Ⅴ-1143光闡百首 近曾被犯病霧、傷人間浮生之身。疑雲立覆惱娑婆有待之心、無明闇夜隱法性之覺月。冥々獨坐寢床、身心不辨東西、宛似居〔室穴之〕中。爰嚴師慈愍之德風、誘引來化而忽〔如拂於雲〕霧、眞智之日月漸出期時至、欲朗無㝵光耀。依此安慰卽復本心、以受法藥、治多罪・重病、歡喜滿胸、渴仰銘肝。仍聞曉鐘〔短夢速醒〕矣。試呈漢和之一章、憶白居易〔遺愛寺往事。〕靈寺鐘聲欹枕聽、心中所願〔披書看。〕 いと〔ゞし〕く■うき世の夢を■〔おどろかす■法のおしへや■あかつきの鐘〕 同〔日〕、聖廟之神、同樂〔天之尊詩賡其高韻頓作。〕 遙仰靈場看瓦色■唯歸於佛稱〔名聲〕■榮名自是心永絶■深念佛恩〔口不言〕 身のあれば■又いかならん■いつはりの■なき世に〔き〕え〔ん■命をぞ〕おもふ 彌陀たのむ■心はたえぬ■慈に■世のよしあしも■忘れはてぬる 又於蟄居之机上、得古本寫太子「十七ケ條憲法」。今日當彼御入滅之正Ⅴ-1144日右筆〔之次、〕綴和漢之兩篇述卑懷、奉〔獻彼〕尊靈、伏乞慈悲加護焉。 至心信樂從何發■皆是彌陀廻向相■今日更思弘興德■和朝敎主上宮王 たえせじと■あふぐ佛の■法の道■まもらざらめや■君がめぐみに 身をすてゝ■法のためにと■おもひ入■心のみちは■〔あめつち〕もしる 彌陀智願首廻向■太子來應慈愍明■觀自在尊同勢至■艤船苦海度衆生 くるしみの■海をもわたす■法の船■彌陀の誓を■たゞたのめ人 次日得隆寛律師法語書寫之。〔奥書(一念多念*分別事)云、〕「建長七歲乙卯四月廿三日、愚禿〔善信〕八十三歲書寫之。」W云々R則日終書功訖。〔今日〕又〔祖母〕如了禪尼之〔逝日也。今年又〕永祿丁卯歲、不期不〔測、自然〕之〔所致也。〕 抑今師上人御誕生、天文十二年〔正〕月七日癸卯、當年又卯歲也。〔至于此時顯〕諸徒勸誘之懇誠、示衆生得〔脫之〕要道絡。是倂末代奇妙之化益、佛法繁昌之根源者乎。況月中兔、世尊因位應化之其一者乎。御〔壽算〕又當年同曆、時節相應之表示〔者乎。〕兼亦憲法書寫之古本、「明應四年乙卯三月廿九日書之。」W云々R吾雖爲未生以前之寫本、今年入予手遂拜覽、尤機感順Ⅴ-1145熟者歟。閑對憲章、爲愚朦安慰之少解、太子哀憐豈無之乎。〔就中〕今日者、當山開闢之尊師兼〔壽法印〕圓寂之忌辰、當流中興之明哲也。下愚雖不奉遇彼在世、信順其遺敎、專仰彼行化。是則〔彌陀・釋迦〕二尊之矜哀、代々相承知〔識之厚恩也。〕因茲亦記卑詞呈筆端矣。 老釋・彌陀二佛因■眞〔茲唯仰下愚身■無明雲霧隨風散■〔法性月輪〕光〔耀新〕 廿あまり■五の年に■あひにあふ■法のちぎりを■〔たのむ今日哉〕 『觀經義』(散善義)云、「仰蒙釋迦發遣〔指向西〕方、又藉彌陀悲心招喚、今信〔順二尊之〕意、不顧水火二河、念々無遺乘彼願力之道。」W已上R唯憑此眞說。古語(韓非子)云、「千丈之堤自螻蟻穴而潰。」W云々R然〔近日〕有惡徒招螻才入者爲一諆計、邪見放逸之企、是倂佛法破滅之基也。彼螻蟲在土中不辨明闇、適遊陸地、坐臥不安、忽加潤澤增其惡、濁水漲來、今旣出奔、言語非人、是外道癡鈍之所爲、天罰冥罰、在其身〔者〕乎。導和尙二河譬喩其證明白者乎。所述毒蟲此類歟、無慚無愧是爲畜生、何爲佛法修行之器乎。彼文(散善*義意)云、「正欲到回、群賊・惡獸漸々來逼。正欲南北避走、惡獸・毒蟲競向〔我。正欲〕向西尋道而去、復恐墮此Ⅴ-1146水火二河。〔當〕時惶怖不復可言。W乃至R〔此人旣聞此遣彼〕喚卽正當身心、決定〔直進、不〕生〔疑〕怯退心。W乃至R一心直進念道而行、須臾〔卽〕到西岸、永離諸難、善友相見〔慶樂〕無已。」W已上R二尊之攝護、列祖之慈〔恩、夫〕豈疎乎。仍抑悲喜之淚誌報謝之愚念而已。 永祿拾年十月廿八日早朝任浮心記之 をのづから■心にうかむ■ことのはを■かく水莖の■あとぞおかしき 身につとめ■心にさとる■法ならば■なにとたのまん■彌陀の誓を かゝる世の■ためにときをく■法なれば■この比ことに■彌陀ぞたふとき 定なき■うき世はつねの■ならひにも■ことはりすぎて■つらきころかな かねて聞■彌陀のちかひに■まかすれば■世のうき〔ふしも〕■身にはなげかず みだれゆく■世をこそなげゝ■心には■みだたのむ身〔の■たのしみ〕やこれ 法の師の■かねてをしへし■道ならで■又〔おも〕ふべき■〔心とも〕なし 生死の■みちはのがれぬ■世をさらに■なにとたのまん■彌陀たのむ身は おさめとる■彌陀の光の■うちにすむ■身のあ〔かつきを■待ぞうれしき〕 たのもしな■うき世の雲の■あともなく■さと〔りひらけん■あかつきの空〕 Ⅴ-1147とにかくに■彌陀のちかひを■あふぐぞよ■おろか〔なる身も■たへぬたふとさ〕 いかにし〔て■おろかな〕る身に■おもは〔まじ■彌陀のあたふる■惠ならずは〕 あふぎみ〔ば■なをは〕かりなき■めぐ〔みかな■彌陀のちかひも■祖師のおしへも〕 今日從反古之中愚詠一首搜得〔之。是者〕去比淸水之花亭、庭前之池〔遙見之、蓮〕花初開境節、門主佛書御〔拜覽之〕砌也。予侍座下襃之、則至于其池邊爲希奇之思頓作。「年をへて■花さか〔ざり〕し■蓮葉も■いまぞひらくる■法のに〔ほひに〕」讀詠草也。翌日[廿九]又存鏡筆跡〔之古〕詩一篇看之。仍效彼風景賡其韻。彼語[云]、「倒風深菊、荒雪池蓮。」W云々R隨而當時寓居之亭、庭前見菊。去夏步行之次、池水詠蓮爲其興愛玩。今更戀慕之思不休、兼亦此數年、荷〔葉雖〕繁茂未發一花。今年初而蓮〔華開〕敷、奇妙之瑞銘心肝。仍憶往事〔詠之。〕 丹心歸佛仰哀憐■深院獨居更精專■近見寒庭戴霜菊■遠思夏〔日發風蓮〕 佛日・祖風化益遐■欲明長夜法〔薰加〕■一心專念無量德■本是如來正覺〔華〕 〔玄冬晦曉、〕佛恩〔憶念稱名之。〕愚〔懷慰〕心號。此〔廿八日廿九日兩日之間、〕當流之『本書』一部六卷奉拜讀、〔翌日〕『淨土文類聚鈔』遂拜覽、〔彌以Ⅴ-1148佛祖之〕廣德、報恩之思無極、仍又〔頓〕吟。 なぐさみも■外にもとめず■彌陀たのむ■心ぞしるべ■御名をとなへて いやましに■あふげばたかき■法の師の■をしへの外〔は■なにか〕たづねん 同年十一月四日おもひつ〔ゞけゝ〕る。 二なき■御法のみちを■たづねゆく■心のすゑは■彌陀〔ぞ〕まもらん みだれゆく■人の心は■さもあらばあれ■われはすぐなる■みちを尋ん にごる世の■人の心は■すみやらぬ■水になづめる■われぞかなしき なき名にて■しばししづみし■苦の■海にもうかむ■舟はあらずや いにしへも■なき名にしづむ■跡はあれど■ひろまる法の■道はたえせず たえせじと■たのむ御法を■さまたぐる■人の心は■さていかにせん 釋迦・彌陀の■誓はいまも■あきらけき■御法を〔たのむ■道は〕かはらじ 六日曉、夢さめて後、開山聖人の御詠歌に 「ありがたやたふとやとこそいはれしは■みだたのむ身のひとりごとには」Wとあ〔そばされ〕し〔ことを〕お〔もひいでゝ、〕R ありがたや■老のねざめも■彌陀たのむ■その〔嬉しさの■ひとりごとして〕 Ⅴ-1149法の道■君をおもひの■へだてなき■心は彌陀ぞ■〔みそなはすらん〕 法の師の■〔めぐみをお〕もひ■あけくれ〔ば■君につかふる■こゝろのみして〕 〔同七日〕けふは亡父〔卒逝の日也。去文明の比〕信證院法印北國行化のとき、〔安藝法眼〕光業と云しもの寵をゑて、〔眞俗の道を申〕すかして、加州みだれがはしかりし〔を、其權威には、〕はゞかりいさむる人もなかりしに、故法印康兼・阿兄兼祐法印にあひ談〔じ、〕願成就院法印をよびくだし奉り、〔兄弟三〕人もろともに、ひそかに信證院法印に申あげ奉りしかば、おどろきおぼしめし、にはかに光助法印の便船をまち、順風をゑ給ひ、一日のうちに若狹の小濱に著岸ありて、それより都にのぼりましまし、かの佞者を退られし後、都鄙一流の正意あらはし、佛法繁昌〔のも〕とゐになりき。もとより故法印は、をろかな〔る身の〕はぢてよろづつゝしみありといへども、法のためには身を忘れけるむねを、つねにかたり侍し事を思いでゝ、 たらちねの■をしへし道も■法の師の■惠〔みわすれぬ■跡をしぞおもふ〕 をろかなる■身にもおもひの■法の道■まもら〔ざらめや■神もほとけも〕 ひるがへす■心ひとつに■ゆく道を■なをわけまよ〔ふ■ひとぞかなしき〕 Ⅴ-1150末の〔世に■なをさか〕ゆべき■彌〔陀の法■よしさまたぐる■人はありとも〕 まもれ〔なを■こゝろひと〕つの■法の道■〔尋ねゆくゆく■身をぞよろこぶ〕 ぬるがうちも■目ざめてみるも■夢なれば■何か〔常なる■うつゝなの世や〕 かゝる世も■ひとつまことの■道とては■彌陀の〔ちかひを■たのむばかりぞ〕 この比つけをかれし侍の中に、河上の〔なにがしといへる人は、〕故瑞泉寺賢心にわかき時よりなれむつびし人なれば、そのゆかりなど申出て、おりおり心をなぐさめ侍し。かの賢心は實如上人にしたしみ奉り、〔法儀〕にをひて他事なく侍しかば、故法印もことにも〔てあ〕つかひし〔うへ、〕その子證心は兼順と叔姪のあひだに侍れば、まじはりもよのつねならず、ちかくは賢心跡をゆづり修誓坊兼乘とぞ申ける。つねにむかしの事などかたり給し、いにしへをもてきこえし、古きこと葉、繪贊もち來侍し、その語かの韻〔をつ〕ぎ、ふとおもひつゞけける。古語云、「學道參禪渡世計、不如閉〔口〕送殘年。」 物いはで■心にをくる■年月も■法の道ぞ■またるゝ 繪贊[云] 瘦盡風相四十圍■〔春光曾不到〕寒枝■莫敎淪落西湖去■羞〔被官梅御柳知〕 Ⅴ-1151和韻 莫謂風光不到圍■朝々〔映日照梅枝〕■仲〔冬薰〕馥遇時樹■〔周世昭王盛歲知〕 同贊〔云〕 可期無定兩悠〔々■昏底黃沙日夜流〕■望斷暮雲殘照外■靑楓吹落〔海門秋〕 〔和韻〕 可期定裏意悠々■佛化自然〔法爾流〕■末世相應一稱德■彌陀本誓〔是春秋〕 河上や■法のこゝろの■玉椿■みれどもあかぬ■花の色香は うれしくも■今夜あひみる■夢の友■ゑ〔い〕をすゝ〔めし■春〕の盃 おもひ出る■心はたえぬ■いにしへの■人やあはれ〔む■法の〕契を 後の二首の歌は、この曉、むかしの友とて樽をいだき尋來りて、ともに盃をめぐらし侍ると覺て、ゆめさめてよめる。しかもけふは妙祐禪尼身まかり侍し日なり、かたがた筆にあらはし書つけ侍る。 ことの葉も■たえてうれしき■心かな■彌陀のたすくる■法をきく身は 罪ふかく■愚なる身を■おもひしる■心も彌陀〔の■恩〕としられて きく事も■心にうるも■はかりなき■彌陀の誓〔の■ふかき〕慈み Ⅴ-1152きけばなを■わがはからひの■盡はてゝ■彌陀のた〔すくる〕■法の貴さ いく度か■身をかへりみて■法を思■我はからひの■ありやなしやと われといふ■迷もなしや■六の道■よこぎる彌〔陀の〕■法〔に任て〕 よしあしと■われにとまりし■道もなし■彌陀〔たのむ身は■うさもわすれて〕 一すぢに■彌陀たのむ身は■をのづから■うき世の〔道も■それにまかせて〕 閑居〔のつれづれ〕のあまり、佛〔陀を遷侍る菩薩歡〕喜地〔より〕十地を經〔て補處〕等〔覺の位にいたり〕侍る階次をみるにも、自力修行の成〔じがたきことをきくに、〕今彌陀の本願、第十七の願の名〔號を信受する〕第十八の念佛往生の機は、〔すなはち第十一の〕願、住正定聚の益、必至滅度の果をうるよし、祖師の解釋、他力易往の本誓、いと貴くぞ覺〔え侍る。〕今朝おき出侍れば、寒風はげしく水こほり雪ふり〔て、遠の〕外山もみなしろたへにみえ侍るに、かの越王勾踐のむかし會稽の恥を雪めしふるごとおもひいでゝよめる。しかもけふは十一日になりはんべりける。 手にむすぶ■水もこほりて■うちむかふ■外山のみねの■ふれる初雪 ふる雪も■恥をきよむる■ためしとや■十地を越る■ひとつさとりは Ⅴ-1153けふは十五日の日なり、よのつねに彌陀・釋迦二尊感應の日と申しならはし侍る。されば釋〔尊世に〕出給ふ事も、ひとへに彌陀の本願をときのべましますべきためとみえ侍れば、末の世のわれらまでも、この御誓にあひ奉る、佛恩かたじけなくぞ覺侍る。又偏〔增院僧都の御〕家兄中納言公光圓と申せしは、故〔法印にしたしく仰〕あはせられ侍し、その御ゆかりを忘れず、と〔しどし極月十五日〕には〔志を〕いた〔し給をも、おもひつげず侍しを、去永正〕十六〔の比も、〕父いさゝか〔風病をわづらひし折ふし、予に〕かたり侍る。かやうの心づかひまでも、ねんごろ〔なりしことまで〕おもひ出侍る。ことさらすぎにし姉公〔誓賢は前の〕としのしはすの二日身まかり〔侍る、光圓にさきだちて〕まいらせ侍しとなり。そのきはにも蓮如上人あそばされし「御文」(五帖*一四)に「かくのごとくやすき事をいまゝで信じたてまつらざる事のあさましさよとおもひて、なをなを〔ふかく彌〕陀如來をたのみ奉べきものなり」との御詞を申いだし念佛申、そのまゝいきたえ侍るとなん。いまだ十あまりの人の心ばせにたぐひなきよし申つたへ侍る事など、いまおもひいでゝよめる。 釋迦・彌陀の■惠あまねき■法の道■ひろまる末の■世をばなげかじ Ⅴ-1154かりそめの■法の契も■忘ぬや■そのたらちねの■殘すことの葉 をろかなる■身をおもふにも■いやましに■ふかくぞ〔たのむ■彌陀〕の誓を 今夜の月ことにくまなかりければ、 さやかなる■月にたぐへて■思やる■彌陀の御國の■きよき光を いかなれば■月はくもらぬ■中天に■なにとう〔き世の■雲かゝるらん〕 慈の■光をうけて■法道■きくも佛の■ち〔からなりけり〕 たゞたのめ■あふげばたかき■法の道■心にたゑぬ■〔彌陀のひかりを〕 となふるも■彌陀のもよほす■〔御名なれば■げにぞまことの■心とはしる〕 四十地あま〔り■八の〕誓も■あきら〔けき■こよひの月は■雲もかゝらず〕 かんがへ侍れば、去九月廿七日より今日〔まで、四十九日になん〕なり侍る。これによりて彌陀の本願に〔なぞらへてかく申〕侍る。又子月中旬第七日當初〔岡崎中納言と申〕せし人、建曆元年の比敕免の宣旨をうけたまはり、黑谷聖人御歸洛ありし往事をおもひ出で、源中納言と申ける許へ消息のついでひと〔りごちし〕侍る。 法の道■おもふばかりに■すぎし身の■なにとうき世に■まよう心ぞ Ⅴ-1155世のためと■おもひしかども■身のうへに■かゝる淚の■つもる月日は いかにせん■をろかなる身を■かこちても■老行末の■世のならひをば ひたすらに■彌陀たのむ身の■心をば■法の師德の■惠あらずや 世の浪も■しづまる法の■海づらに■うかぶ誓の■舟をしぞ思ふ むかし大施太子と申せし人、貧人をあはれみすくはんとの大願をおこし、如意寶珠をもと〔め給し〕を、龍神おしみ奉りしかば、ゑんしの貝を〔以巨海〕をくみ盡し、つゐに寶珠をゑ給ふとなり。志の深きをば佛神も感應あるためしに申つた〔へ侍る、以管窺天〕以蠡測海はをろかなる事に申侍〔れども、佛祖の照覽を〕仰ぎ、いさゝか法の道のみだれ行べき事〔をなげき、〕朋友〔たがひ〕に意旨を〔のべ、おなじく和合の海に入、〕ひとつ〔御法〕のうしほの味〔に歸せん事をねがひ侍りしに、〕時のいたらざると心のつたなきゆ〔へ、かやうに成〕ゆく事身の志のおろそかなる〔所をよる・ひるかへり〕みるにも、自樂をもとめず我身〔自心に著する〕おもひもなし、たゞ祖師の御遺訓をしたひ、佛智の本誓をたのみ奉るばかりなり。〔しかれど〕も邪見放逸さかりなる時なれば、かへり〔て佛法〕破壞瞋毒のたくみとも、見聞につけて悲淚にむせび、Ⅴ-1156いとゞむかし戀しく、庭の梢に枇杷の葉の中に花のつぼみのまじはるをみて、盧橘のうたがひまで、そのよせありて、かく申侍る。 こぼすとも■人やみるらん■昔おもふ■はなたち花の■袖のなみだは いにしへも■管にてそらを■はかりみつ■貝にて海を■くみ盡しけん 愚なる■身にも御法の■そのために■心をつくす■道〔はかわら〕じ 古き詩に、白梅盧橘さめてかうばし、〔夢はめぐ〕る却月廊といへる事を思出て、 むかしたれ■月にかへりし■夢の間も■とく〔さく梅の■花のにほひに〕 古も■冬ごほりせし■難波津に■さくやこの〔花■香にほふらん〕 此歌は仁德天王のむかしをおもひ、今〔師上人法流御〕再興〔の嘉〕地によそへ奉〔る。かねては去文明の末の〕とし、椿〔如〕禪尼W〔從三位〕雄子R〔俄に出家發心し給ひ、善〕光寺へまうで給しが、先妣をたづね〔越の中津國に〕いたり、をのづから法門聽聞耳〔にとゞまり、康兼〕法印のをしへをうけて、そのまゝ〔此寺にやどり〕給ひ、但信念佛の行人となり給ぬ、それよりこのかた加州へともなひ奉り、姉妹おな〔じく〕すみ給へば、予いとけなかりし時、「とくさけよⅤ-1157〔千代を〕こめたる春なれば」と梅の花をよみ侍し、そのことの葉をあはれみ、敷嶋の道にすゝめ入給。それよりはじめて三十一もじのことの葉に心をかけ、いま老の後のなぐさみとなり侍るゆかりの露もかうばしく、むかしの風もなつかしう覺侍うへ、御おとゞ小倉大納言李種卿に『論語』の訓說をうけ奉〔り、〕和歌の道までもかたり出たまひ、逍遙〔院内府の〕御點など申うけ侍し古の事まで、ひ〔とり〕ごとしてかきつけ侍るならん。けふは又祖母如〔了〕禪尼の卒逝の日にあたり給ふ。すぎしに〔康正の昔亡父出生〕ののち、仲冬下旬身まかり給〔けるとなん。しかれば〕每年この月十三日に、とりこし、志〔のつとめをなし〕給し〔事、〕今さら〔のやうにおもひ出侍る。はやすでに〕百〔とせ〕あまり〔十〕と〔せにすぎ侍れども、ことし身の〕うへにしられて、あはれに覺え侍る。〔父は平の貞牧と〕申せし人なり、敎恩院法印の〔女公も卽かの〕御妹公にてましましければ、幼〔少より同く〕伯母の御いつくしみにて、ひとゝなり〔給しか〕ば、康兼は實如とことにしたしく、御兄弟〔の中〕にもとりわき法友にてましましける。先妣〔はもと〕權大納言持季卿の末女なりしが、事の縁ありて越の國へくだり、をのづから眞俗の道ともにかしこく見物し給Ⅴ-1158へば、信證院法印もつねに襃美しましましき。さればかの考妣の跡をとぶらひ、その道をまもるべきむね、實如予につねにをしへきかせられし事を、 たらちねの■したひし道も■法の門■思ひいでゝ〔も■ぬるゝ袖〕かな 廿四日早朝、和泉の國の法友一、二人、こ〔のや〕どをたづねて來れり。ちかきあたりの人さへ、〔か〕たへをはゞかり、をとづれもなきところに、はる〔ばるの志、あわ〕れにおぼへて、 心ざし■ふかきや色に■いづみなる■信太のもり〔の■木々のこずゑも〕 過にし〔享〕祿の比、〔加州みだれにより、越の前州へこゑ〕廿とせ〔ばか〕り、心をつく〔し侍る時、和泉祐念といひし〕ものと、出雲守正家といへる靑侍、〔つきそひ侍り、其〕外のものはちりぢりになりぬ。しか〔るにこのあひだも、彼〕和泉が息順信・信秀ふたり、〔母子より外はわれに〕したがふものなし。されば二たびの難に心かはらぬこゝろざし、父のあとをわすれ〔ぬ〕道あはれにおもひ侍る。ことに弟信秀予がやまひに〔おかされ〕是非をわかざるおりふし、ちからをそへ侍〔る〕事、たぐひなくぞ覺し。さすが名ある靑侍のしるしと感氣すくなからず、この母子のなさけ、筆につくしがたくて、老の心におⅤ-1159もひつゞけける。 身は老ぬ■われひとりなる■後の世を■たのむは法の■契なるらん かくれてわれ■さきだつとても■かへり來て■すくはん彌陀〔の〕■誓たのもし 又土佐入道良誓といへるものは、故〔法印にひさ〕しくつかへしものなり。この大坂御堂御建立の時も、つかひとしてのぼり、そのとき給りし法名良〔誓〕と實如御筆をくだしましましける。〔亡父入寂の後は、予〕にしたがひ當寺歸參の時も、心〔をつくせし法徒也〕き。つゐにこの御山にして往生の本意〔をとげしことも〕不思議の宿縁〔にこそ、其ゆかりのものしの〕びて來れり。かの法名〔によせて、〕 まことある■誓の末や■今さらに■忘ぬ法を■と〔ふもなつかし〕 まことある■誓をたのむ■彌陀の名の■世にき〔こへたる■跡おしぞおもふ〕 けふは、當山開基蓮如上人御命〔日也。〕おなじく法然聖人御圓寂の正日なれば、い〔づ〕れも淨土弘興の明師にてましませば、ふと〔お〕もひ出侍る。 たゞたのめ■彌陀の誓を■世におもふ■惠はおなじ■〔すみぞめ〕の袖 末の世に■生くる身も■彌陀の名の■ひろまる道を■猶あ〔ふぐ〕なり Ⅴ-1160亡父かきをけるふるき要文など、むかし戀しくてひとりひらきみるに、予六歲のとき、妙照禪尼にいざなはれ、松岡寺へこえ侍るに、蓮如上人つくらせおはします「御文」(五帖*一)「末代无智の在家止住の男女たらんともがらは」とあそばされし御詞を、そらによみ侍れば、「聖人一流の御勸化のおもむきは信心をもて本とせられ候」〔とのべ給「御〕文」(五帖*一〇)ををしへさせ給しを、光敎寺へかへりて、先〔考〕にそらにかたり申しかば、口づからかきとゞめさ〔せ給し〕事の跡なり。 今さらに■思ぞ出る■法の道■をろかなるをも■〔すてぬ昔を〕 愚なる■身にも忘ぬ■ことの葉を■いまみるか〔らに■ぬるゝ袖かな〕 むかしより■ふかき惠の■つもる身〔や■わすれずのりの■道おまもらん〕 去年霜月廿六日、今〔師上人『和讚』(正像末*和讚)の事おほせ〕いださる、「像末五濁の世となりて■〔釋迦の遺敎〕かくれしむ■彌陀の悲願ひろまりて■〔念佛往生〕さかりなり」と申とを、明日引〔はじめ奉るべきよし〕なり。そのむね御堂衆に申べきか、助音〔いかゞと〕うかゞひ申侍れば、申べからず、一家衆に〔は〕我等こゝろえにて候とおほせられしまゝ、みなみな稽古〔申、あく〕る日Ⅴ-1161その衆同音に申あはせ侍べり、子細〔さら〕にわきまへ侍らず、今朝その事を思出たてまつり、ひそかにひとり誦したてまつりて、 思いでゝ■ことしも袖を■しぼるかな■君がをしへし■法のことのは さかりなる■御法の花を■心なく■さそうあらしよ■さていかにせん みだりゆく■世にもさはらぬ■彌陀の名の■猶あら〔はれん■時や〕來らん 大唐念佛興行の祖師善導和尙は、〔永隆〕二年三月廿七日に入滅したまふ。その德をほ〔めて〕いはく、「佛法東行してよりこのかた、いまだ禪師〔のさかん〕なる德のごとくなるはあらず」(瑞應傳)と[云々]。鸞〔聖人は、「善導ひとり〕佛の正意をあきらかにせり」(行卷)と〔ほめさせ給ふ。其〕法譚によせ奉りて、 さまざまに■ひろめし法〔の〕■中〔に〕なを■〔よくみちびける■君ぞたへなる〕 たらちめの■殘す言葉の■露う〔けて■昔の袖を■いましぼるかな〕 後の歌は、先妣如專禪尼、去ぬる永正〔十一のとし十月〕廿七日身まかりける、そのきわに、予〔に語ていはく、〕眞俗ともにうちやわらぎ、法友〔と〕かた〔りあはすべ〕し、談合するときはひとりのあやまりに〔はなら〕ぬものなり。後生一大事なり、佛法をもつぱらたしなみ、ことさら佛前の義をまづゆだんⅤ-1162〔なく心〕にかくべきよし、ねんごろに遺言せし事〔を、其〕比はいとけなかりしかば、心にわきまへ侍らざりしが、このごろ當寺にまいり、一しほ此ことの葉をあけくれ思ひいだし侍る、けふも懷舊の淚袖をうるほしける。ことに今夜はとしどし御影前に通夜せしめ、朋友まじはり入て、たがひに信不信の報恩の志〔をのべ〕侍る事、往昔より流例たり。しかるにお〔もはざる事〕によりて、このやどにとゞまりて、ひとり思〔やり〕奉るばかりなり。 心のみ■かようはしるや■今夜なを■法の莚を■〔しきしのぶ身に〕 晴にけり■天滿星の■光まで■法の御空の■〔かげくもりなく〕 ひるのほどは、雨ふり侍るが、暮にかゝり〔雲はれて、ほ〕しの光かゞや〔き、〕一天くも〔なくみゑ侍れば、かく〕申侍。おりふし法友〔とひきたり、世のことぐさなど〕語りきこえけるも、かたがた慈恩〔ありがたくぞ〕おぼえ侍る。夜あけゝれば、まさしく〔報恩講御結願〕成就の御正忌にて侍る。しかる〔に讒〕者〔の〕さ〔またげに〕より、つゐに法席にまうで侍らざる〔悲さ、申〕てもつきがたし。しかれども佛祖の照覽、〔今師〕の御哀憐により、いまゝで命ながらへ〔て、此御聖〕日に逢たてまつる事かたじけなくて、 Ⅴ-1163めぐみありて■けふに逢あふ■うれしさは■なにゝつゝまん■法の衣手 窮冬朔日、なべていとなみしげき比に侍れども、いたづらに日ををくり、ひとり閑床にむかひしおりから、夜ふけ人しづまり侍、秀き酒をすゝめ世のことぐさなど語り〔いでゝ〕なぐさめ侍〔りき。や〕がてうちふし侍ども、老の習ねぶりはやく〔覺て、曉が〕たつくづく往事をおもふに、けふは實如御命日、又誓賢尼公の正忌なり、ひそかに念〔佛のつとめ〕をなし侍る。『和讚』(淨土*和讚)に「無明の大夜を〔あわれみて」と引〕はじめ奉れば、六首は「平等心をう〔るときを■一子地〕となづく」とのべまします御詞にあ〔たり、是〕諸經の意〔に〕よりて〔あらはし給ふ所也。今年、〕天王寺にて『稱讚淨土〔經』と〕『涅槃經』〔を感得して〕拜見せし事まで思出侍る。はじめ〔に法身の光輪〕きはもなく、安養界に影現し〔ましまし、又釋迦〕佛としめし、伽耶城に應現し〔たまふ、法・報・應の〕三身のことはりもあらはれ、易往無〔人、淨〕信うたがふともがら、名無眼人名無耳人〔とと〕きまします金言、眞解脫にいたり無愛〔無疑とあら〕はるゝところ、安養〔に〕いたりてさとるべ〔しとあき〕らかにのべ給ふ御ことの葉、心肝に銘じありがたく覺え侍る。時に門をたゝくものあり、花洛よりⅤ-1164のつてなり。尊書をひらき、喜悅きわまりなし。かねては又いにし年霜月の比、乘賢病により報恩講中出頭をこたれ〔り。しか〕れども『御傳』〔をばのぞ〕みてよみ給ぬ、しかるに當春元日の出仕これ〔なし。予二日〕の朝御門主の貴前へまいりしお〔りふ〕し、家童物がたりしたまひしは、乘賢病氣〔快よから〕ざるよし申されしとき、今師上人、そ〔れは〕死〔去すべき〕旨のたまひしかば、その人ことの葉〔なくして立さりぬ。〕けさふと心にうかびおもひあは〔する事侍り、〕そのほかたびたびおほ〔せ〕いだし給ふ〔和讚、しづかに〕思案をめぐらし侍れ〔ば、所〕解のたより〔なるべきを、〕たゞなにとなくきゝすぐし奉ける、を〔ろかなる心をか〕へりみるばかりなり。さりながらつ〔たなき誠をば〕すて給はぬ大慈大悲、たのもしく〔ぞ〕覺侍〔る。〕 をろかなる■身にも忘ぬ■彌陀の名の■誓をたのむ■法〔のまこ〕とは もとより兼順は、身つたなく心をろかにして、眞俗の道をわきまへず、ことにともすれば、〔病におかさ〕れ、その力たらざれば、〔世俗の〕道にもたづさは〔る事もな〕く、衆のまじはりをもこのまず。しかれども家嫡蓮能法師、去ぬる文龜第三■正月廿二日、廿二歲にて身まかりぬ。いまだ世子もなかりしⅤ-1165かば、その闕によりてしばらく妙照尼と母子のなぞらへにて、松岡寺兼祐・眞弟兼玄法印ともに親〔しく〕なれむつび侍〔る。兼玄〕は、かしこく世藝に心をかけ、歌鞠の道ま〔でも、家々の〕風をまなび給、予も婭熱のよしみあれば、たがひにまじはりうとからざりし。これによりて〔大永五〕年正月廿八日、『六要鈔』讀書ののぞ〔みもおなじく〕實如に申あげ、恩恕に預り、一部〔十卷傳受〕せしめをはりぬ。抑幼稚の時より〔先考の敎〕へをうけ奉り、〔十〕一歲の〔とき〕「淨〔土三部妙典」・『選擇〕集』授與のゝち、和漢兩〔朝の〕祖師先〔德の所釋等〕ならひつたへ、廿三歲にいたるまで、常〔隨給仕の勤め〕をこたらず、十八歲の時出家得〔度の本意をとげ、〕貴寺にをひて、『淨土文類聚鈔』・『愚禿鈔』〔の兩部、〕慶聞坊龍玄にしたがひ傳受、おなじ〔く廿五〕歲にして本書『敎行信證』一部六卷、誓願寺了祐相傳、いづれも實如上人恩許にあづ〔かり奉るゆへ〕也。又念佛勤修法門〔談〕合の餘暇、龍〔花院〕梵朝藏王、萬年山よりくだり給ひ、談話のつゐでおもひよるふしをつらね侍りし。もとよりたしかにならびつたふる道もなければ、自然と心にうかぶばかりを、ことの葉にのべ、筆にしるすのみなり。これ他見のためにあらず、みづから〔のなぐ〕Ⅴ-1166さみとするばか〔りにこ〕そ。さても今般はからざる橫難にあひて、〔身心を痛〕ましむ。我ひとりの案立、衆人の讒言、口筆にもつくしがたし。しかれども、今師上人の厚恩、佛〔祖の照〕覽ましましけるにや、虛說やうやく〔あらはれゆくこと、〕かつは又三公勞功の恩致、別して〔は兩君哀憐〕の芳情なり。古語に、「家にわざ〔はいある時は、〕親にあらざればすくは〔ず」と[云々]。此言まことなるかな。〕眞俗二公〔は〕蓮如上〔人〕の曾孫、〔法印純惠はお〕なじき玄孫にこそ。彼曾祖師光眞〔法印は、先〕考と他にことなる法友なり〔き、其孫弟光惠〕僧都は、予と從父なりしかば、世〔々の〕芳契〔たえず、〕中にもとりわき身をくだき心を〔つくし〕給ふ御志、たぐひすくなくぞ覺え侍る。そ〔のほか〕親眤あまたありといへども、かたえにはゞかり〔て口をとぢ、〕かへりて讒訴〔のとも〕がらにともな〔ふ類ひお〕ほし。こゝにいまだ志學ばかりなる奇童のよしみを通じ、おなじくちからを加て眞俗二諦のたすけをなし給ふ。このほか志を通ずる信男・信女あはせて七仁、晉の七賢が竹林の交遊にもまさり侍るべし。誠〔に〕現在聞法の〔親友、〕當來倶會一處、法樂うたがひなくぞ〔覺る。これ〕しかしながら今師上人十月十五日、五人の使節に法侶二人をくわⅤ-1167へ給ふ、御〔智慮〕よりをこれり。かの常樂寺法印〔は光惠僧都の〕眞弟、敎行寺佐榮は、兼詮法〔印の眞弟也。〕この詮公は、予若年の比よりた〔がひに昔を〕かたり、眞俗のたゞ〔しき〕道〔をともにしたひし〕法友なり。〔さ〕ればこの〔たび門主〕もわ〔きておほせ〕あはせられしにこそ、父の道をたが〔へず、力を〕くわへたまふ事、ことの葉にも〔のべ盡しがたし、角て〕漸正理もあらはれ、保公世俗の仁政の〔道〕をも、よりよりかたり出ましますに〔より、上〕やはらぎ下むつまじくして、是非の〔こと〕はり誰かわきまへざらんや。その餘は日々〔月々かはり、たゞ〕我慢邪見を〔むねと〕して、内外の〔兩典と〕もにたづさはらざる人なり。ある『疏』(序分義)にいはく、「事典にあづからざるは、君子のはづる所なり」と。しかれば無慚無愧のやからに對しては、眞俗の正義、ことばをつ〔くし〕心をつゐやしても、その所詮なきものを〔や。す〕でに籠居〔數日を〕經、人のまじはりをたえて、二七有餘な〔りし比、便〕りをもとめ、ある人のかたへ、よみてつかはしける。 老が身の■かゝる思の■露淚■くち行袖に■つもる〔日かずは〕 もろくちる■庭の木の葉の■色みても■老の〔なみだの■袖おもひやれ〕 Ⅴ-1168なにとかく■へだつる道ぞ■法の師の■敎の〔まゝと■おもふわが身を〕 法の師の■心の月ぞ■照しみん■世のいつはりの■〔雲おほふとも〕 ふたつなき■心は君〔も■み〕そなは〔せ■法の惠を■彌陀にまかせて〕 法の師の■をしへの〔まゝ〕と■たのむ〔ぞよ〕■世のよ〔しあしぞ■道もわすれて〕 いつまでぞ■まよう心の■雲霧も■法の惠の■か〔ぜにはれずや〕 すなはちこの日、今師上人はじめ〔て御尋を〕なされ、翌日に淸水の亭へうつり〔侍りぬ。いにしへ〕亡父每朝念佛勤行の後、常の〔屋にか〕へり、しばらく佛場にむかひ、安座する事たえず、北地にしては南方にむかふ。今は東〔方にむかひ奉〕る。我も又おなじく〔靈場〕信敬戀慕〔のお〕もひは、かはらざるものをや、しかれば東南に雲おさまり、西北に風しづかにして、眞如の月光かゞやき、法性の水に影をやどす、これ機縁相應眞俗繁榮の嘉端なるをや。法然聖人の云、「淨土の敎時機をたゝき〔て、行〕運にあた〔れり、念〕佛の行、水月を感じて昇降を得た〔り」(選擇集)と。今〕まさしく時いたれるかな。 ながらへて■すむ御法の■水からも■くもらぬ月の■か〔げうつるかに〕 然、讒者彌增惡競來欲〔殺、譬似惡〕獸・毒蟲走向、吾亦不恐水〔火之難、〕Ⅴ-1169唯〔乘〕願力之道。殊更、保公爲救、嚴〔師加思、〕宛如二尊之影〔護、一心正念偏尋其道、〕待再興之期、悲喜交流。兼〔又百首之〕詠者、准人壽之譬、行事一分〔二分者、〕比歲月日時。仍獨對硯上〔筆、與〕淚共記之畢。 永祿十載十二月廿二日書之 欣求淨土沙門顯誓 于時天正拾四W丙戌R九月下旬奉寫□…□ □…□法橋