Ⅵ-0901本福寺由來記 (一) 一 當寺佛法再弘之事 抑善道は、江州【やす】栗本の郡三上の社の神主として、馬場の家督なりといへども、堅田に歲霜年たけて住す。然に御一流御相傳の御勸化をうけたてまつるに、その志あさからず。まことに彌陀の悲願、他力易行の願海にこゝろをなげ、ますます師主の敎敕をおもんじ、信心增長のあまり當寺を興行いたし、法義いよいよひろまらせたまふところなり。したがひて、覺念は善道の子息といへども、其志なくして御流をうちすつ。ことに佛心宗を專として、當所に高德庵と云をとりたてければ、佛法たいてんして、あさましき事かぎりなし。こゝに覺念の子息次郎三郎 年十七歲の比、身に大事の  をわづらいてありしに、夢にもあらず、うつゝにもあらで、うすずみぞめの衣めされし貴僧二人、私宅へ入御ありて、いかに汝が身はきたなしやとて、とりばうきをとて、天井なげしのすみ、おしいたなんど御はらひあるとおもふに夢さめ、きどくの思に住して、母の妙專尼にかくとつげければ、妙專尼のたまふは、それこそたふとけれ。父をやの覺念の代にて禪宗をとりたてゝ、本願寺との佛法をうとみとをざかりてあるを、いま一度この違例とりもなをさば、をぬしもわれも御本寺まいりを申すべきぞ。おがみまうされたるところの二人のたふとき御僧は、一人は黑谷上人、一人は本願寺親巒上人にておはしましけるぞや。これよりⅥ-0902ほかに別の御僧はまみへたまふべからず。かまへてかまへて、けんごに佛法をたしなむべきぞと、ねんごろにいゝきかせられたりけるぞありがたき。そのすゝめにまかせて、東山大谷殿へとぞおもひたちき。とぎや道圓・かうじや太郎三郎衞門同道して、東山あはたぐち、みざれ・いはざれ・きかざれの猿の邊のぼれば、北の方西より三間めの茶屋へ付、やすみ給ふ。その時節になれば、 御本寺樣は人せきたへて、參詣の人一人もみえさせたまはず。さびさびとすみておはします。 (二) 一 かゝるところに應永二十年の比、しるたに佛光寺こそ、名張・ゑけいづの比にて、人民くんじふしてこれにこぞる。いざやまいらんとてまいり、佛光寺弟の西坊にあひて法をきく。名張・ゑけいづをさづけられければ、祝著なのめならず。とかくせしに、一兩年をへけれ。かのしるたにの住持、西坊にうつぷんの義あるとて、わが召使ふ同朋あふみと云者に敵たはせ、生涯させられけり。W中ゐの女にてをかけしちとRあさましともいふ、はかりなし。此事ふかくおんみちさせ、とふ人あれば、なにとやらん、あふみと口論をしつるに、死去候とあひふれたり。かたゝより三人上り、佛光寺に西の坊の義いかにとへば、おなじこゝろにこたへられぬ。さらば御しにがほをなりともみんとて、かほをひき、あをのけみければ、とゞめをさしたり。こはなにごとぞや。佛光寺とは、ほとけのひかりをはなつてらとかけり。かやうのせちがいは、とにかくにかちせんにおよばんと、大きにいきどをりあり。つゐに公事、【はたけ山どのぞ】くわんれいにつげて、奉行所へいだせり。佛光寺以外迷惑なりWこの住持はつじぎり、諸事わろしR。【とくほんの事なり】畠山どのをへ、なをしけれども、かたゝよりのいきどをりあるとて、はたけ山どのにほうこうする。ほうこんは、かたゝ侍にて、それよりかたゝをなだめられたりければ、まづ事落居す。 Ⅵ-0903(三) 一 應永廿三曆、次郎三郎・ 道圓・かうじや、あひともないて、東山大谷殿へまいりたまふに、諸國より御參詣のかたがた、本弘寺大進どのに内儀まうさねば、出仕かなふまじきよしきく間、大進どのに、おうぢ善道より御本寺樣の御門徒の由來を、大かたものがたり申て、大進どのとりあはせにて、 上樣へやがて御目にかゝり申事、難有こそ存じける。 (四) 一 妙專懷妊夢相の事 法住に妙專尼ものがたりしたまふやうは、をぬしをくわいにんのはじめ、あらたに御むさうをかうむる事あり。うすずみぞめのころもめされたる御らう僧、これよこれよとて、御手に御けさ一帖もたせたまひ、汝にあたふるとて、わらはがふところのうちへおし入たまひ、たゞごととはおもふべからずと、おうせおはるとしてゆめさめけり。さてほどもなくくわいにんぞと、たゞよくよく佛法を心に入たまへと、色々にきかせふくめ給ひけり。 (五) 御流をすてゝ禪宗をこうぜしその間は、馬場の道場によろづの魔入みち、よなよな天井・なげし・うつはりには、化生のものありて、通夜の人々をおどろかさずといふことなし。 (六) 一 應永廿三 四月十日に、妙專御往生あり。そのあくる年、ひがしうら、せんまんさいさうとあり。 Ⅵ-0904(七) 一 ある時、 存如上人樣 【蓮如上人御事也】御方樣、門田法西道場へ御出は、江州北郡へ御下向のついでに、本福寺へ御出ありける間、左衞門道場へ御出をなさる。忝御事なり。この御下向を法住十七の年のえきれいのうちにしておがみ奉るゆめをおもひあはせたりと也。左衞門とは、法住の弟法西をいふ。その子淨善といふ。この弟は普門に九郎とて入道して淨珍といふ。門田道場をあづかる。兄の淨善は、かたゝ西うらに新屋敷をつきて、道場を建立す。かの御下向の已後、文明第三、賀州へ御下向の時、この地を御目にかけて申やう、御坊を御建立あらば、近比の御在所と申せば、比叡山の方を御らんぜられ、あれがちかきほどにと仰せける。この道場をば淨善にあづけ、法西の代より每月十日に妙專の日をむかへて、念佛の日とさだめ退傳なし。四月十日に御往生也。この念佛と申ならはせるは、信證院殿樣、當所に御座□…□御尋ある間、如此申上候へばよきぞと御定あり。それより念佛と申なりと、明顯かたらせたまふ。 (八) 一 當所の宮仕、魔におかさるゝ事 大宮へ御燈をまいらせんとて、本福寺の北をとをるに、あふち大木にてありし、その木のしたを、よいの六時の比すぐるところを、かの男のこしのあたりを、なにのつりあげたるをばしらず。地よりかみへひきあげぬとこゝろえて、我さしたるこし刀をぬき、二刀ばかりちやうちやうときりはらうとおもひしに、あやまたず地へおとしたりとかたりぬ。その宮仕さしたる刀は、めいよの刀なり。往反の人、それよりおどろかされずといふぞ。 (九) 一 御本寺樣へ、諸國より御進上の御奏者は、丹後殿御一人にかぎりて、餘人はめされざるなり。 上樣のⅥ-0905御意のよき人、 御一家樣幷下間衆、其外御堂衆、又御殿原衆、坊主衆、かゝる御人數の御中に、たれたれこそ二もなき御意のよき人とて御座候とも、それはたうざの御義、一たんその御一代一世ならぬ御機縁、宿習目出くぞおはしける。さやうに御座候とも、その御かたへいかやうのものをはこぶことありとも、本福寺にかぎりて、手次をまうけぬやうに、れいにならぬやうに、御知音あるべし。正月年始の御禮義、二季の燈明料、七月の盆の御志、五せつく、たのものついたち等の事也。これのみならず、年々月々に、一兩年もつゞけて參らせつけたらば、れいになるべし。年によりて色をかへ、月をかへ、日をかへてまいらせて、しかるべくさふらふ。これについて一大事候。本弘寺といふ人は、 存如上人樣の御代にならびなき御意よしぞ。ことに 上樣のをちたまふ人と、人のいへり。存如上人樣御壽像を、二またどのへの御下向は、上々の御事、申にをよばざる御事なれども、本弘寺大進こゝろえゆかねばとて、大進の義をよくめされなして、御ゆるされあるとかや。又かねのもりへ存如上人樣御壽像を、道西のぞみまうされて、 上樣御めんもあるべきかのやう、御座候といへども、そもそも御影樣と申事は、御本寺にならでは御座なき御事にて、たやすく御めんといふことこれなし。この御すぢめを本弘寺大進申さるゝ間、かねのもりの道西めいわくして、色々かの義をとりて、にわかに百疋の禮錢をもちて、わびられたれば、こゝろえゆきて 上樣へ申されて、ざうさもなく御免あるなり。これがこうかくぞ、御意のよき人には、ことたらぬ手みやげをはこびたまふべき也。 Ⅵ-0906さて、かたゝの法住の手次を申さうするはわれなりと、本弘寺大進申されたり。其時、法住こたへたまふやうは、 上樣へ御禮申やうたい、われら一人にかぎらず、諸國より御參詣の御かたがた、大進どのゝ内證を御存知なくて、 上樣の御目にかゝる人やさふらふと。ある時、たゞとにかくに手次を申さうするといふいきどをりにて、十三年が間、法住とあらそひはてやらざりけり。しかれども、存如上人樣、法住のおうぢ善道の子細をおうせたてられ、本弘寺ついにいゝどころすくなくして、かたゝ法住に、手次といふことなき也。又御よりきの御坊といふとも、わかこをりなみ、なをよのこをりなみ、れいをひかれさふらふとも、上々の御事は、一度うけとりてひくは、なりかぬるのものぞや。ものをうけとりてのち、かりそめにもけだい申さば、 御本寺樣への出仕を御をさへあるところが一大事ぞや。よくよくこゝろえらるべし。 (一〇) 一 无㝵光御本尊御免之事 うつぼ字、「歸命盡十方无㝵光如來」。上の御銘文、「『大无量壽經』言、設我得佛、十方衆生、至心信樂、欲生我國、乃至十念、若不生者、不取正覺、唯除五逆、誹謗正法。又言、其佛本願力、聞名欲往生、皆悉到彼國、自致不退轉。又言、必得超絶去、往生安養國、橫截五惡趣、惡趣自然閉、昇道无窮極、易往而无人、其國不逆違、自然之所牽」。同次下の御文には、「婆藪般豆菩薩『論』曰、世尊我一心、歸命盡十方、无㝵光如來、願生安樂國、說願偈總持、與佛敎相應、觀彼世界相、勝過三界道、究竟如虛空、廣大无邊際。又、觀佛本願力、遇无空過者、能令速滿足、功德大寶海。愚禿親鸞敬信尊號」。御うらがきには、「方便法身尊號、江州志賀郡堅田馬場之道場本尊也。願主釋法住。長祿四年W庚辰R二月廿四日、大谷本願寺釋蓮如 御判」。 Ⅵ-0907[明應五年の日記に、十九福をはします。墨字の御眞筆二百福もこそおはすらん。あまたの日記を失たり。本福寺のうつぼ字の無㝵光は、しる谷の光明ぼんよりはゞひろにをたけ長く、天下にたぐいなくこそあそばしける。] (一一) 一 御開山御影樣御免御下向之事幷御壽像 御銘文には、「本願名號正定業、至心信樂願以因、成等覺證大涅槃、必至滅度願成就、如來所以興出世、唯說彌陀本願海、五濁惡時群生海、應信如來如實言、能發一念喜愛心、不斷煩惱得涅槃、凡聖逆謗齊廻入、如衆水入海一味」。「大谷本願寺親鸞聖人之御影、江州堅田法住道場常住物也。寛正二歲W辛巳R十二月廿三日、大谷本願寺釋蓮如 御判」。 蓮如上人樣、御壽像いづくへも御ゆるされなしといへども、法住にはじめて御免あるなり。そのおりふしは、先住上人樣の御壽像を所々よりのぞみ申さるといへども、法住の、われは不可思議の御慈悲かうむるところへ、しかしながら、 上樣の御恩と存じ候へば忝候とて、 上樣の御壽像をも望申されければ、やがて御免あり。めでたくありがたき御慈悲なり。これについて、その御代にむまれあひたてまつる機は、あはれあはれと御壽像をのぞみ申こゝろざしたへず候へば、一期のいのちをかぎり御免もあれかしと、心底にうちをき申ひまもなく候。 (一二) 一 御傳繪御免御下向之事 一卷 「大谷本願寺親鸞聖人之縁起、江州志賀郡堅田法住道場常住物也」。 Ⅵ-0908二卷 三卷 四卷 [おのおの御うらがき同前] 「寛正五歲W甲申R四月廿三日、大谷本願寺釋蓮如 御判」。 [畫師を召れ、いづれのよりも人形をいかにも大きにかけ、法住このみぞと仰ける。] (一三) 一 大谷御流破却之事 寛正六年正月九日、山門の【西塔】惡僧、人數を率し打入べき風聞ある間、御坊中 に皆々御驚にて、いそぎ近國遠國へその趣を相ふれたまふといへども、よも今明日にてはあらじと思ひたまふにより、御番衆十餘人ばかりにて御門の御番を致處に、はやあくれば十日に、東山大谷殿御坊へとて走入をみれば、あく僧百五十人ばかりなり。御近所の惡黨等もおりをえて、人數にくはわり、よろこぶことかぎりなし。法住は正月十日、西浦法西の念佛の座敷より、うつたち上りたまふに、人のまうさるゝは、御門の御番衆、御門をさゝずして、ことにみなみなひるねをしてあるところへ、みだれ入りたる間、御取亂申にをよばず。あくたうは、おもひおもひに御物をもおそれず、われもわれもとみな悉くとりちらしぬ。 まづ上樣は、くずの御じつとくをめされて、いをけのぜよう、をりふし定法寺にをけいふていつるが御供申、やがて御坊を御出ありて、御そばにある定法寺へうつらせたまふ。あくたう、とらへ申さんとたくみたれども、ついにみつけまいらせず候。實如上人樣御兒にての御時、いをけの尉、定法寺へ御供申たり。やゝありて、御堂衆正珍をとらへて、これこそ法印よとてうれしがりける。そのあとに、 【願成就院殿樣の御事なり】御方樣すなすなと御坊を御出あるをとらへ申す。御供に御長太刀もたせられしを、敵うばい取たりければ、赤野井の野干五郎太郎といひし者、はやき者にて、 靑蓮院殿の北の邊Ⅵ-0909にておつかけ、あわやしやつばら、どこへにぐるぞ、こゝもとにて、おのれらといひて、けたをしふせて、御長太刀をとりかへし訖。その日の事なれば、ぐんがうより自國他國、 御坊へはせ參ずる。その勢、目をおどろかす。御近所の町人も、はじめこそおもしろくおもひつるが、のちのち諸勢かさなれば、若火をやかけて諸勢のひかんやとて、そこあたりの京はらへ町人すくみて、ものいふもの一人もなしとみゆ。法住ももみにもうで、ありあひ、わづか八十人ばかり、きらびやかにいでたちて上りたまふ。かたゝ衆とさたするを、實如上人樣御兒樣にて、定法寺のにはのすみにたかき山あり。それより御覽ぜられたり。法住の門徒にいをけの尉といひし者、つねの時だにうでたてするに、六具して、いさみにいさみにて、高聲に 當御坊へちつともくわんたい申仁體あらば、わが手にかけて生涯をさすべし。やがて落中に火をかけはらきらんと、大きにいかり、まちおもてをのゝしりてとをる。かの尉くせものなるものと、せうせうはみしりたり。御門の御番、かたく仰つけられしに、言語道斷かやうの一段は、のちの口懷はさきにたゝざれば、その詮なしとはいへども、あくたうをおいいだす。然に老衆御談合に、この分にて、いつをいつとて御番はこたへしとて、扱に内證つくのわるゝなり。まづ山門の成敗は、御流は邪義にて邪法をすゝめらるゝといふ申狀なり。利不盡の沙駄なる間、其時になれば、御一流御相傳の御勸化、眞實正路の御化道、末世相應の要法、凡夫往生の正因、不可稱不可說の眞言、三國傳來の高祖の論釋、めいめいの義理をふるひて、これをのべあきらめらるべきのⅥ-0910義にふせらる。御坊中には、せちかくの宗論あるべきの分にて、一問答・二問答・三問答をいたすべき仁を相さだめらるゝ處に、その義にはあらで、件の惡僧等、御近所の偏執のあくたう等の所行なれば、同心にまうしあはせ、過分に御禮錢をくだされば、山門の義は無事につかまつるべしと申入たり。此等の趣ありのまゝ、 上樣へ申あげて候へば、しかるべからざるよしを御定あり。その時、三川の國より佐々木の坊主上落にて、宿へ付てたびのていをあらためずながら申さるゝは、あゝはや我等ごときのものゝ往生は治定にて候なり。そのゆへは、まことに一向專修專念眞實の御勸化あるに、さらにあく魔けさいをなすことなき間、不審を致つるに、あはやけさいをなせる不思儀の御事かな。眞實の善知識にあひたてまつる宿習のほどのたふとさよとて、よろこばるゝ事なのめならず。大がくしやうのことなれば、かくこそは申あはれたる。 上樣へめされて御公事のぐわんらいおうせきかせらるゝ處に、佐々木、たゞわたくしに御まかせ候へ。山門も京都も、禮錢をほしからば、料足は三川より上せ、あしにふませ申すべく候。邪正を分別すべき義なくして、料足に目をかくるにて候へば、つかまつりよき公事にて候。わたくしうけとり申すとて、はや禮錢に相定られ訖。この一獻錢の扱、始中終定法寺しなしなり。かのしなしとは、 上樣ついに御存知なくて、けつく内談を御しらせありたり。その寺の同宿すぐさゝるていにて、御けいごの諸勢にたちむかひていふやうは、御問答の段は、はや御落居にて候間、皆々御かいぢん候へと云處を、江州大物の兵庫といひし者、はしりかゝりて、あのもとくびがしなしぞとて、あやまたずたゞなかをとをさんとせしを、そばなる人とりさへたり。ものゝ大事なるは、かの定法寺の所行にて、たゞいまの法師とりもつとは、さらに上樣にも御存知なくて、けつくⅥ-0911御たのみありて御出あり。その日の十日より、あくる十一日まで、この事ためらいて、ついに諸勢をひかせられ、落居をなされけり。其砌の御事なれば、山門の義わうわうにて、國々在々所々御門徒をいはれざる義を申かけすくめ、らんばうらうぜき、たゞなをざりのことにあらず。よろづ理不盡の沙駄をいたし、ことに案持いたすところの、无㝵光の御本尊をひきまくり、うばいとりたてまつる。まづ近江國の御門徒多く迷惑せらる。金の森の道西をはじめて、おのおのあつまり、堅田衆もいおけの尉をはじめ、隱密して、とりこもるところに、山門の義一味なれば、山徒はことごとく同心におしよせたり。城にもあまたのこはものこもりたる間、たやすくかけやぶられんずるやうはなし。敵は森山の日淨坊、大しやうにてせむるを、金のもりを十七、八ちやう、城の衆うつていでゝ、いをけのぜう手にかけて、あやまたず日淨坊をうちたり。たうざに三人うちてければ、已上十三人山徒をうつたり。城はつよくみへたり。この事 上樣へ住進申上しに、言語道斷の事を仕るものかな、大事にてあるぞ。しそこなうなといひつけしに、これはたが異見にて、かちせんにはおよびたるぞ、くせ事なり。さだめて赤野井の【西蓮寺男にての事也】大夫が、しなしたるよな、いそぎて金の森の者どもに、みなちれといへと御定下て、みなみな迷惑申さるゝ事かぎりなし。邪法・正法の分別をことはるばかりにてこそあるべきを、みだりがはしく合せんにとりむすぶと御機嫌わろくて、御定にまかせて、みなみな自やきをして城をひらきける。かたゝよりまご四郎衞門方、同河村をとゝいの舟二そう、あかの井浦へつけ、八十Ⅵ-0912人ばかりのせてかたゝへのきて、南方北國へのがれたり。これによりて當所も大宮へうちよる。かのしやうげん、同門徒も同心して、御門徒衆をはらはんといふ。本福寺にもたゞ卅人ばかりかたいむしやこもりたり。やうやうしてこうしゆありて、八十貫ばかり大宮へもたせて、當在所も無事になる。この禮せんは、法住いだしたまふ。さてそのゝちは、あつかひばかりになりて、山門にもこなたのひいきの人々もあり。法住はいゝむろのせうぜん院にとりつゞき、内證入魂したまふ間、せうぜんいん三院の衆會に、法住一端のことはりをもまうされてしかるべしう候。さあらば、われこゝろえんと申ちぎりて、法住登山ありけり。三院の衆徒は、根本中堂に衆會ありて、無事の一段にふすべきぶんなり。かのせうぜんいん同道にて、みちすがら物語のとをりは、本願寺この法を卅年またれたらば、ほねもをられいですゝめらるべきを、時がすこしはやきゆへによりて、旁々までも、かやうにくらうある事にて候ぞと、大がくしやうなれば、かく申あはれたる。はやすでに根本中堂ちかくなりて、三院三塔の衆徒評定の處に、せうぜん院・法住入堂あり。每事せうぜん院、法住の義をひきかたぬぎ、とりもたるゝこといふにをよばず。そもそも本願寺邪法をとりたて、國々にをひて專在家・出家をえらばず、流布してすゝめらるゝ處の法、幷无㝵光を本尊として、正法をみだすにはあらずやと、衆徒の中よりいひいだされたり。法住はもとより、うつぼ字の无㝵光の御本尊をもりたてまつられたれば、根本中堂の正面の柱にくぎうつて 、いまわが宗體、正法にあらず、邪法にて佛說をみだすよしのおうせ、至極迷惑せしむるところ、抑淨土眞宗の門にをひいては、かみ佛說よりをこりて、下先德の偈釋にいたりてわたくしなし。諸宗諸法護者、淸淨持律の出家、發心のうへは、かたからずおはしましさふⅥ-0913らふらん。しかるに他力易行の門は、一文不知の在家止住のわれらごときの罪業ふかき末世の凡夫、たやすくたすかるといふ佛法をうけたまはらずさふらふ。しかれば、彌陀如來の本願は極惡最下の郡類を本とたすけまします誓やく、時機の順熟、 蓋相應の敎、修しやすく行じやすくして、いづれのつとめかこれにまさらんと信ずるばかりにてさふらふ。さてかけたてまつるところの无㝵光の本尊は、『大无量壽經』のなかの十二光佛の異名のうちには、第三に无㝵光佛、これをもて婆藪般豆菩薩の『論』(淨土論)曰、「世尊我一心、歸命盡十方、无㝵光如來、願生安樂國」と讚じまします。その上代上根の機かくのごとし。いかにいはんや、下根底下の愚智无智の尼入道等すゝめ入しめて、たすからせんためにて候へば、いかでか邪法にてはあるべきや。よくよくきこしめしわけられ候はゞ、かしこまり存じ候べきよし、申したまふところなり。衆徒きゝたまひて、その利にくらからず、國々在々所々にみちみちて、この本尊をいかなるいやしきものまでも、もてあそぶ間、三院よりの成敗は率爾にさせじため、いまよりなを已後も、かたく成敗すべきなり。さりながら、いまかけらるゝところの本尊免じ申す。その本尊はいまに本福寺におはします。それよりしてこそ、こゝもとは、まづ山門よりの義、くつろぐさまなり。さて【(雄琴)】おうぐつの掃部はなわをかけて、山へめしのぼする事十七度、剩雜物を悉くとられたり。みなみ雄琴にも、本福寺御門徒ありといへども、その時よりしてまいらず。さるほどに金の森の道西について、山門に、 いもつけぬ かねがもりなる 道西が Ⅵ-0914しよ行ときけば 无常なりけり と、かくこそは一首よみたりける。あまりの事なれば、ことしげき間のせず。されば山十六の谷の義、をのをの大事におもはれて、谷々坊々をくられたりといへども、えんきんわれもわれもと、ちいんのかたをひかれたる。よかはいゝむろのせうぜん院は、今かたゝ藤田弟にて、これちいんなり。西塔北谷正敎坊は、【光曜丸にて御兒樣の御名】實如樣の御坊なり。同西谷西覺坊は、下間筑前殿御坊なり。東塔北谷一谷は、本福寺末寺にたのまれたり。八部に覺恩坊は、法住の知音の坊なり。かくのごときの坊々をへたまいて、なんなくその時より無爲無事におはします。かたゝ唯賢は、四至内坊ろうへ入るといへども、三院より本尊をゆるすとあり、金の森道西にもゆるすとあり、それより末寺役の御使を唯賢申しけり。 (一四) 一 御本寺樣之生身之御影像、本福寺へ御下向之事 寛正六歲大簇中旬の比、京都室町に御座ありて、それより今法寺へ御移りなり。其後御座、みぶへかへさせられ、やがて江州栗本の郡、安養寺かうし坊の道場へ御下向ありて、七十日ばかり御座候なり。さて赤野井より御うしろざまにおいたてまつり、その浦より御船にめされ、應仁元の曆【二月】交鏡上旬の比、當所下ばゞからさきのはまへ御船をつけ申され、馬場本福寺道場へ御光臨をはしまし、その年の霜月廿一日の夜より蓮如上人樣御下向ありて、廿八日までの七晝夜の智恩報德の御佛事の御つとめ、するするとなんなくわたらせおはしますところ、希代未曾有の御いとなみ、世上代も中比も、ためしすくなくこそおはします。よろこびのなかのよろこび、幸の中の幸、本懷まんぞく、何事かこの一事にしかんや。諸々より御參詣いくらと申すかぎりを存ぜず。 Ⅵ-0915(一五) 一 當所にて蓮如上人樣を申には、御禮せんくわへ、けつかうつかまつれば、三貫文にてさいばんあり。御禮せんなければ、一貫五百文にていとなみ申也。大がい皆々申されたる。たれの所へも、さうなく御いでをなされたり。この事を世間の人にいふべからず。御慈悲にて御いでましますぞや。 (一六) 一 應仁第二Wかのへ子R二月二日、中村はまの唯賢道場火事の時、東向の佛檀にて、をしいたのわき北のはうに、无㝵光佛の御本尊、 蓮如上人樣御筆をかけたてまつりしに、かの火のなかより金色の佛とびたまひぬと、西浦のれうし、みたてまつるとある間、たづねたてまつるに、下ばゞのしまにつみならべたるいしの西のそへと、唯賢はまの磊とのあはひにたれまきたる人なきに、うつくしくまきて御本尊をはします。 (一七) 生身御影樣、大津濱へ御著岸之事 一 應仁第三の曆、湖上の海賊、堅田よりつかまつるとて、同年正月九日に、三塔六十三人のぐんきよをむすびて、上位の御下知、御奉書の旨にまかせて、御だいぢあるべきよし風聞あり。これによりて、いかなる處へも聖人樣御座をかへたてまつりさふらはゞやと存じ、大津濱の道覺は法住の門徒なれば、その外戸に一間四面の新造をつくりたてまつり、あたらしどのと申て、その御座へ 生身の御影聖人樣を入まいらせんと御内談あり。同年二月十二日の事なれば、さて夜に入、御船を東辻より御座船にめさる。このつじは、昔大Ⅵ-0916友の皇子ながされ居たまふ時、釣をたれたまふはまなり。又居初とは、馬場の西の邊にあり。そのまわりこゝもとは、みな大友の明神、御さがり有てすませたまふ間、御里の町と申なり。 御座船は、法住の船一艘に、ろを五挺たてゝ、坂本の七ケの關をとばんとす。雄琴の流佛のさしむかふおきの邊かと思處に、今堅田の藤二郎といふ者、ろをおしはづして海中へおちたり。されども御船へとりのりてわづらひなし。とかくして關をとんで大津へ御船をつけ申て、道覺が外戸のあたらしどのへうつしたてまつりおはりぬ。その已後、 上樣も御上津にて、法住も大津に久くつきそいまいらせて、御公事のをはりと申、かたたの公事と申し、寺の義と申、色々案をめぐらかされけるなり。道覺主は、三井寺南の院の萬德院なれば、樽ざかな用意して、法住家につたはるあをいの太刀を引、事を調、かたく入魂して、每事申あはせられて、しばらく御逗留おはします[云云]。 (一八) 一 京都東山大谷殿樣にて、法住と大夫と參て祗候申すに、 上樣、大夫に无㝵光の本尊ほしいかと仰けるに、大夫、その御事でをりやあり候。御本尊の御わきに、御かゝりありたるがのぞみてをりやあり候と申す。やすき事よと、ほゑほゑと御わらいありて、すなはち御うらがきをあそばされて御付屬あり。于今案置申候なり。かの大夫は、坂本しやうげんじといふ社人の子を、法覺やしないてあるを大夫といふなり。それよりかの子どもを官途には大夫といふはこのいはれなり。 (一九) 一 法住癰をわづらはれけるに、かたじけなくも大津近松殿より、 上樣・願成就院殿樣御下向をなされて、 上樣御意には、いかに法住なにとかあるとのたまひければ、その時天にもあまり地にもあまり、雙眼Ⅵ-0917よりなみだをながし、かゝる冥加のほどこそおそろしう御座候へ、これを御らんあるべく候。あの二郎兵衞がこの體にしなして候。これよりこれまで、この癰くづるゝやうにつかまつりないて候。くどきたてゝつぶやかにつげたまへば、御二方樣も、御なみだにむせばせおはしまして、二郎兵衞は、なにとてこゝろにしかじかと入てなをさぬぞ、かほどに大きになるまでをきたるぞ、二郎兵へいたづらものなりと、事もなのめにしかりまします。ありがたき御事なり。一度の御下向をこそ、身にあまり忝なきに、重々の御下向、そらおそろしく存ぜられ、冥加なく不可思儀の大御恩、報じつくしがたく、かやうの御慈悲、謝しても謝しがたきはこの一事にきはまるとよろこばれけるぞや。 (二〇) 一 東近江衆、堅田法住はいかにも佛法の義、さほどしかしかとなく候と申されたれば、あふ、法住は佛法がうすく、信もうすくあるぞや。なれどもあれは聖人にむまれあはれたる人ぞと、 信證院殿樣おうせけるとかや。 (二一) 一 地下故實之事 應仁二年三月廿四日、堅田大責と廻文まわりて、同廿九日、城のきわへ敵つめて、をめきさけんでせめたりけり。山門をてきにうけてんければ、東西南北みかたする里もなし。われもわれもと海の中に、おきにゆかなんどをかきて、よろづざいほう・あしよわをおきたりける。あまりのせめ事なれば、數度にをよんで、しⅥ-0918ろよりうつていづれば、衣川・たてをか・【(雄琴)】おうごとと、【(苗鹿)】なうかのさとまでも、おうていでたり。いく度おうていづれども、てにたまらぬとて、たとひしろのなかまで、てき打入みだれ入とも、まくりいださんとて、おしだまりて居たりければ、にしうらのいそぎわより、法西のくずやへ、大みなみの大かぜふくに、ひやをいこみたればやけあがり、大御堂のひわだぶきのやねまで火矢をいこみやきたてゝ、しろには一人もたまらず。うみなるゆかにをきつるものとり入て、その日おきの嶋をさして舟をおしいだし、よきじゆん風なれば、ほをあげておち行、やがてしまへぞとつきたる。東うらの將監方おちばをちらるべきに、地下のはたをとりにもどりて、てきにあひ下はゞ、にしのうみばたにてはらをきらる。さてあくる四月一日、かたゝのさい禮を、おきのしまにてはやしたてゝけり。かゝる亂劇、もみ井方のもの京へつくをとりちらし、剩人を多くころしける故なり。もみ井方は 公方樣御藏奉行にて、山門へ相ふれて、如此成敗をなすなり。さて文明元年に山門へ侘言して、文明第二の曆十一月九日に堅田へなをる。 (二二) 一 殿原・全人によらず、其時料足過分に出す人還住す。さなき人は、ふたゝび地下へなをらざるなり。又まう人・たびう人・譜代家人・下部なんどは、一錢も三門への禮錢いださせずW五、六年へてのち、地下へおんみちにてなをるものもありR。 (二三) 一 應仁の亂より、當所にをひて萬公事邊の儀、輕重をたゞして、殿原衆・全人衆兩方たちあひて、わたくしなき樣にけんだんをなす。兩方にかきちがへいだしあひたり。 (二四) 一 昔大御堂講正月十五日出仕の時、【殿】殿原衆左座、全人衆右座、二行に烈座す。 Ⅵ-0919(二五) 一 昔當所は、わが船にのせたるたびうとだにもなやます間、他人の船へかいぞくをかくる事、いふにをよばず。これによりて、四十九浦より縁々をひきて棰・つゝを入、のぼりくだりの旅人、荷物已下わづらいなきやうにをくりてたまはれなんと、浦々津みなとより、方々をさだめうけとりて、をくりならはする在所なり。それについては、役所のうはのりとさだめ、うらうらをその上乘といふ。このうらを知行するほど、ひくわんもあるぞ。 (二六) 一 堅田三方とは、北の切・東の切・西の切也。四方とは、今堅田をくわへていふ。北の切を宮の切といふは、當社、切のまん中におはしませば、みやをかたどりていふなり。この四方うちには、まづ宮の切、總領の切なるを、東の切より渡崎のちやうとは、とく、この地下のはじまりなればいふとあり。宮切より當所居はじめこの切なり。そのゆへは、居初といふこの切にあり。御里のちやうともいふ。そのうへ渡崎とは、衣川の川、かたゝまん中よりうき御堂のとをりへ川さきながれたり。その川さきなれば、それより東近江へ舟わたしをするすさきなれば、わたすさきにて渡崎といふといへり。東うらのそし、西の切西浦のそし、今堅田衆なり。宮の切のそしを中村のちやうにをかれたり。數度にをよびて東の切より北の切へとりかけられけれども、いづれのかちせんもまけられてかたれず。 (二七) 一 當庄は【【柳】】やない田の庄といふ。鴨領湖十二郡をⅥ-0920知行して、日供をそなへ、いまにたへせず。地下の侍に、三の名字をきぶねよりたまはる。いはゆる居初・刀禰・小月これなり。又宮へ出仕の時、四の村あり。本村・神主村・大村・新村これなり。本村へ居初黨ついて、まくにはてうしひさげの文あり。刀禰、大村へついて、さゝぶねのまるの文なり。小月、神主村へつきて、岩に松の文、新村は柳の文なり。次に鴨の大明神より、あをゑを當所へ總もんにたまはるとなん。むかしは殿原・全人雙方、かたぎぬにつけてきたり。 (二八) 一 【文德天皇の后】そめどのゝきさき、この浦へながされたまひてより、每月十八講とてあり。これに田地を御奇進あり、いまにたへず。 (二九) 一 すがのよし・おきのよしについて、かまくらどのにて、六角方・堅田兩方あらそひにてたいけつあり。六角どのは海より東地御知行也、堅田は湖十二郡を知行致、其成敗を仕り候とをりを申す。なをかたゝ侍、俗性王そんと、むかしより申つたへけることはりをおほかた申處に、六角どのは右座、かたゝ侍は左座にをかせられ、さぬきゑんざ重而 御前に祗候つかまつる。雙方問答きこしめさるゝ。そもそも、おきのよしと申すはと申しあげ候ひしを、はやきこへてあり。おきのよしといふなれば、かたゝ知行せいではと聞召分られ、問答にかちたり。やがてその時の侍、かまくらよりかへるを、六角どのより路次にてころされたりと。その時のさぬきゑん座、當大宮寶殿にこめられしとかや。かいのふるきをつゑにつき、百綴をき、なわをのあしだをはかせ、はわしろくふるきやぶれみの、やれたるすげがさをきせて、かたくななるすがたにて、地下の代にくだされたり。かゝるふぜいは、あみてうつをとりて、よをわたるさとにて、大きなるかゝりはⅥ-0921にやわぬといふ、このさとのていを、御目にかけんためなり。 (三〇) 文明九年に、御坊を新在家に、二間三間のくづやに造立ある御坊也。御地も法住寄進也。北郡福勝寺の堂百貫とあるを、七十貫文に買て、新在家の御坊に立申に、爰許山門領山法師、六借敷事を謂かくる間、明顯進上申、音羽に建させ玉ふ。 (三一) 馬場道場建立せんと思ひ、明應元年二月に、谷口大恩庵を買得せんとするに、料足不足にて不求得。其事 蓮如上人樣御耳に入し申候、爲御奉加二十貫文被下ける、難有拜領す。 (三二) 存如樣・蓮如樣、細々御下向の刻、御膳かよひを法住仕まうさる。御酌などもいささるゝ。 (三三) 永正四年六月廿【五日とも】四日、黑ぬりの御輿にて、 御開山樣・實如樣御下り也。[別記にあり] (三四) 叡山より、度々宗旨を妨るは、法の邪正をたゞさんにはあらず。末寺のやうにして禮錢などを取り、山門よりゆるさゞれば、佛像などを安置して、說法・度生もひろびろとならぬやうに振舞也。寛正六、大谷破却の後三年め應仁元、堅田へ御下向の節も、山よりのゆるしを得んために、大宮の鳥居の前に八十貫文つませたり。それをとる者、後惡しく果たりとぞ。此節本尊をⅥ-0922ゆるさるゝ也。其後、山門十六谷へ方々より三千貫入とかや。三十ケ年經て、西覺坊、本願寺より錢を取たる者、果惡しと語られける。かく末寺と申かけ、末寺役に每年三十貫文、三塔へ御登ある[西覺坊の支配とぞ]。三塔の外、飯室不動堂へ一貫五百文被遣。右の意趣は、 聖人は慈鎭和尙の御弟子也。無動寺尾崎の坊は鎭和尙の御坊にて、聖人もそれに御座あり。又かつての谷なれば、飯室へかよひ玉ひ、妙學坊に常に住せ玉ふ。故に燈明料として、今も每年飯室へ【不動堂へ】御寄進とかや。 (三五) 聖人配處御下向のとき、能登新まちへ御著有て、御本尊初てかけ玉ひ、新しく卷き玉ふ故に新卷と名付たるを、新まちとはかたことゝかや。それより極樂寺の道を切あけて通し申、道作りこゝにてきりとめければ、其村をきりとめといふと也。聖人、極樂寺に三日御逗留有をりふし、已講と云侍の内方まいりてかへつて云やう、いかさまたゞ人にてはなきと已講に傳ければ、已講もまいり聽聞して、あまりたふとさに、三十石の所を、永代 聖人に寄進狀在之。依之、近年若松殿御知行とかや。 (三六) 一 於當寺每月十八日御念佛御頭之事 正月 法西 二月 【兄】かぢや・【弟】道圓 三月 唯賢 四月 【次郎兵衞】法覺 五月 【法住拾】與五郎左衞門 六月 今堅田伴阿み 七月 外戸道場法覺 八月 眞野宿[老八人] 九月 和邇 十月 かうじや Ⅵ-0923十一月 大北兵衞 十二月 西浦大道の衆・【兄】彌太郎介・【弟】藤兵衞・【次弟】三郎太夫・【あぶら】又四郎衞門・【いをけの】尉 以上十二組 (三七) 當寺住持、從善道雖爲大谷殿御門徒、息覺念者、捨御流成禪宗、高德庵爲建立。高山・三上雙方之氏寺也。雖然法住自幼少之比、致歸參、累年御役勤被申、無繲怠者也。法住息明顯  間、法覺子與太郎巧出、堅田九組分、今堅田・眞野・普門・和邇・海津三組仁分合、年中十二箇月十二組仁分。至于今、 御本寺樣御役等被勤申訖。雖然地下隣郷彼老之非門徒。或一 、或彼知音、或不便組、計加、寄分號十二組。但當寺御式地者、覺念買德之永地也。本福寺江老衆 者、先正月御鏡料足五十錢・白米十合二升、幷二季彼岸燈明料五十錢、七月宇蘭盆五十錢・白米十合二升。同脇々者、正月・七月・二季彼岸仁、或卅二錢、或二十一錢宛捧被申畢。其外、折々の 不及記者也。仍而當寺尊敬被申次第如件。 (三八) 一 文明第三曆、賀州吉崎殿へ信證院殿樣御下向候。其時西浦法西道場へ夜に入、御出をなさる。法西は大野に入しことして、其子五郎二郎ばかりある所へ、法住・與二郎殿・與太郎・九郎二郎・兵衞太郎なんど御供申す。五郎二郎申すは、もしこゝもとに御坊御こんりうあらば、この地歸進可申と申に、山門のかたを御Ⅵ-0924らんぜられて、あれがちかいほどにとおうせける。さて賀州へ法住も御供申さるゝ路次、御みちすがら、打下おかやは法住門徒、海津桶屋[淨賢]法住門徒にて、ちいさく御座を、法住料足五貫文御下あり。御新造をつくり、 上樣を入たてまつり、御こしをやすめらるゝ。これのみならず桶屋屋敷廿貫にて買得の内、堅田川村方上乘にて拾貫文、法住拾貫文、兩方よりいだして、北國方の御一家衆御宿と法住より御耳に入て相さだめたまふ。かの桶屋、かみすりて法名淨賢といふ。さて法住御をくりたてまつり、のぼりたまひて、其後吉崎殿へ法住まいられけるにきこしめされ、そのまゝたびの體、そのまゝおもしろいぞ、いそがういそがう、勝事と、おそやおそや、とう法住にあはうものをと仰ける。妙住尼もまいられたり。北國かた御同行たちの、上樣の御意のよきをうらやましがられずといふことなし。なをなを其後兩三度御みまいをなし、罷下られたりとかや。 (三九) 一 文明四年 月 日、堅田新在家の御坊・御屋敷、法住買德して、北郡福勝寺道場七十貫に買取、こんりうあり。何も法住のはげみなり。 (四〇) 一 川内國出口殿へ、霜月報恩講に、法住・同與二郎殿・與太郎・二郎三郎・左衞門五郎・與五郎召つれて參給ふに、御かけじの御文をあそばされて被下。 根本の御影像、近松殿に御座候へども、報恩講出口殿にておはします。 生身の御影、眼前にあらはれたまふとあそばされたるは、 御寺樣の御影聖人の御事也。いまだ野村殿樣は御こんりうなき時節にて、御流のさうと、本福寺へ御下向已後、大津はまへ御座をかへたまひ、とかくありて、近松殿樣を御こんりうありて、 御本寺樣の御坊と御さだめありて、 生身の御影樣わたⅥ-0925したてまつりたまふ。上樣、出口殿を御こんりうありて、 生身の御影樣、近松殿に御座候て、出口殿へ御下向なく候へども、報恩講きんじまいらせられおはします間、法住のまづ善知識御座所へ祗候を御本意と思食て、 上樣御自筆にてあそばさる「御文」(御文章集*成一九三)には、 「夫今月廿八日は聖人の御恩德のふかき事、中々申せば大海かへりてあさし。依之いかなる卑夫のともがらまでも彼御恩をわすれん人は、誠以畜生にひとしからん歟。然ば忝もせめて、かの御影の御座所をなりともたづねまひりて、恩顏をなりとも拜し奉て、御恩德をも一端報謝申さばやと、いかなる遠國のものまでも此志をはこばぬ人はなきところに、幸に御近所堅田と申すは、其間三里ばかりある大津に、而も生身の御影眼前にあらはれ給ふところに、其御影をみすてまひらせて遙の河内國において、而も水邊ふかきあしはらの中へ尋まひられて祗候あるは本意とも存ぜぬ由、空念、法住に對して申候所に、法住其返答にいはく、御影の事はいづくにましますもたゞ同事なれば相かはるべからざる由を申るゝ間、しからばなにとて江州堅田邊にも御影はたれたれも安置申るゝ事なれば、はるばるの遠路をしのぎ是までまひられんよりは、たゞ御影はおなじ事ならば、そのまゝ江州堅田に御わたり候べしと申せば、かさねて返答もなくてそのまゝまけたまひけり。あら勝事や、おふおふ。」 [私に申候、御おとし字のごとくうつしとめ申候。又よみやうは慶聞坊龍玄のよみ申さるゝごとく御うらにつけ申候なり。] Ⅵ-0926(四一) 一 出口殿へ、正月五日、年始の御禮に法住まいり給ふに、雪ふかく、ゆきしまけにて事外のさむさ、日もくれにかゝり、老足のことなれば、岡といふ里にやどをとりてをき申、W家次R與次郎殿一人出口殿へまいりて、かくと申あげられければ、 信證院殿樣、言語道斷、あのとしよりをさむきところにすてゝをいたよな、いそぎ馬をむかいにやれとおうせられて、御きげんわろければ、卽御むかいの御馬を被下間、やがてまいられたり。法住のつかれたらば、そのたびのまゝまいられよと御使あり。御定にまかせて、じふとくにたまりたる雪をだにはらはでしこうあれば、老體のはるばるの遠路を、ふかき雪の中をしのぎまいるこゝろねを、せちなくおぼしめして、やがて御詠には、 このはるは やそぢにあまる としよりを さむきあらしに 身をおかぬさと とあそばしければ、やがてやがてと御意候間、十德の袖をもかいつくろわざるに、つゝしんでほうぢう申あげられけるは、 いのち程 めでたきものは あらじよも 又もまいりて おがむ君かな とつかまつられければ、御機嫌ぜひにおよばず。法住よわい八十あまりの時なり。御詠歌幷法住御返事二首を、 信證院殿樣御自筆にてあそばしたるを、ひきうしなわれたりとかや。 (四二) 一 上樣、これに時の大鼓うたせたきに、不斷香をもらせてみいてはとのたまふ。法住折節祗候にて御存知ないかと申、しらぬと仰ける。よく存知仕候者候間、尋てまいらんと申、まつぞと仰ける。野村殿より罷下られ、家次こじうとのまのゝしゆせん庵重阿をよび、よくとひすまさせられて、香番をさゝせて罷上り、 Ⅵ-0927上樣へ法住罷上候と申せば、きこしめされて、御亭の御をくへたゝせらる。しばらくのほどなれば、法住宿へ罷返る。 上樣まへのごとくに、香ばんは一ほしい時をうたせたけれども、ばんがありてこそと仰ける間、承て、ばんをやどより法住もちてまひれば、又おくへ御しやうじたてさせられ御たちある。このぶん、いくたびも上樣御たわぶれおはします。あるすきをみはからい申、香ばんを御目にかけられける。ばんはあれども、そのわけがあらふにと仰ける。法住御いるりのはいに、これまでかうたて、なん時なん時と申せば、なにとこゝろえゆかずやと仰ける。いくたびもいまのごとく申けれども御がつてんまいらず、これほどに上樣どんに御座かと法住まうさるれば、をかしくおぼしめされて、御たわぶれおはします。御ありがたき御宿えんなり。 (四三) 一 文明十一年極月九日の夜、ある男、馬場殿の御本尊へ參、ひざつき畏る處に、御年五十餘ばかりの御僧、うすずみぞめの御衣・御けさ・御じゆずもたせたまひて、佛檀よりをりたまふ。おがみ奉れば、御ゆびをさして、あのたつみの方にあり、御堂に佛入滅あるは參りておがめと仰ける。身のけいよだちたふとき間、參りおがみ申せば、一間間中四方の御堂、東の方はさまがうしとみえ、よはい八旬にあまらせ給ふほどの老 、御くちびるをあかせ給ひ、東向にものによりかゝり給ふをおがむとすれば、さめぬ。さてあくる十日の朝、人の申さるゝは、こよいのあかつきかたより、法住違例したまふと承ほどに、まいりてみまいらすれば、本Ⅵ-0928福寺道場のたつみの方にある小座敷に、法住くちをあかせたまいて、こしをいだかせ、ものによりかゝりたまふふぜいは、すこしもたがはせたまはず、殊勝にぞ存ずる。しかれば、十日より一七日をへ、十六日晝  に御往生の體、たふとくこそ候へとかたり申されける。 (四四) 一 延德三年極月七日の夜、ばゞかうじやとあぶらやとの間に火いでゝ、本福寺炎上す。なかにもをしきは、一亂にだにうしなわぬりうこたんをやきつる事よ。しかれば、爰元にのこる宅なし。あまりのさわぎに、妙住の御めいに小梅女といふ、尼になりて妙讚といふ、その子しやくの女はいまうして、子をさかさまにおうて、新在家わたしばまでゆきたり。下になくこへしたれば、きゝつけ、をびをときみれば、あんのごとくさかさまにをうたり。この子は、同年の三月晦日むまれたり。法住・妙住のひこなればとて、當國日吉大夫、山王の猿のなをかたどりて、猿千代とつけたり。 あくる明應元年二月 日、谷口大恩庵をかい申さんとすれば、料足たらず、 上樣へ百疋御借錢をと申せば、やがて被下て、御奉加と仰ける。冥加なく存、色々辭退仕れば、しらぬ、こざかしき事を申す。思食さるゝ子細ある。明顯にはとらせぬ、聖人へ寄進と御定おはしませば、再三にをよばず御意にしたがひ申す。御そうしや、するがどのなり。先年御下向の時、山田殿樣をば、へい御れう樣と申、 敎恩院殿樣をば、あか御れう樣と申。するがどのは乙千代殿と申に、乙千代どの、一度あしたの御つとめに、あいまちにとりはづ〔して、をより入て、あひたまはず。御目さめ、おきのたまひて、われをおこいて人の〕くれぬとて、なきい〔たまひたり。〕 Ⅵ-0929(四五) 一 道幸夢相物語の事 當社大宮に後生の大事をいのり、百度詣をせしに、夢相をかうむる比、 年 なり。そのまんずる夜のあかつき、御殿の大庭にいさごのうへに、□…□とこをしき居て、あまりのくたびれに、すいめんのこゝち、□□にゆめかうつゝか、御殿の御戸をひらき、ようがんびれいの男、あさぎのひたゝれにゑぼうしめしつゝまみえ給□、汝後生の義をきせいす、こよと仰ける間、仰に□…□まいれば、これよこれよ、ゆきてとへとて、我等がそて……