Ⅴ-0207夏御文章 (一) 抑今日の聖敎を聽聞のためにとて、皆々これへ御より候ことは、信心の謂れをよくよくこゝろゑられ候て、今日よりは御こゝろをうかうかと御もち候はで、きゝわけられ候はでは、なにの所用もなきことにてあるべく候。そのいはれをたゞいままふすべく候。御耳をすまして、よくよくきこしめし候べし。 夫安心と申は、もろもろの雜行をすてゝ一心に彌陀如來をたのみ、今度の我等が後生たすけたまへと申すをこそ、安心を決定したる行者とは申候なれ。此謂れをしりてのうへの佛恩報謝の念佛とは申すことにて候なり。されば聖人の『和讚』(正像末*和讚)にも、「智慧の念佛うることは 法藏願力のなせるなり 信心の智慧にいりてこそ 佛恩報ずる身とはなれ」とおほせられたり。このこゝろをもてこゝろへられ候はんこと肝要にて候。それについてはまづ「念佛の行者、南无阿彌陀佛の名號をきかば、あは、はやわが往生は成就しにけり、十方衆生、往生成就せずⅤ-0208は正覺とらじとちかひたまひし法藏菩薩の正覺の果名なるがゆへにとおもふべし」(安心決定*鈔卷本意)といへり。又「極樂といふ名をきかば、あは、我が往生すべきところを成就したまひにけり、衆生往生せずは正覺とらじとちかひたまひし法藏比丘の成就したまへる極樂よとおもふべし」(安心決定*鈔卷本)。又「本願を信じ名號をとなふとも、餘所なる佛の功德とおもひて名號に功をいれなば、などか往生をとげざらんなんどおもはんは、かなしかるべきことなり。ひしとわれらが往生成就せしすがたを南无阿彌陀佛とはいひけるといふ信心をこりぬれば、佛體すなはちわれらが往生の行なるがゆへに、一聲のところに往生を決定するなり」(安心決定*鈔卷本)。このこゝろは、安心をとりてのうへのことどもにて侍べるなりとこゝろゑらるべきことなりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 明應七年五月下旬 (二) 抑今日、御影前へ御まいり候面々は、聖敎をよみ候を御聽聞のためにてぞ御入候らん。さればいづれの所にても聖敎を聽聞せられ候ときも、その義理をきゝわけⅤ-0209らるゝ分も更に候はで、たゞ人目計のやうにみなみなあつまられ候ことは、なにの篇目もなきやうにおぼへ候。夫聖敎をよみ候ことも、他力の信心をとらしめんがためにこそよみ候ことにて候に、更にその謂れをきゝわけ候て、わが信のあさきをもなをされ候はんことこそ佛法の本意にてはあるべきに、每日に聖敎があるとては、しるもしらぬもよられ候ことは、所詮もなきことにて候。今日よりしてはあひかまへてその謂れをきゝわけられ候て、もとの信心のわろきことをも人にたづねられ候てなをされ候はでは、かなふべからず候。その分をよくよくこゝろゑられ候て聽聞候はゞ、自行化他のため可然ことにて候。そのとをりをあらまし只今申侍るべく候。御耳をすまして御きゝ候へ。夫安心と申は、いかなるつみのふかき人も、もろもろの雜行をすてゝ一心に彌陀如來をたのみ、今度の我等が後生たすけたまへとまふすをこそ、安心を決定したる念佛の行者とは申すなり。この謂れをよく決定してのうへの佛恩報謝のためといへることにては候なれ。されば聖人の『和讚』(正像末*和讚)にもこのこゝろを、「智慧の念佛うることは 法藏願力のなせるなり 信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまじ」とをほせられたり。此信心をよくよく決定候はでは、佛恩報盡とまふすことはあるまじきことⅤ-0210にて候。なにと御こゝろへ候やらん。この分をよくよく御こゝろへ候て、みなみな御かへり候はゞ、やがてやどやどにても信心のとをりをあひたがひに沙汰せられ候て、信心決定候はゞ、今度の往生極樂は一定にてあるべきことにて候。あなかしこ、あなかしこ。 明應七年五月下旬 (三) 抑今月は旣に前住上人の御正忌にてわたらせをはしますあひだ、未安心の人々は信心をよくよくとらせたまひ候はゞ、すなはち今月前住の報謝ともなるべく候。さればこの去ぬる夏比よりこの間にいたるまで、每日に如形、耳ぢかなる聖敎のぬきがきなんどをゑらびいだして、あらあらよみ申すやうに候といへども、來臨の道俗男女を凡みをよび申し候に、いつも體にて更にそのいろもみゑましまさずとおぼへ候。所詮それをいかんと申し候に、每日の聖敎になにたることをたふときとも、又殊勝なるとも申され候人々の一人も御入候はぬ時は、なにの諸篇もなきことにて候。信心のとをりをも又ひとすぢめを御きゝわけ候てこそ連々の聽聞Ⅴ-0211の一かどにても候はんずるに、うかうかと御入候體たらく、言語道斷不可然覺へ候。たとへば聖敎をよみ候と申すも、他力信心をとらしめんがためばかりのことにて候間、初心のかたがたはあひかまへて今日のこの御影前を御たちいで候はゞ、やがて不審なることをも申れて、人々にたづね申され候て、信心決定せられ候はんずることこそ肝要たるべく候。その分よくよく御こゝろえあるべく候。それにつき候ては、なにまでも入候まじく候。彌陀をたのみ信心を御とりあるべく候。その安心のすがたを、たゞいまめづらしからず候へども申すべく候。御こゝろをしづめ、ねぶりをさましてねんごろに聽聞候へ。夫親鸞聖人のすゝめましまし候他力の安心と申は、なにのやうもなく一心に彌陀如來をひしとたのみ、後生たすけたまへと申さん人々は、十人も百人も、のこらず極樂に往生すべきこと、さらにそのうたがひあるべからず候。この分を面々各々に御こゝろゑ候て、みなみな本々へ御かへりあるべく候。あなかしこ、あなかしこ。 明應七年六月中旬 Ⅴ-0212(四) 抑今月十八日の前へに、安心の次第あらあら御ものがたり申候處に、面々聽聞の御人數のかたがたいかゞ御こゝろゑ候や、御こゝろもとなくおぼへ候。いくたび申てもたゞをなじ體に御きゝなし候ては、每日にをひて隨分勘文をよみ申候その甲斐もあるべからず、たゞ一すぢめの信心のとをり御こゝろゑの分も候はでは、更々无所詮ことにて候。されば未安心の御すがた、たゞ人目ばかりの御心中を御もち候かたがたは、每日の聖敎には中々聽聞のこと无益かとおぼへ候。その謂れはいかんと申候に、はや此夏中もなかばゝすぎて廿四、五日の間のことにて候。又上來も每日聖敎の勘文をゑらびよみ申候へども、たれにても一人として、今日の聖敎になにと申したることのたふときとも、又不審なるともおほせられ候人數、一人も御入候はず候。此夏中と申さんもいまのことにて候間、みなみな人目ばかり名聞の體たらく、言語道斷あさましくおぼへ候。これほどに每日耳ぢかに聖敎の中をゑらびいだし申候へども、つれなく御わたり候こと、誠にことのたとへに鹿の角をはちのさしたるやうに、みなみなおぼしめし候間、千萬千萬无勿體候。一は无道心、一は无興隆ともおぼへ候。此聖敎をよみ申候はんも、今卅日の内のⅤ-0213ことにて候。いつまでのやうにつれなく御心中も御なをり候はでは、眞實眞實、无道心に候。誠にたからの山にいりて、手をむなしくしてかへりたらんにひとしかるべく候。さればとて當流の安心をとられ候はんにつけても、なにのわづらゐか御わたり候はんや。今日よりしてひしとみなみなおぼしめしたち候て、信心を決定候て、このたびの往生極樂をおぼしめしさだめられ候はゞ、誠に上人の御素意にも本意とおぼしめし候べきものなり。 この夏の初よりすでに百日のあひだ、かたのごとく安心のおもむき申候といへども、誠に御心におもひいれられ候すがたも、さのみみゑたまひ候はずおぼへ候。すでに夏中と申も今日明日ばかりのことにて候。こののちも此間の體たらくにて御入あるべく候や、あさましくおぼえ候。よくよく安心の次第、人にあひたづねられ候て決定せられべく候。はや明日までのことにて候間、如此かたく申候なり。よくよく御こゝろゑあるべく候也。あなかしこ、あなかしこ。 明應七年七月中旬