Ⅴ-0005正信偈大意 抑この『正信偈』といふは、句のかず百二十、行のかず六十なり。これは三朝高祖の解釋によりて、粗一宗大綱の要義をのべましましけり。この偈のはじめ「歸命」といふより「无過斯」といふにいたるまでは、四十四句二十二行なり。これは『大經』のこゝろなり。「印度」已下の四句は、總じて三朝の祖師、淨土の敎をあらはすこゝろを標したまへり。また「釋迦」といふより偈のおはるまでは、これ七高祖の讚のこゝろなり。 問ていはく、「正信偈」といふは、これいづれの義ぞや。 こたへていはく、正といふは、傍に對し、邪に對し、雜に對することばなり。信といふは、疑に對し、また行に對することばなり。 「歸命无量壽如來」といふは、壽命の无量なる體なり、また唐土のことばなり。阿彌陀如來に南无したてまつれといふこゝろなり。「南无不可思議光」といふは、智惠の光明その德すぐれたまへるすがたなり。歸命无量壽如來といふは、すなⅤ-0006はち南无阿彌陀佛の體なりとしらせ、この南无阿彌陀佛とまふすは、こゝろをもてもはかるべからず、ことばをもちてときのぶべからず、この二の道理きはまりたるところを南无不可思議光とはまふしたてまつるなり。これを報身如來とまふすなり、これを盡十方無㝵光如來となづけたてまつるなり。この如來を方便法身とはまふすなり。方便とまふすは、かたちをあらはし、御名をしめして、衆生にしらしめたまふをまふすなり。すなはち阿彌陀佛なり。この如來は光明なり、智惠なり。智惠はひかりのかたちなり。智惠またかたちなければ不可思議光佛とまふすなり。この如來、十方微塵世界にみちみちたまへるがゆへに、无邊光佛とまふす。しかれば世親菩薩は「盡十方无㝵光如來」(淨土論)となづけたてまつりたまへり。さればこの如來に南无し歸命したてまつれば、攝取不捨のゆへに眞實報土の往生をとぐべきものなり。 「法藏菩薩因位時 在世自在王佛所 覩見諸佛淨土因 國土人天之善惡」といふは、世自在王佛とまふすは、彌陀如來のむかしの師匠の御事なり。しかればこの佛のみもとにして、二百一十億の諸佛の淨土のなかの善惡を覩見しましまして、そのなかにわろきをばゑらびすて、よきをばゑらびとりたまひて、わが淨土Ⅴ-0007としましますといへる心にてあるなり。 「建立无上殊勝願 超發希有大弘誓」といふは、諸佛淨土をえらびとりて西方極樂世界の殊勝の淨土を建立したまふがゆへに、超世希有の大願とも、橫超の大誓願ともまふすなり。 「五劫思惟之攝受」といふは、まづ一劫といふは、たかさ四十里ひろさ四十里の石を、天人の羽衣をもて、そのをもさ、ぜにのひとつの四の字一のけて三の字のをもさなるをきて、三年に一度下てこの石をなでゝは天にあがり、なでゝは天にあがり、なでつくせるを一劫といふなり。これを五なでつくすほど、阿彌陀佛のむかし法藏比丘とまふせしとき、思惟してやすきみのりをあらはして、十惡・五逆の罪人五障・三從の女人をも、もらさずみちびきて、淨土に往生せしめんとちかひましましけり。 「重誓名聲聞十方」といふは、彌陀如來佛道をなりましまさんに、名聲十方にきこえざるところなしといはゞ、われ正覺をならじとちかひましますといへるこゝろなり。 「普放无量无邊光」といふより「超日月光」といふにいたるまでは、これ十二光Ⅴ-0008佛の一々の御名なり。「无量光佛」といふは、利益の長遠なることをあらはす。過・現・未來にわたりてその限量なし、かずとしてさらにひとしきかずなきがゆへなり。「无邊光佛」といふは、照用の廣大なる德をあらはす。十方世界をつくしてさらに邊際なし、縁としててらさずといふことなきがゆへなり。「无㝵光佛」といふは、神光の障㝵なき相をあらはす。人法としてよくさふることなきがゆへなり。㝵にをひて内外の二障あり。外障といふは、山河大地・雲霧煙霞等なり。内障といふは、貪・瞋・癡・慢等なり。「光雲无㝵如虛空」(讚彌*陀偈)の德あれば、よろづの外障にさゑられず、「諸邪業繫无能㝵者」(定善義)のちからあれば、もろもろの内障にさえられず。かるがゆへに天親菩薩は「盡十方无㝵光如來」(淨土論)とほめたまへり。「无對光佛」といふは、ひかりとしてこれに相對すべきものなし。もろもろの菩薩のおよぶところにあらざるがゆへなり。「炎王光佛」といふは、または光炎王佛と號す。光明自在にして无上なるがゆへなり。『大經』(卷下)に「猶如火王燒滅一切煩惱薪故」ととけるは、このひかりの德を嘆ずるなり。火をもてたきゞをやくに、つくさずといふことなきがごとく、光明の智火をもて煩惱のたきゞをやくに、さらに滅せずといふことなし。三途黑闇の衆生も光照をⅤ-0009かうぶりて解脫をうるは、このひかりの益なり。「淸淨光佛」といふは、无貪の善根より生ず。かるがゆへにこのひかりをもて衆生の貪欲を治するなり。「歡喜光佛」といふは、无瞋の善根より生ず。かるがゆへにこのひかりをもて衆生の瞋恚を滅するなり。「智惠光佛」といふは、无癡の善根より生ず。かるがゆへにこのひかりをもて无明の闇を破するなり。「不斷光佛」といふは、一切のときに、ときとしててらさずといふことなし。三世常恆にして照益をなすがゆへなり。「難思光佛」といふは、神光相をはなれてなづくべきところなし。はるかに言語の境界にこゑたるがゆへなり。こゝろをもてはかるべからざれば「難思光佛」といひ、ことばをもてとくべからざれば「无稱光佛」と號す。『无量壽如來會』(卷上)には、難思光佛をば「不可思議光」となづけ、无稱光佛をば「不可稱量光」といへり。「超日月光佛」といふは、日月はたゞ四天下をてらして、かみ上天におよばず、しも地獄にいたらず。佛光はあまねく八方上下をてらして、障㝵するところなし。かるがゆへに日月にもこゑたり。さればこの十二光をはなちて十方微塵世界をてらして、衆生を利益したまふなり。 「一切群生蒙光照」といふは、あらゆる衆生、宿善あればみな光照の益にあづⅤ-0010かりたてまつるといへる心なり。 「本願名號正定業」といふは、第十七の願のこゝろなり。十方の諸佛にわが名をほめられんとちかひましまして、すでにその願成就したまへるすがたは、すなはちいまの本願の名號の體なり。これすなはちわれらが往生をとぐべき行體なりとしるべし。 「至心信樂願爲因 成等覺證大涅槃 必至滅度願成就」といふは、第十八の眞實の信心をうればすなはち正定聚に住す。そのうへに等正覺にいたり大涅槃を證することは、第十一の願の必至滅度の願成就したまふがゆへなり。これを平生業成とはまふすなり。されば正定聚といふは不退のくらゐなり、これはこの土の益なり。滅度といふは涅槃のくらゐなり、これはかの土の益なりとしるべし。『和讚』(高僧*和讚)にいはく、「願土にいたればすみやかに 无上涅槃を證してぞ すなはち大悲をおこすなり これを廻向となづけたり」といへり。これをもてこゝろうべし。 「如來所以興出世 唯說彌陀本願海 五濁惡時群生海 應信如來如實言」といふは、釋尊出世の元意は、たゞ彌陀の本願をときましまさんがために世にいでⅤ-0011たまへり。五濁惡時惡世界の衆生一向に彌陀の本願を信じたてまつれといへるこゝろなり。 「能發一念喜愛心」といふは、一念歡喜の信心のことなり。 「不斷煩惱得涅槃」といふは、願力の不思議なるゆへに、煩惱を斷ぜざれども、佛のかたよりはつゐに涅槃にいたるべき分にさだまるものなり。 「凡聖逆謗齊廻入 如衆水入海一味」といふは、凡夫も聖人も五逆も謗法も、ひとしく本願の大智海に廻入すれば、もろもろのみづのうみにいりて一味なるがごとしといへる心なり。 「攝取心光常照護 已能雖破无明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆眞實信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明无闇」といふは、彌陀如來、念佛の衆生を攝取したまふひかりはつねにてらしたまひて、すでによく无明の闇を破すといへども、貪欲と瞋恚とくも・きりのごとくして眞實信心の天におほへること、日光のあきらかなるを、くも・きりのおほふによりてかくすといへども、そのしたはあきらかなるがごとしといへり。 「獲信見敬大慶喜」といふは、法をきゝてわすれず、おほきによろこぶ人をば、Ⅴ-0012釋尊は「わがよき親友なり」(大經*卷下)とのたまへり。 「卽橫超截五惡趣」といふは、一念慶喜の心おこれば、願力不思議のゆへに、すなはちよこさまに自然として地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天のきづなをきるといへる心なり。 「一切善惡凡夫人 聞信如來弘誓願 佛言廣大勝解者 是人名分陀利華」といふは、一切の善人も惡人も、如來の本願を聞信すれば、釋尊はこのひとを「廣大勝解のひとなり」(如來會*卷下)といひ、また「分陀利華」(觀經)にたとへ、あるひは「上々人なり、希有人なり」(散善*義意)とほめたまへり。 「彌陀佛本願念佛 邪見憍慢惡衆生 信樂受持甚以難 難中之難无過斯」といふは、彌陀如來の本願の念佛をば、邪見のもの憍慢のものと惡人とは、眞實に信じたてまつることかたきがなかにかたきこと、これにすぎたるはなしといへるこころなり。 「印度西天之論家 中夏日域之高僧 顯大聖興世正意 明如來本誓應機」といふは、印度西天といふは天竺なり、中夏といふは唐土なり、日域といふは日本のことなり。この三國の祖師等念佛の一行をすゝめ、ことに釋尊出世の本懷は、たⅤ-0013だ彌陀の本願をあまねくときあらはして、末世の凡夫の機に應じたることをあかしましますといへるこゝろなり。 「釋迦如來楞伽山 爲衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有无見 宣說大乘无上法 證歡喜地生安樂」といふは、この龍樹菩薩は八宗の祖師、千部の論師なり。釋尊の滅後五百餘歲に出世したまふ。釋尊これをかねてしろしめして『楞伽經』(魏譯卷九總品意*唐譯卷六偈頌品意)にときたまはく、「南天竺國に龍樹といふ比丘あるべし。よく有无の邪見を破して大乘无上の法をときて、歡喜地を證して安樂に往生すべし」と未來記したまへり。 「顯示難行陸路苦 信樂易行水道樂」といふは、かの龍樹の『十住毗婆娑論』(卷五易*行品意)に念佛をほめたまふに、二種の道をたてたまふ。一には難行道、二には易行道なり。その難行道の修しがたきことをたとふるに、「陸地のみちをあゆぶがごとし」といへり。易行道の修しやすきことをたとふるに、「水のうへをふねにのりてゆくがごとし」といへり。 「憶念彌陀佛本願 自然卽時入必定」といふは、本願力の不思議を憶念するひとは、おのづから必定にいるべきものなりといへるこゝろなり。 Ⅴ-0014「唯能常稱如來號 應報大悲弘誓恩」といふは、眞實の信心を獲得せんひとは、行住坐臥に名號をとなへて、大悲弘誓の恩德を報じたてまつれといへるこゝろなり。 「天親菩薩造論說 歸命无㝵光如來」といふは、この天親菩薩も龍樹とおなじく千部の論師なり。佛滅後九百年にあたりて出世したまふ。『淨土論』一卷をつくりてあきらかに三經の大意をのべ、もはら无㝵光如來に歸命したてまつりたまへり。 「依修多羅顯眞實 光闡橫超大誓願 廣由本願力廻向 爲度群生彰一心」といふは、この菩薩、大乘經によりて眞實をあらわす。その眞實といふは念佛なり。橫超の大誓願をひらきて、本願の廻向によりて群生を濟度せんがために、論主も一心に无㝵光に歸命し、おなじく衆生も一心にかの如來に歸命せよとすゝめたまへり。 「歸入功德大寶海 必獲入大會衆數」といふは、大寶海といふは、よろづの衆生をきらはず、さはりなく、へだてず、みちびきたまふを、大海のみづのへだてなきにたとへたり。この功德の大寶海に歸入すれば、かならず彌陀大會のかずにいⅤ-0015るといへるこゝろなり。 「得至蓮華藏世界 卽證眞如法性身」といふは、蓮華藏世界といふは安養世界のことなり。かの土にいたりてはすみやかに眞如法性の身をうべきものなりといふこゝろなり。 「遊煩惱林現神通 入生死園示應化」といふは、これは還相廻向のこゝろなり。彌陀の淨土にいたりなば、娑婆にもまたたちかへり、神通自在をもて、こころにまかせて衆生をも利益せしむべきものなり。 「本師曇鸞梁天子 常向鸞處菩薩禮」といふは、曇鸞大師はもとは四論宗のひとなり。四論といふは、三論に『智論』をくはふるなり。三論といふは、一には『中論』、二には『百論』、三には『十二門論』なり。和尙はこの四論に通達しましましけり。さるほどに梁國の天子蕭王は御信仰ありて、おはせしかたにつねにむかひて、曇鸞菩薩とぞ禮しましましけり。 「三藏流支授淨敎 焚燒仙經歸樂邦」といふは、かの曇鸞大師、はじめは四論宗にておはせしが、佛法のそこをならいきはめたりといふとも、いのちみじかくはたすくることいくばくならんとて、陶隱居といふひとにあふて、まづ長生不Ⅴ-0016死の法をならひぬ。すでに三年のあひだ仙人のところにしてならひえてかへりたまふ。そのみちにて菩提流支とまふす三藏にゆきあひてのたまはく、佛法のなかに長生不死の法はこの土の仙經にすぐれたる法やあるととひたまへば、三藏地につばきをはきていはく、この方にはいづくのところにか長生不死の法あらん。たとひ長年をえてしばらく死せずとも、つゐに三有に輪廻すべしといひて、すなはち淨土の『觀无量壽經』をさづけていはく、これこそまことの長生不死の法なり。これによりて念佛すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちをうべしとのたまへば、曇鸞これをうけとりて、仙經十卷をたちまちにやきすてゝ、一向に淨土に歸したまひたり。 「天親菩薩論註解 報土因果顯誓願」といふは、かの鸞師、天親菩薩の『淨土論』に『註解』(論註)といふふみをつくりて、くはしく極樂の因果一々の誓願をあらはしたまへり。 「往還廻向由他力 正定之因唯信心」といふは、往相・還相の二種の廻向は、凡夫としては更におこさゞるものなり、ことごとく如來の他力よりおこさしめられたり。正定之因は信心をおこさしむるによれるものなりとなり。 Ⅴ-0017「惑染凡夫信心發 證知生死卽涅槃」といふは、一念の信心おこりぬれば、いかなる惑染の機なりといふとも、不可思議の法なるがゆへに、生死はすなはち涅槃なりといへるこゝろなり。 「必至无量光明土 諸有衆生皆普化」といふは、聖人、彌陀の眞土をさだめたまふとき、「佛はこれ不可思議光、土はまた无量光明土なり」(眞佛土*卷意)といへり。かの土にいたりなば穢土にたちかへりて、あらゆる有情を化すべしとなり。 「道綽決聖道難證 唯明淨土可通入」といふは、この道綽はもとは涅槃宗の學者なり。曇鸞和尙の面授の弟子にあらず、その時代一百餘歲をへだてたり。しかれども幷州玄忠寺にして曇鸞の碑の文をみて、淨土に歸したまひしゆへにかの弟子たり。これまた涅槃の廣業をさしおきて、ひとへに西方の行をひろめたまひき。されば聖道は難行なり、淨土は易行なるがゆへに、たゞ當今の凡夫は淨土の一門のみ通入すべきみちなりとをしへたまへり。 「萬善自力貶勤修 圓滿德號勸專稱」といふは、萬善は自力の行なるがゆへに、末代の機、修行することかなひがたしといへり。圓滿の德號は他力の行なるがゆへに末代の機には相應せりといふ心なり。 Ⅴ-0018「三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引」といふは、道綽禪師、三不三信といふことを釋したまへり。「一には信心あつからず、若存若亡するゆへに。二には信心一ならず、いはく決定なきゆへなれば。三には信心相續せずと、いはく餘念間故なるゆへに」(安樂集*卷上)といへり。かくのごとくねんごろにをしへたまひて、像法・末法の衆生をおなじくあはれみましましけり。 「一生造惡値弘誓 至安養界證妙果」といふは、彌陀の弘誓にまふあひたてまつるによりて、一生造惡の機も安養界にいたればすみやかに无上の妙果を證すべきなりといへる心なり。 「善導獨明佛正意 矜哀定散與逆惡」といふは、淨土門の祖師そのかずこれおほしといへども、善導にかぎりひとり佛證をこふて、あやまりなく佛の正意をあかしたまへり。されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふ心なり。 「光明名號顯因縁」といふは、彌陀如來の四十八願のなかに、第十二の願は、わがひかりきはなからんとちかひたまへり、これすなはち念佛の衆生を攝取のためなり。かの願すでに成就してあまねく无㝵のひかりをもて十方微塵世界をⅤ-0019てらしたまひて、衆生の煩惱惡業を長時にてらしまします。さればこのひかりの縁にあふ衆生、やうやく无明の昏闇うすくなりて宿善のたねきざすとき、まさしく報土にむまるべき第十八の念佛往生の願因の名號をきくなり。しかれば名號執持することさらに自力にあらず、ひとへに光明にもよほさるゝによりてなり。このゆへに光明の縁にきざゝれて名號の因はあらはるといふこゝろなり。 「開入本願大智海 行者正受金剛心」といふは、本願の大海にいりぬれば眞實の金剛心をうけしむといふこゝろなり。 「慶喜一念相應後 與韋提等獲三忍 卽證法性之常樂」といふは、一心念佛の行者、一念慶喜の信心さだまりぬれば、韋提希夫人とひとしく喜・悟・信の三忍をうべきなり。喜・悟・信の三忍といふは、一には喜忍、二には悟忍、三には信忍なり。喜忍といふは、これ信心歡喜の得益をあらはすこゝろなり。悟忍といふは、佛智をさとるこゝろなり。信忍といふは、すなはちこれ信心成就のすがたなり。しかれば、韋提はこの三忍の益をゑたまへるなり。これによりて眞實信心を具足せんひとは、韋提希夫人にひとしく三忍をえて、すなはち法性の常樂を證すべきものなり。 Ⅴ-0020「源信廣開一代敎 偏歸安養勸一切」といふは、楞嚴の和尙は、ひろく釋迦一代の敎をひらきて、もはら念佛をえらんで、一切衆生をして西方の往生をすゝめしめたまへり。 「專雜執心判淺深 報化二土正辨立」といふは、雜行雜修の機をすてやらず執心をあるひとは、かならず化土懈慢國に生ずるなり。また專修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極樂國に生ずべしとなり。これすなはち專雜二修の淺深を判じたまへるこゝろなり。『和讚』(高僧*和讚)にいはく、「報の淨土の往生は おほからずとぞあらはせる 化土にむまるゝ衆生をば すくなからずとをしへたり」といへるはこのこゝろなりとしるべし。 「極重惡人唯稱佛」といふは、「極重の惡人は他の方便なし、ただ彌陀を稱して極樂に生ずることをえよ」(要集*卷下)といへる文のこころなり。 「我亦在彼攝取中 煩惱障眼雖不見 大悲无倦常照我」といふは、眞實信心のゑたるひとは、身は娑婆にあれどもかの攝取の光明のなかにあり。しかども煩惱にまなこをさえられておがみたてまつらずといへども、彌陀如來はものうきことなくして、つねにわが身をてらしましますといへるこゝろなり。 Ⅴ-0021「本師源空明佛敎 憐愍善惡凡夫人」といふは、日本には念佛の祖師そのかずこれおほしといへども、法然聖人のごとく一天にあまねくあをがれたまふひとはなきなり。これすなはち佛敎にあきらかなりしゆへなり。されば彌陀の化身といひ、また勢至の來現といひ、また善導の再誕ともいへり。かゝる明師にてましますがゆへに、われら善惡の凡夫人をあはれみたまひて淨土にすゝめいれしめたまひけるものなり。 「眞宗敎證興片州 選擇本願弘惡世」といふは、かの聖人我朝にはじめて淨土宗をたてたまひて、また『選擇集』といふふみをつくりましまして、惡世にあまねくひろめしめたまへり。 「還來生死輪轉家 決以疑情爲所止 速入寂靜无爲樂 必以信心爲能入」といふは、生死輪轉の家といふは、六道輪廻のことなり。このふるさとへかへることは疑情のあるによりてなり。また寂靜无爲の淨土へいたることは信心のあるによりてなり。されば『選擇集』にいはく、「生死のいゑにはうたがひをもて所止とし、涅槃のみやこには信をもて能入とす」といへるはこのこゝろなり。 「弘經大士宗師等 拯濟无邊極濁惡 道俗時衆共同心 唯可信斯高僧說」といⅤ-0022ふは、弘經大士といふは、天竺・震旦・我朝の菩薩・祖師等のことなり。かの人師、未來の極濁惡のわれらをあはれみすくひたまはんとて出生したまへり。しかれば道俗等、みなかの三國の高祖の說を信じたてまつるべきものなり。さればわれらが眞實報土の往生をおしへたまふことは、しかしながらこの祖師等の御恩にあらずといふことなし。よくよく報恩謝德したてまつるべきものなり。 右此正信偈の大意は、金の森の道西、一身して才學のために連々そののぞみこれありといへども、予いさゝかその才學なきあひだ、かたく斟酌をくはふるところに、しきりに所望のむねさりがたきによりて、文言のいやしきをかへりみず、また義理の次第をもいはず、たゞ願主の命にまかせて、ことばをやはらげ、これをしるしあたふべきよし、その所望あるあひだ、わたくしにこれをしるすところなり。あへて外見あるべからざるものなり。