Ⅴ-0751拾塵記 蓮如上人事 凡親鸞聖人淨土眞宗御興行座てより以來、諸國邊鄙の群類、雖歸此一流事凡也。然に蓮如上人御時は、旣日本六十餘州渡て御門弟有之。剩外國荊旦迄も、依夢告彼堺人越日域御勸化を請て歸き。當流、前代に未聞之奇代不思議事也。忽權化の再來と云事支證明鏡、其奇瑞不可勝計。或者所々に建立伽濫、諸末寺、多の道場幾千萬と云事を不知、一宗繁昌は有此御時、可謹可敬。 夫蓮如上人者、稱光院御宇應永廿二年乙未誕生、童名號幸亭。鎌足内大臣より廿六代圓兼W長祿元 六月十八日圓寂六十二RW存如上人R法印眞弟、永孝院贈内府秀光公依早世爲正統家督、日野從二位中納言兼郷卿、本名宣光改親光又改號兼郷、爲子。永享三年夏之比、於靑蓮院門跡爲十七歲出家、戒師靑門主【二品親王歟】大僧正尊深。其後大僧正入滅之後者、同門主准三宮尊【應】―爲資、然に准后多年の知己たり。每事眞俗の稽古他に異なりき。 若年の比、爲南都大乘院法務大僧正經覺門跡參候。累年學窓にして、螢雪の勤をはげます。此門主後に者隱遁しましましては、號安位寺家門九條殿。 北堂は生所を不知人也。【圓兼法印】存如上人先妣の御方に常隨宮仕人に侍りき。【兼壽法印】蓮【(如)】―上人六歲の時、かの六歲の壽像を繪師の侍しにかゝせ取て、能似たるを表保衣等まで悉くこしらへ玉て取持て、我はこれ西國の者也、爰にあるべき身に非ずとて、應永廿七年W庚子R十二月廿八日に、Ⅴ-0752常に住める所の妻戸をひらきて、供奉する人もなく、只一人行方しらずうせ給ぬ。依之其日を爲忌日、上人もつねに勤行せさせ給ひけり。然に其最前卅餘年の間は、石山の觀世音菩薩は開張の時剋も侍しかど、寺僧に告て侘宣したまひ、我此比此寺にあらず、寺僧の不法不信の故此地を去、花洛に居と示して、石山寺には御座ざる事を示されけり。これ奇代の事也。然に或人、石山寺に參たりしに、此上人六歲の壽像、かの如意輪觀音の佛檀かけられをかれしを、人皆これを見、されば彼母儀御前はたゞちに石山の觀音たりと云事不可疑事也。 その後繼母御方座して、應玄【阿闍梨】法印W爲靑蓮院號圓光院、准后尊應資法名蓮照、遁世號學本坊R大貳蓮康等母儀也。かくて經年序、長祿元年六月十八日に、【先考】圓兼法印、圓寂に入給ぬ。兼壽法印はW蓮【(如)】―上人R依爲嫡【子】孫、御讓狀已下こと、たしかに本願寺住持たるべき由、御自筆の相傳の書を傳請取給ひけり。雖然尋常の繼母、ならひにてましませしかば、應玄阿闍梨を以て附弟として、御相承之由申かすめ給、諸國邊鄙の門人・僧俗までも、一同應玄阿闍梨をぞ可爲御住持之由、同心に被申調によりて、旣兼壽法印は傍に一應蟄居やうに、みな人人も旣事成にけり。やがて【先考】圓兼法印御葬送の義式の時も、應玄阿闍梨、附弟・遺跡を得たまひし體にてぞ侍りき。されば此義いかゞ御讓狀之旨を申出し歎人々もなし。倂當權に恐て、みな人口を閉てぞ侍りける。爰に蓮【(如)】―上人叔父宣祐法印W本泉寺、但其比瑞泉寺住、元爲門跡靑光院、古號慈尊院、遁世本泉寺、法名如乘R申給ひ侍りしは、先考法印の仰、更以不可有相違、努阿闍梨事御附弟には許容覺悟に不及之趣、いきどをり對諸人再三出言の上、各橫韻に入、同心不可然之旨就敎訓、各又宣祐法印の儀に同心によりて、兼壽法印之儀可爲御附弟之旨、強に繼母御方も不及出言之子細有之歟。爰不思議之子細侍りき。彼葬送の庭にをひて、代々御相承の鸞上人御珠數をば、爲Ⅴ-0753附弟之儀應玄阿闍梨持せ給しが、俄珠數の緖切れて兼壽法印の御前へ落、人々取之奉渡[云云]。其外御住持相傳物、何となく何も何も不慮の子細共出來して、皆兼壽法印の御方へぞ渡參りける事、是又不可思議也、然者繼母御方W如圓法名R猶依遺恨、其夜文籠・經論・正敎以下悉被奪取、仙花百疋・味噌小桶一を文籠に入被置[云云]。然ども其後諸國門人依宣祐法印強言、各又蓮【(如)】―上人をぞ許容し申侍しかば、萬事自然事成就して、蓮【(如)】―上人は悉扉付侍べりける事也。 如圓禪尼は寛正元年十月四日、逝去しましましてけり。其後越前國吉崎坊にて文明第四 十月四日、十三年忌さまざま佛事等行ひ給ける。雖爲繼母、如實母御存生の折々は連日種々上人被奉養育ければ、禪尼も古の事ども後悔の淚をながし、つねづねは懺悔せさせ給てあさましかりし事共恨思給、信心歡喜せしめ給、往生の素懷をとげさせたまふ。則葬送の時は、上人御肩かけさせ給、御堂の庭まで供奉し給ひけるとぞ。 本願寺の御住持は、鸞上人の御修行の例として、必御一代に一度關東・奧州下向せしめ給事也。然而蓮如上人は、御一期に三ケ度可有下向御所存たりし。兩度は如御本意、三ケ度めには越中瑞泉寺まで御下ありし。一番には奧州下郡まで御下向也。其時善鸞御房の坊跡の邊を御通の時は、御笠をかたぶけ、彼坊跡を一目も無御覽侍しとなり。これ鸞聖人御不快の人の事なれば、彼坊跡をも御覽有間敷との事也。其時は鸞聖人御修行の例をまなばれしにや、御かちなれば、御供の人も一兩輩とぞきこえし。御足にわらんづくゐ入たる跡ましまして、御往生の砌もとり出し各にみせしめ給ひ、かゝⅤ-0754る御辛勞ありつる故にいま各心安く侍るぞとの仰事ありしと也。二ケ度の時、國々所々御逗留ありて、佛法の邪正をたゞされ、御勸化をうくるやからも、その時は多かりければ、所々に抑留申され、路次中も高駕を進め申されしと[云云]。此度の御下向は、ひとへに蓮祐禪尼の忌中よりも思召立けるとぞ。三ケ度に及ては、越中州利波郡井波の瑞泉寺まで御下向也。此寺は綽如上人御建立、異朝よりわたる所の牒狀を、禁中して各被見の時、文字停處有之、【靑】門主折節參内として、時藝法印可被見[云々]R。其時有參内披見之時、速無所停滯令披見之給間、御勘として連々御申旨有之歟。於越中國一寺可建立之由、依 敕定建立之處也。則武家依被仰下、將軍家の爲下知、北陸道七ケ國の侍自身罷出て、普請・作事致奉行、早速造畢也。則其時、天子後小松院 敕願寺[云々]。彼寺までは御下向也。然而門中繁昌せしに依て門前成市、群集して、或は參詣輩損しなどせしによりて、他門・隣國武士等偏執の諸宗々諸寺の偏頗をかへりみ給ける故に、不及御下向、瑞泉寺より吉崎新坊に歸住給ひけり。[文明七年七月事也] 又吉崎といへるは、文明三年夏江州より御下向後、越前國坂北郡細呂宜郷W吉久名之内R吉崎の御坊は、七月廿七日より建立。然而寺内・寺外繁昌して、諸人群集幾千萬と云不知數侍しかば、加賀・越前兩國の守護幷諸山寺の偏執も以外の事なりき。殊には平泉寺・豐原寺、賀州には白山寺・那多・八院等を始として、しきりのもよをしありて當寺の偏執ありしか共、佛法の不思議にや、終に無別儀いよいよ繁昌し侍りき。其後此寺は賀州・越前の取合出來て、文龜【二歟】三年七月回錄してけり。敷地は越前守護朝倉彈正左衞門尉之入道惠林[字一齋]寄進之地也。昔虎・狼・野干のすみか成し大山を引たいらげて一宇を建立ありて、四ケ年をへて文明第六 三月廿八日酉剋に、南大門火出て北大門にうつりて、御Ⅴ-0755坊燒失しけり。其後則又建立ありて、文明七年まで五ケ年居住しましましき。然賀州錯亂ゆへ、當寺を守護富樫介以下可發向由沙汰、二、三年侍りき。是倂安藝造意の儀也。多屋衆さゝへんとて、造意條々これあり。其後大津御上なりけり。 應仁二年四月廿二日夜夢想に曰、 「このごろの信心がほの行者たち、あらあさましや、眞宗の法をえたるしるしには學生沙汰のえせ法文、わが身のほかは信心のくらゐをしりたるものなしとおもふこゝろは、、憍慢のすがたにてはなきかとよ。そのこゝろむきはよきとおもふ安心か。これよく經釋をしりたるふたつの勘文かや。 たとへば俗人二人ありけるが、その姿はきはめていやしげなりけるが、その一人の俗に對してこの文を二、三返ばかり誦しければ、かの俗人この文のこゝろをうちきゝていふやう、あさましや、さては年比我等がこゝろえつるをもむきはあしかりけりとおもふ也と云はんべると覺て夢さめをはりぬ」(御文章*集成五)とあそばした、[本文別にあり]取意。 一 越前國坂北郡細呂宜郷内吉崎の坊は、文明三年七月廿七日一宇建立、これ又蓮【(如)】―上人御建立也。文明五年の秋は、賀州錯亂により越前北庄へ御越、其後各被申により吉崎へ雖御下向、又御上洛、若州より河内出口御坊へ。 一 文明九年十二月二日御作文の時、一念歸命の信心決定の心を、 ひとたびもの 入正定聚の益、必至滅度のこゝろを、 Ⅴ-0756つみふかく 慶喜金剛の信心のうへには、知恩報德のこゝろを、 のりをきく (空白) 文明七年W乙未R八月下旬に、尊老法印六十一歲にして、越前吉崎の弊坊より求便船招順風、若狹州の小濱に著て丹波に越、それより又攝津國に越て、河内國の茨田郡中振郷山本之内出口村草坊の侍りしに渡御あり。兔角月日を送らせ給て、爰にもその宿縁あさからざりければ、又三ケ年の月日をぞ送せ給ひける、さるはある時の御歌に、 六十あまり をくりし年の つもりにや 彌陀の御法に あふぞうれしき 明暮は 信心ひとつに なぐさみて 佛の恩を ふかくおもへば とぞ口ずさみ給ふ。 【三年也、これ歟吉十歲初春下旬比より〈イ〉】文明十一年正月廿九日、それより上洛ましまして、山城國宇治郡小野庄山科郷の内野村西中路といへる處にぞ御居住ありし。和泉の國に小坊の侍りしをこぼち取上、かりどのとして造。新造の所、廐以下、如形作とゝのへて春秋をも打すぎ給ふ、これ祖師上人の御恩德のふかき事を思食たまふに雨山の如し。これによりてその比の御詠作に云、 ふる年も 暮る月日の 今日までも いづれか祖師の 恩ならぬ身や とぞあそばされける。その年臘月の末に又御歌、 六十あまり 送むかふる 齡にて 春にやあはん 冬の夕暮 かくうち詠ぜさせ給ひつゝ、其年もくれぬ。 明くれば文明八年の正月朔日に、嚴君法印[六十二歲]と同年にながらへ給ふ事を、出口草坊にて、 たらちをと おなじ年まで いける身の Ⅴ-0757あけ【にし〈イ〉】ぬる春も 始なりけり つらねさせ給ふに、【六】今月十八日は正忌なれば、その日までの存命あらんこそ、同年の同月日まで命のながらへたるしるしとも思ふべきに、人間不定のならひなれば、十八日にあひなんと思ふまことにまよふ心なりとおもひ給て、又、 おやのとしと おなじくいきば 何かせん 月日をねがふ 身ぞをろかなる 六月二日のことなりき。[文明九年十二月廿八日に春にあはんことを思給て] いつまでと をくる月日の たちゆけば また春やへん 冬のゆふぐれ 玄康と同年事也。祖父の年御歌あり。可入歟如何。 あくれば文明十二年三月比より、普請・造作に取向て、新造に寢殿を造り、年中は作事の經營、如形ぞ周備す。數奇の路なればとて、庭【を作り】の立石なんどをあまたすゑさせ給ひける。かくて九月十三夜もちかづき、十二夜のことなるに、月いと東の小野山の邊の影さやかなれば、かくぞ口ずさみ給ふ。 小野山や おほやけつゞく 山科の 光くまなき 庭の月影 然ば尊老法印、六十有餘のゆへにや、年中普請・造作に諸人苦勞をいたみ思食ゆへもありけるにや、晝はひめもすに御隙なく御苦勞共ましませしか共、夜もよもすがらいね入給ふ事もなし。もと老眼はねぶりのはやくさむるならひを思食けるにや、かの『朗詠』(意)の詩にいはく、 老眼早覺常殘夜 病力先衰不待年[と云] Ⅴ-0758この詩を御口ずさみ玉ひしもことはりなり。 かくて文明十二年正月に、御影堂御建立あるべきために、先三帖敷の小御堂をかり殿にぞ立給ける。旣舊年より河内國門人、和州吉野材木等少々調進す。さて二月三日より御影堂建立のこと始ありけり。それより連日作事番匠もひまなく、諸國門人の志を以、法力の不思議なれば、ほどなく三月廿八日には、棟上の儀式をぞ侍ける。番匠以下の好粧嚴重なり。又かりぶきの條、同八月四日よりもよほして十月十四日にはひはだ葺しても出來せ【過にし】り。八月廿八日には、先繪像の御影をかり佛檀にこしらへてうつしたてまつらる。則その夜は、尊老法印も御堂に通夜せさせ給ひける。其夜事、尊老の御詞云、「誠よろこびは身上にあまれり、祝著千萬なり。されば予が年來京・田舍とへめぐりしうちにも心中に思樣は、哀存命の間にをひて此御影堂建立成就して、心やすく安養の往生をとげばやと念願せし事の今夜に成就せりと、うれしくもたふとくも思奉る間、其夜の曉方までは終に目もあはざりき」(御文章集成*一一九意)とぞ遊しをかれける。尤殊勝に今以感淚肝に銘ずる事也。其後將軍家慈照院贈政國御臺妙善院殿A從一位富子B常德院贈政國母儀C御成ありて、御影堂御覽ぜられき。此條則尊老の御詞にも前代未聞なり、かれこれ不思議たる事とぞあそばされける。其後造作以下調しかば、霜月十八日には夜に入て、大津に御座ありける根本の御影像をぞうつしたてまつられける。此事大津三井寺の大衆等、申結る事侍りき。其故は大津に御影像御座しかば、地下・寺中等繁昌する事なるを、今又山科へうつし申さるべき事、無其謂としきりに大衆一同にいきどほりけり。しかれども山科も以て不遠同前の事成なんと、種々申噯て、夜に入て根本御影像をば被出申ける事也。其後山科へ被移申てより以來、諸國門人、彌一同渴仰の心古にまされり。各懇志をはこばずと云ことなかりき。然Ⅴ-0759ば其年の霜月より始て、於山科本願寺の御影堂、報恩講被行ましまして、一七日勤行無退轉事ぞかし。尊老御滿足有。此時き其時の御詞云、「つらつら當寺監觴の由來を案ずるに、予身上にをひて本懷滿足何事かこれにしかんや、隨て諸國門葉のともがらも、おなじく法喜禪悅の思ひを含まざらんや。然間今月廿八日は祖師聖人の御正忌として、不謂每年不謂親疎、道俗男女門下の類ひ、此御正忌を本と存ずる事、于今無退轉、依之當流に懸其名、一度彌陀如來の他力の信心を獲得せしめん行者は、今月報恩講の御正忌にをひて、懸其志ざらん輩は、誠以木石の類ひたるべきもの歟。然間彼聖人の御恩德の深事、迷慮八萬の【戴】いたゞき、蒼瞑三千の底にもこえすぎたり、不可有報、不可有謝もの歟」(御文章集成*一二三意)と仰られたり。尤以ありがたき事なりかし。然而御影堂成就たりといへども、御存命の内に阿彌陀堂の一宇なくては如何と思食けり。然ば其詞云、「抑當寺の事は、忝くも龜山院・伏見院兩 御代より 敕願所の宣を蒙て、不異于他在所なり、然間本堂とて無其形所詮なし、此故に頻に建立の志深く所催なり」とぞ被遊ける。 依之文明十三年正月中より、阿彌陀堂造榮の儀を催され、同二月四日より事始させ給て、則四月廿八日には棟上をくはだて、大工・番匠等の祝言事畢ぬ。仍作事周備の上、六月八日には先假佛檀にして本尊をすへたてまつられけり。尊老滿足彌事足ぬ。さるほどに前住存【(如)】―上人廿五年忌に當る條、卽一七日念佛勤行はじめ給ひけり。同十一日の夜より取行はれ給ひけり。遠國・近州門徒中面々に步をはこび、至志群集せるこⅤ-0760とかぎりなかりけり。誠當此年忌、阿彌陀堂建立造畢せること不思議なりし事共也。然者御詞云、「佛法の威力、一身の宿縁のいたり不可思議也。是倂ら寔以佛願難思の強縁、希有最勝の直道にまうあへる德也」(御文章集*成一二三)とぞ被仰ける。又文明十四年W壬寅R正月十七日より、大門を建らるべき用意ありて、同廿八日には柱立して程なく出來せり。それよりして四壁地形をなをし、四方の水門順流の用意等も、普請ありて悉成就せり。其後南北堀をほらせ、惡水等をながされけり。其後は造畢周備の上へ、少々作事をばとゞめられ、各も普請以下辛勞の所をぞやすめられける。 享祿四年八月廿四日の亂にことごとく燒失て、いまに野原となる。 一 大津・山科人々體たらく、文詞可書入事あり。 又山科の郷内に音羽と云在所あり。古人の舊跡なども侍りし名所也しに、ある縁ありて、一宇の草坊建立ありて、北隣坊を院主とせらるべき由の尊老法印御内證たりき。然ども又北隣坊兼祐は、本泉寺兼鎭僧都の依誘引て北國に下向し、賀州の山内池城と云所卜居侍しかば、彼音羽の草坊は重て無造榮、只自然の休息の所の樣にてぞ侍りき。然るに此所に夏炎干の砌、水のなき事を尊老思食、井をほらせ、淸水をもてあそばまほしくぞ思食ける。仍あたりに河原者の井の水など堀出す者の侍りしを召寄、彼音羽の坊の庭中に井をほるべき由をの給ける。彼者ども則兩三日ばかり井をほる。はや程なく三丈を及てぞほりけれども、水は且てなかりけり。猶をも深くほるべきの由の給ひてほらせらる。河原者共申、此所は水のすぢもたがい侍ける。三丈餘に及てほりたるに、水の出べき濕なしとぞ申ける、かゝる所に音羽の里の長男とおぼしき俗人二、三人出で申けるは、此所は昔より水なし、川水を以て用水として、又は餘の里へゆきなんどして淸水をば求也、Ⅴ-0761ほらせ給ふとも水は出ぬ所也、水出べからずとぞ申ける。其の謂れは、上古に行基菩薩、六十餘州を敕によりて道を作られけるときに、山々里々の路を作り、諸庄園を分られて侍り時、此所の路を被作しに、行基菩薩、里の女に水を乞呑べき由ありしに、水は無と云て此女出さなりしかば、人の心の慳貪なる所なり、此所の水をば幸淸水の觀音の所望なりければ、觀音へまいらすべしとて、此川水川中より下へ入て流なし、梻の木にかへ給ふと申傳て、此在所には樒はあれ共水はなし、川水の流なし、まして淸水は候はず、然ば昔より此所の習にて、井のもとは堀とも水の出ぬ所にて候、御ほらせ候ども水出べからずと、里の長男共出で、慶聞坊にぞ申けるを、則尊老上人へ申されければ、それは此の在所の者慳貪にして左も侍りけん、われは行基菩薩とも中惡かるべき事なし、たゞ堀べし、水も出べしとぞ、疊一でう井のきわにしかせ、御座ありて御杖にていそぎほるべしとぞ仰ける時に、慶聞坊龍玄御前にありて、仰なれ共いかゞあるべきぞと申わづらひ心をあつかふ所に、在所の者どもは偏執の輩なれば、上人はいたか人なり、行基菩薩は名匠・古人也、言傳る處のことばゝ不可違とて、各里人も群集しける。龍玄はいかゞとかなしみけるとぞ申されける處、やゝしばらくして池ほりともはや水出るよしをぞ云ける。不思議の思ありけるに、又しばらくして水出ければ、そのまゝ池ほり共もあがりける。水しきり出ければ、さればとぞ仰けるに、在所の人々も奇特の思をなし、それよりして音羽の在所も大略御門弟とぞ成にける。不思議なりし、いよいよ尊老法印は權者にてましましけり、Ⅴ-0762行基菩薩と御中もあしからざりし事にてぞましましけるとは、こゝにてしられける事なり。これは慶聞坊龍玄、其時御供にまいり知たる事、慥物語ありし書付侍る事也。水はいかなる干ばちにもひず、水いまに出る所也、淸淨なる冷水なり。 明應の始つかた、不思議なりし事の侍りしは、和泉國とつとりと所に、桑畠の志記大夫といふ男の五十餘歲のものありしが、成仁の子に離れて、歎の餘に同國の【古歟】小河の觀音に參て、我子の後世をもいのり、我來生をなげきふかく祈申處に、示現あらたにして觀音の仰をかうぶる。なんぢ後生の一大事と思て我に祈る間、誠殊勝の事也、然ば紀伊の國南郷の權の守と云者あり、かれに近づきかの所にして、後生の次第をば尋ぬべしとぞ示現あらたに蒙りける。然間示現に任せて、伴の權守と云者の所に行て相尋るに、權守申しけるは、われらは委く佛法の旨をしらず、所詮同國海生寺の了眞と云人あり、彼人に尋ね申さるべしとて、了眞の引付ければ、了眞の云く、何のやうもなくたゞ彌陀をふかくたのみ申さるべき旨、委くかたりきかせられけるは、其れ觀音は彌陀脇士、彌陀の慈悲をつかさどれり、慈悲則觀世音菩薩也、觀音の引導により彌陀の誓願に歸せん事、こと更にありがたし、往生さうに非疑とて、一向に彌陀に歸して西方淨土に生ぜん旨、懇にかたり給しかば、忽に信心決定して念佛申べしと覺悟して、剩其在所の人々をもすゝめ入て、たふとみけること不思議也。かくて明應七年の閏十月十九日に、大坂の御坊【尼一人・女三人・男四人】男女老少參詣せしめ給事、倂尊老上人の廣德不思議なりしこと共なり。 永正二年の春の比、加賀國石川郡はりの木かくちと云所に入道の侍りしが、志ふかくして道場を年來持たりを、麤相なるもいかゞと思、作なをして、尊老上人御筆の六字の名號を案置して、朝暮信仰申して懸奉しを、Ⅴ-0763佛檀をも能してかけんと思志あり。柱立をして侍る夜の夢に、尊老上人を見奉りける。その夢想に云、此道場を作直ん思ふ志神妙也、然ば内の作事如此すべしとをしへさせ給ふと覺て夢覺了。然ば不思議に思て、如夢告作事を仕て周備す。其後無程して、有夜燈明まいらせんと思ひて佛前に參りけるに、光明かく赫たり。不思議に思て佛前の戸を開みるに、光明はきえたりけるが、光は名號に少のこりたるやうなるに、夜明て後、昨夜・今朝の光は奇特とぞ申て見ければ、名號に光ぞ立て其まゝ付たり。其後二、三日ありてみれば、阿彌陀佛の左の方に座像の本尊、明らかに出くる光が阿彌陀佛の四字をさしとほして、名號の右の方へ指出る。則名號の光のごとし。又南の字には別の光如常たてり。无の一字に光なし。それも又同年秋の比は、无の字にも光は出きにけり。其以後本泉寺へ送、彼寺にて彌光の色をましける。明る年、實【(如)】―上人へぞ送たてまつられける。 大永七年十二月廿五日夜、能登國鳳生郡に釶打村之内多羅村と云所、一の道場の主たる入道侍りき。道慶と云ものあり。是も志ふかき事限なし。亂後なりしかば、常住の屋半かこひ道場とす。或時の夢に、是も又老上人を見奉。大永七年十二月廿五日夜の夢に、此屋へ光臨かたじけなしと申處、事の外にけむしとぞ被仰。尤さこそ御座候覽。柴・薪を常にたく山中爲屋なれば仰尤と思て、本尊以下卷奉にをきたるに、其夜火事出來て、屋悉く燒也。折節入道は隣屋へ行て侍しかば、まき奉本尊・名號取出さんとするも不成して、悉燒たりけり。入道歎かなしむ所に、燒はてゝに跡を見、箱にⅤ-0764入たる本尊・名號やけずして殘、其内に大福の名號一ぷく別に置たるが、ことごとくやけにけり。かなしみてその灰計を取て、箱に入置たりしに、其夜悉小佛となる。かねは唐金のごとし、五百餘になる。大なるは廿體ばかり也。たかさ七、八分九分ばかりなるも侍り。其外は二分三分一分計なるもあり。皆御頭の形あり。悉前後の形座侍り。不思議の事なり。于今所々へ安置すといへども、いまに小佛悉まします也。 一 蓮【(如)】―【永正十年ばかりの事也】上人あそばしたりし四切の名號を、或人安置して、家は火事は燒たりし間、名號をみれば火に成たりしをとれば、二所大に燒て侍りしを、火をば消してとりてをきて、五寸ばかりほど兩所やけしを、持主なげき朝夕かけ置てはんべりし。有夜の夢に、此名號燒たり兩所がいへあひてみる間、不思議に思て夜あけて見れば、まことにいへあひてけり。あまりの奇特に、此名號の事物語ければ、本泉寺の蓮悟さらばとて召寄みるに、愈あひたる所は紙もかはり、少にかみたるやうにてぞ侍る。されど少大豆ばかりほど末愈あはずして、穴ありて殘りける。そのまゝ蓮悟所持之侍りけり。 一 【年號】  六十九才九月盡の比、仰の御ことばにいはく、「春夏の間は人の心もよろづにまぎれて、情もをさまらざるほどに、秋冬【は】の夜もなが【き】く時分なれば、佛法の物語不審なんどあらん人々に於ては、法儀をも讚嘆し、一はしいひきかせ、又尋ねん事も答へんとおもふ志のあるによりて、御座をもかへられて侍しなり」(御文章集成*一三一意)と仰事あり。御詞に別有之。 一 蓮【(如)】―上人御往生の後、大坂御坊ある女【姓】房の夢に、御坊中に南無阿彌陀佛の名號をかけらるゝ事充滿して、幾千萬ともなく侍るとみる。夜明て、是蓮能禪尼へかたり申さるゝ時、禪尼の仰けるは、此夢げにもと知れたり、蓮【(如)】―上人の御物語ありしは、自餘の坊は惣門徒の志にて作らるゝ也、此大坂の坊は蓮【(如)】―名號を人の申Ⅴ-0765さる人の御禮のつもりしを以て、御建立の御坊也、然ば今の夢尤ことはり也とぞ仰ける。蓮【(如)】―上人、常に此子細御物語ありしを、夢に付て蓮能禪尼の御物がたりありしと也。 一 蓮【(如)】―上人、大坂より山科への御かよひ路、常に御座ありし處あり。河内國榎竝の内に今養寺と云所に、大河の淵と云大蛇の住淵あり。その上へ五、六尺もなびきたる大きなる柳木ありつるに、常に上人御遊山あり。そのあたりに宗玄と云法師あり。御意に相叶たる仁にて、此宿へつねに御座ありける。何時も御機嫌あしき時は、御前へまいれば御機嫌も直たる仁也。或時宗玄御供申、かの大河へ御出の時、晩に何とも不見物の大に四間ばかりに、黑物の彼淵よりもうかみ出たりしは驚ばかりにありしを、上人御覽じて、あら不便やと仰ありしが、御目にはいかゞ御覽ありしやらん、宗玄は體もなく大に黑き物と見たりけるが、しばらくありて又水にいり侍しと、宗玄語侍りし也。これ蛇體歟との申事なりとぞ語ける。 又或時蓮【(如)】―上人、俄に宗玄許へ御出の時、一夜御逗留ありしに、明日何ものを歟御膳にそなへたてまつらんと思ひわづらひ、何とかせんと、むさと宗玄かの淵の邊に出たるに、かの柳木に大なる鯉魚を川藻にてくゝりさげて置侍り。これ奇代の不思議なり。彼淵は深くして、人間は廿間四方ほどは人も淵に不入處なるに、この鯉魚をしかも河藻にてくゝりをけるも不思議なり。これすなはち彼淵の大蛇のわざなりとぞ、各申あへりける。宗玄やがて取て御膳にそなへけるなり。不思議なりし事也。[宗玄子孫いまにあり、瑞專寺と云なり。] Ⅴ-0766一 弘治の比、河内國玉くし里に、同上人御筆の名號侍り。いやしきものゝ栖なれば、屋もをろそかにまばらなるに、此名號時々に光明あり。屋のひまより外へ光さして、樗木の侍る梢までさしたり。一人二人の見事にあらず、諸人これら拜見したりし事也。 一 越中【五ケ山内】赤尾村に、道宗といへる入道あり。若く侍りし時は彌七郎とぞ云ける。若き時より佛法に心をかけて、年久本願寺御坊へ參詣す。我屋をば栖ともせずして、霜月の始よりのぼりては十二月まであり。又年ごもりして年明ぬれば、二、三月に下て、我屋には一日二日ありて、又賀州へ越て同行中にあるき寺々へこえて、又それよりは一夏の間の聽聞せんとては上洛し夏中あり。常に年に二度三度のぼりければ、しかしかと我國のやどには有事もなかりけり。常に上洛すれば、尊【蓮如―】老上人の御前にまいりて、安心のやうを常々申上て侍りけり。志し眞なることを常に感じおぼしめしけるに、上人に常隨しちかづきたてまつりて、長享の比なりけるに、道宗月日もたしかに語りしかば、おぼえにけれと忘にけり。六、七月の仲旬比、月さやかなるに、道宗のぼりて參けり。やがて御前へまいるべしとて召けるに、南殿御亭の奧のとおりの南の縁にまいり、月明けれども火もともされて侍りしかば、道宗は縁に月の光さす所にありける。尊老上人は内にくらくし座しけるに、まいりたる由、下間駿河A于今B五郎左衞門尉C被申入ければ、あつき折節よくぞ上洛したると被仰て、御うれしげに御詞ども被加しかば、座ける座敷かゞやきて、月の光内に入ける歟と道宗みければ、上人の御身より光をはなし給けるなり。やゝしばしありて光きえけり。光ありつるほど不思議に思ひて、御相好をおがみけると、道宗常々たしかにかたりけり。不思議なりし事也。 Ⅴ-0767御建立寺々事 次第不同 一 大和國芳野郡官上府郷内飯貝村に一寺御建立あり。これ寛正年中、此所御覽ありし所也。其後に蓮【(如)】―上人八十一歲の年、明應第四秋御建立也。但其後此寺へ御下向もなかりき。同五年に本尊繪像開山上人の御影等送下されし。然此所の開山者蓮【(如)】―上人、寺號本光寺と付給き。又改本善寺と號せられき。 一 同國同郡内五領郷内秋野河里下市の願行寺も、同年明應第四春御建立、是無御下向所也。雖然蓮【(如)】―上人御開山の寺也。其後坊地もあまり高き所なるによりて、蓮能禪尼の仰により引さげて、寺を立なをされき所也。蓮能禪尼重て建立しまします所也。 一 攝津國東成郡生玉庄内大坂御坊は、明應第五秋九月廿四日に御覽始られて、虎狼のすみか也。家の一もなく、畠ばかりなりし所也。同廿八日くわ始らるべき御覺悟なれど、日がらあしければ、世間の人の外聞を思食て、廿九日にくわ始也。同廿九日番匠も初て、十月八日草坊も立けり。其年報恩講十月に三ケ日あり。よりして蓮【(如)】―上人御建立、三ケ年間上人御居住、明應七霜月に御上洛、明年三月御往生也。仍實【(如)】―上人可爲御隱所之由、御再興後被仰定畢。又近年は本願寺に而當御住持御居住也。[證如御事也] 御建立の「御文」(四帖*一五)にも、「この在所に居住せしむる根元は、あながちに一生涯を心安くすごし、榮花榮耀をこのみ、又花鳥風月にも心をよせず、あはれ無上菩提のためには信心決の行者も繁昌せしめ、念佛をも申さんともがらも出來せしむるやうにもあれかしと、思一念の志をはこぶ計也」とのたまへり。 Ⅴ-0768一 近松は江州志賀郡大津三井寺の麓、南別所近松の里也。文明何比やらんの建立也。一度は本願寺と被號し所也。願成就院光助居住也。其後山科へうつり給ける也。しばし光助法印の居所として侍りし。法印圓寂の後は、又兼譽法印居住せられける。其後享祿四年の錯亂の八月廿四日、野村の御坊も燒失したりしに、近松顯證寺も炎上して、いまに虎らうのすみかとなれり。 一 あまふの安藝の法眼蓮崇と云は、古越前國の人也。和田の本覺寺にちかづきて、御一流聽聞せし也。元は心源と云歟可尋。於吉崎御坊則御内へまいり、尊老の御意に相かなひしかば、則その名を安藝と申しける。又御字を給て改本名て、蓮崇とぞ申ける。晩學初心たりといへども、執學人に勝れしかば、常隨昵近たりし。後あまりに立身の心につのり名聞ふかくして、賀州一國をかたぶけ、惡心になりて法敵となる。又後成敗にをよび、一類ほろび、一身越前國にかゞみ居し侍りき。 一 越中國五ケ山の内赤尾の淨德いふ者、をいに彌七郎と云へるもの侍り。廿餘歲の比、延德の比より每年上洛して山科御坊へ參り、聽聞して無二に法儀に心を懸け侍りしが、出家して道宗といへる、奇特の信心の行者にてぞ侍りし。 一 越中國利波郡斐せみ郷内井波村瑞泉寺は、綽如上人御建立、昔最初には山の上に立、後に今の地也。 後小松【嘉慶元敕定により明德の比建】院 敕願寺也。北陸道七ケ國武士に被仰付、武家鹿苑院太相國W義滿公R請敕定、武士の方譜辛せしめける被仰付事、子細有多重、【永歟】明德元年建立、開山者綽【如】―上人也。 一 二又村坊A賀州B河北郡C者如乘建立、【猶まへ也】W文明元歟R年中也。號本泉寺と者、瑞泉を以て爲本號也、仍如乘・蓮乘者瑞泉寺・本泉寺兼帶也。蓮悟之代には萬瑞泉寺をば被加下知、作事等爲計有之。 Ⅴ-0769一 同國若松本泉寺者、長享元年蓮悟開碁、彼等は二又村在所あしきにより、谷新保と云所へ蓮乘の被引、又平尾と云所に引、蓮乘の十ケ年ばかり居住、其後若松に居する事は蓮悟也。平尾・谷新保は蓮乘建立也、但坊跡計也、今は坊は無之所也。只二又の坊は本泉寺也。これ海道ちかくて所あしきにより、引て若松に居住としるべし。若松本泉寺は、享祿四年の一亂七月晦日回祿し、いまに野原となる。二又は坊如形殘りけり。 賀州石川郡河内庄劍村之内上院W下院と云は下也R淸澤の坊は、本泉寺蓮悟開基也。永正五年秋八月比より、近所の輩申すゝむるにより建立して、永正十年五月朔日より實悟居住す。石川郡一圓に寄力として住す。其後河原寺・西縁寺、六ケ寺爲與力、米富寺・十人衆寺の兩寺をば、若松本泉寺へ付て侍りし也。淸澤の坊は享祿の亂に四年七月廿三日炎上す。いまは野となる所也。この淸澤と云名は白山權現の付給ける名也といへり。白山權現と云はいざなみの尊也。大唐にしては--國の王たり、日本へ移り佛法守護のため、石動權現と夫婦として石動へうつり給て、後に白山へうつり給時、御手水を乞給とき、此劍村の上院の水をまいらし、世にあつぱれ淸きさはかなと被仰しより、此所を淸澤と云也と云傳たる所也。後ろの谷光明谷と云。其時光明ありし元源あり。依之光明山と山號と名付之所也。