Ⅴ-1279蓮如上人遺德記■卷上A蓮悟撰B實悟記C それ先師法印大和尙位兼壽蓮如上人の遺德をあげて、およそ三の意をとり略して大體をしめすべし。一には眞宗再興の德、二には在世の不思議、三には滅後の利益なり。 第一に眞宗再興の德といふは、俗姓は天兒屋根尊、二十一世の苗裔大織冠の玄孫、近衞の大將大臣W内麿公R六代の後胤、弼の宰相有國の五代の孫、皇后宮の大進有範の息男、眞宗の大祖親鸞聖人十世の孫、相承をいへば第八代なり。御母は何國の人ともしらず、人尋て何國の人ぞと申といへども、つゐに謂顯し玉ふ事なしと[云々]。抑稱光院のW諱實仁R御宇、應永廿二W乙未R洛陽東山大谷にして、蓮如上人誕生しましましけり。日々歲々を送りたまへり。しかれば幼童の貌より其の心岐嶷にして、同稚に卓礫せり。興法のこゝろざし深厚にして、終に其意融通して、一天四海におひて聖人の一流を再興したまへり。されば聖人の御時も門下其化を受け、慇懃に其の敎をまもる族、僅に五、六輩にだにもたらずⅤ-1280と[云云]。今の時も眞なる者は希有なりといへども、萬國の群類ことごとく弘願の眞信にかたぶき、他力易往の宗門此時に到て昌なり。是則蓮如上人の淵源の懇志の致處なり。しかるに寛正初曆の比より、末代の劣機を鑒て、經論章疏、師資の銘釋を披閲して、愚凡速生の肝府を撰取して數通の要文をつくり玉へり。是末代の明燈なり。偏に濁世の目足なり。しかれば祖師聖人より以來、一念歸命のことはりを勸といへども念持の義を敎へず。爰に先師上人この義を詳にして、无智の凡類をして明かに難信金剛の眞信を獲得せしむることを致す。實に是れ先師上人の恩德なり。もしこの勸に非ずは奈にしてか枯渴の類ひ生潤の期あらんや。ふかく貴敬すべし。 應永廿七W先師六歲R季陽下旬第八日に、母堂六歲の少童に對して語りたまひけるは、ねがはくは兒の御一代に聖人の御一流を再興したまへとて、懇に心府を宣たまふが、そのまゝいづかたともなく出でたまひき。或る人その日奇雲四方にたなびき、莊華虛空にありと[云云]。其の後ち再び來り玉ふ事なし。これを見聞する人、殆あやしまずといふ事なし。これによりて先師廿八日をもて其の命日とし玉ひて、御志を運たまひけり。しかるに六歲の御像を暮齡に至て畫圖せらる。其の銘に云く、 Ⅴ-1281本名名布袋■名乘號幸亭■爲六歲離母■當明應八年 終八十五歲 又或人の云く、母堂たち出でたまふ時、六角堂の精舍に詣し玉ふと[云々]。然るときは救世觀音の化現たるものか。奇特不思議の事なり。 先師十五歲よりはじめて眞宗興行の志し頻にして、一宗の中絶せるを前代仰せ立てられざる事を遺恨に思召し、如何してかわれ一代におひて聖人の一流を諸方に顯さんと、常に念願したまひ、終に再興し玉へり。されば淨土の元祖源空上人も三五の御歲より无常の理を覺知して、速に菩提の道に通入し在す。是卽ち大勢至の應化なりといふ事炳焉なり。鳴呼不思議なるかなや、聖人W源空Rいづれの歲ぞや、かれも十五歲。蓮如いづれの歲ぞや、これも十五歲。彼此一體と云ふ事を。又鸞聖人の化身とも云ふべきをや。 永享第三W辛亥Rの曆、先師十七歲にして靑蓮院の門室に至りて鬢髮を剃除す。則ち廣橋の中納言兼郷の卿を養父として、其の名を中納言兼壽と號し奉る。それより以來學問にこゝろをつくし、研精ならびなく、切瑳世にことなり。涼焰ときを分ず、或は炎夏の短夜には螢を聚て車胤が古事を訪ひ、玄冬の寒夜には雪を携へⅤ-1282て宣士が舊儀を試む。しかるに其のころはいまだ一流の義しかしかとしる人おほからざる間だ、他門・他家の覺も幽微なり。しかればつねに人におそれ世を憚り玉へり。聖典を拜するにも竊に人看を忍び、是を閲し玉ふにも或は隔壁の燈のすきまより漏光を得、或は閑晴なる夜は靑霄に澄る月暉をもて文籍を披て師釋に心をつくし、斯のごとくして『敎行證の文類』幷に『六要鈔』四部の釋義を引合せ是を渉獵し、具さに悃視して深旨を極め、書の肝府を抽で彼の要文をば作出せるなり。常には斯のごとく怖懼し、論釋をも夜ならでは見玉ふ事なし。是故に禪扃に謁する門輩も希有なれば、敎興の縁も企てがたし。爰に江州金森といふ處に、道西W改號善從Rと云眞弟あり。この人先師に常に昵近せしめて佛法興行の旨よりより閑談し、金森の道場に高駕を寄せ、御門葉をあつめて法語を聽聞させけり。總じて此の人、勸化を致て御門葉を建立せしむ。それよりこのかた三十有餘の時分に至て、佛法弘通して深義やうやく顯て、上人の御本意すでに達せんとす。たとへば莟華の雨露の潤を受るがごとし、日閻浮に臨て明る比の日の出るがごとし。 寶德元W先師卅五歲R初て北地に下向し玉ひて、或は舊古の蘭若に夜をあかし、或は醶首の甕浦に日を暮して、專ら貴賤を度し、偏へに緇素を導て居諸を送り、其の後ちⅤ-1283越後の國に下りましまして、聖人の晨暮を重ねたまひし國分に居住し、倩往昔の尊跡を歷覽し、聖人此處にして幾の群類をか化し玉ふらんと思召に付ても、亦當時に至て門徒も繁昌し道俗歸伏する事往の化導と府合せる事と思召て、歡喜のあまり、また一つは聖人の在世を慕つゝ、それより北山鳥屋野院淨光寺に入玉ひ、猶尊跡を見玉ひて感淚をまじえたまへりと[云々]。暫く下鄙の堺こゝかしこに休息し玉ひて華洛に還り玉ひけり。 長祿元年W丁丑R六月十八日、嚴父法印圓兼W存如上人于時六十二歲R獲麟に及びたまひぬ。然ども兼壽上人の興法の志を感じて、後代たのもしく思召けり。終に歸寂し玉ひぬ。一扃愁淚に沈み列衆袖を絞る。しかれば葬送中陰の間、念佛報恩の經營ふたごゝろなく、勤行の丹誠を抽五旬の忌辰を經おはりぬ。粤に一の驗亂おこれり。其大旨は、中古以來いちしるしかりし流義、聊か衰るに似たり。しかれば先師の出世によつて法雨枯類を潤し、佛日四海にあふぐ。故に世を憚り是を密すといへども、いよいよ時機相應の敎なるがゆへに、その勸化のひろまる事往に超過せり。これによつて叡山の學侶、謀叛の逆意を企つ。それ聖道の諸宗證しがたく、末代の劣機なるがゆへに、瑜伽三密の月の前には觀想をこらし、三諦相卽の牖のⅤ-1284うちにして妙理を顯はさんこと、今の世の根機におひては最もかなひがたし。是故に機をそむき時にあらざる宗門はいよいよ廢り、敎法すでにかくれんとす。しかれば淨土のさかんなるを偏執して、無實風聞の儀をもて、東山大谷の禪坊を破劇せり。しかるに聖人の影像をば輦輿にのせ奉り、江州志賀の郡大津と云ふ處へうつし奉り、疎屋を借り居奉り、先師も同くこの處へ忍びたまひつゝ、虛しく草扉を閉て光陰を送り玉ふ。其の以來は大津南の邊に【近松御堂なり】少坊をかまへて御影聖人をも居奉り、御門弟の懇志をもて假栖をつくのひ禪室をしつらひて居住し玉へり。かくのごとくして年序を送り玉ふこと暫くなり。 文明第三W辛卯Rの曆初夏上旬のころ、大津の小坊を忍び出て北邦に趣き玉ふ。しかれば國郡の男女崇重の心をはこび、捨邪歸正の類ひ敬信もとも專らにしてかしこに群集す。それつらつら往年の事を案ずるに、抑空聖人の御時聖道の諸宗みな眞宗に歸しければ、弘興を猜て南北の學徒無實の奏事を以て、忽焉として淨土の元祖黑谷聖人を南海の遠境に配し、祖師聖人も同く北陸の遙郷に配せらる。されば御詞にの玉はく、「大師聖人W源空Rもし流刑に處せられ玉はずは、われまた配所に趣んや。若し我れ配所におもむかずんば、何によつてか邊鄙の群類を化せん。Ⅴ-1285これなほ師敎の恩致なり」(御傳鈔*卷上)といへり。これに依て門葉も熾なる事おほくは北邦にあり。實に文明第三の御下向は偏に眞宗繁昌の先蹤なり。 あるとき所々巡見の砌り、越前の國坂北の郡吉崎と云處に居をしめばやと思召て、旣に同き初秋下旬第七日より始て一閣を建立し玉へり。しかれば貴賤緇素を論ぜず、門葉に列り禪室に近く類ひ、あげてかぞふべからず。是よりして一流の宗儀昌んにして、自他宗をゑらばず歸伏する事風に靡く草の如し。 文明第七の曆、所々歷覽のおりふし、舊寺の事なれば再覲大切なりとて、加州賀北のかたほとり二俣の松扉に立寄、しばらく足を憩ひ、安慰のために石を立て樹を植へ玉ふ。その庭の形今にのこれり、遺跡尤も慕ふべきものをや。 同年南呂下旬、頹齡六十一にして吉崎の禪室をたち玉ひ、順風に帆をあげひそかに若狹の小濱に船をよせ、丹波の嶮岨を通りつゝ攝津の國へ出でたまひ、それより河内の國茨田郡中振の郷【光善寺】出口の里と云處に至り玉ひ、幽栖を卜玉ふ事すでに三年なりき。 文明九年玄律の比、金森の善從、出口の閑窓に謁して申しけるは、城州宇治の郡の東に貴坊を建らるべきよろしき在所ありと時々申されければ、先師の仰には、Ⅴ-1286われ一處不住にして生涯を果すべしと思なりと[云々]。しかりといへども善從なを啓述ありつる旨は、昔は京都東山にさへ在しき、宇治の郡邊は道俗參入の便最あるかの由を再諮に及間だ、先師そのこゝろを得玉ひて、急この處を歷覽あるべしとて、同十年先師六十四歲初陽下旬第九日、河内の國茨田の郡出口の里をいでゝ上洛し在て、山城國宇治の郡小野といふ庄、山科の内野村の西中路に輦輿をたてられ、少時見廻玉ひて、しからば此に居住し時宜をも試べしとて、先少屋を建玉ひ、その年は江州近松の弊坊にて越年し、翌年六十五歲にして【三月】沽洗の比、連續して作事を企てたまふ。爰に先師憐れ存生の間に御影堂建立せばやと思召けり。則門葉も忽焉にその企をなしけり。 文明第十二W庚子R六十六歲夾鐘上旬の比より營作をはじめられ、同き仲秋の比は旣に造畢の式なり。先師の御心に歡娛の思深して、實に數年の願望こゝに達すと、滿足この時と歡喜の色外に現たまへり。其後【十月】暢月十八日夜に沒て、大津に御座ける根本の御影像をうつし奉り玉へり。しかふして後に報恩講もはじまり、无二の勤行退轉なし。謝德をこらする門葉も實に事新しく、渴仰瞻行の念止事なし。不信の愚鈍も眞信を獲得し、僻見の邪輩も心を翻して忽焉に正見に趣けり。Ⅴ-1287抑一亂以後、世上なにとなるべきと各々思量するところに、この靈地に伽藍を建立して御影聖人をまのあたり拜奉る事、一宗の大慶、御門弟の群類喜悅の眉をひらきけり。 文明十四年W先師六十八歲R春の比思召けるは、當寺は是忝龜山・伏見兩御代より敕願處の宣を蒙りて、私ならざる寺なれば、本堂なくしては詮なし。然る間だ、頻りに建立のこゝろざし在て、旣に同中旬より相續して土木の企をなし、忽に林鐘下旬の天に覃て建立成就せり。然則先師若齡よりこのかた悤劇已後、都鄙御こゝろを盡し玉ひし事も、一度法流を再興し一處をもむすび、諸國門葉の類こゝろやすく參詣を致し念佛をも修せしめ玉はんと、是をのみ思召けるに、御心のごとく事成就せしめ、聖人の一流日本六十餘州に殘處なく、門葉刹那に充滿り。佛法弘通の本懷こゝに成就し、衆生利益の宿念忽にあらはれけり。然則先師上人は黑谷聖人の化現とも謂、又祖師聖人の後身とも稱す。實にしんぬ、自身の動困をかへりみず貢高儜弱の下類をこしらへ、无漏の燈燭をかゝげて濁世迷闇の愚惷を導引し玉ふことを。 Ⅴ-1288e蓮如上人遺德記■卷上f Ⅴ-1289蓮如上人遺德記■卷中 第二に在世の不思議といふは、本師開山よりこのかた代々祖師おほしといへども、其一流の熾りなること先規あと少く當世また比なし。風聞く、高祖聖人必ず蓮如上人と再誕して出世したまふべしといへる未來記、東關よりのぼりしを先師かたく祕し語たまはぬに依て人これをしらずと[云々]。然ば則ちその後身といふ事疑なく、もとももて明なるものをや。それ上人の御持言に云く、なにたる事を聞といへども心に叶事なし、もし一人なりとも信心決定せしめん事をきこしめしたく思召と仰事ありき。されば是を慶び玉ふ事限なし。或人語けるは、一人にても心をひるがへし法にかたぶきたるといふ事あれば、聖人慶玉ふ事限なく、その御形をうつされける。その眞影のごとく唇口嘯たまふに似たりと[云々]。かの御像卽佛法流通し、門徒おほく其化に隨こと盛なりし時の御影なり。又佛恩の高大なること迷盧八萬の巓にこえ、師德の深厚なること蒼海三千の底より過たり。故に佛祖の恩德の深き事をおもふに、或は食味に向へばかれを食する每に憶し、Ⅴ-1290或は一衣を受るにも是を著する每に念ず。然則晝夜不斷是を忘ずと言へり。又常にの玉はく、聖人の御恩德をば夜は夢に見、晝は聊も忘れずと仰事ありけり。それ夜は通霄寢程の呼吸、しかしながら念佛の聲なりと[云々]。しかれば權化の再誕たる英聖猶爾なり。況やわれら迷倒の凡愚に於をや。いよいよその恩德を重じ報謝の志を專にすべきものをや。 先師あるとき御夢に、法然聖人先師に對して墨染の衣を著し含喜の色ほのかにあらはれ、墨染の衣の像を先師にみせ玉ひ快然微笑し玉ふと覺て夢醒畢。しかればこの事不思議に思召し、翌朝釋順誓を召て云く、知恩院に參聖人の御衣の色かはりけるか見て來るべしと仰事ありける間、卽順誓かの寺へ詣て拜見せしめて歸り參て申樣、中古の住持意巧をもて黃袈裟・黃衣に御形を彩色したてまつる。然ども昔の如くならでは祖意憚あるとて、このたびはじめて御衣の色をなをさるゝの由、僧侶語けると[云々]。しづかにこの夢想を思に、有が中にも源空聖人、兼壽上人に告命し玉ふ事、これ恐くは鸞聖人口決相承の實義他に異なる事を示し、且は末世凡夫の行狀をあらはし玉ふ證なり。こゝをもて名を碩才・道人の聞に衒はん事をいたみ、外にたゞ至愚の相を現じ身を田夫野叟の類に等くせんⅤ-1291と欲す。最も希代の靈夢と謂つべし。敬べし、信ずべし。 或時先師和州御一見ありしきざみ、その國の住人W觀音示現と云云■R瑞夢を感ずる事ありて、先師を屈請し奉る。先師深く辭し玉ふといへども、懇志もだし難くして竊に寄玉ふ。重疊の飮食を盛、種々の珍味を調けり。爰にかの俗夢の旨趣を述す。先師堅く出語を制し玉ふと[云々]。しかればこれを傳え聞くもの殆ど信敬せずといふ事なし。されば聖人の御時に、箱根の社廟にしての昔の示現と憶合されて尊重の心やすめがたし。 先師上人七旬有餘にして寺務を光兼僧都に讓て、隣壁に一棟を飾て隱居し玉ふ。有時日黃昏に覃て、奧の席に紅燭なくて在けり。北國に志切なる門弟ありき。この人上洛して先師に申ければ則對面し玉ふ。感機し在と覺て光御身のほとりに暉き、忽に尊容を拜し奉けり。加之、闇夜に聖敎を御前に置けることあり。つらつらこれを案ずるに、光明は智惠の形をもて勢至とす。しかれば黑谷聖人は大勢至菩薩の化現にて在しけり。この聖人こそ闇夜に燈なくして、遍身より光明を放て經典を拜せりといへり。今此兼壽上人も光明の相在す事、實にもて不可思議の事なり。いよいよ佛陀の應化にて在すと云事顯然なり。 Ⅴ-1292明應第五の天、季秋の比、先師年齡八十二歲にして、攝州東成郡生玉の庄内、大坂と云勝地を求て坊舍を建立し、是を隱居所とし給へり。則先師上人を信證院と號す。凡易行易修の法門を談じ他力攝生の旨趣をすゝめ玉ふに、世遍く尊敬し人悉く仰信する事、日を送て重り夜を續で繫し。然れば先師を拜し奉る道俗、亦趣き玉ふ處の衆類、各歸伏する事そのかずをしらず。或時釋龍玄に對して言はく、我今は諸方へ臨回すべしと思、そのゆへはわれに近づく處の輩は必ず眞信に歸と[云々]。それ京洛・邊鄙、幽栖をしめし玉ふごとに萬民群る事、百川の巨海に歸し鱗介の龜龍に附がごとし。 明應七年朱明の比W先師八十四歲R初て不例の氣聊か出來せり。玄陰に及て仰られけるは、吾れ今の分にては明ば必ず彌生には閉眼すべしと、時々仰られけり。しかるに玄天早明て明應八年W己未Rの春も來、夾鐘中旬比に光兼僧都より御迎を下し玉ひける。卽二月廿日に入洛し玉ふ。しかるにかの御病中演說し玉ふ事、恰も金言ならずと云事なし。或は往事を語て云く、昔は小屋の貧窓を卜窮屈すといへども、誠に聖人の一流再興の志徹せしに依て、今眞宗ひろまり末弟安穩に住する事、偏に我が矜哀の念力に依てなりと御自證ありけりと。又光兼僧都を初めて兄弟Ⅴ-1293の衆に對して言はく、幼年より佛法興隆のこゝろざしあるが故に、身の苦を顧みず心の悲を痛まず、都鄙の間に劬勞せしが故に、今聖人の御用に依て心安滿足の體たり。われ在世の間は愚老冥加にかなふが故に、兄弟の衆以下瀝用をもて一扃に樂む。吾世を去て後は動靜意のごとくならん。そのときを今より思にあやうし。これを思慮して深く冥加を知て聖人を重じ奉り、佛法を嗜み佛物を疎に思事なかれと、常に仰事ありと[云々]。 同年【三月】季春の天W先師八十五歲R連日の長病におかされ衰老不食し玉ひ、身體昔のごとくならず。しかりといへども心性勇猛にして【眼耳】二根明なりしこと日來に超たり。しかれば靑陽の春の日影閑にして世上暖和なりしかば、四壁の華をつくづくと御覽ありて、 きつゞく■花みるたびに■猶もまた■いとねがはしき■西のかのきし 老らくの■いつまでかくや■病なまし■むかえたまへや■彌陀の淨土へ 今日までは■やそぢいつゝに■あまる身の■ひさしくいきじと■しれやみな人 と口號玉ひけり。しかれば同三月七日、今一度御影前へ詣せんとて、老邁疲惱の身たりながら、病牀の衣裝を脫捨て新裁の衣服を著し玉ひて、腰輿に乘じつゝ先Ⅴ-1294づ本堂へ詣し、それより御影前へ詣し玉へり。卽ち先師聖人の尊像に向給ひて、今生にての拜顏は是れまでなり、必ず彼國にして眞形を拜し奉るべしと、懇に言ひける間だ、きく人みな袖を絞ぬはなかりけり。しかうして堂前の花を看見し玉ふに、かんばせ朝露にふかく、又遐峯に見る粧ひ白雲の靉靆がごとし。暫くこれを歷覽あつて、面白の景氣やと仰られ、堂閣の正面より腰輿に乘じつゝ歸り玉ふ。今は本懷滿足なりとて病牀にふし玉ひて、辭世の詠歌とて、 我死せば■いかなる人も■みなともに■雜行すてゝ■彌陀をたのめよ やそぢいつゝ■定業きはまる■我身かな■明應八年■往生こそすれ この二首を書付玉ひて、又滅後の事までを表して往昔よみ玉へる御詠、 後の世の■しるしのために■かきおきし■法のことのは■かたみともなれ われなくは■誰もこゝろを■ひとつにて■南無阿彌陀佛と■たのめみな人 なきあとに■われをわすれぬ■ひともあらば■唯彌陀たのむ■こゝろおこせよ 形見には■六字の御名を■とゞめをく■なからん世には■たれも用よ 極樂へ■われゆくなりと■きくならば■いそぎて彌陀を■たのめみな人 今此歌の意、遠く遺訓を留て、末代の龜鏡にそなへんことを述し、殊には此界Ⅴ-1295の化縁つきて必ず安養の本土にかへるべき預言を殘て、猶滅後の遺弟を勸。是恐くは西方權化の來現といふべきをや。爰を以て思に、『彌陀經義集』(意)に「予は是西葉の尊なり、暫此土に來て殊に一門を選り、各謬て宣言を疎にする事なかれ、若堅仰で信ぜば定て往生を得」といへる先賢の哲言を思合せられて胸にそみ、信敬の心肝に銘ず。總じてさき所々に於て吟詠し玉ふ歌付これをゝしといへども、頗る書するにあたはず。唯安養の素懷をおもひ、報謝の念佛たゆる事なし。詞に餘言をまじえず、常に法譽を宣べて利益を施し玉ふ。或は終焉の時の事までも、又滅後の作法等、懇に兼て存日の間に仰置けり。 同九日、釋龍玄に對て何ぞ物を讀と仰られける間、「御文」をよみ申すべきやとありしかば、軈て領掌と仰らるゝ間、「御文」を讀奉る。つくづくと聞召し、鳴呼不思議なる哉や、わが造たる「文」なりといへども殊勝に覺る間、なを讀べしと仰ける。五、六返讀誦せさせられ、是實に述して不作なりといへども義に府合せり、最聖敎となづくべしといへども其憚ありとて「文」と號せり。是卽卑謙の御詞、恐くは先師の選述とおもふ猶疎なり、唯是如來の金言なりと仰崇すべしとなり。 同十日晝の比、起居し玉ひて墨地を召寄られ、御病中の容貌を畫圖せらる。眞影Ⅴ-1296に書付玉ふ其御詞に云く、 獲一念信■今詣安養■穢身永絶■法性速證 同仲旬に及で御不例增氣し玉へば、みな悲歎して參集す。しかるに各に仰置るゝ旨は、われら去世せば大坂より持せらるゝ處の曲祿に乘て、「正信偈」同念佛して御影前へうつし申すべし。年來同行のしるし佛法のよしみなればみたくもあるべし、また見られたくも思なり。強に名聞にはあらず。われを見て門葉悲歎するたぐひこれあらば、如是の事を縁としても人々信をとるべき間、暫くかやうに思よるなりと仰られて、又龍玄に對して言はく、「乞食の沙門は鵝珠を死後に顯し、賊縛の比丘は王遊に草繫を免る」と云戒文までひき玉ひ、御入滅の以後不思議を現じ玉ふべきと云事を示し玉へり。又云く、「功成名遂身退は天の道なり」(老子)と云事も、わが身の上にてあるべしと仰らる。誠に佛法を再興し、世をしりぞき、衰老病惱の身ながら心安安養の素懷を遂玉ふべき事よと思召、斯の如く越陶の故事まで仰出されける。實に是れ末世相應の知識、凡愚引入の明師なり。 同下旬に至て御病氣とりしきる間、親屬一類悲泣雨淚し玉ふ事斜ならず。されⅤ-1297ども先師法語常に斷事なし、要言を宣て所集の類にきかしめ玉ふ。およそ御病中の宣說金言、毛擧に遑あらず。しかれば廿五日の曉大地鳴動しけり。聞人不思議の思あり。是卽權化入滅の瑞想なり。それをきく人或は傷嗟し、或は奇特の思あり。時うつり夜明ぬれば、日光東嶺よりほのめいて、淸虛雲晴て金色に變ず。然漸く未明に覃と見しかば、一屬或は親厚の所衆、五體投地し涕泣嗚咽せしむる事限なし。然して午の正中に、頭北面西に臥玉ひ、睡れるがごとくにて終に念佛の息絶畢。時に春秋八十五歲、身體柔輭にして相貌常の如し。悲哉や、日月西雲に還隱し、法燈忽に消失すと、國郡の徒衆悲傷をいだき、穢域の門輩哀働にしづむ。實に撫育考妣をうしなへるにすぎたり。 蓮如上人遺德記■卷中 Ⅴ-1298蓮如上人遺德記■卷下 第三に滅後の利益と云ふは、凡愚易往の敎文をのこして失道のものゝ指南とし、沒後利益の言光を暉かして闇冥のものゝ惠日とし玉ふ。然に遺言に任せて、卽二十六日のあさ、曲祿にのせ奉り御影前へうつし、聖人の在す須彌座の右に置奉りける。門葉群集して悉感淚にむせぶ。各愁悃の袖を絞りぬ。抑かの面貌を見奉るに、御影聖人の尊顏に毛端ほども相違せず。しかれば萬人拜し奉る輩、祖師聖人の再誕といよいよ敬信をいだけり。 爰にある人靈夢を感ずる事あり。去ぬる夾鐘上旬第八日いさゝか睡眠しけるに、或人の云く、今此本願寺上人は黑谷聖人の化身として在す間だ、必ず廿五日には入滅し玉ふべしといへるとあらたに見けり。此人不思議の憶をなし、いそぎ上洛して人々に語あへり。しかるに日限たがはず入滅し玉ふ事奇特なりと、滅後の今時に至て思合ける。夫三春いづれの時ぞ、かれは初春下旬五日、これは暮春下旬五日。かれは淨土の元祖、これは末法の明師なり。古今いづれとせんや。化Ⅴ-1299導不思議なるものをや。 同廿六日W辰刻R葬喪の場に送り玉ふ。しかれば日光萬山にかゞやき、曜色衆木にうつり、紫雲四方に垂布し、殊に西の空にあたり金色の光雲かさなれり。又諸佛・菩薩の音樂をきゝ、奇麗妙花ふりくだる事、まのあたり諸人これを拜せり。諸方の有情、日域の門流來集して、江河・山谷をいはず群攀して、不思議の靈瑞を見奉り、屈敬し哽絶す。自他宗これを見聞して仰崇の思をなせり。しかればほどなく葬場の煙となり靑帝の天に立登りけるに、白鷺充滿してとびめぐり、又白龍現じて暫く煙をさらず。是倂ら結縁のゆへか、又臨葬を歎ずる故か、希代の事なり。又かの葬煙肉身の香かつてこれなし、馨香紛馥なる事、人間の沈・檀に異なり。旁以靈瑞不思議の事なり。それ尊老植置玉へる萬樹花葉ことごとく萎蘂せり、ことに草木非情の類までも彼入滅を悲歎せるものをや。昔釋迦大師入滅のとき、慕風おこり天曇、樹木雙林色を變じ提河流竭きけり。最彼に同じかるべし。實に奇とすべし。權化の方便、末代の衆生にしらせんとなり。仰ぐべし、信ずべし。 粤に泉涌寺の長老かたられけるは、本願寺の上人は開山聖人の後身なりとあらたに夢想を被けるよし、慥に聞しより奇特に思ひけるほどに、今度かの闍維におよⅤ-1300ぶ間、この寺のうしろの嶺にのぼり、遙にかの葬喪を拜するに、煙の内に忽に白龍二頭現じ、紫雲たち花ふりければ、唯事ならずおぼへて紅淚連々としてとゞまらず。實にかくの如きの妙事は耳にきゝて眼には見ず、老齡七十年の間だに、このたび始て不思議の奇特を拜したりとて、物語ありきと[云々]。 同廿七日遺骨をひろいて、卽廿八日より仲呂十七日まで、忌辰の日數をつゞめて念佛勤行を勵し、耆闍の眞文を讀誦し、本式に任て五旬の中陰を致し玉ふべしといへども、佛事供養を要とせず、たゞ歸命の信心を本意と思召、存日の時たゞ三七日ばかりその營をなすべしと仰置れし旨に任てかくの如く、凡報恩の誠を致し懇志を抽んづる類、いよいよ稱計すべからず。稟敎の族は謝德を專にして遺訓をまもり、步を運ぶ緇徒大だをゝし。しかるに終焉の砌りより四月二日まで、紫雲空中におゝひき。同き日よりまた七日たちて、本堂・御影堂の上に寶花充滿してふりくだり、佛庭に近づく道俗、法莚にのぞむ老少、これを拜し、隨喜の淚を流し、渴仰の色深かりけり。接州東成の郡大坂の坊閣の邊にも、同く七日紫雲たち二尺ばかりなる華ふりくだる事、自他宗これを拜し瞻仰を致す。不思議なりと稱せる事、人口に殘れり。 Ⅴ-1301それ金闕にのぞむ月卿、芝砌に走る雲客、その外大樹勇武、總じて麤民野叟の類までも、讚譽せずといふ事なし。 明應九年、彼一周忌をむかへて勤行の忠心を致し、偏に報謝の丹誠をこらす。その諷諫の熾なる事すこぶる在世の昔に超たり。かの遺恩を重んずる門葉在々所々に遍布して、末流國郡に繁昌せり。然るに此一回の忌辰に至て、又華ふり下事、一所にかぎらず京夷に覃べり。其後亦年忌をむかうるごとに、如是の瑞事を見事しげかりき。後弟蹤跡を慕報恩のまことを致し、遠回千里の雲濤をしのいで懇念をはこび、峻道萬程の靑嶂を步て廟堂に詣す。花夷の皀白、遠近の貴賤、その舊好をたづね遺誡を重じて、年々松林の嚴扉に詣する事濟々焉たり。しかればわれら无始よりこのかた生死の苦海に沈て三毒の愛波しのぎがたく、无明の長夜にまどひて三途の黑闇出がたし。是に仍て大聖悲憐してひろく一代を選らんで、西土の眞敎を明して遠く末代に蒙らしめ、法滅百歲を救濟し玉ふ。實に釋尊出世の本懷、諸佛誠諦の金說なり。是卽ち愚凡易往の捷徑、跛蹇能度の風船なり。このゆへに五祖東漢にいでゝ偏にこの法をしめし、本朝にまた源信・源空その敎をつたへて、あまねく淨土の敎門をひらいて安養の往生をすゝむ。爰にⅤ-1302祖師聖人出世し玉ひて眞宗を弘興し、敎行の要義をのべて濁世の群萌を利しぬ。されば先師和國に生を受、一流の中絶せるを再興し、心指ところの衆類を化度し、我朝にのこる處なく、聖人の御代に聞得ざる遠邦外邊に至まで敎法をひろめ玉ひ、なを滅後に於て利益を遐代にあらはさんとて、明應第八彌生の空に雲弊し玉ひ、まのあたり靈異をみせしめ玉ひけり。滅後の世に至りてその遺德おほき中に、先師翰墨をなげうち玉ふ六字の尊號の中に奇特不思議あり。權筆として喩をとるにものなし。今略してその不思義を云に、たとへば門葉のうちに道場を燒失しけるに、或は名號燌集しておほく佛像となり玉へるあり、或は名號燒爛せしがその字形ばかり明に殘り、或は名號破燃せしが漸々にいゑかへるもあり。滅後の勝相もとも感ずべし。名號の焦燃して佛像となる事は在世にも有しことなり。順誓先師に申上けるは、爰に不思議あり。御筆の名號燒焦して六體の佛像となり玉へると[云々]。其時仰られけるは、佛の佛となり玉ふは不思儀とするにたらず、凡夫の身ながら一念の信をもて頓に證悟をとる事こそ不思議の第一なれと仰られけり。 入滅已後十箇年を過て門葉の中に彼尊翰を安置し奉るに、常に燈明をかゝげざるに、名號のほとりかゞやき玉ふ事あり。驚て是を拜するに、光曜あざやかにしⅤ-1303て阿彌陀佛の四字の上に忽に方便法身の尊形いでき玉へり。如是拜する間に、南無の二字のとおりに本師親鸞聖人の尊形鮮覈として現じ玉ふ。其後また先師蓮如上人の容貌出來し玉ふ。居諸をへ星霜をかさねて彌々その形あきらかにして、佛像あまたいでき玉へり。上古にも季世にも、かくの如くの奇特あるべからず。實に是れ滅後の利益を且は末代にしらせんとの善巧不思議の徵なり。 伏以、釋迦選擇の敎風、惑染覆障の霞雲をはらうといへども、正像春夏の天、朦朧として光りあきらかならず。然るに末法の秋の空寂靜にして、淨土圓滿の月朗なり。こゝにしんぬ、西方の敎潤高峯より出て遐溪の垢濁をすゝぎ、彌陀の法水遼季の減劫に流て、あまねく六趣四生の乾地をうるをす。上來三義の不同ありといへども僅にその奇蹤をしるす。委曲するにいとまあらず。倂これを略する處なり。 蓮如上人遺德記■卷下 Ⅴ-1304右所錄冊篇殆有憚。但思頗有僻之恐、憖染黃子之拳墨、烈鳥鼠之疎詞、有恥有憚。繇是楚忽短慮彌惑、豈非受呵笑乎、寧非招毀哢乎。雖然憶彼德海深、而難覆其譽、難謝其恩。因茲擧九牛一毛、拾所聞之聊肯。俯乞、文體卑劣言辭䚹謬、尤讓他眼而加取捨通局而巳。 大永第四曆南呂初三日同第五之天終早書篇畢 此遺德記、本泉寺兼縁蓮悟所集、其後實悟記之。釋兼興W七十歲R先年予馳筆之次、早卒記之。其後者擬反古令棄置之處、尙斯書有座右。然間爲消閑窓之徒然永日之懶睡、聊加添削書改之。愚昧之短語、不及再覽、慚汗之。 天文W癸巳R年蕤賓下旬日 延寶七W己未R年正月吉日