Ⅴ-0699蓮如上人一語記 (一) 一 蓮如上人仰られ候。本尊は掛やぶれ、聖敎は讀破れと、對句に仰られ候。 (二) 一 他流には、名號よりは木像と云なり。當流には、木像よりは繪像、繪像よりは名號と云なり。 (三) 一 御本寺北殿にて法敬坊に對し蓮如上人仰られ候。われは何事をも當機をかゞみておぼしめし、十あるものを一にするやうに、かろがろとして理を叶やうに御沙汰候。これを人がかんがへぬと仰られ候。「御文」等をも近年は御詞すくなにあそばされ候。今は物を聞うちにも退屈し、物をきゝおとす間、肝要の事をやがて知るやうにあそばされ候のよし仰られ候由候。 (四) 一 蓮如上人御言に、兼縁と云人、あまた小名號を申し入しとき、信心をやるぞやるぞと仰られ候。信心の體名號にて候。仰今思ひ合候由領解仕り、歡喜の泪をながすと[云云]。 (五) 一 蓮如上人仰に、堺の日向屋は卅萬貫持たれども、死たるが佛にはなり候まじ。大和の了妙は帷一をもきかね候へども、此度佛になるよと仰られ候。 (六) 一 蓮如上人へ久寶寺の法性申され候。一念に後生御Ⅴ-0700助候へと彌陀を賴奉るばかりにて往生一定と存候。かやうにて御入候かと申され候へば、ある人わきより、それはいつも事にて候、別の不審なることなど候はでと申され候へば、蓮如上人仰られ候。それぞとよ、わろきとは。めづらしきことをきゝたく思ひ知り度く思也。信の上にてはいくたびも心中の趣、かやうに申さるべきよし仰られ候。 (七) 一 蓮如上人仰られ候。一向に不信のよし申候人はよく候。ことばにて安心のとほり申候て、口は同じことにて、まぎれてむなしくなるべきことを悲く思召候由を仰られ候。 (八) 一 聖人の御流は阿彌陀如來の御流也。されば「御文」(四帖*九)には「阿彌陀如來の仰られける」と[云々]。 (九) 一 蓮如上人、あるとき順誓と法敬に對せられ仰られ候。今此彌陀をたのめと云ことを御敎候人しりがたきと仰られ候。順誓、存ぜぬと申され候。今御をしへ候一人を云べし。鍛治・番匠なども物をおしふるに物出すものなり。一大事のことなり。何ぞ物をまひらせよ。いふべきと仰られ候そのとき、順誓、中々なになりとも進上いたすべきと申され候。蓮如上人仰られ、此ことを御をしへ候人は阿彌陀如來にて候。阿彌陀如來の我を賴めとの御をしへにて候由仰られ候。 (一〇) 一 法敬坊、上人へ申され候。あそばされ候御名號燒申候が、六體の佛になり玉ひ申候。不思議なる御事と申され候。前々住上人、其ときおほせられ候。それは不思議にてもなし。佛の佛に御なり候は不思議にてもなく候。惡人凡夫の彌陀を賴む一念にて佛になるこそⅤ-0701不思議よと仰られ候よしに候。 (一一) 一 朝夕、如來・聖人の御用にて候間、冥加のかたを深く可存由、前々住上人被仰候よしに候。 (一二) 一 前々住上人仰られ候。「噬とはしるとも、呑とはしらすな」と云事があるぞ。妻子を帶し魚鳥を服し、罪障の身也と云て、さのみ思のまゝには有間數と[云々]。 (一三) 一 佛法には无我と仰られ候。我と思ふことはいさゝかあるまじきことなり。我はわろしと思人なし。これ聖人の御罰なりと御詞候。他力の御進にて候。ゆめゆめ我と云ことはあるまじく候。无我と云こと、前々住上人も度々仰られ候。 (一四) 一 「日比しるところを善知識にあひてとへば得分ある也」(淨土見*聞集意)。しれることを問へば得分あるといへるが殊勝のことばなりと、蓮如上人仰られ候。しらざるところを問ばいかほど殊勝なることあるべきぞと、仰ごとにてさふらふ由しに候。 (一五) 一 聽聞を申も大略我が爲とは不思、やゝもすれば法門の一つをもきゝ覺へ、人にうり心あるぞとの仰事にて候。 (一六) 一 一心に賴奉る機は、如來のよくしろしめす也。彌陀のたゞしろしめすやうに心中を持べし。冥慮を恐しく存べきことにて候との義に候。 Ⅴ-0702(一七) 一 前住上人仰られ候。前々住上人より御相續の義は別儀なき也。唯彌陀賴む一念の義より外、別義なく候。これよりほか御存なく候。いかやうの御誓言もあるべしと也。 (一八) 一 同く仰られ候。凡夫往生は、唯賴む一念にて佛にならぬ事あらば、いかなる御誓言も仰らるべし。證據は南无阿彌陀佛也。十方の諸佛の證人で候。 (一九) 一 蓮如上人仰られ候。物をいへいへと仰られ候。物を申さぬ者はをそろしきと仰られ候。信不信ともに、たゞ物をいへと仰られ候。物を申せば心底もきこへ、又人にもなをさるゝなり。唯物を申せと仰られ候由し候。 (二〇) 一 人のこゝろゑのとをり申されけるに、わが心はたゞかごに水をいれ候やうに、佛法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候が、やがてもとの心の中にまかりなり候と申さるゝ所に、前々住上人仰られ候。そのかごを水につけよ、我が身を法にまかせ是をしんごんすれば、うれしゐ心根が身の内心のそこにたゑぬによつて、忘るゝ心も常にありがたい御ことを持つなりと[云々]。 (二一) 一 萬事信なきによりわろきなり。善知識のわろきと仰らるゝは、信のなきことをくせ事と仰られ候事に候。 (二二) 一 聖敎を拜見申も、うかうかとおがみ申はその詮なし。蓮如上人は、たゞたゞ聖敎をばくれくれと仰られ候。又「百反もこれをみれば義理をのづからうる」と申Ⅴ-0703事もあれば、こゝろをとゞむべき也。聖敎は句面のごとくこゝろうべし。そのうへに師傳口業はあるなり。まわして私にして會釋することしかるべからざるなりと[云云]。 (二三) 一 前々住上人仰られ候。他力信心他力信心とみれば、あやまりなきよし仰られ候。 (二四) 一 我ばかりと思ふは、獨覺心なること、あさましきこと也。信あらば佛の御慈悲をうけとり申うへは、わればかりと思ことはあるまじく候。觸光柔輭の願あり候ときは、心もやわらぐべき事也。されば縁覺のさとりなるゆへに、佛にならざる也。 (二五) 一 一句一言も申ものは、我れと思て物を申也。信の上はわれはわろしと思ひ、又報謝と思ひ、ありがたさのあまりを人にも申すことなるべし。 (二六) 一 信もなくて、人に信をとれよとれよと申は、我が物もゝたずして人に物をとらすべきと云こゝろなり。人、承引あるべからずと、前住上人順誓申されしとて仰られ候儀、「自信敎人信」(禮讚)と候ときは、まづ我信心を決定して、人にも敎へ申しなば佛恩になるとのことに候。自身の安心決定して人にも敎へば、則「大悲傳普化」(禮讚)の道理なる由し、同く仰られ候。 (二七) 一 蓮如上人仰られ候。聖敎よみの聖敎よまずあり、Ⅴ-0704聖敎よまずの聖敎よみあり。一文字もしらねども、人に聖敎をよませ聽聞させて信をとるは、聖敎よまずの聖敎よみ也。聖敎をばよめども、よろこびもせず法義もなきは、聖敎よみの聖敎よまず也と仰られ候と[云云]。 「自信敎人信」(禮讚)の道理也と仰られ事に候。 (二八) 一 聖敎よみの、佛法を申たてたることはなく候。尼入道のたぐひのたうとやありがたやと申され候をきゝては、人が信をとると、前々住上人仰られ候よしに候。何もしらねども、佛の加備力の故に尼入道などのよろこばるゝをきゝては、人、信をとる也。聖敎をよめども、名聞がさきに立て心に法義なき故に、人の信用なき也。 (二九) 一 蓮如上人仰られ候。當流には、總體、世間機わろし。佛法の上より何事もあひはたらくべきことなる由仰られ候と[云々]。 (三〇) 一 同仰られ候。世間にて時宜しかるべきよし吉人也と云とも、信なくは心をゝくべき也。便りにもならぬ也。假令片目はつぶれ腰をひき候やうなるものなりとも、信心あらん人をばたのもしく思べき也と仰られ候由に候。 (三一) 一 君を思は我を思也。善知識の仰に隨て信をとれば、極樂にまひるなり。 (三二) 一 久遠劫より久き佛は阿彌陀佛也。かりに果後の方便に依て誓願を儲玉ふ也。願力不思議のあらはれも南无阿彌陀佛、凡夫往生の證據も南无阿彌陀佛なり。 (三三) 一 前々住上人仰られ候。彌陀を賴める人は、南无阿Ⅴ-0705彌陀佛に身をばまるめたること也と仰られ候と[云云]。いよいよ冥加を存ずべき由候。 (三四) 一 【丹後とも】法眼蓮應、衣裝とゝのへられ、前々住上人の御前祗候ひしとき、仰られ候。衣のゑりを御たゝきありて、南无阿彌陀佛よと仰られ候。又前々住上人御疊をたゝかれ、南无阿彌陀佛にもたれたるよし仰られ候き。南无阿彌陀佛に身をばまるめると仰られ候とは符合申候。 (三五) 一 前々住上人仰られ候。佛法の上には每事に付てそらをそろしき事と存ずべく候。萬に付てあるまじき事と存じ候へのよし折々仰られ候と[云云]。 (三六) 一 同仰に、佛法には明日と申ことあるまじく候。佛法のことはいそげいそげと仰られ候。今日の日はあるまじきと思へとも仰られ候。なにごともかきいそぎ物を御さた候よしに候。ながたれたることを御きらひ候由候。佛法のうへにては、明日のことを今日するやうにいそぎたること、一段よき心得と[云々]。 (三七) 一 同仰に云、聖人の御影を申は大事のことなり。昔は御本尊より外は御座なきことなり。信なくは必ず御罰をかうぶるべき由し仰られ候。 (三八) 一 時節當來と云事、用心をもしその上に事の出來候を、時節當來とは云べし。無用心にして事の出來候を、時節當來と云はいはれぬこと也。聽聞を心懸てのうへの宿善・无宿善とも云事なり。たゞ信心きくにきはまⅤ-0706ることなるよし仰のよし候。 (三九) 一 前々住上人、法敬に對し仰られ候。まきたてと云もの知たるかと。法敬答[云云]。 (四〇) 一 何ともして人になをされ候やうに心中をもつべし。わが心中を同行の中へうち出してをくべし。下としたる人の云事を心用せず腹立する也。あさましきこと也。唯人にいはるゝやうに心中をもつべきのよしに候。 (四一) 一 ある人の、前々住上人へ申され候。一念の所は決定にて候。やゝもすれば、善知識の御事をおろかに存ずる心候由申され候へば、仰られ候。尤信のうへは仰宗の心あるべきなり。さりながら凡夫心にてはなきか、さやうの心中のおこらんときは勿體なき事と思ひすつべしと仰られ候と[云云]。 (四二) 一 蓮如上人、兼縁に對せられ仰られ候。たとひ木の皮をきるいろめなりとも、なわびそ。彌陀を賴む一念をよろこぶべきよし仰られ候。 (四三) 一 前々住上人仰られ候。上下老若にあらず、後生は由斷にて仕損ずべきよし仰られ候。 (四四) 一 同上人御口中をわづらはせれ候をりふし、あゝと御目をふさぎ玉ひ候。定めて御口中御煩とみなみな存候所に、やゝありて仰られ候。人の信のなきことを思召せば、身をきりさくやうにかなしきよと仰られ候由候。 (四五) 一 同仰云、われは人の機をかゞみて、人にしたがひて佛法を御きかせ候由仰られ候。なににも人のすくやⅤ-0707うのことなどを申させられ、うれしやと存候處に、又佛法のことを仰られ候也。色々御方便候て、人に法を御きかせ候ひつるよしに候。 (四六) 一 同仰られ候。人の佛法を信じてわれによろこばせんと思へり。それはわろし。信をとれば自身の德となる。去りながら信をとらば、恩にも御受あるべきと仰られ候。又きゝたくもなきことなりとも、まことに信をとるならば、きこしめすべき由仰られ候。 (四七) 一 同仰に、まことに一人なりとも、信をとるべきならば、身命を捨よ。それはすたらぬと仰られ候。 (四八) 一 あるときは仰られ候。御門徒の心得をなをすときこしめして、老の皺をいへいてと仰られ候。 (四九) 一 ある御門徒衆に御たづね候。そなたの坊主の心得のなをりたるをうれしく存ずるかと御尋ね候へば、申され候。まことに心得をなをされ、法義を心に懸られ候。一段ありがたく嬉敷存候よし申され候。其とき仰に、われはなをうれしく思よと仰られ候。 (五〇) 一 おかしき事、能をもさせられ、佛法に退屈仕り候者の心をもくつろげ、其氣をもうしなはして、又佛法を仰られ候。誠に善巧方便、有難き御事と[云云]。 (五一) 一 あしき者をも御たらし候て、其人の心に御隨ひ候て、これを佛法の縁にとり、御よりなされ候て、法をⅤ-0708きかせ玉ふなりと仰られ候と[云々]。 (五二) 一 天王寺土塔會、前々住上人御覽候て仰られ候。あれほどおほき人ども地獄へをつべしと、不便に思召つるよし仰られ候。又其中に御門徒の人は佛になるべしと仰られ候。これありがたき仰に候。 (五三) 一 前々住上人御法談已後、仰られ候。四、五人の御兄弟へ仰られ候。五人は五人ながら意巧に聞くもの也、能く能く談合すべき由仰候。 (五四) 一 たとひなきことなりとも、人申候はゞ、當座は領掌すべし。當座に詞を返れば、ふたゝび人とはいはざる也。人云事をばたゞふかく心用すべきなり。これに付てある人、相互にあしき事を申すべしと、契約候へし處に、則一人のあしざまなることを申ければ、われはさやうにあるまじきと存じ候つれども、人の申間かやうに候と申され候。返答あしきとの事候。さなきことなりとも、當座はさぞと申べきことなり。 (五五) 一 一宗の繁昌と申は、人多く集り、威の大きなることにてはなく候。一人なりとも、信を取が、一宗繁昌で候。しかれば「專修正行の繁昌は遣弟の念力」(報恩講*私記)等と[云云]。 (五六) 一 前々住上人仰られ候。心に入て申さんと思ふ人はあり、信をとらんずると思人なし。されば極樂はたのしむときゝて、まひらんとねがひのぞむひとは佛にならず、彌陀をたのむ人は佛になると仰られ候。有難次第也と[云云]。 (五七) 一 「御文」は如來の直說と存ずべきのよし候。形をみⅤ-0709れば法然、詞をきけば彌陀の直說と云へり。 (五八) 一 蓮如上人御病中に、慶聞坊に、なにぞ物をよめと仰られ候。「御文」をよみ申べきかと申され候。さらばよみ申せと仰られ、三通を二返づゝ六返よませられ候て、仰られ候は、わが作たるものなれども、殊勝なるよと仰られ候[云云]。 (五九) 一 順誓申されしと[云云]。常にはわがまへにてはいはずして、かげにて後言を云とて腹立する事也。我はさやうには存ぜず候。我まへにて申にくゝは、かげにてなりとも我わろきこと申されよ。きゝて心中をなをすべきよし申され候よし候。 (六〇) 一 前々住上人仰られ候。佛法のためと思召し候へば、なにたる御辛勞をも辛勞とは思召されぬよし仰られ候。御心まめにて、何事もみさいに御沙汰候よしに候。 (六一) 一 法にはあらめなるがわろし。世間には微細なるといへども、佛法にはみさいに心をもち、こまかにこゝろをはこぶべきよし仰られ候。 (六二) 一 とをきはちかき道理、近きは遠き道理也。「燈臺もとくらし」とて、佛法を不斷聽聞申身は、御用をあひ著て、いつもごとゝ思ひ、法義にをろそか也。遠々の人は、佛法をきゝたく大切にもとむる心ろあり。佛法は大切にもとむる心よりきくもの也。あさましき次Ⅴ-0710第也、おどろくべしと[云云]。 (六三) 一 ひとつことを聞て、いつも珍敷くはじめたるやうに、信のうへはあるべき也。たゞめづらしきことをきゝたく思也。一事をいくたび聽聞申すとも、珍敷始たる樣に可有也。 (六四) 一 道宗は、只一つ御詞をいつも聽聞申が、はじめたるやうにありがたきよし申され候。 (六五) 一 念佛申すも、人の名聞げにおもはれ候はんと思てたしなむが大義なる由、ある人申され候。常惑の心中にはかはり候事に候。 (六六) 一 同行同侶の目をはぢて冥慮をおそれず、たゞ冥見をおそろしく存ずべきこと候。 (六七) 一 たとひ正義たりとも、しげからん事をば停止すべきよし候。まして世間の義停止候はん事しかるべく候。いよいよ增長すべきは信心にて候よし候。 (六八) 一 蓮如上人仰云、佛法にはまひらせごゝろわろし。これをして御心に叶はんと思ふ心也。佛法のうへはなにごとも報謝と存ずべきこと也と候。 (六九) 一 人の身には眼・耳・鼻・舌・身・意の六賊ありて善心を奪。これは諸行のこと也。念佛はしからず。佛智の心をうるゆへに、貪嗔煩惱をば佛の方より刹那にけし玉ふ也。故「貪嗔煩惱中、能生淸淨願往生心」(散善義)と云へり。「正信偈」には「譬如日光覆雲」(行卷)等と云へり。 (七〇) 一 一句一言をも聽聞するにも、たゞ得手に法をきくⅤ-0711也。たゞよくきゝ、心中のとをり同行にあひ談合すべきこと也と[云々]。 (七一) 一 前々住上人仰られ候。神にも佛にも馴ば、手ですべきことを足でするぞと仰られ候。如來・上人・善知識にもなれ申ほど御心易く思也。なれ申ほどいよいよ渴仰の心をふかくはこぶべきことなるよし仰られ候よしと。 (七二) 一 口とはたらきとはにするもの也。こゝろねなりがたきもの也。涯分、こゝろのかたをたしなみ申べきことなりと[云云]。 (七三) 一 衣裝等にいたるまで、我物と思ひ沓たゝくること淺間敷こと也。悉く聖人の御用佛物にて候間、前々住上人はめしものなんど御足にあたり候へば、御いたゞき候由に候。 (七四) 一 王法をば額にあてよ、佛法を内心に深く蓄よとの仰候。仁義を云事も、端々にあるべきことなるよし候。 (七五) 一 蓮如上人御若年の比、御迷惑のことにて候ひし。たゞ御代にて佛法を仰たてられんと思召候御念力一にて御繁昌候。御一身御辛勞のゆへに候。 (七六) 一 御病中に蓮如上人仰られ候。御代に佛法を是非とも御再興あらんと思召御念力一にて、加樣に今皆々心易くあることは、此法師が冥加に叶に由てのこと也とⅤ-0712御自證と[云々]。 (七七) 一 前々住上人、昔はこぶくめをめされ候。白小袖とて御心易めされ候御事も御入なく候。いろいろ御かなしかりける御事ども、をりをり御物語候。いまいまの者はさやうの事を承り候て、冥加を存べきの由くれぐれ仰られ候由候。 (七八) 一 よろづ御迷惑候て、油をめされ候はんにも御自由ならず候間、やうやう京の黑木を少宛御たき、それにて聖敎など御覽候よし候。又少は月の光にても聖敎をあそばされ候。御足をも大概水にて御洗候。又二、三日も御膳まいり候はぬこと候よしうけたまわりおよび候。 (七九) 一 人をも甲斐甲斐しくめしつかはれ候はであるゆへ、幼童の襁褓をも御ひとり御洗ひ候などゝ仰られ候よし候。 (八〇) 一 存如上人召つかはれ候小者を、御雇候てめしつかはれ候由候。存如上人は人五人めしつかはれ候。蓮如上人御隱居のときも、人五人めしつかはれ候。當時は御用にて心のまゝなること、そらおそろしく、身もいたくかなしく存ずべき事にて候。 (八一) 一 前々住上人仰られ候。昔は佛前に祗候の人は、元は紙絹に輪をさゝれ著候。今は白小袖にて、結句きがへを所持候。已に其比は禁裏には御迷惑にて質をおかれて御用辨ぜられ候と、引言に御沙汰候。 (八二) 一 又仰られ候。御悲み候て、京にて古き綿を御とり候。御一人御ひろげ候事有。又御衣はかたの破れたるⅤ-0713をめされ候。白き御小袖は美濃絹のわろきを求め、やうやう一つめされ候由を仰られ候。當時はかやうのことをもしり候はで、あるべきやうにみなみな存候ほどに、冥加につき申べし。一大事との仰候。 (八三) 一 同行・善知識にはよくよくちかづくべし。「親近せざるは雜修の失也」と『禮讚』(意)にあらはせり。惡き者に近付ば、それには成らじと思へども、惡き事時々にあり。唯佛法者にはなれちかづくべきよし仰事候。「善人の敵とはなるとも、惡人を友とすることなかれ」と云事有。 (八四) 一 「きればいよいよかたく、仰げばいよいよたかし」(論語意)と云事あり。物をきりてみてかたきとしるなり。本願を信じて殊勝なるほども知る也。信心おこりぬれば、たうとくありがたく、悅びも增上する也と[云云]。 (八五) 一 凡夫の身にて後生をたすかることは、たゞ易きとばかり思へり。「難中之難」(大經*卷下)とあれば、輒くおこしがたき信なれども、佛智より易往に成就し玉ふこと也。「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず」(執持鈔)といへり。前住上人仰られ候。後生一大事と存ずる人には御恩あるべき由仰られ候と[云云]。 (八六) 一 「蓮華の上に坐せいでは、安堵の思ひあるべからず」(和語燈*卷五意)と黑谷上人の御詞候。水鳥も上はたのしき樣なれども、足をはたらかさゞることなし。信の上はいよいよ讚Ⅴ-0714嘆・談合をのづから由斷あるまじく候。讚嘆・談合を佛法の惠命仰られ候。 (八七) 一 佛說に信謗あるべきよしときをき玉へり。信ずる者ばかりにて謗る人なくは、說きおき玉ふこといかゞとも思べきに、はや謗ずるものある上は、信ぜんに於ては必往生決定との仰候。『歎異抄』に有。 (八八) 一 同行の前にてはよろこぶ也、これ名聞也。信の上は一人居てよろこぶ法也。 (八九) 一 佛法には世間のひまを闕てきくべし。世間のひまをあけて法をきくべきやうに思事、あさましきこと也。佛法には明日と云事はあるまじき由仰候。「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 佛の御名をきく人は ながく不退に叶なり」と、『和贊』(淨土*和讚)にあそばされ候。 (九〇) 一 法敬申され候と[云云]。人よりあひ、雜談ありしなかばに、ある人ふと座敷をたゝれ候。座の人いかにとゝひければ、一大事の急用ありとてたゝれけり。そののち、先日はいかにふと御立候やと問ければ、申されけるは、佛法の物語、約束申たる間、あるもあられずしてまかりたち候よし申され候。法義には加樣にこそ心をかけ候べきことなるよし申され候と申候。 (九一) 一 佛法をあるじとし、世間を客人とせよといへり。佛法の上より、世間の事は時にしたがひはたらくべきこと也と[云云]。 (九二) 一 前々住上人へ、南殿にて存覺御作分の聖敎ちと不審なる所の候しを、いかゞとて、兼縁、前々住上人へ御目に懸られ候へば、仰られ候。名人のせられ候ものⅤ-0715をばそのまゝにてをくこと也。これが明譽也と仰られしと[云云]。 (九三) 一 前々住上人へあるひと申され候。開山の御時のこと申され候。これはいかやうの子細にて候と申されければ、仰られ候。われもしらぬこと也。なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候やうに御沙汰候と仰られ候。 (九四) 一 總體、人にをとるまじきと思心あり。此心にて世間には物もし習なり。佛法には无我にて候うへは、人にまけて信をとるべき也。理をまげて情ををるこそ、佛の御慈悲なりと[云云]。 (九五) 一 一心とは、彌陀をたのめば如來の佛心と一になし玉ふがゆへに、一心也といへり。 (九六) 一 ある人申され候と[云云]。我は井の水をのむも、佛法の御用なれば、水の一口も、如來・聖人の御用と存候由申され候[云云]。 (九七) 一 蓮如上人御病中に仰られ候。御自身はなにごともおぼしめし立候ことの、なりゆくほどのことはあれども、ならぬと云ことなし。さりながら人の信なきことばかりをかなしく御なげき思召候由仰られ候由と。 (九八) 一 同仰に、なにごともおぼしめすまゝに御沙汰あり。Ⅴ-0716聖人の御流をも御再興候て、本堂・御影堂をもたてられ、御住持をも御相傳ありて、大坂殿を御建立ありて御隱居候。しかれば我は「功成名遂て身退は天の道なり」(老子)と云ことも、御身の上なるべきよし仰られ候と[云云]。 (九九) 一 御病中にたびたび仰られ候と[云云]。慶聞坊に仰られ候、「賊縛の比丘は王遊に草繫を脫、乞食の沙門は鵝珠を死後に生す」と云戒文をたびたび仰られ、滅後に不思議をあらはさるべきの仰に候。 (一〇〇) 一 敵の陳に火をとぼすを、火にてなきとは思はず。いかなる人なりとも、御ことばのとをりをよみ申、御詞をよみ申さば、信仰し、承るべきこと也と[云云]。 (一〇一) 一 蓮如上人、折々仰られ候。唯佛法の義をばよくよく人にとへ。物をば人に問ひ申せとの由仰られ候。誰に問申べきよしうかゞひ申ければ、佛法だにもあらば、上下をいはず問べし。佛法はしりそふもなきものがしるぞと仰候と[云云]。 (一〇二) 一 蓮如上人、无紋の物をきることを御嫌候。殊勝さうにみゆるとの仰候。又黑き衣を著し候を御きらひ候。墨のくろき衣をきて、御前へまひれば仰られ候。衣紋たゞしき殊勝の御僧の御出候と、仰られ候て、いやわれは殊勝にもなし、彌陀の本願殊勝なるよし仰られ候。 (一〇三) 一 大坂殿にて紋のある御小袖をめされ、御座の上に掛られてをかれ候よし候。 (一〇四) 一 御膳まひり候時には、御合掌ありて、如來・聖人の御用にて食ふよと仰られ候由候。 Ⅴ-0717(一〇五) 一 人はあがりあがりてをちばをしらぬなり。たゞつゝしみて不斷そらをそろしきことゝ、每事に付て心をもつべき由し仰候。 (一〇六) 一 往生は一人一人のしのぎなり。一人一人佛法を信じて後生をたすかることなり。餘所事のやうに思こと、且は我身をしらぬことなりと、圓如仰候き。 (一〇七) 一 大坂殿にて、ある人、前々住上人に申さられ候。今朝あかつきより老者にて候がまひられ候。神變なる事なる由し申され候へば、やがて仰られ候。信だにあれば辛勞とは思はぬ也。信の上は佛恩報謝と存、相働くは、苦勞とは思はぬ也と仰られしと[云々]。老者は田上の了宗なりと[云云]。 (一〇八) 一 南殿にて人々よりあひ候とき、仰にの玉はく、心中をなにかとあつかひもおもひ捨て、一心に彌陀をうたがひなく賴むばかりで、往生は佛のかたよりさだめましますぞ。其支證は南无阿彌陀佛よ。このうへは何事をあつかふべきぞと仰られ候由候。不審などを申にも、多き事を只一言にてはらりと不審もはれ申候しと[云云]。 (一〇九) 一 前々住上人、「をどろかすかひこそなけれ村雀 耳なれぬればなるこにぞいる」、此古歌を御ひきあり折々仰られ候。たゞ人は皆耳なれ雀也と仰られしと[云云]。 Ⅴ-0718(一一〇) 一 心中をあらためんとまでは思へども、信をとらんと思人なきなりとの仰候。 (一一一) 一 蓮如上人仰られ候。方便をわろしと云ことはあるまじき也。方便をもて眞實をあらはす廢立の義よくよくしるべし。彌陀・釋迦・善知識の善巧方便によりて、眞實の信をばうることなるよし仰候と[云云]。 (一一二) 一 「御文」はこれ凡夫往生の鏡也。しかるを「御文」のうへに法門あるべきやうに思人あり。大なるあやまり也と[云云]。 (一一三) 一 信の上にわれは信をゑずと申さへ、佛法の上にてはいつはりと候。ましてや不信の人の信ある氣色、大名聞也。ある人の云、他力の信をば佛智よりたまはりぬるうへは、卑下すべきことにもあらず。ましてやいはん、つのるべきことにもあらずといへりと[云云]。 (一一四) 一 信の上は佛恩の稱名退轉あるまじきこと也。あるひは心よりたうとく有難存るをば佛恩と思ひ、たゞ念佛申し候をば、それほどに思はざること、大なる誤なり。自ら念佛の申され候こそ、佛智の御もよおし、佛恩の稱名なれと仰ごと候。 (一一五) 一 蓮如上人仰られ候。信の上は、たうとく思て申念佛も、又ふと申念佛も佛恩に備る也。他宗には、親のため又何のためなんどゝ云て念佛をつかふ也。聖人の御流には彌陀を賴むが念佛也。その上の稱名は、なにともあれ佛恩になるもの也と仰られ候と[云々]。 (一一六) 一 ある人云く、前々住上人の御とき、南殿にて、あⅤ-0719る人、見迦に蜂を殺し候に、思ひよらず念佛申され候。そのときなにと思て念佛をば申たると仰られ候。たゞかわいやと存じふと申候と申されければ、仰られ候。信の上はなにともあれ、念佛申は報謝の義と存ずべし。みな佛恩になると仰られ候と[云云]。 (一一七) 一 南殿にて前々住上人、のれんを打あげられて御出候とて、南无阿彌陀佛南无阿彌陀佛と仰られ候て、法敬このこゝろしりたるかと仰られ候。なにとも存ぜず候と申され候へば、仰られ候。これをわれを御助候、御うれしやたうとやと申こゝろよと仰られ候と[云々]。 (一一八) 一 蓮如上人へ、ある人安心のとをり申され候A西國のB人と云也C。安心の一とほり申され候へば、申候ごとく心中候はゞ、それが肝要と仰られ候。 (一一九) 一 同仰に云、當時はことばで安心のとをり同じやうに申され候。しかれば信治定の人に紛れて、往生を仕損ずべきことをかなしく思召候由し候と[云云]。 (一二〇) 一 同仰に云、佛法をばさしよせていへいへと仰られ候。法敬に對し仰られ候。信心・安心といはゞ、愚癡のものはまたもしらぬ也。信心・安心などゝいへば、別のやうにも思也。たゞ凡夫の佛になることを思べし。たゞ後生助け玉へとみだをたのめと云べし。何なる愚癡の衆生なりとも、きゝて信をとるべし。當流には、これよりほかの法門はなきなりと仰られ候。『安心決定抄』(卷本)云、「淨土の法門は、第十八の願をよくよくⅤ-0720こゝろうる外にはなき也」といへり。然れば「御文」(五帖*一)には「一心一向に佛助玉へと申ん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、必ず彌陀如來はすくひましますべし。これすなはち第十八の念佛往生の誓願の意なり」といへり。 (一二一) 一 信をとらぬによりてわろきぞ。たゞ信をとれと仰られ候。善知識のわろきと仰らるゝは、信のなきことをわろきと仰らるゝ也。前々住上人、あるひとを、言語道斷わろきと仰られ候所に、その申され候。何事も御意の如と存候と申され候へば、仰られ候。ふつとわろきなり。信のなきはわろくはなきかと仰られ候と[云々]。 (一二二) 一 蓮如上人仰られ候。なにたることをきこしめしても、御心にゆめゆめ叶はざる也。一人なりとも人の信をとりたることをきこしめしたきと、御持言に仰られ候。御一生は、人に信をとらせたく思召され候よし仰られしと[云云]。 (一二三) 一 聖人の御流には賴む一念の所肝要也。故にたのむと云ことをば代にあそばしおかれ候へども、くわしくなにと賴めと云ことをしらざりき。然ば前々住上人の御代に、「御文」(五帖*九意)を御作候て、「雜行をすてゝ、後生たすけ玉へとも一心に彌陀をたのめ」と、あきらかにしらせられ候。しかれば御再興の上人にてましますもの也。 (一二四) 一 よきことをしたるがわろきことあり、わろきことをしたるがよきことあり。よきことをしても、われは法義に付てよきことをしたると思ふ、我と云ことあればわろき也。あしきことをしても、心中をひるがへし本願に歸すれば、わろきことをしたるがよき道理なるⅤ-0721よし仰られ候。蓮如上人は、まひらせこゝろわろきと仰られ候。 (一二五) 一 前々住上人仰られ候。思ひよらぬ者が分に過て出候はゞ、一子細あるべきと思べし。人のこゝろの習ひにて物を出せばうれしく思ふ程に、何にぞ用を云べきとては、人がさやうにするなりと仰られ候由候。 (一二六) 一 ゆくさきむかひばかりみて、足もとをみずは、踏かぶるべきなり。人の上ばかりみて、我身の上のことをたしなまずは、一大事たるべきとの仰に候。 (一二七) 一 善知識の仰なりとも、なるまじいなんど思は、大なるあさましきこと也。なにたることなりとも、仰ならばなるべきと存ずべし。この凡夫の身が佛になるうへは、さてなるまじきと存ることあるべきや。しかれば道宗申され候。近江の水海を一人してくめよと仰候とも、畏りたと申べく候。仰にて候はゞ、ならぬことあるべきかと申され候由し候。 (一二八) 一 「いたりてかたきは石也、至てやわらかなるは水也、水よく石を穿つ、心源もし徹なば菩提の覺道なにごとか成ぜざらん」といへる古詞あり。いかに不信也とも、聽聞にきはまること也と[云云]。 (一二九) 一 前々住上人仰られ候。信心決定の人をみて、あのごとくならでとおもへばなるぞと仰られ候。あのやうにはなりてこそと思すつること、あさましきことなり。Ⅴ-0722佛法には身をすてゝのぞみ求る心ろより、信をばうることなりと[云云]。 (一三〇) 一 人のわろきことはよくみゆるなり。わが身のわろきことはおぼへざるものなり。我身にしられてわろきことあらば、よくよくわろければこそ身にしられ候と思て、心中をあらたむべし。たゞ人の云ことをばよく心用すべし。我わろきことはおぼへざるものなるよし仰候と[云云]。 (一三一) 一 世間の物語などある座敷にては、結句法義の事を云こともあり。さやうのときは人なみたるべし。心には油斷あるべからず。あるひは誦演、又は佛法の讚嘆など云とき、一向にものをいはざること大なる違ひ也。佛法讚嘆とあらんときは、いかにも心中をのこさず、相ひ互に信不信の義、談合すべきことなりと[云云]。 (一三二) 一 金森の[善從]、ある人申され候。この間、さこそ徒然に御入候つらんと申ければ、善申され候。我身は八十にあまるまで徒然と云ことをしらず。その故は彌陀の御恩を有難き程を存じ、和讚・聖敎等を拜見申し候へば、心ろおもしろくも、たうときこと充滿するゆへに、徒然なることも更になく候と申され候由候。 (一三三) 一 ある人申され候とて、前住上人仰られ候し。ある人、【(善従)】善の宿所へゆき候所に、履をも脫れ候はぬに、佛法の事を申かけられ候。又ある人申され候は、履さへぬがれ候はぬに、いそぎかやうにはなにとて仰ぞと、人申ければ、その返答に、いづるいきは入をまたぬ浮世也、もし履をぬがれぬまに死去候はゞ、いかゞし候べきと申され候。たゞ佛法のことをば、さしいそぎ申べきの由仰候し。 Ⅴ-0723(一三四) 一 前々住上人、【(善従)】善の事を仰られ候し。いまだ野村殿御坊、その沙汰もなきとき、神無森をとをり國へ下向のとき、輿よりをりられ候て、野村殿の方をさして、このとをりにて佛法がひらけ申すべしと申され候し。人々、これは年よりてかやうのことを申され候かと申ければ、終に御坊御建立にて御繁昌候。不思議のことゝ仰られ候き。又善は法然の化身也、世上に人申つると、同仰られ候き。かの往生は八月廿五日にて候。 (一三五) 一 前々住上人、東山を御出候て、何方に御座候とも、人存ぜず候しころ、【(善従)】善あなたこなた尋申されければ、ある所にて御目にかゝられ候。一段御迷惑の體にて候つるあひだ、前々住上人にもさだめて善かなしまれ申べきと思召れ候へば、善ほかと御目にかゝられ、あらありがたや、佛法はひらけ申べきよと申され候。終にこのことば符合候。善は不思議の人なりと、蓮如上人仰られ候由し、前々住上人仰られ候き。 (一三六) 一 前住上人、先年大永三、蓮如上人廿五の御年の三月の始比、御夢御覽候。御堂上檀南の方に前々住上人御座候て、御小袖をめされ候。前住上人へまひらせられ、仰られ候。佛法は贊嘆・談合にきはまる。能々贊嘆すべき由仰られ候。誠に夢想とも云べきことなりと仰られき。然ばその年、ことに贊嘆を肝要と仰られ候。それに付て仰られ候。佛法は一人居てよろこぶ法也。一人居てさへたうときに、二人よりあはゞいかほどかありがたかるべき。佛法をばたゞよりあひよりあひ讚Ⅴ-0724嘆申べき由仰られ候。 (一三七) 一 心中を改候はんと申人、何をも違候と申され候。よろづわろきことをうめて、かやうに申され候。いろをたて申出て改べきことなりと[云云]。なにゝせんずる人のなをらるゝをきゝて、われもなをるべきと思て、わがとがを申いださぬは、なをらぬぞと仰られ候と[云云]。 (一三八) 一 佛法のとき物を申さぬは、信のなきゆへ也。わが心にたくみ案じて申すべきやうに思へり。よそなるものをたづねいだすやう也。心にうれしきことはそのまゝなるもの也。寒むければさむいと云、熱ければ熱いと、そのまゝ心のとほり云也。佛法の座敷にて物を申さぬこと、不信のいろなり。又油斷と云ことも信のうへのことなるべし。細々同行によりあひ贊嘆申さば、油斷はあるまじきのよし候。 (一三九) 一 前々住上人仰られ候。一心決定のうへ、彌陀の御たすけありたと云は、さとりのかたに似てわろし。たのむ所にてたすけ玉ひ候事は歷然候へども、御助あろふずと云てしかるべきよし仰られ候と[云云]。一念歸命のとき、不退の位に住す。これ不退の密益也、これ涅槃分なるよし仰候しと[云云]。 (一四〇) 一 有人A膽西上人、攝取不捨のことはりをBしりたきとのことなりと云云C雲居寺の阿彌陀に祈誓ありければ、夢想に、阿彌陀のかの人の袖をとらへ玉ふに、にげゝれどもしかととらへてはなしたまはず。攝取と云は、にぐる者をとらへてをき玉ふやうなることにて思付たり。これを引言に仰候き。 (一四一) 一 前々住上人御病中に、兼譽・兼縁御禮候て、あるとき尋申され候。冥加と云ことはなにとしたることにⅤ-0725て候と申させたまひければ、仰られ候。冥加に叶と云は、彌陀を賴む事なるよし仰られ候と[云云]。 (一四二) 一 佛法の事を申してよろこばれば、われはそのよろこぶ人よりもなをたうとく思べきなり。佛智をつたへ申によりて、かやうに存ぜられ候事と思て、佛智の御かたをありがたく存ずべしとの義候。 (一四三) 一 「御文」をよみて人に聽聞させ候とも、報謝と存ずべし。一句一言も信の上より申せば、ひとの心用もあり、又報謝ともなり。 (一四四) 一 蓮如上人仰られ候。彌陀の光明は、たとへばぬれたるものをほすに、うへよりひて、したまでひるごとくなること也。これ日の力也。決定の心をこるは、是則他力の御所作也。罪障は悉く彌陀の御けしあることなるよし仰候。 (一四五) 一 信決定の人は誰によらず、まづみればすなはちたうとくなり候。これその人のたうときに非ず。佛智をゑらるゝがゆへなれば、いよいよ佛智のありがたき理を存ずべきこと也と[云々]。 (一四六) 一 蓮如上人、御病中のとき仰られ候。御自身なにごともおぼしめしのこさるゝことなし。思召すことの成ぬことはなき也。それに付て、御往生あるとも御身は思召しのこさるゝことなし。但御兄弟、その外誰とも信のなきをかなしく思召し候。世間にはよみぢのさはⅤ-0726りと云ことあり。たゞ信のなきこと、これを悲く思召し候由仰られ候と[云云]。 (一四七) 一 蓮如上人、あるひは人に御酒をもくだされ候て、かやうのことをありがたく存ぢさせ候て近付させられ候て、佛法を御きかせ候。さればかやうの物をもくだされ候こと、信をとらせらるべき爲と思召せば、報謝と思召候由被仰候と[云云]。 (一四八) 一 同仰に云、こゝろへたとおもふはこゝろゑぬ也。こゝろへぬと思はこゝろへたるなり。彌陀の御助あるべきことのたうとさよと思が、こゝろへたるなり。さもこゝろへたると思ことはあるまじきこと也と仰候と[云云]。されば『口傳抄』(卷上)云、「さればこの善惡の機の上にたもつところの彌陀の佛智をつのりとせぬよりほかは、凡夫のいかでか往生の得分あるべきや」といへり。 (一四九) 一 菅生の願性、坊主の聖敎をよまれ候をきゝて、聖敎は殊勝に候へども、信が御入なく候間、たうとくも御入なきと申され候。この事を前々住上人聞召され、荻生の蓮智を召登せられ、御前にて不斷聖敎をもよませられ、法義の事をも仰聞かせられ、願性に仰られ候。蓮智に聖敎をも談習はせ、佛法のことを仰聞せられ候由仰候て、國へ御下候。其後は聖敎よまれ候へば、今こそ殊勝に候へとて、有難がられ候由候。 (一五〇) 一 蓮如上人、幼少なるものには、まづ物をよめと仰られ候。又其後は、いかに談ともふくせずしては詮あるべからざる由仰られ候。ちと心もつき候へば、いかに物を談、聲をよく談知たりと、義理をわきまへてこそと仰られ候由候。其後は、いかに文釋を覺へたりとも、信がなくはいたづらごとよと仰られ候由候。 Ⅴ-0727(一五一) 一 心中のとおりを、ある人、法敬坊に申され候。御詞のごとくは覺悟つかまつり候へども、油斷・无沙汰にて、あさましきこと候と申され候。その時法敬坊申され候。それは御詞のごとくにてはなく候。勿體なき申されごとに候。御詞には、油斷・無沙汰つかまつる間敷候とこそ、あそばされ候へと申され候と[云云]。 (一五二) 一 法敬坊に、あるひと不審申され候。これほど佛法に御心をも入られ候法敬坊の尼公の不信なる、いかゞの義候由、人申候へば、法敬坊申され候。不審はさることなれども、これほど朝夕「御文」をよみ候に、おどろき申さぬ心中が、なにか法敬が申分にて聞入候べきと申され候と[云云]。 (一五三) 一 順誓申され候。佛法の物語など申候に、かげにて申候ときは、なにたるわろきことをか申候べきと存じ、腋より汗たり申候。前々住上人きこしめす所にて申候時は、わろきことをやがて御なをしあるべきと存じ候間、こゝろやすく存候て、物が申され候よし申されと[云云]。 (一五四) 一 信のうへは、さのみわろきことはあるまじく候。あるひは人のことなど云候とて、あしきことなどはあるまじく候。今度生死の結句をきりて、安樂に生ぜんとをもはんひと、いかんとしてあしざまなることをすべきやと仰候。 Ⅴ-0728(一五五) 一 信をば得ず候てよろこび候はんとおもふこと、たとへば物をぬうにあとを其まゝでぬえば拔け候やうに、よろこび候はんと思ふとも、信をゑずはいたづらごと也。よろこべ助けたまはんと仰られ候ことにてもなく候。賴む衆生をたすけたまはんとの本願に候。「信心にはおのづから名號をば具するもの也」(信卷)といへり。 (一五六) 一 前々住上人仰られ候。不審と一向しらぬとは各別なり。しらぬことをも不審と申こと、いはれなく候。物を分別して、あれはなにと、これはいかゞなど云やうなることが不審にて候。子細もしらずして問申ことを、不審申まぎらかし候よし仰られ候と[云云]。 (一五七) 一 前住上人仰られ候て、御本寺・御坊をば聖人の御存生の時のやうにおぼしめされ候。御自身は、御留守を當座沙汰候。しかれども佛恩を御忘候ことはなく候。御齋の御法談に仰られ候き。御齋を御受用候間も、御わすれ候事は御入なきと仰られ候き。 (一五八) 一 善如上人・綽如上人兩御代のこと、前住上人仰られ候き。兩御代は威義を本に御沙汰候し由仰られ候。然ば今に御影に御入候由仰られ候き。黃袈裟・黃衣にて候。然ば前々住上人の御とき、あまた御流にそむき候本尊以下、御風呂のたびごとにやかせられ候。此二の御影をもやかせらるべきにて御取出候つるが、いかゞ思召候やらん、表紙に書付を、よし・わろしと、あそばされ候て、とりておかせられ候。此事を今御思案候へば、御代々のうちさへかやうに御ちがひ候。ましてやいわん、われらしきの者はちがひばかりたるべきあひだ、一大事と存じ愼めとの御事と、今思召あはせられ候由仰られき。又よし・わろしとあそばし候こⅤ-0729と、わろしとばかりあそばし候へば、先代の御事にて候へばと思召し、かやうにあそばされ候事に候由仰られ候。又前々住上人御時、あまた直近のかたがたちがひ申事候。いよいよ一大事にと佛法のことをば、心を留て細々人に問申こゝらふべきの由仰られ候き。 (一五九) 一 佛法者の少のちがひをみば、あのうへさへかやうに候と思ひ、わが身をふかく嗜べきことに候。しかるを、あのうへさへ御ちがひ候、ましてわれらはちがはいではと思る、大きなるあさましきことなりと[云云]。 (一六〇) 一 佛法を嗜と仰られ候ことは、世間の物を嗜めなど云やうなることにてはなし。信の上はたうとくありがたく存じよろこび申透間に解怠申時、かゝる廣大の御恩をわすれ申すことのあさましさよと、佛智たちかへりて、ありがたやと思へば、御もよほしによりて念佛を申也。たしなみとはこれなる由との儀候。 (一六一) 一 佛法に厭促なければ、法の不思義をきくと云へり。前住上人仰られ候。たとへば世上にわがすきこのむ事をば知ても知ても、なをよくしりたく思ひ、人にとひ、いくたびも數奇たる事をばきゝてもきゝても、存たきこと也。佛法のことは、いくたびもいくたびも人にとひきはめ增進すべきよし仰られ候。 (一六二) 一 世間へつかふ事は、法物を徒にすることよと、おそろしく思ふべし。さりながら佛法の方へはいかほどものを入てもあかぬ道理なり。又報謝にもなるべしとⅤ-0730[云云]。 (一六三) 一 人の辛勞もせずして德とる上品は、みだを賴てほとけになるにすぎたることなしと仰候と[云云]。 (一六四) 一 皆人每によきことを云もし、働もすることあれば、眞俗ともそれを、わがよきものにはやなりて、その心にて御恩と云ことはうち忘て、わが心本になるによりて、冥加につきて、世間・佛法あしき心必ず必ず出來する也。一大事のきなりと[云云]。 (一六五) 一 堺にてある人、蓮如上人へ「御文」を御所望候に、そのとき仰られ候。年もより候に、むつかしきことを申候。まづはわろきことを云よと仰られ候て、後に仰られ候。佛法だに信ぜば、いかほどなりともあそばしてたまわるべきよし仰られしと[云云]。 (一六六) 一 同堺御坊にて、前々住上人、夜更て蠟燭をとぼされ、名號をあそばされ候。其とき仰られ候。御老體にて御手も振ひ、御目もかすみ候へども、明日越中へくだり候と申候ほどに、かやうにあそばされ候。一日も堪忍失墜にて候間、御辛勞をかへりみられずあそばされ候と仰られ候。然れば御門徒の爲に御身をばすてられ候。人に辛勞をも候はで、たゞ信をとらせたく思召候よし仰られ候と[云云]。 (一六七) 一 重寶の珍物をとゝのへあたへもてなせども、食せざればその詮なし。同行よりあひ讚嘆すれども、信をとる人なければ、珍味を食せざると同事なりと[云云]。 (一六八) 一 物にあくことはあれども、ほとけになることゝみだの御恩をよろこび、あきたることはなし。燒けも失Ⅴ-0731ひもせぬ重物は、南无阿彌陀佛なり。然れば彌陀の廣大の御慈悲殊勝也。信ある人をみるさへたうとし。よくよくの御慈悲也と[云云]。 (一六九) 一 信決定の身は、佛法の方へは身をかろくもつべし。佛法の御恩をおもく敬べしと[云云]。 (一七〇) 一 蓮如上人仰られ候。宿善めでたしと云わろし。御流には宿善ありがたしと申がよく候由仰られ候と[云云]。 (一七一) 一 他宗には法にあふたるを宿縁といひ、當宗には信をとることを宿善と云。信心をうること肝要なり。去ばこの御敎には群機をもらさぬゆへに、彌陀の敎をば弘敎とも云也。 (一七二) 一 法門を申ば、當流のこゝろは信心の一義を申開き立ること、肝要なりと[云々]。 (一七三) 一 前々住上人仰られ候。佛法者は法の威力にて成なり。威力にてなくはなるべからずと仰られ候。されば佛法をば、學匠・物知はいゝたてず。たゞ一文不知の身も、信ある人は佛智をくわへさせらるゝ故に、佛力にて候間、人が信をとる也。このゆへに聖敎よみとて、しかもわれはと思はん人の、佛法をいゝたてたることなしと仰られ候こと候。たゞなにしらねども、信心決得の人は佛のいはせらるゝ間、人が信をとるとの仰候と[云云]。 Ⅴ-0732(一七四) 一 彌陀をたのめば南无阿彌陀佛の主になるなり。南无阿彌陀佛の主になると云は、信をうることなりと[云々]。又當流の眞實の寶と云は南无阿彌陀佛、これ一念の信心なりと[云云]。 (一七五) 一 一流眞宗の内にて法をそしり、わろさまに云人あり。これを思に、他宗・他門のことは是非なし。一宗のなかにかやうの人もあるに、われら宿善有て此法を信ずる身のたうとさよとおもふべしと[云云]。 (一七六) 一 前々住上人には、なにものをもあはれみかはゆく思召候。大罪人とて人を殺候こと、一段御悲候。存命もあらば心中をなをすべしと仰られ、御勘氣候ても、心中だになをり候へば、やがて御宥免候と[云云]。 (一七七) 一 安藝蓮崇、國をくつがへし、くせごとに付て、御門徒をはなされ候。前々住上人御病中に、御寺内へまひり御他言申候へども、とりつぎ候人なく候し。そのおりふし、前々住上人ふと仰られ候。安藝をなをそうと思よと仰られ候。御兄弟以下御申には、一度佛法にあだをなし申候人に候へば、いかゞと御申候へば、仰られ候。それぞとよ、あさましきことを云。心中だになをらば、なにたるものなりとも、御もらしなきことに候と仰られて、御赦免候て、その時御前へまひり、御目にかゝられ候とき、感淚疊にうかみ候と[云云]。而して御中陰の中に於て、蓮崇も寺内にてすぎられ候。 (一七八) 一 奧州に御流のことを申しまぎらかす人候しことをきこしめして、前々住上人、奧州の淨祐を御覽候ては、以外御腹立候て、さまざま開山上人の御流を申みだすⅤ-0733ことのあさましさよ、にくさよと仰候て、御齒をくひしめられて、さてきりきざみてもあくかよあくかよと仰られ候と[云云]。佛法を申みだす者をば、一がいにあさましきとかたく仰られ候と[云云]。 (一七九) 一 思案の頂上と申べきは、彌陀如來の五劫思惟の本願にすぎたることはなし。この御思案の道理に同心せば、ほとけに成べし。同心申とて別なし。機法一體の道理也と[云云]。 (一八〇) 一 蓮如上人仰られ候。御身一生がい御沙汰候事、みな佛法にて候。御方便・御調法候て、人に信をとらせあるべき御ことばかりにて候由仰られ候。御造作・御普請をさせられ候も、佛法に候。人に信をとらせらるべき御方便に候と仰候と[云云]。 (一八一) 一 同御病中に仰られ候。今わが云べきことは金言也。かまへてかまへて、よくこゝろゑよと仰候。又御詠歌の事、卅一字につくるにてこそあれ、これは法門にてあるぞと仰られ候と[云云]。 (一八二) 一 「愚者三人に智者一人」とて、何事も談合すれば面白ことあるよと、前々住上人の御申候。これ又佛法の方にはいよいよ肝要の御言也と[云云]。 (一八三) 一 蓮如上人、法敬に對せられ仰られ候。法敬と我と兄弟よと仰候。法敬申され候。これは冥加もなき御事と申され候。蓮如上人仰られ候。信を得つれば、さきⅤ-0734にむまるゝものは兄、後に生るゝものは弟よ。法敬とは兄弟よと仰られ候と[云云]。「佛因を一同にうれば、信心一致の上は四海みな兄弟」(論註*卷下意)といへり。 (一八四) 一 南殿山水の御縁の牀の上にて、蓮如上人仰られ候。物のおもふたより大にちがふと云は、極樂へ參ての事なるべし。こゝにてありがたやたうとやと思ひ候は、物の數にてもなきこと也。彼土へ生ての歡喜は、ことのはもあるべからずと仰られしと[云云]。 (一八五) 一 人はそらごと申さじと嗜を、隨分とこそ思へ。心に僞りあらじと嗜人は、さのみ多はなきもの也。又よきことはならぬまでも、世間・佛法ともに心にかけたしなみたきこと也と[云云]。 (一八六) 一 前々住上人仰られ候。『安心決定抄』のこと、四十餘年が間御覽候へども、御覽じあかぬと仰られ候。又こがねをほり出すやうなる聖敎なりと仰られ候と[云云]。 (一八七) 一 大坂殿にて各へ對せられ仰られ候。この間申候しことは、『安心決定抄』のかたはしを仰られ候よし候。しかれば當流の義は、『安心決定抄』くれぐれ肝要と仰られ候と[云云]。 (一八八) 一 法敬申され候。たうとむ人より、たうとがる人ぞたうとかりける。前々住上人仰られ候。おもしろきことをいふよ。たうとむ體い、殊勝ぶりする人はたうとくもなし。たゞあらありがたやとたうとがる人こそたうとけれ。をもしろきことを云よ、もとものことを申され候との仰事に候と[云云]。 (一八九) 一 文龜三 正月十五日の夜、兼縁夢に云、前々住上Ⅴ-0735人、兼縁へ御向ありて仰られ候やうは、いたづらにある事あさましく思召候へば、稽古かたがた以、せめて一卷の經をも、日に一度、みなみなよりあひ候てよみ申せと仰られけりと[云云]。あまりに人のむなしく月日を送候ことを悲く思召候ゆへとの儀候。 (一九〇) 一 同夢云、同年極月廿八日の夜、前々住上人、御衣・袈裟にて奧の障子をあけられ御出候間、御法談聽聞申べき心にて候處に、ついたて障子のやうなるものに、「御文」の御詞御入候をよみ申候を御覽じて、それはなにぞと御尋候間、「御文」に候との由申上候へば、それこそ肝要よ、信仰してきけと仰られけりと[云云]。 (一九一) 一 同夢云、翌年極月廿九日の夜、前々住上人仰られ候やうは、家をばよくは作らでをかしくして、信心をよくとり念佛申べきよし、かたく仰られけりと[云云]。 (一九二) 一 同夢云、大永三 正月一日の夜の夢云、野村殿南殿にて前々住上人仰云、佛法のこといろいろ仰られ候てのち、田舍に雜行雜修あるぞ、かたく申付べしと仰られ候と[云云]。 (一九三) 一 同夢云、大永六 正月五日夜夢云、前々住上人仰られ候。一大事にて候。今の時分がよきときにて候。こゝをとりはづしては一大事と仰られ候。かしこまりたりと御うけ申候へば、たゞそのかしこまりたると云にてはなり候間敷候。たゞ一大事にて候由仰られしと[云云]。次夜夢云、蓮誓仰候。吉崎にて前々住上人に當Ⅴ-0736流の肝要のことを習申候。一流の依用なき聖敎やなんどを廣く見て、御流をひがさまにとりなし候ことに候。さいはいに肝要を拔候聖敎に候。これが一流の祕極なりと、吉崎にて前々住上人に習申候と、蓮誓仰候しと[云云]。私に云、夢等をしるすこと、前々住上人世を去たまへば、今は其一言をも大切に存候へば、又かやうに夢に入て仰ごとの金言なることの、まことの仰とも存ずるまゝ、是をしるすもの也。まことにこれは夢想とも申べきことゞもにて候。總別、夢は【心】妄想なり、去ながら權者のうへには瑞夢とてあることなり。猶以かやうの金言をばしるべしと[云云]。 (一九四) 一 佛恩がと申はきゝにくゝ候、聊爾也。佛恩をありがたく存ずと申せ、莫大きゝよく候由候と[云云]。「御文」がと申も聊爾也。「御文」を聽聞申て、「御文」有難候と申てよきよしに候。佛法の方をばいかほども尊敬申べきことゝ[云云]。 (一九五) 一 佛法の讚嘆のとき、同行をかたがたと申は平外也。御かたがたと申てよきよし仰ごとに候と[云々]。 (一九六) 一 前々住上人仰られ候。家を作とも、つぶりだにもぬれずは、なにともかともつくるべし。萬事過分なることを御きらひ候。衣裝等にいたるまでも、よきものきんとすることあさましきことなり。冥加を存じ、たゞ佛法を心にかけよとの仰候と[云云]。 (一九七) 一 同仰云、いかやうの人にて候とも、佛法の御家に奉公申候はゞ、きのふまでは他宗にて候とも、今日ははや佛法の御用とこゝろうべし。たとひあきなひをし候とも、佛法の御用とこゝろふべしと仰候と[云云]。 Ⅴ-0737(一九八) 一 同仰に云、雨もふり、又炎天の時分は、つとめなどながながしくつかまつり候はで、はやくして、人をたゝせ候がよく候由仰られ候。これも御慈悲にて、御いたはり候。大慈大悲の御あはれみに候。つねづねの仰には、御身は人に御したがい候て、佛法を御すゝめ候と仰られ候。御門徒の身にて御意の如くならざること、中々あさましきとも申もことおろかに候との義候。 (一九九) 一 將軍家[義尙]よりの儀にて、賀州一國の一揆、御門徒をはなさるべきとの義にて、賀州居住候御兄弟衆をもめしのぼせられ候。其時前々住上人仰られ候。賀州の衆を門徒を放すべきと仰いだされんこと、御身をきらるゝよりもかなしく思召候。何事も不知尼入道の類のことまで思召ば、何とも御迷惑此事にきはまると仰候由候。御門徒を放るゝと申ことは、一だん善知識の御上にても御かなしく思召候ことに候。 (二〇〇) 一 蓮如上人仰られ候。御門徒衆始て物をまひらせ候を、他宗に出候義あしく候。一度も二度も受用せしめ候て、しかるべきよし仰られ候。かくのごとくの子細は存もよらぬことにて候。いよいよ佛法の御用、御恩をおろそかに存ずべきことにてはなく候。おどろき入候とのこと候。 (二〇一) 一 法敬坊、大坂殿へ下られ候處に、前々住上人仰られ候。御往生候とも、十年はいくべしと仰られ候處に、なにかと申され候。おしかへし、いくべしと仰られ候Ⅴ-0738處に、御往生ありて一年存命候處に、法敬にある人おほせ候。前々住上人仰られ候はあひ申たるよ。其故は一年も存命候は、命を前々住上人より御あたへ候ことにて候と仰候へば、誠にさやうにて御入候とて、手を合せ、ありがたきよしを申され候。それよりのち、前々住上人仰られ候ごとく、十年存命候。まことに冥加に叶候。不思議なる人にて候。 (二〇二) 一 每事に无用なることを仕候義、冥加なきよし、條々、いつも仰られ候由候。 (二〇三) 一 蓮如上人、物をきこしめすにも、如來・聖人の御恩をわすれまじと仰られ候。一くちきこしめしても、思召出され候よし仰られ候と[云云]。 (二〇四) 一 御膳を御覽じ候ても、人のくわぬ飯をくうべきことよと思召候よし仰られ候。物をすぐにきこしめすことなし。たゞ御恩のたうとき事をのみ思召候と[云云]。 (二〇五) 一 享祿二 十二月十八日の夜、兼縁夢云、蓮如上人、人に「御文」をあそばし下され候。其詞に、梅干の御たとへ候。梅干のことをいへば、皆人の口一同にすし。一味の安心はかやうにかはるまじきこと也。「同一念佛无別道故」(論註*卷下)のこゝろにて候つるやうにおぼへ候べしと[云云]。 (二〇六) 一 佛法をすかぬによりて嗜候はぬにと、空善申され候。蓮如上人仰られ候。それは、このまぬはきらふにてはなきかと仰られ候と[云云]。 (二〇七) 一 同仰に云、不信の人は佛法を違例にすると仰られ候。佛法の御讚嘆あれば、あら、きづまりやと思ひ、Ⅴ-0739とくはてよかしと思ふは、違例をするにてなきかと仰られ候と[云云]。 (二〇八) 一 前住樣御病中、正月廿四日に仰られ候。前住の早々われにこひと、左の手にて御まねき候。あらありがたやと、くりかへしくりかへし仰られ、御念佛御申候程に、各御こゝろたがひ候て、かやうにも仰候やと存候へば、其儀にてはなく候て、御まどろみ候御夢に御覽ぜられ候よし仰られ候處にて、みなみな安堵候き。これまたあらたなる御事なりと[云々]。 (二〇九) 一 同廿五日、兼縁に對せられ仰られ候。前々住上人の、御世を讓り御申候て以來のことども種々仰られ、御一心の御安心のとほりを仰られ候。一念に彌陀を賴み御申候て御往生は一定と思召され候。それに付て、前住の御恩にて、今日まで我と思ふ意をもち候はぬがうれしく候と、誠に有難くも、又は驚入申候。我人、かやうに心得申候てこそ、他力の信心決定申たるにてはあるべく候。いよいよ一大事までの儀候。 (二一〇) 一 『嘆德文』に、親巒聖人と申せば、そのおそれあるゆへに、祖師聖人とよみ候。又開山聖人とよみ申も、をそれある子細にて御入候と[云云]。 (二一一) 一 たゞ聖人と直に申せば、聊爾也。この聖人と申も、聊爾に候。開山とは、略しては申べきかとの事候。たゞ開山聖人と申してよく候と[云云]。 Ⅴ-0740(二一二) 一 『嘆德文』に、「以弘誓に託す」と申ことを、「以」を拔てはよまず候と[云云]。 (二一三) 一 蓮如上人、堺の御坊に御座時、兼譽御參候。御堂におひて卓の上に「御文」をおかせられて、一人二人、乃至五人十人、まひられ候人々に對し、「御文」よませられ候。その夜、蓮如上人御物語の時、此間おもしろきことを思出して候。堂に於て、「文」一人なりとも來られ候人にもよませてきかせ候。宿縁の人は信をとるべし。此間をもしろきことを思案し出たると、くれぐれ仰られ候。扨は「御文」肝要の御ことと、いよいよ知れ候との事に候。 (二一四) 一 今生のことを心に入るゝほど、佛法をよろこびたきことにて候と、人申べば、世間に對用してよろこび申はをうやうなり。佛法をばふかくよろこぶべしと[云云]。又云、一日一日に佛法はたしなみにて候。一期と思へば大儀なりと、人申され候。又人云、大儀なると思へば不足なり。命はいかほどながく候ても、あかずよろこぶべきことなりと[云云]。 (二一五) 一 法敬坊申され候。佛法を申たるに、こゝろざしの人を前におきてかたり候へば、申ちからがありて申よき由まふされ候と[云云]。 (二一六) 一 信もなくて大事の聖敎を所持の人は、をさなきものにつるぎをもたせ候やうに思召候。そのゆへは劍は重寶なれども、おさなきものもちて候へば、手を切り見迦をする也。もちてよく候者は、もちて重寶になる也と[云云]。 Ⅴ-0741(二一七) 一 前々住上人仰られ候。たゞ今なりとも、わが、しねといはゞ、しぬ者はあるべく候。信をとる者はあるまじく候と仰られ候と[云云]。 (二一八) 一 同上人、大坂殿にて各に對せられて仰られ候。一念に凡夫の往生をとぐることは祕事・祕曲にてはなきかと仰られしと[云云]。此信を御釋には「長生不死の神方、忻淨厭穢の妙術」(信卷)といへり。 (二一九) 一 御普請・御造作のとき、法敬申され候。まことになにも不思議に、御眺望等も御上手に御座候由申され候へば、前々住上人仰られ候。われはなを不思義なることを知候。凡夫の佛になり候ことを御存知候由仰られ候と[云云]。 (二二〇) 一 蓮如上人、善從に御かけ字をあそばされ候て、くだされ候。其後、善に御尋候。已前かきつかはし候物をばなにとしたると仰られ候。善申され候。表補【繪か】衣仕候て、箱に入をき申候由申され候。其時仰られ候。それはわけもなきことをしたること。不斷かけをきて、そのごとくにこゝろねをなせよと云ことにてこそあれと仰候しと[云云]。 (二二一) 一 同仰云、これの内に居て聽聞申身は、とりはづしたらば佛にならうよと仰られ候と[云云]。まことにありがたき仰に候。 Ⅴ-0742(二二二) 一 同仰に云、坊主衆等に對せられ仰られ候。坊主と云者は大罪人也と仰られ候。其とき皆迷惑申され候。さて仰られ候。つみがふかければこそ、阿彌陀如來は御助けあれと仰られ候と[云云]。 (二二三) 一 每日每日に、「御文」の御金言を聽聞させられ候事は、寶を御讓り候ことに候と[云々]。 (二二四) 一 開山聖人の御代、高田の顯智上洛のとき、申され候。今度は旣に御目にかゝるまじきと存候處に、不思議に御目にかゝり候と申され候。それはいかんと仰られ候。船路に難風にあい、迷惑仕り候し由申され候へば、聖人仰られ候。それならば船にはのらるまじきものをと仰られ候。其後、御詞の末へにて候とて、一期、船にのられず候。又茸一醉申され、御目に遲くかゝられ候時も、如此仰られしとて、一期受用なく候しと[云云]。かやうに仰を信じ、ちがひ申まじく存られ候事、誠に有難殊勝の覺悟との義候。 (二二五) 一 身あたゝかなれば、ねぶりきざし候。あさましき事也。その覺悟にて身をも涼しくもち、眠をさますべき也。身隨意なれば、佛法・世法ともにおこたり、ぶさた・油斷あり。此義一大事なりと[云云]。 (二二六) 一 信をゑたらば、同行にあらく物も申まじきなり、心和ぐべき也。觸光柔輭の願あり。又信なければ、我ありて詞もあらく、諍も必出來する也。あさましあさまし、よくよくこゝろふべしと[云云]。 (二二七) 一 前々住上人、北國にさる御門徒の事を仰られ候。何として久く上洛なきぞと仰られ候。御前の人申されⅤ-0743候。さる御方の御折檻候と申され候。そのとき、御機嫌以外あしく候て、仰られ候。開山聖人の御門徒をさやうに云者はあるべからず。御自身さへ聊爾には思召さぬものを、なにたるものがさやうに云べきぞ、とくとくのぼれと仰られ候と[云云]。 (二二八) 一 同仰云、御門徒をあしく申こと、ゆめゆめあるまじく候。已に開山は御同行・御同朋と御かしづき候に、聊爾に存ずるはくせごとの由仰られ候き。 (二二九) 一 御門徒上洛候へば、前々住上人仰られ候。寒天には御酒等をかんをよくさせて、路次のさむさを忘られ候やうにと仰られ候。又炎天の比は、酒などひやせと仰られ、御詞を加られ候。又御門徒の上洛候を、おそく申入候ことくせごとゝ仰られ候。御門徒衆をまたせ、遲く對面することもくせごとのよし仰られ候と[云云]。 (二三〇) 一 萬事に付て、よき事を思ひ付るは御恩也、惡き事だに思ひ付るは御恩也。捨も取も、何れも何れも御恩也と[云云]。 (二三一) 一 前々住上人は御門徒の進上物をも、御衣の下にて御拜み候。又佛物と思召候へば、御自身のめし物等までも、御足などにあたり候へば、御いたゞき候。御門徒の進上物、則聖人よりの御あたへと思召候と仰られしと[云云]。 (二三二) 一 佛法には、よろづかなしきも、かなはぬにつけてⅤ-0744も、何事に付ても、後生のたすかるべきことを思ば、よろこび多きは佛恩也と[云云]。 (二三三) 一 佛法者になれ近付て、損は一もなし。なにたるおかしきこと、狂言も、是非ともに心底には佛法あるべしと思程に、我方に能多なりと[云云]。 (二三四) 一 蓮如上人、權化の再誕と云事、其證是多し。別に是をしるせり。御詠歌にも、「形見には六字の御名をのこしおく わがなからんあとのかたみともなれ」と候。彌陀の化身としられ候事歷然と[云云]。 (二三五) 一 蓮如上人、細々御兄弟衆等に御足を御見せ候。御わらぢのあとくひ入、きらりと御入候。かやうに京・田舍、御自身は御辛勞候て、佛法を仰せひらかれ候由仰候しと[云云]。 (二三六) 一 同仰云、惡人のまねをすべきより、信心決定の人のまねをせよと仰候と[云云]。 (二三七) 一 蓮如上人御病中に、大坂殿より御上洛のとき、明應八 二月十八日、さんばの淨賢所にて、前住上人へ對し御申候。御一流の肝要をば、「御文」にくわしくあそばしとゞめられ候間、今は申まぎらかす者もあるまじく候。此分をよくよく御こゝろゑあり、御門徒中へも仰付られ候へと御遺言の由候。然ば前住上人の御安心も「御文」のごとく、又諸國御門徒も、「御文」のごとく信をゑられよとの支證のために、御判なされ候事と[云云]。 (二三八) 一 存覺は大勢至の化身なりと[云々]。しかるに『六要鈔』(第三意)にはあるひは「三心の字訓そのほか、勘得せⅤ-0745ず」とあそばし、「聖人の宏才仰べし」と[云云]。權化にて候へども、聖人の御作分を如此あそばし候。まことに聖意はかりがたき旨をあそばし、自力をすてゝ他力を仰本意にも叶申候ものをや。かやうのこと明譽にて御入候と[云云]。 (二三九) 一 註を御あらはし候あと、御自身の知解を御あらはし候はんがためにてはなく候。御詞を襃譽のため、仰崇のためにて候と[云云]。 (二四〇) 一 存覺御辭世の御詠歌云、「今ははや一夜のゆめとなりにけり 往來あまたのかりのやどやど」。此言を蓮如上人仰られ候と[云云]。さては釋迦の化現也、往來娑婆のこゝろなりと[云云]。我身にかけてこゝろへば、六道輪廻めぐりめぐりて、臨終の夕、さとりを開べしと云こゝろ也と[云云]。 (二四一) 一 陽氣・陰氣とてあり。されば陽氣をうる華は、はやくさく也。陰氣とて日影の華はおそく開く也、かやうに宿善も遲速有。されば已今當の往生あり。彌陀の光明にあひて、はやくひらくる人もあり、おそくひらくる人もあり。已今當のこと、前住上人仰られしと[云云]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり、明日あらはす人もありと仰られしと[云云]。 (二四二) 一 蓮如上人、御廊架御通候て、紙きれのをちて候つるを御覽ぜられ仰られ候。佛法領の物をあだにするやと仰られ、兩の御手にて御いたゞき候と[云云]。總じてⅤ-0746紙のきれなんどのやうなる物をも、御用と佛物と思召候へば、あだに御沙汰なく候由、前住上人御物語候き。 (二四三) 一 蓮如上人、近年は仰られ候。ことに御病中に仰られ候、何事も金言也。こゝろをとゞめてきくべきよし仰られ候と[云云]。 (二四四) 一 御病中に慶聞をめして仰られ候。御身には不思議なることがあるぞ、氣をとりなをして仰らるべきと仰られ候と[云云]。 (二四五) 一 蓮如上人仰られ候。世間・佛法ともに、人はかろがろとしたるがよきと仰られ候。宿德したるものを御きらひ候。物を申さぬがわろしと仰られ候。又微音に物を申をわろしと仰られ候と[云云]。 (二四六) 一 同仰云、佛法と世體とはたしなみよると、對句に仰られ候。又法文と庭の松はいふにあがると、これも對句に仰られ候と[云云]。 (二四七) 一 兼縁、堺にて蓮如上人御存生のとき、背摺布御買得ありければ、蓮如上人仰られ候。さやうの者は我方にもあるものを、無用の買ごとよと仰られ候。兼縁、自物にてとり申たると答御申候所に、仰られ候。それは我物よと仰られ候。ことごとく佛物、如來・聖人の御用にもるゝことはあるまじく候。 (二四八) 一 蓮如上人、兼縁に物をくだされ候を、冥加なきと固辭候ひければ、仰られ候。物をばたゞとりて信をよくとれ。信なくは冥加なきとて法物を受ぬやうなれども、それは曲もなきことなり。わがすると思こと皆御Ⅴ-0747用也。なにごとか御用にもるゝことや候べき。 (二四九) 一 坊主は人をだにも勸化せられ候。我を勸化せられぬはあさましきこと也と[云云]。 (二五〇) 一 道宗、前々住上人へ「御文」申され候へば、仰られ候。「文」はとりおとし候ことも候ほどに、たゞ心に信をだにもとり候へば、取おとし候はぬ由仰れし。又あくる年、あそばされ、くだされ候。 (二五一) 一 開山聖人の大事の御客人と申は、門徒衆の事なりと仰候ひしと[云云]。 維時享保二W丁酉R歲三月十二日書寫之畢 惠翁子