Ⅴ-0907蓮如上人塵拾鈔 實悟 信證院殿大谷殿砌事 加賀國諸末寺事 越中國寺事 本泉寺事 安藝法眼事[幷]加賀國錯亂事 應仁亂事[幷]願成就院殿事 本泉寺與和田蓮惠申事 八ケ條記 信證院殿大谷殿砌事 蓮如上人は御若年のおりはW御方樣と申R、御繼母の義によりて、事の外に御めいわくの御事にて侍り。存如上人は、御内衆もたゞ五人めしつかわれ候。蓮如上人、御方樣と申たる時は、壹人もめしつかわるべき樣もなくて、存如上人の御小者に竹若と申者を、壹年に五十疋とらすべし、つかわれよと御約速にて、時々めしつかひ候つるが、三十疋共くだされ候事成かね申、やうやう十疋廿疋つかわされけると申候。竹若、心得の者に候き。 一 めし物もしかじかと侍らで、御ぬのこ、又は紙こをめされ候き。こぶくめをめされ候て、白き物の分に候し。白御小袖に此をめされ候。又其後は、白き御小袖壹つさた候つれども、しけぎぬにて候き。紙にてうⅤ-0908らをさせられ、御袖口ばかりを絹にてすこしさせられて、めされ候き。此比は、たれか加樣に候べきや。我人過分のしたてに成申候事、御用の程ありがたき事にて候は、いかんいかん。 一 きこしめし物も、さんざんの御したてにて侍しとなり。供御の御汁は、御壹人の分、御方のあなたよりまいらせられ候を、水を入てのべさせられ、御三人みなみなきこしめしたると申候。 一 御子たちはみなみな里やしないに、あなたこなたにありつけまいらせられ候。【願成就院殿】順如ばかり御そばにおきまいらせ候はれ侍る。【本泉寺】蓮乘は南禪寺にてかつじき、【松岡寺】蓮綱は【(華開)】けいかい院にて御出家まします。【光敎寺】蓮誓も同寺に喝喰御成候。【本泉寺】蓮悟と【中山殿】西向とは、丹波へ人のやしないまいらせ候。其外を吉田の攝受庵に、女房衆は比丘尼になし被申候事に候。 一 近江の金が森の道西と申せし人は、後には從善と申候。此人細々大谷殿へ參られ、佛法者にて候つるが、或時、存如上人の御まへに此善伺公せられ侍る時、蓮如上人御まねき候てめしよせられ、御物語共候つる。善ありがたく存知せられ、常に金森へ御方樣を申入られ聽聞候つるに、在所の人々もおどろかれ、佛法も此時よりいよいよひろまり申候き。其時おさなき人々多くあつまりゐられ候中に壹人、蓮如上人あれはたれぞと御たづね候つるに、善被申候は、私が甥にて候と被申上候へば、利根さうのものぞ、あれをわれにくれよかしと、御意に候間、やがて進上被申候まゝめしつれられ、大谷殿へ御歸寺被成候て、めしつかわれ候つるが、慶聞坊龍玄にて候。龍玄、物語候つるは、其比御膳などは、一日に壹度まいらせ候時も候。又一向きこしめすべき樣もなくて、まいらぬ事も候つる。龍玄、京へ出て、油などは料簡候。又なき時は、くろ木を御燒候て、正敎などを御覽ぜられ候。又は月夜の比は、Ⅴ-0909月の光にて御覽ぜられけると候つる。『敎行信證』又は『六要鈔』等、常に御覽ぜられ、又『安心決定鈔』は、三部まで御覽じやぶらせられたる事に候。左樣に正敎等御覽ぜられ、存如上人へも法流の壹義、懇にたづね參られけるとみへ申ける。御相承之義あきらかに御座候つると見申候き。存如上人御往生以後、いよいよ御勸化ひろまり申候。蓮如上人は十五の御年より、是非共に聖人の法流は仰立られ候べきと之思召候つると、常に御意候へし御念力通申候て、御繁昌候。其後、遠國へ御修行なされ、越前の吉崎の御坊にて、彌佛法ひろまり申候て、「御文」を御作させられ候事は、安藝法眼被申候て御作候て、各ありがたく存候。かるがると愚昧のものゝ、はやく心得まいらせ候樣に、千のものを百にゑらび、百のものを十にえらばれ、十のものを一に、はやく聞分け申樣にと被思召、「御文」にあそばし顯されて、凡夫のすみやかに佛道なる事を、仰せ立られたる御事に候。開山聖人の御勸化、いま一天四海にひろまり申事は、蓮如上人の御念力によりたる御事候。 一 佛法ひろまり候に付て、山門より一亂出來て、大谷殿はやぶれ、江州金森へ御下向の事候。其後、山門衆、又聞分られ、十六谷衆、連判以被申事候て、則大谷殿へ御還住候し。其時大津に御座候て、山科へ御うつり候時、本寺山科へ御うつり候はゞ、大津の在所もおとろふべきとて、山科へはやり申さるまじきとて、三井寺大津寺家の衆被申候によりて、大津も本寺と等事たるべきよしにて、開山聖人の等身の御影かゝせられ、すゑ被申候て、山科へ移り候。 一 蓮如上人は十五歲より、是非共に開山聖人の御法Ⅴ-0910流の義、可被仰立と思召し立れ、すでに御存分のごとく、六十餘州に御門流ひろまりたる事を御滿足のよし、蓮如上人御自證ありての御言に、今各々心易佛法を聽聞する事も、此法師がわざよと被仰し事に候。我壹人冥加に叶ふに依て、皆々安穩にあるぞと被仰候。如何程の御苦勞ありて、か樣に一宗繁昌し、兄弟中心安くある事ぞよ、末々の弟共にも、此趣よくよく可申聞事肝要也。少も冥加をわすれては、たちまちに御罰をかうむるべき事也。 一 蓮如上人、山科にて南殿へ御隱居の時、御内仁五人也。是存如上人の御時の例也。昔の御迷惑に御座ありつる事を、御忘れ有まじきとの被仰事にて候。然ば圓如も山科の新造にも五人被召仕候。其例に候。 一 蓮如上人、古關東御執行の時の鞋くいの御足の跡お、おりおり取出させ給ひ、各兄弟中へみせられ、我はかやうに辛勞して、佛法に身命おすて、苦勞をしたる事也。よくよく心得て冥加お存ずべしとぞ被仰侍候也。 一 蓮如上人御病中に、御口のうちを御わづらひ候つる事候て、あらあらと被仰事候つる程に、御口の中のわづらい、加樣に御座候歟と存候得ば、被仰候へしは、各信のなき事お思へば、身をきりさく樣にかなしきよと、被仰御事に候き。哀々、壹人成共、信を取たると聞たらば、老のしわをのべんとぞ被仰侍し事也。有がたき仰共候。各おどろき被申候事にて候き。 右此壹卷は、山科殿にてうつし申たる書にて候也。但誰人の書共覺不申候。光應寺蓮淳公に候歟と存候。慥には覺不申候。努不可有外見者也。 此壹卷は如斯調て、大坂殿の大藏卿局へ進たる事也。乍憚古事おきかせ申度候而如此しるし參せ侍り。當時は憚入たる事、止外見べき者也。 天正三年八月四日 實悟(花押) Ⅴ-0911此壹卷計、蓮淳の尋、龍玄御かき候書也。 加賀國寺々事 若松本泉寺と申は、開山は如乘A巧如御子、第三男B號宣祐法印C。如乘むかしは、靑蓮院門跡にして靑光院と申、叡山にしては二尊院と號す。將軍普廣院贈相國義敎、元は靑蓮院にて義圓僧正と申せし時、每事深甚にして、宣祐は公私の意見者たりしが、還俗ありて將軍の後は爲門跡たり。我無器用の子細も、此宣祐ことにしるべきとて、色々むつかし條々被仰懸て、都になき樣にとの御たくみにて、無堪忍やうに被仰候程に、京都に堪忍ならで大谷殿に在寺ありしかども、越中國へ下給て、瑞泉寺住持と成り給ひしが、彼寺も心にあわざる事有て、又上洛すべきよしにて瑞泉寺お出て、上洛有るべきとて通り給ひしお、加州加北郡の門徒衆留奉て、同郡内井家庄内二俣村の道場の侍しに留て置申、いまに其所坊とし居住の間坊也。然ば蓮如上人御在國の折節、切々二俣へも御越候へき。其まゝ坊と成候間、蓮如前住本泉寺と寺號付させ給也。瑞泉寺には名水ありて名らるゝ號なれば、彼瑞泉の流れの心にて、本泉寺と付させ給いし號也。此寺にて宣祐法印もはて給と也所ながら、階道ちかく、いかゞの在所なれど、暫時の居住の所に侍れば如此也。其後は又蓮乘附弟として、又は親子の好身ありて相續し給ふ。蓮乘[號兼鎭]住し給ふといへども、此所思しからねば、同郡田嶋と云ふ所へ住給ひし。壹兩年ありて、此所も又人の往來等に付ても如何とて、又同郡平尾という山上へ居住ありて、三、Ⅴ-0912四年すみ給ひしが、遠景殊勝所たるといへども、山上たるまゝ風はげしく、門徒中の經徊も坂きびしく煩して、又同郡の内、若松の郷といへる所に居住なり。此比は蓮乘は、二又に住し給ふ比よりも所勞にて、蓮悟居住の義も調にて侍りき。平尾の坊へは願成就院殿御下向ありて、蓮悟も此坊にて出家ありし所也。願成就院殿光助法印御下向の砌の事也。若松は長享の比よりの坊也。 一 北隣坊蓮綱は、山科坊近所音羽村に草坊を、信證院殿建ましましけるは、蓮綱の居住あるべき用意成けるを、此所は如何有べきとて、蓮乘よび下し給ひて、賀州能美郡内山内に池の城という所に草坊を立られ、蓮綱をば蓮乘の居おかせ給ひたりしか共、山中にて冷氣ふかき山居とて、同じ近所にふるやと在所に坊を引、蓮綱の立給居住也。然るに此ふるやという名きゝにくしとて、松原の在所なれば、松岡と新作に名づけられしお、あたらしく左樣に名はかへぬ物をと、蓮如上人被仰候て、寺號に此を被成候也。仍號松岡寺給なり。又此所も山いまだふかくて、往來の諸人に如何とて、波左谷といへる所の郷里ちかければ、此所に居住有し也。享祿の亂回祿し侍りき。 一 光闡坊蓮誓は、若松尼公勝如禪尼、越中利波郡内山中に土山という所に坊を立、門徒中參會しける所有りけるに、光闡坊を勝如よび下て、此所にすませしめ給ふを、加賀國江沼郡の門徒中、土山は山中霧深き所なればとて、蓮如上人に申のぼせ、山田と云ふ所浦山かけたる所候間、光闡坊を置申度など申候しかば、とも角もとの仰ありしまゝ、山田に坊を立て居申侍る事也。此も享祿の亂に燒にけり。 又同郡内菅生という所に、蓮誓の遊山所と號して一坊たてたり。此在所の入道に願正といへる名譽の入道あり。此れ壹人の興行によりて立たる處也。此も同年にⅤ-0913燒にけり。此は結構成坊成りき。 又同郡内山中に九谷という所に坊あり。近き山々にも面白深山也。高山水精の山あり。享祿の亂の年、貳拾ケ年ばかりありしと覺ゆ。此も蓮誓の坊なり。 又同郡内瀧野という所、里ちかき山家なり。近所山々菊多生す仙郷あり。是も蓮誓坊也。 一 山内に鮎瀧という所あり。此に蓮綱坊有り。此は蓮綱の休息の坊なり。是も貳拾餘年ばかりの坊也。享祿の亂燒畢。 一 淸澤は加州石川郡河内庄釰村内也。永正五年より催して建立の坊、本泉寺蓮悟開山坊也。實悟拾九年居住す。享祿の亂燒失す。 淸澤という名は、白山妙理大明神、此邊順見の事のありけるに、門前の淸水の瀧の如にて澤の有しお見給、あつぱれ、淸き澤かなとの給ひしより、淸澤と名づく。昔は權現という。今は大明神の付給ふ號なり。 一 【能美郡内】粟津という所に坊あり。古大谷殿よりも應玄下給ひて居住の所也。舍弟大貳殿も居住の所也。同姉俊如禪尼・同息女如宗尼もすめる、あまたの人々の集給へる坊なり。文明の比よりの所なれど寺號もなし。俊如・大貳公、此所にて遠行の所也。 昔は鸞藝頓圓などの居住のところなりと云ふ。 一 加卜郡内細田という所に坊あり。蓮悟開山也。各志にて建立、長享・延德の比よりの坊なり。享祿の亂燒失す。此在所、明善という者馳走坊也。 一 同石川郡内山中に中戸という山家に坊あり。明應の比よりの所也。蓮悟開山なり。彼在所、番頭と云者馳走して建立の坊也。同亂紛失す。 Ⅴ-0914越中州坊事 瑞泉寺と云ふ、綽如上人開基、【百七代 後圓融御子】 後小松院敕願所、堂前名水淸水あるに依て、瑞泉と名らる。 應安・永和の比、漢土皇帝より 狀あるを、内裏各よみわづらひ給しに、靑蓮院宮も折節參内の有しに、よみときかねさせ給しかば、門主奏覽ありしは、此比、本願寺文字才覺あり、めしてよませらるべしと、譽候申させ給しかば、依敕本願寺俊玄めしにより參内あり。よませらるゝに、速によみとかせ給しかば、叡感のあまり所領を被下けるに、從古門下の一紙半錢の志に依り堪忍の身也、所領の望なしと返上申されければ、何ぞのぞみのまかすべしとの敕定なり。然ば越中州壹所寺を可建立、以敕定可立之由、被申上たりしかば、依敕將軍家え被仰付、敕許旨承て武家へ下知有り。北陸道七ケ國武士に下知せられて、普請以下武士の輩、坊外に幕お打て馳走しければ、彼坊は建立の所也。敕により建立なれば、坊中歷々たり。具勸進帳有之。此文、綽如上人御作の事也。近代無住持、宣祐法印の以後は兼鎭法印住持たり。其後、依所勞無住持、本泉寺より悉皆下知はからふべき由、蓮如上人被仰付、蓮悟諸事はからいとして、造作以下、時々に若松より有下向被申付侍し也。中比、蓮欽に契約ありて留守の分たりといへども、早世せし間、息賢心に契約住持分也。其子息相續、元來如此也。此間在之。 一 同郡内安養寺と云所の坊は、元來土山の坊を引、高窪という所へ引、此所も不宜なりとて、又安養寺へ引て立也。然に土山は勝如禪尼の寺也。蓮誓住持に居おかるゝといへども、きり深き所とて高窪へ引。仍住持には蓮誓の息治部卿實玄というをおかるゝ間、彼寺勝如禪尼の相續なれば、蓮誓は加州山田に住のまゝ、實玄おば本泉寺如秀尼公の猶子として住持になし給い侍る事也。仍如秀尼公の往生の砌も、別而實玄は中陰Ⅴ-0915中つめられ、齋以下一日は調られて侍る事也。然者、安養寺も彼尼公遺跡也。後胤、其心得侍るべきや。 一 同國所々有坊、皆近代明應以來事也。不及注候也。 本泉寺事 自餘末寺なども相替べき由、實如上人永正十七年十月晦日夜、能之有けるに、於御亭被仰侍し事、各も承られ候へき。本泉寺は田舍の本寺に候。如乘、奇特名譽の人にておわしける。前住蓮如も常に仰事有て、彼大恩かうぶりたる事なりとぞ被仰しとて、實如も御物語事。其子細は存如上人御往生ありては、すでに蓮如上人へ御ゆづり狀最前に有つる事なれど、御住持職は御受取あるべきと諸人も存じ、各一家中其心得にて有つるに、御繼母如圓と申せしが御はからいとして、靑蓮院にまします圓光院應玄をおとし參らせられ、御相續の分にて、則存如の御葬禮以下、蓮如はわきへ御成候て、應玄御住持分に侍し。御繼母の御沙汰成ける程に、たれも兔角申人もなく、坊主衆も、御門徒の方々も、御内仁も、一家中も皆々同心あり。應玄の御住持分にて定り侍しお、宣祐法印、應玄の義は何としる事ぞ、旣に舍兄と申、御讓狀歷然の事に候にとて、一家中をも、御内仁おも、御門徒衆中・坊主衆中へも披露有りて、宣祐法印馳走ありてこそ、御住持の事は蓮如上人へまいり侍しに、種々奇特是あり。中にも開山聖人の御道具、御住持の御方に侍らでは叶はぬ、御繼母の御とり候て、大杉殿W圓光院應玄Rの御方へ渡しまいらさせ給しなれども、皆三色ながら蓮如上人の御方へ何となくⅤ-0916渡りまいりける事の不思義と申なり。其御道具というは、御絹袈裟・水精の御珠數・助老、此三開山聖人の御具足なり。其外又有之[云云]。御中陰のうちに、皆蓮如上人の御方へまいる。又存如上人御往生ありたる夜、東山大谷殿の御土藏にありたる物を、ことごとく御繼母の御方へ取せ給ひ、大さ貳尺ばかり味噌桶一と、代物壹貫文ばかりを桶のきわにおかれて、倉のうちは打あけられたる事候き。然ども不思義事どもありて、蓮如上人へ皆々一味申され、御住持とならせ給事、宣祐法印一人の御申披ありて、存如上人より御讓狀の上に御舍兄と申、旁以て一方ならぬ事と、宣祐法印御馳走に依て、御住持には定めたる事に侍也。仍宣祐[如乘]法印の事は、一段蓮如上人御入魂の子細により、本泉寺の事は他に順ずべからずの蓮如上人の仰とも侍りき。A寛正二 十月四日御往生B如圓不思義事有之C如此御繼母あたり御申の事にありしかども、越前の吉崎殿の御坊にて御往生ありしを、蓮如上人御肩にかけ御申候て、御中陰以下、結構に御沙汰ありける事、まことにありがたき御事也。御繼母御存生の時も、每日に蓮如上人御まいりありて、なぐさめ御申、色々に朝夕の御まかない・御衣裳等まで、こまかに御沙汰ありける事、世にはありつべくもなきやうに、人々の申沙汰し侍る事也。 一 宣祐法印作文に「御文」の如成物ありしを、各存知せずして、「御文」の中へまじへ書入たりし物の侍を、或時蓮如上人御覽ぜられ、是は二又本泉寺の作なりとばかり被仰候て、とりのけよ共、且以不被仰侍し事、倂如乘を御執筆のしるしと、各御物語侍りき。A彼御作文、初は「夫廣劫B多生をふるとも」と有之、『語燈錄』(和語燈*卷二)拔書とも候C 一 常樂臺A光崇 B法名空覺Cは宣祐法印兄也。存如上人御往生の砌も見舒たり。依之、蓮如上人御住持の事も、強ちに被取持事なし。御住持に定給とも、敬の義も且以是なし。宣祐法印は各別に侍りて、崇敬し在りけり。Ⅴ-0917依之、蓮【(如)】―も御執事の義ふかくましましきと也。 一 條々如此、宣祐法印は一段御入魂、他にことなる儀、子細共侍りき。實如上人御物語旨は、依之、兼鎭蓮乘猶子と被仰合、又蓮悟・實悟まで三人兄弟本泉寺へよせられける事なりとぞ御物語候き。左候間、代々本泉寺の德度の時、御太刀を目出度よし被仰、本寺より被下たる事と申て御物語候つるを、承たる事なり。蓮悟上洛の時は、自餘にかわりて、條々實如上人御執事の事ども忝事候つる也。又實如上人、御物語云く、本泉寺尼公勝如というは、北陸道の佛法再興人なり。只人に非と被仰、其息如秀禪尼、是又佛法者、奇特不思義の尼公なり。其姫如了、又不思儀の人なりとぞ御感なりし事なり。 存如上人[圓兼法印]長祿元年六月十八日御往生の時は、蓮如上人は卅三歲之事也。如乘は四拾六歲、蓮乘は十二歲[云云]。如乘御往生の年は、兼鎭蓮乘は十五歲也。然に其砌より猶子の事と[云々]。其後文明七年の比、兼鎭は落馬候てより所勞候し事也。文明の初めの比より、蓮悟兼縁は蓮乘兼鎭猶子分なり。實悟は明應元 十月廿八日誕生して四十日ありて、霜月に若松へ下されけると候。兼縁は其年二十五歲也。兼鎭は其比以外所勞[云々]。兼鎭往生は永正元年二月廿一日、兼縁は三拾七歲[云々]。實悟兼俊は十三歲也。如此次第、雖不入事候、注付畢。蓮乘往生の時も、實如上人より爲御使淨頓下向、御香典W五百疋R下さる。同如秀禪尼往生W大永元 二月五日R、實如上人より御弔勝尊、御香典W五百疋R被下ける事也。勝如禪尼の時は、蓮如上人より御弔ありと[云々]。不覺申候間、不及注六事也。 Ⅴ-0918安藝法眼事。 法名蓮崇 文明の初めの比、越前國吉崎の御坊御建立也。其同國あそう津の村仁に候き。心さかしき人にて侍し間、安藝州へも往返之事侍しにより、安藝と人云付て侍しが、吉崎殿へ望申、茶所に侍て物をよみ手習をし、一文字をも不知仁にて侍しが、よるよる學文を心にかけ手習をして、四十の年より物を書、眞物を書習、正敎等まで令書寫候て、淨土法門心にかけ、才學の身と成りて、吉崎殿御内へ望申、奉公を一段心に入られしまゝ、蓮如上人御意にも叶、丹後玄永はそばへと成て、安藝安藝とめされ、一段秀たる事に侍り。法門御意をも得られける程に、人々も近付聽聞し侍り、門徒も出來侍り。去程に、賀州の守護の富樫介と百姓との取合に成ける。百姓衆と申は御門徒衆・坊主衆等也。仕損じて越中國へ退き候て、吉崎殿へ忍而惣中より使上申候。此度軍の樣、百姓中難叶候間、調和與無事可還住扱候間、其趣吉崎殿へ兩使A洲崎藤右衞門入道慶覺B湯涌次郎右衞門入道行法C上、以安藝申入候之處、兩使申入候段をば、一向各別に安藝奏者被申入、涯分致調法、賀州へ可切入候之間、各へ力を被付候樣に以御調可仕間、可致合戰之由被申入。蓮如上人、誠と思食、無用とは被思食候得共、左樣に調法お可成者、更に不及御意見、如何樣とも可然樣申候へ共被仰出と、別條に御意の旨、兩使へ被申付、兩使はれう分は難成之由申候へども、兩使申入候處は、一向不被立御耳、各別被申出、堅御意の旨、富樫此度は對治候樣にとの御意と計被申。兩使同は直に掛御目、可得御意候由申候へば、それは此段にかぎり無用と、安藝さゝへられ候。しかれば、蓮如上人も直に懇に可被仰付候由被仰出、兩使に可有御見參候由被仰候處、それは巨細の御意も無用候。委細安藝可申付御意候て可然候與被申候間、蓮如上人も安藝被申候まゝに、何事も被仰候間、安藝意見被申上候ごとく、御見參ありても安藝委Ⅴ-0919細可申とばかりの御意候。御座を御立候事に候。兩使も聊も心元なくは存候へ共、色々と存候て、安藝被申候旨を御意と心得て、越中へかへり各内談申、各同心に難成事とは心得候へ共、其中に是は面白事也と、存衆も侍りきとなり。 一 去ぬる文明比、富樫次郎[政親]、弟の幸千代と取合て、次郎は越前に牢人し侍し比、吉崎に御座候比なれば、色々御扶持候き。然者國へかへり候ば、御門徒中の義、不可有疎略の由申候間、次郎を越前御門徒中に被仰候て、賀州山田へ入られ候てより、幸千代を追拂、次郎、國を手に入、安堵の處、御恩を忘れ當流を嫌ひ候事、槻橋と申者所行に候間、國中の御門徒槻橋をきらい候。國々亂は又出來、百姓等仕損、越中迄退候時事也。 一 其後、賀州に富樫次郎いとこの富樫安高を取立、百姓中合戰、利運にして次郎政親を打取、富樫安高と申を守護としてより、百姓中取立候富樫に候間、百姓中のうでつよく成て、近年、百姓の持たる國の樣に成行候にて候き。 然處、安藝法眼、いよいよ威勢・分限出來、吉崎殿寺内安藝居住の處には土藏十三立、一門繁昌の事にて、則越前の朝倉彈正左衞門W法名英林Rと申者聞及、名字の庶子になし、阿 と名乘。令上洛、將軍慈照院殿御被官分に成候て、奉公は壹分と定られ、數度御内書等被成候。則法眼とは將軍より被成候。法橋とは於吉崎御成候。ぬり輿の御免も將軍家より被仰付、從善は鞍、其後唐笠袋まで、武家御所より御免候き。左候間、於吉崎威勢かぎりなく、玄永丹後はかげもなく、蓮如上人Ⅴ-0920被申儀御成候由と聞召候て、願成就院殿大津より御下候て、吉崎へ御下向候て、蓮如上人をつれまいらせられ、舟にて御上洛の時、安藝よろづ曲言の由を仰候。船に曉めされ候に、安藝も御船に乘られ候を、願成就院殿こゝ成ものは何ものぞと仰られ、引たてさせ給ひ、船にかゞみ居候を取て、陸へなげ出され候得者、磯ぎわに伏しづみ、御船かげのみゆるまでひれふし、なき居られ候つるが、御船もみへず成候へば、おきあがり御坊にかへり、其儀越前・加賀の御門徒中へ勸化せられ、人の崇敬かぎりなく候。總而安藝、門徒過分に候き。夜は朽木を衣の下に付、光にみせつゝ種々の事候つる由候。蓮如上人此奉公の折は、申入たる名號、安藝へ申入れば、早く出來申候とて、多く出され候つるは、法眼私にかきて被出候由候。其名號、近比までも賀州に候つる事候。其まゝ種々おごりたる事ども候つる間、被仰付、國中の衆責伏、湯涌村と申山家の城をこしらへこもり候得共、たまらず夜中に越前へ父子とも落行、かくれ居られたる事に候。かくて數ケ年越前にかゞみ居られ、蓮如上人御往生ちかく、明應八年二月の比より、賀州一家中へ、安藝連々縁を以て、侘言の義候得共、誰にても取上べきと思ふ人もなく、御往生の砌は、山科のちかくに上洛し、あれこれに付て、色々御侘言申入度の由申候得共、誰にても取つぐべきと申人もなくて侍る所に、蓮如上人三月の初比に、北隣坊・光闡坊へ被仰事は、安藝はいづくにあるとか聞たるぞと被仰。兩所御申されには、何にあるとも更に聞不申。何とある事候哉、不聞候と御申候へば、三月の中旬比には、あらあら不便や、越前の方にゐるべし、尋ねさせよと被仰出、兩寺其外同心に談合候て、可召出被思召候事無勿體。外聞といひ、曲働の仁に候間、中々いづくにあるとも存じたるものなし、無生所候と申入候へば、廿日比には、不便なり、たづねさせよたⅤ-0921づねさせよと、しきりに仰事あり。旣に御往生もちかづき候よと、各存知候處、如此被仰候を埋をくべきも如何とて、越前邊にありけると御申候へば、遣人よべよと被仰候て、可召出の由御意候上はとて、山科八町に居られ候を、其旨被申上候へば、可召出と被仰間、徒に候を被召出候て、御外聞旁如何候と、實如上人と北隣坊さゝへ被申候樣に候へば、それは不可然候。彌陀の本願には惡人を本と御たすけ可有との御本意なり、徒者をゆるすが當流の槻模なり、よび出すべしと被仰間、廿日比に召出候間、安藝法眼忝由被申上、御目にかゝり、五體を地になげ、泣聲を上てなかれ候て、難有存られ候つるが、廿五日御往生有て、廿六日の御葬禮の御供を申、たゞ泣より外のことなく候つるが、やがて廿八日に安藝も往生候。不思義の宿縁、希代なる前代未聞の儀と各被申候き。 應仁亂事[幷]願成就院殿事 應仁の亂と申は、將軍慈照院殿W號東山殿義政公Rと今出河殿との御取合、諸大名ことごとく二にわかれて、天下の大亂なり。京中まん中、敵御方の間唯二町ばかりを、雙方堀をほり、さかもぎをゆいて、陣取候へる事に候とて候。其時、願成就院殿W順如光助法印依敕被成上人R東山殿へ細々御參の事候つるとて、或時、慈照院殿、御内衆被仰事は、今の本願寺は身つきがうつくしき仁也と人々申、見たき事なりと被仰を、大館を始として二、三人被申事は、參上の時御酒の上へに、はだかになして、御覽さすべき由を被申候に、はやばや如何と被仰侍と也。Ⅴ-0922然者御陣中を見舞可被申とて、願成就殿、十合・拾荷被持御參候し時、將軍東山殿御對面ありて、則御酒宴に成りたるとき、連々奉公衆被申候やうに、大館伊與守を始として貳、三人、御そばいよりて、はだか舞が可然候とて、はだかに成被申候。願成就殿、御迷惑候しか共、無是非はだかに成被申て、春日龍神のきりをうたい出して、まわせ被申候。其時の事、伊勢下總入道宗五、物語候しは、此事、將軍の御前にて各被申候事を、其時はW未伊勢次郎と云R聞申候間、親顯という智院の間に候條、加樣の段、願成就院殿へ告知せ參度所存候つれども、次もなく候間、不申候所に、御前にて如此の各働候間、もしもしはだの帶などみぐるしき事候つと存候つれば、いかにも新敷はだの帶御沙汰候つれば、安堵したると、下總入道、愚老にかたられけり。願成就院殿、器用の御きづかいのよしは、はだの帶ばかりにて、扇御持候て御立候ては、如何候べきに、只かた膝ばかり立て、帶を扇にてかくす樣に御舞候て、やがて御立候。一段の見事にて、奇特の御しやわせどもに候と被物語候。其まゝ各どつと御わらひにて、前の貳、三人衆より、物をきせ被申て、如元お立になされ候き。其後、東山殿仰候、きゝ及たるよりも、うつくしき身つきぞと被仰けるとなり。まづ遍身にくろき所、針のさき程もなく、うつくしき身つきにてわたらせ給ふと、各とりどりに沙汰候つると、姉にて候人、其時喝食にて春日局にて聞たるに、皆々女房衆まできゝ及取候に沙汰候て、ほめられ候へば、うれしく候つると御語候事。其後、願成就院殿、東山殿よりも御いとま御申御かへり候て、同日、又た今出川殿へも十合・十荷進上候つるに、これもまた御見參候。同日の事に候に、御酒宴候つれば、しちふくの次に候つれば、御申候者、東山殿にもはだかにて舞申候間、これにても又舞申べきなりとて、雙方の御中、小路中に疊をしき、又御酒Ⅴ-0923候つるに、奉公衆雙方衆、十人計出合れ候に、我等ある所にては、敵味方あるべからずと仰候て、御酒候つると承り候。昔は加樣に、本願寺殿御所樣へ御まいりと申候得者、雙方衆、矢をとめ鑓をふせて、通し被申候きと也。其後、願成就院殿、山科殿へ御歸寺候て、蓮如上人に此事御申候。東山殿にて懇に當宗の事など御尋候つる間、條如此申入候と御申候。初は蓮如上人、御かおを脇へむかせられ、あら酒くさや酒くさやと、被仰候つれども、條々御申入候由、御申候得ば、それはよいよよいよと被仰、御機嫌よく成て、御むかひまいらせられ候つると、御座敷之體を、兄弟衆御物語候をきゝ申候。 一 其後、吉崎殿へ願成就院殿御下候とて、若狹の小濱へ御下候て、武田太膳太夫館へも禮とて御出候時、若州まで伊勢下總守、同道にて御下向候て、武田館へも御同道候而參候と、下總物語候。其時も大酒に成候へば、兩御所にてはだかにて舞申間、これにもはだかにて可舞と被仰、又はだかまい候つると、下總守物語候き。小濱より下總は上洛す。院主は吉崎へ舟にて御下候つると物語候き。 本泉寺蓮悟與蓮惠A本覺寺B和田坊主C申事 永正十五年歟、本泉寺蓮悟與和田之坊主W越前坊主衆也加賀牢之時R申事出來し侍し間、則本寺山科殿へ注進申させ給ひたりけるに、やがて言語同斷の曲言なりとて、和田の坊主蓮惠を御勘氣かうぶられけり。下間丹後蓮應と舍弟左衞門太夫賴慶兩人の書狀にて、則御門流を被放と、Ⅴ-0924かたく御折檻侍しかば、坊主も蓮如上人の御時より聽聞せし功者にて侍るゆへ、御勘氣をおどろき、其比は賀州能美郡はにふ田と申所に、越前を牢人せられてより居住の所也けるが、則つき鐘のありけるをもつかず取おろしておき、朝暮の勤行にも子の新發意のありけるを出し、我は勤めをもせず出もせで、人の來るにも不見參、無等閑仁にはかたわきへよび入て、令見參侍て堪忍し、しばらくありて先本寺へも不申入、門徒中に若松本泉寺の前へも出て佛法の物語の時、あい手にも成候坊主衆の越後牢人の西光寺という坊主を以、若松殿へ蓮惠被申樣、此度申事義、近比あやまり申候。年まかりより候而越度をつかまつり存、あやまり申候。倂冥加につき申、口惜存候とて、此西光寺をもて連々若松殿へ被申候間、本泉寺にも是はちか比あやまりたると存知つけられ候は、殊勝にも宿老といひ、蓮如上人の御時より聽聞申され候仁候か、主一段情こわくして、ぎごはなの仁體に候間、如此候。左樣に思ひとられ候は難有事に候と仰なり。其旨を西光寺彼在所へ行てかたる。やがて有がたき仰とて、彼在所より忍て若松の町内宿にありて、言語同斷のあやまり申事とて、宿に忍て西光寺を以て連々侘言候間、此度左樣に思ひとられ候事難有候間、しからば本寺へ侘言を若松殿より可被申由、蓮悟合點候て、本寺は實如上人の御時なれば、山科殿へ本泉寺殿原を上、以書狀如此本覺寺あやまりたると被申候間、殊勝に存じ候間、御覽候て畏入存ずべき旨注進あり。則和田本覺寺も上洛し、山科殿御門外に堪忍ある。若松殿よりは具に注進候といへども、又或人、實如上人へ被申事候者、是は一段の曲言の仁に候に、あまりにはやく御免候て以と申人侍しに、實如上人仰事には、いやいや是は若松へこへて侘言候時の次第、近比可然候。旣先年前住の御時も、安藝法眼を各はさゝへられ候得共、前住よりめし出候例Ⅴ-0925あり。是は、彌陀の本願には惡人成佛の御意趣也。わろき物をゆるすが彌陀如來の御本意なりとて、安藝もめし出されたり。此蓮惠もあやまりたると申が尤可然とて、則御免ありけり。是まことに候。末代までも御勘氣かうむりての覺悟、あやまりたると存知せられ候。人の御侘言の手本たるべしとぞ、各々被申事也。仍おなおな書注つけ侍る者也。