Ⅱ-1123後世物語聞書 ちかごろ淨土宗の明師をたづねて、洛陽ひんがしやまの邊にまします禪坊にまいりてみれば、一行九重の念佛者、五畿七道の後世者達、おのおのまめやかに、ころもはこゝろとともにそめ、身はよとともにすてたるよとみゆるひとびとのかぎり、十四五人ばかりならびゐて、いかにしてかこのたび往生ののぞみをとぐべきと、これをわれもわれもとおもひおもひにたづねまふしゝときしも、まいりあひて、さいわいにひごろの不審ことごとくあきらめたり。そのおもむきをたちどころにしてつぶさにしるして、ゐなかの在家無智の人々のためにくだすなり。よくよくこゝろをしづめて御覽ずべし。 ⊂一⊃ある人とふていはく、かゝるあさましき無智のものも、念佛だにまふせば極樂にむまるゝとうけたまはりて、そのゝちひとすぢに念佛をまふせども、まことしくさもありぬべしともおもひさだめたることも候はぬおば、いかゞしつかまつるべきと。 Ⅱ-1124⊂一⊃師こたえてのたまはく、念佛往生はもとより破戒無智のものゝためなり。もし智慧もひろく戒をまたしくたもつみならば、いづれの敎法なりとも修行して、生死をはなれ菩提をうべきなり。それがわがみにあたはねばこそ、いま念佛して往生おばねがへと。 ⊂二⊃またある人とふていはく、いみじき人のためには餘敎をとき、いやしき人のためには念佛をすゝめたらば、聖道門の諸敎はめでたく淨土門の一敎はおとれるかとまふせば。 ⊂二⊃師こたえてのたまはく、たとひかれはふかくこれはあさく、かれはいみじくこれはいやしくとも、わがみの分にしたがひて流轉の苦をまぬかれて、不退のくらゐをえては、さてこそはあらめ。ふかきあさきを論じてなにゝかはせむ。いはむや、かのいみじきひとびとのめでたき敎法をさとりて佛になるといふも、このあさましきみの念佛をまふして往生すといふも、しばらくいりかどはまちまちなれども、おちつくところはひとつなり。善導ののたまはく、「八萬四千の門。門門不同にしてまた別なるにあらず。別別の門はかへりておなじ」(法事讚*卷下)といえり。しかればすなわち、みなこれおなじく釋迦一佛の說なれば、いづれをまされり、いⅡ-1125づれをおとれりともいふべからず。あやまて『法華』の諸敎にすぐれたりといふは、五逆の達多、八歲の龍女が佛になるととくゆへなり。この念佛もまたしかなり。諸敎にきらわれ、諸佛にすてらるゝ惡人・女人、すみやかに淨土に往生してまよひをひるがへし、さとりをひらくは、いはゞまことにこれこそ諸敎にすぐれたりともいひつべけれ。まさにしるべし、晨旦の曇鸞・道綽そら、なほ利智精進にたえざるみなればとて、顯密の法をなげすてゝ淨土をねがひ、日本の惠心・永觀そらほ愚鈍懈怠のみなればとて、事理の業因をすてゝ願力念佛をしたまひき。このごろもかのひとびとにまさりて智慧もふかく、戒行もいみじからむ人は、いづれの法門にいりても生死を解脫せよかし。みな縁にしたがひてこゝろのひくかたになれば、よしあしと人のことおばさだむべからず、たゞわがみの行をはからふべきなりと。 ⊂三⊃またある人とふていはく、念佛まふすとも三心をしらでは往生すべからずと候なるは、いかゞし候べきと。 ⊂三⊃師のいはく、まことにしかなり。たゞし故法然聖人のおほせごとありしは、三心をしれりとも念佛まふさずはその詮なし、たとひ三心をしらずとも念佛だにまⅡ-1126ふさば、そらに三心は具足して極樂にはむまるべしとおほせられしを、まさしくうけたまはりしこと、このごろこゝろえあはすれば、まことにさもとおぼえたるなり。たゞしおのおの存ぜられむところのこゝちをあらわしたまへ。それをきゝて三心にあたりあたらぬよしを分別せむとこゝに。 ⊂四⊃ある人いはく、念佛をまふせどもこゝろに妄念をおこせば、外相はたうとくみえ内心はわるきゆへに、かゝるゆへに虛假の念佛となりて眞實の念佛にあらずとまふす、まことにとおぼえて、おもひしづめてこゝろをすましてまふさむとすれども、おほかたわがこゝろのつやつやととゝのえがたく候おば、いかゞつかまつるべきと。 ⊂四⊃師のいはく、そのこゝちすなわち自力にかゝえられて他力をしらず、すでに至誠心のかけたりけるなり。くだんの、くちに念佛をとなふれどもこゝろに妄念のとゞまらねば、虛假の念佛といひて、こゝろをすましてまふすべしとすゝめけるも、やがて至誠心かけたる虛假の念佛者にてありけりときこえたり。そのこゝろに妄念をとゞめて、くちに名號をとなえて内外相應するを、虛假はなれたる至誠心の念佛なりとまふすらむは、この至誠心をしらぬものなり。凡夫の心地Ⅱ-1127にして行ずる念佛は、ひとへに自力にして彌陀の本願にたがへるこゝろなり。すでにみづからそのこゝろをきよむといふならば、聖道門のこゝろなり、淨土門のこゝろにあらず、難行道のこゝろにして易行道のこゝろにあらず、自力修行のこゝろにして他力修行のこゝろにあらず。これをこゝろふべきやうは、いまの凡夫はみづから煩惱を斷ずることのかたければ、妄念またとゞめがたし。しかるを彌陀佛は、これをかゞみて、かねてかゝる衆生のために、他力本願をたてゝ、名號のちからにて衆生のつみをのぞかむとちかひたまへり。さればこそ他力ともなづけたれ。このことわりをこゝろえつれば、わがこゝろにてものうるさく妄念・妄想をとゞめむともたしなまず、しづめがたきあしきこゝろ、みだれちるこゝろおもしづめむともたしなまず、こらしがたき觀念・觀法おもこらさむともはげまず、たゞ佛の名號をくちにとなふれば、本願かぎりあるゆへに、貪瞋癡の煩惱をたゝえたるみなれども、かならず往生すと信じたればこそ、こゝろやすけれ。こゝろやすければこそ易行道とはなづけたれ。もしみをいましめ、こゝろをとゝのへて修すべきならば、なむぞ行住座臥を論ぜず、時處諸縁をきらはざれとすゝめむや。またもしみづからみをとゝのへ、こゝろをすましおほせⅡ-1128てつとめば、かならずしも佛の御ちからをたのまずとも生死をはなれなむと。 ⊂五⊃またある人いはく、念佛すればこえごえに无量生死のつみきえ、ひかりにてらされて、こゝろ柔𤏙になるととかれたるとかや。しかるに念佛してとしひさしくなりゆけども、三毒煩惱もすこしもきえず、こゝろもいよいよわるくなる、善心日日にすゝむこともなし。さるときに、佛の本願をうたがうにはあらねども、わがみのわるきこゝろねにては、たやすく往生ほどの大事おばとげがたくこそ候へと。 師のいはく、このこと人ごとになげくこゝろねなり。まことにまよえるこゝろなり。わがみのつみによりて往生をうたがふは、佛の本願をかるしむるにあらずや。これすなわち信心のかけたるこゝろなり。これをいえばさきの至誠心をいまだこゝろえざるゆへなり。なんぢこゝろをしづめてよくよくきくべし。このみにおいてつみきえてこゝろよくなるべしといふことは、ゆめゆめあるまじきことなり。さあらむにとりては、卽身成佛にこそあむなれ。なん條の穢土をいとひて淨土にむまれむといふみちならむや。すべてつみ滅すといふは、最後の一念にこそみをすてゝかの土に往生するをいふなり。さればこそ淨土宗とはなづけたⅡ-1129れ。もしこのみにおいてつみきえはてなば、さとりひらけなむ。さとりひらけなば、すなわち佛ならむ。佛ならば、いはゆる聖道門の眞言・佛心・天台・華嚴等の斷惑證理門のこゝろなるべし。善導の御釋によりてこれをこゝろうるに、信心ふたつの釋あり。ひとつには、ふかくみづからがみは現にこれ罪惡生死の凡夫、煩惱具足して、善根薄少にして、つねに三界に流轉して、曠劫よりこのかた出離の縁なきみと信知すべしとすゝめて、つぎに、彌陀誓願の深重なるをもて、かゝる衆生をみちびきたまふと信知して、一念もうたがふこゝろなかれとすゝめたまへり。このこゝろをえつれば、わがこゝろのわるきにつけても、彌陀の大悲のちかひこそ、あはれにめでたくたのもしけれとあおぐべきなり。もとよりわがちからにてまいらばこそ、わがこゝろのわるからむによりて、うたがふおもひもおこさめ。ひとへに佛の御ちからにてすくひたまへば、なにのうたがひかあらむとこゝろうるを深信といふなり。よくよくこれをこゝろふべし。 ⊂六⊃またある人いはく、曠劫よりこのかた乃至今日まで、十惡・五逆・四重・謗法等のもろもろのつみをつくるゆへに、三界に流轉していまに生死のすもりたり。かゝるみのわづかに念佛をまふせども、愛欲のなみとこしなえにおこりて善心をⅡ-1230けがし、瞋恚のほむらしきりにもえて功德をやく。よきこゝろにてまふす念佛は萬が一なり。そのよはみなけがれたる念佛なり。されば切にねがふといえども、この念佛ものになるべしともおぼえずと。ひとびともまたさるこゝろをなほさずはかなふまじくまふすときに、まことにとおぼえて、まよひ候おば、いかゞし候べきと。 ⊂六⊃師のいはく、これはさきの信心をいまだこゝろえず。かるがゆへに、おもひわづらひてねがふこゝろもゆるになるといふは、廻向發願心のかけたるなり。善導の御こゝろによるに、「釋迦のおしえにしたがひて、彌陀の願力をたのみなば、愛欲・瞋恚のおこりまじわるといふとも、さらにかへりみることなかれ」(散善*義意)といへり。まことに本願の白道、あに愛欲のなみにけがされむや。他力の功德、むしろ瞋恚のほむらにやくべけむや。たとひ欲もおこりはらもたつとも、しづめがたくしのびがたくは、たゞ佛たすけたまへとおもへば、かならず彌陀の大悲にてたすけたまふこと、本願かぎりあるゆへに攝取決定なり。攝取決定なればまた來迎決定なりとおもひかためて、いかなる人きたりていひさまたぐとも、すこしもやぶられざるこゝろを金剛心といふなり。これを廻向發願心といふなり。Ⅱ-1131これをよくよくこゝろふべし。 ⊂七⊃またある人いはく、簡要を略して三心の大意をうけたまはり候はむと。 ⊂七⊃師のいはく、まことにしかるべし。まづ一心一向なる、これ至誠心の大意なり。わがみの分をはかりて、自力をすてゝ他力につくこゝろのたゞひとすぢなるを眞實心といふなり。他力をたのまぬこゝろを虛假のこゝろといふなり。つぎに他力をたのみたるこゝろのふかくなりて、すこしもうたがひなきを信心の大意とす。いはゆる彌陀の本願は、すべてもとより罪惡の凡夫のためにして、聖人のためにあらずとこゝろえつれば、わがみのわるきにつけても、さらにうたがふおもひのなきを信心といふなり。つぎに本願他力の眞實なるにいりぬるみなれば、往生決定なりとおもひかためてねがひゐたるこゝろを廻向發願心といふなり。 ⊂八⊃またある人たづねてまふさく、念佛をまふせば、しらざれども三心はそらに具足せらるゝと候は、そのやうはいかに候ぞと。 ⊂八⊃師こたえてのたまはく、餘行をすてゝ念佛をまふすは、阿彌陀佛をたのむこゝろのひとすぢなるゆへなり。これ至誠心なり。名號をとなふるはうたがひなきゆへなり。これ信心なり。名號をとなふるは、往生をねがふこゝろのおこるゆへⅡ-1132なり。これ廻向發願心なり。これらほどのこゝろばえは、いかなるものも念佛まふして極樂に往生せむとおもふほどの人は具したるゆへに、無智のものも念佛だにまふせば、三心具足して往生するなり。たゞ詮ずるところは、わがみはもとより煩惱具足の凡夫なれば、はじめてこゝろのあしともよしともさたすべからず。ひとすぢに彌陀をたのみまいらせてすこしもうたがはず、往生を決定とねがふてまふす念佛は、すなわち三心具足の行者とするなり。しらねどもとなふれば自然に具せらるゝと聖人のおほせごとありしは、このいわれのありけるゆへなり。 ⊂九⊃またある人のいはく、名號をとなふるときに、念念ごとにこの三心の義を存じてまふすべきにや候覽と。 ⊂九⊃師のいはく、その義またくあるまじ。ひとたびこゝろをえつるのちには、たゞくちに南无阿彌陀佛ととなふるばかりなり。三心すなわち稱名のこえにあらわれぬるのちには、その三心の義をこゝろのそこにもとむべからずと。 善導之釋、若我成佛、十方衆生、稱我名號。下至十聲、若不生者、不取正覺。 定專寫之 Ⅱ-1133貞和五歲WひのとのうしR七月廿二日 釋定專W二十歲R