Ⅵ-0875三河國專修念佛根源事 合 建長八年W丙辰R十月十三日に、藥師寺にして念佛をはじむ。このとき眞佛聖人・顯智聖・專信房A俗名彌藤五殿下人B彌大郎男、出家後隨念[云々]C、そうじて主從四人御上洛のときWやはぎの藥師寺につきたまふR。御下向には、顯智聖は京のみもとに御とうりう、三人はすなはち御くだり。ときに眞佛上人おほせにて、顯智坊のくだらんをば、しばらくこれにとゞめて念佛を勸進すべしと。おほせにしたがひて、顯智ひじりおなじきとしのすへに御下向のとき、權守どのA出家の後B圓善御房と[云々]CのもとにわたらせたまふWかのひのへたつよりつちのへむまにいたるまでそうじて三年、このあひだ藥師寺より稱名寺にうつりたまふ、正嘉二R。こゝに御のぼりのとき、顯智ひじりの御すゝめにて、權守殿の嫡子袈裟大郎殿W出家して信願坊R、念佛、法名、出家、ともに顯智聖の相傳なり。そのほか御居住のあいだに、念佛に入る人數名帳事。 監帳次郎[二人] 三郎大夫[二人] 庄司大郎[二人] 田俟四郎[二人] 渡次郎[二人] 檢校Ⅵ-0876太郎[二人] 實成坊[二人] 彌王次郎[二人] 權次郎[二人] 光信坊[二人] 善性坊[一人] 入願坊[一人] 光圓坊[二人] 藤四郎[二人] 彌五郎[一人] 彌四郎[一人] 彌藤次[一人] W女性はR彌勒御前 鶴宮御前 乙王御前[一人][みなゆふくんなり] たゞし、乙王御前にしさいあり。かみの袈裟大郎どのともに、そうじて三十五人也。このなかに庄司大郎どの、顯智聖を平田にいれまいらせて道場たつ[正嘉元W丁巳R][いまくわこせんぞ也]。 つぎに信願御坊、あうみの庄あかそぶにして、またはじめて道場をたつ。そののち、國中の道場はんじやうするところなり。 また三河より高田へまいるひとびとの事。 東殿の御前御年十歲、御ときW故聖の息女也R・性善坊[和田の敎圓坊の兄也]・樂智、これに高田にとゞまて死去[その門流田舍にあり]。同十三御歲、慶願[桑子の坊主]・了念W二人ともに出家、法名、顯智ひじりよりたまはるR、すなはち顯智聖のおんともして、たかだにまいる。また佐塚の專性[いまえちぜんおほのゝせんぞ也]、同十七の御とし、道空坊夫妻ともにまいる。 いま三河の念佛弘通のみなもとをしるすことは、高田の顯智ひじりのおんものがたり、ならびにあかそぶの信願ひじりのいにしへのおんものがたりにつきて、Ⅵ-0877たいがいばかりをしるすところなり。こゝろあらん人、このをもむきをもて存知あるべきもの也。このほか、和田の信寂ひじり、いにしへをしたひ、夫妻ともにたかだへおんまいりの事れきぜん也。したがひて、あま性空のおんばう、念佛さうでんによりて、顯智ひじりのみえいあんちの事れきぜんなり。しかれば、寂靜のおんばうにいたるまで、しさいありし事どもなり。 建長八年W丙辰Rより貞治三年甲辰まで百九年。つぎのみのとしよりひらたのだうぢやうはじまる、たつのとしまで百八年也。法然上人、辰まで百五十三年、親鸞上人、辰まで百三年。 貞治三年W甲辰R九月二日