Ⅵ-0617拾遺黑谷語錄卷中A上漢語B中下和語C 厭欣沙門了惠集錄 (一)登山狀第一 (二)示或人詞第二 (三)津戸返狀第三 (四)示或女房法語第四 (一) 登山狀[第一] 源空 それ流浪三界のうち、いづれの界におもむきてか、釋尊の出世にあはざりし。輪廻四生のあひだ、いづれの生をうけてか、如來の說法をきかざりし。花嚴開講のむしろにもまじはらず、般若演說の座にもつらならず、鷲峯說法のにわにものぞまず、鶴林涅槃のみぎりにもいたらず。われ舍衞の三億の家にややどりけん、しⅥ-0618らず地獄八熱のそこにやすみけん。はづべしはづべし、かなしむべしかなしむべし。まさにいま多生曠劫をへて、むまれがたき人界にむまれて、無量劫をおくりて、あひがたき佛敎にあへり。釋尊の在世にあはざる事は、かなしみなりといへども、敎法流布の世にあふ事をえたるは、これよろこび也。たとへば目しゐたるかめの、うき木のあなにあへるがごとし。わが朝に佛法流布せし事も、欽明天皇あめのしたをしろしめして、十三年みづのえさるのとし、ふゆ十月一日、はじめて佛法わたり給ひし。それよりさきには如來の敎法も流布せざりしかば、菩提の覺路いまだきかず。こゝにわれら、いかなる宿縁にこたへ、いかなる善業によりてか、佛法流布の時にむまれて、生死解脫のみちをきく事をえたる。しかるをいまあひがたくしてあふ事をえたり。いたづらにあかしくらして、やみなんこそかなしけれ。あるいは金谷の花をもてあそびて、遲々たる春をむなしくくらし、あるいは南樓に月をあざけりて、縵々たる秋の夜をいたづらにあかす。あるいは千里の雲にはせて、山のかせぎをとりてとしをおくり、あるいは萬里のなみにうかびて、うみのいろくづをとりて日をかさね、あるいは嚴寒にこほりをしのぎて、世路をわたり、あるいは炎天にあせをのごひて、利養をもとめ、あるいは妻子眷Ⅵ-0619屬に纒はれて、恩愛のきづなきりがたし。あるいは執敵怨類にあひて、瞋恚のほむらやむ事なし。總じてかくのごとくして、晝夜朝暮・行住坐臥、時としてやむ事なし。たゞほしきまゝに、あくまで三途八難の業をかさぬ。しかれば、ある文には「一人一日中、八億四千念、念念中所作、皆是三途業」といへり。かくのごとくして、昨日もいたづらにくれぬ、今日も又むなしくあけぬ。いまいくたびかくらし、いくたびかあかさんとする。それあしたにひらくる榮花は、ゆふべの風にちりやすく、ゆふべにむすぶ命露は、あしたの日にきへやすし。これをしらずしてつねにさかへん事をおもひ、これをさとらずしてつねにあらん事をおもふ。しかるあひだ、无常の風ひとたびふけば、有爲のつゆながくきへぬれば、これを曠野にすて、これをとをき山におくる。かばねはつゐにこけのしたにうづもれ、たましゐはひとりたびのそらにまよふ。妻子眷屬は家にあれどもともなはず、七珍萬寶はくらにみてれども益もなし。たゞ身にしたがふものは後悔のなみだ也。つゐに閻魔の廳にいたりぬれば、つみの淺深をさだめ、業の輕重をかんがへらる。法王罪人にとひていはく、なんぢ佛法流布の世にむまれて、なんぞ修行せずして、いたづらに返りきたるや。その時には、われらいかゞこたへんとする。すみやかⅥ-0620に出要をもとめて、むなしく返る事なかれ。 そもそも一代諸敎のうち、顯宗・密宗、大乘・小乘、權敎・實敎、論家、部八宗にわかれ、義萬差につらなりて、あるいは萬法皆空の宗をとき、あるいは諸法實相の心をあかし、あるいは五性各別の義をたて、あるいは悉有佛性の理を談じ、宗々に究竟至極の義をあらそひ、各々に甚深正義の宗を論ず。みなこれ經論の實語也。そもそも又如來の金言也。あるいは機をとゝのへてこれをとき、あるいは時をかゞみてこれをおしへ給へり。いづれかあさく、いづれかふかき、ともに是非をわきまへがたし。かれも敎これも敎、たがひに偏執をいだく事なかれ。說のごとく修行せば、みなことごとく生死を過度すべし。法のごとく修行せば、ともにおなじく菩提を證得すべし。修せずしていたづらに是非を論ず、たとへば目しゐたる人のいろの淺深を論じ、みゝしゐたる人のこゑの好惡をいはんがごとし。たゞすべからく修行すべし、いづれも生死解脫のみち也。しかるにいま、かれを學する人はこれをそねみ、これを誦する人はかれをそしる。愚鈍のもの、これがためにまどひやすく、淺才の身、これがためにわきまへがたし。たまたま一法におもむきて功をつまんとすれば、すなはち諸宗のあらそひたがひにきたる。ひろⅥ-0621く諸敎にわたりて義を談ぜんとおもへば、一期のいのちくれやすし。かの蓬萊・方丈・瀛州といふなる三の山にこそ、不死のくすりはありときけ。かれを服してまれ、いのちをのべて漸々に習はゞやと思へども、たづぬべきかたもおぼへず。もろこしに、秦皇・漢武ときこへし御門、これをきゝてたづねにつかはしたりしかども、童男・丱女、ふねのうちにして、とし月をおくりき。彭祖が七百歲の法、むかしがたりにて、いまの時につたへがたし。曇鸞法師と申せし人こそ、佛法のそこをきわめたりし。人のいのちはあしたを期しがたしとて、佛法をならはんがために、長生の仙の法をばつたへ給ひけれ。時に菩提流支と申す三藏ましましき。曇鸞かの三藏の御まへにまうでゝ申給ふやうは、佛法の中に長生不死の法、この土の仙經にすぎたるありやとゝひ給ひければ、三藏、地につわきをはきての給はく、この方にはいづくんぞところに長生の法あらん。たとひ長年をえてしばらくしなずとも、つゐに三有に輪廻すとの給ひて、すなはち『觀无量壽經』をさづけて、大仙の法也、これによりて修行すれば、さらに生死を解脫すべしとの給ひき。曇鸞これをつたへて、仙法をたちまちに火にやきて、これをすつ。『觀无量壽經』によりて、淨土の行をしるし給ひき。そのゝち曇鸞・道綽・善導・懷感・少康等にⅥ-0622いたるまで、このながれをつたへ給へり。そのみちをおもひて、いのちをのべて大仙の法をとらんとおもふに、又道綽禪師の『安樂集』にも聖道・淨土の二門をたて給ふは、この心なり。その聖道門といふは、穢土にして煩惱を斷じて菩提にいたる也。淨土門といふは、淨土にむまれて、かしこにして煩惱を斷じて菩提にいたる也。 いまこの淨土宗についてこれをいへば、又『觀經』にあかすところの業因一つにあらず、三福九品・十三定善、その行しなじなにわかれて、その業まちまちにつらなれり。まづ定善十三觀といふは、日想・水想・地想・寶樹・寶池・寶樓・花座・像想・眞身・觀音・勢至・普觀・雜觀、これ也。つぎに散善九品といふは、一には孝養父母、奉事師長、慈心不殺、修十善業、二には受持三歸、具足衆戒、不犯威儀、三には發菩提心、深信因果、讀誦大乘、勸進行者也。九品は、かの三福の業を開してその業因にあつ。つぶさには『觀經』に見えたり。總じてこれをいへば、定散二善の中にもれたる往生の行はあるべからず。これによりて、あるいはいづれにもあれ、たゞ有縁の行におもむきて功をかさねて、心にひかん法によりて行をはげまば、みなことごとく往生をとぐべし。さらにうたがひをなす事なⅥ-0623かれ。いましばらく自法につきてこれをいはゞ、まさにいま定善の觀門は、かすかにつらなりて十三あり。散善の業因は、まちまちにわかれて九品あり。その定善の門にいらんとすれば、すなはち意馬あれて六塵の境にはす。かの散善の門にのぞまんとすれば、又心猿あそんで十惡のえだにうつる。かれをしづめんとすれどもえず、これをとゞめんとすれどもあたはず。いま下三品の業因を見れば、十惡・五逆の衆生、臨終に善知識にあひて、一聲・十聲阿彌陀佛の名號をとなへて往生すとゝかれたり。これなんぞわれらが分にあらざらんや。かの釋の雄俊といひし人は、七度還俗の惡人也。いのちおはりてのち、獄率、閻魔の廳庭にゐてゆきて、南閻浮提第一の惡人、七度還俗の雄俊ゐてまいりてはんべりと申ければ、雄俊申ていはく、われ在生の時、『觀无量壽經』を見しかば、五逆の罪人、阿彌陀ほとけの名號をとなへて極樂に往生すと、まさしくとかれたり。われ七度還俗すといへども、いまだ五逆をばつくらず、善根すくなしといへども、念佛十聲にすぎたり。雄俊もし地獄におちば、三世諸佛、忘語のつみにおち給ふべしと高聲にさけびしかば、法王は理におれて、たまのかぶりをかたぶけてこれをおがみ、彌陀はちかひによりて金蓮にのせてむかへ給ひき。いはんや、七度還俗におよばざⅥ-0624らんをや、いはんや、一形念佛せんをや。「男女・貴賤、行住坐臥をえらばず、時處諸縁を論ぜず、これを修するにかたからず、乃至、臨終に往生を願求するに、そのたよりをえたり」(要集*卷下)と、楞嚴の先德のかきおき給へる、ま事なるかなや。又善導和尙、この『觀經』を釋しての給はく、「娑婆の化主、その請によるがゆへにひろく淨土の要門をひらき、安樂の能人、別意の弘願をあらはす。その要門といはすなはちこの『觀經』の定散二門これ也。定はすなはちおもひをやめてもて心をこらし、散はすなはち惡を廢して善を修す。この二行をめぐらして往生をもとめねがふ也。弘願といは『大經』にとくがごとし。一切善惡の凡夫のむまるゝ事をうるもの、みな阿彌陀佛の大願業力に乘じて增上縁とせずといふ事なし。又ほとけの密意弘深にして、敎文さとりがたし。三賢・十聖もはかりてうかゞふところにあらず。いはんやわれ信外の輕毛也、さらに旨趣をしらんや。あふいでおもんみれば、釋迦はこの方にして發遣し、彌陀はかのくにより來迎し給ふ。こゝにやりかしこによばふ、あにさらざるべけんや」(玄義分)といへり。しかれば、定善・散善・弘願の三門をたて給へり。その弘願といは、『大經』(卷上)に云、「設我得佛、十方衆生、至心信樂、欲生我國、乃至十念、若不生者、不取正覺、唯除五逆、誹Ⅵ-0625謗正法」といへり。善導釋していはく、「若我成佛、十方衆生、稱我名號下至十聲、若不生者不取正覺。彼佛今現在世成佛。當知、本誓重願不虛、衆生稱念必得往生。」(禮讚)W云云R『觀經』の定散兩門をときおはりて、「佛告阿難、汝、好持是語。持是語者、卽是持无量壽佛名。」W云云Rこれすなはちさきの弘願の心也。又おなじき『經』(禮讚)の眞身觀には、「彌陀身色如金山、相好光明照十方、唯有念佛蒙光攝、當知本願最爲強。」W云云R又これさきの弘願のゆへなり。『阿彌陀經』(意)にいはく、「不可以少善根福德因縁得生彼國。若善男子・善女人、聞說阿彌陀佛、執持名號、若一日、若二日乃至七日、一心不亂、其人命終時、心不顚倒、卽得往生。」W云云Rつぎの文に、「六方におのおの恆河沙の佛ましまして、廣長舌相を出して、あまねく三千大千世界におほひて、誠實の事也、信ぜよ」(意)と證誠し給へり。これ又さきの弘願のゆへ也。又『般舟三昧經』(一卷本*問事品意)にいはく、「跋陀和菩薩、阿彌陀にとひていはく、いかなる法を行じてか、かのくにゝむまるべきと。阿彌陀ほとけの給はく、わがくにゝ來生せんとおもはんものは、つねに御名を念じてやすむ事なかれ。かくのごとくして、わがくにゝ來生する事をう」との給へり。これ又弘願のむねを、かのほとけみづからの給へり。又五臺山の『大聖竹林寺の記』にいはく、「法照禪師、Ⅵ-0626淸涼山にのぼりて大聖竹林寺にいたる。こゝに二人の童子あり、一人をば善財といひ、一人をば難陀といふ。この二人の童子、法照禪師をみちびきて、寺のうちにいれて、漸々に講堂にいたりて見れば、普賢菩薩、无數の眷屬に圍繞せられて坐し給へり。文殊師利は、一萬の菩薩に圍繞せられて坐し給へり。法照禮してとひたてまつりていはく、末法の凡夫はいづれの法をか修すべき。文殊師利こたへての給はく、なんぢすでに念佛せよ、いままさしくこれ時也と。法照又とひていはく、まさにいづれをか念ずべきと。文殊又の給はく、この世界をすぎて西方に阿彌陀佛まします、かのほとけまさに願ふかくまします、なんぢまさに念ずべし」と。大聖文殊、法照禪師にまのあたりの給ひし事也。すべてひろくこれをいへば、諸敎にあまねく修せしめたる法門也。つぶさにあぐるにいとまあらず。 しかるをこのごろ、念佛のよにひろまりたるによりて佛法うせなんとすと、諸宗の學者難破をいたすによりて、人おほく念佛の行を廢すときこゆ、いまだ心えずはんべり。佛法はこれ萬年也、うしなはんとおもふとも、佛法擁護の諸天善神まぼり給ふゆへに、人のちからにてはかなふべからず。かの守屋の大臣が、佛法を破滅せんとせしかども、法命いまだつきずして、いまにつたはるがごとし。いはⅥ-0627んや、无智の道俗・在家の男女のちからにて念佛を行ずるによりて、法相・三論も隱沒し、天台・花嚴も廢する事、なじかはあるべき。念佛を行ぜずしてゐたらば、このともがらは一宗をも興隆すべきかは。たゞいたづらに念佛の業を廢したるばかりにて、またくそれ諸宗のおぎろをもさぐるべからず。しかれば、これおほきなる損にあらずや。諸宗のふかきながれをくむ南都・北京の學者、兩部の大法をつたへたる本寺・本山の禪徒、百千萬の念佛世にひろまりたりとも、本宗をあらたむべきにあらず、又佛法うせなんとすとて佛法を廢せば、念佛はこれ佛法にあらずや。たとへば虎狼の害をにげて、師子にむかひてはしらんがごとし。餘行を謗じ念佛を謗ぜん、おなじくこれ逆罪也。とら・おほかみに害せられん、師子に害せられん、ともにかならず死すべし。これをも謗ずべからず、かれをもそねむべからず。ともにみな佛法也、たがひに偏執する事なかれ。『像法決疑經』にいはく、「三學の行人たがひに毀謗して地獄にいる事、ときやのごとし」といへり。又『大論』(大智度論*卷一初品)にいはく、「自法を愛染するゆへに、他人を毀呰すれば、持戒の行人も、地獄の苦をまぬかれず」といへり。又善導和尙のの給はく、 「世尊說法時將了 慇懃付屬彌陀名 Ⅵ-0628五濁增時多疑謗 道俗相簡不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壞競生怨 如此生盲闡提輩 毀滅頓敎永沈淪 超過大地微塵劫 未可得離三途身」(法事讚*卷下) といへり。念佛を修せんものは、餘行をそしるべからず。そしらばすなはち、彌陀の悲願にそむくべきゆへなり。餘行を修せん物も、念佛をそしるべからず。又諸佛の本誓にたがふがゆへなり。しかるをいま、眞言・止觀の窓のまへには念佛の行をそしる、一向專念の牀のうゑには諸餘の行をそしる、ともに我々偏執の心をもて義理をたて、たがひにおのおの是非のおもひに住して會釋をなす。あにこれ正義にかなはんや、みなともに佛意にそむけり。 つぎに又難者のいはく、今來の念佛者、わたくしの義をたてゝ惡業をおそるゝは、彌陀の本願を信ぜざる也、數遍をかさぬるは、一念の往生をうたがふ也。行業をいへば、一念・十念にたりぬべし。かるがゆへに數遍をつむべからず。惡業をいへば、四重・五逆なをむまるゝゆへに、諸惡をはゞかるべからずといへり。この義またくしかるべからず、釋尊の說法にも見へず、善導の釋にもあらず。もしかⅥ-0629くのごとく存ぜんものは、總じては諸佛の御心にたがふべし、別しては彌陀の本願にかなふべからず。その五逆・十惡の衆生の、一念・十念によりて、かのくにに往生すといふは、これ『觀經』のあきらかなる文也。たゞし五逆をつくりて十念をとなへよ、十惡をおかして一念を申せとすゝむるにはあらず。それ十重をたもちて十念をとなへよ、四十八輕をまぼりて四十八願をたのむは、心にふかくこひねがふところ也。およそいづれの行をもはらにすとも、心に戒行をたもちて浮囊をまぼるがごとくにし、身の威儀に油鉢をかたぶけずは、行として成就せずといふ事なし、願として圓滿せずといふ事なし。しかるをわれら、あるいは四重をおかし、あるいは十惡を行ず。かれもおかしこれも行ず、一人としてま事の戒行を具したる物はなし。「諸惡莫作諸善奉行」は、三世の諸佛の通戒也。善を修するものは善趣の報をえ、惡を行ずる物は惡道の果を感ずといふ。この因果の道理をきけども、きかざるがごとし。はじめていふにあたはず。しかれども、分にしたがひて惡業をとゞめよ。縁にふれて念佛を行じ、往生を期すべし。惡人をすてられずは、善人なんぞきらはん。つみをおそるゝは本願をうたがふと、この宗にまたく存ぜざるところ也。 Ⅵ-0630つぎに一念・十念によりてかのくにゝ往生すといふは、釋尊の金言也、『觀經』のあきらかなる文也。善導和尙の釋にいはく、「下至十聲等、定得往生、乃至一念无有疑心。故名深心」(禮讚)といへり。又いはく、「行住坐臥不問時節久近念々不捨者、是名正定之業、順彼佛願故」(散善義)といへり。しかれば、信を一念にむまるとゝりて、行をば一形はげむべしとすゝむる也。彌陀の本願を信じて、念佛の功をつもり、運心としひさしくは、なんぞ願力を信ぜずといふべきや。すべて博地の凡夫、彌陀の淨土にむまれん事、他力にあらずはみな道たえたるべき事也。およそ十方世界の諸佛善逝、穢土の衆生を引導せんがために、穢土にして正覺をとなへ、淨土にして正覺をなりて、しかも穢土の衆生を引導せんといふ願をたて給へり。その穢土にして正覺をとなふれば、隨類應同の相をしめすがゆへに、いのちながゝらずして、とく涅槃にいりぬれば、報佛・報土にして地上の大菩薩の所居也。未斷惑の凡夫は、たゞちにむまるゝ事あたはず。しかるをいま淨土を莊嚴し、佛道を修行するは、凡位はもと造惡不善のともがら也。輪轉きはまりなからんを引導し、破戒淺智のやからの出離の期なからんをあはれまんがため也。もしその三賢を證し、十地をきわめたる久行の聖人、深位の菩薩の六度萬行を具足し、Ⅵ-0631諸波羅蜜を修行してむまるゝといはば、これ大悲の本意にあらず。この修因感果のことわりを、大慈大悲の御心のうちに思惟して、年序をそらにつもりて、星霜五劫におよべり。しかるを善巧方便をめぐらして、思惟し給へり。しかもわれ別願をもて淨土に居して、博地底下の衆生を引導すべし。その衆生の業力によりて、むまるゝといはゞかたかるべし。我、須は衆生のために永劫の修行をゝくり、僧祇の苦行をめぐらして萬行萬善の果德圓滿し、自覺覺他の覺行窮滿して、その成就せんところの萬德无漏の一切の功德をもてわが名號として、衆生にとなへしめん。衆生もしこれにおいて信をいたして稱念せば、わが願にこたへてむまるゝ事をうべし。名號をとなへばむまるべき別願をおこして、その願成就せば、佛になるべきがゆへ也。この願もし滿足せずは、永劫をふともわれ正覺をとらじ。たゞし未來惡世の衆生、憍慢懈怠にして、これにおいて信をおこす事かたかるべし。一佛二佛のとき給はんに、おそらくはうたがふ心をなさん事を。ねがはくは、われ十方諸佛にことごとくこの願を稱揚せられたてまつらんとちかひて、第十七の願に、「設我得佛、十方无量諸佛、不悉咨嗟、稱我名者、不取正覺」(大經*卷上)とたて給ひて、つぎに第十八願の「乃至十念、若不生者、不取正覺」(大經*卷上)とたて給へり。Ⅵ-0632そのむね、无量の諸佛に稱揚せられたてまつらんとたて給へり。願成就するゆへに、六方におのおの恆河沙のほとけましまして、廣長舌相を出して、あまねく三千大千世界におほひて、みなおなじくこの事をま事なりと證誠し給へり。善導これを釋しての給はく、「もしこの證によりてむまるゝ事をえずは、六方の諸佛ののべ給へるした、口よりいでおはりてのち、つゐに口に返りいらずして、自然にやぶれみだれん」(觀念*法門)との給へり。これを信ぜざらん物は、すなはち十方恆沙の諸佛の御したをやぶる也。よくよく信ずべし。一佛二佛の御したをやぶらんだにもあり、いかにいはんや、十方恆沙の諸佛をや。「大地微塵劫を超過すとも、いまだ三途の身をはなるべからず」(法事讚*卷下)との給へり。彌陀の四十八願といは、无三惡趣、不更惡趣、乃至念佛往生等の願、これ也。すべて四十八願のなかに、いづれの願か一つとして成就し給はぬ願あるべき、願ごとに「不取正覺」とちかひて、いますでに正覺をなり給へる故也。然を无三惡趣の願を信ぜずして、かの國に三惡道ありと云物はなし。不更惡趣の願を信ぜずして、かのくにゝ衆生いのちおはりてのち、又惡道に返るといふ物はなし。悉皆金色の願を信ぜずして、かのくにの衆生は金色なるもあり、白色なるもありといふ物はなし。无有好醜の願を信ぜⅥ-0633ずして、かのくにの衆生は、かたちよきもあり、わろきもありといふ物はなし。乃至天眼・天耳、光明・壽命および得三法忍の願にいたるまで、これにおいてうたがひをなす物はいまだはんべらず。たゞ第十八願において、念佛往生の願一つを信ぜざる也。この願をうたがはゞ、餘の願をも信ずべからず。餘の願を信ぜ〔ば、〕この一願をうたがふべけんや。法藏比丘いまだほとけになり給はずといはゞ、これ謗法になりなんかし。もし又なり給へりといはゞ、いかゞこの願をうたがふべきや。四十八願の彌陀善逝は、正覺を十劫にとなへ給へり。六方恆沙の諸佛如來は、舌相を三千世界にのべ給へり。たれかこれを信ぜざるべきや。善導この信を釋しての給はく、「化佛・報佛、若一、若多、乃至、十方に遍して、ひかりをかゞやかし、したをはきてあまねく十方におほひて、この事虛妄なりとの給はんにも、畢竟じて、一念疑退の心をおこさじ」(散善*義意)との給へり。しかるをいま行者たち、異學・異見のために、たやすくこれをやぶらる、いかにいはんや、報佛・化佛のゝ給はんをや。そもそもこの行をすてば、いづれのおこなひにかおもむき給ふべき。智慧なければ、聖敎をひらくにまなこくらし。財寶なければ、布施を行ずるにちからなし。むかし波羅奈國に太子ありき、大施太子と申き。貧Ⅵ-0634人をあはれみて、くらをひらきてもろもろのたからを出してあたへ給ふに、たからはつくれども、まづしき物はつくべからず。こゝに太子、うみのなかに如意寶珠ありときく。海にゆきてもとめて、まづしきたみにたからをあたへんとちかひて、龍宮にゆき給ふに、龍王おどろきあやしみて、おぼろげの人にはあらずといひて、みづからむかひて、たからのゆかにすえたてまつり、はるかにきたり給へる心ざし、何事をもとめ給ふぞとゝへば、太子の給はく、閻浮提の人、まづしくてくるしむ事おほし、王のもとゞりのなかの寶珠をこはんがためにきたる也との給へば、王のいはく、しからば、七日こゝにとゞまりて、わが供養をうけ給へ、そのゝちたからをたてまつらんといふ。太子、七日をへてたまをえ給ひぬ。龍神そこよりおくりたてまつる、すなはち本國のきしにいたりぬ。こゝにもろもろの龍神なげきていはく、このたまは海中のたから也、なをとり返してぞよかるべきとさだむ。海神、人になりて太子の御まへにきたりていはく、君よにまれなるたまをえ給へり、とくわれに見せ給へといふ。太子これを見せ給ふに、うばひとりてうみへいりぬ。太子なげきてちかひていはく、なんぢもしたまを返さずんば、うみをくみほさんといふ。海神いでゝわらひていはく、なんぢはもともおろかなⅥ-0635る人かな。そらの日をばおとしもしてん、はやきせをばとゞめもしてん、うみのみづをばつくすべからずといふ。太子の給はく、恩愛のたへがたきをもなをとゞめんとおもふ、生死のつくしがたきをもなをつくさんとおもふ。いはんや、うみのみづおほしといふともかぎりあり。もしこのよにくみつくさずは、世々をへてもかならずくみつくさんとちかひて、かいのからをとりてうみのみづをくむ。ちかひの心まことなるがゆへに、もろもろの天人ことごとくきたりて、あまのはごろものそでにつゝみて、鐵圍山のほかにくみをく。太子、一度二度かいのからをもてくみ給ふに、海水十分が八分はうせぬ。龍王、さわぎあはてゝ、わがすみかむなしくなりなんとすとわびて、たまを返したてまつる。太子、これをとりてみやこに返りて、もろもろのたからをふらして、閻浮提のうちにたからをふらさゞるところなし。くるしきをしのぎて退せざりしかば、これを精進波羅蜜といふ。むかしの太子は、萬里のなみをしのぎて、龍王の如意寶珠をえ給へり。いまのわれらは、二河の水火をわけて、彌陀本願の寶珠をえたり。かれは龍神のくゐしがためにうばゝれ、これは異學・異見のためにうばゝる。かれはかいのからをもて大海をくみしかば、六欲四禪の諸天きたりておなじくくみき、これは信の手をもⅥ-0636て疑謗の難をくまば、六方恆沙の諸佛きたりてくみし給ふべし。かれは大海のみづやうやくつきしかば、龍宮のいらかあらはれて如意寶珠を返しとりき、これは疑難のなみことごとくつきなば、謗家のいらかあらはれて本願の寶珠を返しとるべし。かれは返しとりて閻浮提にして貧窮のたみをあはれみき、これは返しとりて極樂にむまれて博地のともがらをみちびくべし。ねがはくは、もろもろの行者、彌陀本願の寶珠をいまだうばひとられざらん物は、ふかく信心のそこにおさめよ。もしすなはちとられたらんものは、すみやかに深信の手をもて疑謗のなみをくめ。たからをすてゝ手をむなしくして返る事なかれ。いかなる彌陀か、十念の悲願をおこして十方の衆生を攝取し給ふ。いかなるわれらか、六字の名號をとなへて三輩の往生をとげざらん。永劫の修行はこれたれがためぞ、功を未來の衆生にゆづり給ふ。超世の悲願は又なんの料ぞ、心ざしを末法のわれらにおくり給ふ。われらもし往生をとぐべからずは、ほとけあに正覺をなり給ふべしや、われら又往生をとげましや。われらが往生はほとけの正覺により、ほとけの正覺はわれらが往生による。「若不生者」のちかひこれをもてしり、「不取正覺」のことばかぎりあるをや[云云]。 Ⅵ-0637(二) 示或人詞第二 一 しとは、この時西にむかふべからず、又西をうしろにすべからず、きた・みなみにむかふべし。おほかたうちうちゐたらんにも、うちふさんにも、かならず西にむかふべし。もしゆゝしく便宜あしき事ありて、西をうしろにする事あらば、心のうちにわがうしろは西也、阿彌陀ほとけのおはしますかた也。たゞいまあしざまにてむかはねども、心をだにも西方へやりつれば、そゞろに西にむかはで、極樂をおもはぬ人にくらぶれば、それにまさる也。 一 孝養の心をもて、ちゝ・はゝをおもくしおもはん人は、まづ阿彌陀ほとけにあづけまいらすべし。わが身の人となりて往生をねがひ念佛する事は、ひ〔と〕へにわが父母のやしなひたてたればこそあれ。わが念佛し候功をあはれみて、わが父母を極樂へむかへさせおはしまして、罪をも滅しましませとおもはば、かならずかならずむかへとらせおはしまさんずる也。されば唐土に妙雲といひし尼は、おさなくして父母におくれたりけるが、三十年ばかり念佛して父母をいのりしかば、ともに地獄の苦をあらためて、極樂へまいりたりける也。 Ⅵ-0638一 善導和尙の『往生禮讚』に、本願をひきていはく、「若我成佛、十方衆生、稱我名號下至十聲、若不生者不取正覺。彼佛今現在世成佛。當知、本誓重願不虛、衆生稱念必得往生。」[文] この文をつねに、くちにもとなへ、心にもうかべ、眼にもあてゝ、彌陀の本願を決定成就して、極樂世界を莊嚴したてゝ、御目を見まはして、わが名をとなふる人やあると御らんじ、御みゝをかたぶけて、わが名を稱する物やあると、よる・ひるきこしめさるゝ也。されば一稱も一念も、阿彌陀にしられまいらせずといふ事なし。されば攝取の光明はわが身をすて給ふ事なく、臨終の來迎はむなしき事なき也。この文は四十八願のまなこ也、肝なり、神也。四十八字にむすびたる事は、このゆへ也。よくよく身をもきよめ、手をもあらひて、ずゞをもとり、袈裟をもかくべし。不淨の身にて持佛堂へいるべからず。この世の主なんどをだにも、うやまひおそるゝ事にてあるに、まして无上世尊の、もろもろの大菩薩にもうやまはれ給へるに、われらが身にいかでかなめにもあたりまいらすべき。三界の諸天もかふべをかたぶけ給ふ、いかにいはんやわれらが身をや。又つみをおそるゝは本願をかろしむる也、身をつゝしみてよからんとするは自力をはげむ也といふⅥ-0639事は、ものもおぼへぬあさましきひが事也。ゆめゆめみゝにもきゝいるべからず、つゆちりばかりももちゐまじき事也。はじめ「淨土三部經」より、唐土・日本の人師の御作の中にも、またくなき事どもを、心にまかせてわがおもふさまに、わろからんとていひいだしたる事也。一定として三惡道におちんずる事也、一代聖敎の中にふつとなき事也。五逆・十惡の罪人の、臨終の一念・十念によりて來迎にあづかる事は、そのつみをくゐかなしみて、たすけおはしませとおもひて念佛すれば、彌陀如來願力をおこして罪を滅し、來迎しまします也。本願のまゝにかきてまいらせ候、このまゝに信じて御念佛候べし。かまえてかまえて、たうとき念佛者にておはしませ。あなかしこ、あなかしこ。 (三) 津戸三郎へつかはす御返事[第三] (1) 御文くはしくうけ給はり候ぬ。念佛の事、召問はれ候はんには、なじかはくはしき事をば申させ給ふべき。げにもいまだくはしくもならはせ給はぬ事にて候へば、專修・雜修の間の事はくはしき沙汰候はずとも、いかやうなる事ぞと召問はれ候Ⅵ-0640はゞ、法門のくはしき事はしり候はず。御京上の時うけ給はりわたり候て、聖りのもとへまかり候て、後世の事をばいかゞし候べき、在家のものなんどの後生たすかるべき事は、なに事か候らんと問候しかば、聖の申候し樣は、おほかた生死をはなるゝみち、樣々におほく候へども、その中にこのごろの人の生死をいづる道は、極樂に往生するよりほかには、こと道はかなひがたき事也。これほとけの衆生をすゝめて、生死をいださせ給ふべき一つの道也。しかるに極樂に往生する行、又樣々におほく候へども、その中に念佛して往生するよりほかには、こと行はかなひがたき事にてある也。そのゆへは、念佛はこれ彌陀の一切衆生のためにみづからちかひ給ひたりし本願の行なれば、往生の業にとりては、念佛にしく事はなし。されば往生せんとおもはゞ、念佛をこそはせめと申候き。いかにいはんや、又最下のものゝ、法門をもしらず、智慧もなからん物は、念佛のほかには何事をしてか往生すべきといふ事なし。われおさなくより法門をならひたるものにてあるだにも、念佛よりほかに何事をして往生すべしともおぼへず、たゞ念佛ばかりをして、彌陀の本願をたのみて往生せんとはおもひてある也。まして最下の物なんどは、何事かあらんと申されしかば、ふかくそのよしをたのみて、念佛をⅥ-0641ばつかまつり候也と申させ給ふべし。又この念佛を申す事は、たゞわが心より彌陀の本願の行なりとさとりて申事にもあらず。唐の世に善導和尙と申候し人、往生の行業において專修・雜修と申す二つの行をわかちてすゝめ給へる事也。專修といふは念佛也、雜修といふは念佛のほかの行也。專修のものは百人は百人ながら往生し、雜修の物は千人が中にわづかに一、二人ある也。唐土に又信仲と申物こそ、このむねをしるして『專修正業文』といふ文をつくりて、唐土の諸人をすゝめたれ。その文は、じやうせう房なんどのもとには候らん。それをもちてまいらせ給ふべし。又專修につきて、五種の專修正行といふ事あり。この五種の正行につきて、又正助二行をわかてり。正業といふは、五種の中に第四の念佛也。助業といふは、その中の四つの行也。いま決定して淨土に往生せんとおもはゞ、專雜二修の中には、專修の敎によりて一向に念佛をすべし。正助二業の中には、正業のすゝめによりて、ふた心なくたゞ第四の稱名念佛をすべしと申し候しかば、くはしきむね、ふかき心をばしり候はず。さては念佛はめでたき事にこそあるなれと信じ候て申候ばかりに候。件の人の善導和尙と申人は、うちある人にも候はず、阿彌陀ほとけの化身にておはしまし候なれば、おしへすゝめさせ給はん事、よもⅥ-0642ひが事にては候はじとふかく信じて、念佛はつかまつり候也。そのつくらせ給て候なる文ども、おほく候なれども、文字もしり候はぬものにて候へば、たゞ心ばかりをきゝ候て、後生やたすかり候、往生やし候とて申候程に、ちかきものども見うらやみ候て、少々申すものども候也と、これほどに申させ給ふべし。中々くはしく申させ給はゞ、あやまちもありなんどして、あしき事もこそ候へとおぼへ候は、いかゞ候べき。樣々に難答をしるしてと候へども、時にのぞみては、いかなることばどもか候はんずらん、書てまいらせて候はんも、あしく候ぬべく候。たゞよくよく御はからひ候て、早晩よきやうにこそは、はからはせ給ひ候はめ。又念佛申すべからずとおほせられ候とも、往生に心ざしあらん人は、それにより候まじ。念佛よくよく申せとおほせられ候とも、道心なからん物は、それにより候まじ。とにかくにつけても、このたび往生しなんと、人をばしらず御身にかぎりてはおぼしめすべし。わざとはるばると人あげさせ給ひて候こそ、返々下人も不便に候へ。なをなを召し問はれ候はん時には、これより百千申て候はん事は、時にもかなひ候まじければ、无益の事にて候。はからひてよきやうに、早晩にしたがひて申させ給はんに、よもひが事は候はじ。眞字・假字にひろくかきてまいⅥ-0643らせ候はんは、もてのほかにひろく文をつくり候はんずる事にて候へば、にはかにすべき事にても候はず、それは又中々あしき事にても候ぬべし。たゞいと子細はしり候はず、これほどにきゝて申候也と申させ給ひ候はんに、心候はん人は、さりとも心え候ひなん。又道心なからん人は、いかに道理百千萬わかつとも、よも心え候はじ。殿は道理ふかくして、ひが事おはしまさぬ事にて候と申しあひて候へば、これらほどにきこしめさんに、念佛ひが事にてありけり。いまはな申しそとおほせらるゝ事は、よも候はじ。さらざらん人は、いかに申すとも思とも、无益の事にてこそ候はんずれ。何事も御文にはつくしがたく候。あなかしこ、あなかしこ。 十月十八日 (2) おぼつかなくおもひまいらせつる程に、この御文返々よろこびてうけ給はり候ぬ。さても專修念佛の人は、よにありがたき事にて候に、その一國に三十餘人まで候らんこそ、まめやかにあはれに候へ。京邊なんどのつねにききならひ、かたはらをも見ならひ候ひぬべきところにて候だにも、おもひきりて專修念佛をする人は、Ⅵ-0644ありがたき事にてこそ候に、道綽禪師の、平州と申候ところにこそ、一向念佛の地にては候に、專修念佛三十餘人は、よにありがたくおぼへ候。ひとへに御ちから、又くまがやの入道なんどのはからひにてこそ候なれ。それも時のいたりて、往生すべき人のおほく候べきゆへにこそ候なれ。縁なき事は、わざと人のすゝめ候にだにも、かなはぬ事にて候に、子細もしらせ給はぬ人なんどの、おほせられんによるべき事にても候はぬに、もとより機縁純熟して、時いたりたる事にて候へばこそ、さ程に專修の人なんどは候らめと、おしはかりあはれにおぼへ候。たゞし无智の人にこそ、機縁にしたがひて念佛をばすゝむる事にてはあれと申候なる事は、もろもろの僻事にて候。阿彌陀ほとけの御ちかひには、有智・无智をもえらばず、持戒・破戒をもきらはず、佛前・佛後の衆生をもえらばず、在家・出家の人をもき〔ら〕はず、念佛往生の誓願は平等の慈悲に住しておこし給ひたる事にて候へば、人をきらふ事はまたく候はぬ也。されば『觀无量壽經』には、「佛心とは大慈悲是なり」とときて候也。善導和尙この文をうけては、「この平等の慈悲をもて、あまねく一切を攝す」(定善義)と釋し給へる也。一切のことばひろくして、もるゝ人候べからず。釋迦のすゝめ給も、惡人・善人・愚人もひとしく念佛すれⅥ-0645ば往生すとすゝめ給へる也。されば念佛往生の願は、これ彌陀如來の本地の誓願なり。餘の種々の行は、本地のちかひにあらず。釋迦如來の種々の機縁にしたがひて、樣々の行をとかせ給ひたる事にて候へば、釋迦も世にいで給ふ心は、彌陀の本願を〔と〕かんとおぼしめす御心にて候へども、衆生の機縁、人にしたがひてとき給ふ日は、餘の種々の行をもとき給ふは、これ隨機の法なり、佛の自らの御心のそこには候はず。されば念佛は彌陀にも利生の本願、釋迦にも出世の本懷也。餘の種々の行には似ず候也。これは无智のものなればといふべからず。又要文の事、書てまいらせ候べし。又くまがやの入道の文は、これへとりよせ候てなをすべき事の候へば、そのゝちかきてまいらせ候べし。なに事も御文に申つくすべくも候はず、のちの便宜に又々申候べし。 九月廿八日 (3) まづきこしめすまゝに、いそぎおほせられて候御心ざし、申つくしがたく候。この例ならぬ事は、ことがらはむづかしき樣に候へども、當時大事にて、今日あす左右すべき事にては、さりながらも候はぬに、としごろの風のつもり、この正月Ⅵ-0646に別時念佛を五十日申て候しに、いよいよ風をひき候て、二月の十日ごろより、すこし口のかはく樣におぼえ候しが、二月の廿日は五十日になり候しかば、それまでとおもひ候て、なをしゐて候し程に、その事がまさり候て、水なんどのむ事になり、又身のいたく候事なんどの候しが、今日までやみもやり候はず、ながびきて候へども、又たゞいまいかなるべしともおぼへぬ程の事にて候也。醫師の大事と申候へば、やいとうふたゝびし、湯にてゆで候。又樣々の唐のくすりどもたべなんどして候氣にや、このほどはちりばかりよき樣なる事の候也。左右なくのぼるべきなんど仰られて候こそ、よにあはれに候へ。さ程とをく候程には、たとひいかなる事にても、のぼりなんとする御事はいかでか候べき。いづくにても念佛して、たがひに往生し候ひなんこそ、めでたくながきはかり事にては候はめ。何事も御文にはつくしがたく候。又々申候べし。 四月廿六日 わたくしにいはく、これは命をおしむ御療治にはあらず、御身おだしくして、念佛申させ給はんがためなり。下卷の『用心抄』のおはりを見あはすべし。 Ⅵ-0647(四) 示或女房法語第四 念佛行者のぞんじ候べきやうは、後世おおそれ往生おねがひて念佛すれば、おはるとき、かならずらいかうせさせ給よしをぞんじて、念佛申よりほかのこと候はず。三心と申候も、ふさねて申ときは、たゞ一の願心にて候なり。そのねがふこゝろの、いつはらずかざらぬかたおば至誠心と申候。このこゝろまことにて念佛すれば、臨終にらいかうすといふことを、一念もうたがはぬかたを深心とは申候。このうへわが身もかの土へむまれむとおもひ、行業おも往生のためとむくるを廻向心とは申候なり。このゆへに、ねがふこゝろいつはらずして、げに往生せんとおもひ候へば、おのづから三心はぐそくすることにて候なり。そもそも中品下生にらいかうの候はぬことはあるまじければ、とかれぬにては候はず。九品往生におのおのみなあるべきことの、りやくせられてなきことん候なり。ぜんだうの御こゝろは、三心も品々にわたりてあるべしと見えて候。品々ごとにおほくのこと候へとん、三心とらいかうとはかならずあるべきにて候なり。往生おねがはん行者は、かならず三心をおこすべきにて候へば、上品上生にこれをときて、よⅥ-0648の品々おもこれになずらへてしるべしと見えて候。又われら戒品のふね・いかだもやぶれたれば、生死の大海おわたるべき縁も候はず。智惠のひかりもくもりて、生死のやみをてらしがたければ、聖道の得道にももれたるわれらがためにほどこし給他力と申候は、第十九のらいかうの願にて候へば、文に見へず候とん、かならずらいかうはあるべきにて候なり。ゆめゆめ御うたがひ候べからず。あなかしこ、あなかしこ。 源空 拾遺黑谷語錄卷中 Ⅵ-0649拾遺黑谷語錄卷下A上漢語B中下和語C 厭欣沙門了惠集錄 (五)念佛往生義第一 (六)東大寺十問答第二 (七)御消息第三[四通] (八)往生用心第四 (五) 念佛往生義[第一] 念佛往生と申事は、彌陀の本願に、「わが名號をとなへんもの、わがくにゝむまれずといはば、正覺をとらじ」(大經*卷上意)とちかひて、すでに正覺をなり給へるがゆへに、この名號をとなふるものは、かならず往生する事をう。このちかひをふかく信じて、乃至一念もうたがはざるものは、十人は十人ながらむまれ、百人は百Ⅵ-0650人ながらむまる。念佛を修すといへども、うたがふ心あるものはむまれざるなり。世間の人のうたがひに、種々のゆへを出だせり。あるいはわが身罪おもければ、たとひ念佛すとも往生すべからずとうたがひ、あるいは念佛すとも世間のいとなみひまなければ、往生すべからずとうたがひ、あるいは念佛すれども心猛利ならざれば、往生すべからずとうたがふなり。これらは念佛の功能をしらずして、これらのうたがひをおこせり。罪障のおもければこそ、罪障を滅せんがために念佛をばつとむれ、罪障おもければ、念佛すとも往生すべからずとはうたがふべからず。たとへばやまひおもければ、くすりをもちゐるがごとし。やまひおもければとて、くすりをもちゐずは、そのやまひいつかいえむ。十惡・五逆をつくれる物も、知識のおしへによりて、一念・十念するに往生すとゝけり。善導は、「一聲稱念するに、すなはち多劫のつみをのぞく」(定善義)とのたまへり。しかれば、罪障のおもきは、念佛すとも往生すべからずとはうたがふべからず。又善根なければ、この念佛を修して无上の功德をえんとす、餘の善根おほくは、たとひ念佛せずともたのむかたもあるべし。しかれば善導は、わが身をば善根薄少なりと信じて、本願をたのみ念佛せよとすゝめ給へり。『經』(大經*卷下意)に「一たび名號をとなふるに、Ⅵ-0651大利をうとす。すなはち无上の功德をう」とゝけり。いかにいはんや、念々相續せんをや。しかれば、善根なければとて念佛往生をうたがふべからず。又念佛すれども心の猛利ならざる事は、末世の凡夫のなれるくせ也。その心のうちに、又彌陀をたのむ心のなきにしもあらず。たとへば主君の恩をおもくする心はあれども、宮仕する時いさゝかものうき事のあるがごとし。物うしといへども、恩をしる心のなきにはあらざるがごとし。念佛にだにも猛利ならずは、いづれの行にか猛利ならん。いづれも猛利ならざればなれども、一生むなしくすぎば、そのおはりいかん。たとひ猛利ならざるにゝたれども、これを修せんとおもふ心あるは、心ざしのしるしなるべし。このめばおのづから發心すといふ事あり、功をつみ德をかさぬれば時々猛利の心もいでくる也。はじめよりその心なければとてむなしくすぎば、生涯いたづらにくれなん事、後悔さきにたつべからず。なかんづくに善導の御義には、散動の機をえらばざる也。しかれば、猛利の心なければとて往生をうたがふべからず。又世間のいとなみひまなければこそ、念佛の行をば修すべけれ。そのゆへは、「男女・貴賤、行住坐臥をえらばず、時處諸縁を論ぜず、これを修するにかたしとせず。乃至臨終にも、その便宜をえたる事、念佛にはしかⅥ-0652ず」(要集*卷下)といへり。餘の行は、ま事に世間悤々の中にしては修しがたし。念佛の行にかぎりては、在家・出家をえらばず、有智・无智をいはず、稱念するにたよりあり。世間の事にさへられて、念佛往生をとげざるべからず。たゞし詮ずるところ、无道心のいたすところ也。さればとて世間をもすてざるものゆへ、世間にはゞかりて念佛せずは、わが身にたのむところなく、心のうちにつのるところなし。うけがたき人身をうけ、あひがたき佛法にあへり。无常念々にいたり、老少きはめて不定なり。やまひきたらん事かねてしらず、生死のちかづく事たれかおぼへん。もともいそぐべし、はげむべし。念佛に三心を具すといへるも、これらのことはりをばいでず。三心といは、一には至誠心、二には深心、三には廻向發願心なり。至誠心といは、眞實の心なり。往生をねがひ念佛を修せんにも、心のそこよりおもひたちて行ずるを、至誠心といふ。心におもはざる事を外相ばかりにあらはすを、虛假不實といふ也。心のうちに又ふたゝび生死の三界に返らじとおもひ、心のうちに淨土にむまれんとおもひて念佛すれば往生すべし。このゆへには、その相も見へざるが往生する事あり、ほかにその相みゆれども往生せざるもあり。たゞ心につらつら有爲无常のありさまをおもひしりて、この身をいとひⅥ-0653念佛を修すれば、自然に至誠心をば具する也。深心といは、信心也。わが身は罪惡生死の凡夫也と信じ、彌陀如來は本願をもて、かならず衆生を引接し給ふと信じてうたがはず、念佛せん物むまれずは正覺をとらじとちかひて、すでに正覺をなり給へば、稱念のものかならず往生すと信ずれば、自然に深心をば具する也。廻向發願心といふは、修するところの善根を極樂に廻向して、かしこに生ぜんとねがふ心也。別の義あるべからず。三心といへるは、名は各別なるにゝたれども、詮ずるところは、たゞ一向專念といへる事あり。一すぢに彌陀をたのみ念佛を修して、餘の事をまじへざる也。そのゆへは、壽命の長短といひ、果報の深淺といひ、宿業にこたへたる事をしらずして、いたづらに佛・神にいのらんよりも、一すぢに彌陀をたのみてふた心なければ、不定業をば彌陀も轉じ給へり、決定業をば來迎し給ふべし。无益のこの世をいのらんとて大事の後世をわするゝ事は、さらに本意にあらず。後生のために念佛を正定の業とすれば、これをさしをきて餘の行を修すべきにあらざれば、一向專念なれとはすゝむる也。たゞし念佛して往生するに不足なしといひて、惡業をもはゞからず、行ずべき慈悲をも行ぜず、念佛をもはげまざらん事は、佛敎のおきてに相違する也。たとへば父母の慈悲は、Ⅵ-0654よき子をも、あしき子をもはぐゝめども、よき子をばよろこび、あしきをばなげくがごとし。佛は一切衆生をあはれみて、よきをも、あしきをもわたし給へども、善人を見てはよろこび、惡人を見てはかなしみ給へる也。よき地によき種をまかんがごとし。かまへて善人にして、しかも念佛をも修すべし。これを眞實に佛敎にしたがふ物といふ也。詮ずるところ、つねに念佛して往生に心をかけて、佛の引接を期して、やまひにふし、死におよぶべからんに、おどろく心なく往生をのぞむべき也。 南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛 (六) 東大寺十問答[第二 俊乘房問] 一 問。釋迦一代の聖敎を、みな淨土宗におさめ候か、又「三部經」にかぎり候か。答。八宗・九宗、みないづれをもわが宗の中に一代をおさめて、聖道・淨土の二門とはわかつ也。聖道門に大小あり權實あり、淨土門に十方あり西方あり、西方門に難行あり正行あり、正行に助行あり正定業あり。かくして聖道はかたし、淨土はやすしと釋しいるゝ也。宗をたつるおもむきもしらぬものゝ、「三部經」にかⅥ-0655ぎるとはいふなり。 二 問。正雜二行ともに本願にて候か。答。念佛は本願也。十方三世の佛・菩薩にすてられたるゑせ物をたすけんとて、五劫まで思惟し、六道の苦にゆづり、これをたよりにてすくはんと支度し給へる本願の名號也。ゆめゆめ雜行本願といふ物は、佛の五智をうたがひて邊地にとゞまる也。見佛聞法の利益にしばしばもるゝ物也。これは誑惑のものの道心もなきが、山寺法師なんどにほめられんとて、佛意をばかへりみ〔ず〕いひいだせる事なり。 三 問。三心具足の念佛者は、決定往生歟。答。決定往生する也。三心に智具の三心あり、行具の三心あり。智具の三心といふは、諸宗修學の人、本宗の智をもて信をとりがたきを、經論の明文を出し、解釋のおもむきを談じて、念佛の信をとらしめんとてとき給へる也。行具の三心といふは、一向に歸すれば至誠心也、疑心なきは深心也、往生せんとおもふは廻向心也。かるがゆへに一向念佛して、うたがふおもひなく往生せんとおもふは行具の三心也。五念・四修も一向に信ずる物には自然に具する也。 四 問。念佛は、かならず念珠をもたずとも、くるしかるまじく候か。答。かなⅥ-0656らず念珠をもつべき也。世間のうたをうたひ舞をまふそら、その拍子にしたがふ也。念珠をはかせにて、舌と手とをうごかす也。たゞし无明を斷ぜざらんものは妄念おこるべし。世間の客と主とのごとし。念珠を手にとる時は、妄念のかずをとらんとは約束せず、念佛のかずとらんとて、念佛のあるじをすゑつるうゑは、念佛は主、妄念は客人也。さればとて心の妄念をゆるされたるは、過分の恩也。それにあまさへ、口に樣々の雜言をして、念珠をくりこしなんどする事、ゆゝしきひが事なり。 五 問。この大佛かくあふぎまいらせて候は、この大佛の御はからひにて、淨土にもおくりつけさせ給ふべく候か。答。この事沙汰のほかの事也。三寶をたつるに三あり。一に一體三寶といふは、法身の理のうゑに三寶の名をたつる也。萬法みな法身より出生するがゆへ也。二に別相三寶といふは、十方の諸佛は佛寶也、その智慧および所說の經敎は法寶也、三乘の弟子は僧寶也。もし大佛むかへ給はゞ、三寶の次第もみだるべし。そのゆへは、畫像・木像は住持の佛寶也、かきつけたる經卷は法寶也、畫像・木像の三乘は僧寶也。住持と別相と、もとも分別せらるべし。なかんづくに、本尊は娑婆にとゞまりて、行者は西方にさらん事、Ⅵ-0657存のほかの事也。たゞし淨土の佛のゆかしさに、そのかたちをつくりて眞佛の恩をなすは、功德をうる事也。 六 問。有智の人のよのつねならんと、无智の人のほかに道心ありとみへ候はんと、いづれにてか候べき。答。小智のものゝ道心なからんは、无智の人の道心あらんには、千重・萬重のおとり也。かるがゆへに、无智の人の念佛は、本願なれば往生すべし。小智のものゝ道心なからんは、あるいは不淨說法、あるいは虛說人師にあり、決定地獄におつべし。たゞし无智の人の道心は、ひが事をま事とおもひて、おそるまじき事を〔ば〕おそれ、おそるべき事をばおそれぬ也。大智の人の道心なからんは、道をしりてやすくゆく人也。盲目の人を明眼の人にたとへん事、あさましき事也。道心おなじ事ならば、小智のものはなを无智の人に萬億倍すぐべき也。无智の人の道心は、わびてがてらの事也。 七 問。念佛申人は、かならず攝取の益にあづかり候か。答。しかなり。 八 問。攝取の光明は、一度てらしては、いつも不退なると申人の候は、一定にて候か。答。この事おほきなるひが事也。念佛のゆへにこそてらすひかりの、念佛退轉してのちは、なにものをたよりにてゝらすべきぞ。さやうにあるならば、Ⅵ-0658念佛一遍申さぬものやはある。されども往生するものはすくなく、せざるものはおほき事、現證たれかうたがはん。 九 問。本願には「十念」(大經*卷上)、成就には「一念」(大經*卷下)と候は、平生にて候か、臨終にて候か。答。去年申候き。聖道にはさやうに一行を平生にしつれば、罪卽時に滅して、のちに又相續せざれども成佛すといふ事あり。それはなを縁をむすばしめんとて、佛の方便してとき給へる事也、順次の義にはあらず。華嚴・禪門・眞言・止觀なんどの至極甚深の法門こそ、さる事はあれ。これは衆生もとより懈怠のものなれば、疑惑のもの一度申をきてのち申さずとも、往生するおもひに住して、數遍を退轉せん事は、くちおしかるべし。十念は上盡一形に對する時の事也。おそく念佛にあひたらん人はいのちつゞまりて、百念にもおよばぬ十念、十念にもおよばぬ一念也。この源空がころもをやきすてゝこそ、麻のゆかりを滅したるにてはあらめ。これがあらんかぎりは、麻の滅したるにてはなき事也。過去无始よりこのかた、罪業をもて成ぜる身ももとのごとし、心ももとの心ならば、なにをか業成し、罪滅するしるしとすべき。罪滅する物は无生をう、无生をうる物は金色のはだへとなる。彌陀の願に「金色となさん」(大經*卷上意)とちかはせ給へども、Ⅵ-0659念佛申人、たれか臨終以前に金色となる。たゞものさかしからで、「一發心已後无有退轉」(散善*義意)の釋をあふひで、臨終をまつべき也。 十 問。臨終來迎は、報佛にておはしまし候か。答。念佛往生の人は、報佛の迎にあづかる。雜行の人々の往生するは、かならず化佛の來迎にて候也。念佛もあるいは餘行をまじへ、あるいは疑心をいさゝかもまじふる物は、化佛の來迎を見て、佛をかくしたてまつるもの也。 建久二年三月十三日東大寺聖人奉問空上人御答也 (七) 御消息[第三] (1) 御文こまかにうけ給はり候ぬ。かやうに申候事の、一分の御さとりをもそへ、往生の御心ざしもつよくなり候ひぬべからんには、おそれをも、はゞかりをも、かへりみるべきにて候はず、いくたびも申たくこそ候へ。ま事にわが身のいやしく、わが心のつたなきをばかへりみ候はず、たれたれもみな人の、彌陀のちかひをたのみて、決定往生のみちに、おもむけかしとこそおもひ候へども、人の心さまざまにして、たゞ一すぢにゆめまぼろしのうき世ばかりのたのしみ・さかへをもとⅥ-0660めて、すべてのちの世をもしらぬ人も候。又後世をおそるべきことはりをおもひしりて、つとめおこなふ人につきても、かれこれに心をうごかして、一すぢに一行をたのまぬ人も候。又いづれの行にても、もとよりしはじめ、おもひそめつる事をば、いかなることはりきけども、もとの執心をあらためぬ人も候。又けふはいみじく信をおこして、一す〔ぢに〕おもむきぬとみゆる程に、うちすつる人も候。かくのみ候て、ま事しく淨土の一門にいりて、念佛の一行をもはらにする人のありがたく候事は、わが身ひとつのなげきとこそは人しれずおもひ候へども、法によりて人によらぬことはりをうしなはぬ程の人も、ありがたき世にて候。おのづからすゝめ心み候にも、われからのあなづらはしさに、申いづることはりすてらるゝにこそなんど、おもひしらるゝ事にてのみ候が、心うくかなしく候て、これゆへはいまひときは、とくとく淨土にむまれてさとりをひらきてのち、いそぎこの世界に返りきたりて、神通方便をもて、結縁の人をも无縁のものをも、ほむるをもそしるをも、みなことごとく淨土へむかへとらんとちかひをおこしてのみこそ、當時の心をもなぐさむる事にて候に、このおほせこそ、わが心ざしもしるしある心ちして、あまりにうれしく候へ。その義にて候はゞ、おなじくは、まめやⅥ-0661かにげにげにしく御沙汰候ひて、ゆくすゑもあやうからず、往生もたのもしき程に、おぼしめしさだめさせおはしますべく候。詮じては、人のはからひ申すべき事にても候はず、よくよく案じて御らん候へ。この事にすぎたる御大事、何事かは候べき。この世の名聞・利養は、中々に申ならぶるも、いまいましく候。やがて昨日・今日、まなこにさへぎり、みゝにみちたるはかなさにて候めれば、事あたらしく申たつるにおよばず、たゞ返々も御心をしづめて、おぼしめしはからふべく候。さきには聖道・淨土の二門を心えわきて、淨土の一門にいらせおはしますべきよしを申候き。いまは淨土門につきておこなふべき樣を申候べし。 淨土に往生せんとおもはん人は、安心・起行と申て、心と行との相應すべき也。その心といふは、『觀无量壽經』に釋していはく、「もし衆生ありて、かのくにゝむまれんとねがはんものは、三種の心をおこしてすなはち往生すべし。なにをか三つとする。一には至誠心、二には深心、三には廻向發願心也。三心を具せるもの、かならずかのくにゝむまる」といへり。善導和尙この三心を釋していはく、「一に至誠心といは、至といは眞也、誠といは實也。一切衆生の身口意業に修せんところの解行、かならず眞實心の中になすべき事をあらはさんとおもふ。ほかⅥ-0662には賢善精進の相を現じて、うちには虛假をなす事なかれ。内外明闇をえらばず、かならず眞實をもちゐよ。かるがゆへに至誠心となづく」(散善*義意)といへり。この釋の心は、至誠心といふは眞實の心也。その眞實といふは、身にふるまひ、口にいひ、心におもはん事、みなま事の心を具すべき也。すなはちうちはむなしくして、ほかをかざる心のなきをいふ。この心は、うき世をそむきてま事のみちにおもむくとおぼしき人々の中に、よくよく用意すべき心ばへにて候也。われも人も、いふばかりなきゆめの世を執する心のふかゝりしなごりにて、ほどほどにつけて名聞・利養をわづかにふりすてたるばかりを、ありがたくいみじき事にして、やがてそれを、返りて又名聞にしなして、この世さまにも心のたけのうるせきにとりなして、さとりあさき世間の人の心の中をばしらず、貴がりいみじかるを、これこそは本意なれ、しえたる心ちして、みやこのほとりをかきはなれて、かすかなるすみかをたづぬるまでも、心のしづまらんためをばつぎにして、本尊・道場の莊嚴や、まがきのうちには、木立なんどの心ぼそくも、あはれならんことがらを、人にみへきかれん事をのみ執する程につゆの事も、人のそしりにならん事あらじと、いとなむ心よりほかにおもひさす事もなきやうなる心ちのみして、佛のちかⅥ-0663ひをたのみ、往生をねがはんなんどいふ事をばおもひいれず、沙汰もせぬ事の、やがて至誠心かけて往生もえせぬ心ばへにて候也。又かく申候へば、一づにこの世の人目をばいかにもありなんとて、人のそしりをかへりみぬがよきぞと申べきにては候はず。たゞし時にのぞみたる譏嫌のために、世間の人目をかへりみる事は候とも、それをのみおもひいれて、往生のさわりになるか〔た〕をばかへりみぬ樣にひきなされ候はん事の、返々もおろかにくちおしく候へば、御身にあたりても、御心えさせまいらせ候はんために申候也。この心につきて、四句の不同あるべし。一には、外相は貴げにて、内心は貴からぬ人あり。二には、外相も内心もともに貴からぬ人あり。三には、外相は貴げもなくて、内心貴き人あり。四には、外相も内心もともに貴き人あり。四人が中には、さきの二人はいまきらふところの至誠心かけたる人也、これを虛假の人となづくべし。のちの二人は至誠心具したる人也、これを眞實の行者となづくべし。されば詮ずるところは、たゞ内心にま事の心をおこして、外相はよくもあれあしくもあれ、とてもかくてもあるべきにやとおぼへ候也。おほかたこの世をいとはん事も、極樂をねがはん事も、人目ばかりをおもはで、まことの心をおこすべきにて候也。これを至誠心と申候Ⅵ-0664也。 「二に深心」といふは、善導釋し給ひていはく、「これに二種あり。一には決定して、わが身はこれ煩惱を具せる罪惡生死の凡夫也、善根うすくすくなくして、曠劫よりこのかた、つねに三界に流轉して、出離の縁なしと信ずべし。二には、かの阿彌陀佛、四十八願をもて衆生を攝取し給ふ。すなはち名號を稱する事、下十聲・一聲にいたるまで、かの願力に乘じて、さだめて往生する事をうと信じて、乃至一念もうたがふ心なきゆ〔へ〕に深心となづく。又深信といふは、決定して心をたてゝ、佛敎にしたがひて修行して、ながくうたがひをのぞき、一切の別解・別行・異學・異見・異執のために、退失傾動せられざる也」(散善*義意)といへり。この釋の心は、はじめにはわが身の程を信じ、のちにはほとけの願を信ずる也。たゞし、のちの信を決定せんがために、はじめの信心をばあぐる也。そのゆへは、もしはじめの信心をあげずして、のちの信心を出したらましかば、もろもろの往生をねがはん人、たとひ本願の名號をばとなふとも、みづから心に貪欲・瞋恚等の煩惱をもおこし、身に十惡・破戒等の罪惡をもつくりたる事あらば、みだりに自ら身をひがめて、返て本願をうたがひ候ひなまし。いまこの本願に十聲・一聲まⅥ-0665でに往生すといふは、おぼろげの人にはあらじ。妄念もおこらず、罪もつくらず、めでたき人にてぞあるらん。わがごときのともがらの、一念・十念にてはよもあらじとぞおぼへまし。しかるを善導和尙、未來の衆生の、このうたがひをのこさん事をかゞみて、この二種の信心をあげて、われらがごとき、いまだ煩惱をも斷ぜず、罪をもつくれる凡夫なりとも、ふかく彌陀の本願を信じて念佛すれば、一聲にいたるまで決定して往生するむねを釋し給へり。この釋のことに心にそみて、いみじくおぼへ候也。ま事にかくだにも釋し給はざらましかば、われらが往生は不定にぞおぼへましと、あやしくおぼへ候て、さればこの義を心えわかぬ人やらん、わが心のわろければ往生はかなはじなんどこそは、申あひて候めれ。そのうたがひの、やがて往生せぬ心にて候けるものを、たゞ心のよき・わろきをも返りみず、罪のかろき・おもきをも沙汰せず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿彌陀佛ととなへば、聲につきて決定往生のおもひをなすべし。その決定の心によりて、すなはち往生の業はさだまる也。かく心うればうたがひもなし。不定とおもへばやがて不定也、一定とおもへば一定する事にて候也。されば詮じては、ふかく信ずる心と申候は、南無阿彌陀佛と申せば、その佛のちかひにて、いかなるⅥ-0666とがをもきらはず、一定むかへ給ふぞと、ふかくたのみて、うたがふ心のすこしもなきを申候けるに候。又別解・別行にやぶられざれと申候は、さとりことに、行ことならん人のいはん事について、念佛をもすて、往生をもうたがふ事なかれと申候也。さとりことなる人と申は、天台・法相等の八宗の學生これ也。行ことなる人と申すは、眞言・止觀等の一切の行者これ也。これらはみな聖道門の解行也。淨土門の解行にことなるがゆへに、別解・別行となづくる也。あらぬさとりの人に、いひやぶらるまじき事はりをば、善導こまかに釋し給ひて候へども、その文ひろくして、つぶさにひくにおよばず。心をとりて申さば、たとひ佛きたりてひかりをはなち、したをいだして、煩惱罪惡の凡夫の念佛して一定往生すといふ事は、ひが事ぞ信ずべからずとの給とも、それによりて一念もうたがふ心あるべからず。そのゆへは、一切の佛はみなおなじ心に衆生をばみちびき給ふ也。すなはちまづ阿彌陀如來、願をおこしていはく、「もしわれ佛になりたらんに、十方の衆生、わがくにゝむまれんとねがひて、名號をとなふる事、下十聲・一聲にいたらんに、わが願力に乘じて、もしむまれずんば、正覺をとらじ」(大經*卷上意)とちかひ給て、その願成就してすでに佛になり給へり。しかるを釋迦ほとけ、この世Ⅵ-0667界にいでゝ、衆生のためにかの佛の本願をとき給へり。又六方におのおの恆河沙數の諸佛ましまして、口々に舌をのべて三千世界におほふて、无虛妄の相を現じて、釋迦佛の彌陀の本願をほめて、一切衆生をすゝめて、かの佛の名號をとなふれば、さだめて往生すととき給へるは、決定してうたがひなき事也。一切衆生みなこの事を信ずべしと證誠し給へり。かくのごとき一切の諸佛、一佛ものこらず同心に、一切凡夫念佛して決定して往生すべきむねを、あるいは願をたて、あるいはその願をとき、あるいはその說を證して、すゝめ給へるうゑには、いかなる佛の又きたりて、往生すべからずとはの給べきぞといふことはりの候ぞかし。このゆへに、佛きたりての給ともおどろくべからずとは申候也。佛なをしかり、いはんや聲聞・縁覺をや、いかにいはんや凡夫をやと心えつれば、一とたびもこの念佛往生の法門をきゝひらきて、信をおこしてんのちは、いかなる人とかく申とも、ながくうたがふ心あるべからずとこそおぼへ候へ。これを深心と申候也。 「三に廻向發願心」といふは、善導釋していはく、「過去及今生の身口意業に修するところの世出世の善根、および他の一切の凡聖の身口意業に修せんところの世出世の善根を隨喜して、この自他所修の善根をもて、ことごとくみな眞實深信のⅥ-0668心の中に廻向して、かのくにゝむまれんとねがふ也。又廻向發願心といふは、かならず決定眞實の心の中に廻向してむまるゝ事をうるおもひをなせ。この心ふかく信じて、なをし金剛のごとくして、一切の異見・異學・別解・別行の人のために動亂破壞せられざれ」(散善*義意)といへり。この釋の心は、まづわが身につきて、さきの世およびこの世に、身にも口にも心にもつくりたらん功德、みなことごとく極樂に廻向して往生をねがふ也。つぎにはわが身の功德のみならず、こと人のなしたらん功德をも、佛・菩薩のつくらせ給ひたらん功德をも隨喜すれば、みなわが功德となるをもて、ことごとく極樂に廻向して往生をねがふ也。すべてわが身の事にても、人の事にても、この世の果報をもいのり、おなじくのちの世の事なれども、極樂ならぬ餘の淨土にむまれんとも、もしは都率にむまれんとも、もしは人中天上にむまれんとも、たとひかくのごとく、かれにてもこれにても、こと事に廻向する事なくして、一向に極樂に往生せんと廻向すべき也。もしこの事はりをもおもひさだめざらんさきに、この世の事をもいのり、あらぬかたへも廻向したらん功德をもみなとり返して、往生の業になさんと廻向すべき也。一切の善根をみな極樂に廻向すべしと申せばとて、念佛に歸して一向に念佛申さん人の、Ⅵ-0669ことさらに餘の功德をつくりあつめて廻向せよとには候はず。たゞすぎぬるかたにつくりおきたらん功德をも、もし又このゝちなりとも、おのづから便宜にしたがひて、念佛のほかの善を修する事のあらんをも、しかしながら往生の業に廻向すべしと申す事にて候也。「この心金剛のごとくにして、別解・別行にやぶられざれ」と申候は、さきにも申候つる樣に、ことさとりの人におしへられて、かれこれに廻向する事なかれと申候心也。金剛はやぶれぬものにて候なれば、たとへにとりて、この心のやぶられぬ事も金剛のごとくなれと申候にやとおぼへ候。これを廻向發願心とは申候也。 三心のありさま、おろおろ申ひらき候ぬ。「この三心を具してかならず往生す。一の心もかけぬれば、むまるゝ事をえず」(禮讚)と善導は釋し給ひたれば、往生をねがはん人は最もこの三心を具すべき也。しかるにかやうに申したるには、別々にて事々しきやうなれども、心えとくには、さすがにやすく具しぬべき心にて候也。詮じては、たゞま事の心ありて、ふかく佛のちかひをたのみて、往生をねがはんずるにて候ぞかし。さればあさくふかくのかはりめこそ候へども、さほどの心はなにかおこさゞらんとこそはおぼへ候へ。かやうの事は、うとくおもふおりⅥ-0670には、大事におぼへ候。とりよりて沙汰すれば、さすがにやすき事にて候也。よくよく心えとかせおはしますべく候。たゞしこの三心〔は、〕その名をだにもしらぬ人もそらに具して往生し、又こまかにならひ沙汰する人も返りて闕る事も候也。これにつきても四句の不同候べし。さは候へども、又これを心えて、わが心には三心具したりとおぼへば、心づよくもおぼへ、又具せずとおぼへば、心をもはげまして、かまへて具せんとおもひしり候はんは、よくこそは候ひぬべければ、心のおよぶ程は申候に候。このうゑ、さのみはつくしがたく候へば、とゞめ候ぬ。又この中におぼつかなくおぼしめす事候はんをば、おのづから見參にいり候はん時、申ひらくべく候。これぞ往生すべき心ばへの沙汰にて候。これを安心とはなづけて候也。   [わたくしにいはく、淨土門に入べき御消息ありけりと見えたり。いまだたづねえず。] (2) ある人のもとへつかはす御消息。 念佛往生は、いかにもしてさはりを出し、難ぜんとすれども、往生すまじき道理Ⅵ-0671はおほかた候はぬ也。善根すくなしといはんとすれば、一念・十念もるゝ事なし。罪障おもしといはんとすれば、十惡・五逆も往生をとぐ。人をきらはんといはんとすれば、常沒流轉の凡夫をまさしきうつは物とせり。時くだれりといはんとすれば、末法萬年のすゑ、法滅已後さかりなるべし。この法はいかにきらはんとすれども、もるゝ事なし。たゞちからおよばざる事は、惡人をも時をもえらばず、攝取し給ふ佛なりとふかくたのみて、わが身をかへりみず、ひとすぢに佛の大願業力によりて、善惡の凡夫往生をうと信ぜずして本願をうたがふばかりこそ、往生にはおほきなるさはりにて候へ。 一 いかさまにも候へ、末代の衆生は今生のいのりにもなり、まして後生の往生は念佛のほかにはかなふまじく候。源空がわたくしに申す事にてはあらず、聖敎のおもてにかゞみをかけたる事にて候へば、御らんあるべく候也。 (3) 熊谷の入道へつかはす御返事。 御文よろこびてうけ給はり候ぬ。まことにそのゝちおぼつかなく候つるに、うれしくおほせられて候。たんねんぶつの文かきてまいらせ候、御らん候べし。念佛Ⅵ-0672の行は、かの佛の本願の行にて候。持戒・誦經・誦呪・理觀等の行は、かの佛の本願にあらぬおこなひにて候へば、極樂をねがはん人は、まづかならず本願の念佛の行をつとめてのうゑに、もしことおこなひをも念佛にしくわへ候はんとおもひ候はゞ、さもつかまつり候。又たゞ本願の念佛ばかりにても候べし。念佛をつかまつり候はで、たゞことおこなひばかりをして極樂をねがひ候人は、極樂へもえむまれ候はぬ事にて候よし、善導和尙のおほせられて候へば、但念佛が決定往生の業にては候也。善導和尙は阿彌陀の化身にておはしまし候へば、それこそは一定にて候へと申候に候。又女犯と候は、不婬戒の事にこそ候なれ。又御きうだちどものかんだうと候は、不瞋戒のことにこそ候なれ。されば持戒の行は、佛の本願にあらぬ行なれば、たへたらんにしたがひて、たもたせ給べく候。けうやうの行も佛の本願にあらず、たへんにしたがひて、つとめさせおはしますべく候。又あかゞねの阿字の事も、おなじことに候。又さくぢやうの事も、佛の本願にあらぬつとめにて候。とてもかくても候なん。又かうせうのまんだらは、たいせちにおはしまし候。それもつぎの事に候。たゞ念佛を三萬、もしは五萬、もしは六萬、一心に申させおはしまし候はんぞ、決定往生のおこなひにては候。こと善根Ⅵ-0673は、念佛のいとまあらばの事に候。六萬遍をだに申させ給はゞ、そのほかにはなに事をかはせさせおはしますべき。まめやかに一心に、三萬・五萬、念佛をつとめさせ給はゞ、せうせう戒行やぶれさせおはしまし候とも、往生はそれにはより候まじきことに候。たゞしこのなかにけうやうの行は、佛の本願の行にては候はねども、八十九にておはしまし候なり。あひかまへてことしなんどをば、まちまいらせさせおはしませかしとおぼへ候。あなかしこ、あなかしこ。 五月二日 源空[御自筆也] (4) ある時の御返事 およそこの條こそ、とかく申におよび候はず、めでたく候へ。往生をせさせ給ひたらんには、すぐれておぼへ候。死期しりて往生する人々は、入道どのにかぎらずおほく候。かやうに耳目おどろかす事は、末代にはよも候はじ。むかしも道綽禪師ばかりこそおはしまし候へ、返々申ばかりなく候。たゞしなに事につけても、佛道には魔事と申す事の、ゆゝしき大事にて候なり。よくよく御用心候べきなり。かやうに不思議をしめすにつけても、たよりをうかゞふ事も候ひぬべきなり。めⅥ-0674でたく候にしたがひて、いたはしくおぼえさせ給て、かやうに申候なり。よくよく御つゝしみ候て、ほとけにもいのりまいらせさせ給ふべく候。いつか御のぼり候べき、かまえてかまえて、のぼらせおはしませかし。京の人々おほやうは、みな信じて念佛をもいますこしいさみあひて候。これにつけても、いよいよすゝませ給ふべく候。あしざまにおぼしめすべからず候。なをなをめでたく候。あなかしこ、あなかしこ。 四月三日 源空 熊谷入道殿へ わたくしにいはく、これは熊谷入道念佛して、やうやうの現瑞を感じたりけるを、上人へ申あげたりける時の御返事なり。 (八) 往生淨土用心[第四] (1) 一 每日御所作六萬遍、めでたく候。うたがいの心だにも候はねば、十念・一念も往生はし候へども、おほく申候へば、上品にむまれ候。釋にも「上品花臺見慈主、到者皆因念佛多」(五會法事*讚卷本)と候へば。 Ⅵ-0675(2) 一 宿善によりて往生すべしと人の申候らん、ひが事にては候はず。かりそめのこの世の果報だにも、さきの世の罪・功德によりて、よくもあしくもむまるゝ事にて候へば、まして往生程の大事、かならず宿善によるべしと聖敎にも候やらん。たゞし念佛往生は、宿善のなきにもより候はぬやらん。父母をころし、佛身よりちをあやしたるほどの罪人も、臨終に十念申て往生すと、『觀經』にも見えて候。しかるに宿善あつき善人は、おしへ候はねども、惡におそれ佛道に心すゝむ事にて候へば、五逆なんどは、いかにもいかにもつくるまじき事にて候也。それに五逆の罪人、念佛十念にて往生をとげ候時に、宿善のなきにもより候まじく候。されば『經』(觀經意)に「若人造多罪、得聞六字名、火車自然去、花臺卽來迎。極重惡人无他方便、唯稱念佛得生極樂。若有重業障无生淨土因、乘彌陀願力、必生安樂國」。この文の心、もし五逆をつくれりとも、彌陀の六字の名をきかば、火の車自然にさりて、蓮臺きたりてむかふべし。又きはめておもき罪人の他の方便なからんも、彌陀をとなへたてまつらば極樂にむまるべし。又もしおもきさはりありて淨土にむまるべき因なくとも、彌陀の願力にのりなば、安樂國にむまるべしと候へば、たのもしく候。又善導の釋には、「曠劫よりこのかた六道に輪廻して、Ⅵ-0676出離の縁なからん常沒の衆生をむかへんがために、阿彌陀ほとけは佛になり給へり」(散善*義意)と候。その「常沒の衆生」と申候は、恆河のそこにしづみたるいき物の、身おほきにながくして、その河にはゞかりて、えはたらかず、つねにしづみたるに、惡世の凡夫をばたとへられて候。又凡夫と申二の文字をば、「狂醉のごとし」(藏寶鑰*卷上意)と弘法大師釋し給へり。げにも凡夫の心は、物ぐるひ、さけにゑいたるがごとくして、善惡につけて、おもひさだめたる事なし。一時に煩惱百たびまじはりて、善惡みだれやすければ、いづれの行なりとも、わがちからにては行じがたし。しかるに生死をはなれ、佛道にいるには、菩提心をおこし、煩惱をつくして、三祇百劫、難行苦行してこそ、佛にはなるべきにて候に、五濁の凡夫、わがちからにては願行そなはる事かなひがたくて、六道四生にめぐり候也。彌陀如來、この事をかなしみおぼして、法藏菩薩と申しゝいにしへ、我等が行じがたき僧祇の苦行を、兆載永劫があひだ功をつみ德をかさねて、阿彌陀ほとけになり給へり。一佛にそなへ給へる四智・三身・十力・无畏等の一切の内證の功德、相好・光明・說法・利生等の外用の功德、さまざまなるを三字の名字のなかにおさめいれて、「この名號を十聲・一聲までもとなへん物を、かならずむかへん。もしむかⅥ-0677へずは、われ佛にならじとちかひ給へるに、かの佛いま現に世にましまして、佛になり給へり。名號をとなへん衆生往生うたがふべからず」(禮讚意)と、善導もおほせられて候也。この樣をふかく信じて、念佛おこたらず申て、往生うたがはぬ人を、他力信じたるとは申候也。世間の事にも他力は候ぞかし、あしなえ、こしゐたる物のゝ、とをきみちをあゆまんとおもはんに、かなはねば船・車にのりてやすくゆく事、これわがちからにあらず、乘物のちからなれば他力也。あさましき惡世の凡夫の諂曲の心にて、かまへつくりたるのり物にだに、かゝる他力あり。まして五劫のあひだおぼしめしさだめたる本願他力のふね・いかだに乘なば、生死の海をわたらん事、うたがひおぼしめすべからず。しかのみならず、やまひをいやす草木、くろがねをとる磁石、不思議の用力也。又麝香はかうばしき用あり、さいの角はみづをよせぬちからあり。これみな心なき草木、ちかひをおこさぬけだ物なれども、もとより不思議の用力はかくのみこそ候へ。まして佛法不思議の用力ましまさゞらんや。されば、念佛は一聲に八十億劫のつみを滅する用あり、彌陀は惡業深重の物を來迎し給ふちからましますと、おぼしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せず、つみのふかきあさきも返りみず、たゞ名號となふるものゝ、Ⅵ-0678往生するぞと信じおぼしめすべく候。すべて破戒も持戒も、貧窮も福人も、上下の人をきらはず、たゞわが名號をだに念ぜば、いし・かわらを變じて金となさんがごとし、來迎せんと御約束候也。法照禪師の『五會法事讚』(卷本)にも、 「彼佛因中立弘誓 聞名念我總來迎 不簡貧窮將富貴 不簡下智與高才 不簡多聞持淨戒 不簡破戒罪根深 但使廻心多念佛 能令瓦礫變成金」 たゞ御ずゞをくらせおはしまして、御舌をだにもはたらかされず候はんは、けだいにて候べし。たゞし善導の、三縁の中の親縁を釋し給ふに、「衆生ほとけを禮すれば、佛これを見給ふ。衆生佛をとなふれば、佛これをきゝ給ふ。衆生佛を念ずれば、佛も衆生を念じ給ふ。かるがゆへに阿彌陀佛の三業と行者の三業と、かれこれひとつになりて、佛も衆生もおや子のごとくなるゆへに、親縁となづく」(定善*義意)と候めれば、御手にずゞをもたせ給て候はゞ、佛これを御らん候べし。御心に念佛申すぞかしとおぼしめし候はゞ、佛も衆生を念じ給ふべし。されば佛にみえまいらせ、念ぜられまいらする御身にてわたらせ給はんずる也。さは候へどⅥ-0679も、つねに御したのはたらくべきにて候也。三業相應のためにて候べし。三業とは身と口と意とを申候也。しかも佛の本願の稱名なるがゆへに、聲を本體とはおぼしめすべきにて候。さてわがみゝにきこゆる程申候は、高聲の念佛のうちにて候なり。高聲は大佛をおがみ、念ずるは佛のかずへもなど申げに候。いづれも往生の業にて候べく候。 (3) 一 御无言めでたく候。たゞし无言ならで申す念佛は、功德すくなしとおぼしめされんはあしく候。念佛をば金にたとへたる事にて候。金は火にやくにもいろまさり、みづにいるゝにも損ぜず候。かやうに念佛は妄念のおこる時申候へどもけがれず、物を申しまずるにもまぎれ候はず。そのよしを御心えながら、御念佛の程はこと事まぜずして、いますこし念佛のかずをそえんとおぼしめさんは、さんて候。もしおぼしめしわすれて、ふと物なんどおほせ候て、あなあさまし、いまはこの念佛むなしくなりぬとおぼしめす御事は、ゆめゆめ候まじく候。いかやうにて申候とも、往生の業にて候べく候。 (4) 一 百萬遍の事、佛の願にては候はねども、『小阿彌陀經』(意)に「若一日、若二日、乃至七日、念佛申人、極樂に生ずる」とはかゝれて候へば、七日念佛申べきにてⅥ-0680候。その七日の程のかずは、百萬遍にあたり候よし、人師釋して候時に、百萬遍は七日申べきにて候へども、たへ候はざらん人は、八日・九日なんどにも申され候へかし。さればとて、百萬遍申さゞらん人のむまるまじきにては候はず、一念・十念にてもむまれ候也。一念・十念にてもむまれ候ほどの念佛とおもひ候うれしさに、百萬遍の功德をかさぬるにて候也。 (5) 一 七分全得の事、仰のまゝに申げに候。さてこそ逆修はする事にて候へ。さ候へば、のちの世をとぶらひぬべき人候はん人も、それをたのまずして、われとはげみて念佛申して、いそぎ極樂へまいりて、五通三明をさとりて、六道四生の衆生を利益し、父母師長の生所をたづねて、心のまゝにむかへとらんとおもふべきにて候也。又當時日ごとの御念佛をも、かつがつ廻向しまいらせられ候べし。なき人のために念佛を廻向し候へば、阿彌陀ほとけひかりをはなちて、地獄・餓鬼・畜生をてらし給ひ候へば、この三惡道にしづみて苦をうくる物、そのくるしみやすまりて、いのちおはりてのち、解脫すべきにて候。『大經』(卷上)にいはく、「若在三塗勤苦之處、見此光明、皆得休息无復苦惱。壽終之後、皆蒙解脫」。 (6) 一 本願のうたがはしき事もなし、極樂のねがはしからぬにてはなけれども、往Ⅵ-0681生一定とおもひやられて、とくまいりたき心のあさゆふは、しみじみともおぼえずとおほせ候事、ま事によからぬ御事にて候。淨土の法門をきけどもきかざるがごとくなるは、このたび三惡道よりいでゝ、つみいまだつきざるもの也。又經にもとかれて候。又この世をいとふ御心、うすくわたらせ給ふにて候。そのゆへは、西國へくだらんともおもはぬ人に、船をとらせて候はんに、ふねのみづにうかぶ事なしとはうたがひ候はねども、當時さしているまじければ、いたくうれしくも候まじきぞかし。さて〔か〕たきの城なんどにこめられて候はんが、からくしてにげてまかり候はんみちに、おほきなる河海なんどの候て、わたるべきやうもなからんおり、おやのもとよりふねをまうけてむかへにたびたらんは、さしあたりていかばかりかうれしく候べき。これがやうに、貪瞋煩惱のかたきにしばられて、三界の樊籠にこめられたるわれらを、彌陀悲母の御心ざしふかくして、名號の利劍をもちて生死のきづなをきり、本願の要船を苦海のなみにうかべて、かのきしにつけ給ふべしとおもひ候はんうれしさは、歡喜のなみだたもとをしぼり、渴仰のおもひきもにそむべきにて候。せめては身の毛いよだつほどにおもふべきにて候を、のさにおぼしめし候はんは、ほいなく候へども、それもことはりにて候。Ⅵ-0682つみつくる事こそおしへ候はねども、心にもそみておぼえ候へ。そのゆへは、无始よりこのかた六趣にめぐりし時も、かたちはかはれども心はかはらずして、いろいろさまざまにつくりならひて候へば、いまもうゐうゐしからず、やすくはつくられ候へ。念佛申て往生せばやとおもふ事は、このたびはじめてわづかにきゝえたる事にて候へば、きとは信ぜられ候はぬ也。そのうゑ、人の心は頓機・漸機とて二しなに候也。頓機はきゝてやがてさとる心にて候。漸機はやうやうさとる心にて候也。物まうでなんどをし候に、あしはやき人は一時にまいりつくところへ、あしおそき物は日ぐらしにもかなはぬ樣には候へども、まいり心だにも候へば、つゐにはとげ候やうに、ねがふ御心だにわたらせ給ひ候はゞ、とし月をかさねても御信心もふかくならせおはしますべきにて候。 (7) 一 日ごろ念佛申せども、臨終に善知識にあはずは往生しがたし。又やまひ大事にて心みだれば、往生しがたしと申候らんは、さもいはれて候へども、善導の御心にては、極樂へまいらんと心ざして、おほくもすくなくも念佛申さん人のいのちつきん時は、阿彌陀ほとけ聖衆とゝもにきたりてむかへ給ふべしと候へば、日ごろだにも御念佛候はゞ、御臨終に善知識候はずとも、ほとけはむかへさせ給ふⅥ-0683べきにて候。又善知識のちからにて往生すと申候事は、『觀經』の下三品の事にて候。下品下生の人なんどこそ、日ごろ念佛も申候はず、往生の心も候はぬ逆罪の人の、臨終にはじめて善知識にあひて、十念具足して往生するにてこそ候へ。日ごろより他力の願力をたのみ、思惟の名號をとなへて、極樂へまいらんとおもひ候はん人は、善知識のちから候はずとも、佛は來迎し給ふべきにて候。又かろきやまひをせんといのり候はん事も、心かしこくは候へども、やまひもせでしに候人も、うるはしくおはる時には、斷末摩のくるしみとて、八萬の塵勞門より无量のやまひ身をせめ候事、百千のほこ・つるぎにて身をきりさくがごとし。されば、まなこなきがごとくして、みんとおもふ物をも見ず、舌のねすくみて、いはんとおもふ事もいはれず候也。これは人間の八苦のうちの死苦にて候へば、本願信じて往生ねがひ候はん行者も、この苦はのがれずして悶絶し候とも、いきのたえん時は、阿彌陀ほとけのちからにて、正念になりて往生をし候べし。臨終はかみすぢきるがほどの事にて候へば、よそにて凡夫さだめがたく候。たゞ佛と行者との心にてしるべく候也。そのうゑ三種の愛心おこり候ひぬれば、魔縁たよりをえて、正念をうしなひ候也。この愛心をば善知識のちからばかりにてはのぞきがたく候。Ⅵ-0684阿彌陀ほとけの御ちからにてのぞかせ給ひ候べく候。「諸邪業繫无能礙者」(定善義)、たのもしくおぼしめすべく候。又後世者とおぼしき人の申げに候は、まづ正念に住して念佛申さん時に、佛來迎し給ふべしと申げに候へども、『小阿彌陀經』には、「與諸聖衆現在其前。是人終時、心不顚倒、卽得往生阿彌陀佛極樂國土」と候へば、人のいのちおはらんとする時、阿彌陀ほとけ聖衆とゝもに、目のまへにきたり給ひたらんを、まづみまいらせてのちに、心は顚倒せずして、極樂にむまるべしとこそ心えて候へ。されば、かろきやまひをせばや、善知識にあはばやといのらせ給はんいとまにて、いま一返もやまひなき時念佛を申して、臨終には阿彌陀ほとけの來迎にあづかりて、三種の愛をのぞき、正念になされまいらせて、極樂にむまれんとおぼしめすべく候。さればとて、いたづらに候ぬべからん善知識にもむかはでおはらんとおぼしめすべきにては候はず。先德たちのおしへにも、臨終の時に阿彌陀佛を西のかべに安置しまいらせて、病者そのまへに西むきにふして、善知識に念佛をす〔ゝ〕められよとこそ候へ。それこそあらまほしき事にて候へ。たゞし人の死の縁は、かねておもふにもかなひ候はず、にはかにおほぢ・みちにておはる事も候。又大小便利のところにてしぬる人も候。前業のがれがたくて、Ⅵ-0685たち・かたなにていのちをうしなひ、火にやけ、水におぼれて、いのちをほろぼすたぐひおほく候へば、さやうにてしに候とも、日ごろの念佛申て極樂へまいる心だにも候人ならば、いきのたえん時に、阿彌陀・觀音・勢至きたりむかへ給べしと信じおぼしめすべきにて候也。『往生要集』(卷下)にも、「時所諸縁を論ぜず、臨終に往生をもとめねがふにその便宜をえたる事、念佛にはしかず」と候へば、たのもしく候。 このよしをよみ申させ給ふべく候。八つの事しるしてまいらせ候。これはのちに御たづね候し御返事にて候。 (8) 一 所作おほくあてがひてかゝんよりは、すくなく申さん一念もむまるなればとおほせの候事、ま事にさも候ぬべし。ただし『禮讚』の中には、「十聲一聲、定得往生、乃至一念无有疑心」と釋せられて候へども、『疏』(散善義)の文には「念々不捨者、是名正定之業」と候へば、十聲・一聲にむまると信じて、念々にわするゝ事なく、となふべきにて候。又「彌陀名號相續念」(法事讚*卷下)とも釋せられて候。されば、あひついで念ずべきにて候。一食のあひだに三度ばかりおもひいでんは、よき相續にて候。つねにだにおぼしめしいでさせ給ひ候はゞ、十萬・六萬申させ給ひ候はずⅥ-0686とも、相續にて候ぬべけれども、人の心は當時みる事きく事にうつる物にて候へば、なにとなく御まぎれの中には、おぼしめしいでん事かたく候ぬべく候。御所作おほくあてゝ、つねにずゞをもたせ給ひ候はゞ、おぼしめしいで候ぬとおぼえ候。たとひ事のさはりありて、かゝせおはしまして候とも、あさましや、かきつる事よとおぼしめし候はゞ、御心にかけられ候はんずるぞかし。とてもかくても御わすれ候はずは、相續にて候べし。又かけて候はん御所作を、つぎの日申いれられ候はん事、さも候なん。それもあす申いれ候はんずればとて、御ゆだん候はんはあしく候。せめての事にてこそ候へ。御心えあるべく候。 (9) 一 魚鳥に七箇日のいみの候なる事、さもや候らん、えみおよばず候。地體はいきとしいける物は過去のちゝ・はゝにて候なれば、くふべき事にては候はず。又臨終には、さけ・いを・とり・き・にら・ひるなんどはいまれたる事にて候へば、やまひなんどかぎりになりては、くふべき物にては候はねども、當時きとしぬばかりは候はぬやまひの、月日つもり苦痛もしのびがたく候はんには、ゆるされ候なんとおぼえ候。御身おだしくて念佛申さんとおぼしめして、御療治候べし。いのちおしむは往生のさはりにて候。やまひばかりをば療治はゆるされ候なんとおⅥ-0687ぼえ候。 二の事の御たづね、しるしてまいらせ候。よくよくよみ申させ給ふべく候。 拾遺黑谷語錄卷下 愚見のおよぶところ、集編かくのごとし。しかるに世の中に黑谷の御作といふ文おほし。いはゆる『決定往生行相抄』・『本願相應抄』・『安心起行作業抄』・『九條の北の政所へ進ずる御返事』Wかの御返事に二通あり、これは三心をのせたる本なりR。この文どもは、餘の和語の書に文章も似ず、義勢もたがへり。おほきにうたがひあるうゑに、ふるき人僞書と申つたへたり。しかればこれをいれず。又『廿二問答』とて廿六、七張の文あり。又『臨終行儀』とて五、六張の文あり。眞僞しりがたし。いさゝかおぼつかなきによりて、これをのぞけり。又『念佛得失義』といふ文あり、上人の御作といへり。しかれども、これはまさしくあらぬ人のつくれる文也。このほかにま事しからぬ文二、三本あり。中々〔に〕いふにたらぬ物ども也。およそ二十餘年のあひだ、あまねく花夷をたづね、くはしく眞僞をⅥ-0688あきらめて、これを取捨すといへども、あやまる事おほからん、後賢かならずたゞすべし。又おつるところの眞書あらば、この拾遺に續くべし。心ざすところは、衆生をして淨土の正路におもむかしめんがためなり。あなかしこ、あなかしこ。 望西樓沙門了慧謹疏 語燈錄瑞夢事 嵯峨に貴女おはしき。後世をねがふ御心ふかくして、往生院の善導堂に御參籠ありて、往生をいのり申されけるに、御ゆめに、善導和尙一卷のまき物をもちて、これは『ことばのともしび』といふふみ也、これを見て念佛申さば決定往生すべしとて、さづけさせ給へば、よにうれしくおぼえて、うけとらせ給へば、ゆめさめぬ。ありがたくおぼしめして、かゝる文やあると諸方を御たづねあるに、すべてなし。さては妄想にてやありつらんとて、かさねて御參籠ありて祈請申されける時、二尊院・往生院兼參する本心房といふ僧、善導堂へまいりたりけるに、この事を御たづねありければ、本心房申ていはく、『ことばのともしび』と申文は、Ⅵ-0689『語燈錄』の事にてぞ候らん。法然上人の御書をあつめたる文にて候とて、かしまいらせたりければ、よろこびてこれを御らんずるに、往生うたがひなくおぼえさせ給ければ、やがてうつさんとおぼしめしたちける夜の御ゆめに、束帶なる上臘の二人、兩方にたゝせ給たりけるを、いづくよりいらせ給て候ぞと申されければ、われはこの『ことばのともしび』の守護のために、北野・平野の邊よりまいりて候也とおほせられけるに、又そばに貴げなる僧の、あの上臘は、北野天神・平野大明神にておはします也。一切衆生の信をまさんずる聖敎なるあひだ、三十神の番々にまはりて、守護せさせ給ぞと、おほせらるゝとおもひて、うちおどろかせ給ぬ。ことに貴くおぼしめして、これをうつして、つねにみまいらすれば、往生の事は、いまは手にとりたるやうにおぼえ候ぞと、まさしく御物がたり候きと、本心房つたへ申しき。さてそのゝり、一心に御念佛ありて、正和元年W壬子R八月に三日さきだちて時日をしろしめして、われはこの月の四日の卯の時に往生すべしとおほせら〔れ〕けるが、日も時もたがはず、八月四日卯のはじめに、高聲念佛百三十遍となへて、御こゑとゝもに、御いきとゞまらせ給ひき。御とし廿九とうけ給はりき。くはしく『語錄驗記』のごとし[云云]。善導の御さづけ、神明の御守護、Ⅵ-0690かたがたたのもしくおぼえて、はゞかりながらこれをしるすところ也。およそこの『錄』を見て、安心をとりて往生をとげたる人おほし。くはしくしるすにおよばず[云云]。 元亨元年辛酉のとし、ひとへに上人の恩德を報じたてまつらんがため、又もろもろの衆生を往生の正路におもむかしめんがために、この和語の印板をひらく。 一向專修沙門 南無阿彌陀佛 圓智 謹疏 沙門了惠、感歎にたへず、隨喜のあまり七十九歲の老眼をのごひて、和語七卷の印本を書之。 元亨元年W辛酉R七月八日終謹疏 法橋幸嚴卷頭