Ⅴ-0525蓮如上人御一代記聞書[本] (一) 一 勸修寺村の道德、明應二年正月一日に御前へまいりたるに、蓮如上人おほせられさふらふ。道德はいくつになるぞ。道德念佛まうさるべし。自力の念佛といふは、念佛おほくまうして佛にまいらせ、このまうしたる功德にて佛のたすけ給はんずるやうにおもふてとなふるなり。他力といふは、彌陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあづかるなり。そのゝち念佛まうすは、御たすけありたるありがたさありがたさと思ふこゝろをよろこびて、南无阿彌陀佛南无阿彌陀佛と申ばかりなり。されば他力とは他のちからといふこゝろなり。この一念、臨終までとほりて往生するなりとおほせさふらふなり。 (二) 一 あさの御つとめに、「いつゝの不思議をとくなか」(高僧*和讚)より「盡十方の无㝵光は 无明のやみをてらしつゝ 一念歡喜するひとを かならず滅度にいたらしⅤ-0526む」(高僧*和讚)と候段のこゝろを御法談のとき、「光明遍照十方世界」(觀經)の文のこゝろと、また「月かげのいたらぬさとはなけれども ながむるひとのこゝろにぞすむ」(續千*載集)とあるうたをひきよせ御法談候。なかなかありがたさまうすばかりなく候ふ。上樣御立の御あとにて北殿樣の仰に、夜前の御法談、今夜の御法談とをひきあはせて仰候、ありがたさありがたさ是非におよばずと御掟候ひて、御落淚の御こと、かぎりなき御ことに候。 (三) 一 御つとめのとき順讚御わすれあり。南殿へ御かへりありて、仰に、聖人御すゝめの和讚あまりにあまりに殊勝にて、あげばをわすれたりと仰さふらひき。ありがたき御すゝめを信じて往生するひとすくなしと御述懷なり。 (四) 一 念聲是一といふことしらずとまうしさふらふとき、仰に、おもひうちにあれば、いろほかにあらはるゝとあり。されば信をえたる體はすなはち南无阿彌陀佛なりとこゝろうれば、口も心もひとつなり。 Ⅴ-0527(五) 一 蓮如上人仰られ候。本尊は掛やぶれ、聖敎はよみやぶれと、對句に仰られ候。 (六) 一 仰に、南无といふは歸命なり、歸命といふは彌陀を一念たのみまいらするこゝろなり。また發願廻向といふは、たのむ機にやがて大善大功德をあたへたまふなり。その體すなはち南无阿彌陀佛なりと仰候き。 (七) 一 加賀の願生と覺善又四郎とに對して、信心といふは彌陀を一念御たすけ候へとたのむとき、やがて御たすけあるすがたを南无阿彌陀佛とまうすなり。總じてつみはいかほどあるとも、一念の信力にてけしうしなひ給ふなり。されば「无始已來輪轉六道の妄業、一念南无阿彌陀佛と歸命する佛智无生の妙願力にほろぼされて、涅槃畢竟の眞因はじめてきざすところをさすなり」(眞要鈔*卷本)といふ御ことばをひきたまひて仰さふらひき。さればこのこゝろを御かけ字にあそばされて、願生にくだされけり。 (八) 一 三河の敎賢、伊勢の空賢とに對して、仰に、南无といふは歸命、このこゝろⅤ-0528は御たすけ候へとたのむなり。この歸命のこゝろやがて發願廻向のこゝろを感ずるなりと仰られ候なり。 (九) 一 「他力の願行をひさしく身にたもちながら、よしなき自力の執心にほだされて、むなしく流轉しけるなり」(安心決定*鈔卷末意)と候を、え存ぜずさふらふよしまうしあげ候ところに、仰に、きゝわけてえ信ぜぬものゝことなりと仰られ候き。 (一〇) 一 「彌陀の大悲、かの常沒の衆生のむねのうちにみちみちたる」(安心決定*鈔卷本意)といへること不審に候と、福田寺申しあげられ候。仰に、佛心の蓮華はむねにこそひらくべけれ、はらにあるべきや。「彌陀の身心の功德、法界衆生の身のうち、こゝろのそこにいりみつ」(安心決定*鈔卷本)ともあり。しかればたゞ領解の心中をさしてのことなりと仰さふらひき。ありがたきよしさふらふなり。 (一一) 一 十月廿八日の逮夜にのたまはく、「正信偈和讚」をよみて、佛にも聖人にもまいらせんとおもふか、あさましや。他宗にはつとめをもして廻向するなり。御一Ⅴ-0529流には他力信心をよくしれとおぼしめして、聖人の和讚にそのこゝろをあそばされたり。ことに七高祖の御ねんごろなる御釋のこゝろを、和讚にきゝつくるやうにあそばされて、その恩をよくよく存知て、あらたふとやと念佛するは、佛恩の御ことを聖人の御前にてよろこびまうすこゝろなりと、くれぐれ仰られ候ひき。 (一二) 一 聖敎をよくおぼえたりとも、他力の安心をしかと決定なくはいたづらごとなり。彌陀をたのむところにて往生決定と信じて、ふたごゝろなく臨終までとほりさふらはゞ往生すべきなり。 (一三) 一 明應三年十一月、報恩講の廿四日あかつき八時にをいて、聖人の御前參拜まうして候に、すこしねぶりさふらふうちに、ゆめともうつゝともわかず、空善おがみまうし候やうは、御圖子のうしろよりわたをつみひろげたるやうなるうちより、上樣あらはれ御出あるとおがみまうすところに、御相好、開山聖人にてぞおはします。あら、不思議やとおもひ、やがて御圖子のうちをおがみまうせば、聖人御座なし。さては開山聖人、上樣に現じましまして、御一流を御再興にて御座Ⅴ-0530候とまうしいだすべきと存ずるところに、慶聞坊の讚嘆に、聖人の御流義、「たとへば木石の縁をまちて火を生じ、瓦礫の𨥉をすりて玉をなすがごとし」と、『御式』(報恩講*私記)のうへを讚嘆あるとおぼえてゆめさめてさふらふ。さては開山聖人の御再誕と、それより信仰まうすことに候ひき。 (一四) 一 敎化するひと、まづ信心をよく決定して、そのうへにて聖敎をよみかたらば、きくひとも信をとるべし。 (一五) 一 仰に、彌陀をたのみて御たすけを決定して、御たすけのありがたさよとよろこぶこゝろあれば、そのうれしさに念佛まうすばかりなり。すなはち佛恩報謝なり。 (一六) 一 大津近松殿に對しましまして仰られ候。信心をよく決定して、ひとにもとらせよと仰られ候ひき。 Ⅴ-0531(一七) 一 十二月六日に富田殿へ御下向にて候あひだ、五日の夜は大勢御前へまいりさふらふに、仰に、今夜はなにごとに人おほくきたりたるぞと。順誓まうされ候は、まことにこのあひだの御聽聞まうし、ありがたさの御禮のため、また明日御下向にて御座さふらふ。御目にかゝりまうすべしかのあひだ、歲末の御禮のためならんとまうしあげられけり。そのとき仰に、无益の歲末の禮かな、歲末の禮には信心をとりて禮にせよとおほせ候ひき。 (一八) 一 仰に、ときどき懈怠することあるとき、往生すまじきかとうたがひなげくものあるべし。然れども、もはや彌陀如來をひとたびたのみまいらせて往生決定ののちなれば、懈怠おほくなることのあさましや。かゝる懈怠おほくなるものなれども、御たすけは治定なり。ありがたやありがたやとよろこぶこゝろを、他力大行の催促なりと申すと仰せられ候なり。 (一九) 一 御たすけありたることのありがたさよと念佛まうすべく候や、又御たすけあらふずる事のありがたさよと念佛申すべく候やと、申あげさふらふとき、仰に、Ⅴ-0532いづれもよし。たゞし正定聚のかたは、御たすけありたるとよろこぶこゝろ、滅度のさとりのかたは、御たすけあらふずることのありがたさよと申すこゝろなり。いづれも佛になることをよろこぶこゝろ、よしと仰候なり。 (二〇) 一 明應五年正月廿三日に富田殿より御上洛ありて、仰に、當年よりいよいよ信心なきひとには御あひあるまじきと、かたく仰せ候なり。安心のとほりいよいよ仰せきかせられて、また誓願寺に能をさせられけり。二月十七日にやがて富田殿へ御下向ありて、三月廿七日に堺殿より御上洛ありて、廿八日に仰られさふらふ。「自信敎人信」(禮讚)のこゝろを仰きかせられんがために、上下辛勞なれども、御出あるところは、信をとりよろこぶよしまうすほどに、うれしくてまたのぼりたりと仰られ候き。 (二一) 一 四月九日に仰られ候。安心をとりてものをいはゞよし。用ないことをばいふまじきなり。一心のところをよく人にもいへと、空善に御掟なり。 Ⅴ-0533(二二) 一 同十二日に堺殿へ御下向あり。 (二三) 一 七月廿日御上洛にて、その日仰られ候。「五濁惡世のわれらこそ 金剛の信心ばかりにて ながく生死をすてはてゝ 自然の淨土にいたるなれ」(高僧*和讚)。この次をも御法談ありて、この二首の讚のこゝろをいひてきかせんとてのぼりたりと仰候なり。さて「自然の淨土にいたるなり」、「ながく生死をへだてける」、さてさてあらおもしろやおもしろやと、くれぐれ御掟ありけり。 (二四) 一 のたまはく、南无の字は聖人の御流義にかぎりてあそばしけり。南无阿彌陀佛を泥にてうつさせられて、御座敷にかけさせられて仰られけるは、不可思議光佛、无㝵光佛も、この南无阿彌陀佛をほめたまふ德號なり。しかれば南无阿彌陀佛を本とすべしとおほせられ候なり。 (二五) 一 「十方无量の諸佛の 證誠護念のみことにて 自力の大菩提心の かなはぬほどはしりぬべし」(正像末*和讚)。御讚のこゝろを聽聞まうしたきと、順誓まうしあげⅤ-0534られけり。仰に、諸佛の彌陀に歸せらるゝを能としたまへり。「世のなかにあまのこゝろをすてよかし 妻うしのつのはさもあらばあれ」と。これは御開山の御うたなり。さればかたちはいらぬこと、一心を本とすべしとなり。世にも「かうべをそるといへども心をそらず」といふことがあると仰られ候。 (二六) 一 「鳥部野をおもひやるこそあはれなれ ゆかりの人のあとゝおもへば」。是も聖人の御歌なり。 (二七) 一 明應五年九月廿日、御開山の御影樣、空善に御免あり。なかなかありがたさ申にかぎりなき事なり。 (二八) 一 同十一月報恩講の廿五日に、御開山の『御傳』を聖人御前にて上樣あそばされて、いろいろ御法談さふらふ。なかなかありがたさまうすばかりなく候。 (二九) 一 明應六年四月十六日御上洛にて、その日御開山聖人の御影の正本、あつがみⅤ-0535一枚につゝませ、みづからの御筆にて御座候とて、上樣御手に御ひろげさふらひて、みなにおがませたまへり。この正本、まことに宿善なくては拜見まうさぬことなりと仰られ候。 (三〇) 一 のたまはく、「諸佛三業莊嚴して 畢竟平等なることは 衆生虛誑の身口意を 治せんがためとのべたまふ」(高僧*和讚)といふは、諸佛の彌陀に歸して衆生をたすけらるゝことよと仰られ候。 (三一) 一 一念の信心をえてのちの相續といふは、さらに別のことにあらず、はじめ發起するところの安心を相續せられてたふとくなる一念のこゝろのとほるを、「憶念の心つねに」(淨土*和讚)とも「佛恩報謝」ともいふなり。いよいよ歸命の一念、發起すること肝要なりとおほせ候なり。 (三二) 一 のたまはく、朝夕、「正信偈和讚」にて念佛まうすは、往生のたねになるべきかなるまじきかと、をのをの坊主に御たづねあり。みなまうされけるは、往生のⅤ-0536たねになるべしとまうしたる人もあり、往生のたねにはなるまじきといふ人もありけるとき、仰に、いづれもわろし。「正信偈和讚」は、衆生の彌陀如來を一念にたのみまいらせて、後生たすかりまうせとのことはりをあそばされたり。よくきゝわけて信をとりて、ありがたやありがたやと聖人の御前にてよろこぶことなりと、くれぐれ仰候なり。 (三三) 一 南无阿彌陀佛の六字を、他宗には大善大功德にてあるあひだ、となへてこの功德を諸佛・菩薩・諸天にまいらせて、その功德をわがものがほにするなり。一流にはさなし。この六字の名號わがものにてありてこそ、となへて佛・菩薩にまいらすべけれ。一念一心に後生たすけたまへとたのめば、やがて御たすけにあづかることのありがたさありがたさとまうすばかりなりと仰候なり。 (三四) 一 三河の國淺井の後室、御いとまごひにとてまいり候に、富田殿へ御下向のあしたのことなれば、ことのほかの御とりみだしにて御座候に、仰に、名號をたゞとなへて佛にまいらするこゝろにてはゆめゆめなし。彌陀をしかと御たすけ候へⅤ-0537とたのみまいらすれば、やがて佛の御たすけにあづかるを南无阿彌陀佛とまうすなり。しかれば御たすけにあづかりたることのありがたさよありがたさよと、こゝろにおもひまいらするを、くちにいだして南无阿彌陀佛南无阿彌陀佛とまうすを、佛恩を報ずるとはまうすことなりと仰候ひき。 (三五) 一 順誓まうしあげられ候。一念發起のところにて、罪みな消滅して正定聚不退のくらゐにさだまると、「御文」にあそばされたり。しかるにつみはいのちのあるあひだ、つみもあるべしとおほせさふらふ。「御文」と別にきこえまうしさふらふやと、まうしあげ候とき、仰に、一念のところにて罪皆きえてとあるは、一念の信力にて往生さだまるときは、罪はさはりともならず、去れば无き分なり。命の娑婆にあらんかぎりは、罪はつきざるなり。順誓は、はや悟てつみはなきかや。聖敎には「一念のところにてつみきえて」とあるなりと仰られ候。罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取たるか取ざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。罪きえて御たすけあらんとも、つみ消ずして御たすけあるべしとも、彌陀の御はからひなり、我としてはからふべからず。たゞ信心肝要なりと、くれぐれ仰られⅤ-0538候なり。 (三六) 一 「眞實信心の稱名は 彌陀廻向の法なれば 不廻向となづけてぞ 自力の稱念きらはるゝ」(正像末*和讚)といふは、彌陀のかたより、たのむこゝろも、たふとやありがたやと念佛まうすこゝろも、みなあたへたまふゆへに、とやせんかくやせんとはからふて念佛申すは、自力なればきらふなりと仰せさふらふなり。 (三七) 一 无生の生とは、極樂の生は三界をへめぐるこゝろにてあらざれば、極樂の生は无生の生といふなり。 (三八) 一 廻向といふは、彌陀如來の衆生を御たすけをいふなりと仰られ候なり。 (三九) 一 仰に、一念發起の義、往生は決定なり。つみけして助たまはんとも、罪けさずしてたすけたまはんとも、彌陀如來の御はからひなり。つみの沙汰无益なり。たのむ衆生を本とたすけたまふ事なりと仰られ候なり。 Ⅴ-0539(四〇) 一 仰に、身をすてゝをのをのと同座するをば、聖人のおほせにも、四海の信心の人はみな兄弟と仰られたれば、我もその御ことばのごとくなり。また同座をもしてあらば、不審なることをもとへかし、信をよくとれかしとねがふばかりなりと仰られ候なり。 (四一) 一 「愛欲の廣海に沈沒し、名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、眞證の證にちかづく事をたのしまず」(信卷)とまうす沙汰に、不審のあつかひどもにて、往生せんずるか、すまじきなんどゝ互にまうしあひけるを、ものごしにきこしめされて、愛欲も名利もみな煩惱なり、されば機のあつかひをするは雜修なりとおほせ候なり。たゞ信ずるほかは別のことなしと仰られ候。 (四二) 一 ゆふさり、案内をもまうさず、ひとびとおほくまいりたるを、美濃殿まかりいで候へと、あらあらと御まうしのところに、仰に、さやうにいはんことばにて、一念のことをいひてきかせてかへせかしと。東西を走まはりていひたきことなりⅤ-0540と仰られ候とき、慶聞房なみだを流し、あやまりて候とて讚嘆ありけり。皆々落淚まうす事かぎりなかりけり。 (四三) 一 明應六年十一月、報恩講に御上洛なく候あひだ、法慶坊御使として、當年は御在國にて御座さふらふあひだ、御講をなにと御沙汰あるべきやと、たづね御まうし候に、當年よりは夕の六どき朝の六どきをかぎりに、みな退散あるべしとの「御文」をつくらせて、かくのごとくめさるべきよし御掟あり。御堂の夜の宿衆もその日の頭人ばかりと御掟なり。また上樣は七日の御講のうちを富田殿にて三日御つとめありて、廿四日には大坂殿へ御下向にて御勤行なり。 (四四) 一 同七年の夏よりまた御違例にて御座候あひだ、五月七日に御いとまごひに聖人へ御まいりありたきとおほせられて、御上洛にて、やがておほせに、信心なきひとにはあふまじきぞ。信をうるものには召てもみたくさふらふ、逢べしと仰なりと[云云]。 Ⅴ-0541(四五) 一 今の人は古をたづぬべし。また古ひとは古をよくつたふべし。物語はうするものなり。書したるものはうせず候。 (四六) 一 赤尾の道宗まうされ候。一日のたしなみには、朝つとめにかゝさじとたしなむべし。一月のたしなみには、ちかきところ御開山樣の御座候ところへ參べしとたしなめ、一年のたしなみには、御本寺へ參べしと嗜べしと[云云]。これを圓如樣きこしめし及れ、能申たるとおほせられ候。 (四七) 一 我が心にまかせずして心を責よ。佛法は心のつまる物かとおもへば、信心に御なぐさみ候と仰られ候。 (四八) 一 法敬坊九十まで存命さふらふ。この歲まで聽聞まうしさふらへども、これまでと存知たることなし、あきたりもなき事なりとまうされ候。 (四九) 一 山科にて御法談の御座候とき、あまりにありがたき御掟どもなりとて、これⅤ-0542を忘まうしてはと存じ、御座敷をたち御堂へ六人よりて談合さふらへば、面々にきゝかへられ候。そのうちに四人はちがひさふらふ。大事のことにて候とまうす事なり。聞まどひあるものなり。 (五〇) 一 蓮如上人の御とき、こゝろざしの衆も御前におほく候とき、このうちに信をえたるものいくたりあるべきぞ、一人か二人かあるべきか、など御掟候とき、をのをのきもをつぶし候とまうされさふらふ由に候。 (五一) 一 法慶まうされさふらふ。讚嘆のときなにもおなじやうにきかで、聽聞はかどをきけとまうされさふらふ。詮あるところをきけとなり。 (五二) 一 「憶念稱名いさみありて」(報恩講*私記)とは、稱名はいさみの念佛なり。信のうへはうれしくいさみてまうす念佛なり。 (五三) 一 「御文」のこと、聖敎はよみちがへもあり、こゝろえもゆかぬところもあり。Ⅴ-0543「御文」はよみちがへもあるまじきとおほせられさふらふ。御慈悲のきはまりなり。これをきゝながらこゝろえのゆかぬは无宿善の機なり。 (五四) 一 御一流の御こと、このとしまで聽聞まうしさふらふて、御ことばをうけたまはりさふらへども、たゞ心が御ことばのごとくならずと、法慶まうされ候。 (五五) 一 實如上人、さいさい仰られ候。佛法のこと、わがこゝろにまかせずたしなめと御掟なり。こゝろにまかせては、さてなり。すなはちこゝろにまかせずたしなむ心は他力なり。 (五六) 一 御一流の義を承はりわけたるひとは有ども、聞うる人は少なりといへり。信をうる機まれなりといへる意なり。 (五七) 一 蓮如上人の御掟には、佛法のことをいふに、世間のことにとりなす人のみなり。それを退屈せずして、また佛法のことにとりなせと仰られ候なり。 Ⅴ-0544(五八) 一 たれのともがらも、われはわろきとおもふもの、ひとりとしてもあるべからず。これしかしながら、聖人の御罰をかうぶりたるすがたなり。これによりて一人づゝも心中をひるがへさずは、ながき世泥梨にふかくしづむべきものなり。これといふもなにごとぞなれば、眞實に佛法のそこをしらざるゆへなり。 (五九) 一 「みなひとのまことの信はさらになし ものしりがほのふぜいにてこそ」。近松殿の堺へ御下向のとき、なげしにおしてをかせられ候。あとにてこのこゝろをおもひいだしさふらへと御掟なり。光應寺殿の御不審なり。「ものしりがほ」とは、我はこゝろえたりとおもふがこのこゝろなり。 (六〇) 一 法慶坊、安心のとほりばかり讚嘆するひとなり。「言南无者」(玄義分)の釋をば、いつもはづさずひく人なり。それさへ、さしよせてまうせと、蓮如上人御掟候なり。ことばすくなに安心のとほり申せと御掟なり。 Ⅴ-0545(六一) 一 善宗まうされ候。こゝろざしまうし候とき、わがものがほにもちてまいるははづかしきよしまうされ候。なにとしたることにて候やとまうし候へば、これはみな御用のものにてあるを、わがものゝやうにもちてまいるとまうされ候。たゞ上樣のもの、とりつぎ候ことにて候を、我ものがほに存ずるかとまうされ候。 (六二) 一 津國ぐんけの主計とまうす人あり。ひまなく念佛まうす間、ひげをそるとき切ぬことなし。わすれて念佛まうすなり。人はくちはたらかねば念佛もすこしのあひだもまうされぬかと、こゝろもとなき由に候。 (六三) 一 佛法者まうされ候。わかきとき佛法はたしなめと候。としよれば行步もかなはず、ねぶたくもあるなり。たゞわかきときたしなめと候。 (六四) 一 衆生をしつらひたまふ。しつらふといふは、衆生のこゝろをそのまゝをきて、よきこゝろを御くはへさふらひて、よくめされ候。衆生のこゝろをみなとりかへて、佛智ばかりにて、別に御みたて候ことにてはなくさふらふ。 Ⅴ-0546(六五) 一 わが妻子ほど不便なることなし。それを勸化せぬはあさましきことなり。宿善なくはちからなし。わが身をひとつ勸化せぬものがあるべきか。 (六六) 一 慶聞坊のいはれ候。信はなくてまぎれまはると、日に日に地獄がちかくなる。まぎれまはるがあらはれば地獄がちかくなるなり。うちみは信不信みえずさふらふ。とをくいのちをもたずして、今日ばかりとおもへと、ふるきこゝろざしのひと申され候。 (六七) 一 一度のちがひが一期のちがひなり。一度のたしなみが一期のたしなみなり。そのゆへはそのまゝいのちをはれば、一期のちがひになるによりてなり。 (六八) 一 「今日ばかりおもふこゝろをわするなよ さなきはいとゞのぞみおほきに」[覺如樣御歌] Ⅴ-0547(六九) 一 他流には、名號よりは繪像、繪像よりは木像といふなり。當流には、木像よりはゑざふ、繪像よりは名號といふなり。 (七〇) 一 御本寺北殿にて法敬坊に對して蓮如上人仰せられ候。われは何事をも當機をかゞみおぼしめし、十あるものを一にするやうに、かろがろと理のやがて叶樣に御沙汰候。是を人が考へぬと仰られ候。「御文」等をも近年は御ことばすくなにあそばされ候。今はものを聞うちにも退屈し、物を聞おとす間だ、肝要の事をやがてしり候やうにあそばされ候の由仰られ候。 (七一) 一 法印兼縁、幼少の時、俣にてあまた小名號を申入候時、信心やある、をのをのと仰られ候。信心は體名號にて候。今思合せ候との義に候。 (七二) 一 蓮如上人仰られ候。堺の日向屋は三拾萬貫を持たれども、死たるが佛にはなり候まじ。大和の了妙は帷びら一をもきかね候へども、此度佛になるべきよと、仰られ候由に候。 Ⅴ-0548(七三) 一 蓮如上人へ久寶寺の法性申され候は、一念に後生御たすけ候へと彌陀をたのみ奉り候計にて往生一定と存候。かやうにて御入候かと申され候へば、或人わきより、それはいつもの事にて候。別のこと、不審なることなど申され候はでと申され候へば、蓮如上人仰られ候。それぞとよ、わろきとは。めづらしき事を聞たくおもひしりたく思ふなり。信のうへにてはいくたびも心中のをもむき、かやうに申さるべきことなるよし仰られ候。 (七四) 一 蓮如上人仰られ候。一向に不信の由申さるゝ人はよく候。ことばにて安心のとほり申候て、口には同ごとくにて、まぎれて空くなるべき人を悲く覺候由仰られ候なり。 (七五) 一 聖人の御一流は阿彌陀如來の御掟なり。されば「御文」(四帖*九)には「阿彌陀如來の仰られけるやうは」とあそばされ候。 Ⅴ-0549(七六) 一 蓮如上人、法敬に對せられ仰られ候。今此の彌陀をたのめといふことを御敎へ候人をしりたるかと仰られ候。順誓、存ぜずと申され候。今御をしへ候人をいふべし。鍛冶・番匠なども物ををしふるに物を出すものなり。一大事のことなり。何ぞものをまいらせよ。いふべきと仰られ候時、順誓、なかなか何たるもの成とも進上いたすべきと申され候。蓮如上人仰られ候。此事ををしふる人は阿彌陀如來にて候。阿彌陀如來のわれをたのめとの御をしへにて候由仰られ候。 (七七) 一 法敬坊、蓮如上人へ申され候。あそばされ候御名號燒申候が、六體の佛になり申候。不思議なる事と申され候へば、前々住上人其時仰られ候。それは不思議にてもなきなり。佛の佛に御なり候は不思議にてもなく候。惡凡夫の彌陀をたのむ一念にて佛になるこそ不思議よと仰られ候なり。 (七八) 一 朝夕は如來・聖人の御用にて候あひだ、冥加のかたをふかく存ずべき由、折々前々住上人仰せられ候由に候。 Ⅴ-0550(七九) 一 前々住上人仰られ候。「かむとはしるとも、呑としらすな」といふことがあるぞ。妻子を帶し魚鳥を服し、罪障の身なりといひて、さのみ思のまゝにはあるまじき由仰られ候。 (八〇) 一 佛法には无我と仰られ候。我と思ことはいさゝかあるまじきこと也。われはわろしとおもふ人なし。これ聖人の御罰なりと御詞候。他力の御すゝめにて候。ゆめゆめ我といふことはあるまじく候。无我といふ事、前住上人も度々仰られ候。 (八一) 一 「日比しれるところを善知識にあひてとへば德分あるなり」(浄土見*聞集意)。しれるところをとへば德分あるといへるが殊勝のことばなりと、蓮如上人仰られ候。不知處をとはゞいかほど殊勝なることあるべきと仰られ候。 (八二) 一 聽聞を申も大略我ためとはおもはず、やゝもすれば法文の一をもきゝおぼえて、人にうりごゝろあるとの仰ごとにて候。 Ⅴ-0551(八三) 一 一心にたのみ奉る機は、如來のよくしろしめすなり。彌陀の唯しろしめすやうに心中をもつべし。冥加をおそろしく存ずべきことにて候との義に候。 (八四) 一 前住上人仰られ候。前々住より御相續の義は別義なきなり。只彌陀たのむ一念の義より外は別義なく候。これより外御存知なく候。いかやうの御誓言もあるべき由仰られ候。 (八五) 一 同仰られ候。凡夫往生、たゞたのむ一念にて佛にならぬ事あらば、いかなる御誓言をも仰らるべき。證據は南无阿彌陀佛なり。十方の諸佛、證人にて候。 (八六) 一 蓮如上人仰られ候。物をいへいへと仰られ候。物を申さぬ者はおそろしきと仰られ候。信不信ともに、たゞ物をいへと仰られ候。物を申せば心底もきこえ、又人にもなをさるゝなり。たゞ物を申せと仰られ候。 (八七) 一 蓮如上人仰られ候。佛法は、つとめのふしはかせもしらでよくすると思ふなⅤ-0552り。つとめのふしわろきよしを仰られ、慶聞坊をいつもとりつめ仰られつる由に候。それに付て蓮如上人仰られ候。一向にわろき人はちがひなどゝいふ事もなし。たゞわろきまでなり。わろしとも仰ごともなきなり。法義をもこゝろにかけ、ちとこゝろえもある上のちがひが、ことの外の違ひなりと仰られ候由に候。 (八八) 一 人のこゝろえのとほり申されけるに、我こゝろはたゞかごに水を入候やうに、佛法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存候が、やがてもとの心中になされ候と申され候所に、前々住上人仰られ候。そのかごを水につけよ、我みをば法にひてゝをくべきよし仰られ候由に候。萬事信なきによりてわろきなり。善知識のわろきと仰らるゝは、信のなきことをくせごとゝ仰られ候事に候。 (八九) 一 聖敎を拜見申すも、うかうかとおがみ申すはその詮なし。蓮如上人は、たゞ聖敎をばくれくれと仰られ候。又「百遍これをみれば義理をのづからうる」と申す事もあれば、心をとゞむべきことなり。聖敎は句面のごとくこゝろうべし。其上にて師傳口業はあるべきなり。私にして會釋すること然べからざる事なり。 Ⅴ-0553(九〇) 一 前々住上人仰られ候。他力信心他力信心とみれば、あやまりなきよし仰られ候。 (九一) 一 我ばかりと思ひ、獨覺心なること、あさましきことなり。信あらば佛の慈悲をうけとり申す上は、我ばかりと思ふことはあるまじく候。觸光柔輭の願候ときは、心もやはらぐべきことなり。されば縁覺は獨覺のさとりなるがゆへに、佛にならざるなり。 (九二) 一 一句一言も申す者は、我と思て物を申すなり。信のうへはわれはわろしと思ひ、又報謝と思ひ、ありがたさのあまりを人にも申すことなるべし。 (九三) 一 信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、我は物をもたずして人に物をとらすべきといふの心なり。人、承引あるべからずと、前住上人申さると順誓に仰られ候き。「自信敎人信」(禮讚)と候時は、まづ我が信心決定して、人にも敎Ⅴ-0554て佛恩になるとのことに候。自身の安心決定して敎るは、すなはち「大悲傳普化」(禮讚)の道理なる由、同く仰られ候。 (九四) 一 蓮如上人仰られ候。聖敎よみの聖敎よまずあり、聖敎よまずの聖敎よみあり。一文字をもしらねども、人に聖敎をよませ聽聞させて信をとらするは、聖敎よまずの聖敎よみなり。聖敎をばよめども、眞實によみもせず法義もなきは、聖敎よみの聖敎よまずなりと仰られ候。 自信敎人信の道理也と仰られ候事。 (九五) 一 聖敎よみの、佛法を申たてたることはなく候。尼入道のたぐひのたふとやありがたやと申され候をきゝては、人が信をとると、前々住上人仰られ候由に候。何もしらねども、佛の加備力の故に尼入道などのよろこばるゝをきゝては、人も信をとるなり。聖敎をよめども、名聞がさきにたちて心には法なき故に、人の信用なき也。 Ⅴ-0555(九六) 一 蓮如上人仰られ候。當流には、總體、世間機わろし。佛法のうへより何事もあひはたらくべきことなるよし仰られ候と[云云]。 (九七) 一 同仰られ候。世間にて時宜しかるべきはよき人なりといへども、信なくは心ををくべきなり。便にもならぬなり。假令片目つぶれ腰をひき候やうなるものなりとも、信心あらん人をばたのもしく思ふべきなりと仰られ候。 (九八) 一 君を思ふは我を思ふなり。善知識の仰に隨ひ信をとれば、極樂へ參る者なり。 (九九) 一 久遠劫より久き佛は阿彌陀佛なり。かりに果後の方便によりて誓願をまうけたまふことなり。 (一〇〇) 一 前々住上人仰られ候。彌陀をたのめる人は、南无阿彌陀佛に身をばまるめたる事なりと仰られ候と[云云]。彌冥加を存ずべきの由に候。 Ⅴ-0556(一〇一) 一 丹後法眼[蓮應]衣裳とゝのへられ、前々住上人の御前に伺候さふらひし時、仰られ候。衣のえりを御たゝきありて、南无阿彌陀佛よと仰られ候。又前住上人は御たゝみをたゝかれ、南无阿彌陀佛にもたれたる由仰られ候き。南无阿彌陀佛に身をばまるめたると仰られ候と符合申候。 (一〇二) 一 前々住上人仰られ候。佛法のうへには、每事に付て空おそろしき事と存候べく候。たゞよろづに付て油斷あるまじき事と存候への由、折々に仰られ候と[云云]。佛法には明日と申事有間敷候。佛法の事はいそげいそげと仰られ候なり。 (一〇三) 一 同仰に、今日の日はあるまじきと思へと仰られ候。何事もかきいそぎて物を御沙汰候由に候。ながながしたる事を御嫌の由に候。佛法のうへには、明日のことを今日するやうにいそぎたる事、賞翫なり。 (一〇四) 一 同仰にいはく、聖人の御影を申すは大事のことなり。昔は御本尊よりほかは御座なきことなり。信なくは必御罰を蒙るべき由仰られ候。 Ⅴ-0557(一〇五) 一 時節到來といふこと、用心をもして其上に事の出來候を、時節到來とはいふべし。无用心にて出來候を、時節到來とはいはぬことなり。聽聞を心がけてのうへの宿善・无宿善ともいふ事なり。たゞ信心はきくにきはまる事なる由仰の由候。 (一〇六) 一 前々住上人、法敬に對して仰られ候。まきたてといふもの知たるかと。法敬御返事に、まきたてと申すは一度たねをまきて手をさゝぬものに候と申され候。仰にいはく、それぞ、まきたてわろきなり。人になをされまじきと思ふこゝろなり。心中をば申出して人になをされ候はでは、心得のなをることあるべからず。まきたてにては信をとることあるべからずと仰られ候[云云]。 (一〇七) 一 何ともして人になをされ候やうに心中を持べし。我心中をば同行の中へうち出してをくべし。下としたる人のいふことをば用ひずして必ず腹立するなり。あさましきことなり。たゞ人になをさるゝやうに心中を持べき義に候。 Ⅴ-0558(一〇八) 一 人の、前々住上人へ申され候。一念の處決定にて候。やゝもすれば、善知識の御ことばをおろそかに存候由申され候へば、仰られ候は、最も信のうへは崇仰の心あるべきなり。さりながら凡夫の心にては、加樣の心中のおこらん時は勿體なき事とおもひすつべしと仰られしと[云云]。 (一〇九) 一 蓮如上人、兼縁に對せられ仰られ候。たとひ木の皮をきるいろめなりとも、なわびそ。たゞ彌陀をたのむ一念をよろこぶべき由仰られ候。 (一一〇) 一 前々住上人仰られ候。上下老若によらず、後生は油斷にてしそんずべきの由仰られ候。 (一一一) 一 前々住上人御口のうち御煩候に、おりふし御目をふさがれ、あゝ、と仰られ候。人の信なきことを思ふ事は、身をきりさくやうにかなしきよと仰られ候由に候。 Ⅴ-0559(一一二) 一 同仰に、我は人の機をかゞみ、人にしたがひて佛法を御聞せ候由仰られ候。いかにも人のすきたる事など申させられ、うれしやと存候處に、又佛法の事を仰られ候。いろいろ御方便にて、人に法を御聞せ候つる由に候。 (一一三) 一 前々住上人仰られ候。人々の佛法を信じて我によろこばせんと思へり。それはわろし。信をとれば自身の勝德なり。さりながら信をとらば、恩にも御うけあるべきと仰られ候。又聞たくもなき事なりとも、まことに信をとるべきならば、きこしめすべき由仰られ候。 (一一四) 一 同仰に、まことに一人なりとも信をとるべきならば、身を捨よ。それはすたらぬと仰られ候。 (一一五) 一 あるとき仰られ候。御門徒の心得をなをすときこしめして、老の皺をのべ候と仰られ候。 Ⅴ-0560(一一六) 一 ある御門徒衆に御尋候。そなたの坊主、心得のなをりたるをうれしく存ずるかと御尋候へば、申され候。寔に心得をなをされ、法義を心にかけられ候。一段ありがたくうれしく存じ候由申され候。その時仰られ候。われはなをうれしく思ふよと仰られ候。 (一一七) 一 おかしき事態をもさせられ、佛法に退屈仕候者の心をもくつろげ、其氣をもうしなはして、又あたらしく法を仰られ候。誠に善巧方便、ありがたき事なり。 (一一八) 一 天王寺土塔會、前々住上人御覽候て仰られ候。あれほどの多き人ども地獄へおつべしと、不便に思召候由仰られ候。又其中に御門徒の人は佛になるべしと仰られ候。是又ありがたき仰にて候。 蓮如上人御一代記聞書[本] Ⅴ-0561蓮如上人御一代記聞書[末] (一一九) 一 前々住上人、御法談已後、四、五人の御兄弟へ仰られ候。四、五人の衆寄合談合せよ。必ず五人は五人ながら意巧にきくものなる間、能々談合すべきの由仰られ候。 (一二〇) 一 たとひなき事成とも、人申候はゞ、當座領掌すべし。當座に詞を返せば、ふたゝびいはざるなり。人のいふ事をばたゞふかく用心すべきなり。是に付てある人、あひたがひにあしき事を申すべしと、契約候し處に、すなはち一人のあしきさまなること申しければ、我は左樣に存ぜざれども、人の申す間左樣に候と申す。されば此返答あしきとの事に候。さなきことなりとも、當座はさぞと申べき事なり。 (一二一) 一 一宗之繁昌と申は、人の多くあつまり、威の大なる事にてはなく候。一人なⅤ-0562りとも、人の信を取が、一宗の繁昌に候。然ば「專修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」(報恩講*私記)とあそばされをかれ候。 (一二二) 一 前々住上人仰られ候。聽聞心に入れ申さんと思ふ人はあり、信をとらんずると思ふ人なし。されば極樂はたのしむと聞て、參んと願ひのぞむ人は佛にならず、彌陀をたのむ人は佛になると仰られ候。 (一二三) 一 聖敎をすきこしらへもちたる人の子孫には、佛法者いでくるものなり。一たび佛法をたしなみさふらふ人は、おほやうなれどもおどろきやすきなり。 (一二四) 一 「御文」は如來の直說なりと存ずべきの由に候。形をみれば法然、詞を聞ば彌陀の直說といへり。 (一二五) 一 蓮如上人御病中に、慶聞に、何ぞ物をよめと仰られ候とき、「御文」をよみ申すべきかと申され候。さらばよみ申せと仰られ候。三通二度づゝ六遍よませられⅤ-0563て仰られ候。我つくりたるものなれども、殊勝なるよと仰られ候。 (一二六) 一 順誓申されしと[云云]。常には我前にてはいはずして、後言いふとて腹立することなり。我はさやうには存ぜず候。我前にて申にくゝは、かげにてなりとも我わろき事を申されよ。聞て心中をなをすべき由申され候。 (一二七) 一 前々住上人仰られ候。佛法のためと思召候へば、なにたる御辛勞をも御辛勞とは思召れぬ由仰られ候。御心まめにて、何事も御沙汰候由なり。 (一二八) 一 法にはあらめなるがわろし。世間には微細なるといへども、佛法には微細に心をもち、こまかに心をはこぶべき由仰られ候。 (一二九) 一 とをきはちかき道理、ちかきはとをき道理あり。「燈臺もとくらし」とて、佛法を不斷聽聞申す身は、御用を厚かうぶりて、いつものことゝ思ひ、法義にをろそかなり。とをく候人は、佛法をきゝたく大切にもとむるこゝろありけり。佛法Ⅴ-0564は大切にもとむるよりきくものなり。 (一三〇) 一 ひとつことを聞て、いつもめづらしく初たるやうに、信のうへにはあるべきなり。たゞ珍しきことをきゝたく思ふなり。ひとつことを幾度聽聞申すとも、めづらしくはじめたるやうにあるべきなり。 (一三一) 一 道宗は、たゞ一御詞をいつも聽聞申が、初たるやうに難有由申され候。 (一三二) 一 念佛申も、人の名聞げにおもはれんと思ひてたしなむが大儀なる由、或人申され候。つねの人の心中にかはり候事。 (一三三) 一 同行同侶の目をはぢて冥慮をおそれず。たゞ冥見をおそろしく存ずべきことなり。 (一三四) 一 たとひ正義たりとも、しげからんことをば停止すべき由候。まして世間の儀Ⅴ-0565停止候はぬことしかるべからず。いよいよ增長すべきは信心にて候。 (一三五) 一 蓮如上人仰られ候。佛法にはまいらせ心わろし。是をして御心に叶はんと思ふ心なり。佛法のうへは何事も報謝と存ずべきなりと[云云]。 (一三六) 一 人の身には眼・耳・鼻・舌・身・意の六賊ありて善心をうばふ。これは諸行のことなり。念佛はしからず。佛智の心をうるゆへに、貪瞋癡の煩惱をば佛の方より刹那にけしたまふなり。故に「貪瞋煩惱中能生淸淨願往生心」(散善義)といへり。「正信偈」には、「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明无闇」(行卷)といへり。 (一三七) 一 一句一言を聽聞するとも、たゞ得手に法を聞なり。たゞよくきゝ、心中のとほりを同行にあひ談合すべきことなりと[云云]。 (一三八) 一 前々住上人仰られ候。神にも佛にも馴ては、手ですべきことを足にてするぞと仰られける。如來・聖人・善知識にもなれ申ほど御こゝろやすく思なり。馴申Ⅴ-0566ほど彌渴仰の心をふかくはこぶべき事尤なる由仰られ候。 (一三九) 一 くちと身のはたらきとは似するものなり。心根がよくなりがたきものなり。涯分、心の方を嗜み申すべきことなりと[云云]。 (一四〇) 一 衣裳等にいたるまで、我物と思ひ踏たゝくる事淺間敷事なり。悉く聖人の御用物にて候間、前々住上人はめし物など御足にあたり候へば、御いたゞき候由うけたまはり及び候。 (一四一) 一 王法は額にあてよ、佛法は内心に深く蓄よとの仰に候。仁義といふ事も、端正あるべきことなるよしに候。 (一四二) 一 蓮如上人御若年の比、御迷惑のことにて候し。たゞ御代にて佛法を仰たてられんと思召候御念力一にて御繁昌候。御辛勞故に候。 Ⅴ-0567(一四三) 一 御病中に蓮如上人仰られ候。御代に佛法を是非とも御再興あらんと思召候御念力一にて、かやうに今まで皆々心やすくあることは、此法師が冥加に叶によりてのことなりと御自讚ありと[云云]。 (一四四) 一 前々住上人は、昔はこぶくめをめされ候。白小袖とて御心やすく召れ候御事も御座なく候由に候。いろいろ御かなしかりける事ども、折々御物語候。今々の者はさやうの事を承り候て、冥加を存ずべきの由、くれぐれ仰られ候。 (一四五) 一 よろづ御迷惑にて、油をめされ候はんにも御用脚なく、やうやう京の黑木をすこしづゝ御とり候て、聖敎など御覽候由に候。又少々は月の光にても聖敎をあそばされ候。御足をも大概水にて御洗候。亦二、三日も御膳まいり候はぬ事も候由承りをよび候。 (一四六) 一 人をも甲斐甲斐敷めしつかはれ候はであるうへは、幼童の襁褓をもひとり御洗候などゝ被仰候。 Ⅴ-0568(一四七) 一 存如上人召遣はれ候小者を、御雇候てめしつかはれ候由に候。存如上人は人を五人めしつかはれ候。蓮如上人御隱居の時も、五人めしつかはれ候。當時は御用とて心のまゝなる事、そらおそろしく、身もいたくかなしく存ずべき事にて候。 (一四八) 一 前々住上人仰られ候。昔は佛前に伺候の人は、本は紙絹に輻をさし著候。今は白小袖にて、結句きがへを所持候。これ其比は禁裏にも御迷惑にて、質ををかれて御用にさせられ候と、引ことに御沙汰候。 (一四九) 一 又仰られ候。御貧く候て、京にて古き綿を御とり候て、御一人ひろげ候事あり。又御衣はかたの破たるをめされ候。白き御小袖は美濃絹のわろきをもとめ、やうやう一つめされ候よし仰られ候。當時はかやうの事をもしり候はで、あるべきやうに皆々存じ候程に、冥加につき申べし。一大事也。 (一五〇) 一 同行・善知識にはよくよくちかづくべし。「親近せざるは雜修の失なり」とⅤ-0569『禮讚』(意)にあらはせり。あしきものにちかづけば、それには馴じと思へども、惡事よりよりにあり。たゞ佛法者には馴ちかづくべき由仰られ候。俗典にいはく、「人の善惡は近習ふによる」(貞觀*政要)と、また「その人をしらんとおもはゞ、その友をみよ」(論語意)といへり。「善人の敵とはなるとも、惡人を友とすることなかれ」(五常内*義抄意)といふ事あり。 (一五一) 一 「きれば彌かたく、仰げば彌たかし」(論語意)といふことあり。物をきりてみてかたきとしるなり。本願を信じて殊勝なるほどもしるなり。信心おこりぬれば、たふとくありがたく、よろこびも增長あるなり。 (一五二) 一 凡夫の身にて後生たすかることは、たゞ易きとばかり思へり。「難中之難」(大經*卷下)とあれば、堅くおこし難き信なれども、佛智より易得成就したまふ事なり。「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきにあらず」(執持鈔)といへり。前住上人仰に、後生一大事と存ずる人には御同心あるべきよし仰られ候と[云云]。 (一五三) 一 佛說に信謗あるべきよし說をきたまへり。信ずる者ばかりにて謗ずる人なくⅤ-0570は、ときをきたまふこといかゞとも思ふべきに、はや謗ずるものあるうへは、信ぜんにをいては必往生決定との仰に候。 (一五四) 一 同行のまへにてはよろこぶものなり、これ名聞なり。信のうへは一人居てよろこぶ法なり。 (一五五) 一 佛法には世間のひまを闕てきくべし。世間の隙をあけて法をきくべき樣に思ふ事、淺間敷ことなり。佛法には明日といふ事はあるまじき由の仰に候。「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 佛の御名をきく人は ながく不退にかなふなり」と、『和讚』(淨土*和讚)にあそばされ候。 (一五六) 一 法敬申され候と[云云]。人より合、雜談ありしなかばに、ある人ふと座敷を立れ候。上人いかにと仰ければ、一大事の急用ありとてたゝれけり。其後、先日はいかにふとたゝれ候やと問ければ、申され候。佛法の物語、約束申たる間、あるもあられずしてまかりたち候由申され候。法義にはかやうにぞ心をかけ候べき事Ⅴ-0571なる由申され候。 (一五七) 一 佛法をあるじとし、世間を客人とせよといへり。佛法のうへよりは、世間のことは時にしたがひ相はたらくべき事なりと[云云]。 (一五八) 一 前々住上人、南殿にて存覺御作分の聖敎ちと不審なる所の候を、いかゞとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰られ候。名人のせられ候物をばそのまゝにて置ことなり。これが名譽なりと仰られ候也。 (一五九) 一 前々住上人へある人申され候。開山の御時のこと申され候。是はいかやうの子細にて候と申されければ、仰られ候。我もしらぬことなり。何事も何事もしらぬことをも、開山のめされ候やうに御沙汰候と仰られ候。 (一六〇) 一 總體、人にはをとるまじきと思ふ心あり。此心にて世間には物をしならふなり。佛法には无我にて候うへは、人にまけて信をとるべきなり。理をみて情をおⅤ-0572るこそ、佛の御慈悲よと仰られ候。 (一六一) 一 一心とは、彌陀をたのめば如來の佛心とひとつになしたまふがゆへに、一心といへり。 (一六二) 一 或人申され候と[云云]。我は井の水をのむも、佛法の御用なれば、水の一口も、如來・聖人の御用と存候由申され候。 (一六三) 一 蓮如上人御病中に仰られ候。御自身何事も思召立候ことの、成行ほどのことはあれども、成らずといふことなし。人の信なきことばかりかなしく御なげきは思召の由仰られ候。 (一六四) 一 同仰に、何事をも思召まゝに御沙汰あり。聖人の御一流をも御再興候て、本堂・御影堂をもたてられ、御住持をも御相續ありて、大坂殿を御建立有て御隱居候。然ば我は「功成名遂て身退は天の道也」(老子)といふこと、其れ御身の上なるべⅤ-0573きよし仰られさふらふと。 (一六五) 一 敵の陣に火をともすを、火にてなきとは思はず。いかなる人なりとも、御ことばのとほりを申し、御詞をよみ申さば、信仰し、うけたまはるべき事なりと。 (一六六) 一 蓮如上人、おりおり仰られ候。佛法の義をば能々人にとへ。物をば人によくとひ申せのよし仰られ候。誰にとひ申べき由うかゞひ申ければ、佛法だにもあらば、上下をいはずとふべし。佛法はしりさふもなきものが知ぞと仰られ候と[云云]。 (一六七) 一 蓮如上人、无紋のものをきることを御きらひ候。殊勝さふにみゆるとの仰に候。又すみの黑き衣をき候を御きらひ候。墨のくろき衣をきて、御所へ參れば仰られ候。衣紋たゞしき殊勝の御僧の御出候と仰られ候て、いやわれは殊勝にもなし、たゞ彌陀の本願殊勝なるよし仰られ候。 (一六八) 一 大坂殿にて紋のある御小袖をさせられ、御座の上に掛られてをかれ候由に候。 Ⅴ-0574(一六九) 一 御膳まいり候時には、御合掌ありて、如來・聖人の御用にて衣食よと仰られ候。 (一七〇) 一 人はあがりあがりておちばをしらぬなり。たゞつゝしみて不斷そらおそろしきことゝ、每事に付て心をもつべきの由仰られ候。 (一七一) 一 往生は一人のしのぎなり。一人一人佛法を信じて後生をたすかる事なり。よそ事のやうに思ふ事は、且は我身をしらぬことなりと、圓如仰候ひき。 (一七二) 一 大坂殿にて或人、前々住上人に申され候。今朝曉より老たる者にて候が參られ候。神變なることなる由申され候へば、やがて仰られ候。信だにあれば辛勞とはおもはぬなり。信のうへは佛恩報謝と存じ候へば、苦勞とは思はぬなりと仰られしと[云云]。老者と申すは田上の了宗なりと[云云]。 Ⅴ-0575(一七三) 一 南殿にて人々よりあひ、心中を何かとあつかひ申所へ、前々住上人御出候て仰られ候。何事をいふぞ。たゞ何事のあつかひも思ひすてゝ、一心に彌陀をうたがひなくたのむばかりにて、往生は佛のかたより定ましますぞ。其證は南无阿彌陀佛よ。此うへは何事をかあつかふべきぞと仰られ候。若不審などを申にも、多事をたゞ御一言にてはらりと不審はれ候ひしと[云云]。 (一七四) 一 前々住上人、「おどろかすかひこそなけれ村雀 耳なれぬればなるこにぞのる」、此歌を御引ありて折々仰られ候。たゞ人は皆耳なれ雀なりと仰られしと[云云]。 (一七五) 一 心中をあらためんとまでは思ふ人はあれども、信をとらんと思ふ人はなきなりと仰られ候。 (一七六) 一 蓮如上人仰られ候。方便をわろしといふ事は有間敷なり。方便を以て眞實をあらはす廢立の義よくよくしるべし。彌陀・釋迦・善知識の善巧方便によりて、Ⅴ-0576眞實の信をばうることなる由仰られ候と[云云]。 (一七七) 一 「御文」はこれ凡夫往生の鏡なり。「御文」のうへに法門あるべきやうに思ふ人あり、大なる誤りなりと[云云]。 (一七八) 一 信のうへは佛恩の稱名退轉あるまじき事なり。或は心よりたふとく有難く存ずるをば佛恩と思ひ、たゞ念佛の申され候をば、それほどに思はざること、大なる誤りなり。自ら念佛の申され候こそ、佛智の御もよほし、佛恩の稱名なれと仰事に候。 (一七九) 一 蓮如上人仰られ候。信のうへは、たふとく思ひて申す念佛も、またふと申す念佛も佛恩にそなはるなり。他宗には、親のためまたなにのためなんどゝて念佛をつかふなり。聖人の御一流には、彌陀をたのむが念佛なり。其うへの稱名は、なにともあれ佛恩になるものなりと仰られ候[云云]。 Ⅴ-0577(一八〇) 一 或人いはく、前々住上人の御時、南殿とやらんにて、人、蜂を殺し候に、思ひよらず念佛申され候。其時何と思ふて念佛をば申たると仰られ候へば、たゞかあいやと存ずるばかりにて申候と申されければ、仰られ候は、信のうへは何ともあれ、念佛申は報謝の義と存ずべし。皆佛恩になると仰られ候。 (一八一) 一 南殿にて前々住上人、のうれんを打あげられて御出候とて、南无阿彌陀佛南无阿彌陀佛と仰られ候て、法敬此心しりたるかと仰られ候。なにとも存ぜずと申され候へば、仰られ候。これは我は御たすけ候、御うれしやたふとやと申心よと仰られ候[云云]。 (一八二) 一 蓮如上人へ、或人安心のとほり申され候W西國の人と云云R。安心の一通を申され候へば、仰られ候。申候ごとくの心中に候はゞ、それが肝要と仰られ候。 (一八三) 一 同仰られ候。當時ことばにては安心のとほり同やうに申され候ひし。然者、信治定の人に紛て、往生をしそんずべきことをかなしく思召候由仰られ候。 Ⅴ-0578(一八四) 一 信のうへは、さのみわろき事は有間敷候。或は人のいひ候などゝて、あしき事などはあるまじく候。今度生死の結句をきりて、安樂に生ぜんと思はん人、いかんとしてあしきさまなる事をすべきやと仰られ候。 (一八五) 一 仰にいはく、佛法をばさしよせていへいへと仰られ候。法敬に對し仰られ候。信心・安心といへば、愚癡のものは文字もしらぬなり。信心・安心などいへば、別の樣にも思ふなり。たゞ凡夫の佛になることををしふべし。後生たすけたまへと彌陀をたのめといふべし。何たる愚癡の衆生なりとも、聞て信をとるべし。當流には、これよりほかの法門はなきなりと仰られ候。『安心決定鈔』(卷本)にいはく、「淨土の法門は第十八の願をよくよくこゝろうるのほかにはなきなり」といへり。然ば「御文」(五帖*一)には「一心一向に佛たすけたまへと申さん衆生をば、縱ひ罪業は深重なりとも、必ず彌陀如來はすくひましますべし。これすなはち第十八の念佛往生の誓願の意なり」といへり。 Ⅴ-0579(一八六) 一 信をとらぬによりてわろきぞ。たゞ信をとれと仰られ候。善知識のわろきと仰られけるは、信のなきことをわろきと仰らるゝなり。然者、前々住上人、或人を、言語道斷わろきと仰られ候處に、其人申され候。何事も御意のごとくと存候と申され候へば、仰られ候。ふつとわろきなり。信のなきはわろくはなきかと仰られ候と[云云]。 (一八七) 一 蓮如上人仰られ候。何たる事をきこしめしても、御心にはゆめゆめ不叶なりと。一人なりとも人の信をとりたることをきこしめしたきと、御獨言に仰られ候。御一生は、人に信をとらせたく思召れ候由仰られ候。 (一八八) 一 聖人の御流はたのむ一念の所肝要なり。故にたのむといふことをば代々あそばしをかれ候へども、委く何とたのめといふことをしらざりき。然ば前々住上人の御代に、「御文」(五帖*九意)を御作候て、「雜行をすてゝ、後生たすけたまへと一心に彌陀をたのめ」と、あきらかにしらせられ候。然ば御再興の上人にてましますものなり。 Ⅴ-0580(一八九) 一 よきことをしたるがわろきことあり、わろき事をしたるがよき事あり。よきことをしても、我は法義に付てよき事をしたると思ひ、我といふ事あればわろきなり。あしき事をしても、心中をひるがへし本願に歸すれば、わろき事をしたるがよき道理になる由仰られ候。しかれば蓮如上人は、まいらせ心がわろきと仰らるゝと[云云]。 (一九〇) 一 前々住上人仰られ候。思ひよらぬ者が分に過て物を出し候はゞ、一子細あるべきと思ふべし。我こゝろならひに人よりものをいだせばうれしく思ふ程に、何ぞ用をいふべき時は、人がさやうにするなりと仰られ候。 (一九一) 一 行さきむかひばかりみて、あしもとをみねば、ふみかぶるべきなり。人のうへばかりみて、わが身のうへのことをたしなまずは、一大事たるべきと仰せられ候。 Ⅴ-0581(一九二) 一 善知識の仰なりとも、成るまじなんど思ふは、大なるあさましきことなり。成ざる事なりとも、仰ならばなるべきと存ずべし。此凡夫の身が佛になるうへは、さてあるまじきと存ずることあるべきか。然ば道宗、近江の湖を一人してうめよと仰候とも、畏りたると申べく候。仰にて候はゞ、ならぬことあるべきかと被申候。 (一九三) 一 「いたりてかたきは石なり、至てやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、心源もし徹しなば菩提の覺道何事か成ぜざらん」といへる古き詞あり。いかに不信なりとも、聽聞を心にいれまうさば、御慈悲にて候間、信をうべきなり。只佛法は聽聞にきはまることなりと[云云]。 (一九四) 一 前々住上人仰られ候。信決定の人をみて、あのごとくならではと思へばなるぞと仰られ候。あのごとくになりてこそと思ひすつること、淺間敷ことなり。佛法には身をすてゝのぞみもとむる心より、信をば得ることなりと[云云]。 Ⅴ-0582(一九五) 一 人のわろきことはよくよくみゆるなり。我身のわろきことはおぼえざるものなり。我身にしられてわろきことあらば、よくよくわろければこそ身にしられ候とおもひて、心中をあらたむべし。たゞ人のいふことをばよく信用すべし。我わろきことはおぼえざるものなる由仰られ候。 (一九六) 一 世間の物語ある座敷にては、結句法義のことをいふ事もあり。さやうの段は人なみたるべし。心には油斷有べからず。あるひは講談、又は佛法の讚嘆などいふ時、一向に物をいはざること大なる違なり。佛法讚嘆とあらん時は、いかにも心中をのこさず、あひたがひに信不信の義、談合申べきこと也と[云云]。 (一九七) 一 金森の善從に、或人申され候。此間、さこそ徒然に御入候ひつらんと申しければ、善從申され候。我身は八十にあまるまで徒然といふことをしらず。その故は、彌陀の御恩の難有ほどを存じ、和讚・聖敎等を拜見申候へば、心面白も、又たふときこと充滿するゆへに、徒然なることも更になく候と申され候由に候。 Ⅴ-0583(一九八) 一 善從申され候とて、前住上人仰られ候。ある人、善從の宿所へ行候處に、履をも脫候はぬに、佛法のこと申しかけられ候。又或人申され候は、履をさへぬがれ候はぬに、いそぎかやうには何とて仰候ぞと、人申ければ、善從申され候は、いづるいきは入るをまたぬ浮世なり、もし履をぬがれぬまに死去候はゞ、いかゞ候べきと申され候。たゞ佛法の事をば、さし急申すべきの由仰られ候。 (一九九) 一 前々住上人、善從の事を仰られ候。いまだ野村殿御坊、其沙汰もなきとき、神无森をとほり國へ下向の時、輿よりおりられ候て、野村殿の方をさして、此とほりにて佛法がひらけ申べしと申され候し。人々、是は年よりてかやうのことを申され候など申ければ、終に御坊御建立にて御繁昌候。不思議のことゝ仰られ候き。又善從は法然の化身なりと、世上に人申つると、同仰られ候き。彼往生は八月廿五日にて候。 (二〇〇) 一 前々住上人、東山を御出候て、何方に御座候とも、人不存候しに、此善從あなたこなた尋申されければ、有所にて御目にかゝられ候。一段御迷惑の體にてⅤ-0584候つる間、前々住上人にもさだめて善從かなしまれ申べきと思召れ候へば、善從御目にかゝられ、あらありがたや、早佛法はひらけ申べきよと申され候。終に此詞符合候。善從は不思議の人なりと、蓮如上人仰られ候し由、上人仰られ候き。 (二〇一) 一 前住上人、先年大永三、蓮如上人廿五年之三月始比、御夢御覽候。御堂上壇南の方に前々住上人御座候て、紫の御小袖をめされ候。前住上人へ對しまいらせられ、仰られ候。佛法は讚嘆・談合にきはまる。よくよく讚嘆すべき由仰られ候。誠に夢想ともいふべきことなりと仰られ候き。然ばその年、殊に讚嘆を肝要と仰られ候。それに付て仰られ候は、佛法は一人居て悅ぶ法也。一人居てさへたふときに、まして二人よりあはゞいかほどありがたかるべき。佛法をばたゞより合より合談合申せの由仰られ候也。 (二〇二) 一 心中を改め候はんと申す人、何をかまづ改め候はんと申され候。萬づわろきことを改めてと、加樣に仰られ候。いろをたて、きはを立て申出て改むべき事なりと[云云]。なにゝてもあれ、人のなをさるゝをきゝて、我もなをるべきと思ふて、Ⅴ-0585我とがを申いださぬは、なをらぬぞと仰られ候と[云云]。 (二〇三) 一 佛法談合のとき物を申さぬは、信のなきゆへなり。我心にたくみ案じて申すべきやうに思へり。よそなる物をたづねいだすやうなり。心にうれしき事は其儘なるものなり。寒なれば寒、熱なれば熱と、そのまゝ心のとほりをいふなり。佛法の座敷にて物を申さぬことは、不信の故なり。また油斷といふ事も信のうへの事なるべし。細々同行により合讚嘆申さば、油斷はあるまじきの由に候。 (二〇四) 一 前々住上人仰られ候。一心決定のうへ、彌陀の御たすけありたりといふは、さとりのかたにしてわろし。たのむ所にてたすけたまひ候事は歷然に候へ共、御たすけあらふずといふて然るべきの由仰られ候[云云]。一念歸命の時、不退の位に住す。これ不退の密益也、是涅槃分なる由仰られ候と[云云]。 (二〇五) 一 德大寺の唯蓮坊、攝取不捨のことはりをしりたきと、雲居寺の阿彌陀に祈誓ありければ、夢想に、阿彌陀の今の人の袖をとらへたまふに、にげゝれどもしかⅤ-0586ととらへてはなしたまはず。攝取といふは、にぐる者をとらへてをきたまふやうなることゝ、こゝにて思付たり。是を引言に仰られ候。 (二〇六) 一 前々住上人御病中に、兼譽・兼縁御前に伺候して、ある時尋申され候。冥加といふ事は何としたることにて候と申せば、仰られ候。冥加に叶といふは、彌陀をたのむ事なるよし仰られ候と[云云]。 (二〇七) 一 人に佛法の事を申てよろこばれば、われはその悅ぶ人よりもなをたふとく思ふべきなり。佛智をつたへ申すによりて、かやうに存ぜられ候事と思ひて、佛智の御方を有難く存ぜらるべしとの義に候。 (二〇八) 一 「御文」をよみて人に聽聞させんとも、報謝と存ずべし。一句一言も信の上より申せば、人の信用もあり、また報謝ともなるなり。 (二〇九) 一 蓮如上人仰られ候。彌陀の光明は、たとへばぬれたる物をほすに、うへよりⅤ-0587ひて、下までひるごとくなる事也。是は日の力らなり。決定の心おこるは、是則他力の御所作なり。罪障は悉く彌陀の御けしあることなるよし仰られ候と[云云]。 (二一〇) 一 信心治定の人は誰によらず、まづみればすなはちたふとくなり候。これその人のたふときにあらず。佛智をえらるゝがゆへなれば、彌陀佛智のありがたきほどを存ずべき事なりと[云云]。 (二一一) 一 蓮如上人、御病中の時仰られ候。御自身何事も思召のこさるゝことなしと。但御兄弟の中、その外誰にも信のなきをかなしく思召候。世間にはよみぢのさはりといふことあり、我にをいては往生すともそれなし。たゞ信のなき事、これを歎しく思召候と仰られ候と。 (二一二) 一 蓮如上人、あるひは人に御酒をも下され、物をも下されて、かやうの事ども有難存させ近づけさせられ候て、佛法を御きかせ候。さればかやうに物を下され候事も、信をとらせらるべきためと思召せば、報謝と思召候由仰られ候と[云云]。 Ⅴ-0588(二一三) 一 同仰にいはく、心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふはこゝろえたるなり。彌陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思が、心得たるなり。少も心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰られ候。されば『口傳鈔』(卷上意)にいはく、「さればこの機のうへにたもつところの彌陀の佛智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。 (二一四) 一 加州菅生の願生、坊主の聖敎をよまれ候をきゝて、聖敎は殊勝に候へども、信が御入なく候間だ、たふとくも御入なきと申され候。此ことを前々住上人きこしめし、蓮智をめしのぼせられ、御前にて不斷聖敎をもよませられ、法義のことをも仰せきかせられて、願將に仰られ候。蓮智に聖敎をもよみならはせ、佛法の事をも仰きかせられ候よし仰られ候て、國へ御下し候。其後は聖敎をよまれ候へば、今こそ殊勝に候へとて、ありがたがられ候由に候。 (二一五) 一 蓮如上人、幼少なる者には、まづ物をよめと仰られ候。又其後は、いかによⅤ-0589むとも復せずは詮あるべからざる由仰られ候。ちと物に心も付候へば、いかに物をよみ聲をよく讀しりたるとも、義理をわきまへてこそと仰られ候。其後は、いかに文釋を覺たりとも、信がなくはいたづら事よと仰られ候。 (二一六) 一 心中のとほり、或人、法敬坊に申され候。御詞の如くは覺悟仕候へども、たゞ油斷・不沙汰にて、あさましきことのみに候と申され候。其時法敬坊申され候。それは御詞のごとくにてはなく候。勿體なき申され事に候。御詞には、油斷・不沙汰なせそとこそ、あそばされ候へと申され候と[云云]。 (二一七) 一 法敬坊に或人不審申され候。これほど佛法に御心をもいれられ候法敬坊の尼公の不信なる、いかゞの義に候由申され候へば、法敬坊申され候。不審さることなれども、これほど朝夕「御文」をよみ候に、驚き申さぬ心中が、なにか法敬が申分にて聞入候べきと申され候と[云云]。 (二一八) 一 順誓申され候。佛法の物語申に、かげにて申候段は、なにたるわろき事をかⅤ-0590申べきと存じ、脇より汗たり申候。前々住上人聞召所にて申時は、わろき事をばやがて御なをしあるべきと存候間、心安く存候て、物をも被申候由に候。 (二一九) 一 前々住上人仰られ候。不審と一向しらぬとは各別なり。知ぬことをも不審と申す事、いはれなく候。物を分別して、あれはなにと、これはいかゞなどいふやうなることが不審にて候。子細もしらずしてまうす事を、不審と申まぎらかし候由仰られ候。 (二二〇) 一 前々住上人仰られ候。御本寺・御坊をば聖人御存生之時のやうに思召され候。御自身は、御留主を當座御沙汰候。然ども御恩を御忘候事はなく候と、御齋の御法談に被仰候ひき。御齋を御受用候間にも、少も御忘候事は御入なきと仰られ候。 (二二一) 一 善如上人・綽如上人兩御代の事、前住上人仰られ候こと、兩御代は威儀を本に御沙汰候し由仰られし。然ば今に御影に御入候由仰られ候。黃袈裟・黃衣にてⅤ-0591候。然ば前々住上人の御時、あまた御流にそむき候本尊以下、御風呂のたびごとにやかせられ候。此二幅の御影をもやかせらるべきにて御取出候ひつるが、いかゞ思召候ひつるやらん、表紙に書付を、よし・わろしとあそばされて、とりてをかせられ候。此事を今御思案候へば、御代のうちさへかやうに御ちがひ候。ましていはんや我等式の者は違たるべき間、一大事と存つゝしめよとの御事に候。今思召あはせられ候由仰られ候なり。又よし・わろしとあそばされ候こと、わろしとばかりあそばし候へば、先代の御事にて候へばと思召、かやうにあそばされ候事に候と仰られ候。又前々住上人の御時、あまた昵近のかたがたちがひ申事候。彌一大事の佛法のことをば、心をとゞめて細々人に問心得申べきの由仰られ候。 (二二二) 一 佛法者の少の違を見ては、あのうへさへかやうに候とおもひ、我身をふかく嗜むべき事なり。しかるを、あのうへさへ御ちがひ候、ましてわれらはちがひ候はではと思ふこゝろ、おほきなるあさましき事なり[云云]。 (二二三) 一 佛恩を嗜むと仰候事、世間の物を嗜むなどゝいふやうなることにてはなし。Ⅴ-0592信のうへにたふとく難有存じよろこび申す透間に懈怠申す時、かゝる廣大の御恩をわすれ申すことのあさましさよと、佛智にたちかへりて、難有やたふとやと思へば、御もよほしにより念佛を申すなり。嗜むとはこれなる由の義に候。 (二二四) 一 佛法に厭足なければ、法の不思議をきくといへり。前住上人仰られ候。たとへば世上にわがすきこのむことをばしりてもしりても、猶能しりたふ思ふに、人にとひ、いくたびも數奇たる事をば聞ても聞ても、能きゝたく思ふ。佛法の事もいくたび聞てもあかぬ事なり。しりてもしりても存たき事なり。法義をば、幾度も幾度も人にとひきはめ申すべき事なる由仰られ候。 (二二五) 一 世間へつかふ事は、佛の物を徒らにすることよと、おそろしく思ふべし。さりながら佛法の方へはいかほど物を入てもあかぬ道理なり。又報謝にもなるべしと[云云]。 (二二六) 一 人の辛勞もせで德をとる上品は、彌陀をたのみて佛になるにすぎたることなⅤ-0593しと仰られ候と[云云]。 (二二七) 一 皆人每によきことをいひもし、働もすることあれば、眞俗ともにそれを、わがよき者にはやなりて、その心にて御恩といふことはうちわすれて、わがこゝろ本になるによりて、冥加につきて、世間・佛法ともに惡き心が必ず必ず出來するなり。一大事なりと[云云]。 (二二八) 一 堺にて兼縁、前々住上人へ「御文」を御申候。其時仰られ候。年もより候に、むつかしきことを申候。まづわろきことをいふよと仰られ候。後に仰られ候は、たゞ佛法を信ぜば、いかほどなりともあそばして然るべき由仰られしと[云云]。 (二二九) 一 同く堺の御坊にて前々住上人、夜更て蠟燭をともさせ、名號をあそばされ候。其時仰られ候。御老體にて御手も振ひ、御目もかすみ候へども、明日越中へくだり候と申候ほどに、かやうにあそばされ候。辛勞をかへりみられずあそばされ候と仰られ候。しかれば御門徒のために御身をばすてられ候。人に辛勞をもさせ候Ⅴ-0594はで、たゞ信をとらせたく思召候由被仰候。 (二三〇) 一 重寶の珍物を調へ經營をしてもてなせども、食せざればその詮なし。同行寄合讚嘆すれども、信をとる人なければ、珍物を食せざると同事なりと[云云]。 (二三一) 一 物にあくことはあれども、佛に成ことゝ彌陀の御恩を喜ぶとは、あきたる事はなし。燒とも失もせぬ重寶は、南无阿彌陀佛なり。然ば彌陀の廣大の御慈悲殊勝なり。信有る人を見るさへたふとし。よくよくの御慈悲なりと[云云]。 (二三二) 一 信決定の人は、佛法の方へは身をかろくもつべし。佛法の御恩をばおもくうやまふべしと[云云]。 (二三三) 一 蓮如上人仰られ候。宿善めでたしといふはわろし。御一流には宿善有難と申がよく候由仰られ候。 Ⅴ-0595(二三四) 一 他宗には法にあひたるを宿縁といふ。當流には信をとることを宿善といふ。信心をうること肝要なり。さればこの御をしへには群機をもらさぬゆへに、彌陀の敎をば弘敎ともいふ也。 (二三五) 一 法門をば申には、當流のこゝろは信心の一義を申披立たる、肝要なりと[云云]。 (二三六) 一 前々住上人仰られ候。佛法者には法の威力にて成なり。威力でなくはなるべからずと仰られ候。されば佛法をば、學匠・物しりはいひたてず。たゞ一文不知の身も、信ある人は佛智を加へらるゝ故に、佛力にて候間、人が信をとるなり。此故に聖敎よみとて、しかも我はと思はん人の、佛法をいひたてたることなしと仰られ候事に候。たゞなにしらねども、信心定得の人は佛よりいはせらるゝ間、人が信をとるとの仰に候。 (二三七) 一 彌陀をたのめば南无阿彌陀佛の主になるなり。南无阿彌陀佛の主に成といふは、信心をうることなりと[云云]。又當流の眞實の寶といふは南无阿彌陀佛、これⅤ-0596一念の信心なりと[云云]。 (二三八) 一 一流眞宗のうちにて法をそしり、わろさまにいふ人あり。是を思ふに、他門・他宗の事は是非なし。一宗の中にかやうの人もあるに、われら宿善ありてこの法を信ずる身のたふとさよと思ふべしと[云云]。 (二三九) 一 前々住上人には、何たるものをもあはれみかはゆく思召候。大罪人とて人を殺候こと、一段御悲候。存命もあらば心中をなをすべしと仰られ候て、御勘氣候ても、心中をだにもなをり候へば、やがて御宥免候と[云云]。 (二四〇) 一 安藝の蓮宗、國をくつがへし、くせごとに付て、御門徒をはなされ候。前々住上人御病中に、御寺内へ參り御詫言申候へども、とりつぎ候人なく候し。其折節、前々住上人ふと仰られ候。安藝をなをさふと思よと仰られ候。御兄弟以下御申には、一度佛法にあだをなし申人にて候へば、いかゞと御申候へば、仰られ候。それぞとよ、淺間敷事をいふぞとよ。心中だになをらば、なにたるもの成とも、Ⅴ-0597御もらしなきことに候と仰られ候て、御赦免候ひき。其時御前へ參、御目にかゝられ候時、感淚疊にうかび候と[云云]。而して御中陰の中に、蓮宗も寺内にてすぎられ候。 (二四一) 一 奧州に御一流のことを申まぎらかし候人をきこしめして、前々住上人、奧州の淨祐を御覽候て、以外御腹立候て、さてさて開山聖人の御流を申みだすことのあさましさよ、にくさよと仰られ候て、御齒をくひしめられて、さて切きざみてもあくかよあくかよと仰られ候と[云云]。佛法を申みだす者をば、一段あさましきぞと仰られ候と[云云]。 (二四二) 一 思案の頂上と申べきは、彌陀如來の五劫思惟の本願にすぎたることはなし。此御思案の道理に同心せば、佛になるべし。同心とて別になし。機法一體の道理なりと[云云]。 (二四三) 一 蓮如上人仰られ候。御身一生涯御沙汰候事、皆佛法にて、御方便・御調法候Ⅴ-0598て、人に信を御とらせあるべき御ことはりにて候由仰られ候[云云]。 (二四四) 一 同御病中に仰られ候。今我いふことは金言なり。かまへてかまへて、能意得よと仰られ候。又御詠歌の事、三十一字につゞくることにてこそあれ。是は法門にてあるぞと仰られ候と[云云]。 (二四五) 一 「愚者三人に智者一人」とて、何事も談合すれば面白きことあるぞと、前々住上人、前住上人へ御申候。これまた佛法がたにはいよいよ肝要の御金言なりと[云云]。 (二四六) 一 蓮如上人、順誓に對し仰られ候。法敬と我とは兄弟よと仰られ候。法敬申され候。是は冥加もなき御事と申され候。蓮如上人仰られ候。信をえつれば、さきに生るゝ者は兄、後に生るゝ者は弟よ。法敬とは兄弟よと仰られ候。「佛恩を一同にうれば、信心一致のうへは四海みな兄弟」(論註*卷下意)といへり。 Ⅴ-0599(二四七) 一 南殿山水の御縁の牀の上にて蓮如上人仰られ候。物は思ひたるより大にちがふといふは、極樂へまいりての事なるべし。こゝにてありがたやたふとやと思ふは、物の數にてもなきなり。彼土へ生じての歡喜は、ことのはも有べからずと仰られしと。 (二四八) 一 人はそらごと申さじと嗜むを、隨分とこそ思へ。心に僞りあらじと嗜む人は、さのみ多くはなき者なり。又よき事はならぬまでも、世間・佛法共に心にかけ嗜みたき事なりと[云云]。 (二四九) 一 前々住上人仰られ候。『安心決定鈔』のこと、四十餘年が間御覽候へども、御覽じあかぬと仰られ候。又金をほり出す樣なる聖敎なりと仰られ候。 (二五〇) 一 大坂殿にて各へ對せられ仰られ候。此間申しゝことは、『安心決定鈔』のかたはしを仰られ候由に候。然ば當流の義は『安心決定鈔』の義、いよいよ肝要なりと仰られ候と[云云]。 Ⅴ-0600(二五一) 一 法敬申され候。たふとむ人より、たふとがる人ぞたふとかりけると。前々住上人仰られ候。面白ことをいふよ。たふとむ體、殊勝ぶりする人はたふとくもなし。たゞ有難やとたふとがる人こそたふとけれ。面白きことをいふよ、もとものことを申され候との仰事に候と[云云]。 (二五二) 一 文龜三 正月十五日の夜、兼縁夢云、前々住上人、兼縁へ御問ありて仰られ候やう、いたづらにある事あさましく思召候へば、稽古かたがた、せめて一卷の經をも、日に一度、皆々寄合てよみ申せと仰られけりと[云云]。餘に人のむなしく月日を送候ことを悲く思召候故の義に候。 (二五三) 一 同夢云、同年の極月廿八日の夜、前々住上人、御袈裟・衣にて襖障子をあけられ御出候間、御法談聽聞申べき心にて候處に、ついたち障子のやうなる物に、「御文」の御詞御入候をよみ申を御覽じて、それは何ぞと御尋候間、「御文」にて候由申上候へば、それこそ肝要、信仰してきけと仰られけりと[云云]。 Ⅴ-0601(二五四) 一 同夢云、翌年極月廿九日夜、前々住上人仰られ候やうは、家をばよく作られて、信心をよくとり念佛申べき由、かたく仰られ候ひけりと[云云]。 (二五五) 一 同夢云、近年、大永三 正月一日の夜の夢云、野村殿南殿にて前々住上人仰云、佛法のこと色々仰られ候て後、田舍には雜行雜修あるを、かたく申つくべしと仰られ候と[云云]。 (二五六) 一 同夢云、大永六 正月五日夜、夢に前々住上人仰られ候。一大事にて候。今の時分がよき時にて候。こゝをとりはづしては一大事と仰られ候。畏たりと御うけ御申候へば、たゞ其畏たるといふにてはなく候まじく候。たゞ一大事にて候由仰られ候しと[云云]。 次夜夢云、蓮誓仰候。吉崎前々住上人に當流の肝要のことを習申候。一流の依用なき聖敎やなんどを廣くみて、御流をひがざまにとりなし候こと候。幸に肝要を拔候聖敎候。是が一流の祕極なりと、吉崎にて前々住上人に習ひ申候と、蓮誓Ⅴ-0602仰られ候しと[云云]。 私云、夢等をしるすこと、前々住上人世を去たまへば、今はその一言をも大切に存候へば、かやうに夢に入て仰せ候ことの金言なること、まことの仰せとも存ずるまゝ、これをしるすものなり。誠にこれは夢想とも申べき事どもにて候。總體、夢は妄想なり、さりながら權者のうへには瑞夢とてある事なり。猶以かやうの金言のことばゝしるすべしと[云云]。 (二五七) 一 佛恩がたふとく候などゝ申は聞にくゝ候、聊爾なり。佛恩を有難存ずと申せば、莫大聞よく候由仰られ候と[云云]。「御文」がと申も聊爾なり。「御文」を聽聞申て、「御文」有難と申てよき由に候。佛法の方をばいかほども尊敬申べき事と[云云]。 (二五八) 一 佛法の讚嘆のとき、同行をかたがたと申は平外也。御方々と申てよき由仰ごとゝ[云云]。 (二五九) 一 前々住上人仰られ候。家をつくり候とも、つぶりだにぬれずは、何とも角とⅤ-0603もつくるべし。萬事過分なることを御きらひ候。衣裳等にいたるまでも、よきものきんと思はあさましき事なり。冥加を存じ、たゞ佛法を心にかけよと仰られ候 [云云]。 (二六〇) 一 同仰られ候。いかやうの人にて候とも、佛法の家に奉公申候はゞ、昨日までは他宗にて候とも、今日は早佛法の御用とこゝろえべく候。縱ひあきなひをするとも、佛法の御用と心得べきと仰られ候。 (二六一) 一 同仰云、雨もふり、又炎天の時分は、つとめながながしく仕候はで、はやく仕て、人をたゝせ候がよく候由仰られ候。これも御慈悲にて、人々を御いたはり候。大慈大悲の御あはれみに候。常々の仰には、御身は人に御したがひ候て、佛法を御すゝめ候と仰られ候。御門徒の身にて御意のごとくならざること、中々あさましき事ども、中々申もことをろかに候との義に候。 (二六二) 一 將軍家[義尙]よりの義にて、加州一國の一揆、御門徒を放さるべきとの義にて、Ⅴ-0604加州居住候御兄弟衆をもめしのぼせられ候。其時前々住上人仰られ候。加州の衆を門徒放べきと仰出され候こと、御身をきらるゝよりもかなしく思召候。何事をもしらざる尼入道の類のことまで思召ば、何とも御迷惑此事に極る由仰られ候。御門徒をやぶらるゝと申ことは、一段、善知識の御うへにてもかなしく思召さふらふ事に候。 (二六三) 一 蓮如上人仰られ候。御門徒衆のはじめて物をまいらせ候を、他宗に出し候義あしく候。一度も二度も受用せしめ候ひて、出し候て可然之由仰られ候。かくのごとくの子細は存じもよらぬ事にて候。いよいよ佛法の御用、御恩ををろそかに存ずべきことにてはなく候。驚き入候との事に候。 (二六四) 一 法敬坊、大坂殿へ下られ候處に、前々住上人仰られ候。御往生候とも、十年はいくべしと仰られ候處に、なにかと申され、おしかへし、いくべしと仰られ候處、御往生ありて一年存命候處に、法敬に或人仰られ候は、前々住上人仰られ候にあひ申たるよ。そのゆへは、一年も存命候は、命を前々住上人より御あたへ候Ⅴ-0605事にて候と仰候へば、誠にさにて御入候とて、手をあはせ、ありがたき由を申され候。それより後、前々住上人仰られ候ごとく、十年存命候。誠に冥加に叶はれ候。不思議なる人にて候。 (二六五) 一 每事无用なることを仕候義、冥加なき由、條々、いつも仰られ候由に候。 (二六六) 一 蓮如上人、物をきこしめし候にも、如來・聖人の御恩にてましまし候を御忘なしと仰られ候。一口きこしめしても、思召出され候由仰られ候と[云云]。 (二六七) 一 御膳を御覽じても、人のくはぬ飯をくふことよと思召候と仰られ候。物をすぐにきこしめすことなし。たゞ御恩のたふときことをのみ思召候と仰られ候。 (二六八) 一 享祿二年十二月十八日の夜、兼縁夢に、蓮如上人、「御文」をあそばし下され候。其御詞に、梅干のたとへ候。梅干のことをいへば、皆人の口一同にすし。一味の安心はかやうにあるべきなり。「同一念佛无別道故」(論註*卷下)の心にて候ひつるⅤ-0606やうにおぼえ候と[云云]。 (二六九) 一 佛法をすかざるがゆへに嗜み候はずと、空善申され候へば、蓮如上人仰られ候。それは、このまぬはきらふにてはなきかと仰られ候と[云云]。 (二七〇) 一 不法の人は佛法を違例にすると仰られ候。佛法の御讚嘆あれば、あら氣づまりや、疾はてよかしと思ふは、違例にするにてはなきかと仰られ候と[云云]。 (二七一) 一 前住樣御病中、正月廿四日に仰られ候。前々住の早々我にこひと、左の御手にて御まねき候。あらありがたやと、くりかへしくりかへし仰られ候て、御念佛御申候ほどに、をのをの御心たがひ候て、かやうにも仰候と存候へば、其義にてはなくして、御まどろみ候御夢に御覽ぜられ候由仰られ候處にて、皆々安堵候ひき。これ亦あらたなる御事なりと[云云]。 (二七二) 一 同廿五日、兼譽・兼縁に對せられ仰られ候。前々住上人御世を讓あそばされⅤ-0607て以來のことゞも、種々仰られ候。御一身の御安心のとほり仰られ、一念に彌陀をたのみ申て往生は一定と思召され候。それに付て、前住上人の御恩にて、今日まで我と思ふ心をもち候はぬがうれしく候と仰られ候。誠にありがたくも、又は驚入申候。我人、かやうに心得申てこそは、他力の信心決定申たるにてはあるべく候。彌一大事の御ことに候。 (二七三) 一 『嘆德の文』に、親鸞聖人と申せば、その恐ある故に、祖師聖人とよみ候。又開山聖人とよみ申も、おそれある子細にて御入候と[云云]。 (二七四) 一 たゞ聖人と直に申せば、聊爾なり。この聖人と申も、聊爾歟。開山とは、略しては申べきかとの事に候。たゞ開山聖人と申してよく候と[云云]。 (二七五) 一 『嘆德の文』に、「以て弘誓に託す」と申すことを、「以て」を拔てはよまず候と[云云]。 Ⅴ-0608(二七六) 一 蓮如上人、堺の御坊に御座の時、兼譽御參候。御堂にをいて卓の上に「御文」ををかせられて、一人二人W乃至R五人十人、參られ候人々に對し、「御文」をよませられ候。其夜、蓮如上人御物語の時仰られ候。此間面白き事を思出て候。常に「御文」を一人なりとも來らん人にもよませてきかせば、有縁の人は信をとるべし。此間面白き事を思案し出たると、くれぐれ仰られ候。さて「御文」肝要の御事と、彌々しられ候との事と仰られ候なり。 (二七七) 一 今生の事を心に入るほど、佛法を心腹に入たき事にて候と、人申候へば、世間に對樣して申事は大樣なり。たゞ佛法をふかくよろこぶべしと[云云]。又いはく、一日一日に佛法はたしなみ候べし。一期とおもへば大義なりと、人申され候。又いはく、大義なると思ふは不足なり。人として命はいかほどもながく候ても、あかずよろこぶべき事なりと[云云]。 (二七八) 一 坊主は人をさへ勸化せられ候に、我身を勸化せられぬはあさましきことなりと[云云]。 Ⅴ-0609(二七九) 一 道宗、前々住上人へ「御文」申され候へば、仰られ候。「文」はとりおとし候事も候程に、たゞ心に信をだにもとり候へば、おとし候はぬよし仰られ候し。又あくる年、あそばされて、下され候。 (二八〇) 一 法敬坊申され候。佛法をかたるに、志の人を前にをきて語候へば、力がありて申よき由申され候。 (二八一) 一 信もなくて大事の聖敎を所持の人は、おさなきものにつるぎをもたせ候樣に思召候。その故は、劍は重寶なれども、おさなきものもち候へば、手を切り怪我をするなり。持てよく候人は重寶になるなりと[云云]。 (二八二) 一 前々住上人仰られ候。たゞいまなりとも、我、しねといはゞ、しぬる者は有べく候が、信をとる者はあるまじきと仰られ候と[云云]。 Ⅴ-0610(二八三) 一 前々住上人、大坂殿にて各々に對せられて仰られ候。一念に凡夫の往生をとぐることは、祕事・祕傳にてはなきかと仰られ候と[云云]。 (二八四) 一 御普請・御造作の時、法敬申され候。なにも不思議に、御誂望等も御上手に御座候由申され候へば、前々住上人仰られ候。我はなを不思議なる事を知る。凡夫の佛になり候ことを知たると仰られ候と。 (二八五) 一 蓮如上人、善從に御かけ字をあそばされ、下され候。其後、善從に御尋候。已前書つかはし候物をばなにとしたると仰られ候。善從申され候。表補繪仕り候て、箱にいれ置き申候由申され候。そのとき仰られ候。それはわけもなき事をしたるよ。不斷かけてをきて、そのごとく心ねなせよといふことでこそあれと仰られ候。 (二八六) 一 同く仰にいはく、これの内にゐて聽聞まうす身は、とりはづしたらば佛にならんよと仰られ候と[云云]。有難き仰せに候。 Ⅴ-0611(二八七) 一 仰にいはく、坊主衆等に對せられ仰られ候。坊主といふものは大罪人なりと仰られ候。其時、みなみな迷惑申され候。さて仰られ候。罪がふかければこそ、阿彌陀如來は御たすけあれと仰られ候と[云云]。 (二八八) 一 每日每日に、「御文」の御金言を聽聞させられ候ことは、寶を御賜り候ことに候と[云云]。 (二八九) 一 開山聖人の御代、高田の[二代]顯智上洛の時、申され候。今度は旣に御目にかゝるまじきと存候處に、不思議に御目にかゝり候と申され候へば、それはいかにと仰られ候。舟路に難風にあひ、迷惑仕候よし申され候。聖人仰られ候。それならば船にはのらるまじきものをと仰られ候。其後、御詞の末にて候とて、一期、舟にのられず候。又茸に醉申され、御目に遲くかゝられ候し時も、かくのごとく仰られしとて、一期受用なく候しと[云云]。かやうに仰を信じ、ちがへ申すまじきと、存ぜられ候事誠にありがたき殊勝の覺悟との義に候。 Ⅴ-0612(二九〇) 一 身あたゝかなれば、ねぶりけさし候。あさましきことなり。其覺悟にて身をもすゞしくもち、眠をさますべきなり。身隨意なれば、佛法・世法ともにをこたり、无沙汰・油斷あり。此義一大事なりと[云云]。 (二九一) 一 信をえたらば、同行にあらく物も申まじきなり、心和ぐべきなり。觸光柔輭の願あり。又信なければ、我になりて詞もあらく、諍も必ず出來る者なり。あさましあさまし、よくよくこゝろうべしと[云云]。 (二九二) 一 前々住上人、北國のさる御門徒の事を仰られ候。何として久く上洛なきぞと仰られ候。御前の人申され候。さる御方の御折檻候と申され候。其時、御機嫌以外惡く候て、仰られ候。開山聖人の御門徒をさやうにいふ者はあるべからず。御身一人聊爾には思召さぬものを、なにたるものかいふべきとも、とくとくのぼれといへと仰られ候と[云云]。 (二九三) 一 前住上人仰られ候。御門徒衆をあしく申事、ゆめゆめあるまじきなり。開山Ⅴ-0613は御同行・御同朋と御かしづき候に、聊爾に存ずるはくせごとの由被仰候。 (二九四) 一 開山聖人の一大事の御客人と申すは、御門徒衆の事なりと仰られしと[云云]。 (二九五) 一 御門徒衆上洛候へば、前々住上人仰られ候。寒天には御酒等のかんをよくさせられて、路次のさむさをも忘られ候樣にと仰られ候。又炎天の時は、酒などひやせと仰られ候。御詞を加られ候。又御門徒の上洛候を、遲く申入候事くせごとゝ仰られ候。御門徒をまたせ、をそく對面することくせごとの由仰られ候と[云云]。 (二九六) 一 萬事に付て、よき事を思ひ付るは御恩なり、惡ことだに思ひ捨たるは御恩なり。捨るも取るも、何れも何れも御恩なりと[云云]。 (二九七) 一 前々住上人は御門徒の進上物をば、御衣の下にて御おがみ候。又佛の物と思召候へば、御自身のめし物までも、御足にあたり候へば、御いたゞき候。御門徒Ⅴ-0614の進上物、すなはち聖人よりの御あたへと思召候と仰られ候と[云云]。 (二九八) 一 佛法には、萬かなしきにも、かなはぬにつけても、何事に付ても、後生のたすかるべきことを思へば、よろこび多きは佛恩なりと[云云]。 (二九九) 一 佛法者になれ近付て、損は一つもなし。何たるおかしきこと、狂言にも、是非とも心底には佛法あるべしと思ふほどに、我方に德おほきなりと[云云]。 (三〇〇) 一 蓮如上人、權化の再誕といふこと、その證多し。前にこれをしるせり。御詠歌に、「かたみには六字の御名をのこしをく なからんあとのかたみともなれ」と候。彌陀の化身としられ候事歷然たり。 (三〇一) 一 蓮如上人、細々御兄弟衆等に御足を御見せ候。御わらぢの緖くひ入、きらりと御入候。かやうに京・田舍、御自身は御辛勞候て、佛法を仰ひらかれ候由仰られ候しと[云云]。 Ⅴ-0615(三〇二) 一 同仰にいはく、惡人のまねをすべきより、信心決定の人のまねをせよと仰られ候[云云]。 (三〇三) 一 蓮如上人御病中、大坂殿より御上洛之時、明應八 二月十八日、さんばの淨賢處にて前住上人へ對し御申なされ候。御一流の肝要をば、「御文」に委くあそばしとゞめられ候間、今は申まぎらかす者もあるまじく候。此分をよくよく御心得あり、御門徒中へも仰つけられ候へと御遺言の由に候。然ば前住上人の御安心も「御文」のごとく。又諸國の御門徒も「御文」のごとく信をえられよとの支證のために、御判をなされ候事と[云云]。 (三〇四) 一 存覺は大勢至の化身なりと[云云]。然に『六要鈔』(第三意)には、三心の字訓其外、「勘得せず」とあそばし、「聖人の宏才仰べし」と候。權化にて候へども、聖人の御作分をかくのごとくあそばし候。誠に聖意はかりがたきむねをあらはし、自力をすてゝ他力を仰ぐ本意にも叶申候物をや。かやうのことが明譽にて御入候と[云云]。 Ⅴ-0616(三〇五) 一 註を御あらはし候事、御自身の智解を御あらはし候はんがためにてはなく候。御詞を襃美のため、仰崇のためにて候と[云云]。 (三〇六) 一 存覺御辭世の御詠にいはく、「今ははや一夜の夢となりにけり 往來あまたのかりのやどやど」。此言を蓮如上人仰られ候と[云云]。さては釋迦の化身也、往來娑婆の心なりと[云云]。我身にかけてこゝろえば、六道輪廻めぐりめぐりて、今臨終のゆふべ、さとりをひらくべしといふ心なりと[云云]。 (三〇七) 一 陽氣・陰氣とてあり。されば陽氣をうる花は早くひらくなり、陰氣とて日陰の花は遲くさくなり。かやうに宿善も遲速あり。されば已今當の往生あり。彌陀の光明にあひて、はやくひらくる人もあり、遲くひらくる人もあり。兔に角に、信不信ともに佛法を心に入て聽聞申べきなりと[云云]。已今當の事、前々住上人仰られ候と[云云]。きのふあらはす人もあり、けふあらはす人もありと仰られしと[云云 ]。 Ⅴ-0617(三〇八) 一 蓮如上人、御廊下を御とほり候て、紙切のおちて候ひつるを御覽ぜられ、佛法領の物をあだにするかやと仰られ、兩の御手にて御いたゞき候と[云云 ]。總じてかみのきれなんどのやうなる物をも、佛物と思召御用ひ候へば、あだに御沙汰なく候の由、前住上人御物語候ひき。 (三〇九) 一 蓮如上人、近年仰られ候。御病中に仰られ候事、何ごとも金言なり。心をとめて聞べしと仰られ候と[云云]。 (三一〇) 一 御病中に慶聞をめして仰られ候。御身には不思議なること有を、氣をとりなをして仰らるべきと仰られ候と[云云 ]。 (三一一) 一 蓮如上人仰られ候。世間・佛法ともに、人はかろがろとしたるがよきと仰られ候。默たるものを御きらひ候。物を申さぬがわろきと仰られ候。又微音に物を申をわろしと仰られ候と[云云]。 Ⅴ-0618(三一二) 一 同く仰にいはく、佛法と世體とはたしなみによると、對句に仰られ候。又法門と庭の松とはいふにあがると、これも對句に仰られ候と[云云 ]。 (三一三) 一 兼縁、堺にて蓮如上人御存生の時、背摺布を買得ありければ、蓮如上人仰られ候。かやうの物は我方にもあるものを、无用のかいごとよと仰られ候。兼縁、自物にてとり申たると答申候處に、仰られ候。それは我物かと仰られ候。悉く佛物、如來・聖人の御用にもるゝことはあるまじく候。 (三一四) 一 蓮如上人、兼縁に物を下され候を、冥加なきと御辭退さふらひければ、仰られ候。つかはされ候物をば、たゞ取て信をよくとれ。信なくは冥加なきとて佛の物を受ぬやうなるも、それは曲もなきことなり。我するとおもふかとよ。皆御用なり。何事か御用にもるゝことや候べきと仰られ候と[云云]。 實如[御判] Ⅴ-0619蓮如上人御一代記聞書[末]