Ⅴ-0069御文章 (一) 或人いはく、當流のこゝろは、門徒をばかならずわが弟子とこゝろえをくべく候やらん、如來・聖人の御弟子とまうすべく候やらん、その分別を存知せず候。また在々所々に小門徒をもちて候をも、このあひだは手次の坊主にはあひかくしをき候やうに心中をもちて候。これもしかるべくもなきよし、人のまうされ候あひだ、おなじくこれも不審千萬に候。御ねんごろにうけたまはりたく候。 答ていはく、この不審もとも肝要とこそ存じ候へ。かたのごとく耳にとゞめをき候分、まうしのぶべし。きこしめされ候へ。 故聖人のおほせには、「親鸞は弟子一人ももたず」とこそおほせられ候ひつれ。そのゆへは如來の敎法を十方衆生にとききかしむるときは、たゞ如來の御代官をまうしつるばかりなり。さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如來の敎法をわれも信じ、ひとにもをしへきかしむるばかりなり。そのほかはなにををしへてⅤ-0070弟子といはんぞとおほせられつるなり。さればとも同行なるべきものなり。これによりて聖人は御同朋・御同行とこそ、かしづきておほせられけり。さればちかごろは大坊主分の人も、われは一流の安心の次第をもしらず、たまたま弟子のなかに信心の沙汰する在所へゆきて聽聞し候人をば、ことのほか說諫をくはへ候て、あるひはなかをたがひなんどせられ候あひだ、坊主もしかしかと信心の一理をも聽聞せず、また弟子をばかやうにあひさゝへ候あひだ、われも信心決定せず、弟子も信心決定せずして、一生はむなしくすぎゆくやうに候こと、まことに自損損他のとがのがれがたく候。あさましあさまし。古歌にいはく、 うれしさを むかしはそでに つゝみけり こよひは身にも あまりぬるかな 「うれしさをむかしはそでにつゝむ」といへるこゝろは、むかしは雜行・正行の分別もなく、念佛だにも申せば、往生するとばかりおもひつるこゝろなり。「こよひは身にもあまる」といへるは、正雜の分別をきゝわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに佛恩報盡のために念佛まうすこゝろは、おほきに各別なり。かるがゆへに身のをきどころもなく、おどりあがるほどにおもふあひだ、よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこゝろなり。あなかしこ、あなかしこ。 Ⅴ-0071文明三年七月十五日 (二) 當流親鸞聖人の一義は、あながちに出家發心のかたちを本とせず、捨家棄欲のすがたを標せず、たゞ一念歸命の他力の信心を決定せしむるときは、さらに男女老少をえらばざるものなり。さればこの信をえたるくらゐを、『經』(大經*卷下)には「卽得往生住不退轉」ととき、釋には「一念發起入正定之聚」(論註*卷上意)ともいへり。これすなはち不來迎の談、平生業成の義なり。 『和讚』(高僧*和讚)にいはく、「彌陀の報土をねがふひと 外儀のすがたはことなりと 本願名號信受して 寤寐にわするゝことなかれ」といへり。「外儀のすがた」といふは、在家・出家、男子・女人をえらばざるこゝろなり。つぎに「本願名號信受して寤寐にわするゝことなかれ」といふは、かたちはいかやうなりといふとも、又つみは十惡・五逆・謗法・闡提のともがらなれども、廻心懺悔して、ふかくかゝるあさましき機をすくひまします彌陀如來の本願なりと信知して、ふたごゝろなく如來をたのむこゝろの、ねてもさめても憶念の心つねにしてわすれざⅤ-0072るを、本願たのむ決定心をえたる信心の行人とはいふなり。さてこのうへには、たとひ行住坐臥に稱名すとも、彌陀如來の御恩を報じまうす念佛なりとおもふべきなり。これを眞實信心をえたる決定往生の行者とはまうすなり。あなかしこ、あなかしこ。 あつき日に ながるゝあせは なみだかな かきをくふでの あとぞをかしき 文明三年七月十八日 (三) まづ當流の安心のをもむきは、あながちにわがこゝろのわろきをも、また妄念妄執のこゝろのをこるをも、とゞめよといふにもあらず、たゞあきなひをもし、奉公をもせよ、獵・すなどりをもせよ。かゝるあさましき罪業にのみ朝夕まどひぬる我等ごときのいたづらものを、たすけんとちかひまします彌陀如來の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごゝろなく彌陀一佛の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこゝろの一念の信まことなれば、かならず如來の御たすけにあづかるものなり。このうへにはなにとこゝろえて念佛まうすべきぞなれば、Ⅴ-0073往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念佛まうすべきなり。これを當流の安心決定したる信心の行者とはまうすべきなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明三年十二月十八日 (四) 抑親鸞聖人の一流にをひては、平生業成の儀にして來迎をも執せられさふらはぬよし、うけたまはりをよびさふらふは、いかゞはんべるべきや。その平生業成とまうすことも、不來迎なんどの儀をも、さらに存知せず。くはしく聽聞つかまつりたくさふらふ。 答ていはく、まことにこの不審もとももて一流の肝要とおぼえさふらふ。おほよそ當家には、一念發起平生業成と談じて、平生に彌陀如來の本願の我等をたすけたまふことはりをきゝひらくことは、宿善の開發によるがゆへなりとこゝろえてのちは、わがちからにてはなかりけり、佛智他力のさづけによりて本願の由Ⅴ-0074來を存知するものなりとこゝろうるが、すなはち平生業成の儀なり。されば平生業成といふは、いまのことはりをきゝひらきて往生治定とおもひさだむるくらゐを、一念發起住正定聚とも、平生業成とも、卽得往生住不退轉ともいふなり。 問ていはく、一念往生發起の儀、くはしくこゝろえられたり。しかれども不來迎の儀いまだ分別せずさふらふ。ねんごろにしめしうけたまはるべくさふらふ。 答ていはく、不來迎のことも、一念發起住正定聚と沙汰せられさふらふときは、さらに來迎を期しさふらふべきこともなきなり。そのゆへは來迎を期するなんどまうすことは、諸行の機にとりてのことなり。眞實信心の行者は、一念發起するところにて、やがて攝取不捨の光益にあづかるときは、來迎までもなきなりとしらるゝなり。されば聖人のおほせには、「來迎は諸行往生にあり。眞實信心の行人は、攝取不捨のゆへに正定聚に住す。正定聚に住するがゆへに、かならず滅度にいたる。かるがゆへに臨終まつことなし、來迎たのむことなし」(古寫消*息四意)といへり。この御ことばをもてこゝろうべきものなり。 問ていはく、正定と滅度とは一益とこゝろうべきか、また二益とこゝろうべきⅤ-0075や。 答ていはく、一念發起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。つぎに滅度は淨土にてうべき益にてあるなりとこゝろうべきなり。されば二益なりとおもふべきものなり。 問ていはく、かくのごとくこゝろえさふらふときは、往生は治定と存じをきさふらふに、なにとてわづらはしく信心を具すべきなんど沙汰さふらふは、いかゞこゝろえはんべるべきや。これもうけたまはりたくさふらふ。 答ていはく、まことにもてこのたづねのむね肝要なり。さればいまのごとくにこゝろえさふらふすがたこそ、すなはち信心決定のこゝろにてさふらふなり。 問ていはく、信心決定するすがた、すなはち平生業成と不來迎と正定聚との道理にてさふらふよし、分明に聽聞つかまつりさふらひをはりぬ。しかりといへども信心治定してののちには、自身の往生極樂のためとこゝろえて念佛まうしさふらふべきか、また佛恩報謝のためとこゝろうべきや、いまだそのこゝろをえずさふらふ。 答ていはく、この不審また肝要とこそおぼえさふらへ。そのゆへは一念の信心發Ⅴ-0076得已後の念佛をば、自身往生の業とはおもふべからず、たゞひとへに佛恩報謝のためとこゝろえらるべきものなり。されば善導和尙の「上盡一形下至一念」(禮讚意)と釋せり。「下至一念」といふは信心決定のすがたなり、「上盡一形」は佛恩報盡の念佛なりときこえたり。これをもてよくよくこゝろえらるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明四年十一月廿七日 (五) 抑當年より事外、加州・能登・越中、兩三ケ國の間より道俗男女群集をなして、此吉崎の山中に參詣せらるゝ面々の心中のとほり、いかゞと心元なく候。そのゆへはまづ當流のをもむきは、このたび極樂に往生すべきことはりは、他力の信心をえたるがゆへなり。しかれども此一流のうちにをひて、しかしかとその信心のすがたをもえたる人これなし。かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや、一大事といふはこれなり。幸に五里十里の遠路をしのぎ、この雪の中に參詣のこゝろざしは、いかやうにこゝろえられたる心Ⅴ-0077中ぞや。千萬心元なき次第なり。所詮已前はいかやうの心中にてありといふとも、これよりのちは心中にこゝろえをかるべき次第をくはしく申すべし。よくよくみゝをそばだてゝ聽聞あるべし。そのゆへは他力の信心といふ事をしかと心中にたくはへられ候て、そのうへには佛恩報謝のためには行住坐臥に念佛を申さるべきばかりなり。このこゝろえにてあるならば、このたびの往生は一定なり。このうれしさのあまりには、師匠坊主の在所へもあゆみをはこび、こゝろざしをもいたすべきものなり。これすなはち當流の儀をよくこゝろえたる信心の人とは申べきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明五年二月八日 (六) 抑當年の夏このごろは、なにとやらんことのほか睡眠におかされて、ねむたくさふらふはいかんと案じさふらへば、不審もなく往生の死期もちかづくかとおぼえ候。まことにもてあぢきなく名殘おしくこそさふらへ。さりながら今日までも、往生の期もいまやきたらんと由斷なくそのかまへはさふらふ。それにつけⅤ-0078ても、この在所にをひて已後までも信心決定するひとの退轉なきやうにもさふらへかしと、念願のみ晝夜不斷におもふばかりなり。この分にては往生つかまつりさふらふとも、いまは子細なくさふらふべきに、それにつけても面々の心中もことのほか由斷どもにてこそはさふらへ。命のあらんかぎりは、われらはいまのごとくにてあるべく候。よろづにつけて、みなみなの心中こそ不足に存じさふらへ。明日もしらぬいのちにてこそ候に、なにごとをまうすもいのちをはりさふらはゞ、いたづらごとにてあるべく候。いのちのうちに不審もとくとくはれられさふらはでは、さだめて後悔のみにてさふらはんずるぞ、御こゝろえあるべく候。あなかしこ、あなかしこ。 この障子のそなたの人々のかたへまいらせさふらふ。のちの年にとりいだして御覽候へ。 文明五年卯月廿五日書之 (七) さんぬる文明第四の曆、彌生中半のころかとおぼえはんべりしに、さもありぬらⅤ-0079んとみえつる女姓一二人、おとこなんどあひ具したるひとびと、この山のことを沙汰しまうしけるは、そもそもこのごろ吉崎の山上に一宇の坊舍をたてられて、言語道斷おもしろき在所かなとまうしさふらふ。なかにもことに、加賀・越中・能登・越後・信濃・出羽・奧州七ケ國より、かの門下中、この當山へ道俗男女參詣をいたし、群集せしむるよし、そのきこえかくれなし。これ末代の不思議なり、たゞごとともおぼえはんべらず。さりながらかの門徒の面々には、さても念佛法門をばなにとすゝめられさふらふやらん。とりわけ信心といふことをむねとをしへられさふらふよし、ひとびとまうし候なるは、いかやうなることにて候やらん。くはしくきゝまいらせて、われらもこの罪業深重のあさましき女人の身をもちてさふらへば、その信心とやらんをきゝわけまいらせて往生をねがひたく候よしを、かの山中のひとにたづねまうしてさふらへば、しめしたまへるをもむきは、なにのやうもなく、たゞわが身は十惡・五逆、五障・三從のあさましきものぞとおもひて、ふかく阿彌陀如來はかゝる機をたすけまします御すがたなりとこゝろえまいらせて、ふたごゝろなく彌陀をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこゝろの一念をこるとき、かたじけなくも如來は八萬四千の光Ⅴ-0080明をはなちて、その身を攝取したまふなり。これを彌陀如來の念佛の行者を攝取したまふといへるはこのことなり。攝取不捨といふは、おさめとりてすてたまはずといふこゝろなり。このこゝろを信心をえたる人とはまうすなり。さてこのうへには、ねてもさめてもたてもゐても、南无阿彌陀佛とまうす念佛は、彌陀にはやたすけられまいらせつるかたじけなさの彌陀の御恩を、南无阿彌陀佛ととなへて報じまうす念佛なりとこゝろうべきなりとねんごろにかたりたまひしかば、この女人たち、そのほかのひと、まうされけるは、まことにわれらが根機にかなひたる彌陀如來の本願にてましまし候をも、いまゝで信じまいらせさふらはぬことのあさましさ、まうすばかりもさふらはず。いまよりのちは一向に彌陀をたのみまいらせて、ふたごゝろなく一念にわが往生は如來のかたより御たすけありけりと信じたてまつりて、そののちの念佛は佛恩報謝の稱名なりとこゝろえ候べきなり。かゝる不思議の宿縁にあひまいらせて、殊勝の法をきゝまいらせ候ことのありがたさたふとさ、なかなかまうすばかりもなくおぼえはんべるなり。いまははやいとままうすなりとて、なみだをうかめてみなみなかへりにけり。あなかしこ、あなかしこ。 Ⅴ-0081文明五年八月十二日 (八) 文明第三初夏上旬のころより、江州志賀郡大津三井寺南別所邊より、なにとなく不圖しのびいでゝ、越前・加賀諸所を經廻せしめをはりぬ。よて當國細呂宜郷内吉崎といふこの在所、すぐれておもしろきあひだ、年來虎狼のすみなれしこの山中をひきたいらげて、七月廿七日よりかたのごとく一宇を建立して、昨日今日とすぎゆくほどに、はや三年の春秋はをくりけり。さるほどに道俗男女群集せしむといへども、さらになにへんともなき體なるあひだ、當年より諸人の出入をとゞむるこゝろは、この在所に居住せしむる根元はなにごとぞなれば、そもそも人界の生をうけてあひがたき佛法にすでにあへる身が、いたづらにむなしく捺落にしづまんは、まことにもてあさましきことにはあらずや。しかるあひだ念佛の信心を決定して極樂の往生をとげんとおもはざらん人々は、なにしにこの在所へ來集せんことかなふべからざるよしの成敗をくはへをはりぬ。これひとへに名聞・利養を本とせず、たゞ後生菩提をことゝするがゆへなり。しかれⅤ-0082ば見聞の諸人、偏執をなすことなかれ。あなかしこ、あなかしこ。 文明五年九月 日 (九) 抑當宗を、昔より人こぞりてをかしくきたなき宗とまうすなり。これまことに道理のさすところなり。そのゆへは當流人數のなかにをひて、あるひは他門・他宗に對してはゞかりなく我家の義を申しあらはせるいはれなり。これおほきなるあやまりなり。それ當流のおきてをまもるといふは、我流につたふるところの義をしかと内心にたくはへて、外相にそのいろをあらはさぬを、よくものにこゝろえたる人とはいふなり。しかるに當世は我宗のことを、他門・他宗にむかひて、その斟酌もなく聊爾に沙汰するによりて、當流を人のあさまにおもふなり。かやうにこゝろえのわろきひとのあるによりて、當流をきたなくいまはしき宗と人おもへり。さらにもてこれは他人わろきにはあらず、自流の人わろきによるなりとこゝろうべし。つぎに物忌といふことは、我流には佛法についてものいまはぬといへることなり。他宗にも公方にも對しては、などか物をいまざらんや。他Ⅴ-0083宗・他門にむかひてはもとよりいむべきこと勿論なり。又よその人の物いむといひてそしることあるべからず。しかりといへども佛法を修行せんひとは、念佛者にかぎらず、物さのみいむべからずとあきらかに諸經の文にもあまたみえたり。まづ『涅槃經』(北本卷二〇梵行品*南本卷一八梵行品)にのたまはく、「如來法中无有選擇吉日良辰」といへり。この文のこゝろは、如來の法のなかに吉日良辰をえらぶことなしとなり。又『般舟經』(一卷本*四輩品)にのたまはく、「優婆夷聞是三昧欲學者W乃至R自歸命佛歸命法歸命比丘僧不得事餘道不得拜於天不得祠鬼神不得視吉良日」W已上Rいへり。この文のこゝろは、優婆夷この三昧をきゝてまなばんと欲せんものは、みづから佛に歸命し、法に歸命せよ、比丘僧に歸命せよ、餘道につかふることをえざれ、天を拜することをえざれ、鬼神をまつることをえざれ、吉良日をみることをえざれといへり。かくのごとくの經文どもこれありといへども、此分をいだすなり。ことに念佛行者はかれらにつかふべからざるやうにみえたり、よくよくこゝろうべし。あなかしこ、あなかしこ。 文明五年九月 日 Ⅴ-0084(一〇) 抑吉崎の當山にをひて多屋の坊主達の内方とならんひとは、まことに先世の宿縁あさからぬゆへとおもひはんべるべきなり。それも後生を一大事とおもひ、信心も決定したらん身にとりてのうへのことなり。しかれば内方とならんひとびとは、あひかまへて信心をよくよくとらるべし。それまづ當流の安心とまうすことは、おほよそ淨土一家のうちにをひて、あひかはりてことにすぐれたるいはれあるがゆへに、他力の大信心とまうすなり。さればこの信心をえたるひとは、十人は十人ながら百人は百人ながら、今度の往生は一定なりとこゝろうべきものなり。その安心とまうすは、いかやうにこゝろうべきことやらん、くはしくもしりはんべらざるなり。 こたへていはく、まことにこの不審肝要のことなり。おほよそ當流の信心をとるべきをもむきは、まづわが身は女人なれば、つみふかき五障・三從とてあさましき身にて、すでに十方の如來も三世の諸佛にもすてられたる女人なりけるを、かたじけなくも彌陀如來ひとりかゝる機をすくはんとちかひたまひて、すでに四十八願ををこしたまへり。そのうち第十八の願にをひて、一切の惡人・女人をⅤ-0085たすけたまへるうへに、なを女人はつみふかくうたがひのこゝろふかきによりて、またかさねて第卅五の願になを女人をたすけんといへる願ををこしたまへるなり。かゝる彌陀如來の御苦勞ありつる御恩のかたじけなさよと、ふかくおもふべきなり。 問ていはく、さてかやうに彌陀如來のわれらごときのものをすくはんと、たびたび願ををこしたまへることのありがたさをこゝろえわけまいらせさふらひぬるについて、なにとやうに機をもちて、彌陀をたのみまいらせさふらはんずるやらん、くはしくしめしたまふべきなり。 こたへていはく、信心をとり彌陀をたのまんとおもひたまはゞ、まづ人間はたゞゆめまぼろしのあひだのことなり、後生こそまことに永生の樂果なりとおもひとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、もろもろの雜行をこのむこゝろをすて、あるひはまたものゝいまはしくおもふこゝろをもすて、一心一向に彌陀をたのみたてまつりて、そのほか餘の佛・菩薩・諸神等にもこゝろをかけずして、たゞひとすぢに彌陀に歸して、このたびの往生は治定なるべしとおもはゞ、そのありがたさのあまり念佛をまうしⅤ-0086て彌陀如來のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつるべきなり。これを信心をえたる多屋の坊主達の内方のすがたとはまうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明五年九月十一日 (一一) それおもんみれば、人間はたゞ電光朝露のゆめまぼろしのあひだのたのしみぞかし。たとひまた榮華榮耀にふけりて、おもふさまのことなりといふとも、それはたゞ五十年乃至百年のうちのことなり。もしたゞいまも无常のかぜきたりてさそひなば、いかなる病苦にあひてかむなしくなりなんや。まことに死せんときは、かねてたのみをきつる妻子も財寶も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばたゞひとりこそゆきなんずれ。これによりてたゞふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは彌陀如來なり、信心決定してまいるべきは安養の淨土なりとおもふべきなり。これについてちかごろはこの方の念佛者の坊主達、佛法の次第もてのほか相違す。そのゆⅤ-0087へは門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとゝいへり、これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり、これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにをひて、さらに當流の信心のこゝろえの分はひとつもなし。まことにあさましや、師・弟子ともに極樂には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがひなし。なげきてもなをあまりあり、かなしみてもなをふかくかなしむべし。しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、信心決定して、その信心のをもむきを弟子にもをしへて、もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明五年九月中旬 (一二) 抑年來超勝寺の門徒にをひて、佛法の次第もてのほか相違せり。そのいはれは、まづ座衆とてこれあり。いかにもその座上にあがりて、さかづきなんどまでⅤ-0088もひとよりさきにのみ、座中のひとにもまたそのほかたれたれにも、いみじくおもはれんずるが、まことに佛法の肝要たるやうに心中にこゝろえをきたり。これさらに往生極樂のためにあらず、たゞ世間の名聞ににたり。しかるに當流にをひて每月の會合の由來はなにの用ぞなれば、在家无智の身をもて、いたづらにくらしいたづらにあかして、一期はむなしくすぎてつゐに三途にしづまん身が、一月に一度なりともせめて念佛修行の人數ばかり道場にあつまりて、わが信心は、ひとの信心は、いかゞあるらんといふ信心沙汰をすべき用の會合なるを、ちかごろはその信心といふことはかつて是非の沙汰にをよばざるあひだ、言語道斷あさましき次第なり。所詮自今已後は、かたく會合の座中にをひて信心の沙汰をすべきものなり。これ眞實の往生極樂をとぐべきいはれなるがゆへなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明五年九月下旬 (一三) 抑ちかごろはこの方念佛者のなかにをひて、不思議の名言をつかひて、これこⅤ-0089そ信心をえたるすがたよといひて、しかもわれは當流の信心をよくしりがほの體に心中にこゝろえをきたり。そのことばにいはく、十劫正覺のはじめより、われらが往生をさだめたまへる彌陀の御恩をわすれぬが信心ぞといへり、これおほきなるあやまりなり。そも彌陀如來の正覺をなりたまへるいはれをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずはいたづらごとなり。しかれば向後にをひては、まづ當流の眞實信心といふことをよくよく存知すべきなり。その信心といふは、『大經』には三信ととき、『觀經』には三心といひ、『阿彌陀經』には一心とあらはせり。三經ともにその名かはりたりといへども、そのこゝろはたゞ他力の一心をあらはせるこゝろなり。されば信心といへるそのすがたはいかやうなることぞといへば、まづもろもろの雜行をさしをきて、一向に彌陀如來をたのみたてまつりて、自餘の一切の諸神・諸佛等にもこゝろをかけず、一心にもはら彌陀に歸命せば、如來は光明をもてその身を攝取してすてたまふべからず。これすなはちわれらが一念の信心決定したるすがたなり。かくのごとくこゝろえてののちは、彌陀如來の他力の信心をわれらにあたへたまへる御恩を報じたてまつる念佛なりとこゝろうべし。これをもて信心Ⅴ-0090決定したる念佛の行者とはまうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明第五 九月下旬比書之[云々] (一四) 抑當流念佛者のなかにをひて、諸法を誹謗すべからず。まづ越中・加賀ならば、立山・白山そのほか諸山寺なり。越前ならば、平泉寺・豐原寺等なり。されば『經』(大經卷上*・卷下)にも、すでに「唯除五逆誹謗正法」とこそこれをいましめられたり。これによりて念佛者はことに諸宗を謗ずべからざるものなり。また聖道諸宗の學者達も、あながちに念佛者をば謗ずべからずとみえたり。そのいはれは、經釋ともにその文これおほしといへども、まづ八宗の祖師龍樹菩薩の『智論』(大智度論*卷一初品)にふかくこれをいましめられたり。その文にいはく、「自法愛染故 毀呰他人法 雖持戒行人 不免地獄苦」といへり。かくのごとくの論判分明なるときは、いづれも佛說なり、あやまりて謗ずることなかれ。それみな一宗一宗のことなれば、わがたのまぬばかりにてこそあるべけれ。ことさら當流のなかにをひてなにの分別もなきもの、他宗をそしること勿體なき次第なり。あひかまへてあひかまへてⅤ-0091一所の坊主分たるひとは、この成敗をかたくいたすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明五年九月下旬 (一五) 問ていはく、當流をみな世間に流布して一向宗となづけ候は、いかやうなる子細にて候やらん、不審におぼえ候。 答ていはく、あながちに我流を一向宗となのることは、別して祖師もさだめられず、おほよそ阿彌陀佛を一向にたのむによりて、みな人のまうしなすゆへなり。しかりといへども經文に「一向專念无量壽佛」(大經*卷下)とときたまふゆへに、一向に无量壽佛を念ぜよといへるこゝろなるときは、一向宗とまうしたるも子細なし。さりながら開山は、この宗をば淨土眞宗とこそさだめたまへり。されば一向宗といふ名言は、さらに本宗よりまうさぬなりとしるべし。されば自餘の淨土宗はもろもろの雜行をゆるす。わが聖人は雜行をえらびたまふ、このゆへに眞實報土の往生をとぐるなり。このいはれあるがゆへに、別して眞の字をいれたまふⅤ-0092なり。 又のたまはく、當宗をすでに淨土眞宗となづけられ候ことは分明にきこえぬ。しかるにこの宗體にて、在家のつみふかき惡逆の機なりといふとも、彌陀の願力にすがりてたやすく極樂に往生すべきやう、くはしくうけたまはりはんべらんとおもふなり。 答ていはく、當流のをもむきは、信心決定しぬればかならず眞實報土の往生をとぐべきなり。さればその信心といふはいかやうなることぞといへば、なにのわづらひもなく彌陀如來を一心にたのみたてまつりて、その餘の佛・菩薩等にもこゝろをかけずして、一向にふたごゝろなく彌陀を信ずるばかりなり。これをもて信心決定とは申ものなり。信心といへる二字をば、まことのこゝろとよめるなり。まことのこゝろといふは、行者のわろき自力のこゝろにてはたすからず、如來の他力のよきこゝろにてたすかるがゆへに、まことのこゝろとはまうすなり。又名號をもてなにのこゝろえもなくして、たゞとなへてはたすからざるなり。されば『經』(大經*卷下)には、「聞其名號信心歡喜」ととけり。「その名號をきく」といへるは、南无阿彌陀佛の六字の名號を无名无實にきくにあらず、善知識にあひⅤ-0093てそのをしへをうけて、この南无阿彌陀佛の名號を南无とたのめば、かならず阿彌陀佛のたすけたまふといふ道理なり。これを『經』に「信心歡喜」ととかれたり。これによりて南无阿彌陀佛の體は、われらをたすけたまへるすがたぞとこゝろうべきなり。かやうにこゝろえてのちは、行住坐臥に口にとなふる稱名をば、たゞ彌陀如來のたすけまします御恩を報じたてまつる念佛ぞとこゝろうべし。これをもて信心決定して極樂に往生する他力の念佛の行者とはまうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明第五 九月下旬第二日至于巳剋加州山中湯治之内書集之訖 釋證如(花押) Ⅴ-0094(一) 抑今度一七ケ日報恩講のあひだにをひて、多屋内方もそのほかの人も、大略信心を決定し給へるよしきこえたり。めでたく本望これにすぐべからず。さりながらそのまゝうちすて候へば、信心もうせ候べし。細々に信心のみぞをさらへて、彌陀の法水をながせといへる事ありげに候。それについて女人の身は、十方三世の諸佛にもすてられたる身にて候を、阿彌陀如來なればこそかたじけなくもたすけましまし候へ。そのゆへは女人の身はいかに眞實心になりたりといふとも、うたがひの心はふかくして、又物なんどのいまはしくおもふ心はさらにうせがたくおぼえ候。ことに在家の身は世路につけ、又子孫なんどの事によそへても、たゞ今生にのみふけりて、これほどにはやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかひとしりながら、たゞいま三途・八難にしづまん事をばつゆちりほども心にかけずして、いたづらにあかしくらすは、これつねの人のならひなり。あさましといふもをろかなり。これによりて一心一向に彌陀一佛の悲願に歸して、ふかくたのみたてまつりて、もろもろの雜行を修する心をすて、又諸神・諸佛に追從まうす心をもみなうちすてゝ、さて彌陀如來と申はかゝる我らごときのあⅤ-0095さましき女人のためにをこし給へる本願なれば、まことに佛智の不思議と信じて、我身はわろきいたづらものなりとおもひつめて、ふかく如來に歸入する心をもつべし。さてこの信ずる心も念ずる心も、彌陀如來の御方便よりをこさしむるものなりとおもふべし。かやうにこゝろうるをすなはち他力の信心をえたる人とはいふなり。又このくらゐをあるひは正定聚に住すとも、滅度にいたるとも、等正覺にいたるとも、彌勒にひとしとも申なり。又これを一念發起の往生さだまりたる人とも申すなり。かくのごとく心えてのうへの稱名念佛は、彌陀如來の我らが往生をやすくさだめ給へる、その御うれしさの御恩を報じたてまつる念佛なりとこゝろうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 これについて、まづ當流のおきてをよくよくまもらせ給ふべし。そのいはれは、あひかまへていまのごとく信心のとほりを心え給はゞ、身中にふかくおさめをきて、他宗・他人に對してそのふるまひをみせずして、又信心のやうをもかたるべからず。一切の諸神なんどをもわが信ぜぬまでなり、をろかにすべからず。かくのごとく信心のかたもそのふるまひもよき人をば、聖人もよく心えたる信心の行者なりとおほせられたり。たゞふかくこゝろをば佛法にとゞむべきⅤ-0096なり。あなかしこ、あなかしこ。 文明第五 十二月八日、これをかきて當山の多屋内方へまいらせ候。このほかなをなを不審の事候はゞ、かさねてとはせたまふべく候。 所送寒暑 五十八歲[御判] のちの代の しるしのために かきをきし のりのことの葉 かたみともなれ (二) 抑開山聖人の御一流には、それ信心といふことをもて先とせられたり。その信心といふはなにの用ぞといふに、无善造惡の我等が樣なるあさましき凡夫が、たやすく彌陀の淨土へまいりなんずるための出立なり。この信心を獲得せずは、極樂には往生せずして无間地獄に墮在すべきものなり。これによりてその信心をとらんずるやうはいかんといふに、それ彌陀如來一佛をふかくたのみたてまつりて、自餘の諸善萬行にこゝろをかけず、又諸神・諸菩薩にをひて今生のいのりをのみなせるこゝろをうしなひ、又わろき自力なんどいふひがおもひをもなげⅤ-0097すてゝ、彌陀を一心一向に信樂して二ごゝろのなき人を、彌陀はかならず遍照の光明をもて、その人を攝取してすてたまはざるものなり。かやうに信をとるうへには、ねてもおきてもつねにまうす念佛は、かの彌陀のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつる念佛なりとこゝろうべし。かやうにこゝろえたる人をこそ、まことに當流の信心をよくとりたる正義とはいふべきものなり。このほかになを信心といふことのありといふ人これあらば、おほきなるあやまりなり。すべて承引すべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。 いまこの文にしるすところのをもむきは、當流の親鸞聖人すゝめたまへる信心の正義なり。この分をよくよくこゝろえたらん人々は、あひかまへて他宗・他人に對してこの信心のやうを沙汰すべからず。又自餘の一切の佛・菩薩ならびに諸神等をもわが信ぜぬばかりなり、あながちにこれをかろしむべからず。これまことに彌陀一佛の功德のうちに、みな一切の諸神はこもれりとおもふべきものなり。總じて一切の諸法にをひてそしりをなすべからず。これをもて當流のおきてをよくまもれる人となづくべし。されば聖人のいはく、「たとひ牛ぬす人とはいはるとも、もしは後世者、もしは善人、もしは佛法者とみゆるやⅤ-0098うにふるまふべからず」(改邪鈔)とこそおほせられたり。このむねをよくよくこゝろえて念佛をば修行すべきものなり。 文明第五 十二月十二日夜書之 (三) 夫當流開山聖人のひろめたまふところの一流のなかにをひて、みな勸化をいたすにその不同これあるあひだ、所詮向後は當山多屋坊主已下そのほか一卷の聖敎をよまん人も、又來集の面々も、各々に當門下にその名をかけんともがらまでも、この三ケ條の篇目をもてこれを存知せしめて、自今已後その成敗をいたすべきものなり。 一 諸法・諸宗ともにこれを誹謗すべからず。 一 諸神・諸佛・菩薩をかろしむべからず。 一 信心をとらしめて報土往生をとぐべき事。 右斯三ケ條の旨をまもりて、ふかく心底にたくはへて、これをもて本とせざらん人々にをひては、この當山へ出入を停止すべきものなり。そもそもさんぬるⅤ-0099文明第三の曆、仲夏の比より花洛をいでゝ、おなじき年七月下旬の候、すでにこの當山の風波あらき在所に草菴をしめて、此四ケ年のあひだ居住せしむる根元は、別の子細にあらず。この三ケ條のすがたをもて、かの北國中にをひて、當流の信心未決定のひとをおなじく一味の安心になさんがためのゆへに、今日今時まで堪忍せしむるところなり。よてこのをもむきをもて、これを信用せばまことにこの年月の在國の本意たるべきものなり。 一 神明と申は、それ佛法にをひて信もなき衆生のむなしく地獄におちんことをかなしみおぼしめして、これをなにとしてもすくはんがために、かりに神とあらはれて、いさゝかなる縁をもて、それをたよりとして、つゐに佛法にすゝめいれしめんための方便に神とはあらはれたまふなり。しかればいまのときの衆生にをひて、彌陀をたのみ信心決定して念佛をまうし、極樂に往生すべき身となりなば、一切の神明はかへりてわが本懷とおぼしめしてよろこびたまひて、念佛の行者を守護したまふべきあひだ、とりわき神をあがめねども、たゞ彌陀一佛をたのむうちにみなこもれるがゆへに、別してたのまざれども信ずるいはれのあるがゆへなり。 Ⅴ-0100一 當流のなかにをひて、諸法・諸宗を誹謗することしかるべからず。いづれも釋迦一代の說敎なれば、如說に修行せばその益あるべし。さりながら末代われらごときの在家止住の身は、聖道諸宗の敎にをよばねば、それをわがたのまず信ぜぬばかりなり。 一 諸佛・菩薩と申ことは、それ彌陀如來の分身なれば、十方諸佛のためには本師本佛なるがゆへに、阿彌陀一佛に歸したてまつれば、すなはち諸佛・菩薩に歸するいはれあるがゆへに、阿彌陀一體のうちに諸佛・菩薩はみなことごとくこもれるなり。 一 開山親鸞聖人のすゝめましますところの彌陀如來の他力眞實信心といふは、もろもろの雜行をすてゝ專修專念・一向一心に彌陀に歸命するをもて、本願を信樂する體とす。されば先達よりうけたまはりつたへしがごとく、彌陀如來の眞實信心をば、いくたびも他力よりさづけらるゝところの佛智の不思議なりとこゝろえて、一念をもては往生治定の時剋とさだめて、そのときの命のぶれば自然と多念にをよぶ道理なり。これによりて平生のとき一念往生治定のうへの佛恩報盡の多念の稱名とならふところなり。しかれば祖師聖人御相傳一流の肝要は、Ⅴ-0101たゞこの信心ひとつにかぎれり。これをしらざるをもて他門とし、これをしれるをもて眞宗のしるしとす。そのほかかならずしも外相にをひて當流念佛者のすがたを他人に對してあらはすべからず。これをもて眞宗の信心をえたる行者のふるまひの正本となづくべきところ如件。 文明六年W甲午R正月十一日書之 (四) 夫彌陀如來の超世の本願と申は、末代濁世の造惡不善のわれらごときの凡夫のためにをこしたまへる无上の誓願なるがゆへなり。然者これを何とやうに心をももち、何とやうに彌陀を信じて、かの淨土へは往生すべきやらん、更にその分別なし。くはしくこれををしへたまふべし。 答ていはく、末代今時の衆生は、たゞ一すぢに彌陀如來をたのみ奉て、餘の佛・菩薩等をもならべて信ぜねども、一心一向に彌陀一佛に歸命する衆生をば、いかにつみふかくとも佛の大慈大悲をもてすくはんとちかひたまひて、大光明をはなちて、その光明のうちにおさめとりましますゆへに、このこゝろを『經』Ⅴ-0102(觀經)には、「光明遍照十方世界念佛衆生攝取不捨」ととき給へり。されば五道・六道といへる惡趣にすでにおもむくべきみちを、彌陀如來の願力の不思議としてこれをふさぎ給なり。このいはれをまた『經』(大經*卷下)には、「橫截五惡趣惡趣自然閉」ととかれたり。故に如來の誓願を信じて一念の疑心なき時は、いかに地獄へおちんとおもふとも、彌陀如來の攝取の光明におさめとられまいらせたらん身は、わがはからひにて地獄へもおちずして極樂にまいるべき身なるがゆへなり。かやうの道理なるときは、晝夜朝暮は如來大悲の御恩を雨山にかうぶりたるわれらなれば、たゞ口につねに稱名をとなへてかの佛恩を報謝のために念佛を申べきばかりなり。これすなはち眞實信心をえたるすがたといへるはこれなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明六 二月十五日夜、大聖世尊入滅の昔をおもひいでゝ、於燈下拭老眼染筆畢。 滿六十[御判] Ⅴ-0103(五) 抑此三四年のあひだにをひて、當山の念佛者の風情をみをよぶに、まことにもて他力の安心決定せしめたる分なし。そのゆへは珠數の一連をももつひとなし。さるほどに佛をば手づかみにこそせられたり。聖人またく珠數をすてゝ佛をおがめとおほせられたることなし。さりながら珠數をもたずとも、往生淨土のためにはたゞ他力の信心ひとつばかりなり。それにはさはりあるべからず。まづ大坊主分たる人は、袈裟をもかけ、珠數をもちても子細なし。これによりて眞實信心を獲得したる人は、かならず口にもいだし、又色にもそのすがたはみゆるなり。しかれば當時はさらに眞實信心をうつくしくえたる人、いたりてまれなりとおぼゆるなり。それはいかんぞなれば、彌陀如來の本願の我等がために相應したるたふとさのほども身にはおぼえざるがゆへに、いつも信心のひととほりをばわれこゝろえがほのよしにて、なにごとを聽聞するにもそのことゝばかりおもひて、耳へもしかしかともいらず、たゞ人まねばかりの體たらくなりとみえたり。此分にては自身の往生極樂もいまはいかゞとあやうくおぼゆるなり。いはんや門徒・同朋を勸化の儀も中々これあるべからず。かくのごときの心中にてⅤ-0104は今度の報土往生も不可なり。あらあら勝事や、たゞふかくこゝろをしづめて思案あるべし。まことにもて人間はいづるいきはいるをまたぬならひなり。あひかまへて由斷なく佛法をこゝろにいれて、信心決定すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明六 二月十六日早朝に俄に染筆畢而已 (六) 抑當流の他力信心のをもむきをよく聽聞して、決定せしむるひとこれあらば、その信心のとほりをもて心底におさめをきて、他宗・他人に對して沙汰すべからず。また路次・大道われわれの在所なんどにても、あらはに人をもはゞからずこれを讚嘆すべからず。つぎには守護・地頭方にむきても、われは信心をえたりといひて疎略の儀なく、いよいよ公事をまたくすべし。又諸神・諸佛・菩薩をもをろそかにすべからず。これみな南无阿彌陀佛の六字のうちにこもれるがゆへなり。ことにほかには王法をもておもてとし、内心には他力の信心をふかくたくはへて、世間の仁義をもて本とすべし。これすなはち當流にさだむるところのおきてのをⅤ-0105もむきなりとこゝろうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明六年二月十七日書之 (七) 靜におもんみれば、それ人間界の生をうくることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり。これおほきにまれなることぞかし。たゞし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の樂果なり。たとひまた榮花にほこり榮耀にあまるといふとも、盛者必衰會者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず、たゞ五十年百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもてたのみすくなし。これによりていまのときの衆生は、他力の信心をえて淨土の往生をとげんとおもふべきなり。抑その信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才學もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も惡人もいらず、男子も女人もいらず、たゞもろもろの雜行をすてゝ正行に歸するをもて本意とす。その正行に歸するといふは、なにのやうもなく彌陀如來を一心一向にたのみたてまつる理りばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに攝取しⅤ-0106てすてたまはずして、一期の命つきぬればかならず淨土にをくりたまふなり。この一念の安心ひとつにて淨土に往生することの、あらやうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、やすきこゝろとよめるはこのこゝろなり。さらになにの造作もなく一心一向に如來をたのみまいらする信心ひとつにて、極樂に往生すべし。あらこゝろえやすの安心や、又あらゆきやすの淨土や。これによりて『大經』(卷下)には、「易往而无人」とこれをとかれたり。この文のこゝろは、安心をとりて彌陀を一向にたのめば、淨土へはまいりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、淨土へはゆきやすくして人なしといへるはこの經文のこゝろなり。かくのごとくこゝろうるうへには、晝夜朝暮にとなふるところの名號は、大悲弘誓の御恩を報じ奉るべきばかりなり。かへすがへす佛法にこゝろをとゞめて、とりやすき信心のをもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明六年三月三日淸書之 Ⅴ-0107(八) 夫十惡・五逆の罪人も、五障・三從の女人も、むなしくみな十方三世の諸佛の悲願にもれて、すてはてられたる我等ごときの凡夫なり。しかればこゝに彌陀如來と申は、三世十方の諸佛の本師本佛なれば、久遠實成の古佛として、いまのごときの諸佛にすてられたる末代不善の凡夫、五障・三從の女人をば、彌陀にかぎりてわれひとりたすけんといふ超世の大願ををこして、われら一切衆生を平等にすくはんとちかひたまひて无上の誓願ををこして、すでに阿彌陀佛となりましましけり。この如來をひとすぢにたのみたてまつらずは、末代の凡夫、極樂に往生するみち、ふたつもみつもあるべからざるものなり。これによりて親鸞聖人のすゝめましますところの他力の信心といふことをよく存知せしめんひとは、かならず十人は十人ながら、みなかの淨土に往生すべし。さればこの信心をとりてかの彌陀の報土にまいらんとおもふについて、なにとやうにこゝろをももちて、なにとやうにその信心とやらんをこゝろうべきや、ねむごろにこれをきかんとおもふなり。 こたへていはく、それ當流親鸞聖人のをしへたまへるところの他力信心のをもⅤ-0108むきといふは、なにのやうもなく、我身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、彌陀如來を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雜行をすてゝ專修專念なれば、かならず遍照の光明のなかにおさめとられまいらするなり。これまことに我等が往生の決定するすがたなり。このうへになをこゝろうべきやうは、一心一向に彌陀に歸命する一念の信心によりてはや往生治定のうへには、行住坐臥に口にまうさんところの稱名は、彌陀如來のわれらが往生をやすくさだめたまへる大悲の御恩を報盡の念佛なりとこゝろうべきなり。これすなはち當流の信心を決定したる人といふべきなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明六年三月中旬 (九) 抑阿彌陀如來をたのみたてまつるについて、自餘の萬善萬行をば、すでに雜行となづけてきらへるそのこゝろはいかんぞなれば、それ彌陀佛のちかひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなるつみふかき機なりともすくひたまはんといへる大願なり。しかれば一心一向といふは、阿彌陀佛にⅤ-0109をひて二佛をならべざるこゝろなり。このゆへに人間にをひても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」(史記意)といへり。阿彌陀如來は三世諸佛のためには本師師匠なれば、その師匠の佛をたのまんには、いかでか弟子の諸佛のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもてよくよくこゝろうべし。さて南无阿彌陀佛といへる行體には、一切の諸神・諸佛・菩薩も、そのほか萬善萬行も、ことごとくみなこもれるがゆへに、なにの不足ありてか諸行諸善にこゝろをとゞむべきや。すでに南无阿彌陀佛といへる名號は、萬善萬行の總體なれば、いよいよたのもしきなり。これによりてその阿彌陀如來をばなにとたのみなにと信じて、かの極樂往生をとぐべきぞなれば、なにのやうもなくたゞ我身は極惡深重のあさましきものなれば地獄ならではおもむくべきかたもなき身なるを、かたじけなくも彌陀如來ひとりたすけんといふ誓願ををこしたまへりとふかく信じて、一念歸命の信心ををこせば、まことに宿善の開發にもよほされて、佛智より他力の信心をあたへたまふがゆへに、佛心と凡心とひとつになるところをさして、信心獲得の行者とはいふなり。このうへにはたゞねてもおきてもへⅤ-0110だてなく念佛をとなへて、大悲弘誓の御恩をふかく報謝すべきばかりなりとこゝろうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明六歲三月十七日書之 (一〇) 夫當流親鸞聖人のすゝめましますところの一義のこゝろといふは、まづ他力の信心をもて肝要とせられたり。この他力の信心といふことをくはしくしらずは、今度の一大事の往生極樂はまことにもてかなふべからずと、經釋ともにあきらかにみえたり。さればその他力の信心のすがたを存知して眞實報土の往生をとげんとおもふについても、いかやうにこゝろをももち、またいかやうに機をももちて、かの極樂の往生をばとぐべきやらん。そのむねをくはしくしりはんべらず、ねんごろにをしへたまふべし。それを聽聞していよいよ堅固の信心をとらんとおもふなり。 こたへていはく、そもそも當流の他力信心のをもむきと申は、あながちに我身のつみのふかきにもこゝろをかけず、たゞ阿彌陀如來を一心一向にたのみたてまつⅤ-0111りて、かゝる十惡・五逆の罪人も、五障・三從の女人までも、みなたすけたまへる不思議の誓願力ぞとふかく信じて、さらに一念も本願をうたがふこゝろなければ、かたじけなくもその心を如來のよくしろしめして、すでに行者のわろきこゝろを如來のよき御こゝろとおなじものになしたまふなり。このいはれをもて佛心と凡心と一體になるといへるはこのこゝろなり。これによりて彌陀如來の遍照の光明のなかにおさめとられまいらせて、一期のあひだはこの光明のうちにすむ身なりとおもふべし。さて命もつきぬれば、すみやかに眞實の報土へをくりたまふなり。しかればこのありがたさたふとさの彌陀大悲の御恩をばいかゞして報ずべきぞなれば、晝夜朝暮にはたゞ稱名念佛ばかりをとなへて、かの彌陀如來の御恩を報じたてまつるべきものなり。このこゝろすなはち當流にたつるところの一念發起平生業成といへる儀これなりとこゝろうべし。さればかやうに彌陀を一心にたのみたてまつるも、なにの功勞もいらず、また信心をとるといふもやすければ、佛になり極樂に往生することもなをやすし。あらたふとの彌陀の本願や、あらたふとの他力の信心や。さらに往生にをひてそのうたがひなし。しかるにこのうへにをひて、なを身のふるまひについてこのむねをよくこゝろⅤ-0112うべきみちあり。夫一切の神も佛と申も、いまこのうるところの他力の信心ひとつをとらしめんがための方便に、もろもろの神・もろもろのほとけとあらはれたまふいはれなればなり。しかれば一切の佛・菩薩も、もとより彌陀如來の分身なれば、みなことごとく一念南无阿彌陀佛と歸命したてまつるうちにみなこもれるがゆへに、をろかにおもふべからざるものなり。又このほかになをこゝろうべきむねあり。それ國にあらば守護方、ところにあらば地頭方にをひて、われは佛法をあがめ信心をえたる身なりといひて、疎略の儀ゆめゆめあるべからず。いよいよ公事をもはらにすべきものなり。かくのごとくこゝろえたる人をさして、信心發得して後生をねがふ念佛行者のふるまひの本とぞいふべし。これすなはち佛法・王法をむねとまもれる人となづくべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明六年五月十三日書之 (一一) 夫當流親鸞聖人の勸化のをもむき、近年諸國にをひて種々不同なり。これおほⅤ-0113きにあさましき次第なり。そのゆへはまづ當流には、他力の信心をもて凡夫の往生をさきとせられたるところに、その信心のかたをばをしのけて沙汰せずして、そのすゝむることばにいはく、十劫正覺のはじめより我等が往生を彌陀如來のさだめましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなりといへり。これさらに、彌陀に歸命して他力の信心をえたる分はなし。さればいかに十劫正覺のはじめよりわれらが往生をさだめたまへることをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、極樂には往生すべからざるなり。又あるひとのことばにいはく、たとひ彌陀に歸命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆへにわれらにをひては善知識ばかりをたのむべしと[云々]。これもうつくしく當流の信心をえざる人なりときこえたり。そもそも善知識の能といふは、一心一向に彌陀に歸命したてまつるべしと、ひとをすゝむべきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。一には宿善、二には善知識、三には光明、四には信心、五には名號、この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。されば善知識といふは、阿彌陀佛に歸命せよといへるつかひなり。宿善開發して善知識にあはずは、往生はかなふべからざⅤ-0114るなり。しかれども歸するところの彌陀をすてゝ、たゞ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこゝろうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明六年五月廿日 (一二) 夫人間の五十年をかんがへみるに、四王天といへる天の一日一夜にあひあたれり。またこの四王天の五十年をもて、等活地獄の一日一夜とするなり。これによりてみなひとの地獄におちて苦をうけんことをばなにともおもはず、また淨土へまいりて无上の樂をうけんことをも分別せずして、いたづらにあかし、むなしく月日ををくりて、さらにわが身の一心をも決定する分もしかしかともなく、また一卷の聖敎をまなこにあてゝみることもなく、一句の法門をいひて門徒を勸化する義もなし。たゞ朝夕はひまをねらひて、まくらをともとしてねぶりふせらんこと、まことにもてあさましき次第にあらずや。しづかに思案をめぐらすべきものなり。このゆへに今日今時よりして、不法懈怠にあらんひとびとは、いよいよⅤ-0115信心を決定して眞實報土の往生をとげんとおもはんひとこそ、まことにその身の德ともなるべし。これまた自行化他の道理にかなへりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 于時文明第六 六月中の二日、あまりの炎天のあつさに、これを筆にまかせてかきしるしをはりぬ。 (一三) 夫當流にさだむるところのおきてをよくまもるといふは、他宗にも世間にも對しては、わが一宗のすがたをあらはに人の目にみえぬやうにふるまへるをもて本意とするなり。しかるにちかごろは當流念佛者のなかにをひて、わざと人目にみえて一流のすがたをあらはして、これをもて我宗の名望のやうにおもひて、ことに他宗をこなしおとしめんとおもへり。これ言語道斷の次第なり。さらに聖人のさだめましましたる御意にふかくあひそむけり。そのゆへは「すでに牛をぬすみたる人とはいはるとも、當流のすがたをみゆべからず」(改邪*鈔意)とこそおほせられたり。この御ことばをもてよくよくこゝろうべし。つぎに當流の安心のをもむきをⅤ-0116くはしくしらんとおもはんひとは、あながちに智慧・才學もいらず、男女・貴賤もいらず、たゞ我身はつみふかきあさましきものなりとおもひとりて、かゝる機までもたすけたまへるほとけは阿彌陀如來ばかりなりとしりて、なにのやうもなくひとすぢにこの阿彌陀ほとけの御袖にひしとすがりまいらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば、この阿彌陀如來はふかくよろこびましまして、その御身より八萬四千のおほきなる光明をはなちて、その光明のなかにそのひとをおさめいれてをきたまふべし。さればこのこゝろを、『經』(觀經)にはまさに「光明遍照十方世界念佛衆生攝取不捨」とはとかれたりとこゝろうべし。さては我身のほとけにならんずることは、なにのわづらひもなし。あら殊勝の超世の本願や、ありがたの彌陀如來の光明や。この光明の縁にあひたてまつらずは、无始よりこのかたの无明業障のおそろしき病のなほるといふことは、さらにもてあるべからざるものなり。しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら彌陀如來の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆへに行者のをこすところの信心にあらず、彌陀如來他力の大信心といふⅤ-0117ことは、いまこそあきらかにしられたり。これによりてかたじけなくもひとたび他力の信心をえたらん人は、みな彌陀如來の御恩のありがたきほどをよくよくおもひはかりて、佛恩報謝のためにはつねに稱名念佛を申したてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明六年七月三日書之 (一四) 夫越前の國にひろまるところの祕事法門といへることは、さらに佛法にてはなし、あさましき外道の法なり。これを信ずるものはながく无間地獄にしづむべき業にて、いたづらごとなり。この祕事をなをも執心して簡要とおもひて、ひとをへつらひたらさんものには、あひかまへてあひかまへて隨逐すべからず。いそぎその祕事をいはん人の手をはなれて、はやくさづくるところの祕事をありのまゝに懺悔して、ひとにかたりあらはすべきものなり。抑當流勸化のをもむきをくはしくしりて、極樂に往生せんとおもはんひとは、まづ他力の信心といふことを存知すべきなり。それ他力の信心といふはなにの要ぞといへば、かゝるあさましⅤ-0118き我等ごときの凡夫の身が、たやすく淨土へまいるべき用意なり。その他力の信心のすがたといふはいかなることぞといへば、なにのやうもなくたゞひとすぢに阿彌陀如來を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこゝろの一念をこるとき、かならず彌陀如來の攝取の光明をはなちて、その身の娑婆にあらんほどは、この光明のなかにおさめをきましますなり。これすなはちわれらが往生のさだまりたるすがたなり。されば南无阿彌陀佛とまうす體は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南无阿彌陀佛のいはれをあらはせるすがたなりとこゝろうべきなり。さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極樂にやすく往生すべきことの、さらになにのうたがひもなし。あら殊勝の彌陀如來の他力の本願や。このありがたさの彌陀の御恩をば、いかゞして報じたてまつるべきぞなれば、たゞねてもおきても南无阿彌陀佛南无阿彌陀佛ととなへて、かの彌陀如來の佛恩を報ずべきなり。されば南无阿彌陀佛ととなふるこゝろはいかんぞなれば、阿彌陀如來の御たすけありつることのありがたさたふとさよとおもひて、それをよろこびまうすこゝろなりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 Ⅴ-0119文明六年七月五日 (一五) 抑日本にをひて淨土宗の家々をたてゝ、西山・鎭西・九品・長樂寺とて、其外あまたにわかれたり。これすなはち法然聖人のすゝめ給ふところの義は一途なりといへども、あるひは聖道門にてありし人々の、聖人へまいりて淨土の法門を聽聞し給ふに、うつくしく其理耳にとゞまらざるによりて、我本宗のこゝろをいまだすてやらずして、かへりてそれを淨土宗にひきいれんとせしによりて、其不同これあり。しかりといへども、あながちにこれを誹謗する事あるべからず。肝要はたゞ我一宗の安心をよくたくはへて、自身も決定し人をも勸化すべきばかりなり。夫當流の安心のすがたはいかんぞなれば、まづ我身は十惡・五逆、五障・三從のいたづらものなりとふかくおもひつめて、そのうへにおもふべきやうは、かゝるあさましき機を本とたすけ給へる彌陀如來の不思議の本願力なりとふかく信じ奉て、すこしも疑心なければ、かならず彌陀は攝取し給べし。このこゝろこそ、すなはち他力眞實の信心をえたるすがたとはいふべきなⅤ-0120り。かくのごときの信心を、一念とらんずる事はさらになにのやうもいらず。あらこゝろえやすの他力の信心や、あら行じやすの名號や。しかればこの信心をとるといふも別の事にはあらず、南无阿彌陀佛の六の字をこゝろえわけたるが、すなはち他力信心の體なり。また南无阿彌陀佛といふはいかなるこゝろぞといへば、南无といふ二字は、すなはち極樂へ往生せんとねがひて彌陀をふかくたのみ奉るこゝろなり。さて阿彌陀佛といふは、かくのごとくたのみ奉る衆生をあはれみましまして、无始曠劫よりこのかたのおそろしきつみとがの身なれども、彌陀如來の光明の縁にあふによりて、ことごとく无明業障のふかきつみとがたちまちに消滅するによりて、すでに正定聚のかずに住す。かるがゆへに凡身をすてゝ佛身を證するといへるこゝろを、すなはち阿彌陀如來とは申なり。されば阿彌陀といふ三字をば、おさめ・たすけ・すくふとよめるいはれあるがゆへなり。かやうに信心決定してのうへには、たゞ彌陀如來の佛恩のかたじけなき事をつねにおもひて稱名念佛を申さば、それこそまことに彌陀如來の佛恩を報じ奉ることはりにかなふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明六 七月九日書之 Ⅴ-0121釋證如(花押) Ⅴ-0122(一) 抑當流にをひて、其名ばかりをかけんともがらも、又もとより門徒たらん人も、安心のとほりをよくこゝろえずは、あひかまへて今日よりして他力の大信心のをもむきをねんごろに人にあひたづねて、報土往生を決定せしむべきなり。夫一流の安心をとるといふも、何のやうもなくたゞ一すぢに阿彌陀如來をふかくたのみ奉るばかりなり。しかれどもこの阿彌陀佛と申は、いかやうなるほとけぞ、又いかやうなる機の衆生をすくひたまふぞといふに、三世の諸佛にすてられたるあさましき我等凡夫女人を、われひとりすくはんといふ大願ををこしたまひて、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、それ衆生のつみにをひては、いかなる十惡・五逆・謗法・闡提のともがらなりといふともすくはんとちかひましまして、すでに諸佛の悲願にこえすぐれたまひて、その願成就して阿彌陀如來とはならせたまへるを、すなはち阿彌陀佛とは申なり。これによりてこの佛をばなにとたのみ、なにとこゝろをももちてかたすけ給ふべきぞといふに、それ我身のつみのふかき事をばうちをきて、たゞかの阿彌陀佛を二ごゝろなく一向にたのみまいらせて、一念も疑ふ心なくは、かならずたすけたまふべし。Ⅴ-0123しかるに彌陀如來には、すでに攝取と光明といふ二のことはりをもて、衆生をば濟度したまふなり。まづ此光明に宿善の機のありててらされぬれば、つもるところの業障のつみみなきえぬるなり。さて攝取といふはいかなるこゝろぞといへば、此光明の縁にあひ奉れば、罪障ことごとく消滅するによりて、やがて衆生を此光明のうちにおさめをかるゝによりて、攝取とはまうすなり。このゆへに阿彌陀佛には攝取と光明との二をもて肝要とせらるゝなりときこえたり。されば一念歸命の信心のさだまるといふも、この攝取の光明にあひたてまつる時剋をさして、信心のさだまるとはまうすなり。しかれば南无阿彌陀佛といへる行體は、すなはち我等が淨土に往生すべきことはりを、此六字にあらはしたまへる御すがたなりと、いまこそよくはしられて、いよいよありがたくたふとくおぼえはんべれ。さてこの信心決定のうへには、たゞ阿彌陀如來の御恩を雨山にかうぶりたる事をのみよろこびおもひ奉て、その報謝のためには、ねてもさめても念佛を申べきばかりなり。それこそ誠に佛恩報盡のつとめなるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明六 七月十四日書之 Ⅴ-0124(二) 夫諸宗のこゝろまちまちにして、いづれも釋迦一代の說敎なれば、まことにこれ殊勝の法なり。もとも如說にこれを修行せんひとは、成佛得道すべきことさらにうたがひなし。しかるに末代このごろの衆生は機根最劣にして、如說に修行せん人まれなる時節なり。こゝに彌陀如來の他力本願といふは、今の世にをひてかゝる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、造惡不善の衆生をほとけになさずは我も正覺ならじと、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿彌陀とならせたまへるほとけなり。末代いまのときの衆生にをひては、このほとけの本願にすがりて彌陀をふかくたのみたてまつらずんば、成佛するといふ事あるべからざるなり。 抑阿彌陀如來の他力本願をばなにとやうに信じ、またなにとやうに機をもちてかたすかるべきぞなれば、それ彌陀を信じたてまつるといふは、なにのやうもなく他力の信心といふいはれをよくしりたらんひとは、たとへば十人は十人ながら、みなもて極樂に往生すべし。さてその他力の信心といふはいかやうなるⅤ-0125ことぞといへば、たゞ南无阿彌陀佛なり。この南无阿彌陀佛の六の字のこゝろをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。されば南无阿彌陀佛といふ六字の體をよくよくこゝろうべし。まづ南无といふ二字はいかなるこゝろぞといへば、やうもなく彌陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごゝろなく信じまいらするこゝろを、すなはち南无とはまうすなり。つぎに阿彌陀佛といふ四字はいかなるこゝろぞといへば、いまのごとくに彌陀を一心にたのみまいらせて、うたがひのこゝろのなき衆生をば、かならず彌陀の御身より光明をはなちててらしましまして、そのひかりのうちにおさめをき給て、さて一期のいのちつきぬれば、かの極樂淨土へをくりたまへるこゝろを、すなはち阿彌陀佛とはまうしたてまつるなり。されば世間に沙汰するところの念佛といふは、たゞくちにだにも南无阿彌陀佛ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。さりながら淨土一家にをひてさやうに沙汰するかたもあり、是非すべからず。これは我一宗の開山のすゝめたまへるところの一流の安心のとほりをまうすばかりなり。宿縁のあらんひとは、これをきゝてすみやかに今度の極樂往生をとぐべし。かくのごとくこゝろえたらんひと、Ⅴ-0126名號をとなへて彌陀如來のわれらをやすくたすけたまへる御恩を雨山にかうぶりたる、その佛恩報盡のためには、稱名念佛すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明六年八月五日書之 (三) 此方河尻性光門徒の面々にをひて、佛法の信心のこゝろえはいかやうなるらん、まことにもてこゝろもとなし。しかりといへどもいま當流一義のこゝろをくはしく沙汰すべし。をのをの耳をそばだてゝこれをきゝて、このをもむきをもて本とおもひて、今度の極樂の往生を治定すべきものなり。夫彌陀如來の念佛往生の本願と申は、いかやうなることぞといふに、在家无智のものも、又十惡・五逆のやからにいたるまでも、なにのやうもなく他力の信心といふ事をひとつ決定すれば、みなことごとく極樂に往生するなり。さればその信心をとるといふは、いかやうなるむつかしきことぞといふに、なにのわづらひもなくたゞひとすぢに阿彌陀如來をふたごゝろなくたのみたてまつりて、餘へこゝろをちらさざⅤ-0127らんひとは、たとへば十人あらば十人ながら、みなほとけになるべし。このこゝろひとつをたもたんはやすきことなり。たゞこゑにいだして念佛ばかりをとなふるひとはおほやうなり、それは極樂には往生せず。この念佛のいはれをよくしりたる人こそほとけにはなるべけれ。なにのやうもなく彌陀をよく信ずるこゝろだにもひとつにさだまれば、やすく淨土へはまいるべきなり。このほかにはわづらはしき祕事といひて、ほとけをもおがまぬものはいたづらものなりとおもふべし。これによりて阿彌陀如來の他力本願とまうすは、すでに末代いまのときのつみふかき機を本としてすくひたまふがゆへに、在家止住のわれらごときのためには相應したる他力の本願なり。あらありがたの彌陀如來の誓願や、あらありがたの釋迦如來の金言や、あふぐべし、信ずべし。しかればいふところのごとくこゝろえたらん人々は、これまことに當流の信心を決定したる念佛行者のすがたなるべし。さてこのうへには一期のあひだまうす念佛のこゝろは、彌陀如來のわれらをやすくたすけたまへるところの雨山の御恩を報じたてまつらんがための念佛なりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明六年八月六日書之 Ⅴ-0128(四) 夫倩人間のあだなる體を案ずるに、生あるものはかならず死に歸し、さかんなるものはつゐにおとろふるならひなり。さればたゞいたづらにあかし、いたづらにくらして、年月ををくるばかりなり。これまことになげきてもなをかなしむべし。このゆへに上は大聖世尊よりはじめて、下は惡逆の提婆にいたるまで、のがれがたきは无常なり。しかればまれにもうけがたきは人身、あひがたきは佛法なり。たまたま佛法にあふことをえたりといふとも、自力修行の門は末代なれば、いまのときは出離生死のみちはかなひがたきあひだ、彌陀如來の本願にあひたてまつらずはいたづらごとなり。しかるにいますでにわれら弘願の一法にあふことをえたり。このゆへにたゞねがふべきは極樂淨土、たゞたのむべきは彌陀如來、これによりて信心決定して念佛申べきなり。しかれば世の中にひとのあまねくこゝろえをきたるとほりは、たゞこゑにいだして南无阿彌陀佛とばかりとなふれば、極樂に往生すべきやうにおもひはんべり。それはおほきにおぼつかなきことなり。されば南无阿彌陀佛とまうす六字の體はいかなるこゝろぞといふに、阿彌陀如來を一向にたのめば、ほとけその衆生をよくしろしめしてすⅤ-0129くひたまへる御すがたを、この南无阿彌陀佛の六字にあらはしたまふなりとおもふべきなり。しかればこの阿彌陀如來をばいかゞして信じまいらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば、なにのわづらひもなく、もろもろの雜行雜善をなげすてゝ、一心一向に彌陀如來をたのみまいらせて、ふたごゝろなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明をはなちてそのひかりのなかにおさめいれをきたまふなり。これをすなはち彌陀如來の攝取の光益にあづかるとはまうすなり。または不捨の誓益ともこれをなづくるなり。かくのごとく阿彌陀如來の光明のうちにおさめをかれまいらせてのうへには、一期のいのちつきなばたゞちに眞實の報土に往生すべきこと、そのうたがひあるべからず。このほかには別の佛をもたのみ、また餘の功德善根を修してもなにゝかはせん。あらたふとや、あらありがたの阿彌陀如來や。かやうの雨山の御恩をばいかゞして報じたてまつるべきぞや。たゞ南无阿彌陀佛南无阿彌陀佛とこゑにとなへて、その恩德をふかく報盡申ばかりなりとこゝろうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明六年八月十八日 Ⅴ-0130(五) 抑諸佛の悲願に彌陀の本願のすぐれましましたる、そのいはれをくはしくたづぬるに、すでに十方の諸佛と申は、いたりてつみふかき衆生と五障・三從の女人をばたすけたまはざるなり。このゆへに諸佛の願に阿彌陀佛の本願はすぐれたりとまうすなり。さて彌陀如來の超世の大願はいかなる機の衆生をすくひましますぞとまうせば、十惡・五逆の罪人も、五障・三從の女人にいたるまでも、みなことごとくもらさずたすけたまへる大願なり。されば一心一向にわれをたのまん衆生をば、かならず十人あらば十人ながら、極樂へ引接せんとのたまへる他力の大誓願力なり。これによりてかの阿彌陀佛の本願をば、われらごときのあさましき凡夫は、なにとやうにたのみなにとやうに機をもちてかの彌陀をばたのみまいらすべきぞや、そのいはれをくはしくしめしたまふべし。そのをしへのごとく信心をとりて、彌陀をも信じ、極樂をもねがひ、念佛をもまうすべきなり。 こたへていはく、まづ世間にいま流布してむねとすゝむるところの念佛とまうすは、たゞなにの分別もなく南无阿彌陀佛とばかりとなふれば、みなたすかるべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなきことなり。京・田舍のあひだにをⅤ-0131ひて、淨土宗の流義まちまちにわかれたり。しかれどもそれを是非するにはあらず、たゞわが開山の一流相傳のをもむきをまうしひらくべし。それ解脫の耳をすまして渴仰のかうべをうなだれてこれをねんごろにきゝて、信心歡喜のおもひをなすべし。それ在家止住のやから一生造惡のものも、たゞ我身のつみのふかきには目をかけずして、それ彌陀如來の本願と申はかゝるあさましき機を本とすくひまします不思議の願力ぞとふかく信じて、彌陀を一心一向にたのみたてまつりて、他力の信心といふことを一こゝろうべし。さて他力の信心といふ體はいかなるこゝろぞといふに、この南无阿彌陀佛の六字の名號の體は、阿彌陀佛のわれらをたすけたまへるいはれを、この南无阿彌陀佛の名號にあらはしましましたる御すがたぞとくはしくこゝろえわけたるをもて、他力の信心をえたる人とはいふなり。この南无といふ二字は、衆生の阿彌陀佛を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもひて餘念なきこゝろを歸命とはいふなり。つぎに阿彌陀佛といふ四の字は、南无とたのむ衆生を、阿彌陀佛のもらさずすくひたまふこゝろなり。このこゝろをすなはち攝取不捨とはまうすなり。攝取不捨といふは、念佛の行者を彌陀如來の光明のなかにおさめとりてすてたまはずとⅤ-0132いへるこゝろなり。さればこの南无阿彌陀佛の體は、われらを阿彌陀佛のたすけたまへる支證のために、御名をこの南无阿彌陀佛の六字にあらはしたまへるなりときこえたり。かくのごとくこゝろえわけぬれば、われらが極樂の往生は治定なり。あらありがたや、たふとやとおもひて、このうへにははやひとたび彌陀如來にたすけられまいらせつるのちなれば、御たすけありつる御うれしさの念佛なれば、この念佛をば佛恩報謝の稱名ともいひ、また信のうへの稱名ともまうしはんべるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明六年九月六日書之 (六) 夫南无阿彌陀佛と申はいかなるこゝろぞなれば、まづ南无といふ二字は、歸命と發願廻向とのふたつのこゝろなり。また南无といふは願なり、阿彌陀佛といふは行なり。されば雜行雜善をなげすてゝ專修專念に彌陀如來をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふ歸命の一念をこるとき、かたじけなくも遍照の光明をはなちて行者を攝取したまふなり。このこゝろすなはち阿彌陀佛の四のⅤ-0133字のこゝろなり、又發願廻向のこゝろなり。これによりて南无阿彌陀佛といふ六字は、ひとへにわれらが往生すべき他力信心のいはれをあらはしたまへる御名なりとみえたり。このゆへに願成就の文には、「聞其名號信心歡喜」(大經*卷下)ととかれたり。この文のこゝろは、その名號をきゝて信心歡喜すといへり。「その名號をきく」といふは、たゞおほやうにきくにあらず。善知識にあひて、南无阿彌陀佛の六の字のいはれをよくきゝひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこゝろえられたり。かるがゆへに「信心歡喜」といふは、すなはち信心さだまりぬれば、淨土の往生はうたがひなくおもふてよろこぶこゝろなり。このゆへに彌陀如來の五劫兆載永劫の御苦勞を案ずるにも、われらをやすくたすけたまふことのありがたさたふとさをおもへば、なかなかまうすもをろかなり。されば『和讚』(正像末*和讚)にいはく、「南无阿彌陀佛の廻向の 恩德廣大不思議にて 往相廻向の利益には 還相廻向に廻入せり」といへるはこのこゝろなり。また「正信偈」にはすでに「唯能常稱如來號 應報大悲弘誓恩」(行卷)とあれば、いよいよ行住坐臥時處諸縁をきらはず、佛恩報盡のためにたゞ稱名念佛すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 Ⅴ-0134文明六年十月廿日書之 (七) 抑親鸞聖人のすゝめたまふところの一義のこゝろは、ひとへにこれ末代濁世の在家无智のともがらにをひて、なにのわづらひもなくすみやかにとく淨土に往生すべき他力信心の一途ばかりをもて本とをしへたまへり。しかればそれ阿彌陀如來は、すでに十惡・五逆の愚人、五障・三從の女人にいたるまで、ことごとくすくひましますといへる事をば、いかなる人もよくしりはんべりぬ。しかるにいまわれら凡夫は、阿彌陀佛をばいかやうに信じ、なにとやうにたのみまいらせて、かの極樂世界へは往生すべきぞといふに、たゞひとすぢに彌陀如來を信じたてまつりて、その餘はなにごともうちすてゝ、一向に彌陀に歸し一心に本願を信じて、阿彌陀如來にをひてふたごゝろなくは、かならず極樂に往生すべし。此道理をもて、すなはち他力信心をえたるすがたとはいふなり。そもそも信心といふは、阿彌陀佛の本願のいはれをよく分別して、一心に彌陀に歸命するかたをもて、他力の安心を決定すとはまうすなり。されば南无阿彌陀佛の六Ⅴ-0135字のいはれをよくこゝろえわけたるをもて、信心決定の體とす。しかれば南无の二字は衆生の阿彌陀佛を信ずる機なり。次に阿彌陀佛といふ四の字のいはれは、彌陀如來の衆生をたすけたまへる法なり。このゆへに機法一體の南无阿彌陀佛といへるはこのこゝろなり。これによりて衆生の三業と彌陀の三業と一體になるところをさして、善導和尙は「彼此三業不相捨離」(定善義)と釋したまへるも、このこゝろなり。されば一念歸命の信心決定せしめたらん人は、かならずみな報土に往生すべきこと、さらにもてそのうたがひあるべからず。あひかまへて自力執心のわろき機のかたをばふりすてゝ、たゞ不思議の願力ぞとふかく信じて、彌陀を一心にたのまんひとは、たとへば十人は十人ながら、みな眞實報土の往生をとぐべし。このうへにはひたすら彌陀如來の御恩のふかきことをのみおもひたてまつりて、つねに報謝の念佛を申べきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明七年二月廿三日 (八) 抑此比當國他國の間に於て、當流安心のをもむき事外相違して、みな人ごとⅤ-0136に我はよく心得たりと思て、更に法義にそむくとほりをもあながちに人にあひたづねて、眞實の信心をとらんとおもふ人すくなし。これ誠にあさましき執心なり。速にこの心を改悔懺悔して、當流眞實の信心に住して、今度の報土往生を決定せずは、誠に寶の山に入て手をむなしくしてかへらんにことならんもの歟。このゆへに其信心の相違したる詞にいはく、夫彌陀如來はすでに十劫正覺の初より我等が往生をさだめたまへる事を、いまにわすれずうたがはざるがすなはち信心なりとばかりこゝろえて、彌陀に歸して信心決定せしめたる分なくは、報土往生すべからず。さればそばさまなるわろきこゝろえなり。これによりて當流安心のそのすがたをあらはさば、すなはち南无阿彌陀佛の體をよくこゝろうるをもて、他力信心をえたるとはいふなり。されば南无阿彌陀佛の六字を善導釋していはく、「南无といふは歸命、またこれ發願廻向の義なり」(玄義分)といへり。其意いかんぞなれば、阿彌陀如來の因中に於て、我等凡夫の往生の行をさだめ給ふとき、凡夫のなす所の廻向は自力なるがゆへに成就しがたきによりて、阿彌陀如來の凡夫のために御身勞ありて、此廻向を我等にあたへんがために廻向成就し給ひて、一念南无と歸命するところにて、此廻向を我等凡夫にあたへましⅤ-0137ますなり。故に凡夫の方よりなさぬ廻向なるがゆへに、これをもて如來の廻向をば行者のかたよりは不廻向とは申すなり。此いはれあるがゆへに、南无の二字は歸命のこゝろなり、又發願廻向のこゝろなり。此いはれなるがゆへに、南无と歸命する衆生をかならず攝取してすて給はざるがゆへに、南无阿彌陀佛とは申なり。これすなはち一念歸命の他力信心を獲得する平生業成の念佛行者といへるは此事なりとしるべし。かくのごとくこゝろえたらん人々は、いよいよ彌陀如來の御恩德の深遠なる事を信知して、行住坐臥に稱名念佛すべし。これすなはち「憶念彌陀佛本願 自然卽時入必定 唯能常稱如來號 應報大悲弘誓恩」(行卷)といへる文のこゝろなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明七 二月廿五日 (九) 抑今日は鸞聖人の御明日として、かならず報恩謝德のこゝろざしをはこばざる人これすくなし。しかれどもかの諸人のうへにをひて、あひこゝろうべきをもむきは、もし本願他力の眞實信心を獲得せざらん未安心のともがらは、今日にⅤ-0138かぎりてあながちに出仕をいたし、この講中の座敷をふさぐをもて眞宗の肝要とばかりおもはん人は、いかでかわが聖人の御意にはあひかなひがたし。しかりといへどもわが在所にありて報謝のいとなみをもはこばざらんひとは、不請にも出仕をいたしてもよろしかるべき歟。されば每月廿八日ごとにかならず出仕をいたさんとおもはんともがらにをひては、あひかまへて日ごろの信心のとほり決定せざらん未安心のひとも、すみやかに本願眞實の他力信心をとりて、わが身の今度の報土往生を決定せしめんこそ、まことに聖人報恩謝德の懇志にあひかなふべけれ。また自身の極樂往生の一途も治定しをはりぬべき道理なり。これすなはちまことに「自信敎人信 難中轉更難 大悲傳普化 眞成報佛恩」(禮讚)といふ釋文のこゝろにも府合せるものなり。夫聖人御入滅はすでに一百餘歲を經といへども、かたじけなくも目前にをひて眞影を拜したてまつる。又德音ははるかに无常のかぜにへだつといへども、まのあたり實語を相承血脈してあきらかに耳のそこにのこして、一流の他力眞實の信心いまにたえせざるものなり。これによりていまこの時節にいたりて、本願眞實の信心を獲得せしむる人なくは、まことに宿善のもよほしにあづからぬ身とおもふべし。もし宿善開發の機にⅤ-0139てもわれらなくは、むなしく今度の往生は不定なるべきこと、なげきてもなをかなしむべきはたゞこの一事なり。しかるにいま本願の一道にあひがたくして、まれに无上の本願にあふことをえたり。まことによろこびのなかのよろこびなにごとかこれにしかん。たふとむべし、信ずべし。これによりて年月日ごろわがこゝろのわろき迷心をひるがへして、たちまちに本願一實の他力信心にもとづかんひとは、眞實に聖人の御意にあひかなふべし。これしかしながら今日聖人の報恩謝德の御こゝろざしにもあひそなはりつべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明七年五月廿八日書之 (一〇) 抑當流門徒中にをひて、この六ケ條の篇目のむねをよく存知して、佛法を内心にふかく信じて、外相にそのいろをみせぬやうにふるまふべし。しかればこのごろ當流念佛者にをひて、わざと一流のすがたを他宗に對してこれをあらはすこと、もてのほかのあやまりなり。所詮向後この題目の次第をまもりて佛法をば修行Ⅴ-0140すべし。もしこのむねをそむかんともがらは、ながく門徒中の一列たるべからざるものなり。 一 神社をかろしむることあるべからず。 一 諸佛・菩薩ならびに諸堂をかろしむべからず。 一 諸宗・諸法を誹謗すべからず。 一 守護・地頭を疎略にすべからず。 一 國の佛法の次第、非義たるあひだ、正義におもむくべき事。 一 當流にたつるところの他力信心をば内心にふかく決定すべし。 一には、一切の神明とまうすは、本地は佛・菩薩の變化にてましませども、この界の衆生をみるに、佛・菩薩にはすこしちかづきにくゝおもふあひだ、神明の方便にかりに神とあらはれて、衆生に縁をむすびてそのちからをもてたよりとして、つゐに佛法にすゝめいれんがためなり。これすなはち「和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のをはり」(止觀卷*六下意)といへるはこのこゝろなり。さればいまの世の衆生、佛法を信じ念佛をもまうさん人をば、神明はあながちにわが本意とおぼしめすべし。このゆへに彌陀一佛の悲願に歸すれば、とりわけ神明をあⅤ-0141がめず信ぜねども、そのうちにおなじく信ずるこゝろはこもれるゆへなり。 二には、諸佛・菩薩とまうすは、神明の本地なれば、いまのときの衆生は阿彌陀如來を信じ念佛まうせば、一切の諸佛・菩薩はわが本師阿彌陀如來を信ずるに、そのいはれあるによりてわが本懷とおぼしめすがゆへに、別して諸佛をとりわき信ぜねども、阿彌陀佛一佛を信じたてまつるうちに、一切の諸佛も菩薩もみなことごとくこもれるがゆへに、たゞ阿彌陀如來を一心一向に歸命すれば、一切の諸佛の智慧も功德も彌陀一體に歸せずといふことなきいはれなればなりとしるべし。 三には、諸宗・諸法を誹謗することおほきなるあやまりなり。そのいはれすでに淨土の三部經にみえたり。また諸宗の學者も、念佛者をばあながちに誹謗すべからず。自宗・他宗ともにそのとがのがれがたきこと道理必然せり。 四には、守護・地頭にをひては、かぎりある年貢所當をねんごろに沙汰し、そのほか仁義をもて本とすべし。 五には、國の佛法の次第、當流の正義にあらざるあひだ、かつは邪見にみえたり。所詮自今已後にをひては、當流眞實の正義をきゝて、日ごろの惡心をひるがへしⅤ-0142て、善心にをもむくべきものなり。 六には、當流眞實の念佛者といふは、開山のさだめをきたまへる正義をよく存知して、造惡不善の身ながら極樂の往生をとぐるをもて宗の本意とすべし。夫一流の安心の正義のをもむきといふは、なにのやうもなく阿彌陀如來を一心一向にたのみたてまつりて、われはあさましき惡業煩惱の身なれども、かゝるいたづらものを本とたすけたまへる彌陀願力の強縁なりと不可思議におもひたてまつりて、一念も疑心なく、おもふこゝろだにも堅固なれば、かならず彌陀は无㝵の光明をはなちてその身を攝取したまふなり。かやうに信心決定したらんひとは、十人は十人ながらみなことごとく報土に往生すべし。このこゝろすなはち他力の信心を決定したるひとなりといふべし。このうへになをこゝろうべきやうは、まことにありがたき阿彌陀如來の廣大の御恩なりとおもひて、その佛恩報謝のためには、ねてもおきてもたゞ南无阿彌陀佛とばかりとなふべきなり。さればこのほかにはまた後生のためとては、なにの不足ありてか、相傳もなきしらぬゑせ法門をいひて、ひとをもまどはし、あまさへ法流をもけがさんこと、まことにあさましき次第にあらずや。よくよくおもひはからふべきものなり。あなかしこ、Ⅴ-0143あなかしこ。 文明七年七月十五日 (一一) 抑今月廿八日は開山聖人御正忌として、每年不闕にかの知恩報德の御佛事にをひては、あらゆる國郡そのほかいかなる卑劣のともがらまでも、その御恩をしらざるものはまことに木石にことならんもの歟。これについて愚老、この四、五ケ年のあひだは、なにとなく北陸の山海のかたほとりに居住すといへども、はからざるにいまに存命せしめ、この當國にこえ、はじめて今年、聖人御正忌の報恩講にあひたてまつる條、まことにもて不可思議の宿縁、よろこびてもなをよろこぶべきもの歟。しかれば自國他國より來集の諸人にをひて、まづ開山聖人のさだめをかれし御掟のむねをよく存知すべし。その御ことばにいはく、「たとひ牛盜人とはよばるとも、佛法者・後世者とみゆるやうに振舞べからず。またほかには仁・義・禮・智・信をまもりて王法をもてさきとし、内心にはふかく本願他力の信心を本とすべき」(改邪*鈔意)よしを、ねんごろにおほせさだめをかれしとこⅤ-0144ろに、近代このごろの人の佛法しりがほの體たらくをみをよぶに、外相には佛法を信ずるよしをひとにみえて、内心にはさらにもて當流安心の一途を決定せしめたる分なくして、あまさへ相傳もせざる聖敎をわが身の字ぢからをもてこれをよみて、しらぬゑせ法門をいひて、自他の門徒中を經廻して虛言をかまへ、結句本寺よりの成敗と號して人をたぶろかし物をとりて當流の一義をけがす條、眞實眞實あさましき次第にあらずや。これによりて今月廿八日の御正忌七日の報恩講中にをひて、わろき心中のとほりを改悔懺悔してをのをの正義にをもむかずは、たとひこの七日の報恩講中にをひて、足手をはこび人まねばかりに報恩謝德のためと號すとも、さらにもてなにの所詮もあるべからざるものなり。されば彌陀願力の信心を獲得せしめたらん人のうへにをひてこそ、佛恩報盡とも、また師德報謝なんどともまうすことはあるべけれ。この道理をよくよくこゝろえて足手をもはこび、聖人をもをもんじたてまつらん人こそ、眞實に冥慮にもあひかなひ、また別しては當月御正忌の報恩謝德の懇志にもふかくあひそなはりつべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明七年十一月廿一日書之 Ⅴ-0145(一二) 抑いにしへ近年このごろのあひだに、諸國在々所々にをひて、隨分、佛法者と號して法門を讚嘆し勸化をいたすともがらのなかにをひて、さらに眞實にわがこゝろ當流の正義にもとづかずとおぼゆるなり。そのゆへをいかんといふに、まづかの心中におもふやうは、われは佛法の根源をよくしりがほの體にて、しかもたれに相傳したる分もなくして、あるひは縁のはし障子のそとにて、たゞ自然ときゝとり法門の分齊をもて、眞實に佛法にそのこゝろざしはあさくして、われよりほかは佛法の次第を存知したるものなきやうにおもひはんべり。これによりてたまたまも當流の正義をかたのごとく讚嘆せしむるひとをみては、あながちにこれを偏執す。すなはちわれひとりよくしりがほの風情は、第一に憍慢のこゝろにあらずや。かくのごときの心中をもて、諸方の門徒中を經廻して聖敎をよみ、あまさへわたくしの儀をもて本寺よりのつかひと號して、人をへつらひ虛言をかまへ、ものをとるばかりなり。これらのひとをば、なにとしてよき佛法者、また聖敎よみとはいふべきをや。あさまし、あさまし。なげきてもなをなげくべきはただこの一事なり。これによりてまづ當流の義をたて、ひとを勸化せんとおⅤ-0146もはんともがらにをひては、その勸化の次第をよく存知すべきものなり。 夫當流の他力信心のひととほりをすゝめんとおもはんには、まづ宿善・无宿善の機を沙汰すべし。さればいかにむかしより當門徒にその名をかけたるひとなりとも、无宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開發の機はをのづから信を決定すべし。されば无宿善の機のまへにをひては、正雜二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとひとなるべきなり。この宿善・无宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはゞからず勸化をいたすこと、もてのほかの當流のおきてにあひそむけり。されば『大經』(卷下)云、「若人无善本 不得聞此經」ともいひ、「若聞此經信樂受持難中之難无過斯難」ともいへり。また善導は、「過去已曾修習此法今得重聞則生歡喜」(定善義)とも釋せり。いづれの經釋によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、當流の法をばあたふべしときこえたり。このをもむきをくはしく存知して、ひとをば勸化すべし。ことにまづ王法をもて本とし、仁義をさきとして世間通途の儀に順じて、當流安心をば内心にふかくたくはへて、外相に法流のすがたを他宗・他家にみえぬやうにふるまふべし。このこゝろをもて當流眞實の正義をよく存知せしめたるⅤ-0147ひととはなづくべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明八年正月廿七日 (一三) 夫當流門徒中にをひてすでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こゝろうべき次第はまづほかには王法を本とし、諸神・諸佛・菩薩をかろしめず、また諸宗・諸法を謗ぜず、國ところにあらば守護・地頭にむきては疎略なく、かぎりある年貢所當をつぶさに沙汰をいたし、そのほか仁義をもて本とし、また後生のためには内心に阿彌陀如來を一心一向にたのみたてまつりて、自餘の雜行雜善にこゝろをばとゞめずして、一念も疑心なく信じまいらせば、かならず眞實の極樂淨土に往生すべし。このこゝろえのとほりをもて、すなはち彌陀如來の他力の信心をえたる念佛行者のすがたとはいふべし。かくのごとく念佛の信心をとりてのうへに、なをおもふべきやうは、さてもかゝるわれらごときのあさましき一生造惡のつみふかき身ながら、ひとたび一念歸命の信心ををこせば、佛の願力によりてたやすくたすけⅤ-0148たまへる彌陀如來の不思議にまします超世の本願の強縁のありがたさよと、ふかくおもひたてまつりて、その御恩報謝のためにはねてもさめてもたゞ念佛ばかりをとなへて、かの彌陀如來の佛恩を報じたてまつるべきばかりなり。このうへには後生のためになにをしりても所用なきところに、ちかごろもてのほか、みな人のなにの不足ありてか相傳もなきしらぬくせ法門をいひて、人をもまどはし、また无上の法流をもけがさんこと、まことにもてあさましき次第なり。よくよくおもひはからふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明八年七月十八日 釋證如(花押) Ⅴ-0149(一) 夫眞宗念佛行者のなかにをひて、法義についてそのこゝろえなき次第これおほし。しかるあひだ大概そのをもむきをあらはしをはりぬ。所詮自今已後は、同心の行者はこのことばをもて本とすべし。これについてふたつのこゝろあり。一には、自身の往生すべき安心をまづ治定すべし。二には、ひとを勸化せんに宿善・无宿善のふたつを分別して勸化をいたすべし。この道理を心中に決定してたもつべし。しかればわが往生の一段にをひては、内心にふかく一念發起の信心をたくはへて、しかも他力佛恩の稱名をたしなみ、そのうへにはなを王法をさきとし、仁義を本とすべし。また諸佛・菩薩等を疎略にせず、諸法・諸宗を輕賤せず、たゞ世間通途の儀に順じて、外相に當流法義のすがたを他宗・他門のひとにみせざるをもて、當流聖人のおきてをまもる眞宗念佛の行者といひつべし。ことに當時このごろは、あながちに偏執すべき耳をそばだて、謗難のくちびるをめぐらすをもて本とする時分たるあひだ、かたくその用捨あるべきものなり。そもそも當流にたつるところの他力の三信といふは、第十八の願に「至心信樂欲生我國」(大經*卷上)といへり。これすなはち三信とはいへども、たゞ彌陀をたのむところⅤ-0150の行者歸命の一心なり。そのゆへはいかんといふに、宿善開發の行者、一念彌陀に歸命せんとおもふこゝろの一念をこるきざみ、佛の心光、かの一念歸命の行者を攝取したまふ。その時節をさして至心・信樂・欲生の三信ともいひ、またこのこゝろを願成就の文には、「卽得往生住不退轉」(大經*卷下)ととけり。あるひはこのくらゐを、すなはち眞實信心の行人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人ともいふべし。されば彌陀に歸命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。しかれば念佛往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこゝろを聖人の御ことばには、「遇獲信心遠慶宿縁」(文類*聚鈔)とおほせられたり。これによりて當流のこゝろは、人を勸化せんとおもふとも、宿善・无宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。このゆへに宿善の有无の根機をあひはかりて人をば勸化すべし。しかれば近代當流の佛法者の風情は、是非の分別なく當流の義を荒涼に讚嘆せしむるあひだ、眞宗の正意、このいはれによりてあひすたれたりときこゑたり。かくのごときらの次第を委細に存知して、當流の一義をば讚嘆すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 Ⅴ-0151文明九年W丁酉R正月八日 (二) 夫人間の壽命をかぞふれば、いまのときの定命は五十六歲なり。しかるに當時にをひて、年五十六までいきのびたらん人は、まことにもていかめしきことなるべし。これによりて予すでに頹齡六十三歲にせまれり。勘篇すれば年ははや七年までいきのびぬ。これにつけても前業の所感なれば、いかなる病患をうけてか死の縁にのぞまんとおぼつかなし。これさらにはからざる次第なり。ことにもて當時の體たらくをみをよぶに、定相なき時分なれば、人間のかなしさはおもふやうにもなし。あはれ死なばやとおもはゞ、やがて死なれなん世にてもあらば、などか今までこの世にすみはんべりなん。たゞいそぎてもむまれたきは極樂淨土、ねがふてもねがひえんものは无漏の佛體なり。しかれば一念歸命の他力安心を佛智より獲得せしめん身のうへにをひては、畢命已期まで佛恩報盡のために稱名をつとめんにいたりては、あながちになにの不足ありてか、先生よりさだまれるところの死期をいそがんも、かへりてをろかにまどひぬるかともおもひⅤ-0152はんべるなり。このゆへに愚老が身上にあてゝかくのごとくおもへり。たれのひとびともこの心中に住すべし。ことにもてこの世界のならひは老少不定にして電光朝露のあだなる身なれば、いまも无常のかぜきたらんことをばしらぬ體にてすぎゆきて、後生をばかつてねがはず、たゞ今生をばいつまでもいきのびんずるやうにこそおもひはんべれ。あさましといふもなををろかなり。いそぎ今日より彌陀如來の他力本願をたのみ、一向に无量壽佛に歸命して眞實報土の往生をねがひ、稱名念佛せしむべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 于時文明九年九月十七日俄思出之間、辰剋已前早々書記之訖。 信證院[六十三歲] かきをくも ふでにまかする ふみなれば ことばのすゑぞ をかしかりける (三) 夫當時世上の體たらく、いつのころにか落居すべきともおぼえはんべらざる風情なり。しかるあひだ諸國往來の通路にいたるまでも、たやすからざる時分なれば、佛法・世法につけても千萬迷惑のおりふしなり。これによりてあるひは靈Ⅴ-0153佛・靈社參詣の諸人もなし。これにつけても人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功德善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。しかるにいまの世も末法濁亂とはいひながら、こゝに阿彌陀如來の他力本願は、いまの時節はいよいよ不可思議にさかりなり。さればこの廣大の悲願にすがりて、在家止住のともがらにをひては、一念の信心をとりて法性常樂の淨刹に往生せずは、まことにもてたからの山にいりて手をむなしくしてかへらんににたるもの歟。よくよくこゝろをしづめてこれを案ずべし。しかれば諸佛の本願をくはしくたづぬるに、五障の女人、五逆の惡人をばすくひたまふことかなはずときこえたり。これにつけても阿彌陀如來こそひとり无上殊勝の願ををこして、惡逆の凡夫、五障の女質をば、われたすくべきといふ大願をばをこしたまひけり。ありがたしといふもなををろかなり。これによりてむかし釋尊、靈鷲山にましまして、一乘法華の妙典をとかれしとき、提婆・阿闍世の逆害ををこし、釋迦、韋提をして安養をねがはしめたまひしによりて、かたじけなくも靈山法華の會座を沒して王宮に降臨して、韋提希夫人のために淨土の敎をひろめましまししによりて、彌陀の本願このときにあたりてさかんなり。このゆへに法華と念佛とⅤ-0154同時の敎といへることは、このいはれなり。これすなはち末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便に、釋迦、韋提・調達・闍世の五逆をつくりて、かゝる機なれども不思議の本願に歸すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまへりとしるべし。あなかしこ、あなかしこ。 文明九歲九月廿七日記之 (四) 夫秋もさり春もさりて、年月ををくること昨日もすぎ今日もすぐ。いつのまにかは年老のつもるらんともおぼえずしらざりき。しかるにそのうちには、さりとも、あるひは花鳥風月のあそびにもまじはりつらん、また歡樂苦痛の悲喜にもあひはんべりつらんなれども、いまにそれともおもひいだすこととてはひとつもなし。たゞいたづらにあかし、いたづらにくらして、老のしらがとなりはてぬる身のありさまこそかなしけれ。されども今日までは无常のはげしき風にもさそはれずして、我身ありがほの體をつらつら案ずるに、たゞゆめのごとし、まぼろしのごとし。いまにをひては生死出離の一道ならでは、ねがふべきかたとてはひとつもなⅤ-0155く、またふたつもなし。これによりて、こゝに未來惡世のわれらごときの衆生をたやすくたすけたまふ阿彌陀如來の本願のましますときけば、まことにたのもしく、ありがたくもおもひはんべるなり。この本願をたゞ一念无疑に至心歸命したてまつれば、わづらひもなく、そのとき臨終せば往生治定すべし。もしそのいのちのびなば、一期のあひだは佛恩報謝のために念佛して畢命を期とすべし。これすなはち平生業成のこゝろなるべしと、たしかに聽聞せしむるあひだ、その決定の信心のとほり、いまに耳のそこに退轉せしむることなし。ありがたしといふもなををろかなるものなり。されば彌陀如來他力本願のたふとさありがたさのあまり、かくのごとくくちにうかむにまかせてこのこゝろを詠歌にいはく、 ひとたびも ほとけをたのむ こゝろこそ まことののりに かなふみちなれ つみふかく 如來をたのむ 身になれば のりのちからに 西へこそゆけ 法をきく みちにこゝろの さだまれば 南无阿彌陀佛と となへこそすれ と我身ながらも本願の一法の殊勝なるあまり、かくまうしはんべりぬ。この三首の歌のこゝろは、はじめは一念歸命の信心決定のすがたをよみはんべり。Ⅴ-0156のちの歌は、入正定聚の益、必至滅度のこゝろをよみはんべりぬ。次のこゝろは、慶喜金剛の信心のうへには、知恩報德のこゝろをよみはんべりしなり。されば他力の信心發得せしむるうへなれば、せめてはかやうにくちずさみても、佛恩報盡のつとめにもやなりぬべきともおもひ、又きくひとも宿縁あらばなどやおなじこゝろにならざらんとおもひはんべりしなり。しかるに予すでに七旬のよはひにをよび、ことに愚闇无才の身として、片腹いたくもかくのごとくしらぬゑせ法門をまうすこと、かつは斟酌をもかへりみず、たゞ本願のひとすぢのたふとさばかりのあまり、卑劣のこのことの葉を筆にまかせてかきしるしをはりぬ。のちにみん人そしりをなさゞれ。これまことに讚佛乘の縁・轉法輪の因ともなりはんべりぬべし。あひかまへて偏執をなすことゆめゆめなかれ。あなかしこ、あなかしこ。 于時文明年中W丁酉R暮冬仲旬之比、於爐邊暫時書記之者也W云々R 右この書は、當所はりの木原邊より九間在家へ佛照寺所用ありて出行のとき、路次にてこの書をひろひて當坊へもちきたれり。 文明九年十二月二日 Ⅴ-0157(五) 夫中古已來當時にいたるまでも、當流の勸化をいたすその人數のなかにをひて、さらに宿善の有无といふことをしらずして勸化をなすなり。所詮自今已後にをひては、このいはれを存知せしめて、たとひ聖敎をもよみまた暫時に法門をいはんときも、このこゝろを覺悟して一流の法義をば讚嘆し、あるひはまた佛法聽聞のためにとて人數おほくあつまりたらんときも、この人數のなかにをひて、もし无宿善の機やあるらんとおもひて、一流眞實の法義を沙汰すべからざるところに、近代人々の勸化する體たらくをみをよぶに、この覺悟はなく、たゞいづれの機なりともよく勸化せば、などか當流の安心にもとづかざらんやうにおもひはんべりき、これあやまりとしるべし。かくのごときの次第をねんごろに存知して、當流の勸化をばいたすべきものなり。中古このごろにいたるまで、さらにそのこゝろをえてうつくしく勸化する人なし。これらのをもむきをよくよく覺悟して、かたのごとくの勸化をばいたすべきものなり。そもそも今月廿八日は每年の儀として、懈怠なく開山聖人の報恩謝德のために念佛勤行をいたさんと擬する人數これおほし。まことにもてながれをくんで本源をたづぬる道理Ⅴ-0158を存知せるがゆへなり。ひとへにこれ聖人の勸化のあまねきがいたすところなり。しかるあひだ近年ことのほか當流に讚嘆せざるひが法門をたてゝ、諸人をまどはしめて、あるひはそのところの地頭・領主にもとがめられ、わが身も惡見に住して當流の眞實なる安心のかたもたゞしからざるやうにみをよべり。あさましき次第にあらずや、かなしむべし、おそるべし。所詮今月報恩講七晝夜のうちにをひて、各々に改悔の心ををこして、わが身のあやまれるところの心中を心底にのこさずして、當寺の御影前にをひて、廻心懺悔して諸人の耳にこれをきかしむるやうに每日每夜にかたるべし。これすなはち「謗法闡提廻心皆往」(法事讚*卷上)の御釋にもあひかなひ、また「自信敎人信」(禮讚)の義にも相應すべきものなり。しからばまことにこゝろあらん人々は、この廻心懺悔をきゝてもげにもとおもひて、おなじく日ごろの惡心をひるがへして善心になりかへる人もあるべし。これぞまことに今月聖人の御忌の本懷にあひかなふべし。これすなはち報恩謝德の懇志たるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明十四年十一月廿一日 Ⅴ-0159(六) 抑當月の報恩講は、開山聖人の御遷化の正忌として、例年の舊儀とす。これによりて遠國近國の門徒のたぐひ、この時節にあひあたりて、參詣のこゝろざしをはこび報謝のまことをいたさんと欲す。しかるあひだ每年七晝夜のあひだにをひて、念佛勤行をこらしはげます。これすなはち眞實信心の行者繁昌せしむるゆへなり。まことにもて念佛得堅固の時節到來といひつべきもの歟。このゆへに一七ケ日のあひだにをひて參詣をいたすともがらのなかにをひて、まことに人まねばかりに御影前へ出仕をいたすやからこれあるべし。かの仁體にをひて、はやく御影前にひざまづゐて廻心懺悔のこゝろををこして、本願の正意に歸入して、一念發起の眞實信心をまうくべきものなり。それ南无阿彌陀佛といふは、すなはちこれ念佛行者の安心の體なりとおもふべし。そのゆへは南无といふは歸命なり、卽是歸命といふは、われらごときの无善造惡の凡夫のうへにをひて、阿彌陀佛をたのみたてまつるこゝろなりとしるべし。そのたのむこゝろといふは、卽是、阿彌陀佛の衆生を八萬四千の大光明のなかに攝取して、往還二種の廻向を衆生にあたへましますこゝろなり。されば信心といふも別のこゝろにあⅤ-0160らず、みな南无阿彌陀佛のうちにこもりたるものなり。ちかごろは人の別のことのやうにおもへり。これについて諸國にをひて當流門人のなかに、おほく祖師のさだめをかるゝところの聖敎の所判になきくせ法門を沙汰して法義をみだす條、もてのほかの次第なり。所詮かくのごときのやからにをひては、あひかまへてこの一七ケ日報恩講のうちにありて、そのあやまりをひるがへして正義にもとづくべきものなり。 一 佛法を棟梁し、かたのごとく坊主分をもちたらん人の身上にをひて、いさゝかも相承もせざるしらぬゑせ法門をもて人にかたり、われ物しりとおもはれんためにとて、近代在々所々に繁昌すと[云々]。これ言語道斷の次第なり。 一 京都本願寺御影へ參詣まうす身なりといひて、いかなる人の中ともいはず、大道・大路にても、また關・渡の船中にても、はゞからず佛法がたのことを人に顯露にかたること、おほきなるあやまりなり。 一 人ありていはく、我身はいかなる佛法を信ずる人ぞとあひたづぬることありとも、しかと當流の念佛者なりとこたふべからず。たゞなに宗ともなき念佛ばかりはたふときことゝ存じたるばかりなるものなりとこたふべし。これすなはち當Ⅴ-0161流聖人のをしへましますところの佛法者とみえざる人のすがたなるべし。さればこれらのをもむきをよくよく存知して、外相にそのいろをみせざるをもて、當流の正義とおもふべきものなり。これについてこの兩三年のあひだ報恩講中にをひて、衆中としてさだめをくところの義ひとつとして違變あるべからず。この衆中にをひて萬一相違せしむる子細これあらば、ながき世、開山聖人の御門徒たるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明十五年十一月 日 (七) 抑今月報恩講の事、例年の舊儀として七日の勤行をいたすところ、いまにその退轉なし。しかるあひだこの時節にあひあたりて、諸國門葉のたぐひ、報恩謝德の懇志をはこび稱名念佛の本行をつくす。まことにこれ專修專念決定往生の德なり。このゆへに諸國參詣のともがらにをひて、一味の安心に住する人まれなるべしとみえたり。そのゆへは眞實に佛法にこゝろざしはなくしてたゞ人まねばかり、あるひは仁義までの風情ならば、まことにもてなげかしき次第なり。Ⅴ-0162そのいはれいかんといふに、未安心のともがらは不審の次第をも沙汰せざるときは、不信のいたりともおぼえはんべれ。さればはるばると萬里の遠路をしのぎ、又莫太の苦勞をいたして上洛せしむるところ、さらにもてその所詮なし。かなしむべし、かなしむべし。たゞし不宿善の機ならば无用といひつべきもの歟。 一 近年は佛法繁昌ともみえたれども、まことにもて坊主分の人にかぎりて、信心のすがた一向无沙汰なりときこえたり。もてのほかなげかしき次第なり。 一 すゑずゑの門下のたぐひは、他力の信心のとほり聽聞のともがらこれおほきところに、坊主よりこれを腹立せしむるよしきこえはんべり。言語道斷の次第なり。 一 田舍より參詣の面々の身上にをひてこゝろうべき旨あり。そのゆへは他人の中ともいはず、また大道・路次なんどにても、關屋・船中をもはゞからず、佛法方の讚嘆をすること勿體なき次第なり。かたく停止すべきなり。 一 當流の念佛者を、あるひは人ありて、なに宗ぞとあひたづぬることたとひありとも、しかと當宗念佛者とこたふべからず。たゞなに宗ともなき念佛者なりとこたふべし。これすなはち我聖人のおほせをかるゝところの、佛法者氣色みえⅤ-0163ぬふるまひなるべし。このをもむきをよくよく存知して、外相にそのいろをはたらくべからず。まことにこれ當流の念佛者のふるまひの正義たるべきものなり。 一 佛法の由來を、障子・かきごしに聽聞して、内心にさぞとたとひ領解すといふとも、かさねて人にそのをもむきをよくよくあひたづねて、信心のかたをば治定すべし。そのまゝ我心にまかせば、かならずかならずあやまりなるべし。ちかごろこれらの子細當時さかんなりと[云々]。 一 信心をえたるとほりをば、いくたびもいくたびも人にたづねて他力の安心をば治定すべし。一往聽聞してはかならずあやまりあるべきなり。 右此六ケ條のをもむきよくよく存知すべきものなり。近年佛法は人みな聽聞すとはいへども、一往の儀をきゝて、眞實に信心決定の人これなきあひだ安心もうとうとしきがゆへなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明十六年十一月廿一日 (八) 抑今月廿八日の報恩講は昔年よりの流例たり。これによりて近國遠國の門Ⅴ-0164葉、報恩謝德の懇志をはこぶところなり。二六時中の稱名念佛、今古退轉なし。これすなはち開山聖人の法流、一天四海の勸化比類なきがいたすところなり。このゆへに七晝夜の時節にあひあたり、不法不信の根機にをひては、往生淨土の信心獲得せしむべきものなり。これしかしながら今月聖人の御正忌の報恩たるべし。しからざらんともがらにをひては、報恩謝德のこゝろざしなきににたるもの歟。これによりてこのごろ眞宗の念佛者と號するなかに、まことに心底より當流の安心決定なきあひだ、あるひは名聞、あるひはひとなみに報謝をいたすよしの風情これあり。もてのほかしかるべからざる次第なり。そのゆへはすでに萬里の遠路をしのぎ莫太の辛勞をいたして上洛のともがら、いたづらに名聞ひとなみの心中に住すること口惜次第にあらずや、すこぶる不足の所存といひつべし。たゞし无宿善の機にいたりてはちからをよばず。しかりといへども无二の懺悔をいたし、一心の正念におもむかば、いかでか聖人の御本意に達せざらんものをや。 一 諸國參詣のともがらのなかにをひて、在所をきらはず、いかなる大道・大路、又關屋・渡の船中にても、さらにそのはゞかりなく佛法方の次第を顯露に人にかⅤ-0165たること、しかるべからざる事。 一 在々所々にをひて、當流にさらに沙汰せざるめづらしき法門を讚嘆し、おなじく宗義になきおもしろき名目なんどをつかふ人これおほし。もてのほかの僻案なり。自今已後かたく停止すべきものなり。 一 この七ケ日報恩講中にをひては、一人ものこらず信心未定のともがらは、心中をはゞからず改悔懺悔の心ををこして、眞實信心を獲得すべきものなり。 一 もとより我安心のをもむきいまだ決定せしむる分もなきあひだ、その不審をいたすべきところに、心中をつゝみてありのまゝにかたらざるたぐひあるべし。これをせめあひたづぬるところに、ありのまゝに心中をかたらずして、當場をいひぬけんとする人のみなり、勿體なき次第なり。心中をのこさずかたりて、眞實信心にもとづくべきものなり。 一 近年佛法の棟梁たる坊主達、我信心はきはめて不足にて、結句門徒・同朋は信心は決定するあひだ、坊主の信心不足のよしをまうせばもてのほか腹立せしむる條、言語道斷の次第なり。已後にをひては師弟ともに一味の安心に住すべき事。 Ⅴ-0166一 坊主分の人、ちかごろはことのほか重坏のよし、そのきこえあり。言語道斷しかるべからざる次第なり。あながちに酒をのむ人を停止せよといふにはあらず。佛法につけ門徒につけ、重坏なればかならずやゝもすれば醉狂のみ出來せしむるあひだ、しかるべからず。さあらんときは坊主分は停止せられても、まことに興隆佛法ともいひつべき歟。しからずは一盞にてもしかるべき歟。これも佛法にこゝろざしのうすきによりてのことなれば、これをとゞまらざるも道理か。ふかく思案あるべきものなり。 一 信心決定のひとも、細々に同行に會合のときは、あひたがひに信心の沙汰あらば、これすなはち眞宗繁昌の根元なり。 一 當流の信心決定すといふ體は、すなはち南无阿彌陀佛の六字のすがたとこゝろうべきなり。すでに善導釋していはく、「言南无者卽是歸命亦是發願廻向之義言阿彌陀佛者卽是其行」(玄義分)といへり。南无と衆生が彌陀に歸命すれば、阿彌陀佛のその衆生をよくしろしめして、萬善萬行恆沙の功德をさづけたまふなり。このこゝろすなはち「阿彌陀佛卽是其行」といふこゝろなり。このゆへに南无と歸命する機と阿彌陀佛のたすけまします法とが一體なるところをさして、Ⅴ-0167機法一體の南无阿彌陀佛とはまうすなり。かるがゆへに阿彌陀佛のむかし法藏比丘たりしとき、衆生佛にならずはわれも正覺ならじとちかひましますとき、その正覺すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南无阿彌陀佛なりとこゝろうべし。これすなはちわれらが往生のさだまりたる證據なり。されば他力の信心獲得すといふも、たゞこの六字のこゝろなりと落居すべきものなり。 そもそもこの八ケ條のをもむきかくのごとし。しかるあひだ當寺建立はすでに九ケ年にをよべり。每年の報恩講中にをひて、面々各々に隨分信心決定のよし領納ありといへども、昨日今日までも、その信心のをもむき不同なるあひだ、所詮なきもの歟。しかりといへども當年の報恩講中にかぎりて、不信心のともがら、今月報恩講のうちに早速に眞實信心を獲得なくは、年々を經といふとも同篇たるべきやうにみえたり。しかるあひだ愚老が年齡すでに七旬にあまりて、來年の報恩講をも期しがたき身なるあひだ、各々に眞實に決定信をえしめん人あらば、一は聖人今月の報謝のため、一は愚老がこの七、八ケ年のあひだの本懷ともおもひはんべるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明十七年十一月廿三日 Ⅴ-0168(九) 當時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生れはじめしよりしてさだまれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。しかれどもいまの時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきやうにみなひとおもへり。これまことに道理ぞかし。このゆへに阿彌陀如來のおほせられけるやうは、末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、つみはいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべしとおほせられたり。かゝる時はいよいよ阿彌陀佛をふかくたのみまいらせて、極樂に往生すべしとおもひとりて、一向一心に彌陀をたふときことゝうたがふこゝろつゆちりほどももつまじきことなり。かくのごとくこゝろえのうへには、ねてもさめても南无阿彌陀佛南无阿彌陀佛とまうすは、かやうにやすくたすけまします御ありがたさ御うれしさをまうす御禮のこゝろなり。これをすなはち佛恩報謝の念佛とはまうすなり。あなかしこ、あなかしこ。 延德四年六月 日 Ⅴ-0169(一〇) いまの世にあらん女人は、みなみなこゝろを一にして阿彌陀如來をふかくたのみたてまつるべし。そのほかにはいづれの法を信ずといふとも、後生のたすかるといふことゆめゆめあるべからずとおもふべし。されば彌陀をばなにとやうにたのみ、また後生をばなにとねがふべきぞといふに、なにのわづらひもなくたゞ一心に彌陀をたのみ、後生たすけたまへとふかくたのみ申さん人をば、かならず御たすけあらんことは、さらさらつゆほどもうたがひあるべからざるものなり。このうへには、はやしかと御たすけあるべきことのありがたさよとおもひて、佛恩報謝のために念佛申すべきばかりなり。あなかしこ、あなかしこ。 八十三歲[御判] (一一) 南无阿彌陀佛と申はいかなる心にて候や。然者何と彌陀をたのみて報土往生をばとぐべく候哉らん。これを心得べきやうは、まづ南无阿彌陀佛の六字のすがたをよくよく心得わけて、彌陀をばたのむべし。抑南无阿彌陀佛の體は、すⅤ-0170なはち我等衆生の後生たすけたまへとたのみ申心なり。すなはちたのむ衆生を阿彌陀如來のよくしろしめして、すでに无上大利の功德をあたへましますなり。これを衆生に廻向したまへるといへるはこの心なり。されば彌陀をたのむ機を阿彌陀佛のたすけたまふ法なるがゆへに、これを機法一體の南无阿彌陀佛といへるはこのこゝろなり。これすなはち我等が往生のさだまりたる他力の信心なりとは心得べき物なり。あなかしこ、あなかしこ。 明應六年五月廿五日書之訖[八十三歲] (一二) 抑每月兩度の寄合の由來はなにのためぞといふに、さらに他のことにあらず、自身の往生極樂の信心獲得のためなるがゆへなり。しかれば往古よりいまにいたるまでも、每月の寄合といふことは、いづくにもこれありといへども、さらに信心の沙汰とてはかつてもてこれなし。ことに近年はいづくにも寄合のときは、たゞ酒・飯・茶なんどばかりにてみなみな退散せり。これは佛法の本意にはしかるべからざる次第なり。いかにも不信の面々は一段の不審をもたてゝ、信心の有Ⅴ-0171无を沙汰すべきところに、なにの所詮もなく退散せしむる條、しかるべからずおぼえはんべり。よくよく思案をめぐらすべきことなり。所詮自今已後にをひては、不信の面々はあひたがひに信心の讚嘆あるべきこと肝要なり。 それ當流の安心のをもむきといふは、あながちにわが身の罪障のふかきによらず、たゞもろもろの雜行のこゝろをやめて、一心に阿彌陀如來に歸命して、今度の一大事の後生たすけたまへとふかくたのまん衆生をば、ことごとくたすけたまふべきことさらにうたがひあるべからず。かくのごとくよくこゝろえたる人は、まことに百卽百生なるべきなり。このうへには每月の寄合をいたしても、報恩謝德のためとこゝろえなば、これこそ眞實の信心を具足せしめたる行者ともなづくべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 明應七年二月廿五日書之 每月兩度講衆中へ 八十四歲 Ⅴ-0172(一三) 夫秋さり春さり、すでに當年は明應第七孟夏仲旬ごろになりぬれば、予が年齡つもりて八十四歲ぞかし。しかるに當年にかぎりて、ことのほか病氣にをかさるゝあひだ、耳目・手足・身體こゝろやすからざるあひだ、これしかしながら業病のいたりなり。または往生極樂の先相なりと覺悟せしむるところなり。これによりて法然聖人の御ことばにいはく、「淨土をねがふ行人は、病患をえてひとへにこれをたのしむ」(選擇私集鈔卷四意*傳通記糅鈔卷四三意)とこそおほせられたり。しかれどもあながちに病患をよろこぶこゝろ、さらにもてをこらず、あさましき身なり、はづべし、かなしむべきもの歟。さりながら予が安心の一途、一念發起平生業成の宗旨にをひては、いま一定のあひだ佛恩報盡の稱名は行住坐臥にわすれざること間斷なし。これについてこゝに愚老一身の述懷これあり。そのいはれはわれら居住の在所在所の門下のともがらにをひては、おほよそ心中をみをよぶに、とりつめて信心決定のすがたこれなしとおもひはんべり。おほきになげきおもふところなり。そのゆへは愚老すでに八旬の齡すぐるまで存命せしむるしるしには、信心決定の行者繁昌ありてこそ、いのちながきしるしともおもひはんべるべきに、Ⅴ-0173さらにしかしかとも決定せしむるすがたこれなしとみをよべり。そのいはれをいかんといふに、そもそも人間界の老少不定のことをおもふにつけても、いかなるやまひをうけてか死せんや。かゝる世のなかの風情なれば、いかにも一日も片時もいそぎて信心決定して、今度の往生極樂を一定して、そののち人間のありさまにまかせて、世をすごすべきこと肝要なりとみなみなこゝろうべし。このをもむきを心中におもひいれて、一念に彌陀をたのむこゝろをふかくをこすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 明應七年初夏仲旬第一日 八十四歲老納書之 彌陀の名を きゝうることの あるならば 南无阿彌陀佛と たのめみなひと (一四) 一流安心の體といふ事。 南无阿彌陀佛の六字のすがたなりとしるべし。この六字を善導大師釋していはく、「言南无者卽是歸命亦是發願廻向之義言阿彌陀佛者卽是其行以斯義故必得往生」Ⅴ-0174(玄義分)といへり。まづ「南无」といふ二字は、すなはち歸命といふこゝろなり。「歸命」といふは、衆生の阿彌陀佛後生たすけたまへとたのみたてまつるこゝろなり。また「發願廻向」といふは、たのむところの衆生を攝取してすくひたまふこゝろなり。これすなはちやがて「阿彌陀佛」の四字のこゝろなり。さればわれらごときの愚癡闇鈍の衆生は、なにとこゝろをもち、また彌陀をばなにとたのむべきぞといふに、もろもろの雜行をすてゝ一向一心に後生たすけたまへと彌陀をたのめば、決定極樂に往生すべきこと、さらにそのうたがひあるべからず。このゆへに南无の二字は、衆生の彌陀をたのむ機のかたなり。また阿彌陀佛の四字は、たのむ衆生をたすけたまふかたの法なるがゆへに、これすなはち機法一體の南无阿彌陀佛とまうすこゝろなり。この道理あるがゆへに、われら一切衆生の往生の體は南无阿彌陀佛ときこえたり。あなかしこ、あなかしこ。 明應七年四月 日 (一五) 抑當國攝州東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は、往古よりいかなる約束のⅤ-0175ありけるにや、さんぬる明應第五の秋下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舍を建立せしめ、當年ははやすでに三年の歲霜をへたりき。これすなはち往昔の宿縁あさからざる因縁なりとおぼえはんべりぬ。それについてこの在所に居住せしむる根元は、あながちに一生涯をこゝろやすくすごし、榮花榮耀をこのみ、また花鳥風月にもこゝろをよせず、あはれ无上菩提のためには信心決定の行者も繁昌せしめ、念佛をもまうさんともがらも出來せしむるやうにもあれかしと、おもふ一念のこゝろざしをはこぶばかりなり。またいさゝかも世間の人なんども偏執のやからもあり、むづかしき題目なんども出來あらんときは、すみやかにこの在所にをひて執心のこゝろをやめて、退出すべきものなり。これによりていよいよ貴賤道俗をえらばず、金剛堅固の信心を決定せしめんこと、まことに彌陀如來の本願にあひかなひ、別しては聖人の御本意にたりぬべきもの歟。それについて愚老すでに當年は八十四歲まで存命せしむる條不思議なり。まことに當流法義にもあひかなふ歟のあひだ、本望のいたりこれにすぐべからざるもの歟。しかれば愚老當年の夏ごろより違例せしめて、いまにをひて本復のすがたこれなし。つゐには當年寒中Ⅴ-0176にはかならず往生の本懷をとぐべき條一定とおもひはんべり。あはれあはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懷のこゝろしばらくもやむことなし。またはこの在所に三年の居住をふるその甲斐ともおもふべし。あひかまへてあひかまへて、この一七ケ日報恩講のうちにをひて信心決定ありて、我人一同に往生極樂の本意をとげたまふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 明應七年十一月廿一日よりはじめて、これをよみて人々に信をとらすべきものなり。 釋證如(花押) Ⅴ-0177(一) 末代无智の在家止住の男女たらんともがらは、こゝろをひとつにして阿彌陀佛をふかくたのみまいらせて、さらに餘のかたへこゝろをふらず、一心一向に佛たすけたまへとまうさん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず彌陀如來はすくひましますべし。これすなはち第十八の念佛往生の誓願のこゝろなり。かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは、稱名念佛すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 (二) それ八萬の法藏をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。しかれば當流のこゝろは、あながちにもろもろの聖敎をよみ、ものをしりたりといふとも、一念の信心のいはれをしらざる人はいたづら事なりとしるべし。されば聖人の御ことばにも、一切の男女たらん身は、彌陀の本願を信ぜずしては、ふつとたすかるといふ事あるべからずとおほせられたり。このゆへにいかなる女人なりといⅤ-0178ふとも、もろもろの雜行をすてゝ一念に彌陀如來今度の後生たすけたまへとふかくたのみ申さん人は、十人も百人もみなともに彌陀の報土に往生すべき事、さらさらうたがひあるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。 (三) 夫在家の尼女房たらん身は、なにのやうもなく一心一向に阿彌陀佛をふかくたのみまいらせて、後生たすけたまへとまうさんひとをば、みなみな御たすけあるべしとおもひとりて、さらにうたがひのこゝろゆめゆめあるべからず。これすなはち彌陀如來の御ちかひの他力本願とはまうすなり。このうへにはなを後生のたすからんことのうれしさありがたさをおもはゞ、たゞ南无阿彌陀佛南无阿彌陀佛ととなふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 (四) 抑男子も女人も罪のふかゝらんともがらは、諸佛の悲願をたのみても、いまの時分は末代惡世なれば、諸佛の御ちからにては中々かなはざる時なり。これによⅤ-0179りて阿彌陀如來と申奉るは、諸佛にすぐれて、十惡・五逆の罪人を我たすけんといふ大願ををこしましまして、阿彌陀佛となり給へり。この佛をふかくたのみて一念御たすけ候へと申さん衆生を、我たすけずは正覺ならじとちかひまします彌陀なれば、我等が極樂に往生せん事は更にうたがひなし。このゆへに一心一向に阿彌陀如來たすけ給へとふかく心にうたがひなく信じて、我身の罪のふかき事をばうちすて佛にまかせまいらせて、一念の信心さだまらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな淨土に往生すべき事、さらにうたがひなし。このうへにはなをなをたふとくおもひたてまつらんこゝろのをこらん時は、南无阿彌陀佛南无阿彌陀佛と、時をもいはずところをもきらはず念佛申べし。これをすなはち佛恩報謝の念佛と申なり。あなかしこ、あなかしこ。 (五) 信心獲得すといふは第十八の願をこゝろうるなり。この願をこゝろうるといふは、南无阿彌陀佛のすがたをこゝろうるなり。このゆへに南无と歸命する一念の處に發願廻向のこゝろあるべし。これすなはち彌陀如來の凡夫に廻向しましⅤ-0180ますこゝろなり。これを『大經』(卷上)には「令諸衆生功德成就」ととけり。されば无始已來つくりとつくる惡業煩惱を、のこるところもなく願力不思議をもて消滅するいはれあるがゆへに、正定聚不退のくらゐに住すとなり。これによりて煩惱を斷ぜずして涅槃をうといへるはこのこゝろなり。此義は當流一途の所談なるものなり。他流の人に對して、かくのごとく沙汰あるべからざる所なり。能々こゝろうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 (六) 一念に彌陀をたのみたてまつる行者には、无上大利の功德をあたへたまふこゝろを、『和讚』(正像末*和讚)に聖人のいはく、 「五濁惡世の有情の 選擇本願信ずれば 不可稱不可說不可思議の 功德は行者の身にみてり」。この『和讚』の心は、「五濁惡世の衆生」といふは一切我等女人・惡人の事なり。さればかゝるあさましき一生造惡の凡夫なれども、彌陀如來を一心一向にたのみまいらせて、後生たすけ給へとまうさんものをば、かならずすくひましますべきこと、さらに疑べからず。かやうに彌陀をたのみまうすもⅤ-0181のには、不可稱不可說不可思議の大功德をあたへましますなり。「不可稱不可說不可思議の功德」といふことは、かずかぎりもなき大功德のことなり。この大功德を、一念に彌陀をたのみまうす我等衆生に廻向しましますゆへに、過去・未來・現在の三世の業障一時につみきえて、正定聚のくらゐ、また等正覺のくらゐなんどにさだまるものなり。このこゝろをまた『和讚』(正像末*和讚意)にいはく、「彌陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 攝取不捨の利益ゆへ 等正覺にいたるなり」といへり。「攝取不捨」といふは、これも一念に彌陀をたのみたてまつる衆生を光明のなかにおさめとりて、信ずるこゝろだにもかはらねばすてたまはずといふこゝろなり。このほかにいろいろの法門どもありといへども、たゞ一念に彌陀をたのむ衆生はみなことごとく報土に往生すべきこと、ゆめゆめうたがふこゝろあるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。 (七) 夫女人の身は、五障・三從とて、おとこにまさりてかゝるふかきつみのあるなり。このゆへに一切の女人をば、十方にまします諸佛も、わがちからにては女人Ⅴ-0182をばほとけになしたまふことさらになし。しかるに阿彌陀如來こそ、女人をばわれひとりたすけんといふ大願ををこしてすくひたまふなり。このほとけをたのまずは、女人の身のほとけになるといふことあるべからざるなり。これによりてなにとこゝろをももち、またなにと阿彌陀ほとけをたのみまいらせてほとけになるべきぞなれば、なにのやうもいらず、たゞふたごゝろなく一向に阿彌陀佛ばかりをたのみまいらせて、後生たすけたまへとおもふこゝろひとつにて、やすくほとけになるべきなり。このこゝろのつゆちりほどもうたがひなければ、かならずかならず極樂へまいりて、うつくしきほとけとはなるべきなり。さてこのうへにこゝろうべきやうは、ときどき念佛をまうして、かゝるあさましきわれらをやすくたすけまします阿彌陀如來の御恩を、御うれしさありがたさを報ぜんために、念佛まうすべきばかりなりとこゝろうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 (八) それ五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、たゞ我等一切衆生をあながちにたすけ給はんがための方便に、阿彌陀如來、御身勞ありて南无阿彌Ⅴ-0183陀佛といふ本願をたてましまして、まよひの衆生の一念に阿彌陀佛をたのみまいらせて、もろもろの雜行をすてゝ一向一心に彌陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覺とらじとちかひ給ひて、南无阿彌陀佛となりまします。これすなはち我等がやすく極樂に往生すべきいはれなりとしるべし。されば南无阿彌陀佛の六字のこゝろは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり。このゆへに南无と歸命すれば、やがて阿彌陀佛の我等をたすけたまへるこゝろなり。このゆへに南无の二字は、衆生の彌陀如來にむかひたてまつりて後生たすけたまへとまうすこゝろなるべし。かやうに彌陀をたのむ人をもらさずすくひたまふこゝろこそ、阿彌陀佛の四字のこゝろにてありけりとおもふべきものなり。これによりていかなる十惡・五逆、五障・三從の女人なりとも、もろもろの雜行をすてゝひたすら後生たすけたまへとたのまん人をば、たとへば十人もあれ百人もあれ、みなことごとくもらさずたすけたまふべし。このをもむきをうたがひなく信ぜん輩は、眞實の彌陀の淨土に往生すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 Ⅴ-0184(九) 當流の安心の一義といふは、たゞ南无阿彌陀佛の六字のこゝろなり。たとへば南无と歸命すれば、やがて阿彌陀佛のたすけたまへるこゝろなるがゆへに、南无の二字は歸命のこゝろなり。歸命といふは、衆生のもろもろの雜行をすてゝ、阿彌陀佛後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこゝろなるべし。このゆへに衆生をもらさず彌陀如來のよくしろしめして、たすけましますこゝろなり。これによりて南无とたのむ衆生を阿彌陀佛のたすけまします道理なるがゆへに、南无阿彌陀佛の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるゝなり。されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南无阿彌陀佛の六字のこゝろなり。このゆへに一切の聖敎といふも、たゞ南无阿彌陀佛の六字を信ぜしめんがためなりといふこゝろなりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 (一〇) 聖人一流の御勸化のをもむきは、信心をもて本とせられ候。そのゆへはもろⅤ-0185もろの雜行をなげすてゝ、一心に彌陀に歸命すれば、不可思議の願力として、佛のかたより往生は治定せしめたまふ。そのくらゐを「一念發起入正定之聚」(論註*卷上意)とも釋し、そのうへの稱名念佛は如來わが往生をさだめたまひし御恩報盡の念佛とこゝろうべきなり。あなかしこ、あなかしこ。 (一一) 抑この御正忌のうちに參詣をいたし、こゝろざしをはこび、報恩謝德をなさんとおもひて、聖人の御まへにまいらんひとのなかにをひて、信心を獲得せしめたるひともあるべし、また不信心のともがらもあるべし、もてのほかの大事なり。そのゆへは信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。されば不信のひともすみやかに決定のこゝろをとるべし。人間は不定のさかひなり、極樂は常住の國なり。されば不定の人間にあらんよりも、常住の極樂をねがふべきものなり。されば當流には信心のかたをもてさきとせられたるそのゆへをよくしらずは、いたづらごとなり。いそぎて安心決定して、淨土の往生をねがふべきなり。それ人間に流布してみな人のこゝろえたるとほりは、なにの分別もなくくちにたゞⅤ-0186稱名ばかりをとなへたらば、極樂に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南无阿彌陀佛の六の字のこゝろをよくしりたるをもて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の體といふは、『經』(大經*卷下)にいはく、「聞其名號信心歡喜」といへり。善導のいはく、「南无といふは歸命、またこれ發願廻向の義なり。阿彌陀佛といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南无」といふ二字のこゝろは、もろもろの雜行をすてゝ、うたがひなく一心一向に阿彌陀佛をたのみたてまつるこゝろなり。さて「阿彌陀佛」といふ四の字のこゝろは、一心に彌陀を歸命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿彌陀佛の四の字のこゝろなり。されば南无阿彌陀佛の體をかくのごとくこゝろえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこゝろえたる念佛の行者とはまうすなり。あなかしこ、あなかしこ。 (一二) 當流の安心のをもむきをくはしくしらんとおもはんひとは、あながちに智慧・才Ⅴ-0187學もいらず、たゞわが身はつみふかきあさましきものなりとおもひとりて、かゝる機までもたすけたまへるほとけは阿彌陀如來ばかりなりとしりて、なにのやうもなくひとすぢにこの阿彌陀ほとけの御袖にひしとすがりまいらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば、この阿彌陀如來はふかくよろこびましまして、その御身より八萬四千のおほきなる光明をはなちて、その光明のなかにその人をおさめいれてをきたまふべし。さればこのこゝろを『經』(觀經)には、「光明遍照十方世界念佛衆生攝取不捨」とはとかれたりとこゝろうべし。さてはわが身のほとけにならんずることは、なにのわづらひもなし。あら殊勝の超世の本願や、ありがたの彌陀如來の光明や。この光明の縁にあひたてまつらずは、无始よりこのかたの无明業障のおそろしきやまひのなほるといふことは、さらにもてあるべからざるものなり。しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて、他力信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら彌陀如來の御かたよりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆへに行者のをこすところの信心にあらず、彌陀如來他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。これによりてかたじけなくもひとたⅤ-0188び他力の信心をえたらん人は、みな彌陀如來の御恩をおもひはかりて、佛恩報謝のためにつねに稱名念佛をまうしたてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 (一三) それ南无阿彌陀佛とまうす文字は、そのかずわづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名號のうちには无上甚深の功德利益の廣大なること、さらにそのきはまりなきものなり。されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。 抑この南无阿彌陀佛の六字を善導釋していはく、「南无といふは歸命なり、またこれ發願廻向の義なり。阿彌陀佛といふはその行なり。この義をもてのゆへにかならず往生することをう」(玄義分)といへり。しかればこの釋のこゝろをなにとこゝろうべきぞといふに、たとへば我等ごときの惡業煩惱の身なりといふとも、一念阿彌陀佛に歸命せば、かならずその機をしろしめしてたすけたまふべし。Ⅴ-0189それ歸命といふはすなはちたすけたまへとまうすこゝろなり。されば一念に彌陀をたのむ衆生に无上大利の功德をあたへたまふを、發願廻向とはまうすなり。この發願廻向の大善大功德をわれら衆生にあたへましますゆへに、无始曠劫よりこのかたつくりをきたる惡業煩惱をば一時に消滅したまふゆへに、われらが煩惱惡業はことごとくみなきえて、すでに正定聚不退轉なんどいふくらゐに住すとはいふなり。このゆへに南无阿彌陀佛の六字のすがたは、われらが極樂に往生すべきすがたをあらはせるなりと、いよいよしられたるものなり。されば安心といふも信心といふも、この名號の六字のこゝろをよくよくこゝろうるものを、他力の大信心をえたるひとゝはなづけたり。かゝる殊勝の道理あるがゆへに、ふかく信じたてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 (一四) それ一切の女人の身は、人しれずつみのふかきこと、上臘にも下主にもよらぬあさましき身なりとおもふべし。それにつきてはなにとやうに彌陀を信ずべきぞといふに、なにのわづらひもなく阿彌陀如來をひしとたのみまいらせて、今度のⅤ-0190一大事の後生たすけたまへとまうさん女人をば、あやまたずたすけたまふべし。さてわが身のつみのふかきことをばうちすてゝ、彌陀にまかせまいらせて、たゞ一心に彌陀如來後生たすけたまへとたのみまうさば、その身をよくしろしめしてたすけたまふべきことうたがひあるべからず。たとへば十人ありとも百人ありとも、みなことごとく極樂に往生すべきこと、さらにそのうたがふこゝろつゆほどももつべからず。かやうに信ぜん女人は淨土にむまるべし。かくのごとくやすきことを、いまゝで信じたてまつらざることのあさましさよとおもひて、なをなをふかく彌陀如來をたのみたてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 (一五) 夫彌陀如來の本願とまうすは、なにたる機の衆生をたすけ給ぞ、又いかやうに彌陀をたのみ、いかやうに心をもちてたすかるべきやらん。まづ機をいへば、十惡・五逆の罪人なりとも、五障・三從の女人なりとも、さらにその罪業の深重にこゝろをばかくべからず。たゞ他力の大信心一にて、眞實の極樂往生をとぐべきものなり。さればその信心といふは、いかやうにこゝろをもちて、彌陀をばなⅤ-0191にとやうにたのむべきやらん。それ信心をとるといふは、やうもなく、たゞもろもろの雜行雜修自力なんどいふわろき心をふりすてゝ、一心にふかく彌陀に歸するこゝろのうたがひなきを眞實信心とはまうすなり。かくのごとく一心にたのみ、一向にたのむ衆生を、かたじけなくも彌陀如來はよくしろしめして、この機を光明をはなちてひかりの中におさめをきましまして、極樂へ往生せしむべきなり。これを念佛衆生を攝取したまふといふことなり。このうへにはたとひ一期のあひだまうす念佛なりとも、佛恩報謝の念佛とこゝろうべきなり。これを當流の信心をよくこゝろえたる念佛行者といふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 (一六) 夫人間の浮生なる相をつらつら觀ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ萬歲の人身をうけたりといふ事をきかず、一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形體をたもつべきや。我やさき人やさき、けふともしらずあすともしらず、をくれさきだつ人はもⅤ-0192とのしづくすゑの露よりもしげしといへり。されば朝には紅顏ありて夕には白骨となれる身なり。すでに无常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちにとぢ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顏むなしく變じて桃李のよそほひをうしなひぬるときは、六親眷屬あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外にをくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、たゞ白骨のみぞのこれり。あはれといふも中々をろかなり。されば人間のはかなき事は老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿彌陀佛をふかくたのみまいらせて、念佛まうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 (一七) それ一切の女人の身は、後生を大事におもひ、佛法をたふとくおもふ心あらば、なにのやうもなく阿彌陀如來をふかくたのみまいらせて、もろもろの雜行をふりすてゝ、一心に後生を御たすけ候へとひしとたのまん女人は、かならず極樂に往生すべき事、さらにうたがひあるべからず。かやうにおもひとりてののちは、Ⅴ-0193ひたすら彌陀如來のやすく御たすけにあづかるべき事のありがたさ、又たふとさよとふかく信じて、ねてもさめても南无阿彌陀佛南无阿彌陀佛と申べきばかりなり。これを信心とりたる念佛者とは申すものなり。あなかしこ、あなかしこ。 (一八) 當流聖人のすゝめまします安心といふは、なにのやうもなく、まづ我身のあさましきつみのふかきことをばうちすてゝ、もろもろの雜行雜修のこゝろをさしをきて、一心に阿彌陀如來後生たすけたまへと、一念にふかくたのみたてまつらんものをば、たとへば十人は十人百人は百人ながら、みなもらさずたすけたまふべし。これさらにうたがふべからざるものなり。かやうによくこゝろえたる人を信心の行者といふなり。さてこのうへにはなを我身の後生のたすからん事のうれしさをおもひいださんときは、ねてもさめても南无阿彌陀佛南无阿彌陀佛ととなふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 Ⅴ-0194(一九) それ末代の惡人・女人たらん輩は、みなみな心を一にして阿彌陀佛をふかくたのみたてまつるべし。そのほかにはいづれの法を信ずといふとも、後生のたすかるといふ事ゆめゆめあるべからず。しかれば阿彌陀如來をばなにとやうにたのみ、後生をばねがふべきぞといふに、なにのわづらひもなくたゞ一心に阿彌陀如來をひしとたのみ、後生たすけたまへとふかくたのみ申さん人をば、かならず御たすけあるべき事、さらさらうたがひあるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。 (二〇) それ一切の女人たらん身は、彌陀如來をひしとたのみ、後生たすけたまへと申さん女人をば、かならず御たすけあるべし。さるほどに諸佛のすてたまへる女人を、阿彌陀如來ひとり我たすけずんばまたいづれの佛のたすけたまはんぞとおぼしめして、无上の大願ををこして、我諸佛にすぐれて女人をたすけんとて五劫があひだ思惟し、永劫があひだ修行して、世にこえたる大願ををこして、女人成Ⅴ-0195佛といへる殊勝の願ををこしまします彌陀なり。このゆへにふかく彌陀をたのみ、後生たすけたまへと申さん女人は、みなみな極樂に往生すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 (二一) 當流の安心といふは、なにのやうもなく、もろもろの雜行雜修のこゝろをすてゝ、わが身はいかなる罪業ふかくとも、それをば佛にまかせまいらせて、たゞ一心に阿彌陀如來を一念にふかくたのみまいらせて、御たすけさふらへとまうさん衆生をば、十人は十人百人は百人ながら、ことごとくたすけたまふべし。これさらにうたがふこゝろつゆほどもあるべからず。かやうに信ずる機を安心をよく決定せしめたる人とはいふなり。このこゝろをこそ經釋の明文には、「一念發起住正定聚」(論註*卷上意)とも平生業成の行人ともいふなり。さればたゞ彌陀佛を一念にふかくたのみたてまつること肝要なりとこゝろうべし。このほかには彌陀如來のわれらをやすくたすけまします御恩のふかきことをおもひて、行住坐臥につねに念佛をまうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 Ⅴ-0196(二二) 抑當流勸化のをもむきをくはしくしりて、極樂に往生せんとおもはんひとは、まづ他力の信心といふことを存知すべきなり。それ他力の信心といふはなにの要ぞといへば、かゝるあさましきわれらごときの凡夫の身が、たやすく淨土へまいるべき用意なり。その他力の信心のすがたといふはいかなることぞといへば、なにのやうもなくたゞひとすぢに阿彌陀如來を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこゝろの一念をこるとき、かならず彌陀如來の攝取の光明をはなちて、その身の娑婆にあらんほどはこの光明のなかにおさめをきましますなり。これすなはちわれらが往生のさだまりたるすがたなり。されば南无阿彌陀佛とまうす體は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふはこの南无阿彌陀佛のいはれをあらはせるすがたなりとこゝろうべきなり。さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極樂にやすく往生すべきことのさらになにのうたがひもなし。あら殊勝の彌陀如來の本願や。このありがたさの彌陀の御恩をば、いかゞして報じたてまつるべきぞなれば、たゞねてもおきても南无阿彌陀佛ととなへて、かの彌陀如來の佛恩を報ずべきなり。さればⅤ-0197南无阿彌陀佛ととなふるこゝろはいかんぞなれば、阿彌陀如來の御たすけありつるありがたさたふとさよとおもひて、それをよろこびまうすこゝろなりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 釋證如(花押)