Ⅵ-0797大谷廟堂創立時代文書 (一) 大谷屋地手繼所持目錄 一 藤原氏女、賣券一通W寛喜二年二月廿三日R 一 源氏女、祖母御前に賣券一通A嘉禎三年B七月十三日C 一 小河氏女、字姫御前に賣券一通A延應元年B八月十五日C 一 買入奧地、比丘尼、源氏女に賣券一通A寛元四年B四月廿三日C 一 平氏女、奉沽却禪念御房券一通A正嘉二年B七月廿七日C 一 禪念御房、覺信御房に讓御狀一通A文永十一年四月廿B七日、又下人等事、B一通別有之C 一 親鸞上人御墓所の爲に、故覺信御房被寄進狀四通 此内 一通者、建治三年九月廿二日、下總國さしまの常念坊給置之。 一通者、建治三年十一月七日、常陸國ぬの河の敎念坊幷高田顯智坊預置之。 一通者、弘安三年十月廿五日、飯沼善性房子息智光坊幷善性房同朋證信房兩人之中へ、於大谷坊被出之了。 若正文有入事之時者、此人々許へ可被尋者也。 一 弘安三年十月廿五日、本券等は御廟留守子孫に預置之由、覺信御房御狀一通あり。W智光坊當時所持之歟R 一 親鸞上人御廟沙汰事、【其時名字專證也】覺惠に被仰置、亡母W覺信御房R御狀一通A執筆B弘雅阿闍梨C弘安六年十一月廿四日、此日東國人々中にて披露了。 以前寄進狀案文等、皆是に書寫而所持者也。爲後日存知記之。 Ⅵ-0798(二) 沽却 領地壹處事。 合壹戸主[積伍拾丈者]A口南北伍丈貳尺B奧南北肆尺C[東西拾丈者] 在今小路末南 西大路東面 右件地者、去建保年中、自亡母按察局之手、所讓得也。而依有要用、限直錢貳拾貫文、永所沽却藤原氏也。於本券者、依有類地、不及副渡、仍所立新券文也。更不可有後日他妨之狀、如件。 寛喜二年二月廿三日 賣主藤原【【在判】】氏 (三) 沽却 領地壹處事。 合壹戸主[積伍拾丈]A口南北伍丈貳尺B奧南北肆丈肆尺B東西拾丈者C 在今小路末南 西大路東面 右件地者、去寛喜二年二月之比、自藤原氏女之手、以直錢貳拾貫文、限永代所買得也。其旨明白彼賣券也。而今依要用、相副之間、屋一宇於件地、限直錢拾七貫文、限永代相副彼賣券、所沽却祖母御前也。若後日致其妨之人出來之時者、可返與件直錢。又各雖一期之後、致沙汰之輩出來者、爲件人之沙汰、可返與直錢也。仍爲後日之證文、立新券文之狀、如件。 嘉禎三年七月十三日 源氏女[在判] (四) うりわたす、ち、い所の事。 合ひとへぬし[つもり伍十丈] A口南北五丈二尺B奧南北四丈四尺C[東西拾丈] 但代々本券には、東西拾丈[云々]。しかれども、おほぢのついぢをくづすによりて、北の寄、南の寄、東西拾丈餘也。本券文、丈寸には過分也。加參間貳面屋壹宇。 右件屋地者、小河氏女相傳所領也。而依有直要用、錢Ⅵ-0799貳拾貫文に字ひめごぜんに、限永代所券沽却、實也。若件地に責申て出來人候はゞ、本錢をも返、又沙汰をもして、たてまつるべき者也。委子細者、見本券文。仍爲後日沙汰、證文之狀、如件。 延應元年八月十五日 小河氏女[在判] 嫡女[在判] (五) 賣渡 おくのくづれの地事。 合W北のより東へ一丈、南のより東へ八尺、南のそいのかしゐの木のそいに、さかいのくひありR 右件地、依有要用、於源女、限永代錢壹貫、所賣渡、實也。不可有他妨。仍爲後日沙汰、立新券文之狀、如件。 寛元四年四月廿三日 比丘尼[在判] (六) 沽却 屋地壹處事。 合壹戸主餘[積伍拾壹丈] 口南北伍丈貳尺五寸 奧南北四丈五尺 奧東拾壹丈伍尺 在今小路末南W限西大道限北類地RW限東堺くひ限南類地R 右件屋地者、平氏女相傳之私領也。雖然依有直要用、于錢捌拾貫文、限永代、禪念御房、相副手繼四通、奉沽渡事、實也。更以不可有他妨。若向後違亂出來者、可奉返直本錢者也。仍爲備後代龜鏡、放券文之狀、如件。 正嘉二年七月廿七日 たいらの女[在判] さいしん[在判] Ⅵ-0800(七) おほたにのやちのほんけむ五まい、まいらせ候。このふみをてつぎにて、たのわづらひあるまじく候。【ゆいぜんが名】一みやうばうにはゆづりたはうたはじは、御心にて候べし。ゆめゆめべちのわづらひあるべからず候なり。 文永十一年四月廿七日 在判 かくしんの御房へ (八) おほたにどのより、とし十六になり候ひわをんな、あづかりまいらせ候ぬ。いつにても御ようとおほせ候はんをりは、いそぎかへしまいらせ候べく候。もしわがみしになどして候とも、あとに候はん女ばうも、又でしともしりたる事にて候へば、御たづね候てめされ候べく候。あまごぜんのしなせ給て候ととも、ゆづられさせ給て候はんきんだちにても、こわせ給はんときは、さうゐなくまいらせ候べく候。のちのせうもんのために、かく申をき候なり。 けんぢ三ねん十一月一日 によしん(花押) (九) きしんすち、いちの事。 あり、おほたにのそうもんのみなみひんがしのつら。しゝ、さかいは、ほんけんにみえたり。 みぎくだんのちは、あまかくしんがさうでんのところなり。しかるを、こしんらん上人は、かくしんがちゝにてをはしますゆゑに、むかしのかうばしさによて、上人の御はかどころに、ながくゑいたいをかぎて、きしんしたてまつる物なり。かくしん一ごのゝち、このところをあいつがんすゑずゑの人、ほんけんをたいして、しそむたりといふとん、ゐ中の御どうぎやうの御心ゆかずして、こゝろにまかせてうりもし、又いらんなさんともがらは、はやくふけうにそせられて、ざいⅥ-0801くわにをこなはるべし。又しんらん上人の御でしたちの御心にかないて候はんものをば、この御はかどころを、あづけたひ候て、みさばくらせられ候べし。まつだいまでも、御はかをまたくせんために、きしんのじやう、くだんのごとし。 このやうをかきて、さきに、さしまのじやうねんばうに、ゐ中のどうぎやうの御中へ御ひろう候へとて、たてまつりて候しかば、をなじ事にて候へどん、どうぎやうおほくをはしまし候へば、いまだしらせ給はぬ人もをはしまし候らんとて、けんちばう・けうねんばう、なを御ひろう候へと思て、をなじ事を又かきてまいら候うへは、こゝまつだいまでも、上人の御めうだうの御ちとさだめて、ゆめゆめたのさまたげあるまじく候。もしこの御めうだうあづかりて候はんずるあまがすゑずゑの物どんも、このちをうりもし、七にもをきて候とん、ゆめゆめもちゐられ候はで、このふみをもんそとして、ゐ中の御どうぎやうたちの御はからひにて、をさへてくげ・ぶけへそせうをいたして、御はかのちになさるべし。そのうへ、べちのざいくわにも、をこなはるべし。ほんけんならびに、だいだいのてつぎどもをも、このふみにぐして、御どうぎやうの中へまいらすべく候へどん、きやうへんのちのならひ、さかいろむなどんもつねに候時に、この御はかあいつぎて候はんずるあまがこにあづけをきて、さかいのあきらめⅥ-0802をもせさせ候はんために、ぐしてもまいら候はず候也。 のちのせうもんのために、かきをき候也。 けんぢ三ねん十一月七日 【あまかくしん】(花押) しんらん上人のゐ中の御でしたちの御なかへ まつだいまでも、ゆめゆめわづらいあるまじく候へどん、せめての事にかくまで申をき候也。 (一〇) きしんすちの事。 あり、おほたにのそうもんのみなみひんがしのつら。しゝ、さかいは、ほんくゑんにみへたり。 みぎくだんのちは、あまかくしんがさうでんのところなり。しかるを、こしんらん上人は、かくしんがちゝにてをはしますゆへに、上人の御はかどころに、ながくゑいたいをかぎて、きしんしたてまつるものなり。かくしんいちごのゝち、このところをあいつがんすゑずゑの人、ほんくゑんをたいして、しそんたりといふとも、ゐ中の御どうぎやうたちの御心ゆかずして、心にまかせてうりもし、又ゐらんなさんともがらは、はやくふけうにそせられて、ざいくわにをこなはるべし。又しんらん上人の御でしたちの御心にかないて候はんものをば、この御はかどころをば、あづけたひ候て、さはくらせ給候べし。まつだいまでも、御はかどころをまたくせんために、きしんのじやう、くだんのごとし。 弘安三年WかのへたつR十月廿五日 あま覺信[ありはん] 【唯善童名】一名丸[ありはん] 【覺惠本名】專證[ありはん] しんらん上人のゐ中の御でしの御中 (一一) こしんらん上人の御はかの地の本くゑんてつぎを、ゐ中の御同行の御中へ、まいらすべしといゑども、京のならい、さかいさうろんなども候へば、この御るすしⅥ-0803候はんずるあまがこどもにあづけをき候て、あきらめをもせさせ候はんためにあづけをき候也。ぜんねんの御房のかくしんにゆづりたひ候御てつぎばかりを、あんをかきて、うらにはんをしてまいらせ候。のちのためにかきをき候ものなり。 弘安三年十月廿五日 あま覺信[ありはん] (一二) おほたにのこしんらん上人の御ゑいだうのしきちの事。きしんのじやうをかきて、ゐ中の御でしたちのなかへいだしをはりぬ。たゞしこのところのるすしきにおきては、せんせうばうに申つくるところなり。はやくこのふみをてつぎとして、くわんれいせらるべし。それの一ごのゝちは、又こどものなかにもきりやうをはからひて、すゑのよまでもしだいに申つけらるべし。上人の御ためにもあまがためにもその御すへたらんともがら、このところをあひつぐべきうへは、ゆめゆめたのさまたげあるべからず。かやうに申をくうへは、もしいかなるゐらんを申人ありとも、はやくくげ・ぶけにうたへ申て、しだひにおきては、きしんのじやうにまかせてもんていのくわんれいとし、るすしきにをいてはこのじやうをまもりて、あまがしそん、ながくあひつぐべきものなり。よてのちのためにじやう、くだんのごとし。 こうあん三ねんかのへたつ十月廿六日 あまかく【【(花押)】】し□ せんせうの御ばうへ Ⅵ-0804(一三) 御念佛衆之中に令申候。抑國々故上人之門徒人々、每月廿七日御念佛用途、雖爲乏少、相はげみ候之處、時々闕怠之由、歎存候。所詮候。彼用途をば大谷の覺信御房御方におかれ候て候はゞ、念佛衆けだい候はゞ、他僧をも請じて、可被勤修其役候。以此旨衆徒之中に可有御心得候。恐々謹言。 十一月十一日 信海(花押) 顯智(花押) 光信(花押) 念佛衆御中へ (一四) 一日けんざんにまかりいりて候し事、よろこびいりて候。かねては又、そくしやうの御房の御けうやうれうのこり候物せん五すぢまいらせ候。御はかの別當分にてわたらせ給あひだ、そのむねを存じ候てまいらせ候。又これにとしごろふびんにおもひ候かくぜんと申候ばうの、みをいたわり候を、かんびやう人をそへ候て、御へんにまいらせおき候はん□ぞんじ候。やどのいぶせく申候あひだ、たゞしへんしての事は候はず候へども、みやう日これはたつべく候あひだ、おそれおそれこのやうを申候。恐々謹言。 十一月廿四日 信海(花押) 專證御房 又みはまづしく候へども、同行にて候あひだ、としごろふびんにおもひ候ものにて候。又唯信の御ばうもとゞまられ候。しんかいばかりくだり候。 (一五) 十一月十八日より、のどのやまひをし候て、いまはこのたびぞおはりにてさふらへば、ゐ中の人々のけざむもことしばかりぞ、けざんのかぎりにてさふらひけるとおぼえて、しゆくごうのほどもふしぎにおぼえて候。Ⅵ-0805さてはこのしやう人の御はかの御さたをば【覺惠本名也】せんせうばうに申をきさふらふなり。あまが候つるほどは、ゐ中の人々の御心ざしのものにて、このものどもをば、はぐゝみ候つれども、いまはいかゞし候はんずらんと、心ぐるしくおぼえ候。た・はたけもゝたず候へば、ゆづりおく事もなく候。たゞいかうゐ中の人々をこそ、たのみまいらせ候へば、あまがさふらひしにかはらず御らんじはなたれず候へかしとおぼえて候。めんめんへ申べく候へども、さのみはんをし候はんも、わびしく候て、みなみなをなじ事に御らん候へとて、ひとつに申候也。あなかしこ、あなかしこ。 弘安六年十一月廿四日 覺信[ありはん] ゐ中の人々の御中へ (一六) 三尊寺敷地西堺、與本願寺敷地東堺、傍示事。於北寄者、根本杭有之。南寄傍示、以兩方和與之儀、打堺杭訖。而本願寺前屛參尺貳寸伍分、作入于三尊寺領畢。雖須破取屛作入分、彼此爲堂領之間、申談子細於三尊寺領主、所乞請也。要用之時者、自他可守堺杭者也。仍爲後日狀、如件。 弘安拾年八月廿九日 慈空(花押) (一七) 大谷南地本券手繼目錄事。 合 一通 藤原賣于源氏女狀W嘉禎三年八月六日R 一通 尼照阿W號源氏女是也R讓于慈信上人狀A文永四年B二月十一日C Ⅵ-0806一通 澄海W慈信上人是也R讓于禪日坊狀W弘安元年十月三日R 一通 良海W禪日房是也R沽却于【親鸞上人御假名也】善信上人遺弟中狀W永仁四年七月十七日R 右都合四通所目錄、如件。 永仁六年九月廿五日 (花押) (一八) 沽却渡 大谷地壹處事。 在 口伍丈奧同A南之面拾參丈伍尺B北面拾丈七尺C 右件地一處者、自故母所讓給也。而今依有直要用、錢拾七貫文、源氏女所沽却渡、實也。但雖可本券副渡、依相交他事、不副渡は、此狀爲新券、可被備向後證文。努々不可有他妨之狀、如件。 嘉禎三年八月六日 藤原(花押) (一九) おほたにのち、一へぬしあまり、二けん二めんのだう、 三けん四めんのいゑ、じゝの御ばうへゆづりまいらせ候。 又にしやまのた、三たんぐし候。これはせんたうの御さうせちなり。くはしきことは、けんにのせたり。たにんのさまたげあるべからず。あなかしこ、あなかしこ。 ぶんゑい四ねん二月十一日 せうあみだぶ在判 (二〇) 大谷庵室幷敷地、釋迦・彌陀二尊、善導和尙眞影、桂田等相具本券等、附屬禪日房。又生縁法師字小法師童、同附屬之。更不可有他妨之狀、如件。 弘安元年十月三日 澄【【在判】】海 (二一) 沽却 大谷地壹處事。 在A自今小路末南B七觀音大道之東頰C 祇園林艮方 四至A限東越中律師領B限南大進法眼領C A限西大道B限北善信上人 御影堂地C 口伍丈、奧同A南寄東西拾參丈五尺B北寄東西拾丈七尺C Ⅵ-0807右件地者、自先師慈信上人之手、相副代々手繼、良海得讓而多年所居住之私領也。然依有要用、直錢佰貫文に、限永代、爲善信上人御影堂敷所擧、賣渡彼遺弟御中、實也。更不可有他妨。雖須相副代々本券、於尼照阿幷先師二代之手繼者、他事多相交之間、不副渡正文書、案文封裏兮渡進之上者、手繼相承之儀、敢不可有子細、隨則所帶正文に被買取之由、令裏書給畢。不可有違亂者也。向後若號子息、或稱門弟、致妨之輩出來之時者、可被處罪科也。仍爲後日龜鏡、放券之狀、如件。 永仁四年七月十七日 良海(花押) (二二) 僧唯善謹言上。 欲早任由緖相傳道理、下賜安堵 院宣、被停止源伊律師等非分競望、大谷坊地間事。 右件坊地者、親父禪念相傳私領也。而吾祖□親鸞、爲法然上人弟子、傳淨土深義、勸□□淺機。仍禪念以歸敬佛法、祖師沒後、於別相傳大谷敷地、去文永第九曆、與門弟等合力、建立一草堂、安置彼影像。同十二年死去畢。唯善爲一子之間、相傳管領以來、云坊地云影堂、已送數十箇廻之星霜者也。爰員外非分之Ⅵ-0808輩、動寄事於左右、致希望之條、存外之次第也。所詮停止猛惡非分競望、唯善永爲全相傳管領、欲申賜安堵院宣。仍粗言上、如件。 正安三年十二月 日 (二三) 親鸞上人影堂敷地事。依山僧之濫妨、唯善歎申之間、雖被下 院宣、所詮任尼覺信置文、門弟等沙汰、不可有相違由。依 院宣所仰、如件。 正安四年二月十日 參議(花押) 親鸞上人門弟等中 (二四) 親鸞上人影堂間事。門弟沙汰、不可有相違之由、被仰許候也。其外無異子細候。唯善に宛賜候 院宣も、無被棄破之義候也。其次弟、見參之時令申候了。恐々謹言。 四月五日 有房 (二五) 親鸞上人御影堂敷地事。任故覺信御房置文、進退不可有相違之由、宛御門弟等、忝被下 院宣任之條、尤以畏入候。早安置門弟等中、殊可奉尊仰候者也。然者如日來、覺惠御房御影堂之御留守、更不可有相違。此旨等可有御存知候。仍連署之狀、如件。 正安四年四月八日 順性[在判] 直信[在判] 鏡願[在判] 妙性[在判] 來信[在判] 敬信[在判] 導信[在判] 唯淨[在判] Ⅵ-0809信淨[在判] 乘一[在判] 慶西[在判] 光信[在判] 明信[在判] 敎覺[在判] 西光[在判] 法智[在判] 信入[在判] 覺念[在判] 西善[在判] 證信[在判] 覺明[在判] (二六) 御札畏拜見仕候了。抑 院宣畏罷預候。無懈怠可奉安置候。兼又、用意事、任御日限、十日者欲令進上之處、旁依不取敢候。一昨日[十三日]是分拾貫文者、ふうきたへ送置候了。猶々、日限違期候、實非本意候。將又、智光御房御傳承候了。每事省略仕候了。恐々謹言。 卯月十五日 沙彌順性(花押) 進上 覺如御房[御返事] (二七) 親鸞上人の御影堂の敷地等の事。故尼御前W亡母覺信R御影堂にきしんせられて、としひさしくなりぬ。手繼證文等をば御ゑいだうのさたせんする子に帶せさすべしと、かきをかれたり。それにつきてへいぜいの御自書の狀Ⅵ-0810ならびに最後のをき文に、御はかのさたをば專證房に申おくなりと、ゐ中の門弟等の中へ、おほせられおきたるによりて、手繼證文等を帶して、御影堂W方御墓是也Rの留守さうゐなくて、すでにおほくの年序をへ畢。又南の地は、國々の門弟合力して御影堂の敷地のためにとてかいよせたり。かのうりけんも覺惠帶すべしと門弟等申によりて、所持之。しかれば、御影堂の敷地南北の文書等、弟子たるによりて覺如房に渡之。これらを帶して御影堂の留守職さらにさうゐあるべからず。かつはこのむねを別紙にのせて、國の門弟の中へも申おくものなり。後々末代までも御ゑいだうの留守におきては、あへて他のさまたげあるべからず。爰唯善事をさうによせて、禪念房のゆづり狀を帶するよし、不實を構て一身にあてゝ 院宣をかすめたまはりたるよし、そのきこへあるによりて、故尼御前のきしん狀にまかせて、門弟等の中へと 院宣を申なをしたり。彼 院宣の正文は門弟の中へわたし畢。然者、彼 院宣をあがめたてまつりて、覺惠日來にかはらず、御ゑいだうのるすさうゐあるべからざるよしの門弟等連署有之、同本券等にあいそへて所渡之也。世間不定のうへ、やまいおもき身なれば、自然の事もこそあれとて、かねて如此かきをく狀、如件。 正安四【壬寅】年五月廿二日 覺惠(花押) 覺如房へ (二八) 親鸞上人の御影堂御留守の事。覺惠が候つるにかはらず、みはなたるまじきよし、國々の御門弟の中へ申おく也。それにつきては、故覺信御房の御事、おおほせおかるゝ上人の御自筆の御せうそく、又この御影堂の敷地の本券證文幷具書等、ことごとくこれおわたすもの也。故覺信御房の狀、これらの證文等は、覺惠帶べきよしのいわれをかきのせられたるによりて、年來帶Ⅵ-0811し候つる也。而世間不定のうゑ、病おもき身なれば、にわかにめをふさぐ事もこそあれとて、かねてかやうにかきをく狀、如件。 正安四【壬寅】年五月廿二日 覺惠(花押) 覺如房へ (二九) 親鸞上人の御影堂御留守の事。故覺信御房のかく惠に申つけられたるむねを、年來之間たがへられず候つる事、これまでも佛法の恩德不可思議の事に候。それにつきては世間不定のうゑ、覺惠重病の身に候へば、にわかにめをふさぐ事もこそ候へと存候て、かねて御ゑいだうの御るすの事は覺如房に申つけ候也。かく惠が候つるにかわらず、御らんじはなたれず候へかしとおぼへ候。かやうに申をき候はずとも、よも御らんじはなたれ候はじとぞんじ候へども、心ぐるしく候あひだ申候に候。めんめんへ申べく候へども、同御事に候へば、このふみをひとつに申候也。くにぐにの御同行たち、おなじ御心に御らん候べく候。あなかしこ、あなかしこ。 正安四年五月廿二日 覺惠(花押) 國々の御門弟の御中へ 嘉元四年十一月二日 覺惠(花押) (三〇) 嘉元元年九月 日、被禁制諸國橫行人御敎書稱、號一向衆成群之輩橫行諸國之由、有其聞、可被禁制W云々R。因茲混一向之名言、不論橫行・不橫行之差別。一向專Ⅵ-0812修念佛及滅亡之間、唯善苟依爲親鸞上人之遺跡、且爲興祖師之本意、且爲糾門流之邪正、申披子細、忝預免許御下知畢。早以此案文、披露于地頭方、如元可被興行之狀、如件。 嘉元二年十二月十六日 沙門唯善 顯智御房 (三一) 親鸞上人影堂幷敷地事。任尼覺信置文、覺惠帶安堵 院宣、留守職無相違。仍覺惠以當所申付覺如畢。爰唯善無故致非分之押領之間、就訴申可停止彼押領之由、度々雖被仰遣之、一切不敍用之條、自由之至、太以不可然、云敕裁、云別當宣、違背之科、無所遁歟。此上者、早任相傳、先可進退領掌之由、可令下知彼門弟覺如等給候旨、別當殿仰所候也。仍執達如件。 延慶元年十一月卅日 前丹後守爲淸[奉] 進上 高倉大忠殿 (三二) 親鸞上人門弟覺如等、與唯善相論影堂幷敷地等事。兩方申趣雖多子細、所詮如財主尼覺信寄進狀者、可爲上人門弟進退旨分明也。隨而唯善可相傳領掌之由、竊雖申賜 院宣、門弟等捧覺信寄進狀等、申披子細、預二代 敕裁、蒙使廳裁許畢。唯善猶押領之條、不可遁違敕之科。就中背亡母覺信之遺誡、入置敷地於質券之條、招不孝之咎者歟。唯善有亡父禪念之後狀、頻雖申子細、令懇望門弟等之狀等已以歷然也。以禪念之後狀可破覺信之寄進狀者、唯善何可令懇望門弟等哉。加之以關東御下知雖申子細、彼御下知全非影堂敷地相論之上、唯善爲門弟等之代官、令申沙汰之條、兩方所進之前後狀等炳焉也、非唯善自專之證歟。又號門弟等者、僅五、六輩擯出之族也。更非總衆之由、唯善雖申之、顯智・順性・信寂以下門弟等數千人、令散在諸國之上、覺信寄進狀・唯善懇望狀以下、二代 敕裁・使廳成敗狀等、Ⅵ-0813皆以帶之、爲總衆之條、不可有御不審之由令申之條、非無其謂歟。早任本願主覺信之素意、爲門弟等之進止、可專祖師之追孝。於覺信之子孫等之許否者、宜在門弟等之意歟者。依 靑蓮院法印御房御氣色、執達如件。 延慶二年七月十九日 法眼[判奉] 親鸞上人門弟等御中 追申 本願主覺信之素意、專爲全上人之影堂W云々R。而相論之最中、唯善潛渡影像・遺骨於他所之條、太以不可然之間、急可返渡之由、度々被仰下畢。可被存知之由、同被仰下候也。 (三三) 親鸞上人影像・遺骨・石塔等事被申之趣、令披露之處、相論之最中、唯善潛取隱影像・遺骨於他所之間、如元可返置之由、度々雖被仰下、遂以不敍用、剩又破取金物・石塔等、逐電不被知食在所之上者、無據于尋沙汰。所詮彼影像者、爲門弟顯智等之造立W云々R。然者爲顯智以下門弟、念佛可專追孝之由、被仰下候也。仍執達如件。 延慶二年七月廿六日 法眼(花押) 親鸞上人門弟御中 (三四) 親鸞聖人御門弟御中令懇望條々事。 一 每日御影堂御勤、不可闕怠事。 一 不可背財主尼覺信建治・弘安寄進狀事。 一 自御門弟等御中、縱雖被申付御留守職、於相背御Ⅵ-0814門弟御意者、雖爲一日片時、被追出影堂敷内之時、不可申一言子細事。□…□ 一 御門弟等忝被賜兩御代 院宣幷廳裁、本所御成敗之上者、雖爲留守職、一切不可申子細事。 一 於向後者、任本所御成敗之旨、不可背御門弟等御計事。 一 以私所取之借上、不可奉懸御門弟等事。 一 聖人御門弟等者、縱雖爲田夫野人、任祖師之遺誡、全成蔑如之思、不可致過言事。 一 雖被申付影堂留守職、全不可成我領思事。 一 自御門弟御中賜御狀之時、以彼文章備後日之龜鏡、不可申子細於御門弟御中事。 一 影堂敷内二招入好色傾城等、不可酒宴、自他共可禁制事。 一 不蒙御門弟免許、細々下向諸國、或稱勸進、或號不諧定員數、不可奉謟御門弟事。 一 奉對諸國御門弟、不可自稱有忠節由事。 以前條々、雖爲一事、不可背御門弟御計。現不調不善、或於背財主尼覺信寄進狀幷兩御代 敕裁・使廳成敗・本所御下知等者、爲御門弟等御計、不廻時日、可被追出御影堂敷内者也。且唯善坊敵對御影堂幷御門弟等、現種々不調、或以御影堂敷幷房舍等入質券、或拾置御書狀等備後日之龜鏡、雖掠申子細、旣被棄置之上者、雖無子細、今覺如おも准彼唯善、自御門弟御中、御恐之間、所出此狀也。雖向後令敵對于御門徒、稱有證文、以門弟之御書狀等、若有申子細之事者、皆悉被處今案之謀計、努力努力不可有敍用者也。如此乍出狀猶以後日申子細者、以此狀爲證文、本所幷 公家・武家之被訴申、可被處遠流之重科。抑上件條々等、於覺如者、自元無其企、雖不現不調、倂爲未來如此出狀者也。若僞申者、總三朝淨土高祖、別蒙祖師聖人之冥罰、而□失現當之悉地。仍爲未來之龜鏡狀、如件。 Ⅵ-0815延慶二年[己酉]七月廿六日 覺如[在判] (三五) 親鸞上人影堂幷敷地等事、門弟等與唯善相論之間、被尋究眞僞、任證文之道理、門弟等可進退之間、被裁許了。爰唯善無理之間、可被棄捐之子細、遮依令存知歟。御沙汰之最中、盜隱影像・遺骨、剩破取堂舍・庵室之條、雖爲希代之珍事、則逐電之間、依不被知食在所。無據于尋、沙汰之上、彼影像者爲門弟顯智等之造立W云々R。然者爲門弟等之沙汰、造立影像安置所殘遺骨、守本願主覺信素意、全影堂可興行念佛之由、被仰下了。依之於影像・遺骨之安置者、顯智存生之時、去年雖致其沙汰、至堂舍・庵室之造營者、未及其沙汰之處、法智以下門弟等終造營之功W云々R。彼是共急速之功、殊所被感思食也。倍興念佛之勤、可專追孝之志由、所被仰下也。仍執達如件。 應長元年十一月廿八日 法眼判[奉] 親鸞上人門弟御中 (三六) 親鸞上人門弟等、與唯善相論影堂幷敷地等事。兩方申趣雖多子細、所詮如財主尼覺信寄進狀者、可爲上人門弟等進退之旨分明也。而唯善可相傳領掌之由、雖申賜 院宣、門弟等捧覺信寄進狀等、申披子細、預二代 敕裁、蒙使廳裁斷了。唯善猶押領之條、不可遁違 敕之科。就中背亡母覺信之遺誡、令質券敷地之條、招不Ⅵ-0816孝之咎者歟。唯善稱有亡父禪念後狀、頻雖申子細、爲覺信於財主、可守彼寄進狀之條、唯善承伏之上、令懇望門弟等之狀等、已以歷然也。以禪念之後狀可破覺信之寄進狀者、唯善何可令懇望門弟等哉。加之以關東御下知雖申子細、彼御下知全非影堂敷地等相論之上、唯善爲門弟等代官、令致沙汰之條、兩方所進前後狀等炳焉也、非唯善自專之證歟。號門弟等者、僅五、六輩擯出之族也。更非總衆之由、唯善雖申之、顯智・順性・法智・信寂以下門弟等數千人、令散在諸國之由、載訴狀之上、覺信寄進狀・唯善墾望狀以下、二代 敕裁・使廳成敗等、皆以帶之、爲總衆之條、不可有御不審之由令申之條、非無其謂歟。早任本願主覺信之素意、爲門弟等之進止、可專彼追孝。凡法樂寺領者、本所一圓之管領、更非 敕裁之地、而閣本所兩方、仰 聖斷之條、雖不可然、諸國散在之門弟等、無案内之由令申之上、已可爲本所成敗之旨、被下 院宣之間、不及別沙汰之由、去延慶二年七月十九日被下本所御下知之間、彼正文預置信寂之處、他界之刻、理嚴猥抑留之間、爲後證重可被書下之由、法智以下門弟等申請之趣、非無子細歟。然者御下知之旨、更不可相違者、依妙香院僧正御房御氣色。執達如件。 文保二年十一月十三日 法眼判[奉] 親鸞上人門弟御中 (三七) 本願寺親鸞上人門弟等謹言上。 欲早賜御擧狀愁申、關東且任先規、且依興隆佛法政化、任往跡可令勤行旨、蒙裁許、令紹隆專修念佛間事。 右當寺者、山門妙香院之御進止、親鸞上人之靈跡也。云四海安寧之祈願、云九品託生之敎行、專酌源空・親鸞之貴流、諸國散在門弟等、長日不退勤行敢無懈緩者也。爰去乾元之比、號一向衆、諸國橫行放埒輩若依有Ⅵ-0817非分之行儀歟、被禁遏之刻、以當門徒、則令混亂彼浪人等、可令停廢之由、在々所々結構之條、尤不便之次第也。門徒等偏守列祖之規矩、卜道場於有縁之地、令弘通末世相應敎法之條、有何咎、曾無所謬。只魔障塞理途、卑聽未上達之故歟。具被聞食披者、當于德政御代、爭可被禁遏濁世末代之目足哉。一朝之護持、何事如正法之再興哉。然者早賜御擧狀、爲愁申關東蒙御下知。粗言上如件。 元亨元年二月 日 (三八) 本願寺親鸞上人門弟等申專修念佛興行事。申狀如此候。子細見狀候歟之由、妙香院僧正御房可申旨候也。恐々謹言。 二月卅日 權大僧都經尋 謹上 相模守殿 (三九) 本願寺留守職手實公驗等目六 一通 財主覺信申置專證W覺惠本名R狀 [弘安三年十月廿六日] 一通 本所妙香院門主[殿僧正御坊W慈【慶】—R御下知狀] [元亨四年四月六日] 一通 兵部卿宮安堵令旨 [左少將隆貞奉書] [元弘三年六月十六日] 一通 靑蓮院家令旨A十樂院故二品親王慈【道】—B妙香院門跡御管領間賜之C A建武元年五月九日B奉行大貳法印良增W于時法眼RC 一通 靑蓮院若宮御方令旨W妙香院御管領R A康永元年十二月廿四日B奉行大進法眼泰春C Ⅵ-0818(四〇) 親鸞上人影堂留守職事。延慶年中、門弟等與唯善確論之刻、如所被下之御下知狀者、於覺信子孫等之許否者、宜在門弟等意W云々R。而今如御所進之證文者、就本願主覺信寄附門弟等、雖令進止敷地、爲財主子孫於留守職者、相承之儀、非無所見也。門弟等強非自專之限哉。何況寄事於左右、門弟等中動欲相妨留守職之條、一類別心輩張行歟、太以不可然。加之御眞弟光玄律師、依條々不義義絶之由、雖聞食候處、門弟等候間、有贔負彼律師輩W云々R。以義絶之身、爭可令競望留守職哉、更非沙汰之限。所詮任財主之素意、於留守職者、永守附屬狀、敢不可有他妨之旨、妙香院前權僧正御房所候也。仍執啓如件。 元亨四年四月六日 法眼(花押)[奉] 謹上 勘解由小路中納言律師御房 (四一) 本願寺幷久遠寺可爲御祈禱所由事。先度已被仰下了。隨則親鸞上人影堂敷地、門弟等進止、幷彼留守職之事、任證文道理、可令全管領給者、依 宮將軍令旨、執達如件。 元弘二年六月十六日 左少將(花押) 謹上 中納言法印御房 (四二) 親鸞上人影堂留守職事。且守財主次第附屬狀、且任先代下知之旨、次第相承敢不可有他妨。於光玄法印者、被義絶之上者、非係望之限歟之由、 靑蓮院二品親王御氣色所候也。仍執啓如件。 建武元年五月九日 法眼判[奉] 謹上 中納言法印御坊 (四三) 親鸞上人影堂留守職事。 Ⅵ-0819任去元亨四年四月六日御敎書之旨、守財主素意、如附屬狀、更不可有他之妨。於光玄法印者、重被義絶上者、永被停止競望候之由、 妙香院宮御氣色所候也。仍執啓如件。 康永元年十二月廿四日 法眼(花押)[奉] 謹上 中納言法印御房 (四四) 親鸞上人影堂幷敷地等事。且守本願主覺信寄附之素意、且任代々門主下知之旨、彼門弟等進止、不可有相違者、 靑蓮院二品親王御氣色如此。仍執達如件。 元弘三年十一月三日 法眼(花押)[奉] 親鸞上人門弟御中 (四五) 【本願寺】留守職相傳系圖 尼覺信—僧宗惠—僧宗昭 (尼覺信)[元久我太政大臣通光公女房、號兵衞督局。皇太后宮大進有範孫、親鸞上人息女。日野宮内少輔兼左衞門佐廣綱妾。以當敷地寄附、本師親鸞上人影堂敷財主也。] (僧宗惠)[元號中納言阿闍梨山門靑蓮院門人尋有僧都入室弟子、遁世號專證房、後改覺惠W改名之條門弟等皆存知之R。母尼覺信、日野左衞門佐入道廣綱子。就亡母覺信申置、居住當所。] (僧宗昭)[元號西林院中納言律師W後曰法印R南都一乘院門人行覺法印入室W弟子氏□R。長者勘解由小路中納言兼仲卿爲子。覺惠眞弟。今號覺如、就僧覺惠申置、今居住當所。] Ⅵ-0820當所之留守職、他人不相承之次第、如斯。 (四六) 【本願寺】留守職相傳系圖 尼覺信—【山】僧宗惠—興】僧【中納言法印】宗昭 (尼覺信)[元久我太政大臣通光公女房、號兵衞督局。日野皇太后宮大進有範孫、親鸞上人女。日野左衞門佐廣綱妾。以當所寄附、影堂敷財主也。] (【山】僧宗惠)[元中納言阿闍梨大原二品親王門人尋有僧都入室弟子、遁世號專證W後改覺惠R。日野左衞門佐廣綱子、日野中納言宗光卿猶子。母覺信就申付、居住當所。] (【興】僧【中納言法印】宗昭)[西林院法印行寛入室弟子、宗惠眞弟、一乘院門人。勘解由小路中納言兼仲卿爲子。依宗惠阿闍梨申付、居住當所。遁世坊號覺如。] 當所留守職、他人不相承之次第、如斯。 (四七) 就本願寺留守職W別當職也R相傳等可令存知條々。 一 寺務職相傳次第。 右當寺寺務職者、祖母覺信御房W元兵衞督局R・亡父W元中納言阿闍梨R覺惠御房・宗昭、三代相續無依違。而宗昭一期之後者、任祖母之例、同宿善照御房可居其職。善照御房一期之後者、可爲慈俊法印。慈俊一期之後者、字光養丸W敍爵號大夫宗康R可令傳持之旨、以次第附屬之儀、書與讓狀訖。堅應被守此趣者也。 一 安居護W一條前源中納言入道後室R可加扶持間事。 右或母儀、或兄弟等也。凡不可見放之條、雖爲勿論、故依有存旨、如斯所示置也。殊無等閑之儀、各可被扶持[矣]。 一 光玄小法師事。 右彼光玄者、依不義子細重疊、不孝義絶度々、旣及多年畢。爰愚老令閉眼者、可押入當所等之由、自當時相議W云々R。以不孝之身、重不可及沒後不義企之處、背不孝狀、定相語惡黨人等、不限于大谷本願寺、至于西山久遠寺、依有係望之憶欲亂入歟。雖然如本所代々 令Ⅵ-0821旨者、光玄以不孝義絶之身、爭可係望當敷地等哉W云々R。公驗等明鏡之上、且又 敕裁之地旁令違犯者、其咎不輕者哉。速不廻時日、 奏聞公家、言上本所、觸申武家之時、盍被治罰彼違背之狼籍、追放光玄小法師哉。 右以前條々如斯、各守此旨可全彼寺務職等。若於令違犯之輩者、予雖在淨刹、廻眥於閻浮、可與其罰。若又至于遵行之族者、若者子孫若者門弟、可與壽福於厥身者也、仍置文之狀、如件。 曆應貳歲W己卯R十一月廿八日 法印(花押) (四八) 本願寺の御留守職W別當職のことなりRの事。 右の御留守職は、祖母故覺信の御房・亡父覺惠御房・覺如、すでに三代相續してしさいなし。よて、覺如をはりなんのちは、偕老の同宿善照の御房、御留守しきなるべき也。善照御房御一期ののちは、御あとを從覺坊につがせらるべし。從覺坊一期ののちは、字光養丸にそのあとをつがすべきよし、次第附屬の儀をもて、從覺坊におほせられをくべし。安居護W號照如房Rをば善照房一期のあひだは、御そらくなく、はぐゝませ給べし。おやにてわたらせ給へば、かやうに申候はずともにて候へども、ことさらかきをき候なり。又從覺坊一期のあひだもおなじく、善照御房のときにかはらず、ねんごろにはぐゝみ申べし。從覺坊一期ののちは、字光養、御留守職たるべし。照如房をはぐゝみ申事、又善照御房ならびに從覺坊ときにかはらず、はぐゝみ申べし。光養ためにはあれ也。やしないはゝなれば、ことにこゝろやすくおぼゆるもの也。そもそも又存覺法師にをきては、別して不孝狀をかきをきたるうへは、ゆめⅥ-0822ゆめこの本願寺ならびに西山の久遠寺等へあしをふみいれさせらるべからず。しかるにかの小法師W存覺R、不孝狀をそむきて、愚老めをふさぎなば、惡黨をかたらひて當所へをし入べきよし、儀するむね、そのきこえあり。さることあらん時は、院宣ならびに本所代々の御敎書、度々の令旨等を違背するうへは、公家・武家ならびに本所へうたへ申て、時日をめぐらさず、かのやつををいいださるべきもの也。よて未來のために、かねてこの身存日のときより、ふでをそむるをきぶみの狀、くだんごとし。 曆應二歲W已亥R十一月廿八日 釋覺如W御判R (四九) 處分 東山大谷本願寺幷西山久遠寺等御留守W別當職也R職事。 右御留守職者、至于愚老旣三代相續、敢以無依違。而病氣頻侵、旦暮叵識。因茲以次第附屬之儀、所處分于從覺坊也。偕老比丘尼善照御房御一期之後者、從覺坊爲御留守職、可住持本願寺幷久遠寺等者也。然者祖母覺信御房・亡父覺惠御房御手繼、 院宣幷本所代々 令旨・御敎書等、悉所副渡之也。抑於存覺小法師者、已就爲附佛法之外道家冥罰之條、顯然。其咎不輕。努力努力不可被踏入足於當敷地幷久遠寺等郭内。彼小法師間事、予不孝之上者、又不可背連枝之儀之由、先年起請文之上者、雖勿論、彌固可被守其旨。凡任次第附屬之儀雖示置此等之條々、於違背之子孫者、正法護持之四大天王等其罰定不可廻踵者哉。予又雖在淨刹、廻眥於閻浮、可與厥罰。若又於道行遺誡之族者、當寺本尊・諸天冥衆等、宜被授壽福之太慶等也。仍處分狀、如件。 曆應貳歲W己卯R十一月廿八日 覺如(花押) (五〇) 處分 Ⅵ-0823東山大谷本願寺幷西山久遠寺御留守職事。 右御留守職者、至于愚老旣三代相續、敢以無子細。而病氣頻侵、旦暮叵識之際、從存日以次第附屬之儀、同書與處分狀者也。從覺坊一期之後者、字光養丸爲御留守職、可被住持本願寺幷久遠寺。隨則祖母覺信御房・亡父覺惠御房手繼以下、 院宣幷本所代々令旨・御敎書等、悉所副渡之也。存覺小法師幷彼子孫等、如載示置從覺房之處分狀。固至于未來際不可被踏入足於本願寺・久遠寺等郭内。兼又照如坊・照心坊・光長等、悉可被加扶持。御邊一期之後者、任其器用、對于遺跡相續之子孫、如此慇懃可被處分之、仍處分狀如件。 曆應貳歲W己卯R十一月廿八日 釋覺如(花押) (五一) 本願寺御留守W別當職事也R事。愚老一期之後者、可爲偕老同宿善照御坊。善照御坊一期之後者、可爲從覺房。從覺一期之後者、字光養可居其職者也。凡代々御留守職之仁、字藥上女幷照心坊・字光長等、悉可被加扶持者也。次第附屬之儀雖書置之、未來御留守職光養事、重猶書置者也。愚身閉眼之後、早披此狀等、可被存知之由、可被觸示總御門徒中之狀、如件。 曆應貳歲W己卯R十一月廿九日 宗【六十九】昭(花押) (五二) 光玄法印W隱遁號存覺R事。任當寺大師聖人冥慮、先年永令不孝義絶之處、屬當家一門家督、愚老閉眼之後、全不可致係望、只示免許之一言者、所望應足W云々R。因茲重伺冥慮之日、可許勘發W云々R。仍去九日免許之向顏畢。任申請旨之上者、更絶寺務職之望之條、勿論也。愚老滅後、背存日言詞致其望者、以此等狀爲厥支證、訴申Ⅵ-0824 公家・武家、可全寺務職者也。凡如此世出世之重事、於身唯仰 冥慮之外、更就無私、重所書置、如件。 觀應元年W庚寅R八月廿八日 宗昭(花押) (五三) 讓渡 本願寺別當職事。 右愚老八旬有餘之齡迫、且暮命終。以後者、二千石宗康可爲俗別當者也。仍附屬狀、如件。 觀應元年W庚寅R十一月廿一日 宗昭(花押) (五四) 雖無指事候、如御先師。先師常は可申承候に、無其儀候之條、失本意候。 一 定專坊主の時、大谷の坊主御みゑひをかたわらへうつし申候て、本だうには阿みだを立申候べきと候しを、定專さいさん御申候によんで、うちをかれて候に、いま又かやうに御はからひ候間、せん師の御申のごとく、歎申候へども、御もちひなく候。いかやうに候べきやらん、だんがう申たく存候。專空坊主も、大谷のかゝる大事をば御申あわせ候けるとか承候間、その御いしゆをそむき候はじと令申候。諸事期後信候。恐々謹言。 十一月廿日 順證(花押) 總門徒之御中へ[申給へ]