Ⅵ-0397黑谷上人語燈錄卷第十一[幷序] 厭欣沙門了惠集錄 しづかにおもんみれば、良醫のくすりはやまひのしなによてあらはれ、如來の御のりは機の熟するにまかせてさかりなり。日本一州淨機純熟して、朝野遠近みな淨土に歸し、緇素貴賤ことごとく往生を期す。その濫觴をたづぬれば、天國排開廣庭天皇W欽明R御世に、百濟國より釋迦・彌陀の靈像、はじめてこのくににわたり給へり。釋迦は撥遣の敎主、彌陀は來迎の本尊なれば、二尊心をおなじくして、往生のみちをひろめんがためなるべし。しかれば、小墾田天皇W推古Rの御時、聖德太子、二佛の御心にしたがはせ給ひて七日彌陀の名號を稱して、祖王W欽明Rの恩を報じ、御文を善光寺の如來へたてまつり給ひしかば、如來みづから御返事ありき。 太子の御消息にいはく、 「名號稱揚七日已 斯此爲報廣大恩 Ⅵ-0398仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念」 如來の御返事にいはく、 「一念稱揚無恩留 何況七日大功德 我待衆生心無間 汝能濟度豈不護」 太子つゐに往生を異境にあらはして、利益を本朝にしめし給ひき。そのゝち大炊天皇の御時、彌陀・觀音化しきたりて、極樂の曼陀羅をおりあらはして、往生の本尊とさだめおき給ふ。こゝに六字の功德ほゞあらはれて、二尊の本意やうやくひろまりしかば、行基菩薩・慈覺大師等の聖人、みな極樂をねがひてさり給ひき。惠心僧都は、楞嚴の月のまえに往生の要文をあつめ、永觀律師は、禪林の花のもとに念佛の十因を詠じて、おのおの淨土の敎行をひろめ給ひしかども、往生の化道いまださかりならざりしに、なかごろ黑谷の上人、勢至菩薩の化身として、はじめて彌陀の願意をあきらめ、もはら稱名の行をすゝめ給ひしかば、勸化一天にあまねく、利生萬人におよぶ。淨土宗といふ事は、この時よりひろまりけるなり。しかれば、往生の解行をまなぶ人、みな上人をもて祖師とす。こゝにかのながれをくむ人おほきなかに、おのおの義をとる事まちまちなり。いはゆる餘行は本願Ⅵ-0399か本願にあらざるか、往生するやせずや、三心のありさま、二修のすがた、一念・多念のあらそひなり。まことに金鍮しりがたく、邪正いかでかわきまふべきなれば、きくものおほく、みなもとをわすれてながれにしたがひ、あたらしきを貴てふるきをしらず。『尙書』にいえる事あり、「人貴舊器貴新」。予、この文におどろきて、いさゝか上人のふるきあとをたづねて、やゝ近代のあたらしきみちをすてんとおもふ。仍て、あるひはかの書狀をあつめ、あるひは書籍にのするところの詞を拾ふ。やまとことばはその文みやすく、その心さとりやすし。ねがはくは、もろもろの往生をもとめん人、これをもて燈として、淨土のみちをてらせとなり。もしおつるところの書あらば、後賢かならずこれに續け。時に文永十二年正月廿五日、上人遷化の日、報恩の心ざしをもて、いふ事しか也。 和語第二之一[當卷有三篇] (一)三部經釋第一 (二)御誓言書第二 (三)往生大要抄第三 Ⅵ-0400(一) 三部經釋[第一] 黑谷作 『雙卷經』・『觀經』・『阿彌陀經』、これを「淨土三部經」といふ。 『雙卷經』には、まづあみだほとけの四十八願をとく、のちに願成就をあかせり。その四十八願といふは、法藏比丘、世自在王佛の御まえにして菩提心をおこして、淨佛國土・成就衆生の願をたて給ふ。およそその四十八願に、あるいは无三惡趣ともたて、あるいは不更惡趣ともとき、あるいは悉皆金色ともいふは、みな第十八の願のためなり。「設我得佛、十方衆生、至心信樂、欲生我國、乃至十念、若不生者、不取正覺」(大經*卷上)といへるは、四十八願のなかに、この願ことにすぐれたりとす。そのゆえは、かのくにゝもしむまるゝ衆生なくは、悉皆金色・无有好醜等の願も、なにゝよてか成就せん。往生する衆生のあるにつきてこそ、身のいろも金色に、好醜ある事もなく、五通をも具し、宿命をもさとるべけれ。これによて、善導釋しての給はく、「法藏比丘四十八願をたて給ひて、願々にみな、若我得佛、十方衆生、稱我名號、願生我國、下至十念、若不生者、不取正覺W云云R。四十八願に一一にみなこの心あり」(玄義*分意)と釋し給へり。およそ諸佛の願といふは、Ⅵ-0401上求菩提・下化衆生の心なり。大乘經にいはく、「菩薩願有二種、一上求菩提、二下化衆生心也。其上求菩提本意、爲易濟度衆生。」W云云Rしかれば、たゞ本意は下化衆生の願にあり。いま彌陀如來の國土を成就し給ふも、衆生を引接せんがためなり。總じていづれのほとけも、成佛已後は内證外用の功德、濟度利生の誓願、いづれもいづれもみなふかくして、勝劣ある事なけれども、菩薩の道を行じ給ひし時の善巧方便のちかひ、みなこれまちまちなる事也。彌陀如來は因位の時、もはらわが名號を念ぜんものをむかえんとちかひ給ひて、兆載永劫の修行を衆生に廻向し給ふ。濁世のわれらが依怙、末代の衆生の出離、これにあらずは、なにをか期せんや。これによて、かのほとけも、「我建超世願」(大經*卷上)となのり給へり。三世の諸佛も、いまだかくのごとくの願をばおこし給はず。十方の薩埵も、いまだこれらの願はましまさず。「斯願若剋果、大千應感動、虛空諸天人、當雨珍妙花」(大經*卷上)とちかひ給ひしかば、大地六種に震動し、天より花ふりて、なんぢまさに正覺をなり給ふべしとつげたりき。法藏比丘いまだ成佛し給はずとも、この願うたがふべからず。いかにいはんや、成佛已後十劫になり給へり、信ぜずはあるべからず。「彼佛今現在世成佛、當知本誓重願不虛、衆生稱念必得往生」(禮讚)と釋Ⅵ-0402し給へるはこれなり。「諸有衆生、聞其名號、信心歡喜、乃至一念、至心廻向、願生彼國、卽得往生、住不退轉、唯除五逆、誹謗正法。」(大經*卷下)[文]これは第十八の願成就の文なり。願には「乃至十念」(大經*卷上)とゝくといへども、まさしく願成就のなかには一念にありとあかせり。つぎに三輩往生の文あり。これは第十九の臨終現前の願成就の文なり。發菩提心等の業をもて三輩をわかつといえども、往生の業は通じてみな「一向專念无量壽佛」(大經*卷下)といえり。これすなはちかのほとけの本願なるがゆえなり。「其佛本願力、聞名欲往生、皆悉到彼國、自致不退轉」(大經*卷下)といふ文あり。漢朝に玄通律師といふ〔も〕のありき、小戒をたもてるものなり。遠行して野寺に宿したりけるに、隣房に人ありてこの文を誦す。玄通これをきゝて、一兩遍誦してのち、おもひいだす事もなくてわすれにけり。そのゝちこの玄通律師、戒をやぶれり。そのつみによて閻魔の廳にいたる時、閻魔法王の給はく、なんぢ佛法流布のところにむまれたりき。所學の法あらば、すみやかにとくべしとて、高座にのぼせ給ひき。その時玄通、高座にのぼりておもひめぐらすに、すべて心におぼゆる事なし。野寺に宿してきゝし文あり、これを誦せんとおもひいでゝ、「其佛本願力」といふ文を誦したりしかば、閻魔法王、たまのかぶⅥ-0403りをかたぶけて、これはこれ、西方極樂の彌陀如來の功德をとく文なりといひて、禮拜し給ひき。願力不思議なる事、この文に見えたり。「佛語彌勒、其有得聞彼佛名號、信心歡喜乃至一念、當知此人爲得大利、卽是具足无上功德。」(大經*卷下意)[文]彌勒菩薩、この『經』を付屬し給ふには、乃至一念するをもて大利无上の功德との給へり。『經』の大意、これらの文にあきらかなるものなり。 次に『觀經』には、定善・散善をときて、念佛をもて阿難に付屬し給ふ。「汝好持是語」(觀經)といえるはこれなり。第九の眞身觀に、「光明徧照、十方世界、念佛衆生、攝取不捨」(觀經)といふ文あり。濟度衆生の願は平等にして差別ある事なけれども、无縁の衆生は利益をかうぶる事あたはず。このゆえに、彌陀善逝、平等の慈悲にもよほされて、十方世界にあまねく光明をてらして、一切衆生にことごとく縁をむすばしめんがために、光明无量の願をたて給へり。第十二の願これなり。名號をもて因として、衆生を引接し給ふ事を、一切衆生にあまねくきかしめんがために、第十七の願に「十方世界の无量の諸佛、ことごとく咨嗟して、わが名を稱せずといはゞ、正覺をとらじ」(大經*卷上)といふ願をたて給ひて、次に十八の願に「乃至十念、若不生者、不取正覺」(大經*卷上)とたて給へり。これによて、釋迦如來こⅥ-0404の土にしてとき給ふがごとく、十方にもおのおの恆河沙のほとけましまして、おなじくこれをしめし給へるなり。しかれば、光明の縁はあまねく十方世界をてらしてもらす事なく、又十方无量の諸佛みな名號を稱讚し給へば、きこえずといふところなし。「我至成佛道、名聲超十方、究竟靡所聞、誓不成正覺」(大經*卷上)とちかひ給ひしは、このゆえなり。しかれば、光明の縁と名號の因と和合せば、攝取不捨の益をかうぶらん事うたがふべからず。このゆえに、『往生禮讚』の序にいはく、「諸佛所證平等是一、若以願行來收非无因縁。然彌陀世尊、本發深重誓願、以光明・名號攝化十方」といへり。又この願ひさしく衆生を濟度せんがために、壽命无量の願をたて給へり。第十三の願これなり。總じては、光明无量の願は、橫に一切衆生をひろく攝取せんがためなり。壽命无量の願は、竪に十方世界をひさしく利益せんがためなり。かくのごとくの因縁和合すれば、攝取の光明のなかに又化佛・菩薩ましまして、この人を攝護して百重千重圍繞し給ふに、信心いよいよ增長し、衆苦ことごとく消滅す。臨終の時、ほとけみづから來迎し給ふに、もろもろの邪業繫よくさふるものなし。これは衆生いのちおはる時にのぞみて、百苦きたりせめて身心やすき事なく、惡縁ほかにひき、妄念うちにもよをして、境Ⅵ-0405界・自體・當生の三種の愛心きおひおこる。第六天の魔王、この時にあたりて威勢をおこして、もてさまたげをなす。かくのごときの種々のさはりをのぞかんがために、かならず臨終の時にはみづから菩薩聖衆に圍繞せられて、その人のまえに現ぜんとちかひ給へり。第十九の願これ也。これによて、臨終の時いたれば、ほとけ來迎し給ふ。行者これを見たてまつりて、心に歡喜をなして、禪定にいるがごとくして、たちまちに觀音の蓮臺に乘じて、安養の寶池にいたる也。これらの益あるがゆえに、「念佛衆生攝取不捨」(觀經)といふなり。 又この『經』(觀經)に「具三心者必生彼國」ととけり。「三心」といは、一には至誠心、二には深心、三には廻向發願心なり。三心はまちまちにわかれたりといへども、要をとり詮をえらんでこれをいえば、深心におさめたり。善導和尙釋し給はく、「至といは眞なり、誠といは實なり。一切衆生の身口意業に修するところの解行、かならず眞實心のなかになすべき事をあかさんとす。ほかに賢善精進の相を現じて、うちに虛假をいだく事をえざれ」(散善義)といえり。その「解行」といは、罪惡生死の凡夫、彌陀の本願によて、十聲・一聲決定してむまると、眞實にさとりて行ずる、これなり。ほかには本願を信ずる相を現じ、うちには疑心をいだく、これⅥ-0406は不眞實の心なり。 「深心はふかく信ずる心なり。決定してふかく自身は現にこれ罪惡生死の凡夫なり、曠劫よりこのかたつねに流轉して、出離の縁なしと信じ、決定してふかくこの阿彌陀如來は四十八願をもて衆生を攝取し給ふ事、うたがひなくおもんぱかりなければ、かの願力に乘じてさだめて往生する事をうと信ずべし」(散善義)といへり。はじめに、まづ「罪惡生死の凡夫、曠劫よりこのかた出離の縁ある事なしと信ぜよ」といへるは、これすなはち斷善闡提のごとくなるもの也。かゝる衆生の一念・十念すれば、无始よりこのかた、いまだいでざる生死の輪廻をいでゝ、かの極樂世界の不退の國土にむまるといふによりて、信心はおこるべきなり。およそほとけの別願の不思議は、たゞ心のはかるところにあらず、佛と佛とのみよくしり給へり。阿彌陀佛の名號をとなふるによて、五逆・十惡ことごとくむまるといふ別願の不思議のちからまします、たれかこれをうたがふべき。善導の『疏』(散善義)にいはく、「あるいは人ありて、なんぢ衆生、曠劫よりこのかたおよび今生の身口意業に、一切の凡聖の身のうゑにおいて、つぶさに十惡・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等のつみをつくりて、いまだのぞきつくす事あたはず。しⅥ-0407かも、これらのつみは三界惡道に繫屬す。いかんぞ、一生の修福念佛をもてすなはちかの无漏无生のくにゝいりて、ながく不退のくらゐを證悟する事をえんやといはば、いふべし。諸佛の敎行は、かず塵沙にこへたり。稟識の機縁、隨情ひとつにあらず。たとへば世間の人のまなこに見つべく信じつべきがごときは、明よく暗を破し、空よく有をふくむ、地よく載養し、みづよく生潤し、火よく成壞するがごとし。かくのごときらの事、ことごとく待對の法となづく。すなはちみづから見るべし、千差萬別なり。いかにいはんや、佛法不思議のちから、あに種々の益なからんや」といへり。極樂世界に水鳥・樹林の微妙の法をさやづるは不思議なれども、これらはほとけの願力なればと信じて、なんぞたゞ第十八の「乃至十念」(大經*卷上)といふ願をのみうたがふべきや。總じて佛說を信ぜば、これも佛說なり。花嚴の三无差別、般若の盡淨虛融、法花の實相眞如、涅槃の悉有佛性、たれか信ぜざらんや。これも佛說なり、かれも佛說なり。いづれをか信じ、いづれをか信ぜざらんや。それ三字の名號はすくなしといへども、如來所有の内證外用の功德、萬億恆沙の甚深の法門を、このうちにおさめたり。たれかこれをはかるべきや。『疏』の「玄義分」(意)にこの名號を釋していはく、「阿彌陀佛といは、これ天Ⅵ-0408竺の正音。こゝには翻じて无量壽覺といふ。无量壽といはこれ法、覺といはこれ人。人法ならべてあらはす。かるがゆえに阿彌陀佛といふ。人法といは所觀の境也。これについて依報あり、正報あり」といへり。しかれば、はじめ彌陀如來・觀音・勢至・普賢・文殊・地藏・龍樹より、乃至かの土の菩薩・聲聞等にいたるまでそなへ給へるところの事理の觀行、定惠の功力、内證の智惠、外用の功德、總じて萬德无漏の所證の法門、みなことごとく三字のなかにおさまれり。總じて極樂界にいづれの法門かもれたるところあらん。しかるを、この三字の名號をば、諸宗おのおのわが宗に釋しいれたり。眞言には阿字本不生の義、四十二字を出生せり。一切の法は阿字をはなれたる事なきがゆえに、功德甚深の名號といえり。天台宗には空・假・中の三諦、正・了・縁の三義、法・報・應の三身、如來所有の功德これをいでざるがゆえに、功德莫大なりといへり。かくのごとく諸宗におのおのわが存ずるところの法について、阿彌陀の三字を釋せり。いまこの宗の心は、眞言の阿字本不生の義も、天台の三諦一理の法も、三論の八不中道のむねも、法相の五重唯識の心も、總じて森羅の萬法ひろくこれを攝すとならふ。極樂世界にもれたる法門なきがゆえに。たゞしいま彌陀の願の心は、かくのごとくさとるⅥ-0409にはあらず。たゞふかく信心をいたしてとなふるものをむかえんとなり。耆婆・扁鵲が萬病をいやすくすりは、もろもろの草・よろづのくすりをもて合藥せりといえども、病者これをさとりて、その藥種何分、その藥草何兩和合せりとしらず。しかれども、これを服するに萬病ことごとくいゆるがごとし。たゞしうらむらくは、このくすりを信ぜずして、わがやまひはきはめておもし、いかゞこのくすりにてはいゆる事あらんとうたがひて服せずんば、耆婆が醫術も、扁鵲が祕方も、むなしくしてその益あるべからざるがごとく、彌陀の名號もかくのごとし。それ煩惱惡業のやまひ、きわめておもし、いかゞこの名號をとなえてむまるゝ事あらんとうたがひてこれを信ぜずは、彌陀の誓願・釋尊の所說、むなしくてそのしるしあるべからず。たゞあふいで信ずべし、良藥をえて服せずして死する事なかれ。崑崙のやまにゆきてたまをとらずしてかえり、栴檀のはやしにいりて枝をよぢずしていでなば、後悔いかゞせん、みづからよく思量すべし。 そもそもわれら曠劫よりこのかた、佛の出世にもあひけん、菩薩の化道にもあひけん。過去の諸佛も、現在の如來も、みなこれ宿世の父母なり、多生の朋友なり。かれはいかにして菩提を證し給へるぞ、われはなにゝよて生死にはとゞまるぞ、Ⅵ-0410はづべしはづべし、かなしむべしかなしむべし。本師釋迦如來の、大罪のやまにいりて、邪見のはやしにかくれて、三業放逸に六情全からざらん衆生を、わが國土にはとりおきて敎化度脫せしめんとちかひ給ひたりしは、そもそもいかにしてかゝる衆生をば度脫せしめんとちかひ給ふぞとたづぬれば、阿彌陀如來因位の時、无上念王と申して菩提心をおこし、生死を過度せしめむとちかひ給ひしに、釋迦如來は寶海梵志と申して、无上念王、くにのくらゐをすてゝ菩提心をおこし、攝取衆生の願をおこし給ひし時に、この寶海梵志も願をおこして、「われかならず穢土にして正覺をなりて、惡業の衆生を引導せん」(悲華經卷三*本授記品意)とちかひ給ひて、この願をおこし給ふ也。曠劫よりこのかた、諸佛出世して、縁にしたがひ、機をはかりて、おのおの衆生を化度し給ふ事、かず塵沙にすぎたり。あるいは大乘をとき小乘をとき、あるいは實敎をひろめ權敎をひろむ。有縁の機は、みなことごとくその益をう。こゝに釋尊、八相成道を五濁惡世にとなえて、放逸邪見の衆生の出離、その期なきをあはれみて、「これよりにしに極樂世界あり、佛まします、阿彌陀となづけたてまつる」(小經意)。このほとけは「乃至十念、若不生者、不取正覺」(大經*卷上)とちかひ給ひて、佛になり給へり。すみやかに念ぜよ。出離生死のみちⅥ-0411おほしといえども、惡業煩惱の衆生の、とく生死をはなるゝ事、この門にすぎたるはなしとおしえて、ゆめゆめうたがふ事なかれ。「六方恆沙の諸佛も證誠し給ふなり」(小經意)と、ねんごろにおしへ給ひて、「われもしひさしく穢土にあらば、邪見・放逸の衆生、われをそしりわれをそむきて、かへりて惡道におちなん」(法華經卷五*壽量品意)。濁世にいでたる事は、本意たゞこの事を衆生にきかしめんがためなりとて、阿難尊者に、「なんぢよくこの事を遐代に流通せよ」(散善*義意)と、ねんごろに約束しおきて、跋提河のほとり、沙羅林のもとにして、八十の春の天、二月十五の夜半に、頭北面西にして滅度に入給ひき。その時に、日月ひかりをうしなひ、草木いろを變じ、龍神八部、禽獸・鳥類にいたるまで、天にあふぎてなき、地にふしてさけぶ。阿難・目連等のもろもろの大弟子等、悲泣のなみだをおさへて、あひ議していはく、釋尊の恩になれたてまつりて八十の春秋をおくりき。化縁こゝにつきて、黃金のはだえ、たちまちにへだゝり給ひぬ。あるいはわれら世尊に問たてまつるに、答へ給へる事もありき、あるいは釋尊みづから告給ふ事もありき。濟度利生の方便、いまはたれにむかひてか問たてまつるべき。すべからく如來の御ことばをしるしおきて、未來にもつたへ、御かたみともせんといひて、多羅葉Ⅵ-0412をひろいてことごとくこれをしるしおきしを、三藏たちこれを譯して唐土へわたし、本朝へつたへ給ふ。諸宗につかさどるところの一代聖敎これ也。しかるに阿彌陀如來、善導和尙となのりて、唐土にいでゝ、「如來出現於五濁、隨機方便化群萌、或說多聞而得度、或說小解證三明、或敎福惠雙除障、或敎禪念坐思量、種種法門皆解脫、无過念佛往西方、上盡一形至十念、三念五念佛來迎、直爲彌陀弘誓重、致使凡夫念卽生」(法事讚*卷下)との給へり。釋尊出世本懷、たゞこの事にありといふべし。「自信敎人信、難中轉更難、大悲傳普化、眞成報佛恩」(禮讚)といへば、釋尊の恩を報ずるは、これたれがためぞや、ひとえにわれらがためにあらずや。このたびむなしくてすぎなば、出離いづれの時をか期せんとする。すみやかに信心をおこして生死を過度すべし。 次に廻向發願心といは、人ことに具しつべき事なり。國土の快樂をきゝて、たれかねがはざらんや。そもそも、かの國土に九品の差別あり、われらいづれの品をか期すべき。善導和尙の御心は、「極樂彌陀は報佛・報土也。未斷惑の凡夫、すべてむまるべからずといへども、彌陀の別願不思議にて、罪惡生死の凡夫、一念・十念してむまる」(玄義*分意)と釋し給へり。しかるを上古よりこのかた、「おほくⅥ-0413下品といふとも足ぬべし」(和漢朗*詠集)といひて、上品をねがはず。これは惡業のおもきをおそれて心を上品にかけざる也。もしそれ惡業によらば、總じて往生すべからず。願力によてむまれば、なんぞ上品にすゝまん事をかたしとせん。總じては彌陀淨土をまうけ給事は、願力の成就するゆえなり。しかれば、又念佛衆生のむまるべきくになり。「乃至十念、若不生者、不取正覺」(大經*卷上)とたて給ひて、この願によて感得し給ふところなるがゆえなり。いま又『觀經』の九品の業をいはば、下品は五逆・十惡の罪人、臨終の時、はじめて善知識のすゝめによて、あるいは十聲、あるいは一聲稱念して、むまるゝ事をえたり。われら罪業おもしといへども、五逆をばつくらず。行業おろそかなりといへども、一聲・十聲にすぎたり。臨終よりさきに彌陀の誓願を聞得て、隨分に信心をいたす。しかれば、下品までくだるべからず。中品は小乘の持戒の行者、孝養、仁・儀・禮・智・信等の行人なり。この品には中々にむまれがたし。小乘の行人にもあらず、たもちたる戒もなければ、われらが分にあらず。上品は大乘の凡夫、菩提心等の行なり。菩提心は諸宗おのおの心えたりといふ。淨土宗の心は、淨土にむまれんとねがふを菩提心といふ。念佛これ大乘の行なり、无上功德なり。しかれば、上品往生は手をひⅥ-0414くべからず。又本願に「乃至十念」(大經*卷上)とたて給ひて、臨終現前の願に「大衆と圍繞せられてその人のまえに現ぜん」(大經*卷上)とたて給へり。中品は聲聞衆の來迎、下品は化佛の三尊、あるいは金蓮花等の來迎なり。しかるを大衆と圍繞して現ぜんとたて給へる本願の意趣は、上品の來迎をまうけ給へり。なんぞあながちにあひすまはんや。又善導和尙、「三萬已上は上品上生の業」(觀念法*門意)との給へり。數遍によて上品にむまるべし。又三心について九品あるべし。信心によて上品にむまるべしとみえたり。上品をねがふ事は、わが身のためにはあらず。かのくにゝむまれおはりて、かえりてとく衆生を化せんがためなり。これあにほとけの御心にかなはざらんや。 次に『阿彌陀經』は、まづ極樂の依正の功德をとく。これ衆生の願樂の心をすゝめんがためなり。のちに往生の行をあかすに、「少善根をもてはむまるゝ事をうべからず。阿彌陀佛の名號を執持して、一日七日すれば往生する事をう」(小經意)とあかせり。衆生これを信ぜざらん事をおそれて、六方におのおの恆河沙の諸佛ましまして、大千の舌相をのべて證誠し給へり。善導釋していはく、「この證によてむまるゝ事をえずは、六方如來のゝべ給へるした、ひとたびくちよりいでをはりⅥ-0415て、ながくくちに返りいらずして、自然に壞爛せん」(觀念*法門)との給へり。しかれば、これをうたがはんものは、彌陀の本願をうたがふのみにあらず、釋尊の所說をうたがふなり。釋尊の所說をうたがふは、六方恆沙の諸佛の所說をうたがふなり。すなはちこれ大千にのべ給える舌相を壞爛する也。もし又これを信ぜば、たゞ彌陀の本願を信ずるのみにあらず、釋尊の所說を信ずるなり。釋尊の所說を信ずるは、六方恆沙の諸佛の所說を信ずる也。一切の諸佛を信ずるは、一切の法を信ずるになる。一切の法を信ずるは、一切の菩薩を信ずるになる。この信ひろくして廣大の信心なり。善導和尙のいはく、「爲斷凡夫疑見執、皆舒舌相覆三千、共證七日稱名號、又表釋迦言說眞」(法事讚*卷下)。「六方如來舒舌證、專稱名號至西方、到彼花開聞妙法、十地願行自然彰」(禮讚)。「心々念佛莫生疑、六方如來證不虛、三業專心无雜亂、百寶蓮花應時現。」(法事讚*卷下)[文] (二) 御誓言の書[第二] もろこし・わが朝にも、もろもろの智者たちの沙汰し申さるゝ觀念の念にもあらず。又學問をして念の心をさとりて申す念佛にもあらず。たゞ往生極樂のためにⅥ-0416は南無阿彌陀佛と申して、うたがひなく往生するぞとおもひとりて申すほかには別の子細候はず。たゞし三心・四修なんど申す事の候は、みな決定して南無阿彌陀佛にて往生するぞとおもふうちにこもり候なり。このほかにおくふかき事を存ぜば、二尊の御あはれみにはづれ、本願にもれ候べし。念佛を信ぜん人は、たとひ一代の御のりをよくよく學すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の无智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、たゞ一向に念佛すべし。 [これは御自筆の書なり、勢觀聖人にさづけられき。] (三) 往生大要抄[第三] 沙門源空 いまわが淨土宗には、二門をたてゝ釋迦一代の說敎をおさむるなり。いはゆる聖道門・淨土門なり。はじめ花嚴・阿含より、おはり法華・涅槃にいたるまで、大小乘の一切の諸經にとくところの、この娑婆世界にありながら斷迷開悟のみちを、聖道門とは申すなり。これにつきて大乘の聖道あり、小乘の聖道あり。大乘にも二あり、すなはち佛乘と菩薩と也。小乘に二あり、すなはち聲聞と縁覺との二乘なり。これをすべて四乘となづく。佛乘とは、卽身成佛の敎なり。眞言・達磨・Ⅵ-0417天台・花嚴等の四乘にあかすところなり。すなはち眞言宗には、「父母所生身、速證大覺位」(發菩提*心論)と申して、この身ながら、大日如來のくらゐにのぼるとならふ也。佛心宗には、「前佛後佛以心傳心」(達磨大師*血脈論)とならひて、たちまちに人の心をさしてほとけと申なり。かるがゆえに卽心是佛の法となづけて、成佛とは申さぬなり。この法は、釋尊入滅の時、『涅槃經』をときおはりてのち、たゞ一偈をもちて迦葉尊者に付囑し給へる法なり。天台宗には、煩惱卽菩提生死卽涅槃と觀じて、觀心にてほとけになるとならふ也。八歲の龍女が、南方无垢世界にしてたちまちに正覺をなりし、その證なり。花嚴宗には、「初發心時便成正覺」(晉譯華嚴經*卷八梵行品)とて、又卽身成佛とならふなり。これらの宗には、みな卽身頓證のむねをのべて、佛乘となづくるなり。つぎに菩薩乘といは、歷劫修行成佛の敎なり。三論・法相の二宗にならふところなり。すなはち三論宗には、八不中道の无相の觀に住して、しかも心には四弘誓願をおこし、身には六波羅蜜を行じて、三僧祇に菩薩の行を修してのち、ほとけになると申す也。法相宗には、五重唯識の觀に住して、しかも四弘をおこし、六度を行じて三祇劫をへて、ほとけになると申すなり。これらを菩薩乘となづく。つぎに縁覺乘といは、飛花落葉を見て、ひとり諸法の无常をⅥ-0418さとり、あるいは十二因縁を觀じて、ときは四生、おそきは百劫にさとりをひらくなり。つぎに聲聞乘といは、はじめ不淨・數息を觀ずるより、おはり四諦の觀にいたるまで、ときは三生、おそきは六十劫に四向三果のくらゐをへて、大羅漢の極位にいたる也。この二乘の道は、成實・倶舍の兩宗にならふところ也。又聲聞につきて、戒行をそなふべし。比丘は二百五十戒を受持し、比丘尼は五百戒を受持するなり。五篇・七聚の戒となづくる也。又沙彌・沙彌尼の戒、式沙摩尼の六法、優婆塞・優婆夷の五戒、みなこれ律宗のなかにあかすところ也。およそ大小乘をえらばず、この四乘の聖道は、われらが身にたへ、時にかなひたる事にてはなき也。もし聲聞のみちにおもむくは、二百五十戒たもちがたし、苦・集・滅・道の觀成じがたし。もし縁覺の觀をもとむとも、飛花落葉のさとり、十二因縁の觀、ともに心もおよばぬ事なり。三聚・十重の戒行發得しがたし、四弘・六度の願行成就しがたし。身子は六十劫まで修行して、乞眼の惡縁にあひて、たちまちに菩薩の廣大の心をひるがへしき。いはんや末法のこのごろをや、下根のわれらをや。たとひ卽身頓證の理を觀ずとも、眞言の入我々入・阿字本不生の觀、天台の三觀・六卽・中道實相の觀、花嚴宗の法界唯心の觀、佛心宗の卽心是佛のⅥ-0419觀、理はふかく解は〔あさ〕し。かるがゆえに末代の行者、その證をうるに、きはめてかたし。このゆへに、道綽禪師は「聖道の一種は、今時は證しがたし」(安樂集*卷上)との給へり。すなはち『大集の月藏經』をひきて、おのおの行ずべきありやうをあかせり。こまかにのぶるにおよばず。 つぎに淨土門は、まづこの娑婆世界をいとひすてゝ、いそぎてかの極樂淨土にむまれて、かのくにゝして佛道を行ずる也。しかれば、かつがつ淨土にいたるまでの願行をたてゝ、往生をとぐべきなり。しかるにかのくにゝむまるゝ事は、すべて行者の善惡をゑらばず、たゞほとけのちかひを信じ信ぜざるによる。五逆・十惡をつくれるものも、たゞ一念・十念に往生するは、すなはちこのことはり也。このゆへに道綽は、「たゞ淨土の一門の〔み〕ありて、通入すべきみちなり」(安樂集*卷上)と釋し給へり。「通じているべし」といふにつきて、わたくしに心うるに、二つの心あるべし。一にはひろく通じ、二にはとをく通ず。ひろく通ずといは、五逆の罪人をあげてなを往生の機におさむ、いはんや餘の輕罪をや、いかにいはんや善人をやと心えつれば、往生のうつはものにきらはるゝものなし。かるがゆえにひろく通ずといふ也。とをく通ずといは、「末法萬年のゝち法滅百歲までこの敎Ⅵ-0420とゞまりて、その時にきゝて一念する、みな往生す」(大經*卷下意)といへり。いはんや末法のなかをや、いかにいはんや正法・像法をやと心えつれば、往生の時もるゝ世なし。かるがゆへにとをく通ずといふなり。しかれば、このごろ生死をはなれんとおもはんものは、難證の聖道をすてて、易往の淨土をねがふべき也。又この聖道・淨土をば、難行道・易行道となづけたり。たとへをとりてこれをいふには、「難行道とはさかしきみちをかちよりゆかんがごとし、易行道とは海路をふねよりゆくがごとし」(十住論卷五*易行品意)といへり。しかるに目しゐ、あしなえたらんものは、陸地にはむかふべからず。たゞふねにのりてのみむかひのきしにはつくべき也。しかるにこのごろ、われらは智惠のまなこしゐて、行法のあしおれたるともがら也。聖道難行のさかしきみちには、すべてのぞみをたつべし。たゞ彌陀の願のふねにのりてのみ、生死のうみをわたりて極樂のきしにはつくべきなり。いまこのふねといは、すなはち彌陀の本願にたとふる也。この本願といは、四十八願也。そのなかに、第十八の願をもて、衆生の往生の行のさだめたる本願とせり。二門の大旨、略してかくのごとし。聖道の一門をさしおきて淨土の一門にいらんとおもはん人は、道綽・善導の釋をもて所依の「三部經」を習ふべきなり。さきには聖Ⅵ-0421道・淨土の二門を分別して、淨土門にいるべきむねを申ひらきつ。いまは淨土の一門につきて、修行すべきやうを申すべし。 淨土に往生せんとおもはば、心と行との相應すべきなり。かるがゆへに善導の釋にいはく、「たゞしその行のみあるは、行すなはちひとりにして、又いたるところなし。たゞその願のみあるは、願すなはちむなしくして、又いたるところなし。かならず願と行とをあひともにたすけて、ためにみな剋するところ也。およそ往生のみにかぎらず、聖道門の得道をもとめんにも、心と行とを具すべし」(玄義*分意)といへり。發心修行となづくる、これなり。いまこの淨土宗に、善導のごとくは安心・起行となづけたり。まづその安心といは、『觀无量壽經』にといていはく、「もし衆生ありて、かのくにゝむまれんとねがはんものは、三種の心をおこしてすなはち往生すべし。なにをか三とする。一には至誠心、二には深心、三には廻向發願心なり。三心を具するものは、かならずかのくにゝむまる」といへり。善導和尙の『觀經の疏』、ならびに『往生禮讚』の序にこの三心を釋し給へり。 「一に至誠心」といは、まづ『往生禮讚』の文をいださば、「一には至誠心。いはゆる身業にかのほとけを禮拜せんにも、口業にかのほとけを讚嘆稱揚せんにも、意Ⅵ-0422業にかのほとけを專念觀察せんにも、およそ三業をおこすには、かならず眞實をもちゐよ。かるがゆへに至誠心となづく」といへり。つぎに『觀經の疏』(散善*義意)の文をいださば、「一に至誠心といは、至といは眞なり、誠といは實なり。一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず眞實心のなかになすべき事をあかさんとおもふ。ほかには賢善精進の相を現じて、うちには虛假をいだく事なかれ。善の三業をおこす事は、かならず眞實心のなかになすべし。内外明闇をゑらばず、みな眞實をもちゐよ」といへり。 この二つの釋をひいて、わたくしに料簡するに、至誠心といは眞實の心なり。その眞實といは、内外相應の心なり。身にふるまひ、口にいひ、意におもはん事、みな人めをかざる事なく、ま事をあらはす也。しかるを、人つねにこの至誠心を熾盛心と心えて、勇猛強盛の心をおこすを至誠心と申すは、この釋の心にはたがふ也。文字もかはり、心もかはりたるものを。さればとて、その猛利の心はすべて至誠心をそむくと申にはあらず。それは至誠心のうゑの熾盛心にてこそあれ。眞實の至誠心を地にして、熾盛なるはすぐれ、熾盛ならぬはおとるにてある也。これにつきて、九品の差別までもこゝろうべき也。されば善導の『觀經の疏』(散善義)Ⅵ-0423に、九品の文を釋するしたに、一一の品ごとに「辨定三心以爲正因」とさだめて、「この三心は九品に通ずべし」(散善*義意)と釋し給へり。惠心もこれをひきて、「禪師の釋のごときは、理九品に通ずべし」(要集*卷中)とこそはしるされたれ。この三心の中、かの至誠心なれば、至誠心すなはち九品に通ずべき也。又至誠心は、深心と廻向發願心とを體とす。この二をはなれては、なにゝよりてか至誠心をあらはすべき。ひろくほかをたづぬべきにあらず、深心も廻向發願心もまことなるを至誠心とはなづくる也。三心すでに九品に通ずべしと心えてのうゑには、その差別のあるやうをこゝろうるに、三心の淺深強弱によるべき也。かるがゆへに上品上生には、『經』(觀經)に「精進勇猛なるがゆへに」とゝき、釋には「日數すくなしといへども、作業はげしきがゆへに」(玄義分)といへり。又上品中生をば、「行業やゝよはくして」と釋し、上品下生をば、「行業こわからず」なんど釋せられたれば、三心につきて、こわきもよわきもあるべしとこそこゝろえられたれ。よわき三心具足したらん人は、くらゐこそさがらんずれ、なを往生はうたがふべからざる也。それは強盛の心をおこさずは至誠心かけて、ながく往生すべからずと心えて、みだりに身をもくだし、あまさへ人をもかろしむる人々の不便におぼゆる也。さらなり強盛の心Ⅵ-0424のおこらんは、めでたき事なり。『善導の十德』の中に、はじめの至誠念佛の德をいだすにも、「一心に念佛して、ちからのつくるにあらざればやまず、乃至寒冷にも又あせをながす、この相狀をもて至誠をあらはす」なんどあるなれば、たれだれもさこそははげむべけれ。たゞしこの定なるをのみ至誠心と心えて、これにたがはんをば至誠心かけたりといはんには、善導のごとく至誠心至極して、勇猛ならん人ばかりぞ往生はとぐべき。われらがごときの尪弱の心にては、いかゞ往生すべきと臆せられぬべき也。かれは別して善導一人の德をほむるにてこそあれ、これは通じて一切衆生の往生を決するにてあれば、たくらぶべくもなき事也。所詮はたゞわれらがごときの凡夫、をのをの分につけて、強弱眞實の心をおこすを、至誠心となづけたるとこそ、善導の釋の心は見えたれ。 文につけてこまかに心うれば、「ほかには賢善精進の相を現じ、うちには虛假をいだく事なかれ」といふは、うちにはをろかにして、ほかにはかしこき相を現じ、うちには惡をのみつくりて、ほかには善人の相を現じ、うちには懈怠にして、ほかには精進の相を現ずるを、虛假とは申す也。外相の善惡をばかへりみず、世間の謗譽をばわきまえず、内心に穢土をもいとひ、淨土をもねがひ、惡をもとゞめ、Ⅵ-0425善をも修して、まめやかに佛の意にかなはん事をおもふを、眞實とは申也。眞實は虛假に對することば也。眞と假と對し、虛と實と對するゆへなり。この眞實虛假につきてくはしく分別するに、四句の差別あるべし。一には、ほかをかざりて、うちにはむなしき人。二には、ほかをもかざらずうちもむなしき人。三には、ほかはむなしく見えて、うちはま事ある人。四には、ほかにもまことをあらはし、うちにもまことある人。かくのごときの四人のなかには、さきの二人をば、ともに虛假の行者といふべし。のちの二人をば、ともに眞實の行者といふべし。しかれば、たゞ外相の賢愚・善惡をばゑらばず、内心の邪正・迷悟によるべき也。およそこの眞實の心は、人ことに具しがたく、事にふれてかけやすき心ばへなり。おろかにはかなしといましめられたるやうもあることはり也。无始よりこのかた、今身にいたるまで、おもひならはしてさしもひさしく心をはなれぬ名利の煩惱なれば、たたんとするにやすらかにはなれがたきなりけりと、おもひゆるさるゝかたもあれども、又ゆるしはんべるべき事ならねば、わが心をかへりみて、いましめなをすべき事也。しかるにわが心の程もおもひしられ、人のうゑをも見るに、この人めかざる心ばへは、いかにもいかにもおもひはなれぬこそ、返々心うくかⅥ-0426なしくおぼゆれ。この世ばかりをふかく執する人は、たゞまなこのまえのほめられ、むなしき名をもあげんとおもはんをば、いふにたらぬ事にておきつ。うき世をそむきて、まことのみちにおもむきたる人々のなかにも、返りてはかなくよしなき事かなとおぼゆる事もある也。むかしこの世を執する心のふかゝりしなごりにて、ほどほどにつけたる名利をふりすてたるばかりを、ありがたくいみじき事におもひて、やがてそれをこの世さまにも心のいろのうるせきに、とりなしてさとりあさき世間の人の心のそこをばしらず、うゑにあらはるゝすがた事がらばかりを、たとがりいみじがるをのみ本意におもひて、ふかき山ぢをたづね、かすかなるすみかをしむるまでも、ひとすぢに心のしづまらんためとしもおもはで、おのづからたづねきたらん人、もしはつたへきかん人の、おもはん事をのみさきだて〔ゝ、〕まがきのうち庭のこだち、菴室のしつらひ、道場の莊嚴なんど、たとくめでたく、心ぼそく物あはれならん事がらをのみ、ひきかえんと執するほどに、罪の事も、ほとけのおぼしめさん事をばかえりみず、人のそしりにならぬ樣をのみおもひいとなむ事よりほかにはおもひまじふる事もなくて、ま事しく往生をねがふべきかたをば思もいれぬ事なんどのあるが、やがて至誠心かけて往生せぬ心Ⅵ-0427ばへにてある也。又世をそむきたる人こそ、中々ひじり名聞もありてさやうにもあれ、世にありながら往生をねがはん人は、この心はなにゆへにかあるべきと申す人のあるは、なをこまやかに心えざる也。世のほまれをおもひ、人めをかざる心はなに事にもわた〔る〕事なれば、ゆめまぼろしの榮花重職をおもふのみにはかぎらぬ事にてある也。中々在家の男女の身にて後世をおもひたるをば、心ある事のいみじくありがたきとこそは人も申す事なれば、それにつけてほかをかざりて、人にいみじがられんとおもふ人のあらんもかたかるべくもなし。まして世をすてたる人なんどにむかひては、さなからん心をも、あはれをしり、ほかにあひしらはんために、後世のおそろしさ、この世のいとはしさなんどは申すべきぞかし。又か樣に申せば、ひとへにこの世の人めはいかにもありなんとて、人のそしりをもかへりみず、ほかをかざらねばとて、心のまゝにふるまふがよきと申すにてはなき也。菩薩の譏嫌戒とて、人のそしりになりぬべき事をばなせそとこそ、いましめられたれ。これははうにまかせてふるまえば、放逸とてわろき事にてあるなり。それに時にのぞみたる譏嫌戒のためばかりに、いさゝか人めをつゝむかたは、わざともさこそあるべき事を、人目をのみ執してま事のかたをもかへりみず、往Ⅵ-0428生のさはりになるまでにひきなさるゝ事の、返々もくちおしき也。譏嫌戒となづけて、やがて虛假になる事もありぬべし。眞實といひなして、あまり放逸なる事もありぬべし。これをかまえてかまえてよくよく心えとくべし。詞なをたらぬ心ちする也。又この眞實につきて、自利の眞實、利他の眞實あり。又三界六道の自他の依正をいとひすてゝ、かろしめいやし〔めんに〕も、阿彌陀佛〔の〕依正二報を禮拜・讚嘆・憶念せんにも、およそ厭離穢土・欣求淨土の三業にわたりてみな眞實なるべきむね、『疏』の文につぶさ也。その文しげくして、ことごとくいだすにあたはず。至誠心のありさま、略してかくのごとし。 「二に深心」といは、まづ『禮讚』の文にいはく、「二者深心。すなはち眞實の信心なり。自身はこれ煩惱を具足せる凡夫なり、善根薄少にして三界に流轉して火宅をいでずと信知して、いま彌陀の本弘誓願の名號を稱する事しも十聲・一聲にいたるまで、さだめて往生する事をうと信知して、乃至一念もうたがふ心ある事なかれ。かるがゆえに深心となづく」〔とい〕へり。つぎに『觀經〔の〕疏』(散善*義意)の文にいはく、「二に深〔心といは、〕すなはちこれ深信の心なり。又二種あり。一には決定してふかく、自身は現にこれ罪惡生死の凡夫なり、曠劫よりこのかた常沒流轉Ⅵ-0429して、出離の縁ある事なしと信ぜよ。二には決定してふかく、かの阿彌陀佛の、四十八願をもて衆生を攝受し給ふ事、うたがひなくおもんぱかりなくかの願力に乘じてさだめて往生する事をうと信じ、又決定してふかく、釋迦佛、この『觀經』の三福・九品・定散二善をときて、かのほとけの依正二報を證讚して、人をして欣慕せしめ給ふ事を信じ、又決定してふかく、『彌陀經』のなかに、十方恆沙の諸佛の、一切の凡夫決定してむまるゝ事をうと證勸し給へり。ねがはくは一切の行者、一心にたゞ佛語を信じて身命をかへりみず、決定してより行じて、ほとけのすてしめ給はん事をばすなはちすて、ほとけの行ぜしめ給はん事をばすなはち行じ、ほとけのさらしめ給はんところをばすなはちされ。これを佛敎に隨順し、佛意に隨順すとなづく。これを眞の佛弟子となづく。又深心を深信といは、決定して自心を建立して、敎に順じて修行して、ながく疑錯をのぞきて、一切の別解・別行・異學・異見・異執のために、退失し傾動せられざれ」といへり。 わたくしにこの二つの釋を見るに、文に廣略あり、言ばに同異ありといへども、まづ二種の信心をたつる事は、そのおもむきこれひとつなり。すなはち二の信心といは、はじめに「わが身〔は〕煩惱罪惡の凡夫なり、火宅をいでず、出離の縁なⅥ-0430しと信ぜよ」といひ、つぎには「決定往生すべき身なりと信じて一念もうたがふべからず、人にもいひさまたげらるべからず」なんどいへる、前後のことば相違して心えがたきにゝたれども、心をとゞめてこれを案ずるに、はじめにはわが身のほどを信じ、のちにはほとけの願を信ずる也。たゞしのちの信心を決定せしめんがために、はじめの信心をばあぐる也。そのゆへは、もしはじめのわが身を信ずる樣をあげずして、たゞちにのちのほとけのちかひばかりを信ずべきむねをいだしたらましかば、もろもろの往生をねがはん人、雜行を修して本願をたのまざらんをばしばらくおく。まさしく彌陀の本願の念佛を修しながらも、なを心にもし貪欲・瞋恚の煩惱をもおこし、身におのづから十惡・破戒等の罪業をもおかす事あらば、みだりに自身を怯弱して、返りて本願を疑惑しなまし。まことにこの彌陀の本願に、十聲・一聲にいたるまで往生すといふ事は、おぼろげの人にてはあらじ。妄念をもおこさず、つみをもつくらぬ人の甚深のさとりをおこし、強盛の心をもちて申したる念佛にてぞあるらん。われらごときのえせものどもの、一念・十聲にてはよもあらじとこそおぼえんもにくからぬ事也。これは、善導和尙は未來の衆生のこのうたがひをおこさん事をかへりみて、この二種の信心をあげⅥ-0431て、われらがごとき煩惱をも斷ぜず、罪惡をもつくれる凡夫なりとも、ふかく彌陀の本願を信じて念佛すれば、十聲・一聲にいたるまで決定して往生するむねをば釋し給へる也。かくだに釋し給はざらましかば、われらが往生は不定にぞおぼへまし。あやうくおぼゆるにつけても、この釋の、ことに心にそみておぼへはんべる也。さればこの義を心えわかぬ人にこそあるめれ。ほとけの本願をばうたがはねども、わが心のわろければ往生はかなはじと申あひたるが、やがて本願をうたがふにて侍る也。さやうに申したちなば、いかほどまでかほとけの本願にかなはず、さほどの心こそ本願にはかなひたれとはしり侍るべき。それをわきまえざらんにとりては、煩惱を斷ぜざらんほどは、心のわろさはつきせぬ事にてこそあらんずれば、いまは往生してんとおもひたつ世はあるまじ。又煩惱を斷じてぞ、往生はすべきと申すになりなば、凡夫の往生といふ事はみなやぶれなんず。すでに彌陀の本願力といふとも、煩惱罪惡の凡夫をば、いかでかたすけ給ふべき。えむかへ給はじ物をなんど申すになるぞかし。ほとけの御ちからをば、いかほどゝしるぞ。それにすぎて、ほとけの願をうたがふ事はいかゞあるべき、又ほとけにたちあひまいらするとがありなんど申すべき事にてこそあれ。すべてわが心の善Ⅵ-0432惡をはからひて、ほとけの願にかなひかなはざるを心えあはせん事は、佛智ならではかなふまじき事也。されば善導は、『觀經の疏』の一のまき(玄義分)に弘願を釋するに、「一切善惡の凡夫むまるゝ事をうる事は、阿彌陀佛の大願業力に乘じて增上縁とせずといふ事なし」といひおきて、「ほとけの密意弘深にして、敎門さとりがたし。三賢・十聖もはかりてうかゞふところにあらず。いはんや、われ信外の輕毛なり、あえて旨趣をしらんや」とこそは釋し給ひたれば、善導だにも十信にだにもいたらぬ身にて、いかでかほとけの御心をしるべきとこそはおほせられたれば、ましてわれらがさとりにてほとけの本願はからひしる事は、ゆめゆめおもひよるまじき事也。たゞ心の善惡をもかへりみず、罪の輕重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿彌陀佛ととなえば、こゑについて決定往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。かく心えつればやすき也。往生は不定におもへばやがて不定也、一定とおもへばやがて一定する事なり。所詮は深信といは、かのほとけの本願はいかなる罪人をもすてず、たゞ名號をとなふる事一聲までに、決定して往生すとふかくたのみて、すこしのうたがひもなきを申す也。『觀經』(意)の下品下生を見るに、「十惡・五逆のⅥ-0433罪人も、一念・十念に往生す」とゝかれたり。「十惡・五逆等貪瞋、四重・偸僧・謗正法、未曾慚愧悔前𠍴」(禮讚)といへるは、在生の時の惡業をあかす。「忽遇往生善知識、急勸專稱彼佛名、化佛・菩薩尋聲到、一念傾心入寶蓮」(禮讚)といへるは、臨終の時の行相をあかす也。又『雙卷經』(大經*卷下意)のおくに、「三寶滅盡ののちの衆生、乃至一念に往生す」とゝかれたり。善導釋していはく、「萬年三寶滅、此經住百年、爾時聞一念、皆當得生彼」(禮讚)といへり。この二つの心をもて、彌陀の本願のひろく攝し、とをくおよぶほどをばしるべき也。おもきをあげてかろきをおさめ、惡人をあげて善人をおさめ、とをきをあげてちかきをおさめ、のちをあげてさきをおさむるなるべし。ま事に大悲誓願の深廣なる事、たやすく詞をもてのぶべからず、心をとゞめておもふべきなり。そもそもこのごろ末法にいれりといへども、いまだ百年にみたず。われら罪業おもしといへども、いまだ五逆をつくらず。しかれば、はるかに百年法滅のゝちをすくひ給へり、いはんやこのごろをや。ひろく五逆極重のつみをすて給はず、いはんやわれらをや。たゞ三心を具して、もはら名號を稱すべし。たとひ一念といふとも、みだりに本願をうたがふ事なかれ。たゞし、かやうのことはりを申つれば、つみをもすて給はねば、心にまⅥ-0434かせてつみをつくらんもくるしかるまじ。又一念にも一定往生すなれば、念佛はおほく申さずともありなんと、あしく心うる人のいできて、つみをばゆるし、念佛をば制するやうに申しなすが、返々もあさましく候也。惡をすゝめ善をとゞむる佛法は、いかゞあるべき。されば善導は、「貪瞋煩惱をきたしまじへざれ」(禮讚)といましめ、又「念々相續して、いのちのおはらんを期とせよ」(禮讚)とおしへ、又「日所作は五萬・六萬乃至十萬」(觀念法*門意)なんどこそすゝめ給ひたれ。たゞこれは大悲本願の一切を攝する、なを十惡・五逆をももらさず。稱名念佛の餘行にすぐれたる、すでに一念・十念にあらはれたるむねを信ぜよと申すにてこそあれ。〔か〕やうの事は、あしく心うれば、いづかたもひが事になる也。つよく信ずるかたをすゝむれば、邪見をおこし、邪見をおこさせじとこしらふれば、信心つよからずなるが術なき事にて侍る也。かやうの分別は、このついでに事ながければ、起行の下たにこまかに申ひらくべし。 又ひくところの『疏』の文を見るに、のちの信心について二つの心あり。すなはちほとけについてふかく信じ、經についてふかく信ずべきむねを釋し給へるにやと心えらるゝ也。まづほとけについて信ずといは、一には彌陀の本願を信じ、二にⅥ-0435は釋迦の所說を信じ、三には十方恆沙の護勸を信ずべき也。經について信ずといは、一には『无量壽經』を信じ、二には『觀經』を信じ、三には『阿彌陀經』を信ずる也。すなはちはじめに「決定してふかく阿彌陀佛の四十八願」といへる文は、彌陀を信じ、又『无量壽經』を信ずる也。つぎに「又決定してふかく釋迦佛の『觀經』」といえる文は、釋迦を信じ、『觀經』を信ずるなり。つぎに「決定してふかく『彌陀經』の中」といへる文は、十方諸佛を信じ、又『阿彌陀經』を信ずる也。又つぎの文に、「ほとけのすてしめ給はんをばすてよ」といふは、雜修雜行なり。「ほとけの行ぜしめ給はん事をば行ぜ〔よ」〕といふは、專修正行也。「ほとけのさらしめ給はん事をばされ」といふは、異學・異解、雜縁亂動のところ也。善導の「みづからもさへ、他の往生の正行をもさふ」(禮讚)と釋し給へる事、まことにおそるべき物也。「佛敎に隨順す」といは、釋迦の御おしへにしたがひ、「佛願に隨順す」といは、彌陀の願にしたがふ也。「佛意に隨順す」といは、二尊の御心にかなふ也。いまの文の心は、さきの文に「三部經を信ずべし」といへるにたがはず。詮じては、たゞ雜修をすてゝ專修を行ずるが、ほとけの御心にかなふとこそはきこへたれ。又つぎの文に、「別解・別行のためにやぶられざれ」といふは、さとりことに行ことならⅥ-0436ん人の難じやぶらんについて、念佛をもすて往生をもうたがふ事なかれと申す也。さとりことなる人と申すは、天台・法相等の諸宗の學生これなり。行ことなる人と申すは、眞言・止觀等の一切の行者これなり。これらはみな聖道門の解行也。淨土門の解行にことなるがゆへに、別解・別行とはなづけたり。かくのごときの人に、いひやぶらるまじきことはりは、この文のつぎにこまかに釋し給へり。すなはち人につきて信をたつ、行につきて信をたつといふ、二の信をあげたり。はじめの人につきて信をたつといへる、これなり。その文廣博にして、つぶさにいだすにあたはず。その義至要にして、さらにすてがたきによりて、ことばを略し心をとりて、そのをもむきをあかさば、文の心、「解行不同の人ありて、經論の證據をひきて、一切の凡夫往生することをえずといはば、すなはちこたえていへ。なんぢがひくところの經論を信ぜざるにはあらず、みなことごとくあふいで信ずといへども、さらになんぢが破をばうけず。そのゆへは、なんぢがひくところの經論と、わが信ずるところの經論と、すでに各別の法門なり。ほとけ、この『觀經』・『彌陀經』等をとき給ふ事、時も別にところも別に、對機も別に利益も別なり。ほとけの說敎は、機にしたがひ、時にしたがひて不同なり。かれには通じてⅥ-0437人・天・菩薩の解行をとく。これは別して往生淨土の解行をとく。すなはち、ほとけの滅後の五濁極增の一切の凡夫、決定して往生する事をうととき給へり。われいま一心にこの佛敎によりて、決定して奉行す。たとひなんぢ百千萬億むまれずといふとも、たゞわが往生の信心を增長し成就せんとこたへよ」(散善*義意)といへり。「又行者さらに難破の人にむかひてときていへ。なんぢよくきけ、われいまなんぢがためにさらに決定の信の相をとかん」(散善義)といひて、はじめは地前菩薩・羅漢・辟支佛等より、おはり化佛・報佛までたてあげて、「たとひ化佛・報佛、十方にみちみちて、おのおのひかりをかゞやかし、したをいだして十方におほひて、一切の凡夫念佛して一定往生すといふ事はひが事なり、信ずべからずとの給はんに、われこれらの諸佛の所說をきくとも、一念も疑退の心をおこしてかのくにゝむまるゝ事をえざらん事をおそれじ。なにをもてのゆへにとならば、一佛は一切佛也、大悲等同にしてすこしきの差別なし。同體の大悲のゆえに、一佛の所說はすなはちこれ一切佛の化なり。こゝをもて、まづ彌陀如來、稱我名號、下至十聲、若不生者、不取正覺と願じて、その願成就してすでに佛になり給へり。又釋迦如來は、この五濁惡世にして、惡衆生、惡見、惡煩惱、惡邪、无信さかりなる時、Ⅵ-0438彌陀の名號をほめ、衆生を勸勵して、稱念すればかならず往生する事をうとゝき給へり。又十方の諸佛は、衆生の釋迦一佛の所說を信ぜざらん事をおそれて、すなはちともに同心同時におのおの舌相をいだして、あまねく三千世界におほひて、誠實のことばをとき給ふ。なんだち衆生、みな釋迦の所說・所讚・所證を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少・時節の久近をとはず、たゞよく上みは百年をつくし、下もは一日・七日、十聲・一聲にいたるまで、心をひとつにしてもはら彌陀の名號を念ずれば、さだめて往生する事をうといふ事を信ずべし。かならずうたがふことなかれと證誠し給へり。かるがゆへに人について信をたつ」(散善*義意)といへり。かくのごときの一切諸佛の、一佛ものこ〔ら〕ず同心に、あるいは願をおこし、あるいはその願をとき、あるいはその說を證して、一切の凡夫、念佛して決定往生すべきむねをすゝめ給へるうゑには、いかなるほとけの又きたりて往生すべからずとはの給ふべきぞといふことはりをもて、ほとけきたりての給ふとも、おどろくべからずとは信ずる也。ほとけなをしかり、いはんや地前・地上の菩薩をや、いはんや小乘の羅漢をやと心えつれば、まして凡夫のとかく申さんによりて、一念もうたがひおどろく心あるべからずとは申す也。おほかたこの信心の樣を、人Ⅵ-0439の心えわかぬとおぼゆる也。心のそみぞみと身のけもいよだち、なみだもおつるをのみ、信のおこると申すはひが事にてある也。それは歡喜・隨喜・悲喜と〔ぞ〕申べき。信といは、うたがひに對する心〔にて、〕うたがひをのぞくを信とは申すべき也。見る事につけても、きく事につけても、その事一定さぞとおもひとりつる事は、人いかに申せども、不定におもひなる事はなきぞかし。これをこそ、物を信ずるとは申せ。その信のうゑに、歡喜・隨喜なんどもおこらんは、すぐれたるにてこそあるべけれ。たとへば、としごろ心のほどをもみとりて、そら事せぬたしかならん人ぞとたのみたらん人の、さまざまにおそろしき誓言をたて、なをざりならず、ねんごろにちぎりをきたる事のあらんを、ふかくたのみてわすれずたもちて、心のそこにふかくたくわえたらんに、いと心の程もしらざらん人の、それなたのみそ、そら事をするぞと、さまざまにいひさまたげんにつきて、すこしもかはる心はあるまじきぞかし。それがやうに、彌陀の本願をもふかく信じて、いひやぶらるべからず。いはんや一代の敎主も付囑し給へるをや、いはんや十方の諸佛も證誠し給へるをやと心うべきにや。まことにことはりをきゝひらかざらんほどこそあらめ。ひとたびもこれをきゝて信をおこしてんのちは、いかなる人Ⅵ-0440とかくいふとも、なじにかはみだるゝ心あるべきとこそはおぼへ候へ。つぎに行について信をたつといふは、すなはち行に二つあり。一には正行、二には雜行なりといへり。この二行について、あるいは行相、あるいは得失、文ひろく義おほしといへども、しばらく略を存ず。つぶさには、下もの起行のなかにあかすべし。深心の大要をとるにこれにあり。 [この文に下卷あるべしとみゆるが、いづくにかくれて侍るにか、いまだたづねえず。もしたづねうる人あらばこれにつげ。] 黑谷上人語燈錄卷第十一 Ⅵ-0441黑谷上人語燈錄卷第十二 欣淨沙門了惠集錄 和語第二之二[當卷有五篇] (四)念佛往生要義抄第四 (五)三心義第五 (六)七箇條起請文第六 (七)念佛大意第七 (八)淨土宗略抄第八 (四) 念佛往生要義抄[第四] 源空作 それ念佛往生は、十惡・五逆をえらばず、迎攝するに十聲・一聲をもてす。聖道諸宗の成佛は、上根・上智をもととするゆへに、聲聞・菩薩を機とす。しかるにⅥ-0442世すでに末法になり、人みな惡人なり。はやく修しがたき敎を學せんよりは、行じやすき彌陀の名號をとなへて、このたび生死の家をいづべき也。たゞしいづれの經論も、釋尊のときおき給へる經敎なり。しかれば、『法花』・『涅槃』等の大乘經を修行して、ほとけになるになにのかたき事かあらん。それにとりて、いますこし『法花經』は、三世の諸佛もこの經によりてほとけになり、十方の如來もこの經によりて正覺をなり給ふ。しかるに『法花經』なんどをよみたてまつらんに、なにの不足かあらん。かように申す日は、まことにさるべき事なれども、われらが器量は、この敎におよばざるなり。そのゆえは、『法花』には菩薩・聲聞を機とするゆへに、われら凡夫はかなふべからずとおもふべき也。しかるに阿彌陀ほとけの本願は、末代のわれらがためにおこし給へる願なれば、利益いまの時に決定往生すべき也。わが身は女人なればとおもふ事なく、わが身は煩惱惡業の身なればといふ事なかれ。もとより阿彌陀佛は、罪惡深重の衆生の、三世の諸佛も、十方の如來も、すてさせ給ひたるわれらをむかえんとちかひ給ひける願にあひたてまつれり。往生うたがひなしとふかくおもひいれて、南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛と申せば、善人も惡人も、男子も女人も、十人は十人ながら百人は百人ながら、Ⅵ-0443みな往生をとぐる也。 問ていはく、稱名念佛申す人は、みな往生すべしや。答ていはく、他力の念佛は往生すべし、自力の念佛はまたく往生すべからず。 問ていはく、その他力の樣いかむ。答ていはく、たゞひとすぢにわが身の善惡をかえりみず、決定往生せんとおもひて申すを、他力の念佛といふ。たとへば騏驎の尾につきたる蠅の、ひとはねに千里をかけり、輪王の御ゆきにあひぬる卑夫の、一日に四天下をめぐるがごとし。これを他力と申す也。又おほきなる石をふねにいれつれば、時のほどにむかひのきしにとづくがごとし。またくこれは石のちからにはあらず、ふねのちからなり。それがやうに、われらがちからにてはなし、阿彌陀ほとけの御ちから也。これすなはち他力なり。 問ていはく、自力といふはいかん。答ていはく、煩惱具足して、わろき身をもて煩惱を斷じ、さとりをあらはして成佛すと心えて、晝夜にはげめども、无始より貪瞋具足の身なるがゆえに、ながく煩惱を斷ずる事かたきなり。かく斷じがたき无明煩惱を、三毒具足の心にて斷ぜんとする事、たとへば須彌を針にてくだき、大海を芥子のひさくにてくみつくさんがごとし。たとひはりにて須彌をくだき、Ⅵ-0444芥子のひさくにて大海をくみつくすとも、われらが惡業煩惱の心にては、曠劫多生をふとも、ほとけにならん事かたし。そのゆえは、念々步々におもひと思ふ事は、三途八難の業、ねてもさめても案じと案ずる事は、六趣四生のきづな也。かゝる身にては、いかでか修行學道をして成佛はすべきや。これを自力とは申す也。 問ていはく、聖人の申す念佛と、在家のものゝ申す念佛と、勝劣いかむ。答ていはく、聖人の念佛と、世間者の念佛と、功德ひとしくして、またくかわりめあるべからず。 疑ていはく、この條なを不審也。そのゆへは、女人にもちかづかず、不淨の食もせずして申さん念佛は、たとかるべし。朝夕に女境にむつれ、酒をのみ不淨食をして申さん念佛は、さだめておとるべし。功德いかでかひとしかるべきや。答ていはく、功德ひとしくして勝劣あるべからず。そのゆへは、阿彌陀佛の本願のゆえをしらざるものゝ、かゝるおかしきうたがひをばする也。しかるゆえは、むかし阿彌陀佛、二百一十億の諸佛の淨土の、莊嚴・寶樂等の誓願・利益にいたるまで、世自在王佛の御まへにしてこれを見給ふに、われらごときの妄想顚倒の凡夫のむまるべき事のなき也。されば善導和尙釋していはく、「一切佛土皆嚴淨、凡Ⅵ-0445夫亂想恐難生」(法事讚*卷下)といへり。この文の心は、一切の佛土はたえなれども、亂想の凡夫はむまるゝ事なしと釋し給ふ也。おのおのの御身をはからひて、御らんずべきなり。そのゆへは、口には經をよみ、身には佛を禮拜すれども、心には思はじ事のみおもはれて、一時もとゞまる事なし。しかれば、われらが身をもて、いかでか生死をはなるべき。かゝりける時に、曠劫よりこのかた、三途八難をすみかとして、洞燃猛火に身をこがしていづる期なかりける也。かなしきかなや、善心はとしどしにしたがひてうすくなり、惡心は日々にしたがひていよいよまさる。されば古人のいへる事あり、「煩惱は身にそへる影、さらむとすれどもさらず。菩提は水にうかべる月、とらむとすれどもとられず」と。このゆへに、阿彌陀ほとけ五劫に思惟してたて給ひし深重の本願と申すは、善惡をへだてず、持戒・破戒をきらはず、在家・出家をもえらばず、有智・无智をも論ぜず、平等の大悲をおこしてほとけになり給ひたれば、たゞ他力の心に住して念佛申さば、一念須臾のあひだに、阿彌陀ほとけの來迎にあづかるべき也。むまれてよりこのかた女人を目に見ず、酒肉五辛ながく斷じて、五戒・十戒等かたくたもちて、やん事なき聖人も、自力の心に住して念佛申さんにおきては、佛の來迎にあづからんⅥ-0446事、千人が一人、萬人が一、二人なんどや候はんずらん。それも善導和尙は、「千中无一」(禮讚)とおほせられて候へば、いかゞあるべく候らんとおぼへ候。およそ阿彌陀佛の本願と申す事は、やうもなくわが心をすませとにもあらず、不淨の身をきよめよとにもあらず、たゞねてもさめても、ひとすぢに御名をとなふる人をば、臨終にはかならずきたりてむかへ給ふなるものをといふ心に住して申せば、一期のおはりには、佛の來迎にあづからん事うたがひあるべからず。わが身は女人なれば、又在家のものなればといふ事なく、往生は一定とおぼしめすべき也。 問ていはく、心のすむ時の念佛と、妄心の中の念佛と、その勝劣いかむ。答ていはく、その功德ひとしくして、あえて差別なし。 疑ていはく、この條なを不審なり。そのゆへは、心のすむ時の念佛は、餘念もなく一向極樂世界の事のみおもはれ、彌陀の本願のみ案ぜらるゝがゆへに、まじふるものなければ淸淨の念佛なり。心の散亂する時は、三業不調にして、口には名號をとなへ、手には念珠をまはすばかりにては、これ不淨の念佛也。いかでかひとしかるべき。答ていはく、このうたがひをなすは、いまだ本願のゆへをしらざる也。阿彌陀佛は惡業の衆生をすくはんために、生死の大海に弘誓のふねをうかⅥ-0447べ給へる也。たとへばふねにおもき石、かろきあさがらをひとつふねにいれて、むかひのきしにとづくがごとし。本願の殊勝なることは、いかなる衆生も、たゞ名號をとなふるほかは、別の事なき也。 問ていはく、一聲の念佛と、十聲の念佛と、功德の勝劣いかむ。答ていはく、たゞおなじ事也。 疑ていはく、この事又不審なり。そのゆへは、一聲・十聲すでにかずの多少あり、いかでかひとしかるべきや。答。このうたがひは、一聲・十聲と申す事は最後の時の事なり。死する時、一聲申すものも往生す、十聲申すものも往生すといふ事なり。往生だにもひとしくは、功德なんぞ劣ならん。本願の文に、「設我得佛、十方衆生、至心信樂、欲生我國、乃至十念、若不生者、不取正覺」(大經*卷上)。この文の心は、法藏比丘、われほとけになりたらん時、十方の衆生、極樂にむまれんとおもひて、南無阿彌陀佛と、もしは十聲、もしは一聲申さん衆生をむかへずは、ほとけにならじとちかひ給ふ。かるがゆへにかずの多少を論ぜず、往生の得分はおなじき也。本願の文顯然なり、なんぞうたがはんや。 問ていはく、最後の念佛と平生の念佛と、いづれかすぐれたるや。答ていはく、Ⅵ-0448たゞおなじ事也。そのゆへは、平生の念佛、臨終の念佛とて、なんのかはりめかあらん。平生の念佛の死ぬれば臨終の念佛となり、臨終の念佛ののぶれば平生の念佛となる也。 難じていはく、最後の一念は百年の業にすぐれたりと見えたり、いかむ。答ていはく、このうたがひは、この文をしらざる難なり。いきのとゞまる時の一念は、惡業こはくして善業にすぐれたり、善業こはくして惡業にすぐれたりといふ事也。たゞしこの申す人は念佛者〔に〕て〔は〕なし、もとより惡人の沙汰をいふ事也。平生より念佛申して往生をねがふ人の事をば、ともかくもさらに沙汰におよばぬ事也。 問ていはく、攝取の益をかうぶる事は、平生か臨終か、いかむ。答ていはく、平生の時なり。そのゆへは、往生の心ま事にて、わが身をうたがふ事なくて、來迎をまつ人は、これ三心具足の念佛申す人なり。この三心具足しぬればかならず極樂にうまるといふ事は、『觀經』の說なり。かゝる心ざしある人を、阿彌陀佛は八萬四千の光明をはなちててらし給ふ也。平生の時てらしはじめて、最後まですて給はぬなり。かるがゆへに不捨の誓約と申す也。 Ⅵ-0449問ていはく、智者の念佛と、愚者の念佛〔と、いづ〕れも差別なしや。答ていはく、ほとけの本願にとづかば、すこしの差別もなし。そのゆへは、阿彌陀佛、ほとけになり給はざりしむかし、十方の衆生わが名をとなへば、乃至十聲までもむかへむと、ちかひをたて給ひけるは、智者をえらび、愚者をすてんとにはあらず。されば『五會法事讚』(卷本)にいはく、「不簡多聞持淨戒、不簡破戒罪根深、但使廻心多念佛、能令瓦礫變成金」。この文の心は、智者も愚者も、持戒も破戒も、たゞ念佛申さば、みな往生すといふ事也。この心に住して、わが身の善惡をかえりみず、ほとけの本願をたのみて念佛申すべき也。このたび輪廻のきづなをはなるゝ事、念佛にすぎたる事はあるべか〔らず。〕このかきおきたるものを見て、そしり謗ぜんともがらは、かならず九品のうてなに縁をむすび、たがひに順逆の縁むなしからずして、一佛淨土のともたらむ。 そもそも機をいへば、五逆重罪をえらばず、女人・闡提をもすてず、行をいへば、一念・十念をもてす。これによて、五障・三從をうらむべからず。この願をたのみ、この行をはげむべき也。念佛のちからにあらずは、善人なをむまれがたし、いはんや惡人をや。五念に五障を消し、三念に三從を滅して、一念に臨終の來迎Ⅵ-0450をかうぶらんと、行住坐臥に名號をとなふべし、時處諸縁にこの願をたのむべし。あなかしこ、あなかしこ。 南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛 (五) 三心義[第五] 『觀无量壽經』には、「若有衆生願生彼國、發三種心卽便往生。何等爲三。一者至誠心、二者深心、三者廻向發願心。具三心者必生彼國」といへり。『禮讚』には、三心を釋しおはりて、「具三心者必得往生也。若少一心、卽不得生」といへり。しかれば、三心を具すべきなり。一に至誠心といふは、眞實の心なり。身に禮拜を行じ、くちに〔名〕號をとなへ、心に相好をおもふ、みな眞實をもちゐよ。すべてこれをいふに、穢土をいとひ、淨土をねがひて、もろもろの行業を修せんもの、みな眞實をもてつとむべし。これを勤修せんに、ほかには賢善精進の相を現じ、うちには愚惡懈怠の心をいだきて修するところの行業は、日夜十二時にひまな〔くこ〕れを行〔ず〕とも、往生をえず。ほかには愚惡懈怠のかたちをあらはして、うちには賢善精進のおもひに住して、これを修行するもの、一時一念なり〔と〕も、Ⅵ-0451その行むなしからず、かならず往生をう。これを至誠心となづく。二に深心といふは、ふかく信ずる心なり。これについて二あり。一にはわれはこれ罪惡不善の身、无始よりこのかた六道に輪廻して、往生の縁なしと信じ、二には罪人なりといへども、ほとけの願力をもて強縁として、かならず往生をえん事、うたがひなくうらもひなしと信ず。これについて又二あり。一には人につきて信をたつ、二には行につきて信をたつ。人につきて信をたつといふは、出離生死のみ〔ちお〕ほしといへども、大きにわかちて二あり。一には聖道門、二には淨土門なり。聖道門といふは、この娑婆世界にて、煩惱を斷じ菩提を證するみちなり。淨土門といふは、この娑婆世界をいとひ、かの極樂をねがひて善根を修する門なり。二門ありといへども、聖道門をさしおきて淨土門に歸す。しかるにもし人ありて、おほく經論をひきて、罪惡の凡夫往生する事をえじといはん。このことばをきゝて、退心をなさず、いよいよ信心をますべし。ゆへいかんとなれば、罪障の凡夫の淨土に往生すといふ事は、これ釋尊の誠言なり、凡夫の妄執にあらず。われすでに佛の言を信じて、ふかく淨土を欣求す。たとひ諸佛・菩薩きたりて、罪障の凡夫、淨土にむまるべからずとの給ふとも、これを信ずべからず。ゆへいかんとなれば、Ⅵ-0452菩薩は佛の弟子なり。もしま事にこれ菩薩ならば、佛說をそむくべからず。しかるにすでに佛說に〔たが〕ひて、往生をえずとの給ふ。ま事の菩薩にあらず。又佛はこれ同體の大悲なり。ま事に佛ならば、釋迦の說にたがふべからず。しかればすなはち『阿彌陀經』(意)に、「一日七日彌陀の名號を念じて、かならずむまるゝ事をう」ととけり。これを六方恆沙の諸佛、釋迦佛におなじく、これを證誠し給へり。しかるにいま釋迦の說をそむきて、往生せずといふ。かるがゆへにしりぬ、ま事のほとけにあらず、これ天魔の變化なり。この義をもてのゆへに、佛・菩薩の說なりとも信ずべからず、いかにいはんや餘說をや。なんぢが執するところの大小ことなりといへども、みな佛果を期する穢土の修行、聖道門の心なり。われらが修するところは、正雜不同なれども、ともに極樂をねがふ往生の行業は、淨土門の心なり。聖道門はこれ汝ぢが有縁の行、淨土門といふはわれらが有縁の行、これをもてかれを難ずべからず、かれをもてこれを難ずべからず。かくのごとく信ずるものをば、就人立信となづく。つぎに行につきて信をたつといふは、往生極樂の行まちまちなりといへども、二種をばいでず。一には正行、二には雜行也。正行といふは、阿彌陀佛におきてしたしき行なり。雜行といふは、阿彌陀佛におⅥ-0453きてうとき行なり。まづ正行といふは、これにつきて五あり。一にはいはく讀誦、いはゆる「三部經」をよむなり。二には觀察、いはゆる極樂の依正を觀ずる也。三には禮拜、いはゆる阿彌陀佛を禮拜する也。四には稱名、いはゆる彌陀の名號を稱する也。五には讚嘆供養、いはゆる阿彌陀佛を讚嘆し供養する也。この五をもてあはせて二とす。一には一心にもはら彌陀の名號を念じて、行住坐臥に時節の久近をとはず念々にすてざる、これを正定業となづく、かのほとけの願に順ずるがゆへに。二にはさきの五が中、かの稱名のほかの禮拜・讀誦等をみな助業となづく。つぎに雜行といふは、さきの五種の正助二業をのぞきて已外のもろもろの讀誦大乘・發菩提心・持戒・勸進等の一切の行なり。この正雜二行につきて、五種の得失あり。一には親疎對、いはゆる正行は阿彌陀佛にしたしく、雜行はうとく、二には近遠對、いはゆる正行は阿彌陀佛にちかく、雜行は阿彌陀佛にとをし。三には有間无間對、いはゆる正行はおもひをかくるに无間也、雜行は思をかくるに間斷あり。四には廻向不廻向對、いはゆる正行は廻向をもちゐざれどもおのづから往生の業となる、雜行は廻向せざる時は往生の業とならず。五には純雜對、いはゆる正行は純極樂の業也、雜行はしからず、十方の淨土乃至人天の業也。かⅥ-0454くのごとき信ずるを、就行立信となづく。三に廻向發願心といふは、過去および今生の身口意業に修するところの一切の善根を、眞實の心をもて極樂に廻向して、往生を欣求する也。これを廻向發願心となづく。この三心を具しぬれば、かならず往生する也。 (六) 七箇條の起請文[第六] およそ往生淨土の人の要法はおほしといへど〔も、〕淨土宗の大事は三心の法門にある也。もし三心を具せざるものは、日夜十二時に、かふべの火をはらふがごとくにすれども、つゐに往生をえずといへり。極樂をねがはん人は、いかにもして三心のやうを心えて、念佛すべき也。三心といふは、一には至誠心、二には深心、三には廻向發願心なり。 まづ至誠心といふは、大師釋しての給はく、「至といふは眞也、誠といふは實也」(散善義)といへり。たゞ眞實心を至誠心と善導はおほせられたる也。眞實といふは、もろもろの虛假の心のなきをいふ也。虛假といふは、貪瞋等の煩惱をおこして、正念をうしなふを虛假心と釋する也。すべてもろもろの煩惱のおこる事は、みなⅥ-0455もと貪瞋を母として出生するなり。貪といふについて、喜足小欲の貪あり、不喜足大欲の貪あり。いま淨土宗に制するところは、不喜足大欲の貪煩惱也。まづ行者、かやうの道理を心えて念佛すべき也。これが眞實の念佛にてある也。喜足小欲の貪はくるしからず。瞋煩惱も、敬上慈下の心をやぶらずして、道理を心えほどく也。癡煩惱といふは、おろかなる心也。この心をかしこくなすべき也。まづ生死をいとひ淨土をねがひて、往生を大事といとなみて、もろもろの家業を事とせざれば、癡煩惱なき也。少々の癡は、往生のさわりにはならず。これほど心えつれば、貪瞋等の虛假の心はうせて、眞實心はやすくおこる也。これを淨土の菩提心といふ也。詮ずるところ、生死の報をかろしめ、念佛の一行をはげむがゆへに、眞實心とはいふなり。 二に深心といふは、ふかく念佛を信ずる心なり。ふかく念佛を信ずといふは、餘行なく一向に念佛になる也。もし餘行をかぬれば、深心かけたる行者といふ也。詮ずるところ、釋迦の「淨土三部經」は、ひとへに念佛の一行をとくと心え、彌陀の四十八願は、稱名の一行を本願とすと心えて、ふた心なく念佛するを、深心具足といふなり。 Ⅵ-0456三に廻向發願心といふは、无始よりこのかたの所作のもろもろの善根を、ひとへに往生極樂といのる也。又つねに退する事なく念佛するを、廻向發願心といふなり。これは惠心の御義なり。この心ならば、至誠心・深心具足してのうゑに、つねに念佛の數遍をすべし。もし念佛退轉せば、廻向發願心かけたるもの也。淨土宗の人は、三心のやうをよくよく心えて念佛すべき也。三心のなかに、ひとつもかけなば、往生はかなふまじき也。三心具足しぬれば、往生は无下にやすくなる也。すべてわれらが輪廻生死のふるまひは、たゞ貪瞋癡の煩惱の絆によりて也。貪瞋癡おこらば、なを惡趣へゆくべきまどひのおこりたるぞと心えて、これをとゞむべき也。しかれどもいまだ煩惱具足のわれらなれば、かくは心えたれども、つねに煩惱はおこる也。おこれども煩惱をば心のまら人とし、念佛をば心のあるじとしつれば、あながちに往生をばさえぬ也。煩惱を心のあるじとして、念佛を心のまら人とする事は、雜毒虛假の善にて、往生にはきらはるゝ也。詮ずるところ、前念・後念のあひだには、煩惱をまじふといふとも、かまえて南無阿彌陀佛の六字のなかに、貪等の煩惱をおこすまじき也。 一 われは阿彌陀をこそたのみたれ、念佛をこそ信じたれとて、諸佛・菩薩の悲Ⅵ-0457願をかろしめたてまつり、法花・般若等の、めでたき經どもをわろくおもひそしる事は、ゆめゆめあるべからず。よろづのほとけたちをそしり、もろもろの聖敎をうたがひそしりたらんずるつみは、まづ阿彌陀の御心にかなふまじければ、念佛すとも悲願にもれん事は一定也。 一 つみをつくらじと、身をつゝしんでよからんとするは、阿彌陀ほとけの願をかろしむるにてこそあれ。又念佛をおほく申さんとて、日々に六萬遍なんどをくりゐたるは、他力をうたがふにてこそあれといふ事のおほくきこゆる。かやうのひが事、ゆめゆめもちふべからず。まづいづれのところにか、阿彌陀はつみつくれとすゝめ給ひける。ひとへにわが身に惡をもとゞめえず、つみのみつくりゐたるまゝに、かゝるゆくゑほとりもなき虛言をたくみいだして、物もしらぬ男女のともがらを、すかしほらかして罪業をすゝめ、煩惱をおこさしむる事、返々天魔のたぐひ也、外道のしわざ也、往生極樂のあだかたきなりとおもふべし。又念佛のかずをおほく申すものを、自力をはげむといふ事、これ又ものもおぼへずあさましきひが事也。たゞ一念・二念をとなふとも、自力の心ならん人は、自力の念佛とすべし。千遍・萬遍をとなふとも、百日・千日、よる・ひるはげみつむとも、Ⅵ-0458ひとへに願力をたのみ、他力をあふぎたらん人の念佛は、聲々念々しかしながら他力の念佛にてあるべし。されば三心をおこしたる人の念佛は、日々夜々、時々剋々にとなふれども、しかしながら願力をあふぎ、他力をたのみたる心にてとなへゐたれば、かけてもふれても、自力の念佛とはいふべからず。 一 三心と申す事は、しりたる人の念佛に、三心具足してあらん事は左右におよばず、つやつや三心の名をだにもしらぬ无智のともがらの念佛には、よも三心は具し候はじ。三心かけば往生し候なんやと申す事、きわめたる不審にて候へども、これは阿彌陀ほとけの法藏菩薩のむかし、五劫のあひだ、よる・ひる心をくだきて案じたてゝ、成就せさせ給ひたる本願の三心なれば、あだあだしくいふべき事にあらず。いかに無智ならん物もこれを具し、三心の名をしらぬ物までも、かならずそらに具せんずる樣をつくらせ給ひたる三心なれば、阿彌陀をたのみたてまつりて、すこしもうたがふ心なくしてこの名號をとなふれば、あみだほとけかならずわれをむかへて、極樂にゆかせ給ふときゝて、これをふかく信じて、すこしもうたがふ心なく、むかへさせ給へとおもひて念佛すれば、この心がすなはち三心具足の心にてあれば、たゞひらに信じてだにも念佛すれば、すゞろに三心はあⅥ-0459るなり。さればこそ、よにあさましき一文不通のともがらのなかに、ひとすぢに念佛するものは、臨終正念にして、めでたき往生どもをするは、現に證據あらたなる事なれば、つゆちりもうたがふべからず。なかなかよくもしらぬ三心沙汰して、あしざまに心えたる人々は、臨終のわろくのみありあひたるは、それにてたれたれも心うべきなり。 一 ときどき別時の念佛を修して、心をも身をもはげましとゝのへすゝむべき也。日々に六萬遍を申せば、七萬遍をとなふればとて、たゞあるもいはれたる事にてはあれども、人の心ざまは、いたく目もなれ耳もなれぬれば、いそいそとすゝむ心もなく、あけくれは心いそがしき樣にてのみ、疎略になりゆく也。その心をためなおさん料に、時々別時の念佛はすべき也。しかれば、善導和尙もねんごろにすゝめ給ふ、惠心の『往生要集』にもすゝめさせ給ひたる也。道場をもひきつくろひ、花香をもまいらせん事、ことにちからのたへむにしたがひてかざりまいらせて、わが身をもことにきよめて道場にいりて、あるいは三時、あるいは六時なんどに念佛すべし。もし同行なんどあまたあらん時は、かはるがはるいりて不斷念佛にも修すべし。かやうの事は、おのおのことがらにしたがひてはからふべし。Ⅵ-0460さて善導のおほせられたるは、「月の一日より八日にいたるまで、あるいは八日より十五日にいたるまで、あるいは十五日より廿三日にいたるまで、あるいは廿三日より晦日にいたるまで」(觀念*法門)とおほせられたり。おのおのさしあはざらん時をはからひて、七日の別時をつねに修すべし。ゆめゆめすゞろ事どもいふ物にすかされて、不善の心あるべからず。 一 いかにもいかにも最後の正念を成就して、目には阿彌陀ほとけを見たてまつり、口には彌陀の名號をとなへ、心には聖衆の來迎をまちたてまつるべし。としごろ日ごろ、いみじく念佛の功をつみたりとも、臨終に惡縁にもあひ、あしき心もおこりぬるものならば、順次の往生しはづして、一生・二生なりとも、三生・四生なりとも、生死のながれにしたがひて、くるしからん事はくちおしき事ぞかし。されば、善導和尙すゝめておほせられたる樣は、「願弟子等、臨命終時W乃至R上品往生阿彌陀佛國」(禮讚)とあり、いよいよ臨終の正念はいのりもし、ねがふべき事也。臨終の正念をいのるは、彌陀の本願をたのまぬ物ぞなんど申すは、善導にはいかほどまさりたる學生ぞとおもふべき也。あなあさまし、おそろしおそろし。 一 念佛は、つねにおこたらぬが一定往生する事にてある也。されば善導すゝめⅥ-0461ての給はく、「一發心已後、誓畢此生无有退轉。唯以淨土爲期」(散善義)。又云、「一心專念彌陀名號、行住坐臥不問時節久近念念不捨者、是名正定之業、順彼佛願故」(散善義)[文]といへり。かやうにすゝめましましたる事はあまたおほけれども、ことごとくにかきのせず。たのむべし、あふぐべし。さらにうたがふべからず。 一 げにげにしく念佛を行じて、げにげにしき人になりぬれば、よろづの人を見るに、みなわが心にはおとりたり。あさましくわろければ、わが身のよきまゝには、ゆゝしき念佛者にてある物かな、たれたれにもすぐれたりと思ふ也。この事をば、よくよく心えてつゝしむべき事也。世もひろし、人もおほければ、山の中、林の中にこもりゐて、人にもしられぬ念佛者の、貴とくめでたき、さすがにおほくあるを、わがきかずしらぬにてこそあれ。さればわれほどの念佛者、よもあらじと思ふはひが事也。大憍慢にてあれば、それをたよりにて、魔縁の付きて往生をさまたぐる也。さればわが身のいみじくてつみをも滅し、極樂へもまいらばこそあらめ、ひとへに阿彌陀の願力にてこそ、煩惱をも罪業をもほろぼしうしなひて、かたじけなく彌陀ほとけの、てづからみづからむかへとりて、極樂へ返らせましますことなれ。さればわがちからにて往生する事ならばこそ、われかしこしⅥ-0462といふ慢心をばおこさめ。憍慢の心だにもおこりぬれば、たちどころに阿彌陀ほとけの願にはそむきぬるものなれば、彌陀も諸佛も護念し給はずなりぬれば、惡魔のためにもなやまさるゝ也。返々も憍慢の心をおこすべからず。あなかしこ、あなかしこ。 (七) 念佛大意[第七] 末代惡世の衆生、往生の心ざしをいたさんにおきては、又他のつとめあるべからず、たゞ善導の釋について一向專修の念佛門にいるべき也。しかるを一向に信をいたして、その門にいる人はきわめてありがたし。そのゆへは、あるいは他の行に心をそめ、あるいは念佛の功德をおもくせざるなるべし。つらつらこれをおもふに、ま事しく往生淨土の願ふかき心をもはらにする人、ありがたきゆへか。まづこの道理をよくよく心うべき也。すべて天台・法相の經論も敎も、そのつとめをいたさんに、一つとしてあだなるべきにはあらず。たゞし佛道修行は、よくよく身をはかり、時をはかるべきなり。佛の滅後第四の五百年にだに、智惠をみがきて煩惱を斷ずる事かたく、心をすまして禪定をえん事かたきがゆへに、人おほⅥ-0463く念佛門にいりけり。すなはち道綽・善導等の淨土宗の聖人、この時の人なり。いはんや、このごろは第五の五百年、鬪諍堅固の時也、他の行法さらに成就せん事かたし。しかのみならず、念佛におきては、末法のゝちなを利益あるべし。いはんや、いまの世は末法萬年のはじめ也、一念も彌陀を念ぜんに、なんぞ往生をとげざらんや。たとひわれこそ、そのうつは物にあらずといふとも、末法のすゑの衆生には、さらにゝるべからず。かつうは又釋尊在世の時すら、卽身成佛におきては、龍女のほかは、いとありがたし。たとひ又卽身成佛までにあらずといふとも、この聖道門をおこなひあひ給ひけん菩薩・聲聞たち、そのほかの權者・ひじりたち、そのゝちの比丘・比丘尼等いまにいたるまで經論の學者、『法花經』の持者、い〔く〕そばくぞや。こゝにわれら、なまじゐに聖道をまなぶといふとも、かの人々にはさらにおよぶべからず。かくのごときの末代の衆生を、阿彌陀ほとけかねてさとり給ひて、五劫のあひだ思惟して四十八願をおこし給へり。そのなかの第十八の願にいはく、「十方の衆生、心をいたして信樂して、わがくにゝむまれんとねがひて、乃至十念せんに、もしむまれずといはば、正覺をとらじ」(大經*卷上)とちかひ給ひて、すでに正覺をなり給へり。これを又釋尊とき給へる『經』、すなⅥ-0464はち『觀无量壽』等の「三部經」なり。しかれば、たゞ念佛門也。たとひ惡業の衆生等、彌陀のちかひばかりに、なを信をいたさずといふとも、釋迦のこれを一々にとき給へる「三部經」、あにひとことばもむなしからんや。そのうゑ又、六方・十方の諸佛の證誠、この『經』に見えたり。他の行におきては、か〔く〕のごときの證誠見えず。しかれば、時もすぎ、身もこたふまじからん禪定・智惠を修せんよりは、利益現在して、しかもそこばくのほとけたち證誠し給へる彌陀の名號を稱念すべき也。 そもそも後世者のなかに、極樂はあさく彌陀はくだれり、期するところ密嚴・花藏の世界なりと心をかくる人も侍るにや、それはなはだおほけなし。かの土は、斷无明の菩薩のほかはいる事なし。又一向專修の念佛門にいるなかにも、日別に三萬遍、もしは五萬遍・六萬遍乃至十萬遍といふとも、これをつとめおはりなんのち、年來受持讀誦の功つもりた〔る〕諸經をもよみたてまつらん事、つみ〔に〕なるべきかと不審をなして、あざむくともがらもまじはれり。それはつみになるべきにては、いかでかは侍るべき。末代の衆生、その行成就しがたきによりて、まづ彌陀の願力にのりて、念佛往生をとげてのち、淨土にて阿彌陀如來・觀音・勢Ⅵ-0465至にあひたてまつりて、もろもろの聖敎をも學し、さとりをもひらくべきなり。又末代の衆生、念佛をもはらにすべき事、その釋おほかる中に、かつうは十方恆沙のほとけ證誠し給ふ。又『觀經の疏』の第三(定善義)に善導の給はく、「自餘衆行雖名是善、若比念佛全非比校也。是故諸經中處々廣讚念佛功能。如『无量壽經』四十八願中、唯明專念名號得生。又如『彌陀經』中、一日七日專念彌陀名號得生。又十方恆沙諸佛證誠不虛也。又此『經』定散文中、唯標專念名號得生。此例非一也。廣顯念佛三昧竟」とあり。又善導の『往生禮讚』(意)のなかの專修雜修の文等にも、「雜修のものは往生をうる事、萬がなかに一、二なをかたし。專修のものは、百に百ながらむまる」といへり。これらはすなはち、何事もその門にいりなんには、一向にもはら他の心あるべからざるゆへなり。たとへば今生にも主君につかへ、人をあひたのむみち、他人に心ざしをわくると、一向にあひたのむと、ひとしからざる事也。たゞし家ゆたかにして、のり物、僮僕もかなひ、面々に心ざしをいたすちからもたへたるともがらは、かたがたに心ざしをわくといへども、〔そ〕の功むなしからず。かくのごときの〔ちか〕らにたへざるものは、所々をかぬるあひだ、身はつかるといへども、そのしるしをえがたし。一向に人一人をたのめば、Ⅵ-0466まづしき物も、かならずそのあはれみをうる也。すなはち末代惡世の无智の衆生は、かのまづしき物のごときなり。むかしの權者聖人は、家ゆたかなる衆生のごとき也。しかれば、无智の身をもて智者の行をまなばんにおきては、まづしき物の得人をまなばんがごとき也。又なをたとへをとらば、たかき山の、人もかよふべくもなからん巖石を、ちからたらざらんもの、いしのかど木の根にとりすがりてのぼらんとはげまんは、雜行を修して往生をねがはんがごときなり。かの山のみねより、つよきつなをおろしたらんにすがりて〔の〕ぼらん〔は、〕彌陀の願力をふかく信じて、一向に念佛をつとめば、往生せんがごときなるべし。 又一向專修には、ことに三心を具足すべき也。三心といふは、一には至誠心、二には深心、三には廻向發願心也。至誠心といふは、餘佛を禮せず彌陀を禮し、餘行を修せず彌陀を念じて、もはらにしてもはらならしむる也。深心といふは、彌陀の本願をふかく信じて、わが身は无始よりこのかた罪惡生死の凡夫として、生死をまぬかるべきみちなきを、彌陀の本願不可思議なるによりて、かの名號を一向に稱念して、うたがひをなす心なければ、一念のあひだに八十億劫の生死のつみを滅して、最後臨終の時、かならず彌陀の來迎にあづかる也。廻向發願心といⅥ-0467ふは、自他の行を眞實の心の中に廻向發願する也。この三心、一つもかけぬれば、往〔生〕をとげがたし。しかれば、他の〔行〕をまじえんによりて罪になるべからずといへども、なを念佛往生を不定に存じていさゝかのうたがひをのこして、他事をくわふるにて侍るべき也。たゞしこの三心のなかに、至誠心をやうやうに心えて、ことにまことをいたす事を、かたく申しなすともがらも侍るにや。しからば、彌陀の本願の本意にもたがひて、信心はかけぬるにてあるべき也。いかに信力をいたすといふともがらも、造惡の凡夫の身の信力にて、願を成就せんほどの信力は、いかでか侍るべき。たゞ一向に往生を決定せんずればこそ、本願の不思議にては侍るべけれ。さやうに信力もふかく、よからん人のためには、かくあながちに不思議の本願をおこし給ふべきにあらず、この道理をば存じながら、ま事しく專修念佛の一行にいる人はいみじくありがたき也。しかるを道綽禪師は決定往生の先達なり、智惠ふかくして講說を修し給ひき。曇鸞法師の三世已下の弟子也。かの曇師は智惠高遠なりといへども、四論の講說をすてゝ、ひとへに往生の業を修して、一向にもはら彌陀を念じて、相續无間にして、現に往生し給へり。かくのごとき道綽は、講說をやめて念佛を修し、善導は雜修をきらひて專修をつとめⅥ-0468給ひき。又道綽禪師のすゝめによりて、幷州の三縣の人、七歲已後一向に念佛を修すといへり。しかれば、わが朝の末法の衆生、なんぞあながちに雜修をこのまんや。たゞすみやかに彌陀如來の願、釋迦如來の說、道綽・善導の釋をまなぶに、雜修を修して極樂の果を不定に存ぜんよりは、專修の業を行じて往生ののぞみを決定すべきなり。かの道綽・善導等の釋は、念佛門の人々の事なれば、左右におよぶべからず。法相宗におきては、專修念佛門をば信向せざるかと存ずるところに、慈恩大師の『西方要決』にいはく、「末法萬年餘經悉滅。彌陀一敎利物偏增」と釋し給へり。又おなじき『書』(西方要*決意)にいはく、「三空九斷之文、十地・五修之訓、生期分促死路非運、不如暫息多聞之廣學、專念佛之軍修」といへり。しかのみならず、又『大聖竹林寺の記』にいはく、「五臺山竹林寺の大講堂の中にして、普賢・文殊東西に對座して、もろもろの衆生のために妙法をとき給ふ時、法照禪師ひざまづきて、文殊に問たてまつりき。未來惡世の凡夫、いづれの法をおこなひてか、ながく三界をいでゝ淨土にむまるゝ事をうべきと。文殊こたへての給はく、往生淨土のはかり事、彌陀の名號にすぎたるはなく、頓證菩提のみち、たゞ稱念の一門にあり。これによて、釋迦一代の聖敎におほくほむるところみな彌陀にあⅥ-0469り。いかにいはんや、未來惡世の凡夫をやとこたへ給へり」。かくのごときの要文等、智者たちのおしへを見ても、なを信心なくして、ありがたき人界をうけて、ゆきやすき淨土にいらざらん事、後悔なに事かこれにしかんや。かつうは又、かくのごときの專修念佛のともがらを、當世にもはら難をくわえて、あざけりをなすともがらおほくきこゆ。これ又むかしの權者たち、かねてまづさとりしり給へる事也。文殊の給はく、「於未來世惡衆生、稱念西方彌陀號、依佛本願出生死、以直心故生極樂。」W云云R善導の『法事讚』(卷下)にいはく、「世尊說法時將了、慇懃付囑彌陀名、五濁增時多疑謗、道俗相嫌不用聞、見有修行起瞋毒、方便破壞競生怨、如此生盲闡提輩、毀滅頓敎永沈淪、超過大地微塵劫、未可得離三途身、大衆同心皆懺悔、所有破法罪因縁。」W云云R又『平等覺經』(卷四意)にいはく、「もし善男子・善女人ありて、かくのごときらの淨土の法門をとくをきゝて、悲喜をなして身の毛いよだつ事をしてぬきいだすがごとくするは、しかるべし、この人過去にすでに佛道をなしてきたれる也。もし又これをきくといふとも、すべて信樂せざらんにおきては、しるべし、この人はじめて三惡道のなかよりきたれる也」。しかれば、かくのごときの謗難のともがらは、左右なき罪人のよしをしりて、論談にあたふⅥ-0470べからざる事也。又十善かたくたもたずして、忉利・都率をねがはん、きはめてかなひがたし。極樂は五逆のもの念佛によりてむまる。いはんや、十惡においてはさわりとなるべからず。又慈尊の出世を期せんにも、五十六億七千萬歲、いとまちどを也、いまだしらず。他方の淨土そのところどころにはかくのごときの本願なし、極樂はもはら彌陀の願力はなはだふかし、なんぞほかをもとむべき。このたび佛法に縁をむすびて、三生・四生に得脫せんとのぞみをかくるともがらあり、この願きわめて不定也。大通結縁の人、信樂慚愧のころものうらに、一乘无價の玉をかけて、隔生卽亡して、三千塵點があひだ六趣に輪廻せしにあらずや。たとひ又、三・四生に縁をむすびて、必定得脫すべきにても、それをまちつけん輪廻のあひだのくるしみ、いとたへがたかるべし、いとまちどをなるべし。又かの聖道門においては、三乘・五乘の得道也、この行は多百千劫也。こゝにわれら、このたびはじめて人界の生をうけたるにてもあらず、世々生々をへて、如來の敎化にも、菩薩の弘經にも、いくそばくかあひたてまつりたりけん。たゞ不信にして敎化にもれきたれるなるべし。三世諸佛・十方菩薩、思へばみなこれむかしのとも也。釋迦も五百塵點のさき、彌陀も十劫成道のさきは、かたじけなく父母・Ⅵ-0471師弟ともたがひになり給ひけん。ほとけは前佛の敎をうけ、善知識のおしへを信じて、はやく發心修行し給ひて、成佛してひさしくなり給にける。われらは信心おろかなるゆへに、いまに生死にとまれるなるべし。過去の輪轉をおもへば、未來も又かくのごとし。たとひ二乘の心をおこすといふとも、菩提心をばおこしがたし。如來は勝方便としておこなひ給へり。濁世の衆生、自力をはげまさんには、百千萬億劫難行苦行をいたすといふとも、その勤およぶところにあらず。又かの聖道門は、よく淸淨にして、そのうつは物にたれらん人のつとむべき行也。懈怠不信にしては、中々行ぜざらんよりも、罪業の因となるかたもありぬべし。念佛門においては、行住坐臥ねてもさめても持念するに、そのたよりとがなくして、そのうつは物をきらはず、ことごとく往生の因となる事うたがひなし。 「彼佛因中立弘誓 聞名念我總來迎 不簡貧窮將富貴 不簡下智與高才 不簡多聞持淨戒 不簡破戒罪根深 但使廻心多念佛 能令瓦礫變成金」(五會法事*讚卷本) といへり。又いみじき經論・聖敎の智者といへども、最後臨終の時、その文を暗Ⅵ-0472誦するにあたはず。念佛においては、いのちをきわむるにいたるまで、稱念するにそのわづらひなし。又ほとけの誓願のためしをひかんにも、藥師の十二の誓願には不取正覺の願なく、千手の願は又不取正覺とちかひ給へるも、いまだ正覺なり給はず。彌陀は不取正覺の願をおこして、正覺なりて、すでに十劫をへ給へり。かくのごときのちかひに信をいたさゞらん人は、又他の法門をも信仰するにおよばず。しかれば、返々も一向專修の念佛に信をいたして、他の心なく、日夜朝暮、行住坐臥に、おこたる事なく稱念すべき也。專修念佛をいたすともがら、當世にも往生をとぐるきこへ、そのかずおほし。雜修の人においては、そのきこへきわめてありがたし。そもそもこれを見ても、なをよこさまのひがゐんにいりて、物難ぜんとおもはんともがらは、さだめていよいよいきどをりをなして、しからば、むかしよりほとけのときをき給へる經論・聖敎、みなもて无益のいたづら物にて、うせなんとするにこそなんど、あざけり申さんず〔ら〕ん。それは天台・法相の本寺・本山に修學をいとなみて、名をも存じ、おほやけにもつかへて、官位をものぞまんとおもはんにおいては、左右におよぶべからず。又上根利智の人は、そのかぎりにあらず。この心をえてよく了見する人は、あやまりて聖道門をことにおⅥ-0473もくするゆへと存ずべき也。しかるを、なを念佛にあひかねてつとめをいたさん事は、聖道門をすでに念佛の助行にもちゐるべきか。その條こそ、返々聖道門をうしなふにては侍りけれ。たゞこの念佛門は、返々も又他の心なく後世を思はんともがらの、よしなき僻胤におもむきて、時をも身をもはからず、雜行〔をも〕修して、このたび〔たま〕たまありがたき人界〔に〕むまれて、さば〔か〕りあひがたかるべき彌陀のちかひをすてゝ、又三途の舊界に返りて、生死に輪轉して、多百千劫をへんかなしさを思ひしらん人の身のためを申也。さらば、諸宗のいきどほりにはおよぶべからざる事也。 (八) 淨土宗略抄[第八] このたび生死をはなるゝみち、淨土にむまるるにすぎたるはなし。淨土にむまるゝおこなひ、念佛にすぎたるはなし。おほかたうき世をいでゝ佛道にいるにおほくの門ありといへども、おほき〔にわか〕ちて二門を出す。すなはち聖道門と淨土〔門と也。〕はじめに聖道門といは、この娑婆世〔界にありな〕がら〔まどいを〕たち、さとりをひ〔ら〕く道也。これにつきて大乘の聖道あり、小乘の聖道あり。大Ⅵ-0474乘に又二あり、すなはち佛乘と菩薩乘と也。これらを總じて四乘となづく。たゞしこれらはみな、このごろわれらが身にたえたる事にあらず。このゆへに道綽禪師は、「聖道の一種は、今時に證しがたし」(安樂集*卷上)との給へり。されば、おのおのゝおこなふやうを申して詮なし。たゞ聖道門は、聞とをくしてさとりがたく、まどひやすくしてわが分におもひよらぬみち也とおもひはなつべき也。 つぎに淨土門といは、この娑婆世界をいとひすてゝ、いそぎて極樂にむまるゝ也。かのくにゝむまるゝ事は、阿〔彌〕陀佛〔の〕ちかひにて、人の善惡をえらばず、たゞほとけのちかひをた〔の〕みたのまざるによる也。〔こ〕のゆへに道綽は、「淨土の一門のみありて、通入すべきみちなり」(安樂集*卷上)との給へり。さればこのごろ生死をはなれんと思はん人は、證しがたき聖道をすてゝ、ゆきやすき淨土をねがふべき也。この聖道・淨土をば、難行道・易行道となづけたり。たとへをとりてこれをいふに、「難行道はけわしきみちをかちにてゆくがごとし、易行道は海路をふねにのりてゆくがごとし」(十住論卷五*易行品意)といへり。あしなえ、目しゐたらん人は、かゝるみちにはむかふべからず。たゞふねにのりてのみ、むかひのきしにはつく也。しかるにこのごろのわれらは、智惠のまなこしゐて、行法のあしおれたるとⅥ-0475も〔が〕ら也。〔聖〕道難行のけ〔は〕しきみちには、總じてのぞみをたつべし。たゞ彌陀の本願のふねにのりて、生死のうみをわたり、極樂のきしにつくべき也。いまこのふねはすなはち彌陀の本願にたとふる也。その本願といは、彌陀のむかしはじめて道心をおこして、國王のくらひをすてゝ出家して、ほとけになりて衆生をすくはんとおぼしめしゝ時、淨土をまうけむために、四十八願をおこし給ひしなかに、第十八の願にいはく、「もしわれほとけにならんに、十方の衆生、わがくにゝむまれんとねがひて、わが名號をとなふる事、しも十聲にいたるまで、わが願力に乘じて、もしむまれずは、われ〔ほと〕けにならじ」(大經*卷上意)と〔ち〕かひ給ひて、その願を〔おこなひあら〕はして、〔い〕ますでにほとけにな〔り〕て十劫をへ給へり。されば善導の釋には、「かのほとけ、いま現に世にましまして成佛し給へり。まさにしるべし、本誓重願むなしからず、衆生稱念せばかならず往生する事を得」(禮讚)との給へり。このことはりをおもふに、彌陀の本願を信じて念佛申さん人は、往生うたがふべからず。よくよくこのことはりを思ひときて、いかさまにも、まづ阿彌陀佛のちかひをたのみて、ひとすぢに念佛を申して、ことさとりの人の、とかくいひさまたげむにつきて、ほとけのちかひをうたがふ心ゆめゆⅥ-0476めあるべからず。かやうに心えて、さきの聖道門はわ〔が分〕にあらずと思ひすてゝ、この淨土門にいりて〔ひ〕とすぢにほとけのちかひをあふぎて、名號をとなふるを、淨土門の行者とは申す也。これを聖道・淨土の二門と申すなり。 つぎに淨土門にいりておこなふべき行につきて申さば、心と行と相應すべき也。すなはち安心・起行となづく。その安心といは、心づかひのありさま也。すなはち『觀无量壽經』に說ていはく、「もし衆生ありて、かのくにゝむまれんと願ずるものは、三種の心をおこしてすなはち往生すべし。何等をか三とする。一には至誠心、二には深心、三には廻向發願心也。三心を具するものは、かならずかのくにゝむまる」といへり。善導和尙〔この三心〕を〔釋〕しての給はく、「はじめの至誠心〔といは、〕至といは眞也、誠とい〔は〕實也。一切衆生の身口意業に修せんところの解行、かならず眞實心のなかになすべき事をあかさんとおもふ。ほかには賢善精進の相を現じて、うちには虛假をいだく事を得ざれ」(散善義)。又「内外明闇をきらはず、かならず眞實をもちゐるがゆへに至誠心」(散善義)とゝかれたるは、すなはち眞實心の心なり。眞實といふは、身にふるまひ、口にいひ、心に思はん事も、うちむなしくしてほかをかざる心なきをいふなり。詮じては、まことに穢土をいⅥ-0477とひ淨土をねがひて、外相と内心と相應すべき也。ほかにはかしこき相を現じて、うちには惡をつくり、ほかには精進〔の〕相を現じて、うちには懈怠なる事なか〔れと〕いふ心〔也。か〕る〔がゆへ〕に「ほかには賢善精進の相を現じて、う〔ち〕に虛假をいだく事なかれ」といへり。念佛を申さんについて、人目には六萬・七萬申すと披露して、ま事にはさ程も申さずや。又人の見るおりは、たうとげにして念佛申すよしを見へ、人も見ぬところには、念佛申さずなんどするやうなる心ばへ也。さればとて、わろからん事をもほかにあらはさんがよかるべき事にてはなし。たゞ詮ずるところは、まめやかにほとけの御心にかなはん事をおもひて、うちにま事をおこして、外相をば譏嫌にしたが〔ふべ〕き也。譏嫌にし〔た〕がふがよき事なれ〔ばとて、やが〕て内心のま事もやぶるゝまで〔ふる〕まはゞ、又至誠心かけたる心になりぬべし。たゞうちの心のま事にて、ほかをばとてもかくてもあるべき也。かるがゆへに至誠心となづく。 二に深心といは、すなはち善導釋しての給はく、「深心といはふかく信ずる心也。これに二つあり。一には決定して、わが身はこれ煩惱を具足せる罪惡生死の凡夫也。善根薄少にして、曠劫よりこのかたつねに三界に流轉して、出離の縁なしと、Ⅵ-0478ふかく信ずべし。二にはふかく、かの阿彌陀佛、四十八願をもて衆生を攝受し給ふ。すなはち名號をとなふる事、下十聲にいたるまで、かのほとけの願力に乘じて、さだ〔め〕て往〔生〕を得と信じて、乃至一念もうた〔がふ心なきがゆ〕へに深〔心と〕なづく」(散善*義意)。「又深心といは、決定〔し〕て心をた〔て〕ゝ、佛の敎に順じて修行して、ながくうたがひをのぞきて、一切の別解・別行・異學・異見・異執のために、退失傾動せられざれ」(散善*義意)といへり。この釋の心は、はじめにわが身の程を信じて、のちにはほとけのちかひを信ずる也。のちの信心のために、はじめの信をばあぐる也。そのゆへは、往生をねがはんもろもろの人、彌陀の本願の念佛を申しながら、わが身貪欲・瞋恚の煩惱をもおこし、十惡・破戒の罪惡をもつくるにおそれて、みだりにわが身をかろしめて、かえりてほとけの本願をうた〔が〕ふ。善導は、かねてこの〔う〕たがひをかゞみて、二つの信心のやうをあ〔げ〕て、〔わ〕れらがごときの煩惱をもおこし、罪をもつくる凡夫〔な〕りとも、ふかく彌陀の本願をあふぎて念佛すれば、十聲・一聲にいたるまで、決定して往生するむねを釋し給へり。ま事にはじめのわが身を信ずる樣を釋し給はざりせば、われらが心ばへのありさまにては、いかに念佛申すとも、かのほとけの本願にかなひⅥ-0479がたく、いま一念・十念に往生するといふは、煩惱をもおこさず、つみをもつくらぬめでたき人にてこそあるらめ。われらごときのともがらにてはよもあらじなんど、身の程思ひしられて、往生もたのみが〔た〕きまであ〔や〕うくおぼ〔へ〕まし候に、この〔二〕つ〔の〕信心を釋し給〔ひ〕たる事、いみじく〔身〕にしみておもふべき也。この釋を心えわけぬ人は、みなわが心のわろければ、往生はかなはじなんどこそは申あひたれ。そのうたがひをなすは、やがて往生せぬ心ばへ也。このむねを心えて、ながくうたがふ心のあるまじき也。心の善惡をもかへりみず、つみの輕重をも沙汰せず、たゞ口ちに南無阿彌陀佛と申せば、佛のちかひによりて、かならず往生するぞと決定の心をおこすべき也。その決定の心によりて、往生の業はさだまる也。往生は不定におもへば不定也、一定とおもへば一定する事也。詮じては、ふかく佛のちかひをたのみて、いかなるところをもきらはず、一〔定〕むかへ給ぞと信じて、うた〔が〕ふ心のなきを深心とは申候也。いかなるとがをもきらはねばとて、法にまかせてふるまふべきにはあらず。されば善導も、「不善の三業をば、眞實心の中にすつべし。善の三業をば、眞實心の中になすべし」(散善義)とこそは釋し給ひたれ。又「善業にあらざるをば、うやまてこれをとをざかれ、Ⅵ-0480又隨喜せざれ」(散善義)なんど釋し給ひたれば、心のおよばん程はつみをもおそれ、善にもすゝむべき事とこそは心えられたれ。たゞ彌陀の本誓の善惡をもきらはず、名號をとなふればかならずむかへ給ぞと信じ、名號の功德のいかなるとがをも除滅して、一念・十念もかならず往生をうる事の、めで〔た〕き事をふかく信じて、うた〔がふ心〕一念〔も〕なかれ〔といふ心也。〕又一〔念に〕往生〔す〕ればとて、かならず〔しも〕一念にか〔ぎる〕べからず、彌陀の本願の心は、名號をとなえん事、もしは百年にても、十・二十年にても、もしは四〔、五年にて〕も、もしは一、二年にても、もし〔は〕七日・一日、十聲までも、信心をおこして南無阿彌陀佛と申せば、かならずむかへ給なり。總じてこれをいへば、上は念佛申さんと思ひはじめたらんより、いのちおはるまでも申也。中は七日・一日も申し、下は十聲・一聲までも彌陀の願力なれば、かならず往生すべしと信じて、いくら程こそ本願なれとさだめず、〔一〕念までも定めて往生すと思ひて、退〔轉な〕くいのちおはらんまで〔申〕すべき也。又まめやかに往生の心ざしありて、彌陀の本願をたのみて念佛申さん人、臨終のわろき事は何事にかあるべき。そのゆへは、佛の來迎し給ふゆへは、行者の臨終正念のため也。それを心えぬ人は、みなわが臨終正念にて念佛Ⅵ-0481申したらんおりぞ、ほとけはむかへ給ふべきとのみ心えたるは、佛の本願を信ぜず、經の文を心えぬ也。『稱讚淨土經』には、「慈悲をもてくわへたすけて、心をしてみだらしめ給はず」ととかれたる也。たゞの時よくよく申しおきたる念佛によりて、〔か〕ならずほとけは來迎し給ふ也。佛のき〔た〕りて現じ給へ〔る〕を見〔て、〕正念に〔は住〕すと〔申〕すべき〔也。そ〕れに〔さき〕の念佛をばむなしく思〔ひ〕な〔し〕て、よしなき臨終正念をのみいのる人のおほくある、ゆゝしき僻胤の事也。されば、佛の本願を信ぜん人は、かねて臨終をうたがふ心あるべからず。當時申さん念佛をぞ、いよいよ心をいたして申すべき。いつかは佛の本願にも、臨終の時念佛申たらん人をのみ、むかへんとはたて給ひたる。臨終の念佛にて往生すと申事は、もとは往生をもねがはずして、ひとへにつみをつくりたる惡人の、すでに死なんとする時、はじめて善知識のすゝめにあひて、念佛し〔て〕往生すとこそ、『觀經』にもとかれたれ。〔もと〕より念佛を信ぜん人は、臨終の沙汰をば〔あ〕ながちにすべき樣もなき事也。佛の來迎一定ならば、臨終の正念は、又一定とこそはおもふべきことはりなれ。この心をよくよく心をとゞめて、心うべき事也。又「別解・別行の人にやぶられざれ」といは、さとりことに、おこなひことなⅥ-0482らん人のいはん事につきて、念佛をもすて、往生をもうたがふ心なかれといふ事也。さとりことなる人と申すは、天台・法相等の八宗の學匠なり。行ことなる人と申すは、眞言・止觀の一切の行者也。これらは聖道門をならひおこなふ也。淨土門の解行にはことなるがゆへに、別解・別行となづくる也。又總じておなじく念佛を申す人なれども、彌陀の本願をばたのま〔ずし〕て、自力をは〔げ〕みて〔念〕佛ばかりにてはいかゞ往生すべき。〔異功〕德をつくり、こと佛に〔も〕つかへて、ちからをあはせてこそ往生程の大事をばとぐべけれ。たゞ阿彌陀佛ばかりにては、かなはじものをなんどうたがひをなし、いひさまたげん人のあらんにも、げにもと思ひて、一念もうたがふ心なくて、いかなることはりをきくとも、往生決定の心をうしなふ事なかれと申す也。人にいひやぶらるまじきことはりを、善導こまかに釋し給へり。心をとりて申さば、たとひ佛ましまして、十方世界にあまねくみちみちて、光をかゞやかし舌をのべて、煩惱罪惡の凡夫、念佛して一定往生すといふ事、ひが事也。信ずべからずとの給ふとも、それによりて、一念もうたがふべからず。そ〔のゆへは、佛はみな同心〕に衆生を引導し給に、すなは〔ち〕まづ阿彌陀佛、淨土をまうけて、願をおこしての給はく、「十方衆生、わが國にむまⅥ-0483れんとねがひて、わが名號をとなへんもの、もしむまれずは正覺をとらじ」(大經*卷上意)とちかひ給へるを、釋迦佛この世界にいでゝ、衆生のためにかの佛の願をとき給へり。六方恆沙の諸佛は、舌相を三千世界におほふて、虛言せぬ相を現じて、釋迦佛の彌陀の本願をほめて、一切衆生をすゝめて、かのほとけの名號をとなふれば、さだめて往生すとの給〔へる〕は、決定にしてうたがひなき事也。一切〔衆生み〕なこの事を信ず〔べしと〕證誠し〔給へり。〕かく〔のごとく〕一切諸佛、一佛ものこらず、同心に一切凡夫念佛して、決定して往生すべきむねをすゝめ給へるうゑには、いづれの佛の又往生せずとはの給ふべきぞといふことはりをもて、佛きたりての給ふともおどろくべからずとは申す也。佛なをしかり、いはんや聲聞・縁覺をや、いかにいはんや、凡夫をやと心えつれば、一度この念佛往生を信じてんのちは、いかなる人、とかくいひさまたぐとも、うたがふ心あるべからずと申す事也。これを深心とは申すなり。 三に廻向發願心といは、善導これを釋しての給はく、「過去およ〔び〕今生の身口意業に修〔す〕るところの世出世の善根、および他の身口意業に修するところの世出世の善根を隨喜して、この自他所修の善根をもて、ことごとく眞實深心の中にⅥ-0484廻向して、かのくににむまれんとねがふ也。かるがゆへに廻向發願心となづくる也。又廻向發願してむまるといは、かならず決定して、眞實心の中に廻向して、むまるゝ事をうる思ひをなづくる也。この心ふかくして、なをし金剛のごとくして、一切の異見・異學・別解・別行の人のために動亂破壞せられざれ」(散善義)といへり。この釋の心は、まづわが身につきて、前世にもつくりとつくりたらん功德を、みなことごとく極樂に廻向して、往生をねがふ也。わが身の功德〔の〕みならず、一切凡聖の功德なり。凡といは、凡夫のつくりたらん功德をも、聖といは、佛・菩薩のつくり給はん功德をも、隨喜すればわが功德となるをも、みな極樂に廻向して、往生をねがふ也。詮ずるところ、往生をねがふよりほかに、異事をばねがふまじき也。わが身にも人の身にも、この界の果報をいのり、又おなじく後世の事なれども、極樂ならぬ淨土にむまれんともねがひ、もしは人中・天上にむまれんともねがひ、かくのごとくかれこれに廻向する事なかれと也。もしこのことはりを思ひさだめざらんさきに、この土の事をもいのり、あらぬかたへ廻向したらん功德をもみなとり返して、いまは一すぢに極樂に廻向して往生せんとねがふべき也。一切の功德をみな極樂に廻向せよといへばとて、又念佛のほかにわざⅥ-0485と功德をつくりあつめて廻向せよといふにはあらず。たゞすぎぬるかたの功德をも、今は一向に極樂に廻向し、このゝちなりとも、おのづからたよりにしたがひて僧をも供養し、人に物をもほどこしあたへたらんをも、つくらんにしたがひて、みな往生のために廻向すべしといふ心也。この心金剛のごとくして、あらぬさとりの人におしへられて、かれこれに廻向する事なかれといふ也。金剛はいかにもやぶれぬものなれば、たとへにとりて、この心を廻向發願してむまると申也。 三心のありさま、あらあらかくのごとし。「この三心を具してかな〔ら〕ず往生す。もし一心もかけぬれば、むまるゝ事をえず」(禮讚)と、善導は釋し給ひたれば、もともこの心を具足すべき也。しかるにかやうに申たつる時は、別々〔に〕して事々しきやうなれども、心えとげばやすく具〔し〕ぬべき心也。詮じては、まことの心ありて、ふかく佛のちかひをたのみて、往生をねがはんずる心也。深く淺き事こそかはりめありとも、たれも往生をもとむる程の人は、さ程の心なき事やはあるべき。かやうの事は疎く思へば大事におぼへ、とりよりて沙汰すればさすがにやすき事也。かやうにこまかに沙汰し、しらぬ人も具しぬべく、又よくよくしりたる人もかくる事ありぬべし。さればこそ、いやしくおろかなるものゝ中にも往生Ⅵ-0486する事もあり、いみじくたとげなるひじりの中にも臨終わろく往生せぬもあれ。されども、これを具足すべき樣をもとくとく心えわけて、わが心に具したりともしり、又かけたりとも思はんをば、かまへてかまへて具足せんとはげむべきことなり。これを安心となづくる也。これぞ往生する心のありさまなる。これをよくよく心えわくべきなり。 次に起行といは、善導の御心によらば、往生の行おほしといへども、おほきにわかちて二とす。一には正行、二には雜行也。正行といは、これに又あまたの行あり。讀誦正行・觀察正行・禮拜正行・稱名正行・讚嘆供養正行、これらを五種の正行となづく。讚嘆と供養とを二行とわかつ時には、六種の正行とも申也。この正行につきて、ふさねて二とす。「一には一心にもはら彌陀の名號をとなへて、行住坐臥によ〔る・〕ひるわするゝ事なく念々にすてざるを、正定の業となづく、かのほとけの願に順ずるがゆへに」(散善*義意)といひて、念佛をもてまさしくさだめたる往生の業にたてゝ、「もし禮誦等によるをばなづけて助業とす」(散善義)といひて、念佛のほかに阿彌陀佛を禮し、もしは「三部經」をよみ、もしは極樂のありさまを觀ずるも、讚嘆供養したてまつる事も、みな稱名念佛をたすけんがためなり。まⅥ-0487さしくさだめたる往生の業は、たゞ念佛ばかりといふ也。この正と助とをのぞきて、ほかの諸行をば、布施をせんも、戒をたもたんも、精進ならんも、禪定ならんも、かくのごとくの六度萬行、『法花經』をよみ、眞言をおこなひ、もろもろのおこなひをば、ことごとくみな雜行となづく。たゞ極樂に往生せんとおもはゞ、一向に稱名の正定業を修すべき也。これすなはち彌陀本願の行なるがゆへに、われらが自力にて生死をはなれぬべくは、かならずしも本願の行にかぎるべからずといへども、他力によらずは往生をとげがたきがゆへに、彌陀の本願のちからをかりて、一向に名號をとなへよと、善導はすゝめ給へる也。自力といは、わがちからをはげみて往生〔を〕もとむる也。他力といは、たゞ佛のちからをたのみたてまつる也。このゆへに正行を行ずるものをば、專修の行者といひ、雜行を行ずるをば、雜修の行者と申也。「正行を修するは、心つねにかの國に親近して憶念ひまなし。雜行を行ずるものは、心つねに間斷す、廻向してむまるゝ事をうべしといへども、疎雜の行となづく」(散善*義意)といひて、極樂にうとき行といへり。又「專修のものは十人は十人ながらむまれ、百人は百人ながらむまる。なにをもてのゆへに。ほかに雜縁なくして正念をうるがゆへに、彌陀の本願と相應するがゆへに、Ⅵ-0488釋迦の敎に順ずるがゆへ也。雜修のものは、百人には一、二人むまれ、千人には四、五人むまる。なにをもてのゆへに。彌陀の本願と相應せざるがゆへに、釋迦の敎に順ぜざるがゆへに、憶想間斷するがゆへに、名利と相應するがゆへに、みづからもさへ人の往生をもさふるがゆへに」(禮讚意)と釋し給ひたれば、善導を信じて淨土宗にいらん人は、一向に正行を修して、日々の所作に、一萬・二萬乃至五萬・六萬・十萬をも、器量のたへむにしたがひて、いくらなりともはげみて申すべきなりとこそ心えられたれ。それにこれをきゝながら、念佛のほかに餘行をくわふる人のおほくあるは、心えられぬ事也。そのゆへは、善導のすゝめ給はぬ事をばすこしなりともくわふべき道理、ゆめゆめなき也。すゝめ給へる正行をだにもなをものうき身にて、いまだすゝめ給はぬ雜行をくわふべき事は、まことしからぬかたもありぬべし。又つみつくりたる人だにも往生すれば、まして功德なれば『法花經』なんどをよまんは、なにかはくるしかるべきなんど申す人もあり。それらはむげにきたなき事也。往生をたすけばこそいみじからめ、さまたげにならぬばかりを、いみじき事とてくわへおこなはん事は、なにかは詮あるべき。惡をば、されば佛の御心にこのみてつくれとやすゝめ給へる、かまえてとゞめよとこⅥ-0489そいましめ給へども、凡夫のならひ、當時のまどひにひかれて惡をつくる事はちからおよばぬ事なれば、慈悲をおこしてすて給はぬにこそあれ。まことに惡をつくる人のやうに、餘行どものくわへたがらんは、ちからおよばず。たゞし經なんどをよまん事を、惡つくるにいひならべて、それもくるしからねば、ましてこれもなんどゝいはんは不便の事也。ふかき御のりもあしく心うるものにあひぬれば、返りて物ならずあさましくかなしき事也。たゞあらぬさとりの人の、ともかくも申さん事をばきゝいれずして、すゝみぬべからん人をばこしらへすゝむべし。さとりたがひてあらぬさまならん人なんどに、論じあふ事なんどは、ゆめゆめあるまじき事也。たゞわが身一人、まづよくよく往生をねがひて、念佛をはげみて、位たかく往生して、いそぎ返りきたりて、人々を引導せんとおもふべき也。 又善導の『往生禮讚』に、「問ていはく、阿彌陀佛を稱念禮觀するに、現世にいかなる功德利益かある。こたへて〔い〕はく、阿彌陀佛をとなふる事一聲すれば、すなはち八十億劫の重罪を除滅す。又『十往生經』にいはく、もし衆生ありて、阿彌陀佛を念じて往生をねがふものは、かのほとけすなはち二十五の菩薩をつかはして、行者を護念し給ふ。もしは行、もしは坐、もしは住、もしは臥、もしはよる、Ⅵ-0490もしはひる、一切の時、一切のところに、惡鬼・惡神をしてそのたよりをえしめ給はずと。又『觀經』にいふごときは、阿彌陀佛を稱念して、かのくにゝ往生せんとおもへば、かの佛すなはち无數の化佛、无數の化觀音・勢至菩薩をつかはして、行者を護念し給ふ。さきの二十五の菩薩の、百重千重に行者を圍繞して、行住坐臥をとはず、一切の時處に、もしはひるもしはよる、つねに行者をはなれ給はず」と。又いはく、「彌陀を念じて往生せんとおもふものは、つねに六方恆沙等の諸佛のために護念せらる。かるがゆへに護念經となづく。いますでにこの增上縁の誓願のたのむべきあり。もろもろの佛子等、いかでか心をはげまざらんや」(禮讚)といへり。かの文の心は、彌陀の本願をふかく信じて、念佛して往生をねがふ人をば、彌陀佛よりはじめたてまつりて、十方の諸佛・菩薩、觀音・勢至・无數の菩薩、この人を圍繞して、行住坐臥、よる・ひるをもきらはず、かげのごとくにそいて、もろもろの橫惱をなす惡鬼・惡神のたよりをはらひのぞき給ひて、現世にはよこさまなるわづらひなく安穩にして、命終の時は極樂世界へむかへ給ふ也。されば、念佛を信じて往生をねがふ人、ことさらに惡魔をはらはんために、よろづのほとけ・かみにいのりをもし、つゝしみをもする事は、なじかはあるべき。Ⅵ-0491いはんや、佛に歸し、法に歸し、僧に歸する人には、一切の神王、恆沙の鬼神を眷屬として、つねにこの人をまぼり給ふといへり。しかれば、かくのごときの諸佛・諸神、圍繞してまぼり給はんうゑは、又いづれの佛・神かありてなやまし、さまたぐる事あらん。又宿業かぎりありて、うくべからんやまひは、いかなるもろもろのほとけ・かみにいのるとも、それによるまじき事也。いのるによりてやまひもやみ、いのちものぶる事あらば、たれかは一人としてやみしぬる人あらん。いはんや、又佛の御ちからは、念佛を信ずるものをば、轉重輕受といひて、宿業かぎりありて、おもくうくべきやまひを、かろくうけさせ給ふ。いはんや、非業をはらひ給はん事ましまさゞらんや。されば念佛を信ずる人は、たとひいかなるやまひをうくれども、みなこれ宿業也。これよりもおもくこそうくべきに、ほとけの御ちからにて、これほどもうくるなりとこそは申す事なれ。われらが惡業深重なるを滅して極樂に往生する程の大事をすらとげさせ給ふ。ましてこのよにいか程ならぬいのちをのべ、やまひをたすくるちからましまさゞらんやと申す事也。されば後生をいのり、本願をたのむ心もうすき人は、かくのごとく圍繞にも護念にもあづかる事なしとこそ、善導はの給ひたれ。おなじく念佛すとも、ふかく信Ⅵ-0492をおこして、穢土をいとひ極樂をねがふべき事也。かまえて心をとゞめて、このことはりをおもひほどきて、一向に信心をいたして、つとめさせ給ふべき也。これらはかやうにこまかに申のべたるは、わたくしのことばおほくして、あやまりやあらんと、あなづりおぼしめす事ゆめゆめあるべからず。ひとへに善導の御ことばをまなび、ふるき文釋の心をぬきいだして申す事也。うたがひをなす心なくて、かまへて心をとゞめて御らんじときて、心えさせ給べき也。あなかしこ、あなかしこ。この定に心えて、念佛申さんにすぎたる往生の義はあるまじき事にて候なり。   本にいはく、この書はかまくらの二位の禪尼の請によて、しるし進ぜらるゝ書也[云云]。 黑谷上人語燈錄卷第十二 Ⅵ-0493黑谷上人語燈錄卷第十三 厭欣沙門了惠集錄 和語第二之三[當卷有四篇] (九)九條殿下の北政所へ進ずる御返事第九 (一〇)鎌倉の二位の禪尼へ進ずる御返事第十 (一一)要義問答第十一 (一二)大胡太郎へつかはす御返事第十二 (九) 九條殿下の北政所へ進ずる御返事[第九] かしこまりて申あげ候。さては御念佛申させおはしまし候らんこそ、よにうれしく候へ。ま事に往生の行には、念佛がめでたき事にて候也。そのゆへは、彌陀のⅥ-0494本願の行なれば也。餘行は、それ眞言・止觀のたかき行なりといへども、彌陀の本願にあらず。又念佛は、釋迦如來の付屬の行也。餘行は、まことに定散兩門のめでたき行也といへども、釋尊これを付屬し給はず。又念佛は、六方の諸佛の證誠の行也。餘行は、顯密事理のやんごとなき行なりといへども、諸佛これを證誠し給はず。このゆへに、樣々の行おほしといへども、往生のみちにはひとへに念佛がすぐれたる事にて候也。しかるを往生のみちにうとき人の申すやうは、餘の眞言・止觀の行にたえざる、やすきまゝのつとめにてこそ念佛はあれと申すは、きはめたるひが事にて候也。そのゆへは、餘行をば彌陀の本願にあらずときらひすてゝ、又釋尊の付屬にあらざる行をばえらびとゞめ、又諸佛の證誠にあらざる行をばとゞめおさめて、いまたゞ彌陀の本願にまかせ、釋尊の付屬により、諸佛の證誠にしたがひて、おろかなるわたくしのはからひをばとゞめて、これらのゆへ、つよき念佛の行を信じつとめて、往生をばいのるべしと申す事にて候也。されば惠心の僧都の『往生要集』(卷中)に、「往生の業は、念佛を本とす」と申たるは、この心也。いまはたゞ餘行をとゞめ給て、一向に念佛にならせ給ふべし。念佛にとりても、一向專修の念佛がめでたき事にて候也。そのむねは三昧發得の善導和Ⅵ-0495尙の『觀經疏』にみえて候。しかのみならず、『雙卷經』(大經*卷下)には、「一向專念无量壽佛」ととき給へり。およそ一向のことばゝ、二向・三向に對して、ひとへに餘の行をえらびすて、きらひのぞく心也。君達なんどの御いのりの料なんどにも、念佛がめでたき事にて候へば、『往生要集』に、餘行のなかにも念佛すぐれたるよしみへて候。又傳敎大師の七難消滅の法にも、「念佛をつとむべし」(七難消滅*護國頌)と見えて候。およそ十方諸佛・三界の天衆の擁護し給ふ行にて候へば、現世・後生の御つとめ、何事かこれにすぎ候はん。いまはたゞ一向專修の但念佛にならせ給ふべく候。 (一〇) 鎌倉の二位の禪尼へ進ずる御返事[第十] 御文くはしくうけ給はり候ぬ。さては、念佛の功德は佛もときつくしがたしとの給へり。又智惠第一の舍利弗、多聞第一の阿難も、念佛の功德はしりがたしとの給ひし廣大善根にて候へば、まして源空なんどは申つくすべくも候はず。源空、この朝にわたりて候聖敎を隨分にひらき見候へども、淨土の敎文は、この朝にわたらずとかんがへ候て、わづかに震旦よりとりわたして候聖敎の心をだにも、一Ⅵ-0496年二年なんどには申つくすべくもおぼへ候はず。さりながらも、おほせかぶりて候へば、申のべ候べし。まづ念佛を信ぜざる人々候ひて申候なる事は、くまがやの入道・つのとの三郎は无智のものなればこそ餘行をばせさせずして、念佛ばかりをば法然房はすゝめたれと申候なる事、きわまりなきひが事にて候。そのゆへは、念佛の行は、もとより有智・无智をえらばず。彌陀のむかしちかひ給ひし本願は、あまねく一切のためなり。无智のためには念佛を願とし、有智のためには餘行を願とし給ふ事なし。十方世界の衆生のため也、有智・无智、善人・惡人、持戒・破戒、貴も賤も、男も女もへだてず。もしは佛在世の衆生、もしは佛の滅後の衆生、もしは釋迦の末法萬年のゝち三寶みなうせてのちの衆生まで、たゞ念佛ばかりこそ現當の祈禱とはなり候はめ。善導和尙は彌陀の化身にて、ことに一切衆生をあはれみ給ひて、一切の聖敎をかんがへて專修念佛をすゝめ給へるも、ひろく一切衆生のため也。方便の時節末法にあたりて、いまの敎これ也。されば无智の人のみにかぎらず、ひろく彌陀の本願をたのみて、あまねく善導の御心にしたがひて、念佛の一門をすゝめ候はんに、いかでか无智の人のみにかぎりて、有智の人をへだてゝ往生せさせじとはし候はんや。もししからば、彌陀の本願にⅥ-0497もそむき、善導の御心にもかなふべからず。しかれば、この邊にまうできて往生のみちをたづね候には、有智・无智を論ぜず、ひとへに專修念佛をすゝめ候なり。さやうに專修念佛を申しとゞめんとつかまつる人は、さきの世に念佛三昧得道の法門をきかずして、のちの世に又さだめて三惡道にかえるべきものゝ、しかるべくてさやうに申候也。そのゆへは、聖敎にひろく見えて候也。これはすなはち、「修行する事あるをみては毒心をおこして、方便してきおひてあだをなす。かくのごときの生盲闡提のともがらは、頓敎を毀滅してながく沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三途の身をはなれん事得べからず」(法事讚*卷下)とゝき給へり。 この文の心は、淨土をねがひ念佛を行ずる人を見ては、毒心をおこし、ひが事をたくみめぐらして、樣々の方便をなして專修念佛の行をやぶり、あだをなして申とゞむるに候也。かくのごとくの人は、むまれてより佛法のまなこしゐて、善根のたねをうしなへる闡提人のともがらなり。この彌陀の名號をとなへて、ながき生死をはなれて常住の極樂に往生すべけれども、この敎法をそしりほろぼして、このつみによりてながく三惡道にしづむ。かくのごとくの人は、大地微塵劫をすぐれども、ながく三途の身をはなれん事あるべからずといふ也。しかればすなはⅥ-0498ち、さやうにひが事を申さん人をば、かへりてあはれみ給ふべき也。さ程の罪人の申さんによりて、專修念佛に懈怠をなし、念佛往生にうたがひをなし不審をいたさん人は、いふにかひなき事にこそ候はめ。およそ彌陀に縁あさく往生時いたらぬ物は、きけども信ぜず、念佛のものを見てははらだち、こゑをきゝてはいかりをなして、あしき事也なんど申すは、經論にも見へざる事を申す也。御心をえさせ給ひて、いかに申すとも御心ばかりは御變改候べからず。あながちに信ぜざらん人をば御すゝめ候べからず。ほとけ、なをちからおよび給はず。いかにいはんや、凡夫のちからはおよぶまじく候。かゝる不信の衆生をおもへば、過去の父母・兄弟・親類なりとおぼしめし候て、慈悲をおこして、念佛申て極樂の上品上生にまいりてさとりをひらきて、生死に返りいりて誹謗不信の人をもむかえんと、おぼしめすべき事にて候也。このよしを御心え候べきなり。 一 雜行の人々、餘の功德を修せんには、財寶をあひ助成しておぼしめすべきやうは、これはこれ一向專修にて決定して往生すべき身也、他人のとをきみちをわが近き道ちに結縁せさせんとおぼしめすべき也。そのうゑに專修をさまたげ候はざらんは、結縁せんにとがなし。 Ⅵ-0499一 人々の堂をつくり、佛をつくり、經をかき、僧を供養せんをば、よくよく心をこたらずして信をおこして、かくのごとくの雜善根をも修せしめ給へと御すゝめ候べし。 一 この世のいのりに、念佛の心をしらずして佛神にも申し、經をも誦し書き、堂をもつくらば、それもさきのごとく候べし。せめては又後世のためにせばこそ候はめ。その要なしとおほせ候べからず。專修をさふる行にもあらざりけりと、おぼしめし候べし。 一 念佛を申す事、樣々の義候へども、たゞ六字をとなふるばかりに一切はおさまりて候也。心には願をたのみ、口には名號をとなへて、手にはかずをとり、つねに心にかくるが、きわめたる決定の業にて候也。念佛の行は、もとより行住坐臥・時處諸縁をえらばず、身口の不淨をもきらはぬ行にて候へば、樂行往生とは申つたへて候也。たゞしその中にも心をきよくして申すをば、第一の行と申候也。たゞ淨土を心にかくれば、心淨の行法にて候也。かやうに御すゝめ候べし。さやうにつねに申させ給はんをば、とかく申すべき樣候はず。わが身もしかるべくて、往生このたびすべしとおぼしめし候べし。ゆめゆめこの心よくよくつよくならせⅥ-0500給べし。 一 念佛の行を信ぜぬ人にあひて論じ、又あらぬ行の人々にむかひて執論候べか〔ら〕ず。あながちに別解・異學の人々を見ては、あなづりそしる事候まじ。いよいよ重罪の人にもなさん事、不便に候。おなじ心に極樂をねがひ念佛を申さん人をば、たとひ卑賤の人なりとも父母・師匠にもおとらずおぼしめすべし。今生の財寶のともしからんにも、ちからをくわへ給べし。さりながらも、すこしも念佛に心をかけ候はんをば、よくよくすゝめ給ふべく候。これも彌陀如來の御みやづかへとおぼしめし候べし。釋迦如來滅後よりこのかた、次第に小智小行にまかりなりて候。われもわれもと智惠ありがほに申す人々は、過にて候べし。せめては錄内の經敎をだにもきかず見ず、いかにいはんや、錄のほかの經敎を見ざる人の智惠ありがほに申すは、井のうちのかへるにゝたり。隨分に震旦・日本の聖敎をとりあつめて、ひらきかんがへて候に、念佛を信ぜぬ人は、さきの世に重罪をつくりて地獄にひさしくありて、又地獄へはやく返るべき人也。たとひ千佛世にいでゝ、念佛はまたく往生の業にあらずとおしへ給ふとも信ずべからず。これは釋迦如來よりはじめて、恆河沙の佛の證誠し給へる事なればとおぼしめして、御心Ⅵ-0501ざし金剛よりもかたくして、一向專修は御變改候べからず。もし論じ申さん人をば、これへつかはして、たて申さんやうをきけとおほせ候べし。樣々の要文かきしるしてまいらすべく候へども、たゞこれにすぎ候まじ。又娑婆世界の人は、餘の淨土をねがはん事は、弓なくして天の鳥をとり、足なくしてたかき木ずゑのはなをゝらんとせんがごとし。かならず專修念佛は現當のいのりとなり候也。これも經の說にて候也。又御うちの人々には九品の業を、人にしたがひて、はじめおわりたへ候ひぬべきやうに御すゝめ候べし。あなかしこ、あなかしこ。 (一一) 要義問答[第十一] ま事にこの身には、道心のなき事と、やまひばかりや、なげきにて候らん。世をいとなむ事なければ、四方に馳走せず、衣食ともにかけたりといへども、身命をおしむ心切ならねば、あながちにうれへとするにおよばず。心をやすくせんためにも、すて候べき世にこそ候めれ。いはんや、无常のかなしみは目のまえにみてり、いづれの月日をかおはりの時に期せん。さかへあるものもひさしからず、いのちあるものも又うれへあり。すべていとふべきは六道生死のさかひ、ねがふべⅥ-0502きは淨土菩提也。天上にむまれてたのしみにほこるといへども、五衰退沒のくるしみあり。人間にむまれて國王の身をうけて、一天下をしたがふといへども、生老病死・愛別離苦・怨憎會苦、一事もまぬかるゝ事なし。たとひこれらの苦なからんすら、三惡道に返るおそれあり。心あらん人、いかゞいとはざるべき。うけがたき人界の生をうけて、あひがたき佛敎にあふ。このたび出離をもとめさせ給へ。 (1) 問。おほかた、さこそおもふ事にて候へども、かやうにおほせらるゝことばにつきて、左右なく出家をしたりとも、心に名利をはなれたる事もなく、无道心にて人に謗をなされん事、いかゞとおぼへ候。在家にありておほくの輪廻の業をまさんよりは、よき事にてや候べき。答。たわぶれにあまのころもをき、酒にゑひて出家をしたる人、みな佛道の因となりきと、舊き物にもかきつたへられて候。『往生十因』(意)と申す文には、「勝如聖人の父母ともに出家せし時、おとこはとし四十一、妻は三十三なり。修行の僧をもて師としき。師ほめていはく、衰老にもいたらず、病患にものぞまず、いま出家をもとむ、これ最上の善根也」とこそはいひけれ。釋迦如來、當來導師の慈尊に付屬し給ふにも、「破戒・重惡のともがⅥ-0503らなりといふとも、頭をそり、衣をそめ、袈裟をかけたらんものをば、みななんぢにつく」とこそはおほせられて候へ。されば破戒なりといへども、三會得脫なをたのみあり。ある經の文には、「在家の持戒には、出家の破戒はすぐれたり」とこそは申て候へ。まことに佛法流布の世にむまれて、出離の道をしりて、解脫幢相の衣をかたにかけ、釋氏につらなりて、佛法修行せざらんは、まことにたからの山に入りて、手をむなしくして返るためし也。 (2) 問。まことに出家なんどしては、さすがに生死をはなれ、菩提にいたらん事をこそは、いとなみ候へ。いかやうにかつとめ、いかやうにかねがひ候べき。答。『安樂集』(卷上意)にいはく、「大乘聖敎によるに、二種の勝法あり。一には聖道、二には往生淨土也」。穢土のなかにして、やがて佛果をもとむるは、みな聖道門也。諸法の實相を觀じて證をえんとし、法華三昧を行じて六根淸淨をもとめ、三密の行法をこらして卽身に成佛せんとおもひ、あるいは四道果をもとめ、又三明六通をねがふ、これみな難行道也。往生淨土門といふは、まづ淨土へむまれて、かしこにてさとりをもひらき、佛にもならんとおもふ也、これは易行道といふ。生死をはなるゝみちみちおほし、いづれよりもいらせ給へ。 Ⅵ-0504(3) 問。これはわれらがごときのおろかなるものは、淨土の往生をねがひ候べきか、いかん。答。『安樂集』(卷上意)にいはく、「聖道の一種は、いまの時には證しがたし。一には大聖をさる事はるかにとをきによる。二には理はふかくして、さとりはすくなきによる。このゆへに『大集月藏經』にいはく、わが末法の時の中の億々の衆生、行をおこし道を修するに、いまだ一人もうる物はあらず。まさにいま末法五濁惡世也。たゞ淨土の一門のみありて通入すべきみち也。こゝをもて諸佛の大悲、淨土に歸せよとすゝめ給ふ。一形惡をつくれども、たゞよく心をかけて、ま事をもはらにして、つねによく念佛せよ。一切のもろもろのさはり、自然にのぞこりて、さだめて往生をう。なんぞ思ひはからずして、さる心なきや」といへり。永觀のいはく、「眞言・止觀は、理ふかくしてさとりがたく、三論・法相は、道かすかにしてまどひやすし」(往生*拾因)なんど候。まことに觀念にもたへず、行法にもいたらざらん人は、淨土の往生をとげて、一切の法門をもやすくさとらせ給はんは、よく候ひなんとおぼへ候。 (4) 問。十方に淨土おほし、いづれをかねがひ候べき。兜率の往生をねがふ人もおほく候、いかゞ思ひさだめ候べき。答。天台大師(輔行*卷二)のゝ給はく、「諸敎所讚多在Ⅵ-0505彌陀故、以西方而爲一順」と。又顯密の敎法の中に、もはら極樂をすゝむる事、稱計すべからず。惠心の『往生要集』に、十方に對して西方をすゝめ、兜率に對しておほくの勝劣をたて、難易相違の證據どもをひけり、たづね御らんぜさせ給へ。極樂この土に縁ふかし、彌陀は有縁の敎主也。宿因のゆへ、本願のゆへ、たゞ西方をねがはせ給べきとぞおぼへ候。 (5) 問。まことにさては、ひとすぢに極樂をねがふべきにこそ候なれ、極樂をねがはんには、いづれの行かすぐれて候べき。答。善導釋しての給はく、「行に二種あり。一には正行、二には雜行。正の中に五種あり。一には禮拜の正行、二には讚嘆供養の正行、三には讀誦の正行、四には稱名の正行、五には觀察の正行也。一に禮拜の正行といは、禮せんには、すなはちかのほとけを禮して餘禮をまじへざれ。二に讚嘆供養の正行といは、讚嘆せんには、すなはちかのほとけを讚嘆供養して餘の讚嘆をまじへざれ。三に讀誦の正行といは、讀誦せんには、『彌陀經』等の「三部經」を讀誦して餘の讀誦をまじへざれ。四に稱名の正行といは、稱せんには、すなはちかのほとけを稱して餘の稱名をまじへざれ。五に觀察の正行といは、憶念觀察せんには、かの土の二報莊嚴等を觀察して餘の觀察をまじへざれ。このⅥ-0506五種を往生の正行とす。この正行の中に又二あり。一には正、二には助也。稱名をもては正とし、禮誦等をもては助業となづく。この正助二行をのぞきて、自餘の修善はみな雜行となづく」(散善*義意)。又釋していはく、「自餘の衆善は、みな善となづくといへども、念佛にたくらぶれば、またく比校にあらず」(定善義)との給へり。淨土をねがはせ給はゞ、一向に念佛をこそは申させ給はめ。 (6) 問。餘行を修して往生せん事は、かなひ候まじや。されども『法華經』(卷六*藥王品)に「卽往安樂世界阿彌陀佛所」といひ、密敎の中にも、決定往生の眞言あり。諸敎の中に、淨土に往生すべき功力をとけり、又穢土の中にして佛果にいたるといふ。かたき德をだに具せらん敎を修行して、やすき往生極樂に廻向せば、佛果にかなふまでこそかたくとも、往生はやすく候べきとこそおぼへ候へ。又おのづから聽聞なんどにうけ給はるにも、法華・念佛ひとつ物と釋せられ候。ならべて修せんに、なにかくるしく候べき。答。『雙卷經』(大經*卷下)に三輩往生の業をときて、ともに「一向專念无量壽佛」との給へり。『觀无量壽經』に、もろもろの往生の行をあつめてとき給に、おはりに阿難に付屬し給ふところには、「なんぢこの語をたもて。このことばをたもてといふは、无量壽佛の名をたもつ也」とゝき給ふ。善導『觀Ⅵ-0507經』を釋しての給ふに、「定散兩門の益をとくといへども、佛の本願にのぞむれば、一向にもはら彌陀の名號を稱せしむるにあり」(散善義)といふ。おなじき『經』(觀經)の文に、「一々の光明は、十方世界の念佛の衆生をてらして、攝取してすて給はず」とゝけり。善導釋しての給はく、「餘の雜業のものをてらし攝取すといふ事をば論ぜず」(觀念*法門)と候。餘行のものはふつとむまれずといふにあらず、善導も「廻向してむまるべしといへども、もろもろの疎雜の行となづく」(散善義)とこそはおほせられたれ。『往生要集』(卷上)の序にも、「顯密の敎法、その文ひとつにあらず。事理の業因、その行これおほし。利智精進の人は、いまだかたしとせず。予がごときの頑魯の物、あにたやすからんや。このゆへに、念佛の一門によりて、經論の要文をあつむ。これをひらき、これを修するに、さとりやすく行じやすし」といふ。これらの證據あきらめつべし。敎をえらぶにはあらず、機をはからふ也。わがちからにて生死をはなれん事、はげみがたくして、ひとへに他力の彌陀の本願をたのむ也。先德たちおもひはからひてこそは、道綽は聖道をすてゝ淨土の門にいり、善導は雜行をとゞめて一向に念佛して三昧をえ給ひき。淨土宗の祖師、次第にあひつげり、わづかに一兩をあぐ。この朝にも惠心・永觀なんどいふ、自Ⅵ-0508宗・他宗、ひとへに念佛の一門をすゝめ給へり。專雜二修の義、はじめて申におよばず。淨土宗の文おほし、こまかに御らんずべし。又卽身得道の行、往生極樂におよばざらんやと候は、ま事にいはれたるやうに候へども、なにとも宗と申す事の候ぞかし。善導の『觀經の疏』(玄義*分意)にいはく、「般若經のごときは、空惠をもて宗とす。『維摩經』のごときは、不思議解脫をもて宗とす。いまこの『觀經』は、觀佛三昧をもて宗とし、念佛三昧をもて宗とす」といふがごとき。『法華』は、眞如實相平等の妙理を觀じて證をとる、現身に五品・六根の位にもかなふ、これらをもて宗とす。又眞言には、卽身成佛をもて宗とす。『法華』にもおほくの功力をあげて經をほむるついでに、「卽往安樂」(法華經卷*六藥王品)ともいひ、又「卽往兜率天上」(法華經卷*七勸發品)ともいふ。これは便宜の說也、往生をむねとするにはあらず。眞言又かくのごとし。法華・念佛一つなりといひて、ならべて修せよといはば、善導和尙は『法華』・『維摩』等を誦しき。淨土の一門にいりにしよりこのかた、一向に念佛して、あえて餘の行をまじふる事なかりき。しかのみならず、淨土宗の祖師あひついで、みな一向に名號を稱して餘業をまじへざれとすゝむ。これらを案じて專修の一行にいらせ給へと申すなり。 Ⅵ-0509(7) 問。淨土の法門に、まづなになにをみて心つき候なん。答。經には『雙卷』・『觀无量壽』・『小阿彌陀經』等、これを「淨土三部經」となづく。文には善導の『觀經の疏』・『六時禮讚』・『觀念法門』、道綽の『安樂集』、慈恩の『西方要決』、懷感の『群疑論』、天台の『十疑論』、わが朝の人師には惠心の『往生要集』なんどこそは、つねに人の見るものにて候へ。たゞしなにを御らんぜずとも、よく御心えて念佛申させ給ひなんに、往生なに事かうたがひ候べき。 (8) 問。心をば、いかやうにかつかひ候べき。答。三心を具足せさせ給へ。その三心と申すは、一には至誠心、二には深心、三には廻向發願心なり。一に至誠心といふは、眞實の心也。善導釋しての給はく、「至といふは眞の義、誠といふは實の義。眞實の心の中に、この自他の依正二報をいとひすてゝ、三業に修するところの行業に、かならず眞實をもちゐよ。ほかに賢善精進の相を現じて、内に虛假をいだく物は、日夜十二時につとめおこなふ事、かうべの火をはらふがごとくにすれども、往生をえずといふ。たゞ内外明闇をえらばず、眞實をもちゐるゆへに、至誠心となづく。二に深心といふは、ふかき信也。決定してふかく信ぜよ、自身は現にこれ罪惡生死の凡夫也。曠劫よりこのかた、つねにしづみつねに流轉して、Ⅵ-0510出離の縁ある事なし。又決定してふかく信ぜよ、このあみだほとけ、四十八願をもて、衆生を攝受して、うたがひなくうらもひなく、かの願力にのりてさだめて往生すと。あふぎねがはくは、ほとけのことばをば信ぜよ。もし一切の智者百千萬人きたりて、經論の證をひきて、一切の凡夫念佛して往生する事をえずといはんに、一念の疑退の心をおこすべからず。たゞこたへていふべし、なんぢがひくところの經論信ぜざるにはあらず。なんぢが信ずるところの經論は、なんぢが有縁の敎、わが信ずるところは、わが有縁の敎、いまひくところの經論は、菩薩・人・天等に通じてとけり。この『觀經』等の三部は、濁惡不善の凡夫のためにとき給ふ。しかれば、かの『經』をとき給ふ時には、對機も別に、所ろも別に、利益も別なりき。いまきみ〔が〕うたがひをきくに、いよいよ信心を增長す。もし羅漢・辟支佛、初地・十地の菩薩、十方にみち、化佛・報佛ひかりをかゞやかし、虛空にしたをはきて、むまれずとの給はゞ、又こたへていふべし、一佛の說は一切佛の說におなじ、釋迦如來のとき給ふ敎をあらためば、制し給ふところの殺生十惡等のつみをあらためて、又おかすべしや。さきのほとけそら事し給はゞ、のちのほとけも又そら事し給ふべし。おなじ事ならば、たゞしそめたる法をば、あらたⅥ-0511めじといひて、ながく退する事なかれ。かるがゆへに深心也。三に廻向發願心といふは、一切の善根をことごとくみな廻向して、往生極樂のためとす。決定眞實の心のうちに廻向して、むまるゝおもひをなすなり。この心深信なる事、金剛のごとくにして、一切の異見・異學・別行人等に、動亂破壞せられざれ。いまさらに行者のために一つのたとへをときて、外邪・異見の難をふせがん。人ありて西にむかひて百里・千里をゆくに、忽然として中路に二つの河あり。一つはこれ火のかわ、みなみにあり。二つはこれ水のかわ、きたにあり。おのおのひろさ百步、ふかくしてそこなし。まさに水火の中間に一つの白き道あり、ひろさ四五寸ばかりなるべし。このみちひんがしのきしより西の岸にいたるまで、ながさ百步、そのみづの波浪交過して道をうるをす、火焰又きたりて道をやく。水火あひまじはりてつねにやむ事なし。この人すでに空曠のはるかなるところにいたるに、人なくして群賊・惡獸あり。この人のひとりゆくを見て、きをひきたりてころさんとす。この人死をおそれてたゞちにはしりて西にむかふ。忽然としてこの大河を見るに、すなはち念言すらく、南北にほとりなし、中間に一つの白道を見る、きわめて狹少也。二つの岸あひさる事ちかしといへども、いかゞゆくべき。今日さだⅥ-0512めて死せん事うたがひなし。まさしく返らんとおもへば、群賊・惡獸やうやくきたりてせむ。南北にさりはしらんとおもへば、惡獸・毒蟲きおひきたりてわれにむかふ。まさに西にむかひて道をたづねて、しかもさらんとおもへば、おそらくはこの二つの河におちぬべし。この時おそるゝ事いふべからず、すなはち思念すらく、返るとも死し、又さるとも死せん、一種としても死をまぬかれざるもの也。われむしろこのみちをたづねて、さきにむかひてさらん。すでにこのみちあり、かならずわたるべし。このおもひをなす時に、東の岸にたちまちに人のすゝむるこゑをきく。きみ決定してこのみちをたづねてゆけ、かならず死の難なけん。住せば、すなはち死なん。西の岸のうゑに人ありてよばひていはく、なんぢ一心にまさしく念じて、みちをたづねて直にすゝみて、疑怯退心をなさゞれと。あるいは一分二分ゆくに、群賊等よばひていはく、きみ返りきたれ、かのみちははげしくあしきみち也、すぐる事をうべからず、死なん事うたがひなし、われらが衆は惡心なしと。この人、よばふこゑをきくといへどもかえりみず。直にすゝみて道を念じてしかもゆくに、須臾にすなはち西の岸にいたりて、ながくもろもろの難をはなる。善友あひむかひてよろこびやむ事なし。これはたとへ也。次にたとへⅥ-0513を合すといふは、東の岸といふは、すなはちこの娑婆の火宅にたとふる也。群賊・惡獸いつはりちかづくといふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大也。人なき空迥の澤といふは、すなはち惡友にしたがひて、まことの善知識にあはざる也。水火の二河といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとく、瞋恚は火のごとくなるにたとふる也。中間の白道四五寸といふは、衆生の貪瞋煩惱の中に、よく淸淨の願往生の心をなす也。貪瞋こわきによるがゆへに、すなはち水火のごとしとたとふる也。願心すくなきがゆへに、白道のごとしとたとふる也。水波つねにみちをうるおすといふは、愛心つねにおこりて善心を染汚する也。又火焰つねに道をやくといふは、瞋嫌の心よく功德の法財をやく也。人みちをのぼるに直に西にむかふといふは、すなはちもろもろの行業をめぐらして、直に西にむかふにたとふる也。東の岸に人のこゑのすゝめやるをきゝて、道をたづねて直に西にすゝむといふは、すなはち釋迦はすでに滅し給ひてのち、人見たてまつらざれども、なを敎法ありてたづねつべし。これをこゑのごとしとたとふる也。あるいはゆく事一分二分するに群賊等よび返すといふは、別解・別行・惡見人等みだりに見解をときてあひ惑亂し、およびみづから罪をつくりて退失するにたとふるⅥ-0514也。西の岸のうゑに人ありてよばふといふは、すなはち彌陀の願の心にたとふる也。須臾にすなはちにしのきしにいたりて善友あひ見てよろこぶといふは、すなはち衆生ひさしく生死にしづみて、曠劫に輪廻し、迷到し、みづからまどひて解脫するによしなし。あふぎて釋迦發遣して、西方にむかはしめ給ふ。彌陀の悲心まねきよばひ給ふによりて、二尊の心に信順して、水火の二河をかえりみず、念々にわするゝ事なく、かの願力の道に乘じて、いのちをすておはりてのち、かのくににむまるゝ事をえて、ほとけを見たてまつりて、慶喜する事きはまりなからん。行者、行住坐臥の三業に修するところ、晝夜時節を問ことなく、つねにこのさとりをなし、このおもひをなすがゆへに廻向發願心といふ。又廻向といふは、かのくにゝむまれおはりて、大悲をおこして生死に返りいりて、衆生を敎化するを廻向となづく。三心すでに具すれば、行として成ぜずといふ事なし。願行すでに成じて、もしむまれずといはゞ、このことはりある事なけん」(散善*義意)〔と。〕已上善導の釋の文なり。 (9) 問。『阿彌陀經』の中に、「一心不亂」と候ぞかしな。これ阿彌陀佛を申さん時、餘事をすこしもおもひまぜ候まじきにや。一こゑ念佛申さん程、物をおもひまぜざⅥ-0515らん事はやすく候へば、一念往生にはもるゝ人候へじとおぼへ候。又いのちのおはるを期として、餘念なからん事は、凡夫の往生すべき事にても候はず。この義いかゞ心え候べき。答。善導この事を釋しての給はく、ひとたび三心を具足してのち、みだれやぶれざる事金剛のごとくにて、いのちおはるを期とするを、なづけて一心といふに候。阿彌陀佛の本願の文に、「設我得佛、十方衆生、至心信樂、欲生我國、乃至十念、若不生者、不取正覺」(大經*卷上)といふ。この文に「至心」といふは、『觀經』にあかすところの三心の中の至誠心にあたれり。「信樂」といふは、深心にあたれり。「欲生我國」は、廻向發願心にあたれり。これをふさねて、いのちおはるを期として、みだれぬものを一心とは申す也。この心を具せんもの、もしは一日・二日、乃至十聲・一聲に、かならず往生する事をうといふ。いかでか凡夫の心に、散亂なき事候べき。さればこそ易行道とは申す事にて候へ。『雙卷經』(大經*卷下)の文には、「橫截五惡趣、惡趣自然閉、昇道无窮極、易往而无人」とゝけり。ま事にゆきやすき事、これにすぎたるや候べき。劫をつみてむまるといはゞ、いのちもみじかく、身もたへざらん人、いかゞとおもふべきに、本願に「乃至十念」(大經*卷上)といふ、願成就の文に「乃至一念もかのほとけを念じて、心をいたして廻向Ⅵ-0516すれば、すなはちかの國にむまるゝ事をう」(大經*卷下意)といふ。造惡のものむまれずといはゞ、『觀經』(意)の文に、「五逆の罪人むまる」とゝく。もし世もくだり、人の心もおろかなる時は、信心うすくしてむまれがたしといはゞ、『雙卷經』(大經*卷下)の文に、「當來之世經道滅盡、我以慈悲哀愍、特留此經止住百歲。其有衆生値此經者、隨意所願皆可得度。」W云云Rその時の衆生は三寶の名をきく事なし、もろもろの聖敎は龍宮にかくれて一卷もとゞまる物なし。たゞ邪惡无信のさかりなる衆生のみあり、みな惡道におちぬべし。彌陀の本願をもて、釋迦の大悲ふかきがゆへに、この敎をとゞめ給へる事百年也。いはんや、このごろはこれ末法のはじめ也。萬年のゝちの衆生におとらんや。かるがゆへに「易往」といふ。しかりといへども、この敎にあふ物はかたし。又おのづからきくといへども、信ずる事かたきがゆへに、しかも「无人」といふ、ま事にことはりなるべし。『阿彌陀經』(意)に、「もしは一日、もしは二日、乃至七日、名號を執持して一心不亂なれば、その人命終の時に、阿彌陀佛もろもろの聖衆と現にその人のまえにまします。おはる時、心顚倒せずして、阿彌陀佛の極樂國土に往生する事をう」といふ。この事をとき給ふ時に、釋迦一佛の所說を信ぜざらん事をおそれて、「六方の如來、同心同時におのおⅥ-0517の廣長の舌相をいだして、あまねく三千大千世界におほひて、もしこの事そら事ならば、わがいだすところの廣長の舌やぶれたゞれて、口にいる事あらじ」(觀念*法門)とちかひ給ひき。經文・釋文あらは也。又大事を成し給ひし時は、みな證明ありき。法華をとき給ひし時は、多寶一佛證明し、般若をとき給ひし時は、四方四佛證明し給ふ。しかりといへども、一日七日の念佛のごとく證誠のさかりなる事はなし。ほとけもこの事をま事に大事におぼしめしたるにこそ候めれ。 (10) 問。信心のやうはうけ給はりぬ、行の次第いかゞ候べき。答。四修をこそは本とする事にて候へ。一には長時修、乃至四には无餘修也。一に長時修といふは、慈恩の『西方要決』(意)にいはく、「初發心よりこのかた、つねに退轉なき也」。善導は、「いのちのおはるを期として、誓て中止せざれ」(禮讚)といふ。二に恭敬修といは、極樂の佛法僧寶において、つねに憶念して尊重をなす也。『往生要集』にあり。又『要決』(西方要*決意)にいはく、「恭敬修、これにつきて五あり。一には有縁の聖人をうやまふ、二には有縁の聖敎をうやまふ、三には有縁の善知識をうやまふ、四には同縁の伴をうやまふ、五には三寶をうやまふ。一に有縁の聖人をうやまふといふは、行住坐臥に西方をそむかず、涕唾便利に西方にむかはざれといふ。二に有Ⅵ-0518縁の像と敎とをうやまふといふは、阿彌陀佛の像をつくりもかきもせよ。ひろくする事あたはずは、一佛二菩薩をつくれ。又敎をうやまふといふは、『彌陀經』等を五色のふくろにいれて、みづからもよみ他をおしへてもよませよ。像と經と室のうちに安置して、六時に禮讚し、香花を供養すべし。三に有縁の善知識をうやまふといふは、淨土の敎をのべんものをば、もしは千由旬よりこのかた、ならびに敬重し親近・供養すべし。別學のものをも總じてうやまふ心をおこすべし。もし輕慢をなさば、罪をうる事きわまりなし。すゝみても衆生のために善知識となりて、かならず西方に歸する事をもちゐよ。この火宅に住せば、退沒ありていでがたきがゆへ也。火界の修道はなはだかたかるべきがゆへに、西方に歸せしむ。ひとたび往生をえつれば、三學自然に勝進して、萬行ならびにそなはるがゆへに、彌陀の淨國は造惡の地なし。四に同縁のともをうやまふといふは、おなじく業を修する物也。みづからはさはりおもくして獨業成ぜずといへども、かならずよきともによりて、まさに行をなす。あやうきをたすけ、あやうきをすくふ事、同伴の善縁也。ふかくあひたのみておもくすべし。五に三寶をうやまふといふは、繪像・木佛、三乘の敎旨、聖僧・菩薩・破戒のともがらまでうやまひをおこし、慢Ⅵ-0519を生ずる事なかれ。木のかたぶきたるは、たうるゝに、まがれるによるがごとし。事のさはりありて、西にむかふにおよばずは、たゞ西にむかふおもひをなすべし」。三に无間修といふは、『要決』(西方要*決意)にいはく、「つねに念佛して往生の心をなせ。一切の時において、心につねにおもひたくむべし。たとへばもし人他に抄掠せられて、身下賤となりて艱辛をうく。たちまちに父母をおもひて、本國にはしり返らんと思ふ。ゆくべきはかり事、いまだわきまへずして他郷にあり、日夜に思惟する。くるしみたへしのぶべからず、時として本國をおもはずといふ事なし。はかり事をなす事をえて、すでに返りて達する事をえて、父母に親近し、ほしきまゝに歡娛するがごとし。行者も又しか也。往因の煩惱に善心を壞亂せられて、福智の珍財ならびに散失して、ひさしく生死にしづみて、六道に驅馳し、くるしみ身心をせむ。いま善縁にあひて、彌陀の慈父をきゝて、まさに佛恩を念じて、報盡を期として、心につねにおもふべし。心々相續して餘業をまじへざれ」。四に无餘修といふは、『要決』(西方*要決)にいはく、「もはら極樂をもとめて禮念する也。諸餘の行業を雜起せざれ。所作の業は日別に念佛すべし」。善導のゝ給はく、「もはらかのほとけの名號を念じ、もはらかのほとけおよびかの土の一切の聖衆等をⅥ-0520ほめて、餘業をまじへざれ。專修のものは百はすなはち百ながらむまれ、雜修のものは百が中にわづかに一二也。雜縁にちかづきぬれば、みづからもさへ、他の往生の正行をもさふる也。われみづから諸方を見きくに、道俗の解行不同にして、專雜こと也。たゞ心をもはらになすは、十はすなはち十ながらむまる。雜修のものは、千が中に一つもえず」(禮讚意)といふ。又善導の御弟子釋しての給はく、「西方淨土の業を修せんとおもはん物は、四修おつる事なく、三業まじわる事なくして、一切の諸願・諸行を廢して、たゞ西方の一行・一願を修せよ」(群疑論*卷四意)とこそ候へ。 (11) 問。一切の善根は魔王のためにさまたげらる。これはいかゞして對治し候べき。答。魔界といふ物は、衆生をたぶろかす物也。一切の行業は、自力をたのむゆへ也。念佛の行者は、身をば罪惡生死の凡夫とおもへば、自力をたのむ事なくして、たゞ彌陀の願力にのりて往生せんとねがふに、魔縁たよりをうる事なし。觀惠をこらす人にも、なを九境の魔事ありといふ。彌陀の一事には、もとより魔事なし、果人淸淨なるがゆへにといへり。佛をたぶろかす魔縁なければ、念佛のものをばさまたぐべからず、他力をたのむによるがゆへ也。百丈の石を船におきつれば、Ⅵ-0521萬里の大海をすぐるがごとし。又念佛の行者のまへには、彌陀・觀音つねにきたり給ふ。二十五の菩薩、百重千重に圍繞護念し給ふに、たよりをうべからず。 (12) 問。阿彌陀佛を念ずるに、いかばかりのつみをか滅し候。答。「一念によく八十億劫の生死の罪を滅す」(觀經意)といひ、又「但聞佛名二菩薩名、除无量劫生死之罪」(觀經)なんど申候ぞかし。 (13) 問。念佛と申候は、佛の色相を念じ候か。答。佛の色相・光明を念ずるは、觀佛三昧なり。報身を念じ同體の佛性を觀ずるは、智あさく心すくなきわれらは境界にあらず。善導の給はく、「相を觀ぜずして、たゞ名字を稱せよ。衆生さはりおもくして、觀成ずる事かたし。このゆへに大聖あはれみをたれて、稱名をもはらにすゝめ給へり。心かすかにして、たましゐ十方にとびちるがゆへ也」(禮讚意)といへり。又本願の文を、善導釋しての給はく、「若我成佛、十方衆生願生我國、稱我名號、下至十聲、乘我願力、若不生者不取正覺。彼佛今現在世成佛。當知、本誓重願不虛、衆生稱念必得往生」(禮讚)とおほせられて候。とくとく安樂淨土に往生せさせおはしまして、彌陀・觀音を師として、法華の眞如實相平等の妙理、般若の第一義空、眞言の卽身成佛、一切の聖敎、心のまゝにさとらせおはしますべし[云云]。 Ⅵ-0522(一二) 大胡太郎實秀へつかはす御返事[第十二] さきの便にはさしあふ事候て、御返事こまかに申さず候き、さだめて不審におぼしめし候らんと思給候。さてはたづねおほせられ候し事ども、御文なんどにて、たやすく申ひらきがたき事にて候。あはれ京にひ〔さ〕しく御逗留候し時、こまかに御沙汰候ましかばよく候ひなまし。大方は念佛して往生すと申事ばかり、わづかにうけ給はりて候。わが心一つにふかく信じたるばかりにてこそ候へども、人までつばひらかに申きかせなんどする程の身にて候はねば、ましてたちいりたる事どもの不審なんど、御文にて申ひらくべしともおぼへ候はねども、わづかに見および候はん程の事を、はゞかりまいらせて、ともかくも御返事申候はざらん事のおそれにて候へば、心のおよぶ程は、かたのごとく申候はんと存じ候也。 まづ三心具足して往生すと申候事は、ま事にその名目ばかりをうちきく時には、いかなる心を申やらんと、事々しくおぼへ候ひぬべけれども、善導の御心にては、心えや〔す〕き事にて候也。かならずしもならひ沙汰せざらん无智の人や、さとりなからん女人なんどの、え具せぬ程の心ばへにては候はぬ也。たゞまめやかに往Ⅵ-0523生せんとおもひて念佛申さん人は、自然に具足しぬべき心にて候物を。そのゆへは、三心と申すは、『觀无量壽經』にとかれて候やうは、「もし衆生ありて、かのくにゝむまれんとねがはんものは、三種の心をおこしてすなはち往生すべし。何等をか三とする。一には至誠心、二には深心、三には廻向發願心也。この三心を具するものは、かならずかのくにゝむまる」とゝかれたり。しかるに善導和尙の御心によらば、はじめに「至誠心」といふは眞實の心也。眞實といふは、いはく内はむなしくして、外をかざる心のなきを申也。すなはち『觀經疏』(散善義)に釋していはく、「外には賢善精進の相を現じ、内には虛假をいだく事をえざれ」といへり。この釋の心は、内はおろかにして、外にはかしこき人とおもはれんとふるまひ、内には惡をつくり、外には善人のよしをしめし、内には懈怠の心を懷きて、外には精進の相を現ずるを、眞實ならぬ心とは申也。外も内もありのまゝにてかざる心のなきを、至誠心となづくるにこそ候めれ。 二に「深心」といふは、すなはちこれ深く信ずる心也。何事をふかく信ずるぞといふに、まづもろもろの煩惱を具足し、おほくのつみをつくりて、餘の善根なんどなからん凡夫、あみだほとけの大悲本願をあふぎて、そのほとけの大悲の名號をⅥ-0524となへて、もしは百年にても、もしは四、五十年にても、もしは十、二十年にても、乃至一、二年にてもあれ、すべて往生せんとおもひはじめたらん時よりして、最後臨終の時にいたるまで懈怠せず。もしは七日・一日、十聲・一聲にても、おほくもすくなくも、稱名念佛の人は決定して往生すべしと信じて、乃至一念もうたがふ心なきを、深心とは申也。しかるにもろもろの往生をねがふ人、本願の名號をたもちながら、なを内に妄念のおこるをおそれ、外に餘善のすくなきによりても、ひとへにわが身をかろしめて往生を不定におもはゞ、すでに本願をうたがふ也。されば善導は、はるかに未來の行者のこのうたがひをのこさん事をかゞみて、その疑心をのぞきて決定の心をすゝめんがために、煩惱を具足して罪業をつくり、善根すくなく智解なからん凡夫、十聲・一聲までの念佛によりて、決定して往生すべきことはりを、くはしく釋しおしへ給へる也。たとひおほくのほとけ、空の中に充滿ちて、光をはなち舌をのべて、造罪の凡夫、念佛して往生すといふ事はひが事なり、信ずべからずとの給ふとも、それによりて一念もおどろきうたがふ心あるべからず。そのゆへは、阿彌陀ほとけいまだ佛になり給はざりしむかし、もし我佛になりたらん時、十方の衆生わが名號を十たびとなへ、一こゑもとⅥ-0525なへむ。となふる事、かみ百年よりしも十聲・一聲までにせんに、もしわがくにゝむまれずといはゞ、われほとけにならじとちかひ給ひたりしに、その願むなしからずして、ほとけになりてすでにひさしくなり給へり。知るべし、その名號をとなへむ人は、かならず往生すべしといふ事を。又釋迦ほとけ、この娑婆世界にいで給ひて、一切衆生のために、かの彌陀の本願をときて、念佛往生をすゝめ給へり。又六方恆沙の諸佛、おのおの廣長の舌をいだして、釋迦の念佛して往生すとゝき給ふは決定也。もろもろの衆生、ふかく信じてすこしもうたがふ心あるべからずと、爾許のほとけたちの一佛ものこらず一味同心に證誠し給へり。すで〔に〕阿彌陀ほとけは、その願を立給ふ。釋迦ほとけは、その願のむなしからざる事をときすゝめ給ふ。六方恆沙の諸佛は、その說の眞實なる事を證誠し給へり。このほかにいづれのほとけの、又これらの諸佛にたがひて、凡夫念佛して往生せずとはの給ふべきぞといふことはりをもて、おほくのほとけ現じての給ふとも、それにおどろきて、さては念佛往生かなふまじきかと、信心をやぶり疑心をおこすべからず。いはんや、菩薩たちのの給はんをや。いはんや、羅漢・辟支佛等をやと、釋し給ひて候也。いかにいはんや、近來の凡夫のいひさまたげんをや。いⅥ-0526かにめでたき人と申すとも、善導和尙にまさりたてまつりて往生の道をしりたらん事もありがたく候。善導は又たゞの凡夫にはあらず、すなはち阿彌陀佛の化身也。かのほとけ、わが本願をひろめて、あまねく一切衆生にしらしめて、決定して往生せさせん料に、かりそめに凡夫の人とむまれて善導和尙といはれ給ふ也。いはばその敎は佛說にてこそ候へ。いかにいはんや、垂迹のかたにても現身に念佛三昧をえて、まのあたり淨土の莊嚴を見、佛にむかひたてまつりて、たゞちにほとけのおしへをうけ給はりての給へる詞共也。本地をおもふにも垂迹をたづぬるにも、かたがたあふいで信ずべし。されば、たれもたれも煩惱のこきうすきをかへりみず、罪障のかろきおもきをも沙汰せず、たゞ口に南無阿彌陀佛ととなへむ〔こ〕ゑにつきて、決定往生のおもひをなすべし。その決定の心を、やがて深心とはなづくる也。その深心を具しぬれば、決定して往生する也。詮ずるところは、とにもかくにも深心、念佛して往生すといふ事をふかく信じてうたがはぬを、深心とはなづけて候なり。 三に「廻向發願心」といふは、これ又別の心には候はず、わが所修の行業を、一向に極樂に廻向して往生をねがふ心也。「かくのごときの三心を具してかならず往Ⅵ-0527生すべし。この心一つもかけぬれば、往生せず」(禮讚意)と、善導は釋し給へる也。たとひ眞實の心ありて、うゑをかざらずとも、ほとけの本願をうたがはゞ、すでに深心かけたる念佛也。たとひ疑心なくとも、ほかをかざりて、内にま事の心なくは、至誠心かけたる〔心〕なるべし。たとひこの二心を具して、かざる心も疑心もなくとも、極樂にむまれんとおもふ心なくは、廻向發願心かけぬべし。三心を心えわかつ時には、かくのごとく別々なる樣なれども、詮ずるところは、眞實の心をおこして、ふかく本願を信じて往生をねがふ心を、三心具足の心とは申也。ま事にこれほどの心だにも具足せずしては、いかゞ往生ほどの大事をばとげ給ふべきや。この心は申せば、又やすき事にて候也。これをかやうに心えしらねばとて、又え具足せぬ心にては候はぬ也。その名をだにもしらぬものも、この心をばそなへつべく候。又よくよくしりたらん人のなかにも、そのまゝに具せぬも候ひぬべき心ばへにて候也。さればこそ、いふに甲斐なき人ならぬものどもの中よりも、たゞひらに念佛申すばかりにて往生したりといふ事は、むかしより申つたへたる事にて候へ。それらはみなしらねども、三心を具したる人にてありけりと、心えらるゝ事にて候也。 Ⅵ-0528又としごろ念佛申たる人の、臨終のわろき事の候は、さきに申つるやうに、うゑばかりをかざりて、たうとき念佛者と人にいはれんとのみ思ひて、したにはふかく本願をも信ぜず、まめやかに往生をもねがはぬ人にてこそは候らめと、心えられ候也。さればこの三心を具せざるゆへに、臨終もわろく、往生もせぬ事〔に〕て候也としろしめすべき也。かく申候へば、さては往生は大事の事にこそとおぼしめす事、ゆめゆめ候まじき也。一定往生すべしと思ひとらぬ心を、やがて深心かけて往生せぬ心とは申候へば、いよいよ一定の往生とこそおぼしめすべき事にて候へ。まめやかに往生の心ざしありて、彌陀の本願をうたがはずして、念佛を申さん人は、臨終のわろき事は大方は候まじき也。そのゆへは、ほとけの來迎し給ふ事は、もとより行者の臨終正念のためにて候也。それを心えぬ人は、みなわが臨終正念にて念佛申たらん時に、ほとけはむかへ給ふべき也とのみ心えて候は、佛の願をも信ぜず、經の文をも心えぬ人にて候也。そのゆへは、『稱讚淨土經』にいはく、「ほとけ慈悲をもて加へ助けて、心をしてみだらしめ給はず」とゝかれて候へば、たゞの時によくよく申をきたる念佛によりて、臨終にかならずほとけは來迎し給ふべし。ほとけの來迎し給ふを見たてまつりて、行者正念に住すと申すⅥ-0529義にて候也。しかるにさきの念佛を、むなしくおもひなして、よしなく臨終正念をのみいのる人なんどの候は、ゆゝしき僻胤にいりたる事にて候也。さればほとけの本願を信ぜん人は、かねて臨終をうたがふ心あるべからずとこそおぼへ候へ。たゞ當時申さん念佛をば、いよいよも心を至して申べきにて候。いつかはほとけの本願にも、臨終の時念佛申たらん人をのみ迎へんとはたて給ひて候。臨終の念佛にて往生すと申事は、日比往生をもねがはず、念佛をも申さずして、ひとえにつみをのみつくりたる惡人の、すでに死なんとする時、はじめて善知識のすゝめにあひて、念佛して往生すとこそ、『觀經』にもとかれて候へ。もとよりの行者は、臨終の沙汰をばあながちにすべき樣は候はぬ也。佛の來迎一定ならば、臨終の正念も又一定とおぼしめすべき也。この大意をもて、よくよく御心をとゞめて、心えさせ給ふべく候。 又罪をつくりたる人だにも念佛して往生す、まして『法華經』なんどうちよみて、念佛申さんは、なにかはくるしかるべきと人々の申候らん事は、京邊にもさやうに申候人々おほく候へば、まことにさぞ候らん。それは餘宗の心にてこそ候らめ。よしあしをさだめ申すべきに候はず、僻事と申さば、おそれあるかたおほく候。Ⅵ-0530たゞし淨土宗の心、善導の御釋には、往生の行に大きにわかちて二つとす。一には正行、二には雜行也。はじめに正行といふは、これにあまたの行あり。はじめに讀誦正行といふは、これは『无量壽經』・『觀經』・『阿彌陀經』等の「三部經」を讀誦する也。つぎに觀察正行といふは、これはかのくにの依正二報のありさまを觀ずる也。つぎに禮拜正行といふは、これは阿彌陀ほとけを禮拜する也。つぎに稱名正行といふは、南無阿彌陀佛とゝなふる也。つぎに讚嘆供養正行といふは、これは阿彌陀佛を讚嘆したてまつる也。これをさして五種の正行となづく。讚嘆と供養とを二つの行とする時は、六種の正行とも申也。「この正行に付てふさねて二つとす。一には一心にもはら彌陀の名號をとなへたてまつりて、立居・起臥、晝夜にわするゝ事なく、念々にすてざる物を、これを正定の業となづく、かのほとけの本願に順ずるがゆへに」(散善*義意)と申て、念佛をもてまさしくさだめたる往生の業と立てゝ、「もし禮誦等によるをば、なづけて助業とす」(散善義)と申て、念佛のほかの禮拜や讀誦や讚嘆供養なんどをば、かの念佛をたすくる業と申て候也。さてこの正定業と助業とをのぞきて、そのほかのもろもろの業をば、みな雜行となづく。布施・持戒・忍辱・精進等の六度萬行も、『法華經』をもよみ、眞言をもおⅥ-0531こなひ、かくのごとくのもろもろの行をば、みなことごとく雜行となづく。さきの正行を修するをば、專修の行者といひ、のちの雜行を修するをば、雜修の行者と申て候也。この二行の得失を判ずるに、「さきの正行を修するには、心つねにかのくにゝ親近して憶念ひまなし。のちの雜行を行ずるには、心つねに間斷す、廻向してむまるゝ事をうべしといへども、すべて疎雜の行となづく」(散善*義意)といひて、極樂にうとき行といへり。又「專修のものは、十人は十人ながらむまれ、百人は百人ながらむまる。なにをもてのゆへに。外の雜縁なくして、正念をうるがゆへに、彌陀の本願とあひ叶ふるゆへに、釋迦のおしへにたがはざるがゆへに。雜行のものは、百人が中に一、二人むまれ、千人が中に四、五人むまる。なにをもてのゆへに。雜縁亂動して、正念をうしなふがゆへに、彌陀の本願と相應せざるがゆへに、釋迦のおしへにしたがはざるがゆへに、係念相續せざるがゆへに、憶念間斷するがゆへに、みづからも往生の業をさへ、他の往生をもさふるがゆへに」(禮讚意)なんど釋せられて候めれば、善導和尙をふかく信じて、淨土宗にいらん人は、一向に正行を修すべしと申す事にてこそ候へ。そのうゑは善導のおしへをそむきて、餘行をくわへんと思はん人は、おのおのならひたる樣どもこそ候らめ。Ⅵ-0532それをよしあしとはいかゞ申候べき。善導の御心にて、すゝめ給へる行どもをおきながら、すゝめ給はぬ行をすこしにてもくわふべき樣なしと申事にてこそ候へ。すゝめ給へる正行ばかりだにもなを物うき身にて、いまだすゝめ給はぬ雜行を加えん事は、ま事しからぬかたも候ぞかし。又つみをつくる人だにも念佛して往生す。まして善なれば、『法華經』なんどをよまんは、なにかくるしからんなんど申候らんこそ、无下にけぎたなくおぼへ候へ。往生をたすけばこそ、いみじくも候はめ。さまたげにならぬばかりを、いみじき事とてくわへおこなはん事は、なにかは詮にて候べき。されば惡をば、佛の心に、つくれとやすゝめさせ給ふ。かまへてとゞめよとこそいましめ給へども、凡夫のならひ、當時のまよひにひかれて、惡をつくるはちからおよばぬ事にてこそ候へ。ま事に惡をつくる人の樣に、しかるべくて經もよみたく、餘行もくわへたからん事は、ちからおよばず。たゞし『法華經』なんどをよまん事を、一と言ばなりとも惡をつくらん事にいひならべて、それもくるしからねば、ましてこれはなんど申すらん事こそ、不便の事にて候へ。ふかき御のりもあしく心うる人にあひぬれば、返りて物ならずきこへ候事こそ、あさましくおぼへ候へ。これをかやうに申候へば、餘行の人々は腹たつ事にて候Ⅵ-0533に、御心一つに心えて、ひろくちらさせ給まじく候。あらぬさとりの人のともかくも申候はん事をば、耳にきゝいれさせ給はで、たゞ一筋に善導の御すゝめにしたがひて、いますこしも一定往生する念佛の數遍を申そえんとおぼしめすべき事にて候也。たとひ往生のさわりとこそならずとも、不定の往生とはきこへて候めれば、一定往生の正行を修すべき。行のいとまをいれて、不定の往生の業をくわへん事は、且うは損にては候はずや。よくよく心えさせ給ふべき事にて候也。たゞし、かく申候へば、雜行をくわへん人は、ながく往生すまじなんど申事にては候はず。いかさまにも餘行の人なりとも、すべて人をくだし人をそしる事は、ゆゝしきとがおもき事にて候也。よくよく御つゝしみ候て、雜行の人なればとて、あなづる御心の候まじく候也。よかれあしかれ、人のうゑのよしあしをおもひいれぬが吉き事にて候也。又心ざし本よりこの門にありて、進みぬべからんをば、こしらへ、すゝめさせ給ふべく候。さとりたがひて、あらぬさまならん人なんどに論じあはせ給ふ事は、あるまじき事にて候。よくよくならひしり給ひたる聖りたちだにも、さやうの事をばつゝしみておはしましあひて候ぞ。まして殿原なんどの御身にては、一定僻事にて候はんずるに候。たゞ御身一つに、まづよくよくⅥ-0534往生をねがひて、念佛をはげませ給ひて、位たかき往生とげて、いそぎ娑婆に返りて、人をばみちびかせ給へ。かやうにくはしくかきつけて申候事も、返々はゞかりおもふ事にて候也。あなかしこ、あなかしこ。御披露候まじく候。あなかしこ、あなかしこ。 三月十四日  源空 黑谷上人語燈錄卷第十三 Ⅵ-0535黑谷上人語燈錄卷第十四 厭欣沙門了惠集錄 和語第二之四[當卷有九篇] (一三)大胡太郎の妻室へつかはす御返事第十三 (一四)熊谷の入道へつかはす御返事第十四 (一五)津戸三郎へつかはす御返事第十五 (一六)黑田の聖へつかはす御返事第十六 (一七)越中の光明房へつかはす御返事第十七 (一八)正如房へつかはす御文第十八 (一九)禪勝房にしめす御詞第十九 (二〇)十二問答第二十 (二一)十二箇條問答第二十一 Ⅵ-0536(一三) 大胡の太郎實秀が妻室のもとへつかはす御返事[第十三] 御文こまかにうけ給はり候ぬ。まづはるかなる程に、念佛の事きこしめさんがために、わざと御つかひあげさせ給ひて候、念佛の御心ざしの程、返々あはれに候。さてたづねおほせられて候念佛の事は、往生極樂のためには、いづれの行なりといへども、念佛にすぎたる事は候はぬ也。そのゆへは、念佛はこれ彌陀の本願の行なるがゆへ也。本願といふは、阿彌陀ほとけ、いまだほとけになり給はざりしむかし、法藏菩薩と申しゝいにしへ、ほとけの國土をきよめ、衆生を成就せんがために、世自在王如來と申しゝほとけの御まえにして、四十八の大願をおこし給ひしその中に、一切衆生の往生のために、一つの願をおこし給へる。これを念佛往生の本願と申す也。すなはち『无量壽經』の上卷にいはく、「設我得佛、十方衆生、至心信樂、欲生我國、乃至十念、若不生者、不取正覺。」W已上R善導和尙この願を釋しての給はく、「若我成佛、十方衆生、稱我名號下至十聲、若不生者不取正覺。彼佛今現在世成佛。當知、本誓重願不虛、衆生稱念必得往生。」(禮讚)W已上R念佛といふは、佛の法身を憶念するにもあらず、佛の相好を觀念するにもあらず、たゞⅥ-0537心をいたして、もはら阿彌陀ほとけの名號を稱念する、これを念佛とは申也。かるがゆへに「稱我名號」とはいふ也。念佛のほかの一切の行は、これ彌陀の本願にあらざるがゆへに、たとひめでたき行なりといへども、念佛にはおよばざる也。おほかたそのくにゝむまれんとおもはんものは、そのほとけのちかひにしたがふべき也。されば彌陀の淨土にむまれんとおもはん物は、彌陀の誓願にしたがふべき也。本願の念佛と、本願にあらざる餘行と、さらにたくらぶべからず。かるがゆへに往生極樂のためには、念佛の行にすぎたる事は候はぬ也と申す也。往生にあらざる道には、餘行又おのおのつかさどれるかたあり。しかるに衆生の生死をはなるゝみち、ほとけのおしへさまざまにおほく候へども、このごろの人の三界をいで生死をはなるゝみちは、たゞ極樂に往生し候ばかり也。このむね聖敎のおほきなることわり也。次に極樂に往生するに、その行さまざまにおほく候へども、われらが往生せん事、念佛にあらずはかなひがたく候也。そのゆへは、念佛はこれほとけの本願なるがゆへに、願力にすがりて往生する事はやすし。されば詮ずるところは、極樂にあらずは生死をはなるべからず、念佛にあらずは極樂へむまるべからざる物也。ふかくこのむねを信ぜさせ給ひて、一すぢに極樂をねがひ、Ⅵ-0538一すぢに念佛して、このたびかならず生死をはなれんとおぼしめすべき也。又一一の願のおはりに、「若不爾者不取正覺」とちかひ給へり。しかるに阿彌陀ほとけ、佛になり給ひてよりこのかた、すでに十劫をへ給へり。まさにしるべし、誓願むなしからず、みなことごとく成就し給へる也。その中に念佛往生の願、ひとりむなしかるべからず。しかれば、衆生稱念する物、一人もむなしからず、みなかならず往生する事をう。もししからずは、たれかほとけになり給へる事を信ずべきや。三寶滅盡の時なりといへども、一念すればなを往生す。五逆重罪の人なりといえども、十念すれば又往生す。いかにいはんや、三寶の世にむまれて五逆をつくらざるわれら、彌陀の名號をとなえんに、往生うたがふべからず。いまこの願にあへる事は、ま事にこれおぼろげの縁にあらず。よくよくよろこびおぼしめすべし。たとひ又あふといふとも、もし信ぜずはあはざるがごとし。いまふかくこの願を信ぜさせ給へり、往生うたがひおぼしめすべからず。かならずかならずふた心なく、よくよく御念佛候ひて、このたび生死をはなれ極樂にむまれさせ給ふべし。又『觀无量壽經』にいはく、「一一光明、遍照十方世界念佛衆生、攝取不捨。」W已上Rこれは彌陀の光明たゞ念佛の衆生をてらして、餘の一切の行人をばてらさずといふⅥ-0539也。たゞし、餘の行をしても極樂をねがはば、ほとけのひかりてらして攝取し給ふべし。なんぞたゞ念佛のものばかりをえらびて、てらし給ふや。善導和尙釋しての給はく、「彌陀身色如金山、相好光明照十方、唯有念佛蒙光攝、當知本願最爲強。」(禮讚)W已上R念佛はこれ彌陀の本願の行なるがゆへに、成佛の光明返りて本地の誓願をてらし給ふ也。餘行はこれ本願にあらざるがゆへに、彌陀の光明きらひててらし給はざる也。いま極樂をもとめん人、本願の念佛を行じて、攝取のひかりにて〔ら〕されんとおぼしめすべし。これにつけても念佛の大切に候、よくよく申させ給ふべし。又釋迦如來、この『經』の中に定散のもろもろの行をときおはりてのちに、まさしく阿難に付囑し給時に、かみにとくところの散善の三福業、定善の十三觀をば付囑せずして、たゞ念佛の一行を付囑し給へり。『經』(觀經)にいはく、「佛告阿難、汝好持是語。持是語者、卽是持无量壽佛名。」W已上R善導和尙この文を釋しての給はく、「從佛告阿難汝好持是語已下、正明付囑彌陀名號、流通於遐代。上來雖說定散兩門之益、望佛本願、意在衆生一向專稱彌陀佛名。」(散善義)W已上Rこれは定散のもろもろの行は、彌陀の本願にあらず。かるがゆへに釋迦如來の、往生の行を付囑し給ふに、餘の定善・散善をば付囑せずして、念佛はこれ彌陀の本Ⅵ-0540願なるがゆへに、まさしくえらびて本願の行を付囑し給へる也。いま釋迦のおしへにしたがひて往生をもとめん物、付囑の念佛を修して、釋尊の御心にかなふべし。これにつきても又よくよく御念佛候て、ほとけの付囑にかなはせ給ふべし。又六方恆沙の諸佛、舌をのべて、三千大千世界におほひて、もはらたゞ彌陀の名號をとなへて往生すといふは、これ眞實なりと證誠し給ふ也。これ又念佛は彌陀の本願なるゆへに、六方恆沙の諸佛、これを證誠し給ふ也。餘の行は本願にあらざるがゆへに、諸佛も證誠し給はざる也。これにつけても又よくよく御念佛せさせ給ひて、六方の諸佛の護念をかぶらせ給ふべし。彌陀の本願、釋尊の付囑、六方の護念、一一にむなしからず。このゆへに、念佛の行は諸行にはすぐれたる也。又善導和尙はこれ彌陀の化身也。淨土の祖師おほしといへども、たゞひとへに善導による。往生の行おほしといへども、おほきにわかちて二とし給へり。一には專修、いはゆる念佛也。二には雜修、いはゆる一切のもろもろの行也。上にいふところの定散等これ也。『往生禮讚』に云く、「若能如上念念相續、畢命爲期者、十卽十生、百卽百生。何以故。无外雜縁得正念故、與佛本願相應故、不違敎故、隨順佛語故。若欲捨專修雜業者、百時希得一二、千時希得五三。何以故。由雜縁Ⅵ-0541亂動失正念故、與佛本願不相應故、與敎相違故、不順佛語故、係念不相續故、憶想間斷故。」[文]これは專修と雜行との得失なり。得といふは、往生する事をう。いはく念佛するものは、十人はすなはち十人ながら往生し、百人はすなはち百人ながら往生すといふ、これ也。失といふは、いはく往生の益をうしなへる也。雜修のものは、百人が中にまれに一、二人往生する事をえてその餘はむまれず。千人が中にまれに五、三人むまれてその餘は又むまれず。專修のものゝみみなむまるゝ事をうるは、なんのゆへぞ。阿彌陀ほとけの本願に相應せるがゆへ也、釋迦如來のおしへに隨順せるがゆへ也。雜業のものゝむまるゝ事すくなきは、なんのゆへぞ。彌陀の本願にたがへるがゆへ也、釋迦のおしへにしたがはざるがゆへ也。念佛して淨土をもとむるものは、二尊の御心にふかくかなへり。雜を修して淨土をもとむるものは、二佛の御心にそむけり。善導和尙、二行の得失を判ぜる事、これのみにあらず。『觀經の疏』と申すふみの中に、おほくの得失をあげたり。しげきがゆへにいださず。これをもてしりぬべし。およそこの念佛は、そしる物は地獄におちて五劫苦をうくる事きわまりなし、信ずる物は淨土にむまれて永劫樂をうくる事きわまりなし。なをなをいよいよ信心をふかくして、ふた心なく念佛Ⅵ-0542せさせ給ふべし。くはしき事は、御文にはつくしがたく候。この御つかひ申候べし。 正月廿八日 源空 [わたくしにいはく、この御文は正治元年己未、御つかひは蓮上房尊覺なり。] (一四) 熊谷の入道へつかはす御返事[第十四] 御文くはしくうけ給はり候ぬ。か樣にまめやかに、大事におぼしめし候らん。返々ありがたく候。ま事にこのたび、かまへて往生しなんと、おぼしめしきるべく候。うけがたき人身すでにうけたり、あひがたき念佛往生の法門にあひたり。娑婆をいとふ心あり、極樂をねがふ心おこりたり。彌陀の本願ふかし、往生はたなごゝろにあるたび也。ゆめゆめ御念佛おこたらず、決定往生のよしを存ぜさせ給ふべく候。何事もとゞめ候ぬ。 九月十六日 源空 (一五) 津戸の三郎入道へつかはす御返事[第十五] Ⅵ-0543御文くはしくうけ給はり候ぬ。又たづねおほせられて候事ども、おほやうしるし申候。 (1) 一 熊谷入道・津戸三郎は、无智のものなればこそ、但念佛をばすゝめたれ、有智の人にはかならずしも念佛にはかぎるべからずと申すよしきこへて候らん、きわめたるひが事にて候。そのゆへは、念佛の行は、もとより有智・无智にかぎらず、彌陀のむかしちかひ給ひし本願も、あまねく一切衆生のため也。无智のためには念佛を願じ、有智のためには餘のふかき行を願じ給ふ事なし。「十方衆生」(大經*卷上)の句に、ひろく有智・无智、有罪・无罪、善人・惡人、持戒・破戒、賢愚、男女、もしはほとけの在世の衆生、もしはほとけの滅後のこのごろの衆生、もしは釋迦の末法萬年のゝち三寶みなうせてのおはりの衆生までも、みなこもれる也。又善導和尙、彌陀の化身として專修念佛をすゝめ給へるも、ひろく一切衆生のためにすゝめて、无智の人にのみかぎる事は候はず。ひろき彌陀の本願をたのみ、あまねき善導のすゝめをひろめん物、いかでか无智の人にかぎりて、有智の人をへだてんや。もししからば、彌陀の本願にもそむき、善導の御心にもかなふべからず。さればこの邊にまうできて、往生のみちをとひたづね候人には、有智・无Ⅵ-0544智を論ぜず、みな念佛の行ばかりを申候也。しかるに虛言を構えて、さやうに念佛を申とゞめんとする物は、さきの世に、念佛三昧、淨土の法門をきかず、のちの世に又三惡道に返るべきものゝ、さやうの事をばたくみ申候事にて候也。そのよし聖敎に見えて候也。 「見有修行起瞋毒 方便破壞競生怨 如此生盲闡提輩 毀滅頓敎永沈淪 超過大地微塵劫 未可得離三途身」(法事讚*卷下) と申したる也。この文の心は、淨土をねがひ念佛を行ずる物を見ては、いかりをおこし毒心をふかくして、はかり事をめぐらし樣樣の方便をなして、念佛の行をやぶり、あらそひてあだをなし、これをとゞめんとする也。かくのごときの人は、むまれてよりこのかた、佛法の眼しゐて、ほとけのたねをうしなへる闡提のともがら也。この彌陀の名號をとなへて、ながき生死をたちまちにきり、常住の極樂に往生すといふ頓敎の御のりをそしりほろぼして、このつみによりて、ながく三惡道にしづむといへる也。かくのごとくの人は、大地微塵劫をすぐとも、ながく三惡道の身をはなるゝ事をうべからずといへる也。さればさやうに虛言をたくみⅥ-0545て申候らん人は、返りてあはれむべき物也。さほどのものゝ申さんによりて、念佛にうたがひをなし、不審をおこさん物は、いふにたらぬ程の事にてこそは候はめ。おほかた彌陀に縁あさく、往生に時いたらぬ物は、きけども信ぜず、おこなふを見てははらをたて、いかりをふくみて、さまたげんとする事にて候なり。その心をえて、いかに人申すとも、御心ばかりはゆるがせ給ふべからず。あながちに信ぜざらんは、佛なをちからおよび給ふまじ。いかにいはんや、凡夫はちからおよぶまじき事也。かゝる不信の衆生のために、慈悲をおこし利益せんと思はんにつけても、とく極樂へまいりてさとりをひらきて、生死に返りて誹謗不信の物をもわたし、一切衆生をあまねく利益せんと思ふべき事にて候也。このよしを心えておはしますべし。 (2) 一 一家の人々の善願に結縁助成せん事、この條左右におよばず、もともしかるべき事に候。念佛の行をさまたぐる事をこそ、專修の行には制したる事にて候へ。人々のあるいは堂をつくり、ほとけをつくり、經をもかき、僧をも供養せんには、ちからをくはへ縁をむすばんが、念佛をさまたげ、專修をさうるほどの事には候まじきなり。 Ⅵ-0546(3) 一 念佛申させ給はんには、心をつねにかけて、口にわすれずとなふるが、めでたき事にて候也。念佛の行は、もとより行住坐臥・時處諸縁をきらはぬ行にて候へば、たとひ身もきたなく、口もきたなくとも、心をきよくして、わすれず申させ給はん事は、返々神妙に候。ひまなくさやうに申させ給はんこそ、返々ありが  たくめでたく候へ。いかならんところ、いかなる時なりとも、わすれず申させ給はゞ、往生の業にかならずなり候はんずる也。この心なからん人には、おしへさせ給ふべし。いかならん時にも申されざらんをこそ、ねうじて申さばやとおもふべきに、申されんをねうじて申させ給はぬ事は、いかでか候べき、ゆめゆめ候まじ。たゞいかなるおりにもきらはず申させ給ふべし。 (4) 一 念佛の行あながちに信ぜざらん人に論じあひ、又あらぬ行、ことさとりの人にむかひて、いたくしゐておほせらるゝ事候まじく候。異解・異學の人を見ては、これを恭敬して、かろしめ、あなづる事なかれと申たる事にて候也。さればおなじ心に極樂をねがひ、念佛を申さん人には、たとひ塵刹のほかの人なりとも、同行のおもひをなして、一佛淨土にむまれんとおもふべき事にて候也。阿彌陀佛に縁なく、極樂淨土にちぎりすくなく候はん人の、信もおこらず、ねがはしくもなⅥ-0547く候はんには、ちからおよばず。たゞ心にまかせて、いかならんおこなひをもして、後生たすかりて、三惡道をはなるべき事を、人の心にしたがひて、すゝめ給ふべき也。又さは候へども、ちりばかりもかなひぬべからん人には、阿彌陀ほとけをすゝめ、極樂をねがはすべき也。いかに申すとも、この世の人の極樂にむまれて生死をはなれん事、念佛ならで極樂にむまるゝ事は候まじき事にて候也。このあひだの事をば、人の心にしたがひて、はからふべきにて候也。いかさまにも物をあらそふ事は、ゆめゆめ候まじき事に候。もしはそしり、もしは信ぜざらん物をば、ひさしく地獄にありて、又地獄へ返るべき物なりとよくよく心えて、こわがらで、こしらへすゝむべきにて候。又よもとおもひまいらせ候へども、いかなる人申すとも、念佛の御心なんど、たぢろぎおぼしめす事あるまじく候。たとひ千佛世にいでゝ、念佛は往生すべからずと、まのあたりおしへさせ給ふとも、これは釋迦・彌陀よりはじめて、恆沙のほとけの證誠せさせ給ふ事なればとおぼしめして、心ざしを金剛よりもかたくして、このたびかならず阿彌陀ほとけの御まえへまいらんずるとおぼしめすべきにて候也。かくのごときの事、かたはしを申さんに、御心え候て、わがため人のためにおこなはせ給ふべし。 Ⅵ-0548九月十八日 眞勸[承] (一六) 黑田の聖人へつかはす御文[第十六]。 末代の衆生を往生極樂の機にあてゝみるに、行すくなしとてうたがふべからず、一念・十念にたりぬべし。罪人なりとてうたがふべからず、罪根ふかきをもきらはず。時くだれりとてうたがふべからず、法滅已後の衆生なを往生すべし、いはんやこのごろをや。わが身わろしとてうたがふべからず、自身はこれ煩惱具足せる凡夫なりといへり。十方に淨土おほけれども、西方をねがふは十惡・五逆の衆生もむまるゝゆへ也。諸佛の中に彌陀に歸したてまつるは、三念・五念にいたるまで、みづからきたりてむかへ給ふがゆへ也。諸行の中に念佛をもちゐるは、かのほとけの本願なるがゆへ也。いま彌陀の本願に乘じて往生してんには、願として成ぜずといふ事あるべからず。本願に乘ずる事は、たゞ信心のふかきによるべし。うけがたき人身をうけて、あひがたき本願にあひて、おこしがたき道心をおこして、はなれがたき輪廻のさとをはなれて、むまれがたき淨土に往生せん事は、よろこびがなかのよろこび也。つみをば十惡・五逆のものなをむまると信じて、Ⅵ-0549小罪をもおかさじとおもふべし。罪人なをむまる、いかにいはんや善人をや。行は一念・十念むなしからずと信じて、无間に修すべし。一念なをむまる、いかにいはんや多念をや。阿彌陀は、不取正覺の詞成就して現にかのくにゝましませば、さだめていのちおはらん時には來迎し給はんずらん。釋尊は、よきかなや、わがおしへにしたがひて、生死をはなれんとすと知見し給ふらん。六方諸佛は、よろこばしきかな、われらが證誠を信じて、不退の淨土に往生せんとすとよろこび給ふらんと。天にあふぎ地にふしてもよろこびつゝ、このたび彌陀の本願にあへる事を、行住坐臥にも報ずべし。かのほとけの恩德を、たのみてもなをたのむべきは乃至十念の詞、信じてもなを信ずべきは必得往生の文なり。 (一七) 越中國光明房へつかはす御返事[第十七] 一念往生の義は、京中にもほゞ流布するよしうけ給はるところ也。およそ言語道斷の事也、ま事にほとほと御問にもおよぶべからざる事歟。『雙卷經』(大經*卷下)の中には「乃至一念信心歡喜」といひ、又善導和尙の『疏』(禮讚)には「上一形を盡し下十聲・一聲にいたるまでも、さだめて往生する事をうと信じて、乃至一念もうたがⅥ-0550ふ心なかれ」といへる。これらの文をあしく料簡するともがらの、かゝる大邪見に住して申候ところ也。「乃至」といひ「下至」といへるは、上み一形をつくすをかねたる詞也。しかるをこのごろの愚癡・无智のともがらのおほく、ひとえに十念・一念なりと執して上盡一形をすつる條、无慚・无愧の事也。ま事に十念・一念までもほとけの大悲本願、なをかならず引攝し給ふ无上の功德なりと信じて、一期不退に行ずべき也。文證おほしといへども、これを出すにおよばず、不足言の事也。こゝにかの邪見の人、この難をうけて、答へていはく、わがいふところも、信を一念にとりて念ずべき也。しかりといひて、又念佛すべからずとはいはずと[云云]。ことばは尋常なるににたれども、心は邪見をはなれず。しかるゆへは、決定の信心をもて一念してのちは、又念ずといふも、十惡・五逆なをさわりをなさず、いはんや、餘の小罪をやと信ずべき也といふ。このおもひに住せん物は、たとひ多念すといふとも、あにほとけの御心にかなはんや、いづれの經論のいかなる說ぞや。これひとへに懈怠・无道心のいたり、不當・不善のたぐひの、ほしきまゝに惡をつくらんとおもひていふ事なり。又念ぜずは、その惡かの勝因をさへて、むしろ三途におちざらんや。かの一生造惡のものゝ臨終に十念して往生すⅥ-0551るは、これ懺悔念佛のちから也、この惡義には混亂すべからず。かれは懺悔の人也、これは邪見の人也。なをなを不可說の事也。たとひ精進のものなりといふとも、この義をきかばかならず懈怠になりなん。まれに持戒の人ありといふとも、この說を信ぜばすなはち无慚になりぬべし。およそかくのごときの人は、附佛法の外道也、師子の中のむし也。又うたがふらくは、天魔破旬のために、その正解をうばゝれたるともがらの、もろもろの往生の人をさまたげんとするか。もともあやしむべし、ふかくおそるべし。ことごと筆端につくしがたし。あなかしこ、あなかしこ。 (一八) 正如房へつかはす御文[第十八] 正如房の御事こそ、返々あさましく候へ。そのゝちは、心ならずうときやうになりまいらせて、念佛の御信もいかゞと、ゆかしくおもひまいらせ候つれども、さしたる事も候はず。又申すべきたよりも候はぬやうにて、思ながら、なにとなく、むなしくまかりすぎ候つるに、たゞれいならぬ御事大事になんどばかりうけ給はり候はんだにも、いま一度見まいらせたく、おはりまでの御念佛の事も、おぼつⅥ-0552〔か〕なくこそおもひまいらせ候べきに、まして御心にかけて、つねに御たづね候らんこそ、ま事にあはれにも心ぐるしくも、おもひまいらせ候へ。左右なくうけ給はり候まゝに、まいり候て見まいらせたく候へども、思ひきりてしばしゐでありき候はで、念佛申候はゞやと思ひはじめたる事の候を、樣にこそよる事にて候へ。これをば退してもまいるべきにて候に又思ひ候へば、詮じては、この世の見參とてもかくても候なん。屍ねを執するまどひにもなり候ひぬべし。たれとてもとまりはつべき身にも候はず、われも人もたゞおくれさきだつかわりめばかりにてこそ候へ。そのたえまを思ひ候も、又いつまでぞとさだめなきうへに、たとひ久しと申候とも、ゆめまぼろしいく程かは候べきなれば、たゞかまえてかまえておなじ佛の國にまいりあひて、はちすの上にてこの世のいぶせさをもはるけ、ともに過去の因縁をもかたり、たがひに未來の化道をもたすけん事こそ、返々も詮にて候べきと、はじめよりも申おき候しが、返々も本願をとりつめまいらせて、一念もうたがふ御心なく、十聲も南無阿彌陀佛と申せば、わが身はたとひいかに罪ふかくとも、ほとけの願力によりて一定往生するぞとおぼしめして、よくよく一すぢに念佛の候べき也。われらが往生はゆめゆめわが身のよしあしきにはよりⅥ-0553候まじ。ひとへにほとけの御ちからばかりにて候べき也。わがちからばかりにてはいかにめでたく貴とき人と申すとも、末法のこのごろ、たゞちに淨土にむまるゝ程の事はありがたくぞ候べき。又佛の御ちからにて候はんには、いかに罪ふかくおろかにつたなき身なりとも、それにはより候まじ。たゞ佛の願力を、信じ信ぜざるにぞより候べき。されば『觀无量壽經』にとかれて候は、むまれてよりこのかた、念佛一遍も申さず、それならぬ善根もつやつやなくて、あさゆふものころしぬすみし、かくのごときのもろもろのつみをのみつくりて、とし月をゆけども、一念も懺悔の心もなくて、あかしくらしたるものゝ、おはりの時に善知識のすゝむるにあひて、たゞ一聲南無阿彌陀佛と申したるによりて、五十億劫があひだ生死にめぐるべき罪を滅して、化佛・菩薩三尊の來迎にあづかりて、佛の名をとなふるがゆえに罪滅せり、われきたりてなんぢをむかふとほめられまいらせて、すなはちかの國に往生すと候。又五逆罪と申て、現身に父をころし、母をころし、惡心をもて佛をころし、諸宗を破し、かくのごとくおもきつみをつくりて、一念懺悔の心もなからん、そのつみによりて无間地獄におちて、おほくの劫をおくりて苦をうくべからん物、おはりの時に、善知識のすゝめによりて、南無阿彌陀佛Ⅵ-0554と十聲となふるに、一聲におのおの八十億劫があひだ生死にめぐるべき罪を滅して、往生すとゝかれて候めれば、さほどの罪人だにもたゞ十聲・一聲の念佛にて往生はし候へ。ま事に佛の本願のちからならでは、いかでかさる事候べきとおぼへ候、本願むなしからずといふ事は、これにても信じつべくこそ候へ。これはまさしき佛說にて候。佛の御言ばゝ、一言もあやまらずと申候へば、たゞあふぎても信ずべきにて候。これをうたがはゞ、佛の御そら事と申すにもなりぬべく候。返りては又そのつみも候ひぬべしとこそおぼへ候へ。ふかく信ぜさせ給ふべく候。さて往生せさせおはしますまじき樣にのみ申きかせまいらする人々の候らんこそ、返々あさましく心ぐるしく候へ。いかなる智者めでたき人々おほせらるとも、それになおどろかせおはしまし候そ。おのおののみちにはめでたく貴き人なりとも、さとりあらず行ことなる人の申候事は、往生淨土のためには、中々ゆゝしき退縁・惡知識とも申ぬべき事どもにて候。たゞ凡夫のはからひをばきゝいれさせおはしまさで、一すぢに佛の御ちかひをたのみまいらせおはしますべく候。さとりことなる人の往生いひさまたげんによりて、一念もうたがふ心あるべからずといふことはりは、善導和尙のよくよくこまかにおほせられおきたる事にて候也。たⅥ-0555とひおほくのほとけ、そらの中にみちみちて、ひかりをはなちしたをのべて、惡をつくりたる凡夫なりとも、一念してかならず往生すといふ事はひが事ぞ、信ずべからずとの給ふとも、それによりて一念もうたがふ心あるべからず。そのゆへは、阿彌陀佛のいまだ佛になり給はざりしむかし、はじめて道心をおこし給ひし時、われほとけになりたらんに、わが名をとなふる事十聲・一聲までせん物、わがくにゝむまれずは、われほとけにならじとちかひ給ひたりしその願むなしからず、すでに佛になり給へり。又釋迦佛、この娑婆世界にいでゝ、一切衆生のために、かの本願をとき、念佛往生をすゝめ給へり。又六方恆沙の諸佛、この念佛して一定往生すと釋迦佛のとき給へるは決定也、もろもろの衆生一念もうたがふべからず。ことごとく一佛ものこらず、あらゆる諸佛みなことごとく證誠し給へり。すでに阿彌陀佛は願にたて、釋迦佛はその願をとき、六方諸佛はその說を證誠し給へるうゑ、このほかはなにほとけの、又これらの諸佛にたがひて、凡夫往生せずとはの給ふべきぞといふことはりをもて、佛現じての給ふとも、それにおどろきて信心をやぶりうたがふ心あるべからず。いはんや、菩薩たちのの給はんをや、又辟支佛をやと、こまごまと善導は釋し給ひて候也。ましてこのごろの凡夫のいⅥ-0556かに申候はんによりて、げにいかゞあらんずらんなんど、不定におぼしめす御心、ゆめゆめ候まじく候。いかにめでたき人と申すとも、善導和尙にまさりて往生の道をしりたらん事もかたく候。善導又凡夫にあらず、阿彌陀佛の化身也。阿彌陀佛のわが本願ひろく衆生に往生せさせん料に、かりに人とむまれて善導とは申候也。そのおしへは、申せば佛說にてこそ候へ。あなかしこ、あなかしこ。うたがひおぼしめすまじきにて候。又はじめより佛の本願に信をおこさせおはしまして候し御心の程、見まいらせ候に、なにしにかは往生はうたがひおぼしめし候べき。經にとかれて候ごとく、いまだ往生の道もしらぬ人にとりての事にて候。もとよりよくよくきこしめししたゝめて、そのうゑ御念佛功つもりたる事にて候はんには、かならず又臨終の善知識にあはせおはしまさずとも、往生は一定せさせおはしますべき事にてこそ候へ。中々あらぬさまなる人は、あしく候なん。たゞいかならん人にても、尼女房なりとも、つねに御まへに候はん人に、念佛申させて、きかせおはしまして、御心一つをつよくおぼしめして、たゞ中々一向に、凡夫の善知識をおぼしめしすてゝ、佛を善知識にたのみまいらせさせ給ふべく候。もとよりほとけの來迎は、臨終正念のためにて候也。それを人の、みな臨終正念にてⅥ-0557念佛申たるに、佛はむかへ給ふとのみ心えて候は、佛の願を信ぜず、經の文を信ぜぬにて候也。『稱讚淨土經』には、「慈悲をもてくわへたすけて、心をしてみだらしめ給はず」とゝかれて候也。たゞの時によくよく申をきたる念佛によりて、佛は來迎し給ふ時に、正念には住すと申すべきにて候也。たれも佛をたのむ心はすくなくして、よしなき凡夫の善知識をたのみ、さきの念佛をばむなしくおもひなして、臨終正念をのみいのる事どもにて候が、ゆゝしきひがゐんの事にて候也。これをよくよく御心えて、つねに御目をふさぎ、掌をあはせて、御心をしづめておぼしめすべく候。ねがはくは阿彌陀佛、本願あやまたず、臨終の時かならずわがまへに現じて、慈悲をもてくわへたすけて、正念に住せしめ給へと、御心にもおぼしめして、口にも申させ給ふべく候。これにすぎたる事候まじ。心よはくおぼしめす事の候まじき也。か樣に念佛をかきこもりて申候はんなんどおもひ候も、ひとへにわが身一つのためとのみは、もとよりおもひ候はず。おりしもこの御事をかくうけ給はり候ぬれば、いまよりは一念ものこさず、ことごとくその往生の御たすけになさんとこそ廻向しまいらせ候はんずれば、かまへてかまへておぼしめすさまに遂させまいらせ候はゞやとこそは、ふかく念じまいらせ候へ。もしこⅥ-0558の心ざしま事ならば、いかでか又御たすけにもならで候べき、たのみおぼしめさるべきにて候。おほかたは申いで候し一ことばに御心をとゞめさせおはします事も、この世一つの事にて候はじと、さきの世もゆかしくあはれにこそおもひしらるゝ事にて候へば、うけ給はる事は、このたびま事にさきだゝせおはしますにても、又おもはずにさきだちまいらせ候事になるさだめなさにて候とも、つゐに一佛淨土にまいりあひまいらせ候はんは、うたがひなくおぼへ候。ゆめまぼろしのこの世にて、いま一度なんどおもひ申候事は、とてもかくても候ひなん。これをば一すぢにおぼしめしすてゝ、いとゞもふかくねがふ御心をもまし、念佛をもはげましおはしまして、かしこにてまたんとおぼしめすべく候。返々もなをなを往生をうたがふ御心候まじく候。五逆・十惡のおもき罪つくりたる惡人、なを十聲・一聲の念佛によりて、往生をし候はんに、まして罪つくらせおはします御事は、何事か候べき。たとひ候べきにても、いく程の事かは候べき。この經にとかれて候罪人には、いひくらぶべくやは候。それにまづ心をおこし、出家をとげさせおはしまして、めでたき御のりにも縁をむすび、時にしたがひ日にしたがひて、善根のみこそはつもらせおはします事にて候らめ。そのうゑふかく決定往生の法Ⅵ-0559文を信じて、一向專修の念佛にいりて、一すぢに彌陀の本願をたのみて、ひさしくならせおはしまして候。何事にかは、一事も往生をうたがひおぼしめし候べき。「專修の人は百人は百人ながら、十人は十人ながら往生す」(禮讚)と善導はの給ひて候へば、ひとりそのかずにもれさせおはしますべきかはとこそおぼへ候へ。善導をもかこち、佛の本願をもせめまいらせさせ給ふべく候。心よはくは、ゆめゆめおぼしめすまじく候。あなかしこ、あなかしこ。ことはりをや申ひらき候とおもひ候程に、よにおほくなり候ひぬる。さやうのおりふし、骨なくやとおぼへ候へども、もしさすがのびたる御事にても又候らん。えしり候はねば、このたび申候はでは、いつをかまち候べき。もしのどかにきかせおはしまして、一念も御心をすゝむるたよりにやなり候と、おもひ候ばかりにとゞめえ候はで、これほどこまかになり候ぬ。譏嫌をしり候はねば、はからひがたくてわびしくこそ候へ。もし无下によはくならせおはしましたる御事にて候はゞ、これは事ながく候べく候。要をとりてつたへまいらせさせおはしますべく候。うけ給はり候まゝに、なにとなくあはれにおぼへ候て、おし返し又申候也。 Ⅵ-0560(一九) 禪勝房にしめす御詞[第十九] 阿彌陀佛は、一念となふるに一度の往生にあてがひておこし給へる本願也。かるがゆへに十念は十度むまるゝ功德也。一向專修の念佛者になる日よりして、臨終の時にいたるまで申たる一期の念佛をとりあつめて、一度の往生はかならずする事也。 又云、念佛申す機は、むまれつきのまゝにて申す也。さきの世のしわざによりて、今生の身をばうけたる事なれば、この世にてはえなをしあらためぬ事也。たとへば女人の男子にならばやとおもへども、今生のうちには男子にならざるがごとし。智者は智者にて申し、愚者は愚者にて申し、慈悲者は慈悲ありて申し、邪見者は邪見ながら申す、一切の人みなかくのごとし。さればこそ阿彌陀ほとけは十方衆生とて、ひろく願をばおこしてましませ。 又云、一念・十念にて往生すといへばとて、念佛を疎相に申せば、信力が行をさまたぐる也。「念念不捨」(散善義)といへばとて、一念・十念を不定におもへば、行が信をさまたぐる也。かるがゆへに信をば一念にむまるととり、行をば一形はげⅥ-0561むべし。 又云、一念を不定におもふものは、念念の念佛ごとに不信の念佛になる也。そのゆへは、阿彌陀佛は一念に一度の往生をあておき給へる願なれば、念念ごとに往生の業となる也。 (二〇) 十二の問答[第二十] (1) 問曰、八宗・九宗のほかに淨土宗をたつる事、自由の條かなと、餘宗の人の申候をば、いかんが申し候べき。答。宗の名をたつる事は佛の說にあらず、みづから心ざすところの經敎につきて、おしふる義をさとりきわめて、宗の名をば判ずる事也。諸宗の習みなもてかくのごとし。いま淨土宗の名をたつる事は、淨土の正依經につきて、往生極樂の義をさとりきわめておはします先達の、宗の名をばたて給へる也。宗のおこりをしらざるものゝ、左樣の事をば申候也。 (2) 問曰、法華・眞言等をば雜行にはいるべからずと人人の申候をば、いかゞこたへ候べき。答。惠心先德、一代聖敎の要文をあつめて『往生要集』をつくり給へる中に十門をたつ。その第九の往生諸業門に、法華・眞言等の諸大乘經をいれ給へり。Ⅵ-0562諸行と雜行と、言異にして心おなじ。いまの難者は、惠心の先德にまさるべからざるもの也。 (3) 問曰、餘佛・餘經につきて善根を修せん人に、結縁助成し候はん事は雜行と申候べきか。答。わが心、彌陀ほとけの本願に乘じ、決定往生の信をとるうゑには、他の善根に結縁助成せん事は、またく雜行になるべからず、わが往生の助業となるべき也。他の善根を隨喜讚嘆せよと釋し給へるをもて、心うべき事也。 (4) 問曰、極樂に九品の差別の候事は、阿彌陀ほとけのかまへさせ給へる事にて候やらん。答。極樂の九品は彌陀の本願にあらず、四十八願の中にもなし。これは釋尊の巧言也。善人・惡人一所にむまるといはゞ、惡業のものども慢心をおこすべきがゆへに、九品の差別をあらせて、善人は上品にすゝみ、惡人は下品にくだると、とき給へる也。いそぎまいりてみるべし。 (5) 問曰、持戒の行者の念佛の數遍のすくなく候はんと、破戒の行人の念佛の數遍のおほく候はんと、往生のゝちの位の淺深いづれかすゝみ候べきや。答。居てまします疊をおさへての給はく、この疊のあるにとりてこそ、やぶれたるかやぶれざるかといふ事はあれ。つやつやなからんたゝみをば、なにとか論ずべき。「末法Ⅵ-0563の中には持戒もなく、破戒もなし、たゞ名字の比丘ばかりあり」と、傳敎大師の『末法燈明記』にかき給へるうゑには、なにと持戒・破戒の沙汰をばすべきぞ。かゝるひら凡夫のためにおこし給へる本願なればとて、いそぎいそぎ名號を稱すべし。 (6) 問曰、念佛の行者等、日別の所作において、こゑをたてゝ申す人も候、又心に念じてかずをとる人も候、いづれかよく候べき。答。それは口にてとなふるも名號、心にて念ずるも名號なれば、いづれも往生の業とはなるべし。たゞし佛の本願は稱名の願なるがゆへに、聲をたてゝとなふべき也。このゆへに『經』(觀經)には「令聲不絶具足十念」とゝき、釋には「稱我名號下至十聲」(禮讚)との給へり。耳にきこゆる程は、高聲念佛にとる也。さればとて、機嫌をしらず、高聲なるべきにはあらず、地體は聲を出さんとおもふべき也。 (7) 問曰、日別の念佛の數遍、相續にいる程はいかんがはからひ候べき。答。善導の御釋によるに、一萬已上は相續にて候べし。たゞし一萬遍をもいそぎ申して、さてその日をくらさん事はあるべからず。一萬遍なりとも、一日一夜の所作とすべき也。總じては一食のあひだに三度ばかり思ひいださんは、よき相續にてあるべⅥ-0564し。それは衆生の根性不同なれば、一準なるべからず。心ざしだにふかければ、自然に相續はせらるゝ也。 (8) 問曰、『禮讚』の深心の中には「十聲一聲、必得往生、乃至一念、无有疑心」と釋し給へり、又『疏』(散善義)の深心の中には「念念不捨者、是名正定之業」と釋し給へり。いづれかわが分にはおもひさだめ候べき。答。「十聲一聲」の釋は念佛を信ずる樣、「念念不捨者」の釋は念佛を行ずる樣也。かるがゆへに、信をば一念にむまるとゝりて、行をば一形にはげむべしとすゝめ給へる釋也。又大意は、「一發心已後、誓畢此生无有退轉。唯以淨土爲期」(散善義)の釋を本とすべき也。 (9) 問曰、本願の一念は、尋常の機にも臨終の機にもともに通じ候べきか。答。一念の願は、いのちつゞまりて二念におよばざる機のため也。尋常の機に通ずべくは、「上盡一形」の釋あるべからず。この釋をもて心うるに、かならずしも一念を本願といふべからず。「念念不捨者、是名正定之業、順彼佛願故」(散善義)と釋し給へり。この釋は、數遍つもらんも本願とはきこへたるは、たゞ本願にあふ機の遲速不同なれば、「上盡一形下至一念」(散善*義意)とおこし給へる本願也と心うべき也。かるがゆへに念佛往生の願とこそ、善導は釋し給へ。 Ⅵ-0565(10) 問曰、自力・他力の事は、いかんが心え候べき。答。源空は殿上へまいるべき器量にてはなけれども、上よりめせば二度までまいりたりき。これはわがまいるべきしなにてはなけれども、上の御ちから也。まして阿彌陀ほとけの御ちからにて、稱名の願にこたへて來迎せさせ給はん事は、なんの不審かあるべき。わが身つみおもくて无智なれば、佛もいかにしてかすくひ給はんなんどおもはん物は、つやつや佛の願をもしらざる物也。かゝる罪人どもを、やすやすとたすけすくはん料に、おこし給へる本願の名號をとなへながら、ちりばかりもうたがふ心かあるまじき也。十方衆生のことばの中に、有智・无智、有罪・无罪、善人・惡人、持戒・破戒、男子・女人、三寶滅盡のゝちの百歲までの衆生、みなこもる也。かの三寶滅盡の時の念佛者と、當時の御房達とくらぶれば、當時の御房達は佛のごとし。かの時の人のいのちはたゞ十歲也。戒定慧の三學、たゞ名をだにもきかず、總じていふばかりなき物どもの來迎にあづかるべき道理をしりながら、わが身のすてられまいらすべき樣をば、いかにしてか案じ出すべき。たゞ極樂のねがはしくもなく、念佛の申されざらん事のみこそ、往生のさわりにてはあるべけれ。かるがゆへに他力本願ともいひ、超世の悲願ともいふ也。 Ⅵ-0566(11) 問曰、至誠等の三心を具し候べき樣をば、いかんがおもひさだめ候べき。答。三心を具する事は、たゞ別の樣なし。阿彌陀ほとけの本願に、わが名號を稱念せば、かならず來迎せんとおほせられたれば、決定して引接せられまいらせんずるぞとふかく信じて、心に念じ口に稱するに物うからず、すでに往生したる心ちして最後一念にいたるまでたゆまざるものは、自然に三心は具足する也。又在家の物どもはこれ程までおもはざれども、たゞ念佛申す物は極樂にむまるなればとて、つねに念佛をだにも申せば、そらに三心は具足する也。さればこそ、いふにかひなきものどもの中にも、神妙なる往生をばする事にてあれ。 (12) 問曰、臨終の一念は百年の業にすぐれたりと申すは、平生の念佛の中に、臨終の一念ほどの念佛をば申しいたし候まじく候やらん。答。三心具足の念佛は、をなじ事也。そのゆへは、『觀經』にいはく、「具三心者必生彼國」といへり。「必」文字のあるゆへに、臨終の一念とおなじ事也。 [この問答の問をば、『進行集』には禪勝房の問といへり。ある文には隆寛律師の問といへり。たづぬべし。] Ⅵ-0567(二一) 十二箇條の問答[第二十一] (1) 問ていはく、念佛すれば往生すべしといふ事、耳なれたるやうにありながら、いかなるゆへともしらず。かやうの五障の身までも、すてられぬ事ならば、こまかにおしへさせ給へ。答ていはく、およそ生死をいづるおこなひ一つにあらずといへども、まづ極樂に往生せんとねがへ、彌陀を念ぜよといふ事、釋迦一代の敎にあまねくすゝめ給へり。そのゆへは、彌陀の本願をおこして、わが名號を念ぜん物、わが淨土にむまれずは正覺とらじとちかひて、すでに正覺をなり給ふゆへに、この名號をとなふるものはかならず往生する也。臨終の時、もろもろの聖衆とゝもにきたりて、かならず迎接し給ふゆへに、惡業としてさふるものなく、魔縁としてさまたぐる事なし。男女・貴賤をえらばず、善人・惡人をもわかたず、心をいたして彌陀を念ずるに、むまれずといふ事なし。たとへばおもき石をふねにのせつれば、しづむ事なく萬里のうみをわたるがごとし。罪業のおもき事は石のごとくなれども、本願のふねにのりぬれば、生死のうみにしづむ事なく、かならず往生する也。ゆめゆめわが身の罪業によりて、本願の不思議をうたがはせ給ふべⅥ-0568からず。これを他力の往生とは申す也。自力にて生死をいでんとするには、煩惱惡業を斷じつくして、淨土にもまいり菩提にもいたると習ふ。これはかちよりけわしきみちをゆくがごとし。 (2) 問ていはく、罪業おもけれども、智慧の燈をもちて、煩惱のやみをはらふ事にて候なれば、かやうの愚癡の身には、つみをつくる事はかさなれども、つぐのふ事はなし。なにをもてこのつみをけすべしともおぼへず候は又いかん。答ていはく、たゞ佛の御詞を信じてうたがひなければ、佛の御ちからにて往生する也。さきのたとへのごとく、ふねにのりぬれば、目しゐたる物も目あきたる物も、ともにゆくがごとし。智慧のまなこある物も、佛を念ぜざれば願力にかなはず、愚癡のやみふかきものも、念佛すれば願力に乘ずる也。念佛する物をば、彌陀、光明をはなちてつねにてらしてすて給はねば、惡縁にあはずして、かならず臨終に正念をえて往生するなり。さらにわが身の智慧のありなしによりて、往生の定不定をばさだむべからず。たゞ信心のふかかるべき也。 (3) 問ていはく、世をそむきたる人は、ひとすぢに念佛すれば往生もえやすき事也。かやうの身には、あしたにもゆふべにもいとなむ事は名聞、昨日も今日もおもふⅥ-0569事は利養也。かやうの身にて申さん念佛は、いかゞ佛の御心にもかなひ候べきや。答ていはく、淨摩尼珠といふたまを、にごれる水に投ぐれば、たまの用力にて、その水きよくなるがごとし。衆生の心はつねに名利にそみて、にごれる事かのみづのごとくなれども、念佛の摩尼珠を投ぐれば、心のみづおのづからきよくなりて、往生をうる事は念佛のちから也。わが心をしづめ、このさわりをのぞきてのち、念佛せよとにはあらず。たゞつねに念佛して、そのつみをば滅すべし。さればむかしより、在家の人おほく往生したるためし、いくばくかおほき。心のしづかならざらんにつけても、よくよく佛力をたのみ、もはら念佛すべし。 (4) 問ていはく、念佛は數遍を申せとすゝむる人もあり、又さしもなくともなんど申す人もあり。いづれにかしたがひ候べき。答ていはく、さとりもあり、ならふ〔む〕ねもありて申さん事は、その心のうちしりがたければ、さだめにくし。在家の人の、つねに惡縁にのみしたしまれ、身には數遍を申さずして、いたづらに日をくらし、むなしく夜をあかさん事、荒量の事にや候はんずらん。凡夫は縁にしたがひて退しやすき物なれば、いかにもいかにもはげむべき事也。されば、處處におほく「念念に相續してわすれざれ」といへり。 Ⅵ-0570(5) 問ていはく、念念にわすれざる程の事こそ、わが身にかなひがたくおぼへ候へ。又手には念珠をとれども、心にはそゞろ事をのみ思ふ。この念佛は、往生の業にはかなひがたくや候はんずらん。これをきらはれば、この身の往生は不定なるかたもありぬべし。答ていはく、念念にすてざれとおしふる事は、人のほどにしたがひてすゝむる事なれば、わが身にとりて心のおよび、身のはげまん程は、心にはからはせ給べし。又念佛の時惡業の思はるゝ事は、一切の凡夫のくせ也。さりながらも往生の心ざしありて念佛せば、ゆめゆめさわりとはなるべからず。たとへば親子の約束をなす人、いさゝかそむく心あれども、さきの約束變改する程の心なければ、おなじ親子なるがごとし。念佛して往生せんと心ざして念佛を行ずるに、凡夫なるがゆへに貪瞋の煩惱おこるといへども、念佛往生の約束をひるがへさゞれば、かならず往生する也。 (6) 問ていはく、これ程にやすく往生せば、念佛するほどの人はみな往生すべきに、ねがふ物もおほく、念ずる物もおほき中に、往生する物のまれなるは、なにのゆへとか思ひ候べき。答ていはく、人の心はほかにあらはるゝ事なければ、その邪正さだめがたしといへども、『經』(觀經意)には「三心を具して往生す」とみへて候めⅥ-0571り。この心を具せざるがゆへに、念佛すれども往生をえざる也。三心と申すは、一には至誠心、二には深心、三には廻向發願心也。はじめに至誠心といふは眞實心也と釋するは、内外とゝのほれる心也。何事をするにも、ま事しき心なくては成ずる事なし。人なみなみの心をもちて、穢土のいとはしからぬをいとふよしをし、淨土のねがはしからぬをねがふ氣色をして、内外とゝのほらぬをきらひて、ま事の心ざしをもて、穢土をもいとひ淨土をもねがへとおしふる也。次に深心といふは、佛の本願を信ずる心也。われは惡業煩惱の身なれども、ほとけの願力にて、かならず往生するなりといふ道理をきゝて、ふかく信じて、つゆちりばかりもうたがはぬ心也。人おほくさまたげんとして、これをにくみ、これをさへぎれども、これによりて心のはたらかざるを、ふかき信とは申也。次に廻向發願心といふは、わが修するところの行を廻向して、極樂にむまれんとねがふ心也。わが行のちから、わが心のいみじくて往生すべしとはおもはず、ほとけの願力のいみじくおはしますによりて、むまるべくもなき物もむまるべしと信じて、いのちおはらば佛かならずきたりてむかへ給へと思ふ心を、金剛の一切の物にやぶられざるがごとく、この心をふかく信じて、臨終までもとおりぬれば、十人は十人ながⅥ-0572らむまれ、百人は百人ながらむまるゝ也。さればこの心なき物は、佛を念ずれども順次の往生をばとげず、遠縁とはなるべし。この心のおこりたる事は、わが身にしるべし、人はしるべからず。 (7) 問ていはく、往生をねがはぬにはあらず、ねがふといふとも、その心勇猛ならず。又念佛をいやしと思ふにはあらず、行じながらおろそかにしてあかしくらし候へば、かゝる身なれば、いかにもこの三心具したりと申すべくもなし。さればこのたびの往生をばおもひたへ候べきにや。答ていはく、淨土をねがへどもはげしからず、念佛すれども心のゆるなる事をなげくは、往生の心ざしのなきにはあらず。心ざしのなき物は、ゆるなるをもなげかず、はげしからぬをもかなしまず、いそぐみちにはあしのおそきをなげく、いそがざるみちにはこれをなげかざるがごとし。又このめばおのづから發心すと申す事もあれば、漸漸に增進してかならず往生すべし。日ごろ十惡・五逆をつくれる物も、臨終にはじめて善知識にあひて往生する事あり。いはんや、往生をねがひ念佛を申して、わが心のはげしからぬ事をなげかん人をば、佛もあはれみ、菩薩もまぼりて、障りをのぞき、知識にあひて、往生をうべき也。 Ⅵ-0573(8) 問ていはく、つねに念佛の行者いかやうにかおもひ候べきや。答ていはく、ある時には世間の无常なる事をおもひて、この世のいくほどなき事をしれ。ある時には佛の本願をおもひて、かならずむかへ給へと申せ。ある時には人身のうけがたきことはりを思ひて、このたびむなしくやまん事をかなしめ。六道をめぐるに、人身をうる事は、梵天より糸をくだして、大海のそこなる針のあなをとをさんがごとしといへり。ある時はあひがたき佛法にあへり。このたび出離の業をうゑずは、いつをか期すべきとおもふべき也。ひとたび惡道におちぬれば、阿僧祇劫をふれども、三寶の御名をきかず、いかにいはんや、ふかく信ずる事をえんや。ある時にはわが身の宿善をよろこぶべし。かしこきもいやしきも、人おほしといへども、佛法を信じ淨土をねがふ物はまれ也。信ずるまでこそかたからめ、そしりにくみて惡道の因をのみきざす。しかるにこれを信じこれを貴びて、佛をたのみ往生を心ざす、これひとへに宿善のしからしむる也。たゞ今生のはげみにあらず、往生の期のいたれる也と、たのもしくよろこぶべし。かやうの事を、おりにしたがひ事によりて、おもふべきなり。 (9) 問ていはく、かやうの愚癡の身には聖敎をも見ず、惡縁のみおほし。いかなる方Ⅵ-0574法をもてか、わが心をまぼり、信心をももよをすべきや。答ていはく、そのやう一にあらず。あるいは人の苦にあふを見て、三途の苦をおもひやれ。あるいは人のしぬるを見て、无常のことわりをさとれ。あるいはつねに念佛して、その心をはげませ。あるいはつねによきともにあひて、心をはぢししめられよ。人の心は、おほく惡縁によりてあしき心のおこる也。されば惡縁をばさり、善縁にはちかづけといへり。これらの方法ひとしなならず、時にしたがひてはからふべし。 (10) 問ていはく、念佛のほかの餘善をば、往生の業にあらずとて、修すべからずといふ事あり。これはしかるべしや。答ていはく、たとへば人のみちをゆくに、主人一人につきて、おほくの眷屬のゆくがごとし。往生の業の中に、念佛は主人也、餘の善は眷屬也。しかりといひて、餘善をきらふまではあるべからず。 (11) 問ていはく、本願は惡人をきらはねばとて、このみて惡業をつくる事はしかるべしや。答ていはく、ほとけは惡人をすて給はねども、このみて惡をつくる事、これ佛の弟子にはあらず。一切の佛法に惡を制せずといふ事なし。惡を制するに、かならずしもこれをとゞめざるものは、念佛してそのつみを滅せよとすゝめたる也。わが身のたへねばとて、佛にとがをかけたてまつらん事は、おほきなるあやⅥ-0575まり也。わが身の惡をとゞむるにあたはずは、ほとけ慈悲をすて給はずして、このつみを滅してむかへ給へと申すべし。つみをばたゞつくるべしといふ事は、すべて佛法にいはざるところ也。たとへば人のおやの、一切の子をかなしむに、そのなかによき子もあり、あしき子もあり。ともに慈悲をなすとはいへども、惡を行ずる子をば、目をいからかし、杖をさゝげて、いましむるがごとし。佛の慈悲のあまねき事をきゝては、つみをつくれとおぼしめすといふさとりをなさば、佛の慈悲にももれぬべし。惡人までをもすて給はぬ本願としらんにつけても、いよいよほとけの知見をば、はづべし、かなしむべし。父母の慈悲あればとて、父母のまへにて惡を行ぜんに、その父母よろこぶべしや。なげきながらすてず、あはれみながらにくむ也。ほとけも又もてかくのごとし。 (12) 問ていはく、凡夫は心に惡をおもはずといふ事なし。この惡をほかにあらはさゞるは、佛をはぢずして人目をはゞかるといふ事あり。これは心のままにふるまふべしや。答ていはく、人の歸依をえんとおもひてほかをかざらんは、とがあるかたもやあらん。惡をしのばんがために、たとひ心におもふとも、ほかまではあらはさじとおもひておさへん事は、すなはちほとけに恥る心也。とにもかくにも惡Ⅵ-0576をしのびて、念佛の功をつむべき也。習ひさきよりあらざれば、臨終正念もかたし。つねに臨終のおもひをなして、臥すごとに十念をとなふべし。されば、ねてもさめてもわするゝ事なかれといへり。おほかたは世間も出世も、道理はたがはぬ事にて候也。心ある人は父母もあはれみ、主君もはぐゝむにしたがひて、惡事をばしりぞき、善事をばこのまんとおもへり。惡をもすて給はぬ本願ときかんにも、まして善人をば、いかばかりかよろこび給はんと思ふべき也。一念・十念をもむかへ給ふときかば、いはんや百念・千念をやとおもひて、心のおよび、身のはげまれん程ははげむべし。さればとてわが身の器量のかなはざらんをばしらず、佛の引接をばうたがふべからず。たとひ七、八十のよはひを期すとも、おもへばゆめのごとし。いはんや、老少不定なれば、いつをかぎりと思ふべからず。さらにのちを期する心あるべからず。たゞ一とすぢに念佛すべしといふ事、そのいはれ一にあらず。 これを見んおりおりごとにおもひでゝ、南無阿彌陀佛とつねにとなへよ。 黑谷上人語燈錄卷第十四 Ⅵ-0577黑谷上人語燈錄卷第十五 厭欣沙門了惠集錄 和語第二之五[當卷有三篇] (二二)一百四十五箇條問答第二十二 (二三)上人と明遍との問答第二十三 (二四)諸人傳說の詞第二十四 (二二) 一百四十五箇條問答[第二十二] (1) 一 ふるき堂塔を修理して候はんをば、供養し候べきか。答。かならず供養すべしといふ事も候はず。又供養して候はんも、あしき事にも候はず。功德にて候へば、又供養せねばとてつみのえ、あしき事にては候はず。 (2) 一 ほとけの開眼と供養とは、一つ事にて候か。答。開眼と供養とは、別の事にⅥ-0578て候べきを、おなじ事にしあひて候也。開眼と申すは、本體は佛師がまなこをいれ、ひらきまいらせ候を申候也。これをば、事の開眼と申候也。つぎに僧の佛眼の眞言をもてまなこをひらき、大日の眞言をもてほとけの一切の功德を成就し候をば、理の開眼と申候也。つぎに供養といふは、ほとけに花香・佛供・御あかしなんどをもまいらせ、さらぬたからをもまいらせ候を、供養とは申候也。 (3) 一 この眞如觀はし候べき事にて候か。答。これは惠心のと申て候へども、わろき物にて候也。おほかた眞如觀をば、われら衆生はえせぬ事にて候ぞ、往生のためにもおもはれぬことにて候へば、无益に候。 (4) 一 又これに計算して候ところは、何事もむなしと觀ぜよと申て候。空觀と申候は、これにて候な。されば觀じ候べきやうは、たとへばこの世のことを執著して思ふまじきとおしへて候と見へて候へば、おほやう御らんのためにまいらせ候。答。これはみな理觀とて、かなはぬ事にて候也。僧のとしごろならひたるだにもえせず、まして女房なんどのつやつや案内もしらざらんは、いかにもかなふまじく候也。御たづねまでも无益に候。 (5) 一 この七佛の名號となふべき樣とて、人のたびて候まゝに信じ候へば、つみはⅥ-0579うせ候べきか。なに事もそれよりおほせ候御事は、たのもしく候ひて、かやうに申候。答。これさなくとも候なん。念佛にこれらのつみのうせ候まじくはこそ候はめ。 (6) 一 一文の師をもおろかに申候へば、習ひたる物の冥加なしと申候は、ま事にて候か。答。師の事はおろかならず候。恩の中にふかき事、これにすぎ候はず。 (7) 一 心を一つにして、心よくなをり候はずとも、何事をおこなひ候はずとも、念佛ばかりにて淨土へはまいり候べきか。答。心のみだるゝは、これ凡夫の習ひにて、ちからおよばぬ事にて候。たゞ心を一にして、よく御念佛せさせ給ひ候はゞ、そのつみを滅して往生せさせ給ふべき也。その妄念よりもおもきつみも、念佛だにし候へば、うせ候也。 (8) 一 經の陀羅尼は、灌頂の僧にうけ候べきか。答。『法華經』のはくるしからず、灌頂の僧のうけさする陀羅尼は別の事、それはおぼしめしよるな。 (9) 一 『普賢經』(觀普賢*經意)に、「ほとけの母を念ずべし」と申候は。答。いざおぼへず。 (10) 一 百日のうちの赤子の不淨かゝりたるは、物まうでにはゞかりありと申たるは。答。百日のうちのあか子の不淨くるしからず。なにもきたなき物のゝつきて候はⅥ-0580んは、きたなくこそ候へ。赤子にかぎるまじ。 (11) 一 念佛の百萬遍、百度申してかならず往生すと申て候に、いのちみじかくてはいかゞし候べき。答。これもひが事に候。百度申てもし候、十念申てもし候、又一念にてもし候。 (12) 一 『阿彌陀經』十萬卷よみ候べしと申て候は、いかに。答。これもよみつべからんにとりての事に候。たゞつとめをたかくつみ候はんれうにて候。 (13) 一 日所作は、かならずかずをきわめ候はずとも、よまれんにしたがひてよみ、念佛も申候べきか。答。かずをさだめ候はねば懈怠になり候へば、かずをさだめたるがよき事にて候。 (14) 一 にら・き・ひる・しゝをくひて、かうせ候はずとも、つねに念佛は申候べきやらん。答。念佛はなにゝもさはらぬ事にて候。 (15) 一 六齋に時をし候はんには、かねて精進をし、いかけをし、きよき物をきてし候べきか。答。かならずさ候はずとも候なん。 (16) 一 一七日・二七日なんど服藥し候はんに、六齋の日にあたりて候はんをば、いかゞし候べき。答。それちからおよばぬ事にて候。さればとて罪にては候まじ。 Ⅵ-0581(17) 一 六齋は一生すべく候か、なんねんすべく候ぞ。答。それも御心によるべき事にて候。いくらすべしと申事は候はず。 (18) 一 念佛をば、日所作にいくらばかりあてゝか申候べき。答。念佛のかずは、一萬遍をはじめにて、二萬・三萬・五萬・六萬、乃至十萬まで申候也。このなかに御心にまかせておぼしめし候はん程を、申させおはしますべし。 (19) 一 『阿彌陀經』をば、一日になん卷ばかりあてゝかよみ候べき。答。「『阿彌陀經』は、ちかひて一生中に十萬卷をだにもよみまいらせ候ぬれば、決定して往生す」(觀念法*門意)と、善導和尙のおほせられて候也。每日に十五卷づゝよめば、二十年に十萬卷にみち候也。三十卷づゝよめば、十年にみち候也。 (20) 一 五色のいとは、ほとけには、ひだりにとおほせ候き。わがてには、いづれのかたにていかゞひき候べき。答。左右の手にてひかせ給ふべし。 (21) 一 佛のなをもかき、貴き事をもかきて候を、あだにせじとてやき候は罪のうるに、誦文をしてやくと申候は、いかゞ候べき。答。さる反故やき候はんに、何條の誦文か候べき。おほかたは法文をばうやまふ事にて候へば、もしやかんなんどせられ候はゞ、きよきところにてやかせ給ふべし。 Ⅵ-0582(22) 一 戒うけ候時、和尙となり給へ、阿闍梨となり給へと申事の候、心え候はず。なにといふ事にて候ぞ。答。和尙と申候は、戒うくる時に法門ならひたる師を申候也。阿闍梨と申候は、まさしく戒をさづくる師にて候也。これをば羯磨阿闍梨と申候也。 (23) 一 時し候は功德にて候やらん。かならずゝべき事にて候やらん。答。時は功德うる事にて候也。六齋の御時ぞ、さも候ひぬべき。又御大事にて御やまひなんどもおこらせおはしましぬべく候はゞ、さなくとも、たゞ御念佛だにもよくよく候はゞ、それにて生死をはなれ、淨土にも往生せさせおはしまさんずる事は、これによるべく候。 (24) 一 臨終のをり、阿彌陀の定印なんどをならひて、ひかへ候やらん。たゞさ候はずとも、左右の手にてひかへ候やらん。答。かならず定印をむすぶべきにて候はず、たゞ合掌を本體にて、そのなかにひかへられ候べし。 (25) 一 ちかくてかならずしも見まいらせ候はねども、とをらかにてひかへ候やらん。答。とをくもちかくも、便宜によるべく候。いかなるもくるしみ候はず。 (26) 一 かならずほとけを見、いとをひかへ候はずとも、われ申さずとも人の申さんⅥ-0583念佛をきゝても、死候はゞ淨土には往生し候べきやらん。答。かならずいとをひくといふ事候はず。ほとけにむかひまひらせねども、念佛だにもすれば往生し候也、又きゝてもし候。それはよくよく信心ふかくての事に候。 (27) 一 ながく生死をはなれ三界にむまれじとおもひ候に、極樂の衆生となりても、又その縁つきぬればこの世にむまると申候は、ま事にて候か。たとひ國王ともなり、天上にもむまれよ、たゞ三界をわかれんとおもひ候に、いかにつとめおこなひてか、返り候はざるべき。答。これもろもろのひが事にて候。極樂へひとたびむまれ候ぬれば、ながくこの世に返る事候はず、みなほとけになる事にて候也。たゞし人をみちびかんためには、ことさらに返る事も候。されども生死にめぐる人にては候はず。三界をはなれ極樂に往生するには、念佛にすぎたる事は候はぬ也。よくよく御念佛の候べき也。 (28) 一 女房の聽聞し候に、戒をたもたせ候を、やぶり候はんずればとて、たもつとも申候はぬは、いかゞ候べき。たゞ聽聞のにわにては、一時もたもつと申候がめでたき事と申候は、ま事にて候か。答。これはくるしく候はず。たとひのちにやぶれども、その時たもたんとおもふ心にてたもつと申すは、よき事にて候。 Ⅵ-0584(29) 一 佛の薄をおして、又供養し候か。答。さ候はずとも。 (30) 一 所作をかきて人にし入させ候は、いかゞ候べき。答。さなくとも候ひなむ。 (31) 一 卷經を草子にたゝむは、罪と申候はいかゞ候べき。答。つみえぬ事にて候。 (32) 一 ほとけに具する經を、とりはなちて人にもたぶは、つみにて候か。答。ひろむるは功德にて候。 (33) 一 一部とある經、一卷づゝとりはなちてよまんは、つみにて候か。答。つみにても候はず。 (34) 一 ほとけに廚子をさしてすゑまいらせては、供養すべく候か。答。一切あるまじ。 (35) 一 不輕をおがむ事し候べきか。答。このごろの人の、え心えぬ事にて候也。 (36) 一 七歲の子しにて、いみなしと申候はいかに。答。佛敎にはいみといふ事なし。世俗に申したらんやうに。 (37) 一 佛ににかはを具し候が、きたなく候。いかゞし候べき。答。ま事にきたなけれども、具せではかなふまじければ。 (38) 一 尼の服藥し候は、わろく候か。答。やまひにくふはくるしからず、たゞはあⅥ-0585し。 (39) 一 父母のさきに死ぬるは、つみと申候はいかに。答。穢土のならひ、前後ちからなき事にて候。 (40) 一 いきてつくり候功德はよく候か。答。めでたし。 (41) 一 人のまぼりをえて候はんは、供養し候べきか。答。せずともくるしからず。 (42) 一 わゝくに物くるゝは、つみにて候か。答。つみにて候。 (43) 一 經をして供養せずとも、くるしからず候か。答。たゞよむ。 (44) 一 經千部よみては、供養し候べきか。答。さも候まじ。 (45) 一 懺悔の事、幡や花鬘なんどかざり候べきか。答。さらでも、たゞ一心ぞ大切に候。 (46) 一 花香をほとけにまいらせ候事。答。あか月は供養法にかならずまいらせ候。たゞは、はなかめにさし、ちらしても供養すべし。香はかならずたくべし。便あしくは、なくとも。 (47) 一 經をば、僧にうけ候べきか。答。われとよみつべくは、僧にうけずとも。 (48) 一 聽聞・ものまうでは、かならずし候べきか。答。せずとも。中々わろく候。Ⅵ-0586しづかにたゞ御念佛候へ。 (49) 一 神に後世申候事、いかむ。答。佛に申すにはすぐまじ。 (50) 一 說經師は、つみふかく候か。又妻にならん物も、つみふかしと申候は、ま事にて候か。答。本體は功德うべく候に、末世のはつみえつべし。妻にならんものは、つみ。 (51) 一 麝香・丁子をもち候は、つみにて候か。答。かをあつむるは、つみ。 (52) 一 妻、おとこに經ならふ事、いかゞ候べき。答。くるしからず。 (53) 一 還俗のものに目を見あはせずと申候は、ま事にて候か。答。さまでとかず、ひが事。 (54) 一 還俗を心ならずして候はんは、いかに。答。あさくや。 (55) 一 神佛へまいらんに、三日一日の精進、いづれかよく候。答。信を本にす。いくかと本說なし、三日こそよく候はめ。 (56) 一 歌よむは、つみにて候か。答。あながちにえ候はじ。たゞし罪もえ、功德にもなる。 (57) 一 さけのむは、つみにて候か。答。ま事にはのむべくもなけれども、この世のⅥ-0587ならひ。 (58) 一 魚・鳥・鹿は、かはり候か。答。たゞおなじこと。 (59) 一 尼になりて百日精進は、よく候か。答。よし。 (60) 一 佛つくりて、經はかならず具し候べきか。答。かならず具すべしとも候はず、又具してもよし。 (61) 一 功德は身のたふるほどゝ申候は、ま事にて候か。答。沙汰におよび候はず、ちからのたふるほど。 (62) 一 經と佛と、かならず一度にすゑ候か。答。さも候はず、ひとつゞつも。 (63) 一 『錫杖』はかならず誦すべきか。答。さなくとも、そのいとまに念佛一遍も申べし。あま法師こそ、ありく時むしのために誦し候へ。 (64) 一 いみの日、物まうでし候はいかに。答。くるしからず。本命日も。 (65) 一 五逆・十惡、一念・十念にほろび候か。答。うたがひなく候。 (66) 一 臨終に善知識にあひ候はずとも、日ごろの念佛にて往生はし候べきか。答。善知識にあはずとも、臨終おもふ樣ならずとも、念佛申さば往生すべし。 (67) 一 誹謗正法は五逆のつみにおほくまさりと申候は、ま事にて候か。答。これはⅥ-0588いと人のせぬ事にて候。 (68) 一 死て候はんものゝかみは、そり候べきか。答。かならずさるまじ。 (69) 一 心に妄念のいかにも思はれ候は、いかゞし候べき。答。たゞよくよく念佛を申させ給へ。 (70) 一 わがれうの臨終の物の具、まづ人にかし候は、いかゞ候べき。答。くるしからず。 (71) 一 五色のいと、うむ事。答。おさなきものにうます。 (72) 一 節ある楊枝をばつかはず、續帶・靑帶・无文の帶するはいむと申候は。答。くるしからず。 (73) 一 服藥のわたは、あらひ候はざらんはいかゞ候。答。くるしからず。 (74) 一 よき物をき、わろきところにゐて、往生ねがひ候はいかゞ候。答。くるしからず。八齋戒の時こそ、さは候はめ。 (75) 一 月のはゞかりの時、經よみ候、いかゞ候。答。くるしみあるべしと見へず候。 (76) 一 申候事のかなひ候はぬに佛をうらみ候、いかゞ候。答。うらむべからず。縁により、信のありなしによりて、利生はあり。この世・のちの世、佛をたのむにⅥ-0589はしかず。 (77) 一 ひる・しゝは、いづれも七日にて候か。又しゝのひたるは、いみふかしと申候は、いかに。答。ひるも香うせなば、はゞかりなし。しゝのひたるによりて、いみふかしといふ事は、ひが事。 (78) 一 月のはゞかりのあひだ、神のれうに、經はくるしく候まじきか。答。神やはゞかるらん、佛法にはいまず。陰陽師にとはせ給へ。 (79) 一 子うみて、佛神へまいる事、百日はゞかりと申候は、ま事にて候か。答。それも佛法にいまず。 (80) 一 『法華經』一品よみさして、魚くはずと申候は、いかに。答。くるしからず。 (81) 一 ずゞ・かけをびかけずして、經をうけ候事は、いかに。答。くるしからず。 (82) 一 時にまめ・あづきの御れうくはずと申候は、ま事にて候か。答。くるしからず。 (83) 一 ねてもさめても、口あらはで念佛申候はんは、いかゞ候べき。答。くるしからず。 (84) 一 信施をうくるは、つみにて候か。答。つとめしてくふ僧は、くるしからず。Ⅵ-0590せねばふかし。 (85) 一 神のあたりの物くふは、くちなわと申候は、いかに。答。禰宜・神主は、ひとへにその身になるにこそさらぬが、すこしくはんはおもからじ。 (86) 一 僧の物くひ候も、つみにて候か。答。つみうるも候、えぬも候。佛のもの、奉加結縁の物くふはつみ。 (87) 一 大佛・天王寺なんどの邊にゐて、僧の物くひて、後世とらんとし候人は、つみか。答。念佛だに申さば、くるしからず。 (88) 一 時するあした、御れうあまたにむかふ、いかゞ候。答。くるしからず。 (89) 一 時のつとめて、みそうつ、いかに。答。くるしからず。 (90) 一 戒をたもちてのち、精進いくかゝし候。答。いくかも御心。 (91) 一 聽聞は功德え候か。答。功德え候。 (92) 一 念佛を行にしたる物が、物まうでは、いかに。答。くるしからず。 (93) 一 物まうでして、經を廻向すべきに、經をばよまで念佛を廻向する、くるしからずと申候は、いかに。答。くるしからず。 (94) 一 わが心ざゝぬ魚は、殺生にては候はぬか。答。それは殺生ならず。 Ⅵ-0591(95) 一 服藥のずゞは、あらひ候べきか。答。あらひあらはず、くるしからず。 (96) 一 千手・藥師は、ものいませ給ふと申、いかに。答。さる事なし。 (97) 一 六齋に、にら・ひる、いかに。答。めさゞらんはよく候。 (98) 一 時のくひ物は、きよくし候べきか。答。れいの定、行水も候まじ、かねて精進も候まじ。ひきれも、たゞのおりのにて候べし。時の誦文も女房はせずとも、たゞ念佛を申させ給へ。さしたる事ありて時をかきたらば、いつの日にてもせさせ給へ。 (99) 一 三年おがみの事、し候べきか。答。さらずとも候なん。 (100) 一 時のさばには、あはせを具し候べきか。時の散飯をば、屋のうゑにうちあげ候べきか、かはらけにとり候べきか、わがひきれのさらにとり候べきか。答。いづれも御心。 (101) 一 女のものねたむ事は、つみにて候か。答。世世に女となる果報にて、ことに心うき事也。 (102) 一 出家し候はねども、往生はし候か。答。在家ながら往生する人おほし。 (103) 一 五色のいとを、あまたにきりて人にたばんは、いかゞ候べき。答。きるべかⅥ-0592らず。 (104) 一 念佛を申候に、はらのたつ心のさまざまに候、いかゞし候べき。答。散亂の心、よにわろき事にて候。かまへて一心に申させ給へ。 (105) 一 かみつけながら、おとこ・おんなの死候は、いかに。答。かみにより候はず、たゞ念佛と見へたり。 (106) 一 尼の、子うみ、おとこもつ事は、五逆罪ほどゝ申、ま事にて候か。答。五逆ほどならねども、おもく見へて候。 (107) 一 尼法師、かみをおほす、つみにて候か。答。三惡道の業にて候。 (108) 一 經・佛なんどうり候は、つみにて候か。答。つみふかく候。 (109) 一 人をうり候も、つみにて候か。答。それもつみにて候。 (110) 一 精進の時、つめきらぬと申、又女にかみそらせぬと申候、いかに。答。みなひが事。 (111) 一 われも人も、さゑもんかく、罪にて候か。答。すごさゞらんには、なにか罪にて候べき。 (112) 一 酒のいみ、七日と申候は、ま事にて候か。答。さにて候。されども、やまひⅥ-0593にはゆるされて候。 (113) 一 魚鳥くひては、いかけして經はよみ候べきか。答。いかけしてよむ、本體にて候。せでよむは、功德と罪とゝもに候。たゞしいかけせでも、よまぬよりは、よむはよく候。 (114) 一 妻・おとこ、一つにて經よみ候はん事、いかけし候べきか。答。これもおなじ事、本體はいかけしてよむべく候。念佛はせでもくるしからず、經はいかけしてよみ候べし。每日によみ候とも。 (115) 一 大根・柚は、おこなひにはゞかりと申候は、いかに。答。はゞかりなし。 (116) 一 尼になりたるかみ、いかゞし候べき。答。經の料紙にすき、もしは佛の中にこそはこめ候へ。 (117) 一 尼法師の、紺のきぬき候はいかに。答。よに罪うる事にて候。 (118) 一 物まうでし候はんに、男女かみあらひ、せめてはいたゞきあらふと申候は、ま事候か。答。いづれもさる事候はず。 (119) 一 佛をうらむる事は、あるまじき事にて候な。答。いかさまにも、佛をうらむる事なかれ。信ある物は大罪すら滅す、信なき物は小罪だにも滅せず。わが信のⅥ-0594なき事をはづべし。 (120) 一 八專に、物まうでせぬと申は、ま事にて候か。答。さる事候はず。いつならんからに、佛の耳きかせ給はぬ事の、なじか候べき。 (121) 一 灸治の時、物まうでせず、そのおりのき物もすつると申候は。答。これ又きはめたるひが事にて候。たゞ灸治をいたはりて、ありきなんどをせぬ事にてこそ候へ。灸治のいみ、ある事候はず。 (122) 一 ひる・しゝくひて、三年がうちに死候へば往生せずと申候は、ま事にて候やらむ。答。これ又きわめたるひが事にて候。臨終に五辛くひたる物をばよせずと申たる事は候へども、三年までいむ事は、おほかた候はぬ也。 (123) 一 厄病やみて死ぬる物、子うみて死ぬる物は、つみと申候はいかに。答。それも念佛申せば往生し候。 (124) 一 子の孝養、おやのするはうけずと申候、いかに。答。ひが事なり。 (125) 一 產のいみ、いくかにて候ぞ、又いみもいくかにて候ぞ。答。佛敎には、いみといふ事候はず。世間には、產は七日、又三十日と申げに候、いみも五十日と申す。御心に候。 Ⅵ-0595(126) 一 沒後の佛經しをく事は、一定すべく候か。答。一定にて候、すべく候。 (127) 一 所作かきてしいれ、かねてかゝんずるを、まづし候はいかに。答。しいるゝはくるしからず、かねては懈怠也。 (128) 一 出家は、わかきとおひたると、いづれか功德にて候。答。老ては、功德ばかりえ候。わかきは、なをめでたく候。 (129) 一 佛に花まいらする誦文、十波羅蜜往生すと申て候。御らんのためにまいらせ候。答。これせんなし、念佛を申させ給へ。 (130) 一 いみの物の、ものへまいり候事は、あしく候か。答。くるしからず。 (131) 一 物まうでして返さに、わがもとへ返らぬ事はあし。又魚鳥にやがてみだれ候事、いかに。答。熊野のほかは、くるしからず。 (132) 一 時のおりの誦文は、かくし候べしと申候、御らんのためにまいらせ候。答。時のおりも、たゞ念佛を申させ給へ。女房は誦文せずとも。 (133) 一 女房の物ねたみの事、さればつみふかく候な。答。たゞよくよく一心に念佛を申させ給へ。 (134) 一 桐のはい、かみにつくるは、佛神に申事のかなはぬと申候は、ま事にて候か。Ⅵ-0596答。そら事なり。 (135) 一 物へまいり候精進、三日といふ日まいり候べきか、四日のつとめてか。答。三日のつとめてまいる。 (136) 一 物こもりして候に、三日とおもひ候はんは四日になしていで、七日とおもひて候はんは八日になしていで候べきか。答。それは世の人のせんやうに。 (137) 一 ずゞには、さくら・くりいむと申候は、いかに。答。さる事候はず。 (138) 一 法師のつみは、ことにふかしと申候は。答。とりわき候はず。 (139) 一 現世をいのり候に、しるしの候はぬ人はいかに候ぞ。答。現世をいのるにしるしなしと申事、佛の御そら事には候はず。わが心の說のごとくせぬによりて、しるしなき事は候也。されば、よくするにはみなしるしは候也。觀音を念ずるにも、一心にすればしるし候、もし一心なければしるし候はず。むかしの縁あつき人は、定業すらなを轉ず。むかしもいまも縁あさき人は、ちりばかりのくるしみにだにも、しるしなしと申て候也。佛をうらみおぼしめすべからず。たゞこの世・のちの世のために、佛につかへむには、心をいたし、ま事をはげむ事、この世もおもふ事かなひ、のちの世も淨土にむまるゝ事にて候也。しるしなくは、わⅥ-0597が心をはづべし。 (140) 建仁元年十二月十四日、げざんにいりて、とひまいらする事 一 臨終の時、不淨のものゝ候には、佛のむかへにわたらせ給ひたるも返らせ給ふと申候は、ま事にて候か。答。佛のむかへにおはしますほどにては、不淨のものありといふとも、なじかは返らせ給べき。佛はきよき・きたなきの沙汰なし。みなされども觀ずれば、きたなきもきよく、きよきもきたなくしなす。たゞ念佛ぞよかるべき、きよくとも念佛申さゞらんには益なし。萬事をすてゝ念佛を申すべし。證據のみおほかり。 (141) これは御文にてたづね申す 一 家のうちのものゝ、したしき・うときをきらはず、往生のためとおもひて、くひ物・き物たばんは、佛に供養せんとおなじ事にて候か。答。したしき・うときをえらばず、往生のためとおぼしめして、物たびおはしまさん、めでたき功德にて候。御つかひによくよく申候ぬ。 (142) 一 破戒の僧・愚癡の僧、供養せんも功德にて候か。答。破戒の僧・愚癡の僧を、すゑの世には佛のごとくたとむべきにて候也。この御つかひに申候ぬ、きこしめⅥ-0598し候へ。 この御ことばゝ、上人のまさしき御手也。『あみだ經』のうらにおしたり。 (143) 見參にいりてうけ給はる事 一 每日の所作に、六萬・十萬の數遍をずゞをくりて申候はんと、二萬・三萬をずゞをたしかにひとつづゝ申候はんと、いづれかよく候べき。答。凡夫のならひ、二萬・三萬あつとも、如法にはかなひがたからん。たゞ數遍のおほからんにはすぐべからず、名號を相續せんため也。かならずしもかずを要とするにはあらず、たゞつねに念佛せんがため也。かずをさだめぬは懈怠の因縁なれば、數遍をすゝむるにて候。 (144) 一 眞言の阿彌陀の供養法は、正行にて候べきか。答。佛體は一つにはにたれども、その心不同なり。眞言敎の彌陀は、これ己心の如來、ほかをたづぬべからず。この敎の彌陀は、これ法藏比丘の成佛也。西方におはしますゆへに、その心おほきにことなり。 (145) 一 つねに惡をとゞめ、善をつくるべき事をおもはへて念佛申候はんと、たゞ本願をたのむばかりにて念佛を申候はんと、いづれかよく候べき。答。廢惡修善は、Ⅵ-0599諸佛の通戒なり。しかれども、當時のわれらは、みなそれにはそむきたる身ともなれば、たゞひとへに別意弘願のむねをふかく信じて、名號をとなへさせ給はんにすぎ候まじ。有智・无智、持戒・破戒をきらはず、阿彌陀ほとけは來迎し給事にて候也。御心え候へ。 (二三) 上人と明遍との問答[第二十三] 明遍問たてまつりての給はく、末代惡世のわれらがやうなる罪濁の凡夫、いかにしてか生死をはなれ候べき。上人答ての給はく、南無阿彌陀佛と申して極樂を期するばかりこそ、しえつべき事と存じて候へ。 僧都のいはく、それはかたのやうに、さ候べきかと存じて候。それにとりて、決定をせん料に申つるに候。それに念佛は申候へども心のちるをば、いかゞし候べき。上人答ていはく、それは源空もちからおよび候はず。 僧都のいはく、さてそれをばいかゞし候べき。上人のいはく、ちれども名を稱すれば、佛願力に乘じて往生すべしとこそ心えて候へ。たゞ詮ずるところ、おほらかに念佛を申候が第一の事にて候也。 Ⅵ-0600僧都のいはく、かう候、かう候。これうけ給はりにまいりつる候と。Wこれより前後にはいさゝかも詞なくていでられにけりR 上人、又僧都退出のゝち、當座のひじりたちにかたりての給はく、欲界散地にむまれたる物は、みな散心あり。たとへば人界の生をうけたる物の、目鼻のあるがごとし。散心をすてゝ往生せんといはん事、そのことはりしかるべからず。散心ながら念佛申す物が往生すればこそ、めでたき本願にてはあれ。この僧都の、念佛申せども心のちるをばいかゞすべきと不審せられつるこそ、いはれずおぼゆれと[云云]。 (二四) 諸人傳說の詞A第二十四B付御歌C (1) 隆寛律師のいはく、法然上人のゝ給はく、源空も念佛のほかに、每日に『阿彌陀經』を三卷よみ候き。一卷は唐、一卷は吳、一卷は訓なり。しかるを、この『經』に詮ずるところ、たゞ念佛申せとこそとかれて候へば、いまは一卷もよみ候はず、一向念佛を申候也と。隆寛W每日に『阿彌陀經』四十八卷よまれきRすなはち心えて、やがて『阿彌陀經』をさしをきて念佛三萬遍を申しきと。W『進行集』よりいでたり云云R Ⅵ-0601(2) 乘願上人のいはく、ある人問ていはく、色相觀は『觀經』の說也。たとひ稱名の行人なりといふとも、これを觀ずべく候か、いかん。上人答ての給はく、源空もはじめはさるいたづら事をしたりき。いまはしからず、但信の稱名也と。W『授手印決答』よりいでたりR (3) 又人目をかざらずして往生の業を相續すれば、自然に三心は具足する也。たとへば、葦のしげきいけに十五夜の月のやどりたるは、よそにては月やどりたりとも見へねども、よくよくたちよりて見れば、あしまをわけてやどる也。妄念のあしはしげゝれども、三心の月はやどる也。これは故上人のつねにたとへにおほせられし事也と。Wかの『二十八問答』よりいでたりR (4) ある時又の給はく、あはれこのたびしおほせばやなと。その時乘願申さく、上人だにもかやうに不定げなるおほせの候はんには、ましてその餘の人はいかゞ候べきと。その時上人、うちわらひての給はく、蓮臺にのらんまでは、いかでかこのおもひはたえ候べきと。W『閑亭問答集』よりいでたりR (5) 信空上人のいはく、ある時上人の給はく、淨土の人師おほしといへども、みな菩提心をすゝめて、觀察を正とす。たゞ善導一師のみ菩提心なくして、觀察をもてⅥ-0602稱名の助業と判ず。當世の人、善導の心によらずは、たやすく往生をうべからず。曇鸞・道綽・懷感等、みな相承の人師なりといへども、義においては、いまだかならずしも一準ならず、よくよくこれを分別すべし。このむねをわきまへずは、往生の難易において存知しがたき物也と。 (6) ある時問ていはく、智慧のもし往生の要事となるべくは、正直におほせをかぶりて修學をいとなむべし。又たゞ稱名不足あるべからずは、そのむねを存ずべく候。たゞいまのおほせを如來の金言と存ずべく候。答ていはく、往生の業は、これ稱名といふ事、釋文分明也。有智・无智をきらはずといふ事、又顯然也。しかれば、往生のためには稱名足ぬとす。學問をこのまんとおもはんよりは、たゞ一向念佛して往生をとぐべし。彌陀・觀音・勢至にあひたてまつらん時、いづれの法文か達せざらん。かのくにの莊嚴、晝夜朝暮に甚深の法門をとく也。念佛往生のむねをしらざらん程は、これを學すべし。もしこれをしりなば、いくばくならざる智慧をもとめて、稱名のいとまをさまたぐべからず。 (7) ある時問ていはく、人おほく持齋をすゝむ。この條いかん。答ての給はく、尼法師の食の作法は、もともしかるべしといへども、當世は機すでにおとろへたり、Ⅵ-0603食すでに減じたり。この分齊をもて一食せば、心ひとへに食事をおもひて念佛しづかならじ。『菩提心經』にいはく、「食菩提をさまたげず、心よく菩提をさまたぐ」といへり。そのうゑは、自身をあひはからふべきなりと。 (8) ある時問ていはく、往生の業においてはおもひさだめおはりぬ。たゞし一期の身のありさまをば、いかやうにか存じ候べき。答ての給はく、僧の作法は、大小の戒律あり。しかりといへども、末法の僧これにしたがはず。源空これをいましむれども、たれの人かこれにしたがふ。たゞ詮ずるところは、念佛の相續するやうにあひはからふべし。往生のためには、念佛すでに正業也。かるがゆへにこのむねをまぼりて、あひはげむべきなり。 (9) ある人問ていはく、つねに廢惡修善のむねを存じて念佛すると、つねに本願のむねをおもひて念佛すると、いづれかすぐれて候。答ての給はく、廢惡修善はこれ諸佛の通誡なりといへども、當世のわれら、ことごとく違背せり。もし別意の弘願に乘ぜずは、生死をはなれがたきものか。 (10) ある人問ていはく、稱名の時、心をほとけの相好にかけん事、いかやうにか候べき。答ての給はく、しからず。たゞ「若我成佛、十方衆生、稱我名號下至十聲、Ⅵ-0604若不生者不取正覺。彼佛今現在世成佛。當知、本誓重願不虛、衆生稱念必得往生」(禮讚)とおもふばかり也。われらが分齊をもて佛の相好を觀ずとも、さらに如說の觀にはあらじ。たゞふかく本願をたのみて、口に名號をとなふる、この一大事のみ假令ならざる行也。 (11) ある人問ていはく、善導、本願の文を釋し給に、「至心信樂欲生我國」(大經*卷上)の安心を略し給ふ事、なに心かあるや。答ての給はく、「衆生稱念必得往生」(禮讚)としりぬれば、自然に三心を具足するゆへに、このことはりをあらはさんがために略し給へる也。 (12) ある人問ていはく、每日の所作に、六萬・十萬等の數遍をあてゝ不法なると、二萬・三萬の數遍をあてゝ如法なると、いづれをか正とすべき。答ての給はく、凡夫のならひ、二萬・三萬をあつといふとも、如法の義あるべからず。たゞ數遍のおほからんにしかず、詮ずるところ、心をして相續せしめんがため也。かならずしもかずを沙汰するを要とするにはあらず、たゞ常念のため也。數遍をさだめざるは懈怠の因縁なるがゆへに、數遍をすゝむる也。 (13) ある人問ていはく、上人の御房の申させ給御念佛は、念念ごとにほとけの御心にⅥ-0605あひかなひ候らんとおぼへ候。智者にてましませば、くはしく名號の功德をもしろしめし、あきらかに本願のやうをも御心えあるがゆへにと。答ての給はく、なんぢ本願を信ずる事、まだしかりけり。彌陀如來の本願の名號は、木こり・くさかり・なつみ・みづくみのたぐひごときのものゝ内外ともにかけて一文不通なるが、となふればかならずむまるなんと信じて、眞實に欣樂して、つねに念佛申を最上の機とす。もし智慧をもて生死をはなるべくは、源空なんぞ聖道門をすてゝこの淨土門におもむくべき。まさにしるべし、聖道門の修行は智慧をきわめて生死をはなれ、淨土門の修行は愚癡に返りて極樂にむまると。W已上信空上人の傳說なり、『進行集』よりいでたりR (14) 信空上人又いはく、先師法然上人、あさゆふおしへられし事也。念佛申にはまたく樣もなし、たゞ申せば極樂へむまるとしりて、心をいたして申せばまいる事也。ものをしらぬうゑに道心もなく、いたづらにそへなき物のゝいふ事也。さいはん口にて、阿彌陀佛を一念・十念にても申せかしと候ひし事也。又御往生のゝち、三井寺の住心房と申す學生、ひじりにゆめのうちに問れても、阿彌陀佛はまたく風情もなくたゞ申す事也と答へられたりと。大谷の月忌の導師せらるとて、おほⅥ-0606くの人の中にて說法にせられ候きと。W『白川消息』よりいでたりR (15) 弁阿上人のいはく、故上人の給はく、われはこれ烏帽子もきざるおとこ也。十惡の法然房が念佛して往生せんといひてゐたる也。又愚癡の法然房が念佛して往生せんといふ也。安房の介といふ一文不通の陰陽師が申す念佛と、源空が念佛と、またくかわりめなしと。W『物語集』にいでたりR (16) ある時問ていはく、上人の御念佛は、智者にてましませば、われらが申す念佛にはまさりてぞおはしまし候らんとおもはれ候は、ひが事にて候やらん。 その時、上人御氣色あしくなりておほせられていはく、さばかり申す事を用ゐ給はぬ事よ。もしわれ申す念佛の樣、風情ありて申候はゞ、每日六萬遍のつとめむなしくなりて三惡道におち候はん。またくさる事候はずと、まさしく御誓言候しかば、それより弁阿は、いよいよ念佛の信心を思ひさだめたりき。[同『集』] (17) 又人ごとに、上人つねにの給しは、一丈のほりをこへんとおもはん人は、一丈五尺をこへんとはげむべし。往生を期せん人は、決定の信をとりてあひはげむべき也。ゆるくしてはかなふべからずと。[同『集』] (18) 又上人のゝ給はく、念佛往生と申す事は、もろこし・わが朝の、もろもろの智者Ⅵ-0607たちの沙汰し申さるゝ觀念の念佛にもあらず。又學問をして念佛の心をさとりとほして申す念佛にもあらず。たゞ極樂に往生せんがために南無阿彌陀佛と申て、うたがひなく往生するぞとおもひとりて申すほかに別の事なし。たゞし三心ぞ四修ぞなんど申す事の候は、みな南無阿彌陀佛は決定して往生するぞとおもふうちにおさまれり。たゞ南無阿彌陀佛と申せば、決定して往生する事なりと信じとるべき也。念佛を信ぜん人は、たとひ一代の御のりをよくよく學しきはめたる人なりとも、文字一もしらぬ愚癡鈍根の不覺の身になして、尼入道の无智のともがらにわが身をおなじくなして、智者ふるまひせずして、たゞ一向に南無阿彌陀佛と申てぞかなはんずると。[同『集』] (19) 又上人のゝ給はく、源空が目には、三心も南無阿彌陀佛、五念も南無阿彌陀佛、四修も南無阿彌陀佛なりと。W『授手印』にいでたりR (20) 又上人かたりての給はく、世の人はみな因縁ありて道心をばおこす也。いはゆる父母・兄弟にわかれ、妻子・朋友にはなるゝ等也。しかるに源空は、させる因縁もなくして、法爾法然と道心をおこすがゆへに、師匠名をさづけて、法然となづけ給ひし也。されば出離の心ざしいたりてふかゝりしあひだ、もろもろの敎法をⅥ-0608信じて、もろもろの行業を修す。およそ佛敎おほしといへども、詮ずるところ、戒定慧の三學をばすぎず。いはゆる小乘の戒定慧、大乘の戒定慧、顯敎の戒定慧、密敎の戒定慧なり。しかるにわがこの身は、戒行において一戒をもたもたず、禪定において一もこれをえず、智慧において斷惑證果の正智をえず。これによて戒行の人師釋していはく、「尸羅淸淨ならざれば、三昧現前せず」といへり。又凡夫の心は、物にしたがひてうつりやすし。たとふるに、さるのごとし。ま事に散亂してうごきやすく、一心しづまりがたし。无漏の正智、なにゝよりてかおこらんや。もし无漏の智劍なくは、いかでか惡業煩惱のきづなをたゝむや。惡業煩惱のきづなをたゝずは、なんぞ生死繫縛の身を解脫する事をえんや。かなしきかなかなしきかな、いかゞせんいかゞせん。こゝにわがごときは、すでに戒定慧の三學のうつわ物にあらず。この三學のほかに、わが心に相應する法門ありや、わが身にたへたる修行やあると、よろづの智者にもとめ、もろもろの學者にとぶらふしに、おしふる人もなく、しめすともがらもなし。しかるあひだ、なげきなげき經藏にいり、かなしみかなしみ聖敎にむかひて、てづからみづからひらきて見しに、善導和尙の『觀經の疏』(散善義)にいはく、「一心專念彌陀名號、行住坐臥不問時節久Ⅵ-0609近念念不捨者、是名正定之業、順彼佛願故」といふ文を見えてのち、われらがごとくの无智の身は、ひとへにこの文をあふぎ、もはらこのことはりをたのみて、念念不捨の稱名を修して、決定往生の業因にそなふべし。たゞ善導の遺敎を信ずるのみにあらず、又あつく彌陀の弘願に順ぜり。「順彼佛願故」の文ふかくたましゐにそみ、心にとゞめたる也。そのゝち、惠心の先德の『往生要集』(卷中)の文をひらくに、「往生之業念佛爲本」といひ、又惠心の『妙行業記』の文を見るに、「往生之業念佛爲先」といへり。覺超僧都、惠心僧都にとひての給はく、なんぢが所行の念佛は、これ事を行ずとやせん、これ理を行ずとやせんと。惠心僧都こたへての給はく、心萬境にさへぎる。こゝをもて、われたゞ稱名を行ずる也。往生の業には稱名もともたれり。これによて、一生中の念佛そのかずをかんがへたるに、二十倶胝遍也との給へり。しかればすなはち源空は、大唐の善導和尙のおしへにしたがひ、本朝の惠心の先德のすゝめにまかせて、稱名念佛のつとめ、長日六萬遍也。死期やうやくちかづくによて、又一萬遍をくわえて、長日七萬遍の行者なりと。W『徹選擇』にいでたりR (21) 禪勝房のいはく、上人おほせられていはく、今度の生に念佛して來迎にあづからⅥ-0610んうれしさよとおもひて、踊躍歡喜の心のおこりたらん人は、自然に三心は具足したりとしるべし。念佛申ながら後世をなげく程の人は、三心不具の人也。もし歡喜する心いまだおこらずは、漸漸によろこびならふべし。又念佛の相續せられん人は、われ三心具したりとしるべし。W『念佛問答集』にいでたりR (22) 又いはく、往生の得否はわが心にうらなへ。その占の樣は、念佛だにもひまなく申されば、往生は決定としれ。もし疎相にならば、順次の往生はかなふまじとしれ。この占をしてわが心をはげまし、三心の具すると具せざるとをもしるべし。[同『集』] (23) 又いはく、たとひ念佛せん物、十人あらんが中に九人は臨終あしくて往生せずとも、われ一人決定して念佛往生せんとおもふべし。[同『集』] (24) 又いはく、自身の罪惡をうたがひて往生を不定に思はんは、おほきなるあやまり也。さればとて、ふ〔て〕かゝりてわろからんとにはあらず。本願の手ひろく、不思議なる道理を心えんがため也。されば、念佛往生の義をふかくもかたくも申さん人は、つやつや本願の義をしらざる人と心うべし。源空が身も、檢校・別當どもが位にてぞ往生はせんずる、もとの法然房にては往生はえせじ。されば、としⅥ-0611ごろならひあつめたる智慧は、往生のためには要にもたつべからず。されども、ならひたりしかひには、かくのごとくしりたれば、はかりなき事也。[同『集』] (25) 又いはく、本願の念佛には、ひとりだちをせさせて助をさゝぬ也。助さす程の人は、極樂の邊地にむまる。すけと申すは、智慧をも助にさし、持戒をもすけにさし、道心をも助にさし、慈悲をもすけにさす也。それに善人は善人ながら念佛し、惡人は惡人ながら念佛して、たゞむまれつきのまゝにて念佛する人を、念佛にすけさゝぬとは申す也。さりながらも、惡をあらためて善人となりて念佛せん人は、ほとけの御心にかなふべし。かなはぬ物ゆへにと、あらんかゝらんとおもひて決定心おこらぬ人は、往生不定の人なるべし。[同『集』] (26) 又いはく、法爾道理といふ事あり。ほのをはそらにのぼり、みづはくだりさまにながる。菓子の中にすき物あり、あまき物あり。これらはみな法爾道理也。阿彌陀ほとけの本願は、名號をもて罪惡の衆生をみちびかんとちかひ給たれば、たゞ一向に念佛だにも申せば、佛の來迎は法爾道理にてそなはるべき也。[同『集』] (27) 又いはく、現世をすぐべき樣は、念佛の申されん樣にすぐべし。念佛のさまたげになりぬべくは、なになりともよろづをいとひすてゝ、これをとゞむべし。いはⅥ-0612く、ひじりて申されずは、めをまうけて申すべし。妻をまうけて申されずは、ひじりにて申すべし。住所にて申されずは、流行して申すべし。流行して申されずは、家にゐて申すべし。自力の衣食にて申されずは、他人にたすけられて申すべし。他人にたすけられて申されずは、自力の衣食にて申すべし。一人して申されずは、同朋とともに申すべし。共行して申されずは、一人籠居して申すべし。衣食住の三は、念佛の助業也。これすなはち、自身安穩にして念佛往生をとげんがためには、何事もみな念佛の助業也。三途へ返るべき事をする身をだにもすてがたければ、かへりみはぐゝむぞかし。まして往生程の大事をはげみて念佛申さん身をば、いかにもいかにもはぐゝみたすくべし。もし念佛の助業とおもはずして身を貪求するは、三惡道の業となる。極樂往生の念佛申さんがために自身を貪求するは、往生の助業となるべき也。萬事かくのごとしと。[同『集』] (28) 沙彌道遍かたりていはく、故上人おほせられていはく、往生のためには念佛第一なり、學問すべからず。たゞし念佛往生を信ぜん程は、これを學すべしと。W『宗要集』にいでたりR 御歌 (1) 阿彌陀佛と いふよりほかは つのくにの なにはの事も あしかりぬべし Ⅵ-0613(2) ちとせふる こまつのもとを すみかにて あみだほとけの むかへをぞまつ (3) いけのみづ 人の心に にたりけり にごりすむ事 さだめなければ (4) むまれては まづおもひてん ふるさとに ちぎりしともの ふかきま事を (5) あみだぶつと 申ばかりを つとめにて 淨土の莊嚴 見るぞうれしき (6) しばのとに あけくれかゝる しらくもを いつむらさきの いろと見なさん (7) つゆの身は こゝかしこにて きへぬとも こゝろはおなじ はなのうてなぞ (8) 阿彌陀佛と 十こゑとなへて まどろまん ながきねぶりに なりもこそすれ (9) 月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の こゝろにぞすむ 黑谷上人語燈錄卷第十五