Ⅱ-1107自力他力事   長樂寺隆寛律師作 念佛の行につきて自力・他力といふことあり。これは極樂をねがひて彌陀の名號をとなふる人の中に、自力のこゝろにて念佛する人あり。まづ自力のこゝろといふは、身にもわろきことをばせじ、口にもわろきことをばいはじ、心にもひがごとをばおもはじと、加樣につゝしみて念佛するものは、この念佛のちからにて、よろづのつみをのぞきうしなひて、極樂へかならずまいるぞとおもひたる人をば、自力の行といふなり。加樣にわが身をつゝしみとゝのへて、よからんとおもふはめでたけれども、まづ世の人をみるに、いかにもいかにもおもふさまにつゝしみえんことは、きはめてありがたきことなり。そのうへに彌陀の本願をつやつやとしらざるとがのあるなり。さればいみじくしえて往生する人も、まさしき本願の極樂にはまいらず、わづかにそのほとりへまいりて、そのところにて本願にそむきたるつみをつぐのひてのちに、まさしき極樂には生ずるなり。これを自力の念佛とはまうすなり。他力の念佛とは、わが身のをろかにわろきにつけても、Ⅱ-1108かゝる身にてたやすくこの娑婆世界をいかゞはなるべき。つみは日々にそへてかさなり、妄念はつねにをこりてとゞまらず。かゝるにつけては、ひとへに彌陀のちかひをたのみあふぎて念佛をこたらざれば、阿彌陀佛かたじけなく遍照の光明をはなちて、この身をてらしまもらせたまへば、觀音・勢至等の无量の聖衆ひき具して、行住坐臥、もしはひるもしはよる、一切のときところをきらはず、行者を護念して、目しばらくもすてたまはず、まさしくいのちつきいきたえんときには、よろづのつみをばみなうちけして、めでたきものにつくりなして、極樂へゐてかへらせおはしますなり。さればつみのきゆることも南无阿彌陀佛の願力なり、めでたきくらゐをうることも南无阿彌陀佛の弘誓のちからなり、ながくとをく三界をいでんことも阿彌陀佛の本願のちからなり、極樂へまいりてのりをきゝさとりをひらき、やがて佛にならんずることも阿彌陀佛の御ちからなりければ、ひとあゆみもわがちからにて極樂へまいることなしとおもひて、餘行をまじへずして一向に念佛するを他力の行とはまうすなり。たとへば腰おれ足なへて、わがちからにてたちあがるべき方もなし、ましてはるかならんところへゆく事は、かけてもおもひよらぬことなれども、たのみたる人のいとおしとおもひて、さりⅡ-1109ぬべき人あまた具して、力者に輿をかゝせてむかへにきたりて、やはらかにかきのせてかへらんずる十里・二十里の道もやすく、野をも山をもほどなくすぐる樣に、われらが極樂へまいらんとおもひたちたるは、つみふかく煩惱もあつければ、腰おれ足なへたる人々にもすぐれたり。たゞいまにても死するものならば、あしたゆふべにつくりたるつみのをもければ、かうべをさかさまにして、三惡道にこそはおちいらんずるものにてあれども、ひとすぢに阿彌陀佛のちかひをあふぎて、念佛してうたがふこゝろだにもなければ、かならずかならずたゞいまひきいらんずる時、阿彌陀佛、目の前にあらはれて、つみといふつみをばすこしものこる事なく功德と轉じかへなして、无漏无生の報佛報土へゐてかへらせおはしますといふことを、釋迦如來ねんごろにすゝめおはしましたる事をふかくたのみて、二心なく念佛するをば他力の行者とまうすなり。かゝるひとは、十人は十人ながら百人は百人ながら、往生することにてさふらふなり。かゝる人をやがて一向專修の念佛者とはまうすなり。おなじく念佛をしながら、ひとへに自力をたのみたるは、ゆゝしきひがごとにてさふらふなり。あなかしこ、あなかしこ。 寛元四歲W丙午R三月十五日書之 Ⅱ-1110愚禿釋親鸞W七十四歲R [本云]文保二歲W戊午R十一月廿六日奉書寫之本者御自筆也 宗昭W四十九歲R 貞享四年W丁卯R五月三日以河州古橋願得寺之本書寫之 西福寺惠空