嶋殿より 【【實淳ノ御オヤ】】光應寺W蓮淳R樣、大坂殿へ御參有てより、種々樣々の不思儀の難いできて候。至極迷惑致也。雖然、先年我等子孫にいたりて、跡を御けづりあらんとの御いきどおり候に、兩度御免不思儀之御慈悲蒙。難有令存處に、近松殿樣、數百通被書物、於後日被懸仰事在之者、その難義を理可申條々多中に、二季之彼岸錢、又盆にも御志等を上つけよ、又御門徒にてはなしと、こゝかしこ申まわり候、淺間敷候。無勿體冥加につき申候とかゝせられ候。其文言の狀ぶみ、支證に召候はんとき、このことはりを可申者也。公事沙汰は、旣早一年相すみ、落居の間、被仰御方は有間敷とはいへども、何をも御存知なき御代、證Ⅵ-0941文有などゝあらんそのとき、此理を申ひらくべきものなり。いかにかたゝに御座候御坊なればとて、筋目なきにおいては、被仰事はよもあらじと存處也。 實如上人樣御ためには御舍弟、圓如樣には【【御シウトドノ】】御外跡、 證如上人樣には【【レンジユンサマノヲンコトナリ】】御おうぢになりければ、證文にならんと思食かゝせられ候へ共、已後證文にならぬやうに、やくそくおかたく仕て、證文にはならざる所なり。返々本福寺において、御一家の御坊、堅田地下御座候御坊へ、二季の彼岸錢、盆にも御志を申間敷也。同何事も、退傳なき御役仕間敷者也。一大事に守申御本寺樣へ、退傳なく御役を可申候。自然、本福寺坊主色々誤多て、さ樣の御役を請取住持においては、それをばしやうへう候て斟酌可有也。我身におうじたる志をもつて、御一家の御坊・地下の御坊へは、細々のはこびをいたすべし。 蓮如上人御代までは、御一家の御坊こゝもとにはまれに御ざ候に、あまた御座候てためひつめ、御本寺樣ほどにあつかわぬと思召て、御意以外惡者也。仍爲後日跡書之狀如件。 天文七年 正月十八日[本福寺]明宗(花押) 於堅田本福寺置文大法之事 右當寺は、京都東山大谷殿樣、至御代々に、忝譜代之御門徒也。別而者 存如上人樣 蓮如上人樣 實如上人樣、細々被成御下向、御慈悲被垂、不可思儀之蒙御憐家也。殊去應仁之比、從山門御流破被申砌、忝御開山樣、當寺へ被成光御、其歲報恩講勤給畢。善道・覺念・法住・Ⅵ-0942明顯、我等蒙御慈悲爲一寺處、當門徒雖爲一人號直參、御一家中に被引離之儀、二季彼岸錢之事、盆之御志之事、色々御謀有共、無左右御請不可申者也。御影は、御開山樣幷蓮如上人樣、猶うつぼ字无㝵光如來・御傳繪四卷、此外御免之儀、何共に法住に御免。御禮儀、法住一身嗜【【アキラカナリトイフ】】曆然也。雖然、御影樣・御傳繪之儀、普御門徒迄御免御事也。惣中猶後御禮在之。惣中絶にも代々絶にも成間敷處也。何時も惣中四五人被相計間敷也。坊主一身之計にも成間敷也。御一家以御調法坊主被御勘氣、其佗言之御扱之御苦勞に上申候へと被仰事も可有。又者、御門徒衆御勘氣蒙給而、御佗言被申候へ。其御辛勞に、御影・御傳繪上被申者と被仰御一家、可有御座。何と被仰候共、坊主と門徒衆之中に當座御佗言申とて、左右なく上被申間敷候。仍而爲後日、理申處之置文大法之狀、如件。 天文七年 二月二日 [堅田本福寺]明宗(花押) 一 堅田本福寺門徒役六分一之事 地下[三分]、今堅田[一分]、海津桶屋・和邇[一分]、 眞野・仰木・普門・門田・絹河・雄琴[一分]。 【御參錢百文】[みかゞみ二まい・白米十合五升・御樽一丁・ふなのすし五つ・あめのすし五つ・くしがき一れん・いさゞ かん一つ] 正月四日、御本寺樣へ坊主出仕、御禮五百文、御方樣二百文、其外百文づゝ、三百文請取候て、あなたこなたへ。 二月【百文御參錢】二日、御志五百文、御方樣御禮に二百文。 二月【百文御參錢】 彼岸錢參百文、百文奏者。 五月【百文御參錢】廿八日、御禮錢は、御【【百文御奏者】】禮參百文、御樽一荷Wこの御たるは、大津はまの太郎二郎よりいたすをR。 八月【百文御參錢】 彼岸錢參百文、百文奏者。 Ⅵ-0943十一月【百文御參錢】廿二日、御非時御頭、東近江は野洲・栗本[三頭]、慶乘Wひら・あらかわ・大物一頭R、明顯[一頭]。W一貫五百文、わらび一だ。高嶋南市淨珍。これは永正九 五百文、十年は一貫、十一年より十一貫とわらびを出。R 御堂御番、【御參錢百文】御本寺樣の御事也。 【永正九年よりはじめらるゝ】坊主衆、輪番廿二日づゝするを、【【ハヽヲソムキタルトキ三月リンバンヲサセタリ】】了西三日を加、廿五日をかさみするなり。 御本寺樣御申仕共、自然御下向の時も悉く一味同心に可仕候者也。 本福寺諸役は、海津桶屋・打下治部不參之間、近代五分一にわるなり。今堅田一分、隣郷まの・ふもん・おうぐつ・きぬがわ一分、堅田地下三分、以上五分。 明宗(花押)