Ⅴ-1111安心決定鈔[本] 淨土眞宗の行者は、まづ本願のおこりを存知すべきなり。弘誓は四十八なれども、第十八の願を本意とす。餘の四十七は、この願を信ぜしめんがためなり。この願を『禮讚』に釋したまふに、「若我成佛、十方衆生、稱我名號下至十聲、若不生者不取正覺」といへり。この文のこゝろは、十方衆生、願行成就して往生せば、われも佛にならん。衆生往生せずは、われ正覺をとらじとなり。かるがゆへに、佛の正覺は、われらが往生するとせざるとによるべきなり。しかるに十方衆生いまだ往生せざるさきに、正覺を成ずることは、こゝろえがたきことなり。しかれども、佛は衆生にかはりて願と行とを圓滿して、われらが往生をすでにしたゝめたまふなり。十方衆生の願行圓滿して、往生成就せしとき、機法一體の南无阿彌陀佛の正覺を成じたまひしなり。かるがゆへに佛の正覺のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、佛も正覺をなるゆへに、佛の正覺なりしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。佛のかたⅤ-0112よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことはりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、當に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、彌陀のかはりて成就せし正覺の一念のほかは、さらに機よりいさゝかもそふることはなきなり。たとへば日いづれば刹那に十方のやみことごとくはれ、月いづれば法界の水同時にかげをうつすがごとし。月はいでゝかげを水にやどす、日はいでゝやみのはれぬことあるべからず。かるがゆへに、日はいでたるかいでざるかをおもふべし、やみははれざるかはれたるかをうたがふべからず。佛は正覺なりたまへるかいまだなりたまはざるかを分別すべし、凡夫の往生をうべきかうべからざるかをうたがふべからず。衆生往生せずは佛にならじとちかひたまひし法藏比丘の、十劫にすでに成佛したまへり。佛體よりはすでに成じたまひたりける往生を、つたなく今日までしらずしてむなしく流轉しけるなり。かるがゆへに『般舟讚』には、「おほきにすべからく慚愧すべし。釋迦如來はまことにこれ慈悲の父母なり」といへり。「慚愧」の二字をば、天にはぢ人にはづとも釋し、自にはぢ他にはづとも釋せり。なにごとをおほきにはづべしといふぞといふに、彌陀は兆載永劫のあひだ无善の凡夫にかはりて願Ⅴ-1113行をはげまし、釋尊は五百塵點劫のむかしより八千遍まで世にいでゝ、かゝる不思議の誓願をわれらにしらせんとしたまふを、いまゝできかざることをはづべし。機より成ずる大小乘の行ならば、法はたへなれども、機がおよばねばちからなしといふこともありぬべし。いまの他力の願行は、行は佛體にはげみて功を无善のわれらにゆづりて、謗法・闡提の機、法滅百歲の機まで成ぜずといふことなき功德なり。このことはりを慇懃につけたまふことを信ぜず、しらざることをおほきにはづべしといふなり。「三千大千世界に、芥子ばかりも釋尊の身命をすてたまはぬところはなし」(法華經卷四*提婆品意)。みなこれ他力を信ぜざるわれらに信心をおこさしめんと、かはりて難行苦行して縁をむすび、功をかさねたまひしなり。この廣大の御こゝろざしをしらざることを、おほきにはぢはづべしといふなり。このこゝろをあらはさんとて、「種々の方便をもて、われらが无上の信心を發起す」(般舟讚)と釋せり。「无上の信心」といふは、他力の三信なり。つぎに「種々の方便をとく、敎文ひとつにあらず」(般舟讚)といふは、諸經隨機の得益なり。凡夫は左右なく他力の信心を獲得することかたし。しかるに自力の成じがたきことをきくとき、他力の易行も信ぜられ、聖道の難行をきくに淨土の修しやすきⅤ-1114ことも信ぜらるゝなり。おほよす佛のかたよりなにのわづらひもなく成就したまへる往生を、われら煩惱にくるはされて、ひさしく流轉して不思議の佛智を信受せず。かるがゆへに三世の衆生の歸命の念も正覺の一念にかへり、十方の有情の稱念の心も正覺の一念にかへる。さらに機にをいて一稱一念もとゞまることなし。 名體不二の弘願の行なるがゆへに、名號すなはち正覺の全體なり。正覺の體なるがゆへに、十方衆生の往生の體なり。往生の體なるがゆへに、われらが願行ことごとく具足せずといふことなし。かるがゆへに、「玄義」(玄義分)にいはく、「いまこの『觀經』の下品下生の十聲の稱佛には、すなはち十願ありて十行具足せり。いかんが具足せる。南无といふはすなはちこれ歸命、またこれ發願廻向の義なり。阿彌陀佛といふはすなはちこれその行なり。この義をもてのゆへにかならず往生をう」といへり。下品下生の失念の稱念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法藏菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆへなり。阿彌陀佛の凡夫の願行を成ぜしいはれを領解するを、三心ともいひ、三信ともとき、信心ともいふなり。阿彌陀佛は凡夫の願行を名にⅤ-1115成ぜしゆへを口業にあらはすを、南无阿彌陀佛といふ。かるがゆへに領解も機にはとゞまらず、領解すれば佛願の體にかへる。名號も機にはとゞまらず、となふればやがて弘願にかへる。かるがゆへに淨土の法門は、第十八の願をよくよくこゝろうるほかにはなきなり。「如『无量壽經』四十八願中、唯明專念彌陀名號得生」(定善義)とも釋し、「又此『經』定散文中、唯標專念彌陀名號得生」(定善義)とも釋して、三經ともにたゞこの本願をあらはすなり。第十八の願をこゝろうるといふは、名號をこゝろうるなり。名號をこゝろうるといふは、阿彌陀佛の衆生にかはりて願行を成就して、凡夫の往生、機にさきだちて成就せしきざみ、十方衆生の往生を正覺の體とせしことを領解するなり。かるがゆへに念佛の行者、名號をきかば、あは、はやわが往生は成就しにけり、十方衆生、往生成就せずは正覺とらじとちかひたまひし法藏菩薩の正覺の果名なるがゆへにとおもふべし。また彌陀佛の形像をおがみたてまつらば、あは、はやわが往生は成就しにけり、十方衆生、往生成就せずは正覺とらじとちかひたまひし法藏薩埵の成正覺の御すがたなるゆへにとおもふべし。また極樂といふ名をきかば、あは、わが往生すべきところを成就したまひにけり、衆生往生せずは正覺とらⅤ-1116じとちかひたまひし法藏比丘の成就したまへる極樂よとおもふべし。機をいへば、佛法と世俗との二種の善根なき唯知作惡の機に、佛體より恆沙塵數の功德を成就するゆへに、われらがごとくなる愚癡・惡見の衆生のための樂のきはまりなるゆへに極樂といふなり。本願を信じ名號をとなふとも、よそなる佛の功德とおもふて名號に功をいれなば、などか往生をとげざらんなんどおもはんは、かなしかるべきことなり。ひしとわれらが往生成就せしすがたを南无阿彌陀佛とはいひけるといふ信心おこりぬれば、佛體すなはちわれらが往生の行なるがゆへに、一聲のところに往生を決定するなり。阿彌陀佛といふ名號をきかば、やがてわが往生とこゝろえ、わが往生はすなはち佛の正覺なりとこゝろうべし。彌陀佛は正覺成じたまへるかいまだ成じたまはざるかをばうたがふとも、わが往生の成ずるか成ぜざるかをばうたがふべからず。一衆生のうへにも往生せぬことあらば、ゆめゆめ佛は正覺なりたまふべからず。こゝをこゝろうるを第十八の願をおもひわくとはいふなり。 まことに往生せんとおもはゞ、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果Ⅴ-1117のことはりに超異せり。和尙はこれを「別異の弘願」(玄義分)とほめたまへり。衆生にかはりて願行を成ずること、常沒の衆生をさきとして善人におよぶまで、一衆生のうへにもをよばざるところあらば、大悲の願滿足すべからず。面々衆生の機ごとに、願行成就せしとき、佛は正覺を成じ、凡夫は往生せしなり。かゝる不思議の名號、もしきこえざるところあらば正覺とらじとちかひたまへり。われらすでに阿彌陀といふ名號をきく。しるべし、われらが往生すでに成ぜりといふことを。きくといふは、たゞおほやうに名號をきくにあらず、本願他力の不思議をきゝてうたがはざるをきくとはいふなり。御名をきくも本願より成じてきく。一向に他力なり。たとひ凡夫の往生成じたまひたりとも、その願成就したまへる御名をきかずは、いかでかその願成ぜりとしるべき。かるがゆへに名號をきゝても形像を拜しても、わが往生を成じたまへる御名ときゝ、われらをわたさずは佛にならじとちかひたまひし法藏の誓願むなしからずして、正覺成じたまへる御すがたよとおもはざらんは、きくともきかざるがごとし、みるともみざるがごとし。『平等覺經』(卷四意)にのたまはく、「淨土の法門をとくをきゝて歡喜踊躍し、身の毛いよだつ」といふは、そゞろによろこぶにあらず。Ⅴ-1118わが出離の行をはげまんとすれば、道心もなく智惠もなし。智目・行足かけたる身なれば、たゞ三惡の火坑にしづむべき身なるを、願も行も佛體より成じて、機法一體の正覺成じたまひけることのうれしさよとおもふとき、歡喜のあまりおどりあがるほどにうれしきなり。『大經』(卷下意)に「爾時聞一念」とも、「聞名歡喜讚」ともいふは、このこゝろなり。よそにさしのけてはなくして、やがてわが往生すでに成じたる名號、わが往生したる御すがたとみるを、名號をきくとも形像をみるともいふなり。このことはりをこゝろうるを本願を信知すとはいふなり。 念佛三昧にをいて信心決定せんひとは、身も南无阿彌陀佛、こゝろも南无阿彌陀佛なりとおもふべきなり。ひとの身をば地・水・火・風の四大よりあひて成ず。小乘には極微の所成といへり。身を極微にくだきてみるとも報佛の功德のそまぬところはあるべからず。されば機法一體の身も南无阿彌陀佛なり。こゝろは煩惱・隨煩惱等具足せり。刹那刹那に生滅す。こゝろを刹那にちはりてみるとも、彌陀の願行の遍せぬところなければ、機法一體にしてこゝろも南无阿彌陀佛なり。彌陀大悲のむねのうちに、かの常沒の衆生みちみちたるゆへに、機法一體Ⅴ-1119にして南无阿彌陀佛なり。われらが迷倒のこゝろのそこには法界身の佛の功德みちみちたまへるゆへに、また機法一體にして南无阿彌陀佛なり。淨土の依正二報もしかなり。依報は、寶樹の葉ひとつも極惡のわれらがためならぬことなければ、機法一體にして南無阿彌陀佛なり。正報は、眉間の白毫相より千輻輪のあなうらにいたるまで、常沒の衆生の願行成就せる御かたちなるゆへに、また機法一體にして南无阿彌陀佛なり。われらが道心二法・三業・四威儀、すべて報佛の功德のいたらぬところなければ、南无の機と阿彌陀佛の片時もはなるゝことなければ、念々みな南无阿彌陀佛なり。さればいづるいきいるいきも、佛の功德をはなるゝ時分なければ、みな南无阿彌陀佛の體なり。縛曰羅冒地といひしひとは、常水觀をなししかば、こゝろにひかれて身もひとつのいけとなりき。その法にそみぬれば、色心正法それになりかへることなり。念佛三昧の領解ひらけなば、身もこゝろも南无阿彌陀佛なりかへりて、その領解ことばにあらはるゝとき、南无阿彌陀佛とまふすがうるはしき弘願の念佛にてあるなり。念佛といふは、かならずしもくちに南无阿彌陀佛ととなふるのみにあらず。阿彌陀佛の功德、われらが南无の機にをいて十劫正覺の刹那より成じいりたまひけるものを、といふ信Ⅴ-1120心のおこるを念佛といふなり。さてこの領解をことはりあらはせば、南無阿彌陀佛といふにてあるなり。この佛の心は大慈悲を本とするゆへに、愚鈍の衆生をわたしたまふをさきとするゆへに、名體不二の正覺をとなへましますゆへに、佛體も名におもむき、名に體の功德を具足するゆへに、なにとはかばかしくしらねども、平信のひともとなふれば往生するなり。されども下根の凡夫なるゆへに、そゞろにひら信じもかなふべからず。そのことはりをきゝひらくとき、信心はおこるなり。念佛をまふすとも往生せぬをば、「名儀に相應せざるゆへ」(論註*卷下)とこそ、曇鸞も釋したまへ。「名儀に相應す」といふは、阿彌陀佛の功德力にてわれらは往生すべしとおもふてとなふるなり。領解の信心をことばにあらはすゆへに、南无阿彌陀佛の六字をよくこゝろうるを三心といふなり。かるがゆへに佛の功德、ひしとわが身に成じたりとおもひて、くちに南无阿彌陀佛ととなふるが、三心具足の念佛にてあるなり。自力のひとの念佛は、佛をばさしのけて西方におき、わが身をばしらじらとある凡夫にて、ときどきこゝろに佛の他力をおもひ名號をとなふるゆへに、佛と衆生とうとうとしくして、いさゝか道心おこりたるときは、往生もちかくおぼえ、念佛もものうく道心もさめたるときは、往Ⅴ-1121生もきはめて不定なり。凡夫のこゝろとしては、道心をおこすこともまれなれば、つねには往生不定の身なり。もしやもしやとまてども、往生は臨終までおもひさだむることなきゆへに、くちにときどき名號をとなふれども、たのみがたき往生なり。たとへばときどきひとに見參、みやづかひするににたり。そのゆへは、いかにして佛の御こゝろにかなはんずるとおもひ、佛に追從して往生の御恩をもかぶらんずるやうにおもふほどに、機の安心と佛の大悲とがはなればなれにて、つねに佛にうとき身なり。このくらゐにてはまことにきはめて往生不定なり。念佛三昧といふは、報佛彌陀の大悲の願行は、もとよりまよひの衆生の心想のうちにいりたまへり、しらずして佛體より機法一體の南无阿彌陀佛の正覺に成じたまふことなりと信知するなり。願行みな佛體より成ずることなるがゆへに、おがむ手、となふるくち、信ずるこゝろ、みな他力なりといふなり。かるがゆへに機法一體の念佛三昧をあらはして、第八の觀には、「諸佛如來、是法界身。入一切衆生心想中」(觀經)ととく。これを釋するに、「法界といふは所化の境、すなはち衆生界なり」(定善義)といへり。定善の衆生ともいはず、道心の衆生ともとかず、法界の衆生を所化とす。「法界といふは所化の境、衆生界なり」Ⅴ-1122と釋する、これなり。まさしくは、こゝろいたるがゆへに身もいたるといへり。彌陀の身心の功德、法界衆生の身のうち、こゝろのそこにいりみつゆへに、「入一切衆生心想中」ととくなり。こゝを信ずるを念佛衆生といふなり。また眞身觀には、「念佛衆生の三業と、彌陀如來の三業と、あひはなれず」(定善*義意)と釋せり。佛の正覺は衆生の往生より成じ、衆生の往生は佛の正覺より成ずるゆへに、衆生の三業と佛の三業とまたく一體なり。佛の正覺のほかに衆生の往生もなく、願も行もみな佛體より成じたまへりとしりきくを念佛の衆生といひ、この信心のことばにあらはるゝを南无阿彌陀佛といふ。かるがゆへに念佛の行者になりぬれば、いかに佛をはなれんとおもふとも、微塵のへだてもなきことなり。佛のかたより機法一體の南无阿彌陀佛の正覺を成じたまひたりけるゆへに、なにとはかばかしからぬ下々品の失念のくらゐの稱名も往生するは、となふるときはじめて往生するにはあらず、極惡の機のためにもとより成じたまへる往生をとなへあらはすなり。また『大經』の三寶滅盡の衆生の、三寶の名字をだにもはかばかしくきかぬほどの機が、一念となへて往生するも、となふるときはじめて往生の成ずるにあらず。佛體より成ぜし願行の薰修が、一聲稱佛のところにⅤ-1123あらはれて往生の一大事を成ずるなり。かくこゝろうれば、われらは今日今時往生すとも、わがこゝろのかしこくて念佛をもまふし、他力をも信ずるこゝろの功にあらず。勇猛專精にはげみたまひし佛の功德、十劫正覺の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり。覺體の功德は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已今當の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆへに、佛の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。念佛といふはこのことはりを念じ、行といふはこのうれしさを禮拜恭敬するゆへに、佛の正覺と衆生の行とが一體にしてはなれぬなり。したしといふもなをおろかなり、ちかしといふもなをとをし。一體のうちにおいて能念・所念を體のうちに論ずるなりとしるべし。 安心決定鈔[本] Ⅴ-1124安心決定鈔[末] 『往生論』に「如來淨花衆 正覺花化生」といへり。他力の大信心をえたるひとを「淨華の衆」とはいふなり。これはおなじく正覺のはなより生ずるなり。「正覺花」といふは、衆生の往生をかけものにして、もし生ぜずは、正覺とらじとちかひたまひし法藏菩薩の十方衆生の願行成就せしとき、機法一體の正覺成じたまへる慈悲の御こゝろのあらはれたまへる心蓮華を、正覺華とはいふなり。これを第七の觀には「除苦惱法」(觀經)ととき、下々品には「五逆の衆生を來迎する蓮花」(觀經意)ととくなり。佛心を蓮華とたとふることは、凡夫の煩惱の泥濁にそまざるさとりなるゆへなり。なにとして佛心の蓮華よりは生ずるぞといふに、曇鸞この文を、「同一に念佛して別の道なきがゆへに」(論註*卷下)と釋したまへり。「とをく通ずるに、四海みな兄弟なり」(論註*卷下意)。善惡機ことに、九品くらゐかはれども、ともに他力の願行をたのみ、おなじく正覺の體に歸することはかはらざるゆへに、「同一念佛して別の道なきがゆへに」といへり。またさきに往生するひとも他力Ⅴ-1125の願行に歸して往生し、のちに往生するひとも正覺の一念に歸して往生す。心蓮華のうちにいたるゆへに、「四海みな兄弟なり」といふなり。 「佛身をみるものは佛心をみたてまつる。佛心といふは大慈悲これなり」(觀經意)。佛心はわれらを愍念したまふこと、骨髓にとをりてそみつきたまへり。たとへば火のすみにおこりつきたるがごとし。はなたんとするともはなるべからず。攝取の心光われらをてらして、身より髓にとほる。心は三毒煩惱の心までも佛の功德のそみつかぬところはなし。機法もとより一體なるところを南无阿彌陀佛といふなり。この信心おこりぬるうへは、口業には、たとひときどき念佛すとも常念佛の衆生にてあるべきなり。三縁のなかに、「くちにつねに、身につねに」(定善義)と釋する、このこゝろなり。佛の三業の功德を信ずるゆへに、衆生の三業、如來の佛智と一體にして、佛の長時修の功德、衆生の身口意にあらはるゝところなり。また唐朝に傅大士とて、ゆゝしく大乘をもさとり、外典にも達してたふときひとおはしき。そのことばにいはく、「あさなあさな佛とともにおき、ゆふなゆふな佛をいだきてふす」(善慧大士語*錄卷三意)といへり。これは聖道の通法門の眞如の理佛をさして佛といふといへども、修得のかたよりおもへばすこしもたがふまじきⅤ-1126なり。攝取の心光に照護せられたてまつらば、行者もまたかくのごとし。あさなあさな報佛の功德をもちながらおき、ゆふなゆふな彌陀の佛智とともにふす。うとからん佛の功德は、機にとをければいかゞはせん。眞如法性の理はちかけれども、さとりなき機にはちからおよばず。わがちからもさとりもいらぬ他力の願行をひさしく身にたもちながら、よしなき自力の執心にほだされて、むなしく流轉の故郷にかへらんこと、かへすがへすもかなしかるべきことなり。釋尊もいかばかりか往來娑婆八千遍の甲斐なきことをあはれみ、彌陀もいかばかりか難化能化のしるしなきことをかなしみたまふらん。もし一人なりともかゝる不思議の願行を信ずることあらば、まことに佛恩を報ずるなるべし。かるがゆへに『安樂集』(卷上意)には、「すでに他力の乘ずべきみちあり。つたなく自力にかゝはりて、いたづらに火宅にあらんことをおもはざれ」といへり。このことまことなるかな。自力のひがおもひをあらためて、他力を信ずるところを、「ゆめゆめまよひをひるがへして本家にかへれ」(禮讚)ともいひ、「歸去來、魔郷にはとゞまるべからず」(定善義)とも釋するなり。 また『法事讚』(卷下)に、「極樂无爲涅槃界 隨縁雜善恐難生 故使如來選要法 敎Ⅴ-1127念彌陀專復專」といへり。この文のこゝろは、「極樂」は无爲无漏のさかひなれば、有爲有漏の雜善にては、おそらくはむまれがたし。无爲无漏の念佛三昧に歸してぞ、无爲常住の報土には生ずべきといふなり。まづ「隨縁の雜善」といふは、自力の行をさすなり。眞實に佛法につきて、領解もあり、信心もおこることはなくして、わがしたしきものゝ律僧にてあれば、戒は世にたふときことなりといひ、あるひは、今生のいのりのためにも、眞言をせさすれば結縁もむなしからず、眞言たふとしなどいふ體に、便宜にひかれて縁にしたがひて修する善なるがゆへに、隨縁の雜善ときらはるゝなり。このくらゐならば、たとひ念佛の行なりとも、自力の念佛は隨縁の雜善にひとしかるべき歟。うちまかせてひとのおもへる念佛は、こゝろには淨土の依正をも觀念し、くちには名號をもとなふるときばかり念佛はあり、念ぜずとなへざるときは念佛もなしとおもへり。このくらゐの念佛ならば、无爲常住の念佛とはいひがたし。となふるときはいでき、となへざるときはうせば、またことに无常轉變の念佛なり。无爲とはなすことなしとかけり。小乘には三无爲といへり。そのなかに虛空无爲といふは、虛空はうすることもなく、はじめていでくることもなし。天然なることはりなり。大乘には眞Ⅴ-1128如法性等の常住不變の理を無爲と談ずるなり。序題門に、「法身常住比若虛空」(玄義分)と釋せらるゝも、かのくにの常住の益をあらはすなり。かるがゆへに極樂を无爲住のくにといふは、凡夫のなすによりて、うせもし、いできもすることのなきなり。念佛三昧もまたかくのごとし。衆生の念ずればとて、はじめていでき、わするればとてうする法にあらず。よくよくこのことはりをこゝろうべきなり。 おほよす念佛といふは佛を念ずとなり。佛を念ずといふは、佛の大願業力をもて衆生の生死のきづなをきりて、不退の報土に生ずべきいはれを成就したまへる功德を念佛して、歸命の本願に乘じぬれば、衆生の三業、佛體にもたれて佛果の正覺にのぼる。かるがゆへにいまいふところの念佛三昧といふは、われらが稱禮念すれども自の行にはあらず、たゞこれ阿彌陀佛の行を行ずるなりとこゝろうべし。本願といふは五劫思惟の本願、業力といふは兆載永劫の行業、乃至十劫正覺ののちの佛果の萬德なり。この願行の功德は、ひとへに未來惡世の无智のわれらがために、かはりてはげみおこなひたまひて、十方衆生のうへごとに、生死のきづなきれはてゝ、不退の報土に願行圓滿せしとき、機法一體Ⅴ-1129の正覺を成じたまひき。この正覺の體を念ずるを念佛三昧といふゆへに、さらに機の三業にはとゞむべからず。うちまかせては機よりしてこそ生死のきづなをきるべき行をもはげみ、報土にいるべき願行をもいとなむべきに、修因感果の道理にこえたる別異の弘願なるゆへに、佛の大願業力をもて凡夫の往生はしたゝめ成じたまひけることのかたじけなさよと歸命すれば、衆生の三業は能業となりてうへにのせられ、彌陀の願力は所業となりてわれらが報佛報土へ生ずべきのりものとなりたまふなり。かるがゆへに歸命の心、本願に乘じぬれば、三業みな佛體にもたるといふなり。佛の願行はさらに他のことにあらず。一向にわれらが往生の願行の體なるがゆへに、佛果の正覺のほかに往生の行を論ぜざるなり。このいはれをきゝながら、佛の正覺をば、おほやけものなるやうにてさておいて、いかゞして道心をもおこし行をもいさぎよくして往生せんずるとおもはんは、かなしかるべき執心なり。佛の正覺すなはち衆生の往生を成ぜる體なれば、佛體すなはち往生の願なり、行なり。この行は、衆生の念不念によるべき行にあらず。かるがゆへに佛果の正覺のほかに往生の行を論ぜずといふなり。この正覺を心に領解するを三心とも信心ともいふ。この機法一體のⅤ-1130正覺は名體不二なるゆへに、これをくちにとなふるを南无阿彌陀佛といふ。かるがゆへに心に信ずるも正覺の一念にかへり、くちにとなふるも正覺の一念にかへる。たとひ千聲となふとも、正覺の一念をばいづべからず。またものぐさく懈怠ならんときは、となへず念ぜずして夜をあかし日をくらすとも、他力の信心、本願にのりゐなば、佛體すなはち長時の行なれば、さらにたゆむことなく間斷なき行體なるゆへに、名號すなはち无爲常住なりとこゝろうるなり。「阿彌陀佛すなはちこれその行」(玄義分)といへる、このこゝろなり。またいまいふところの念佛三昧は、われらが稱禮念すれども自の行にはあらず、たゞこれ阿彌陀佛の行を行ずるなりといふは、歸命の心、本願にのりて、三業みな佛體のうへに乘じぬれば、身も佛をはなれたる身にあらず、こゝろも佛をはなれたるこゝろにあらず、くちに念ずるも機法一體の正覺のかたじけなさを稱し、禮するも他力の恩德の身にあまるうれしさを禮するゆへに、われらは稱すれども念ずれども機の功をつのるにあらず、たゞこれ阿彌陀佛の凡夫の行を成ぜしところを行ずるなりといふなり。佛體、无爲无漏なり。依正、无爲无漏なり。されば名體不二のゆへに、名號もまた无爲无漏なり。かるがゆへに念佛三昧になりかへりて、Ⅴ-1131もはらにしてまたもはらなれといふなり。專の字、二重なり。まづ雜行をすてゝ正行をとる、これ一重の專なり。そのうへに助業をさしおきて正定業になりかへる、また一重の專なり。またはじめの專は一行なり、のちの專は一心なり。一行一心なるを「專復專」(法事讚*卷下)といふなり。この正定業の體は、機の三業のくらゐの念佛にあらず、時節の久近をとはず、行住坐臥をえらばず、攝取不捨の佛體すなはち凡夫往生の正定業なるゆへに、名號も名體不二のゆへに正定業なり。この機法一體の南无阿彌陀佛になりかへるを念佛三昧といふ。かるがゆへに機の念不念によらず、佛の无㝵智より機法一體に成ずるゆへに、名號すなはち无爲無漏なり。このこゝろをあらはして極樂无爲といふなり。念佛三昧といふは、機の念を本とするにあらず、佛の大悲の衆生を攝取したまへることを念ずるなり。佛の功德ももとより衆生のところに機法一體に成ぜるゆへに、歸命の心のおこるといふもはじめて歸するにあらず。機法一體に成ぜし功德が、衆生の意業にうかびいづるなり。南无阿彌陀佛と稱するも、稱して佛體にちかづくにあらず、機法一體の正覺の功德、衆生の口業にあらはるゝなり。信ずれば佛體にかへり、稱すれば佛體にかへるなり。 Ⅴ-1132一 自力・他力、日輪の事 自力にて往生せんとおもふは、闇夜にわがまなこのちからにてものをみんとおもはんがごとし。さらにかなふべからず。日輪のひかりをまなこにうけとりて所縁の境をてらしみる、これしかしながら日輪のちからなり。たゞし、日のてらす因ありとも生盲のものはみるべからず、またまなこひらきたる縁ありとも闇夜にはみるべからず。日とまなこと因縁和合してものをみるがごとし。歸命の念に本願の功德をうけとりて往生の大事をとぐべきものなり。歸命の心はまなこのごとし、攝取のひかりは日のごとし。南无はすなはち歸命、これまなこなり。阿彌陀佛はすなはち他力弘願の法體、これ日輪なり。よて本願の功德をうけとることは、宿善の機、南无と歸命して阿彌陀佛ととなふる六字のうちに、萬行萬善、恆沙の功德、たゞ一聲に成就するなり。かるがゆへにほかに功德善根をもとむべからず。 一 四種往生の事 四種の往生といふは、一には正念往生、『阿彌陀經』に「心不顚倒、卽得往生」ととく、これなり。二には狂亂往生、『觀經』(意)の下品にときていはく、「十惡・Ⅴ-1133破戒・五逆、はじめは臨終狂亂して手に虛空をにぎり、身よりしろきあせをながし、地獄の猛火現ぜしかども、善知識にあふて、もしは一聲、もしは一念、もしは十聲にて往生す」。三には无記往生、これは『群疑論』にみえたり。このひと、いまだ无記ならざりしとき、攝取の光明にてらされ、歸命の信心おこりたりしかども、生死の身をうけしより、しかるべき業因にて无記になりたれども、往生は他力の佛智にひかれてうたがひなし。たとへば睡眠したれども、月のひかりはてらすがごとし。无記心のなかにも攝取のひかりたへざれば、ひかりのちからにて无記の心ながら往生するなり。因果の理をしらざるものは、なじに佛の御ちからにて、すこしきほどの无記にもなしたまふぞと難じ、また无記ならんほどにてはよも往生せじなんどおもふは、それはくはしく聖敎をしらず、因果の道理にまどひ、佛智の不思議をうたがふゆへなり。四には意念往生、これは『法鼓經』にみえたり。こえにいだしてとなへずとも、こゝろに念じて往生するなり。この四種の往生は、黑谷の聖人の御料簡なり。よのつねにはくはしくこのことをしらずして、臨終に念佛まふさず、また无記ならんは往生せずといひ、名號をとなへたらば往生とおもふは、さることもあらんずれども、それはなをⅤ-1134おほやうなり。「五百の長者の子は、臨終に佛名をとなへたりしかども往生せざりしやうに、臨終にこえにいだすとも歸命の信心おこらざらんものは人天に生ずべし」と、『守護國界經』(卷一〇阿闍*世受記品意)にみえたり。されば、たゞさきの四人ながら歸命の心おこりたらば、みな往生しけるにてあるべし。天親菩薩の『往生論』に、「歸命盡十方 无㝵光如來」といへり。ふかき法もあさきたとへにてこゝろえらるべし。たとへば日は觀音なり。その觀音のひかりをば、みどり子よりまなこにえたれども、いとけなきときはしらず。すこしこざかしくなりて、自力にてわが目のひかりにてこそあれとおもひたらんに、よく日輪のこゝろをしりたらんひと、をのが目のひかりならば、よるこそものをみるべけれ、すみやかにもとの日光に歸すべしといはんを信じて、日天のひかりに歸しつるものならば、わがまなこのひかりやがて觀音のひかりなるがごとし。歸命の義もまたかくのごとし。しらざるときのいのちも阿彌陀の御いのちなりけれども、いとけなきときはしらず。すこしこざかしく自力になりて、わがいのちとおもひたらんおり、善知識、もとの阿彌陀のいのちへ歸せよとをしふるをきゝて、歸命無量壽覺しつれば、わがいのちすなはち無量壽なりと信ずるなり。かくのごとく歸命するをⅤ-1135「正念をう」(禮讚)とは釋するなり。すでに歸命して正念をえたらんものは、たとひかせおもくして、この歸命ののち无記になるとも往生すべし。すでに『群疑論』(卷七意)に、「无記の心ながら往生す」といふは、攝取の光明にてらされぬれば、その无記の心はやみて慶喜心にて往生すといへり。また『觀經』の下三品は、いまだ歸命せざりしときは地獄の相現じて狂亂せしかども、知識にすゝめられて歸命せしかば往生しき。また平生に歸命しつるひとは、いきながら攝取の益にあづかるゆへに、臨終にも心顚倒せずして往生す。これを正念往生となづくるなり。また歸命の信心おこりぬるうへは、「たとひこえにいださずしておはるともなを往生すべし」、『法鼓經』(卷下意)にみえたり。これを意念往生といふなり。さればとにもかくにも他力不思議の信心決定しぬれば、往生はうたがふべからざるものなり。 一 『觀佛三昧經』(卷一〇觀佛*密行品意)にのたまはく、「長者あり。一人のむすめあり。最後の處分に閻浮檀金をあたふ。穢物につゝみて泥中にうづみておく。國王、群臣をつかはしてうばひとらんとす。この泥をばふみゆけどもしらずしてかへる。そのゝちこの女人とりいだしてあきなふに、さきよりもなを富貴になる」。これはⅤ-1136これ、たとへなり。「國王」といふはわが身の心王にたとふ。たからといふは諸善にたとふ。「群臣」といふは六賊にたとふ。かの六賊に諸善をうばひとられて、たつ方もなきをば出離の縁なきにたとふ。泥中よりこがねをとりいだして富貴自在になるといふは、念佛三昧によりて信心決定しぬれば、須臾に安樂の往生をうるにたとふ。「穢物につゝみて泥中におく」といふは、五濁の凡夫、穢惡の女人を正機とするにたとふるなり。 一 たきゞは火をつけつれば、はなるゝことなし。たきゞは行者の心にたとふ。火は彌陀の攝取不捨の光明にたとふるなり。心光に照護せられたてまつりぬれば、わが心をはなれて佛心もなく、佛心をはなれてわが心もなきものなり。これを南无阿彌陀佛とはなづけたり。 安心決定鈔[末] 釋蓮如