Ⅱ-1115一念多念分別事   隆寛律師作 念佛の行につきて、一念多念のあらそひ、このごろさかりにきこゆ。これはきはめたる大事なり。よくよくつゝしむべし。一念をたてゝ多念をきらひ、多念をたてゝ一念をそしる、ともに本願のむねにそむき、善導のをしへをわすれたり。多念はすなはち一念のつもりなり。そのゆへは、人のいのちは日日にけふやかぎりとおもひ、時時にたゞいまやをはりとおもふべし。无常のさかいは、むまれてあだなるかりのすみかなれば、かぜのまへのともしびをみても、くさのうへのつゆによそえても、いきのとゞまり、いのちのたえむことは、かしこきもおろかなるも一人としてのがるべきかたなし。このゆへに、たゞいまにてもまなことぢはつるものならば、彌陀の本願にすくはれて極樂淨土へむかへられたてまつらんとおもひて、南无阿彌陀佛ととなふることは、一念无上の功德をたのみ、一念廣大の利益をあふぐゆへなり。しかるにいのちのびゆくまゝには、この一念が二念三念となりゆく。この一念、かやうにかさなりつもれば、一時にもなり二時にもなり、Ⅱ-1116一日にも二日にも、一月にもなり、一年にも二年にもなり、十年二十年にも八十年にもなりゆくことにてあれば、いかにしてけふまでいきたるやらむ、たゞいまやこのよのをはりにてもあらむとおもふべきことはりが、一定したるみのありさまなるによりて、善導は、「恆願一切臨終時、勝縁勝境悉現前」(禮讚)とねがはしめて、念々にわすれず、念々におこたらず、まさしく往生せむずるときまで念佛すべきよしを、ねむごろにすゝめさせたまひたるなり。すでに一念をはなれたる多念もなく、多念をはなれたる一念もなきものを、ひとへに多念にてあるべしとさだむるものならば、『无量壽經』(卷下)の中に、あるひは「諸有衆生、聞其名號、信心歡喜、乃至一念、至心廻向、願生彼國、卽得往生、住不退轉」ととき、あるひは「乃至一念、念於彼佛、亦得往生」(大經*卷下)とあかし、あるひは「其有得聞、彼佛名號、歡喜踊躍、乃至一念、當知此人爲得大利、則是具足、无上功德」(大經*卷下)と、たしかにをしへさせたまひたり。善導和尙も『經』のこゝろによりて、「歡喜至一念、皆當得生彼」(禮讚)とも、「十聲・一聲・一念等、定得往生」(禮讚意)ともさだめさせたまひたるを、もちゐざらんにすぎたる淨土の敎のあだやはさふらふべき。かくいへばとて、ひとへに一念往生をたてゝ、多念はひがごとゝいふものならば、本願Ⅱ-1117の文の乃至十念をもちゐず、『阿彌陀經』の一日乃至七日の稱名はそゞろごとになしはてんずるか。これらの經によりて善導和尙も、あるひは「一心專念彌陀名號、行住座臥不問時節久近、念念不捨者是名正定之業、順彼佛願故」(散善義)とさだめをき、あるひは「誓畢此生无有退轉、唯以淨土爲期」(散善義)とをしへて、无間長時に修すべしとすゝめたまひたるをば、しかしながらひがごとになしはてんずるか。淨土門にいりて、善導のねむごろのをしへをやぶりもそむきもせんずるは、異學・別解の人にはまさりたるあだにて、ながく三塗のすもりとしてうかぶよもあるべからず。こゝろうきことなり。これによりて、あるひは「上盡一形下至十念、三念五念佛來迎、直爲彌陀弘誓重、致使凡夫念卽生」(法事讚*卷下)と、あるひは「今信知彌陀本弘誓願、及稱名號下至十聲一聲定得往生、乃至一念无有疑心」(禮讚)と、あるひは「若七日及一日下至十聲乃至一聲一念等、必得往生」(禮讚)といへり。かやうにこそはおほせられてさふらへ。これらの文は、たしかに一念多念なかあしかるべからず。たゞ彌陀の願をたのみはじめてむ人は、いのちをかぎりとし、往生を期として念佛すべしとをしへさせたまひたるなり。ゆめゆめ偏執すべからざることなり。こゝろのそこをばおもふやうにまふしあらはしさふらはねども、これにてこゝろえさせたまふべきなり。 おほよそ一念の執かたく、多念のおもひこはき人々は、かならずをはりのわるきにて、いづれもいづれも本願にそむきたるゆへなりといふことは、おしはからはせたまふべし。さればかへすがへすも、多念すなはち一念なり、一念すなはち多念なりといふことはりをみだるまじきなり。 南无阿彌陀佛 [本云] 建長七歲W乙卯R四月廿三日 愚禿釋善信W八十三歲R書寫之