Ⅴ-1195反故裏書 夫諸佛・菩薩の世に出給事、時をはかり機をかゞみて衆生得脫の道を示し玉ふ。上根の機には諸行を敎へ、下根の機には勸念佛。機感相應し、時節到來せしむれば、利益甚だあまねし。去ば崇德院の御宇長承二年W癸丑Rに當て黑谷の源空聖人誕生し在し、十三歲にして叡山に登り、源光・皇圓を師として顯宗を學し、十五歲にして无常の理りを悟り、黑谷の叡空聖人に隨ひ眞言大乘律を傳へ、報恩藏に入ては一切經を五遍まで見盡し、つゐに惠Ⅴ-1196心の古德の『往生要集』を開き、善導和尙の『觀經義』(散善義)を見給て「一心專念」の要文に當て、四十三歲の時三昧發得し給ひ、正く光明大師半金色の僧形を示し佛可をなし給。其後ひとへに專念佛の旨を勸め、又六宗の先達にも相給ひ、自他宗の自解の義をのべ給に、時機順熟末世相應の要法しかしながら念佛一門にありと決し給ふ。 夫よりこのかた淨土の宗義諸州にひろまりし後、天台座主顯眞僧正、相模公をもて法然聖人へ啓せられ侍しは、坂本へ下山あらば、音信あるべしと。ある時其旨申上られしかば、頓て御參會今度の後生一大事の御談話ありしに、しかしながら御所解にあるべきよし申させ給ふ。重て仰られしは、道Ⅴ-1197心は數年の案立の儀申さるべき旨ありしかば、其義はひとへに彌陀に歸して念佛申ばかりの由答給ふ。其後御言說なくして登山ありき。卽彼相模公にかたり給はく、法然房は後世者、智惠ありとをぼしめさるゝ所に偏執の心あり、貴前に對し、在家无智の尼入道の如く唯念佛するばかりとの出言、こゝろへがたしかつは偏執ありや。其趣を御使ひ、法然聖人へ語り申せしかば、仰られけるは、一切不知事には疑心起るなり。一山の貫首にて在せ共、あまねく諸宗に渡る事まれ也。まづ淨土の宗Ⅴ-1198義を尋得給て後疑謗あるべしと。相模公この旨を又座主に申上しかば、この詞は法然房にあらずは誰かのぶべき、誠に智者なり、我れ聖敎に眼をさらすといへども、いまだ道綽・善導の釋を見ずとて、經藏に入せ給て渉獵日を重て亦被仰けるは、粗淨土の宗義をうかゞひ給ふ。其れに付て不審の事あひ談ぜらるべき由也。其時靜嚴法印・智海法印以下申ていはく、是は一大事の義也、此つゐでを以て諸宗の疑難を決すべき也と。其後僧正大原にをきて諸宗の名德と談論あり。いづれも同難にさき立、空師發心の初めより今案立の所解に至るまで念比にのべ在ければ、淨土の機縁順熟、眞宗繁昌の道、此時ひらけぬ時節相應せりとて、座主僧正大原に堂舍をたて在、不斷念佛の會場となし給へり。其外所々の問答みな法然聖人の御己證にⅤ-1199同心し在けり。 時に親鸞聖人と申奉るは、もとは天台座主慈鎭和尙の門侶なりしが、廿九歲にして發心し、黑谷の門室に入、上足の弟子と也給ふ。元久元年山門の學徒うつたへの旨ありし時、關白大相國月輪の禪定殿下圓照、座主顯眞に御書を參せられしづめ給ふ。法然聖人門弟二百餘人にをほせて「七ケ條の起請文」を顯し、四方の門徒を集め連署あり。是を山上へつかはし給へば、しばらく山徒あひしづⅤ-1200まりぬ。其比は親鸞聖人いまだ僧綽空としるされ侍り。法器にてましませば、やがて空師御所作の『選擇集』御傳受、同二年法然聖人の眞影をうつし給しむ。又夢の告に仍り綽空の字を改め善信とあそばしける。又自ら親鸞と名乘給ふ。是亦空師の御はからひとして、善信をば假號と定め給ふ。この時法然聖人七旬三、鸞聖人卅三歲にてをはします。其上信行二座の分別、信心一異の問答等もしかしながらかの御己證よりいで侍をや。 又鎭西の開基聖光弁阿も、最初黑谷の門室に入侍る事、この聖人の御引導也。聖光三年給仕の後、空師に御いとまを申され鎭西へ下向ありと[云云]。西山流の祖師小坂の善惠房證空は常隨給仕久しかりしかども、二座分別の時も行不退の座につらなⅤ-1201り給ぬ。信心一揆したましは法蓮房信空・安居院法印聖覺・熊谷入道連生計也。長樂寺隆寛律師はもとは天台宗にて在しかども、空聖人御入滅の後はひとへに念佛の一宗を勸め給。しかれども其流義今は斷絶ありとなん。 つゐに興福寺の衆徒讒訴により、又山徒同心ありて、承元元年三月の比、法然聖人・善信上人流罪の宣を蒙り、土佐國・越後國に配し給ふといへども、建曆元年十一月十七日同く召還されたまひ、法然上人は洛陽東山大谷に居し給ふ。道俗貴賤をゑらばず、あまねく念佛を勸め在す。翌年W壬申RのとⅤ-1202し正月廿五日御入滅。鸞上人は師匠同時に敕免ありしかども、北地雪深くしてとかくして使者停滯のうへ、法然上人御入滅のよしきこえければ、今は上洛ありても甲斐なし、しかし師敎を邊鄙のともがらに敎へ傳んこそ師孝たるべきと、越後國より常陸國へこえ、稻田郷といへる所にしばらく居をしめ給ふ。 又越後國蒲原と云所に一宇をたて在す、淨光寺と號す、是敕願寺也。又鳥屋の院と申奉る貴場有り、順德院御幸ありし所也。かの所に紫竹あり、昔しより今に繁茂あり。佛閣の其跡には今も草一莖も生いでずとなん。諸人貴み奉る者也。又常陸國下妻の三月寺小嶋に三年ばかり、同く稻田の郷に十年ばかり御座をなされぬ。是は筑波山の北のほとり、板敷山のふもとなり。其後相模國あしさげのⅤ-1203郡高津の眞樂寺、又鎌倉にも居し給と也。 かの眞樂寺御逗留の折節、唐船來朝せり、靈石あり。高さ七尺橫三尺貳寸、面ては鏡の如し、裏は左のかたはあつさ一尺ばかり、右のかたは五寸ばかり也。聖人御覽ぜられ、是は天竺國よりの石也、尊號あそばさるべしとて、無㝵光・不可思義光の二尊號を御指にてあそばさる。左には右志者W此中間磨滅文字慥不見R末には一向專修念佛者等と。右には年號、是も文字慥に見ず、戊十一月十二日自心敬白と[云云]。六十歲の御時この所より箱根山をこされ御上洛あⅤ-1204りとなん。七年御居住ありと申傳へ侍る。しかれば貞永元年の比なるべし。 蓮如上人東國御行化の時もこの所に御逗留在しき。卽法名眞乘と被下ける。然に百拾四歲まで存命、永祿五年往生。是に仍て同八年彼息男上洛W于時廿八才R予對談せしめ往事を語り給ふ。近比享祿の末の年、平氏綱御一流成敗に付て、眞乘他國へ忍びかくれ給ふ。今左京太夫氏康一和の儀とゝのひ、永祿二年歸國ありて、右の本尊如本の道場をたてゝ安置し給ふ。其間だは二尊號二の蓮花の邊より下をば土にうづみ奉り、一向專修念佛者等の文字不見樣に壇につきて奉置けるを、とかくさふるものもなく、ある人やねを拵へ、各々奉信仰。歸國の後、昔の如く土をのけられけるとなん。還住以後四年存生と[云云]。 Ⅴ-1205又橫曾禰の性信房申受給し木像の御影は寶治の比とかや、七旬有五の御時と申傳へ侍る。御頸卷は无之。左の御手には御珠數、右の御手には拂子の如くなる物をもたせらるゝと[云云]。同猿嶋妙安寺安置の木像は御頸卷有之。 この御頸卷の事、存覺上人安靜の御影の御事しるし在す物、其所むしくひありて見え侍ず、无念の事にこそ人常に不審ある事也。たゞし蓮誓に相尋ね申せしかば、たゞ志人の進上ありしを感じ思召Ⅴ-1206し御著服と[云云]。報恩寺坊主證了に尋ね申せしも同前の返答なりき。其仁體はたしかに其名きこゑ侍ず、かのしるされ候ものには明法と申文字かすかにみゑ侍りき。これは參川國安靜の御影の御裏書につけてあそばされし御筆跡なり。 かの御壽像の御裏書建長七歲とあり、上下の讚も開山聖人あそばしつけらる。何れも眞筆也。又表補繪軸のきわに弘長二年十一月廿八日御往生と記せらる。又御鏡を御覽ぜられ、御眉の毛のしらがの數まで相違なしと仰せらるゝと[云云]。これは定て御滅後に御弟子かきつけらるゝものか。是も存覺、若專海筆跡歟とあそばされ侍る。彼專海は常州眞壁の眞佛聖の弟子、聖人の御在世ことに昵近の孫弟なり。遠州より參州へこゑられけるみぎりⅤ-1207の「御消息」(親鸞聖人眞*筆消息三意)に、「專信房、京よりちかくなられて、今こそたのもしく覺へ候」とあそばさる。とりわき常隨給仕の志し感じ思召しけるにや。然ればこの安靜の御影像は自分に御恩免の眞影か、眞佛聖よりの相傳か。この事去ぬる文和の比、參州照心房御物語申れしを、存覺上人御懇望ありし間、同四年上洛の時持參ありし時、上件の子細をあそばしとゞめられ侍り、照心房は專海の弟子、今願正寺といへる是也。 世申傳へ侍は、和讚御所作をなされ御歡悅の御かたちをうつさせられ侍る、畫工は朝圓法眼と[云云]。Ⅴ-1208或はうそぶきの御影とも申ならはし侍るにや。卽『淨土和讚』御奧書御筆に「建長六歲W甲寅R十二月■日」とこれあり。『正像末和讚』の初には康元二歲W丁巳R二月九日寅時御夢の告の讚をしるしまします。然れば最初建長六年の冬比作り初め給しか。安靜の御影御裏書「建長七歲W乙卯R」とあり、其謂れある御ことにや。『愚禿鈔』御奧書も同年八月五日かたがた御愛悅の御容貌たるべし。又高田の顯智・眞佛聖より相傳の御影像も同き比なるをや。 又右の御影、蓮如上人の御代めしのぼせられ、二幅うつさせられ、一本は山科の貴坊に御安置、一幅は富田敎行寺にをかせられ侍る、正本は願正寺へかへしくだし給ふ。然るを實如上人の御代、蓮淳・圓如へ仰せ談ぜられ、御本寺へ寄進申され侍Ⅴ-1209りぬ。參州へは新しく開山の御影御免を被成侍り。ちかく又京都金寶寺より一幅進上、是も同き御影像、御裏書は无之。上下の色紙の讚も、御筆にてまします。然れども「正信偈」の文前後相違のことあり、同き時畫師うつし奉りける本にや。去年拜見し奉りうかゞひ申侍しかば、安靜の御影は別に御座候旨を被仰出侍り、其折節善導・法然・開山御立像の眞影、御眞筆の六字の名號等、去享祿二年七月以來當年重て拜み奉し事、一身の滿足、心中の本懷、嚴師の御慈恩、報じても難盡存所也。 Ⅴ-1210抑東國より御歸京の後は、扶風馮翊所々に居住し在すときこゑ侍れども、まづ五條西洞院に住せたまふ。これ御入滅の地なり。御遺骨をば東山大谷に納め奉る。文永九年冬の比、なを大谷墳墓を改て吉水の北の邊に遺骨を渡し、建佛閣御影像を安置し奉られ、是本願寺と號する靈場是也。鸞聖人の御娘覺信禪尼御寄進の地也。卽御遺跡御相續の御子也。御母は惠信の御房、月輪禪定殿下の御娘玉日と申せし貴人也。聖人御入滅の折節は越後に在しけるが、弘長三年春の比、この御娘の御方へ彼御靈夢の記をしるし給ひ、鸞上人觀音薩埵の應現にて在す由、同法然上人勢至菩薩の化身にてましませし靈告、正く鸞上人へ尋ね申されし昔しのことをしるしつけて都へ登せをはしますとなん。 Ⅴ-1211入西坊うつし奉られける御影像は仁治三年九月廿日の比、御壽算七十歲の御時也。是最初可成。是定禪法橋の筆跡也。 今本願寺御建立は文永年中龜山院の御在位也。卽龜山・伏見院兩御代より敕願所の宣旨を蒙れり。寺務は覺信房の御息覺惠法師也。是も初めは靑蓮院二品親王尊助の御門人、父は日野左衞門佐廣綱、是は範綱卿の孫從三位信綱卿の子也。則六條三位範綱の弟、嵯峨三位宗業卿の嫡子として、儒道・Ⅴ-1212官學の業を傳へ在せり。然れども父卒逝ありて、光國卿の養子として生年七歲の時也。門跡へ參り給ひ、後には宗惠阿闍梨と申侍き。靈寺造立の後御暇を申され隱遁の身と也、淨土門に入、奧州大網の如信上人御弟子と成り、東山の御本廟の御留守職たり。 しかるに文永六年十二月廿八日覺如上人御誕生、洛陽富小路の邊也。これ鸞聖人の御曾孫、如信上人の御付屬、當流中興の明匠也。則覺惠の嫡男、眞宗興隆の尊師也。最初覺信禪尼御置文には、御影堂敷地は親鸞聖人の御門弟中へとあそばされ、御鑰を預申され、御門弟參詣の時遍く拜顏の所役たるべしと[云云]。しかれども覺如上人、如信上人の御相續として、法流傳持三世にあたり給ふ。これも初めは南都一乘院信昭大僧正の御門侶勘解由Ⅴ-1213小路法印宗昭と申奉しが、十七歲の冬、如信上人報恩講大谷御在寺の時、面授口決の師弟となり給ひしより後、親父覺惠と共に東國修行度々なりき。御出誕の初より開山聖人の御再誕と世もて崇め奉し善知識なり。 其嫡男存覺上人は、法門御問答御承伏の義なかりしかば御義絶となり、しばらく空性房了源、汁谷佛光寺へいざない申、自義骨張のたよりとなし申せしまゝ、いよいよ御不快たりしかば、東國・西國所々に忍び玉ふ。後には東國より御歸京あり。御門弟に隨ひ、御懇望によりて觀應の比御赦免ありけり。御舍弟從覺上人の御代には、東山の御坊Ⅴ-1214のあたり今小路と申所に御坊をかまへられ、常樂臺とぞ申奉る。 覺如上人御入滅の後は善如上人御附弟として四世にあたり給ふ。是は從覺上人の御眞弟也。其御子綽如上人、越中國井波と云所に一宇御建立、號瑞泉寺。是亦敕願寺也。後小松院の御宇、明德元年の比造立なり。初は同き國杉谷といへる所に居をしめ在す。諸家より學匠文者のむね崇敬せしかば、勸行威儀をむねとし給と也。敕定として別號を周圓上人ともさづけ玉ふとなん。竹部といへる靑侍檀越として今に子孫繁昌也。 存如上人御代御弟如乘と申奉るを、初て下給ひ住持せしめ玉ふ。これもとは靑蓮院の御門弟聖光院の住侶なり。如乘彼國より加州へ越在し、二俣とⅤ-1215いへる山中に一宇をはじめ給。其跡に蓮如上人の御次男蓮乘法師を申うけましまし、則瑞泉寺と兼住せしめ、後には本泉寺と號す。是若松のはじめなり。 又山科草創の比より常樂臺主蓮覺、坊舍をたて、東山の如く同く住給ふ。昔し存覺上人京都大宮に一寺建立ありしを東山へうつしたまう。しかれば善如上人御代より正朔には御本廟へ參給ひ、從覺上人御存生の時より御坊へ參拜。翌日二日には當住持又今小路へ入御ありし事、每春の祝義、蓮如上人の御代にいたるまで不易の御嘉例と[云云]。 Ⅴ-1217常樂寺法印光眞は法名蓮覺と申、光法印の眞弟也。この光崇は御法名は號空覺。存如上人の御弟、常樂寺光覺御嫡子也。先存覺上人の眞弟、巧覺の御子愚昧院法印忠譽ひさしく聖光院の住僧として將軍家護持僧たる故、老齡に及び常樂寺へ隱居ありき。法名光覺と申侍る。巧如上人へ被仰合その御跡を空覺へゆづり給し也。 其後御一門加州へ下國ありしは、信證院の御代よⅤ-1218り初れり。自本越前國吉崎の御坊は、御本寺の靈場として御留主に御同宿を仰付らる。急て願成就院法印かさねて御下向を被成御住持あるべき御あらましにて、蓮誓も可在御同道旨被仰しが、文明五年廿九日四十二歲大津にて御遷化あり、御影は出口の光善寺にのこし玉ふ。其御息女住玉ふ故也。其御女は瑞泉寺賢心の弟と大藏卿の室也。所縁として今光善寺實玄は其男也。彼祖父大藏卿光順は常樂寺蓮覺の眞弟、如覺の舍弟也。 其外實如上人の御舍弟蓮淳、蓮悟の弟敎行寺蓮藝は攝州富田に住持あり、御母義は姉小路中納言基綱卿姉也。才藝人にすぐれ眞俗共に無類哲人也。禁裏へ參り可給由申沙汰ありしが、不思義の縁に仍て當家へしたしみ玉ひ、但信念佛の懇志一宗Ⅴ-1219のたよりとなり給しかば、信證院もことに御めぐみふかゝりき。然れば蓮藝御愛子なりしかば、彼姉公壽尊禪尼を付被申、下間駿河法橋も富田に候せらる。壽尊は實如上人の御姉公にて在す。是又無比類貴族也。蓮如上人の御代はよろづ世上のとゝのへをばまかせ參せ玉ひし也。眞俗のたゞしき道を守給ふ。彼上人御入滅の後は敎行寺に同く住玉ひ、去る永正十三年十月五日、この寺にて往生の素懷を遂させ玉ふ。蓮誓一腹の兄弟也。 Ⅴ-1220又蓮藝御舍弟實賢の母義は畠山大隅守家俊の姉也。事の縁ありて信證院に被召遣玉ひ、御子あまたいでき玉ふ。西證寺實順・本善寺實孝・順興寺實從等也。まづ嫡男實賢はしばらく母公と同く大坂に住玉はんが、子細在て實如上人御中違にて所々に忍び住玉ふ。漸く御歸參ありて山科へめし出させ玉ひ、母公も野村の貴坊にをきて永正の末とし往生し玉ひて、後實如上人被仰付、江州堅田に住持し在す。初は號稱德寺。眞弟實誓の時、慈敬寺と改玉ふ。實順河内國久寶寺に住持、其眞弟實信も早世ありて斷絶し給。實孝は大和國吉野郷飯貝本善寺是也。御遷去の後、眞弟證祐相續ありしが、是も早世、其御妹に宮内卿證珍所縁として住持、是は實從の眞弟也。實從は久敷山科に實如上人と住せ玉ふ。證如上人大坂へ御座のときも同く眞俗Ⅴ-1221の行化を助け在す。初は左衞門督公と申せしを、順興寺[始はひらかた敬善寺]と稱し申され、御影堂の御鎰の所役となし玉ふ。證如上人御入滅の後、永祿の初、御懇望により河内國牧方の貴坊へ御住持。同七年六月朔日六十七歲にして逝去在す。則證珍の御弟少將顯從御相續。 又實賢の弟實悟は出生百日の内より北國へ下し申され、本泉寺蓮悟の養子たり。是は如秀の母義勝如禪尼申うけ玉ひ、御女如了の嫡女に所縁たるべき由申させ玉ひて、召具し玉ふ。其後彼息女も往Ⅴ-1222生あり、又兵衞督實敎出誕ありしかば、別に一寺をはじめ住持、淸澤願得寺と號す。實如上人御在世の時也。 この外蓮誓の次弟實玄は越中國勝興寺住持、これもはじめは土山と云所に二俣の蓮乘草坊をたてをかれしを、加州加嶋を蓮誓辭退のみぎりより、この所に蓮乘をほせつけて、越中國坊主衆與力として出入あるべきむねはからひ玉ふ。河上の分はのぞかる、瑞泉寺へ與力と定めらる。吉崎御建立のはじめより蓮誓二俣へ下向せしめ、蓮如上人別して常隨昵近の御門侶兩人ともにつねに襃美し玉ひし眞弟なり。しかれば蓮乘往生ののちはかの眞影を土山に安置し、山田へ蓮誓住持し給ても、每月の忌日正日までねんごろなりき。實玄も若松如秀嫡子の分にて、近松所縁の事も蓮悟のはからひたⅤ-1223り。その蓮乘のさだめましましける趣き今にかはらずとなん。その芳恩つくしがたきものをや。寺號も實如上人付申さる、高木場住寺の時也。しかるに永正十六年かの寺炎上の後、同き庄内安養寺と云所へ實玄うつして自住し玉ふ。蓮誓建立の所にはあらず。しかれども土山高木場は久しく在國ありて辛勞せしめ、本尊・御影・御傳繪まで申あげ、實玄へ渡し申され畢ぬ。しかるに兩所そのしるしもなく成行事は本意なくこそ覺へ侍れ。蓮乘の眞影も實玄住持の後やがてかけられぬ、本泉寺へも疎遠の義は、愚存には不審をほき事也。 Ⅴ-1224「三年父の道をあらためざるを孝といふべし」(論語)と外典にも申侍る。然ば實如上人は山科の貴坊に蓮如上人うへまします御庭の木までもそのまゝをかせられ侍る事、予もたしかにみまいらせ侍りし、然ばその道をしたい奉りける。そのうへ蓮誓たびたびこの段、予に對し物語ありき。ことに滅後にも法義を蓮悟に談合申べき由遺言なれば、別して實敎申合せ、父子ともに眞俗に付て談合せしめ侍り。いま夢後にいたるまでも先言わすれがたく、ことさら不慮に當津に籠居の往事一しほ思出られ、蓮如・實如・圓如等の御書、蓮誓・蓮淳・蓮悟の書札、殘とゞまる水莖のあとしるたびに、むかしをしたい朝夕戀慕の淚袖にあまり侍るまゝ、せめてのなぐさみにをもい出る心を種として、とてもやりすつるふるき文をうらをかへして筆にまかせてⅤ-1225しるし侍る。 又伊勢國長嶋願證寺實惠は顯證寺蓮淳の次男、實淳の舍弟也。この仁眞俗ともに心にかけ給ひ、忠義類ひなかりしかば、實如・圓如もそのほか一門の老少男女よしみを通はし、國にをきても自他家のおぼえもありしかば、をのづから實如御兄弟のまじはりも他に異也。しかれども一門一家數輩國々に充滿あれば、他家の偏執御門弟の煩也。末代にをきて相續なければその詮あるまじ。しかし御代にをきてあひさだめらるべしとて、去ぬる永Ⅴ-1226正十六年蓮誓所勞療治のためめしのぼせられけるみぎり、圓如、蓮淳に仰談ぜられ、條々さだめまします。これによりて實如上人御病中にかさねて仰せいだされしは、當分御連枝一孫は末代一門たるべし、次男よりは末の一家衆一列たるべし。然ば實玄・實悟・實惠一代の後は其分たるべしと。これも蓮淳しゐて實惠の事御懇望によりて如此仰せらる。されば實玄・實惠、光善寺實玄同前なるべしと。すなはち光應寺蓮淳御免の御禮御申をなさる。實惠いまだ上洛なかりしゆへなり。やがて【下間】筑前法橋賴秀、此旨愚僧安養寺へ申下すべきの由演說。その趣き賴秀書狀いださる。卽實如上人御入滅の後愚札をそゑ下し申せしかば、上洛ありて御禮申されおはりぬ。かの御定めは永正十六年夏の比也。蓮誓下國して各々申とゞけ、又愚札をⅤ-1227もて圓如へかさねてうかゞひ申されしかば、御兄弟中、一孫は末代當分御進退たるべしと[云云]。 參河國土呂本宗寺實圓は圓如上人の御舍弟也。圓如御往生の後は常に在京ありて中將公と申せしを、中納言公と號す。同く常樂寺御眞弟中將實乘も、先例にまかせて中納言公とつけ申さる。しかれども如覺御斟酌ありてはじめの名にかへし申さる。又實圓の御舍兄左衞門佐實玄は、實名兼珍、播州英賀本德寺の住持たり然共、御童體の時より御所勞により山科に隱住ありしが、永正十二年三月一Ⅴ-1228日早世あり。御相續の義をば實圓に仰せ付られ、播州へ御下向、本宗寺兼住。しかれば眞弟中將實勝參州に住持し玉ひしが、天文の比早世あり。卽その御息少將證專、播州に幼少より同宿し玉へば、實圓往生の後は兩國兼住相違なし。 されば加州三ケ所御病中に五人をめされ、御一宗の御掟の儀、この人數申合せ申達べき旨御遺言ありき。 蓮淳は御隱居の後奉號光應寺。實圓も本德寺と申べきと、各々さたありしかども、實勝早世の上はその不及稱號、ことさら證如上人御若年の間は、京都にをきて蓮淳・實圓仰談ぜられ、北國へも仰せくださる。別して廣恩を蒙り奉る蓮淳は、愚身赦免の以前御逝去なりぬ。その御遺言としてⅤ-1229召出され侍れば、蓮淳の芳恩是亦報じがたし。ことさら慶壽院殿御心にいれられ、實孝・實從・實誓、同く興正寺蓮秀、淨照坊明春等の芳情今にわすれがたきものをや。 かねては又かの永正度圓如上人被遊候御自筆御判の御書、度々の錯亂にも紛失せず、今度回祿をものがれ殘とゞまり侍る。是亦奇妙の祥瑞にてぞ侍る。その條數々、近年所々に都鄙ともに坊舍造立の事不可然、一身冥加のため諸國御門弟の煩ひといひ、かつは他宗偏執のもとい也、よろしく停止あるべきむね仰出さる。是に仍て私建立のⅤ-1230在所若松に淸澤・二俣、波佐谷に鮎瀧、山田に瀧野の外は略定、越中國安養寺に赤田・打出兩所の草坊停止、中田におきては昔よりこれある由申上られけるとなん。近松に赤野井、今小路に豐嶋、是は存覺上人御代よりの坊跡也。その外は停止ありけり。 しかるに實如御圓寂の後、又在々所々の新坊主衆にいたるまで寺内と號し、人數をあつめ、地頭領主を輕蔑し、かぎりある所役をつとめざる風情、定めて他家の謗難あるべきものをや。すでに諸州所々の寺内破却せられ、南方にも北方にもその類あまたきこえ、これによりて前住上人もつぱら御掟のむねかたく仰出され、所々の非義あらたまり、御再興の時節到來せしとなり。 あるひは守護・地頭領主、御一流に歸し、興行Ⅴ-1231の在所、あるひは佛法まれなる遠國、はじめて俗縁をくはへ、法流恢弘の祕計をめぐらす事、昔年より是をゝし、もつとも御一宗繁榮の根元たるべし。しからずして名聞利養に著し、町の内境の間だにあまた所に寺内の新義、かへりて誹謗を招くたよりなるべし。すでに往古より道場は人屋に差別あらせて、小棟をあげてつくるべきよしまで、開山聖人御諷諫の事、世以てしれる所なり。事にふれ折にしたがひ、わづらひなきを本とすべし。軒を幷べかきをへだてゝ、町の間だ郡の中に別々に寺内造立、佛法の興隆に似たりといへども、事Ⅴ-1232しげくなりなば其失あるべし。たゞ世間の名望をさきとして、一流の御掟をば同行あひたがひに談合なくば、かへりて確執のもとゐ、我慢の先相たるべきむね、聖敎の所判明鏡なるものをや。善知識の御思慮聖意難量、定て深き意あるべし。 當住上人常々上州に對し在し御示誨の趣、予座下にはんべりて聽聞せしめ、舊義をしたひをはします明言、かたじけなく内心に敬ひ奉る者也。たゞ一旦の名利にまどはされ、御一宗の法度をみださるべきことは、能々思案あるべきもの歟。人遠き慮なくして近き憂ありと、文宣王の先言、眞俗の正路たるべきをや。況や先德の法則をそむき、權化の淸流一天四海にあまねき眞宗念佛成佛の法を、私の自義をもて陵遲にをよぶべきこと、誠に愚なⅤ-1233る心にさへかなしみ思玉へり。さればをのれつたなきをわすれ、いさゝか筆に顯し奉る。ある書にいはく、「父その子をいましめて、汝善をなすことなかれと。子尋ていはく、しからば惡をなすべしやと。父の云、善をなすべからず況や惡をや」(淮南*子意)と。又蓮如上人のたまはく、當流の内におひて沙汰せざる名目をつかひて法流をみだすあひだの事、又佛法にをひてたとひ正義たりといふとも、しげからん事にをひては停止すべき事、又當宗のすがたをもて他宗にみせしめて一宗のたゝずまひをあさまになせる事と、十ケ條の篇目のかぎⅤ-1234りにあそばされ侍り。かの金言を以て同行一味にたがゐに信心をみがき、佛法の沙汰ましまさば、まことに御一宗繁昌の先表たるべきものをや。すでに師をそしり善知識をかろしめ同行をあなづりなんどしあはせ玉ふよしきこゑ候。あさましく候、すでに謗法の人也、五逆の人也、なれむつぶべからず。『淨土論』と申ふみには、かやうの人は佛法信ずる心のなきより起る也と候めりと、鸞上人あそばされ侍り。されば御一流におきては、在家・出家、外儀のすがたはことなりといへども、内心に彌陀の本願信受の義はかはらず、皆如來より廻向しまします大慈大悲の御方便なれば、憶念の心つねにして佛恩報ずるおもひありとなん。この旨を心中にふかくをさめて、外相には仁・義・禮・智・信を守り、世間通途の義に順じ諸法・諸宗を謗ぜず、Ⅴ-1235諸神・諸佛をかろしめず、眞俗ともにをのれを忘れ他を惠み、ふかく善知識の御敎の如く佛智を信ずるこゝろあれば、稱名もをこたらず、これ佛祖報恩のため也。されば國にをひてわづらひなく所にをひてつゐゑなし。後生菩提のために念佛修行せしむる計也。是に仍て自宗・他宗にならびなく、田舍邊鄙までもひろまる事、佛智相應の化導、又勝利廣大の智識の御恩德也。然るをかの御掟いるべからざるむねはからひつのる末弟いで來たり、人民をわづらはせ國土をみだすのみにあらず、權化の淸流をけがす事興盛にして都鄙みだれ、享祿Ⅴ-1236の末の年、野村の貴坊御炎上の後、諸國の末寺も一度退轉にをよびぬ。この時實如上人御遺言いよいよ符合せしめ、同く御再興の時剋を待奉り畢。 又圓如上人御往生ちかくならせをはします、實如上人へ申させ給しは、御一流の義破滅せしむべきは超勝寺實顯也。御存生あらば仰談ぜらるべけれども、生死のならひ无力。御由斷なくかたく可在御說諫と[云云]。仍て上洛の砌、彼御遺言の旨被仰付、しばらく出頭なかりき。種々懇望をなし、向後佛法・世間、其嗜をなすべき旨被申上、御對面なされぬ。敎恩院殿御在世の間はつゝしみありといへども、御滅後、賴秀・賴盛等にあひより、公武いきどをりふかゝりければ、諸國悤劇に及び、大坂の貴坊、參州の本宗寺、伊勢の願證寺の外は、Ⅴ-1237大略末寺退轉にをよびぬ。是御掟をやぶられしゆへ也。去ながら勢州にて蓮淳、參州にては實圓もとより大坂南方にをきて前住上人もつぱら正路の旨被仰付、御掟たち申せしかば、御再興くびすをめぐらさず。又【下間】上野法橋賴慶、江州より上洛、公武のあつかひをなし、御一宗繁昌の祕計をめぐらし侍る。この人々にたちより、いさゝか予も微志をはこび侍ぬ。 抑攝州東成郡生玉庄内大坂の貴坊草創の事は、去Ⅴ-1238明應第五の秋下旬、蓮如上人堺津へ御出の時御覽じそめられ一宇御建立、そのはじめより種々の寄瑞不思義等是有となん。まづ御堂の礎の石もかねて土中にあつめをきたるが如し。水もなき在所なりけれども、尊師の御敎に隨ひ土をうがちみるに卽ち淸水涌出せり。はじめは一池なりしが、今は彌々心のまゝ也。すでに天王寺聖德太子未來記の中に、末世にいたりこの寺の東北にあたり佛閣建立あるべきよし、しるしをきましますと[云云]。定て往昔の宿縁不淺因縁、申も愚かなるものをや。就中當寺權輿堺の貴坊より每日通ひましまし御造營、その地引のはじめ御門弟に被仰付しを、法安寺の僧難ぜられていはく、明日は大惡日也、はじめて寺場造立の日にはしかるべからずと。この旨森の祐光寺の先祖内々申入られしかば、「如Ⅴ-1239來法中無有選擇吉日良辰」(北本卷二〇梵行品*南本卷一八梵行品)、佛說無疑。明日早々可被取立也、以後をもひ合すべし。法安寺彌繁昌あるか、この寺場退轉なるか、あひしるべしと[云云]。然所に先年、日連黨其外諸武士をかたらひ、數月せめ奉しかども、その煩なく彌に御繁昌恢弘、先言猶以て信敬し奉る所也。 木澤一和のあつかひをなし、引退て後法安寺へ種々難義を申かけ侍るをも、當寺ちからをくはへさせ玉ひ、一寺安堵の義になりぬ。その時堅約のむね寺家より申合せられ、彼寺萬一不盧の退轉にⅤ-1240及ぶ子細是あらば、貴寺の御進退たるべき約諾なりき。然ども今度永祿七年の火難法安寺燒失退轉に及ぶべかりけれども、御宥免の芳惠、諸僧も仰宗あるべき事なるをや。彼寺の御本寺藥師如來は、年序を經といへども開帳の義なし、ぬりごめの内に安置ありと[云云]。この度の炎上に眞像出現したまふ、脇士四天まで皆土佛にて在す。若土佛ならずは爭か形像あひのこるべきや、本尊の面貌あざやかに顯れ玉ふ、やがてぬりごめにまたおさめ奉侍る。この寺は推古天皇の御願、卽女帝は聖德太子の伯母。眞俗の政、しかしながら太子にまかせ奉り玉ふ。日本にての攝政これはじめとかや。天王寺を難波の荒陵の東にうつし玉ふこの御門の敕定。御治世卅六年、佛法興隆の聖主にてまします。欽明天皇の御女、敏達天皇の后妃にてをはしましⅤ-1241き。その皇恩最も奉仰べき者也。 したがいて【下間】上野法眼賴慶は法眼賴玄のをとゝなりしが、幼少より實如上人昵近給仕の道たゞしく御あはれみふかゝりしかば、諸家の芳好もをほかたならず、天性心柔和にて人をすてず、身に仁義の道をたしなみ禮義をみだらず。然どもかたゑの人偏執をなし、一度交衆をやめられしかども、天命限りあり、冥應力をくはへ玉ふしるしにや、二度前住上人めし出され、法流御再興のたすけをなし給ひき。しかるに蓮秀遠行有、其息丹後法橋心勝Ⅴ-1242卒去ありし後、其弟大藏少輔眞賴あひかはらず君を敬ひ民をたすくる心づかひ、私しなかりし。この時予も召出されむかしの跡に立かへり、本寺一和末弟歸依渴仰の本源に歸し、公武合體の仁政を申こゝろみ、むかしの風に法のにほひも世々にみち侍しを、前住上人卅九才の御齡、にわかに八月十三日遷化しまします。卽今師上人十二歲法流御相承、奇瑞・靈告等多し、具にしるすにあたはず。諸人捨邪歸正のつとめ申もおろかなり。しかるに今師上人言說をやめられ、御つゝしみの色顯れ玉ふ。 而て此地亦定地坊といへる末學、越州へこへ未斷の進退、これ又邪魔外道のさまたげをなすはじめなり。すでに信受院僧正光敎、越州一和の道申こゝろえみるべき御内證として朝倉大郎左衞門敎Ⅴ-1243景入道宗滴法師、彼光孝彈正左衞門入道孝景英林宗雄、信證院法印と申談ぜられし舊好など、予在國のとき申合せしに、又超勝寺敎芳謀叛の巧言まことにもて佛法破滅のくはだて也。かねては上州賴慶入道蓮秀、其子心勝、其母正妙尼公も遠行なり。又興正寺蓮秀、敎行寺實誓、其弟賢勝、本善寺實孝、本宗寺實圓皆悉卒去なりしかば、眞俗たよりをうしない、いよいよ北地みだれ行侍りぬ。 こゝに蓮如上人光孝蓮誓にあたへまします御自筆の御書今に予安置し奉るまゝ、其趣をよりより同行相親の道を心にかけ侍れども、末世濁亂の劣機Ⅴ-1244同心に及ず、還て名利の道には入て法流の正意いやましにうとし。しかれども願證寺證惠存生の間だは、蓮淳御誘引の法談いさゝか耳にとゞめ玉ひ、他家他宗のあつかひ少のとゝのへもまじはりあひつゞき侍るが、彼御遠行の後はたゞ世間の名聞利養に著し仁義の道もさだかならず、地頭領主にもとがめられ、我身も惡見に住し、御流の正義もあらはれず、つぎに三州本宗寺の御坊・土呂・鷲墳・勝萬寺・上宮寺・本證寺退轉し、尾張國報土寺・願誓寺・長嶋願證寺、國をさり給ぬ。何れも蓮如上人さだめましましける眞俗の御掟そむき申されし故也。しかりといへども當住上人御内證あきらかにましますしるしに、大坂靈寺にをきてはそのわづらひなし、これ不思議也、いかなる約束のありけるにやと、蓮如上人の御筆のあといよいⅤ-1245よ貴み奉るもの也。上宮太子の未來記、信證院法印以後までも御心をのこされし慈愍なり。ことさら前住上人にも數度の橫難をのがれをはしまし、佛法再興の靈場となし玉ふも、定て往昔の芳縁、太子の鑒察、猶以歸依渴仰はかりなきものをや。蓮如上人も都鄙數ケ所御建寺をほしといへども、自建立の所は南北に吉崎・大坂兩所也と尊言也き。さりながら吉崎は實顯等の謀叛により退轉せり。あはれ自他正理に歸し、貴場建造の時剋諸人相待奉る計也。蓮秀・心勝・他家宥恕のあつかひあらましかば、ともに再興の道心にかけ侍らましと、時々にをもひ出侍る。 Ⅴ-1246すでに兩人歸參の砌より、江州・能州一和成就して、證如上人御在世年をかさねて花夷ともに御繁榮ありしを、又讒諛のともがら名利の士卒、やゝもすれば喧嘩に及び、仁政の道、正法之おきて相立侍らざるゆへ、今師上人御心をつくされ、御門弟安堵のおもひなし。すでに蓮淳・實圓入寂、蓮秀法眼以下遠行ありし後は、いまだ廿年のうちに勢州・參州末寺退轉になりゆく事も堅士のなきいはれにや。その御遺跡、證惠・證淳・證意にも談話せしめ、證專その外從者にも蓮如・實如御遺言の旨連々申試侍りしかども、そのしるしもなく兩國御門弟およそ斷絶に及ぶ。しかれば法徒いにしへをたづぬる同朋等侶大切なる物をや。たゞ今師上人御内證、冥慮に叶ひましますにより、貴寺にをきては无爲に屬し玉ふ事、在がたく貴く奉仰所Ⅴ-1247也。 されば天文年の比、蓮淳・蓮秀歸參ありしより、二度御中興の寄瑞一天下に顯れ、彌々佛法御繁榮、都鄙靜謐せしむ。そのさき賴秀法橋、其弟備中守賴盛、不義の道もみえ侍れば、汲生軒以下の讒者も立さりけるとなん。すでに賴盛緩怠をいたし、御近習の侍衆坂本へこへ玉ひし後は、猶々賴慶法橋忠切も顯れ、御意として召歸され玉ひしうへは、年月たがひに申合せしみち、そのたよりありと喜び思侍しに、加州より超勝寺の子息刑部卿實照はせのぼりてさまたげをなし、種々の謀言を申上らⅤ-1248れしかば、とりつく人もなくなりぬ。然れば去比江州・能州兩守護のあつかひとして坂本まで參洛し、やうやく蓮悟も寺内へ入せ給しかども、ゆへなく堺へ越玉ふ。しかりといへどもなををりをりよしみをもとめて家中を賴奉る所に、兼譽御病中に御遺言ありしとて、一門衆同く越州へつかひをたてられ、二度歸參せしめをはりぬ。數年の願望一身の滿足是にすぎずとぞ侍る。時に天文十九年季冬中旬也。 其後御扶助の義被仰付、播州英賀へくだり、本宗寺實圓と同く住侍る。もとより妙忍連枝たるうへ若年よりの法友なり。翌年あひともない、二月二日御忌に奉相。霜月には一身上洛して報恩講に奉相。是一期の始也。其後極月上旬播州本德寺へ下向し、翌年は參寺に及ず。天文廿一年春の比Ⅴ-1249より越前國和談の事内々申試べき旨仰下さる。あくる年樣々その調へにいたる。しかるに八月廿日圓如上人卅三年忌一七日念佛勤修、南北の一家衆其外諸國門人上洛あり。法事の後御堂にをきて三ケ度猿樂祕曲をつくし、酒宴遊興日を重ぬ。此時當家の一族末流等參會、自他滿足、都鄙和談、是倂ら偏增院光融僧都御本懷、ひとへに當住上人の師孝顯し在す所也。 爰に久敷疎遠の末弟も、信證院御在世にいたり歸參の流々是あり。まづ江州木部の錦織寺慈觀と申Ⅴ-1250せしは、存覺上人の末子、巧覺の舍弟也。其始慈空大德この寺の開基也。諸淨土宗として興行ありしかども、存覺上人の御勸化により内心御門弟たりき。遷去のみぎり、遺言として寺を存公へ奉り玉ふ。このゆへに遺弟しゐてのぞみ申せし間、この御息に渡し申さる。其後慈達・慈賢、子孫相續ありしが、慈賢著子にゆづり玉ふ前後より當家へ疎遠也し也。慈觀は山門靑蓮院の門侶綱嚴僧都とて、廣橋大納言兼綱卿の嫡子也。其筋目を以て、彼御家よりさだめ玉ふ。 其比叡と申せし人、門徒と不和の事出來し、其子勝惠法師十九歲にして當家へ歸參あり。蓮如上人、勝林坊と付申され、卽ち御娘妙勝所縁として山州三州と云所に寄宿せしめ玉ふ。かの妙勝の母公はⅤ-1251吉崎より宮づかへありし人也。如勝禪尼とて天下一亂のとき牢籠のたぐひなり。天性心柔和にして後生を心にかけ玉ひ、各々君達にもをろそかならざりしかば、諸人襃美ありし上、蓮誓・如專にことしたしく、他にことなる法の友也。茶保と申せし御息女一人まうけ玉へば、その御袋とのみ皆申ならひける。彼臨終の時は蓮誓をよび申され、佛法の不審をはれ玉ひ、其事を蓮如上人御筆に顯し玉ふ。此妙勝御往生の後は、勝惠大和國吉野下市へ越玉ふ。やがて實賢の姉君妙祐入せ玉へば、實孝親く飯貝本善寺たがひに芳好ことにふかし。今Ⅴ-1252號願行寺是也。 又京都出雲路毫攝寺は、本は覺如上人の御時乘專法師御息を申うけらると[云云]。善入と申せし人にや。彼乘專といへるは、本は丹波國に法眼淸範とて、道心者のきこゑあり、佛心宗をも心にかけ、心地を究め成佛をのぞみしが、覺如上人に奉値上足の弟子と也、眞宗弘興の法徒也。覺如上人に奉隨、繪像の本尊、『報恩講私記』・『口傳鈔』・『改邪鈔』・『安心決定鈔』等の聖敎望み申され、眞俗に付ても无類御門弟也。丹波六人部に毫攝寺と云寺を初め玉ふ。卽彼御影像をすへ奉り、覺如御滅後には其御行狀をしるし、『最須敬重繪』とて七卷の傳記を此寺に安置し玉ふと也。後には都に毫攝寺をうつしたてられけるにや。 Ⅴ-1253又越前國橫越之證誠寺道性、京都に我が寺の本寺と賴申せしまゝ善幸の代に至り、出雲路退轉の後橫越に住玉ひ、祕事法門の類の如し。其男善秀は京都にのこり、彼眞弟善鎭も若年の時より母子と證誠寺に下り住持しけり。其昔し善幸荒川花藏閣の末子をまねき養子として住持となす。しかるを蓮如上人吉崎御在國の時、十九歲にして歸參候侍れば、忠節御感在て上釣坊玄秀と號せらる。今加州に寄宿あり。其跡に善鎭住し玉へ共、法流の外なる世藝をもつぱらとし、外道の祕術をまなび、彼Ⅴ-1254流義も樣々に別れければ、彼家司汁谷のそれがし京都へいざなひ、つゐに山科へ引導し申入、卽歸參をのぞみ申されけるまゝ、蓮如上人被召出正闡坊と號せられ、蓮誓在寺の折節なれば、御意として佛書相傳の義、その示誨をうけられしとなん。彼善鎭の息男、民部卿善慶、其子善秀、いま小濱毫攝寺と號する是也。皆當分歸參の一族、又は所縁の一家也。 かねては又越前國志比庄、荒川興行寺の始は、綽如上人の御息、超勝寺頓圓法師の舍弟也。頓圓は國より申うけ奉るといへども、世法にまどはれ法流つぶさならざりしかば、かさねてその御弟周覺をうけられ侍り。天性法義に他事なく、志し切に在しければ、御門弟として強てのぞみ申されし也。Ⅴ-1255吉田郡大谷と云所へ其名なつかしく思給とて寄宿ありしが、頓て荒川へうつり給ふ。巧如上人花藏閣とつけ申さる。實名玄眞と申せり。彼嫡男永存は存如上人壻君として、存如御建立石田西光寺の住持となし玉ふ。次男蓮實華藏閣を相續。其子蓮助法師兼孝あとをつぎ、隱居の後は伊智地保東野に住給ひて花藏閣と稱し、蓮助をば興行寺と號せらる。 同國稻津桂嶋照護寺は國侍甲斐名字代々住持する坊跡也。然共還俗して退轉するに付て所縁をむすび永存の一男の住持となす。蓮眞法師是也。そのⅤ-1256母義は蓮如上人の御妹にてまします。次男は西光寺跡相續ありしかども、進退ちがひ行衞なく成けるとなん。後には武家のともがらとあひかたらひ、放逸無慚なりしまゝすてはてられ侍り。其弟蓮實は父私しに一宇をたて常に住給ふ跡をゆづり得て、母子隱居せしむ。栃川の尼公、栃河の中將とて、孝行の子にてぞ侍る。是も西光寺と申ける。ちかくは加州に室江と云所に一宇をつくり住せ給ふ。石田尼公とも申せり。 又永存の弟蓮欽は藤壽丸とて加州二俣蓮乘招引ありて、蓮乘の御妹君了如禪尼所縁として越中瑞泉寺に寄宿あり。其子賢心兼乘、兵部卿公と號り。法義にをきて他事なく、世間にもさかしき人也。もとより二俣如乘の室家兄弟たるうへ、御息女如秀禪尼從父なりしゆへ也。又興行寺蓮助も蓮如上Ⅴ-1257人の御息女如空禪尼所縁にて御子あまた儲け給。其眞弟蓮堯の室も伯中將資氏の息女、是亦蓮如上人の御孫也。 佛光寺蓮敎は父往生の砌よりしきりに歸參の望あり。彼門弟當流へ歸參の仁に立より順如上人へ申されしかば、卽申入られ蓮如上人めし出し玉ふ。百ケ日の内なり。親父は攝津平野にて卒逝ありき。やがて山科へ參扣、昔の如く立坊、往昔の名にかへされ號興正寺。是空性房了源、覺如上人へ參入の時この所にたてられし一寺の稱號也。佛光寺とは當家退散の後汁谷に於て號せられし名也。卽Ⅴ-1258常樂寺蓮覺の壻君となして親屬のまじはり他に異也、彼息男蓮秀も伯中將資氏の所縁となせり。是も蓮如の御孫女今度改悔歸參の忠切により如此の御所計皆順如上人の御智惠となし、先祖了源は一向異姓他家の人也。何も所縁として親昵交友あひかはらず。其後民部卿實秀・證秀皆興正寺蓮秀の息男、ちかくは忠節馳走の懇切により一家の一列につらなり侍ける。 又越前國藤嶋超勝寺の初は、先此國に和田の信性と云人有。是は參川國野寺本證寺の末學也。先祖慶圓は高田顯智聖の弟子也。彼顯智は法義にをきて信順ふかく本寺崇敬のをもひなをざりならず。もとは常陸國眞壁の眞佛聖の附屬、鸞上人の孫弟也。同國和田の圓善は是も眞佛聖の弟子に遠江國鶴見專信房專海と申せし人の門徒也。何も開山聖Ⅴ-1259人御在世に逢奉し御門人也き。彼圓善の弟子越前國大町の如道と云者あり。田嶋の興宗寺行如、和田の信正、あひともに覺如上人御在國の中御勸化をうけられし法徒也。しかるに御上洛の後法流にをきて如道新義をたて、祕事法門と云事を骨張せしかば、御門徒の面々かたく糺明をなし、自今以後出言あるべからざる旨起請文を令書改悔ありしか共、猶やまずして諸人迷亂ありしかば、申上られ御門徒をはなされ畢。然ども邪義をつのり、橫越の道性・鯖屋の如覺・中野坊主、この旨をつたゑ今に餘殘ありて、三門徒をがまずの衆と號すⅤ-1260る者也。然ども蓮如吉崎御在津の時より大略心中を改め本寺へ歸參せしむ。 殊に專修寺住持はこの國侍大町名字としてこの寺を政務相續せしを、俄に還俗す。大町四郎是也。寺住持の事は本寺へ可申旨申せしむる間、三河の勝萬寺へ申のあひだ、當住持高珍をよびこし申されけるに、やがて吉崎へ參詣ありしかば、をのづから當流に門弟までも歸伏せしめぬ。卽彼息女永存の三男蓮慶所縁として專修寺住持職也。其嫡Ⅴ-1261男三河勝萬寺了顯次男顯誓、大町住持をつぐ。是も伯中將の壻たりき。是に依て彌當國にをきて御一流恢弘せり。高珍もこの寺にて逝去あり。しかりといへども、なを三門徒の衆彼祕事法門執心のやからあり。あさましあさまし。 扨も和田の信性卒去の後、嫡男・次男家督のあらそひ出來たりて門徒あひわかれり。兄長松丸は母儀早世あり、弟長若の母公樣々の謀略として過半かれに同心せり。よりて長松丸めのと信性の眞影一幅、重代の太刀ひそかにとりて、長松丸と同く坊中を令退出。しかれども時いたらざるか長松丸卒逝ありしかば、其門徒衆東山殿へ申上られ君Ⅴ-1262達を申うけ奉る。頓圓・鸞藝と申是也。巧如上人の御舍弟也。其後藤嶋に寺をたて號超勝寺。俗縁なくては叶べからずとて、三公文の中、菅の某が女をこひうけて所縁となししかば、藤嶋豐郷も同心也。其時かたく堅約のすぢめあり。又加州諸坊主衆へも仰下されけるにや、大略與力の體也。[荻生]願成寺・[河崎]專稱寺・[長崎]稱名寺・[宮越]仰西寺、往古より御直參の衆はその沙汰に不及、其後眞弟一人出生せり、如遵玄慶と申せし是也。しかるに母義と不和の事ありて加州粟津へ頓圓こゑ玉ひて、戸津と云所に住坊ありて、次男蓮覺と申せしをまうけ玉ふ。この眞弟法流執心ふかくして眞俗ともにたゞしかりしかば、兩親門弟までもしたしくうやまひける。寺號本蓮寺と申せり。頓圓もこの寺にて御入滅、御影等も蓮覺・蓮惠・蓮心Ⅴ-1263にいたるまで安置したまふ。 超勝寺如遵は母子越前にとゞまり玉へども、よろづ父の道をまなぶ事まれなり。ことに頓死の事ありしかば、其息男巧遵も法流にうとうとしく、世間仁義の道もかしこからず。其比蓮如上人吉崎より藤嶋へ出御ありし折節、當寺門徒衆參會の講筵を御覽ぜられ、當住持はこの門弟あづかるべき器にあらずとて、かの息男蓮超いまだ九歲なりしを住持にさだめられ、親父は隱居あるべしとて、定地坊と坊號をさづけさせ玉ふ。又本遵寺より蓮覺の妹比丘尼頓如を召しよせ、よくよくもりたてらⅤ-1264るべしとかたく被仰付畢ぬ。尊意のごとく蓮超成仁の後眞俗ともに正路をまもり、公武ともに襃美ありし人也。是に依て加越兩國無爲に屬し、卽本蓮寺と所縁となり。實顯は蓮覺の孫也。かの室往生の後は蓮如の御息女蓮宗と申せしを下玉ひ、息男出生あり。今の定地坊式部卿勝祐是也。蓮藝と御一腹の君達なれば、かの御好みをしたひ、むつまじく眞俗申談ぜらるべきを、よろづあひとゞかざる仁體也。いはんや先腹超勝寺實顯は父蓮超法師圓寂のみぎりより、國守輕蔑のをもひをなし怨敵誘引の謀略をたくみ、其企を心にかけけるよし諸人申あひ侍しが、つゐにその隱謀により都鄙みだれゆき、加越も義絶とも、當流の門弟あやぶみをなす。惠林院殿御代、上意として北陸道あけられ侍しかども、今に至るまで、かの實顯、其子實Ⅴ-1265照顯祐やゝもすれば妨をなす。是永正の末の年。圓如御鑒察のうへは、今はじめたる事にあらざるをや。しかしながら凡慮の及ぶ所にあらず。 去程に天文廿三年夏の比より前住上人御不例の事あり。名醫を召寄られ、樣々の御治療どもありといへども、秋にいたり彌々煩ひ在す其聞ゑあるまゝ、英賀の浦より舟よそひし、妙忍とともにいそぎ參しかども、海路順風心にまかせず、八月十三日著岸、この日御年卅九才にして御入滅、そのさきの夜今師上人御得度、御齡十二歲、八月十二Ⅴ-1266日酉の一點と[云云]。御法名顯如御筆を以あそばされまいらせらる。御剃髮の作法、御衣・袈裟の御著用も舊義の如し、靑蓮院宮委細の御理りありと[云云]。御急病に付て如此。前代より御門跡にて御落髮先例たり。しかれば御禮義等はあひかはらず仰上らる。此間の靈告・御夢想しるすに及ず。御闍維の跡に御珠數あひのこり、今に御安置。卽其趣き今師上人の御夢につげ申さると[云云]。如此の明師にて在せども生死無常の習ひのがれがたき道、公私の周障申もをろか也。 又本宗寺實圓・證專二人は去年冬の比參州へ下國、Ⅴ-1267この事をそくきこえしかば、廿日にのぼり玉ひて御葬禮にはあひ在す。かくて五旬すぎて各々國々へ下向し玉ひぬ。しかれども予はとゞまり在京せしめ、彌々給仕奉事のつとめ心にかけ奉る。 爰に慶公、かの越州の事、信受院殿御入滅に付てあやぶみをなすべし。相つゞき御あつかひに及ぶべき旨仰に仍て敎景へ申下し侍る。折節加州より超勝寺實顯の弟と定地坊勝祐かの國へこし、不慮の申事出來せり。斟酌この時にあり、彼讒者の謀計あひやむべからず。其遠慮あるべしと返答。こⅤ-1268の思惟の如く、かの御遷化の砌は法義をもつぱらに讚嘆し、宗旨のをきての沙汰談合に及ぶといへども、次第次第にその道をこたり、謀略のやから又名利の道になり行、つゐに一和のすぢめとゝのほらず、他家のともがらあひまじはり、興遊を本とし、自宗のやから世欲に逢著す。これより眞俗の法度みだれ、武勇の道を好み、能州へ勢衆をつかはし、又越中の所領をのぞむ。時に甲州の長延寺實了、武田大膳太夫晴信をかたらひ、能州畠山四郎某に通じ、守護方被官溫井以下の士卒を引わけ加州へ取退、兩國しづかならず。又越後調略をなし、關東北條左京太夫氏康を引うけ、計策さまざま也。是に依て長尾彈正左衞門尉景虎、能州左衞門佐義續に通達し、越前朝倉左衞門督義景に申合、すでに同名金吾入道宗滴加州へ亂入す。是皆Ⅴ-1269超勝寺敎芳の僞妄謀略より起れり。しかれども下間駿河法橋賴言加州へ下國ありて、大館左衞門佐晴光に相談し、一和のあつかひをなさる。その最中敎芳異の方便をめぐらし、賴言を鴆せしむ。去ながら賴言の舍弟右近將監賴良下向をなし、和談成就して歸路ありき。敎芳はそのとがのがれがたくして越前へ逃かくれぬ。かくて猶謀叛やまず、却て案内者として彌々兩國不和の根源と也、人民愁憤なのめならず。爰に亦謀臣ありて越前亂入の企をなす。若事成就せば能加越の三州悉く其競望を心にかく。諸國錯亂のもとゐ佛法・王法破Ⅴ-1270滅の先表也き。尤歎き思ふ所也。然る所にかの侫臣害に及、寺中まづ靜りぬ。その中間靈場回祿の事あり。此義に依て諸邦の調略をのづからやみぬ。是亦不思義也。かくて佛寺御再興の後は、今師上人眞俗共に舊義の如く被仰付、諸徒安堵の思をなす。 雖然諸國御門弟の内、名利に貪著し出離の道にうときともがら、法度をそむき國郡なをしづかならず。殊に法流に付て一義を骨張し、先德の法則をみだり、あまさへ害心をさしはさみ同行を輕蔑し、命根を斷べき造意是ありと[云云]。是に依て顯誓不肖也といへども、ひそかに今師上人に一紙をさゝげ、善知識の御敎をうけ奉り、同行あひしたしみ法義を讚嘆し、同く和合の海に入りて彌陀のⅤ-1271願船に乘じて、ともに衆生濟度の誓を顯し、今師行化の利益をたすけ奉らんと欲す。是ひとへに實如上人御遺訓の直語、蓮如上人御示誨の素意なるをや。ふしてこふ、佛神三寶哀愍納受をたれ、自他の願望を叶へ玉へと、ふかく歸依渴仰の信心をいたすばかり也。 于時永祿十一年六月十八日。 當津蟄居徒然之餘染愚筆記之。漸獨吟一覽、今日終其功訖。不圖、存如上人御正忌相當侍。尤以叶本心者也。 極月十三日書之 Ⅴ-1272去永祿十年早寫之本、去年加添削、今年三月十二日重而所書寫也。