Ⅱ-1083唯信鈔 安居院法印聖覺作 夫生死をはなれ佛道をならむとおもはむに、ふたつのみちあるべし。ひとつには聖道門、ふたつには淨土門なり。聖道門といふは、この娑婆世界にありて、行をたて功をつみて、今生に證をとらむとはげむなり。いはゆる眞言をおこなふともがらは、卽身に大覺のくらゐにのぼらむとおもひ、法華をつとむるたぐひは、今生に六根の證をえむとねがふなり。まことに敎の本意しるべけれども、末法にいたり濁世におよびぬれば、現身にさとりをうること、億億の人の中に一人もありがたし。これによりて、いまのよにこの門をつとむる人は、卽身の證においては、みづから退崛のこゝろをおこして、あるいははるかに慈尊の下生を期して、五十六億七千萬歲のあかつきのそらをのぞみ、あるいはとおく後佛の出世をまちて、多生曠劫、流轉生死のよるのくもにまどえり。あるいはわづかに靈山・補陀落の靈地をねがひ、あるいはふたゝび天上・人間の小報をのぞⅡ-1084む。結縁まことにたふとむべけれども、速證すでにむなしきににたり。ねがふところなほこれ三界のうち、のぞむところまた輪廻の報なり。なにのゆへか、そこばくの行業・慧解をめぐらしてこの小報をのぞまむや。まことにこれ大聖をさることとおきにより、理ふかく、さとりすくなきがいたすところか。ふたつに淨土門といふは、今生の行業を廻向して、順次生に淨土にむまれて、淨土にして菩薩の行を具足して佛にならむと願ずるなり。この門は末代の機にかなえり。まことにたくみなりとす。たゞし、この門にまたふたつのすぢわかれたり。ひとつには諸行往生、ふたつには念佛往生なり。諸行往生といふは、あるいは父母に孝養し、あるいは師長に奉事し、あるいは五戒・八戒をたもち、あるいは布施・忍辱を行じ、乃至三密・一乘の行をめぐらして、淨土に往生せむとねがふなり。これみな往生をとげざるにあらず。一切の行はみなこれ淨土の行なるがゆへに。たゞこれはみづからの行をはげみて往生をねがふがゆへに、自力の往生となづく。行業もしおろそかならば、往生とげがたし。かの阿彌陀佛の本願にあらず。攝取の光明のてらさざるところなり。ふたつに念佛往生といふは、阿彌陀の名號をとなえて往生をねがふなり。これはかの佛の本願に順ずるⅡ-1085がゆへに、正定の業となづく。ひとへに彌陀の願力にひかるゝがゆえに、他力の往生となづく。そもそも、名號をとなふるは、なにのゆへにかの佛の本願にかなふとはいふぞといふに、そのことのおこりは、阿彌陀如來いまだ佛になりたまはざりしむかし、法藏比丘とまふしき。そのときに佛ましましき。世自在王佛とまふしき。法藏比丘すでに菩提心をおこして、淸淨の國土をしめて衆生を利益せむとおぼして、佛のみもとへまいりてまふしたまはく、われすでに菩提心をおこして淸淨の佛國をまふけむとおもふ。ねがわくは佛、わがためにひろく佛國を莊嚴する无量の妙行をおしえたまへと。そのときに世自在王佛、二百一十億の諸佛の淨土の人天の善惡、國土の麤妙をことごとくこれをとき、ことごとくこれを現じたまひき。法藏比丘これをきゝ、これをみて、惡をえらびて善をとり、麤をすてゝ妙をねがふ。たとへば三惡道ある國土おば、これをえらびてとらず、三惡道なき世界おば、これをねがひてすなわちとる。自餘の願もこれになずらえてこゝろをうべし。このゆへに、二百一十億の諸佛の淨土の中より、すぐれたることをえらびとりて極樂世界を建立したまへり。たとへばやなぎのえだにさくらのはなをさかせ、ふたみのうらにきよみがせきをならべたらむがごとし。これⅡ-1086をえらぶこと一期の按にあらず、五劫のあひだ思惟したまえり。かくのごとく微妙嚴淨の國土をまうけむと願じて、かさねて思惟したまはく、國土をまうくることは衆生をみちびかむがためなり。國土たえなりといふとも、衆生むまれがたくは、大悲大願の意趣にたがひなむとす。これによりて往生極樂の別因をさだめむとするに、一切の行みなたやすからず。孝養父母をとらむとすれば、不孝のものはむまるべからず。讀誦大乘をもちゐむとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。布施・持戒を因とさだめむとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなむとす。忍辱・精進を業とせむとすれば、瞋恚・懈怠のたぐひはすてられぬべし。餘の一切の行、みなまたかくのごとし。これによりて一切の善惡の凡夫ひとしくむまれ、ともにねがはしめむがために、たゞ阿彌陀の三字の名號をとなえむを往生極樂の別因とせむと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しおはりて、まづ第十七に諸佛にわが名字を稱揚せられむといふ願をおこしたまへり。この願ふかくこれをこゝろふべし。名號をもてあまねく衆生をみちびかむとおぼしめすゆへに、かつがつ名號をほめられむとちかひたまへるなり。しからずは、佛の御こゝろに名譽をねがふべからず。諸佛にほめられてなにの要かあらむ。 Ⅱ-1087「如來尊號甚分明  十方世界普流行 但有稱名皆得往  觀音勢至自來迎」(五會法*事讚) といえる、このこゝろか。さてつぎに、第十八に念佛往生の願をおこして、十念のものおもみちびかむとのたまへり。まことにつらつらこれをおもふに、この願はなはだ弘深なり。名號はわづかに三字なれば、盤特がともがらなりともたもちやすく、これをとなふるに、行住座臥をえらばず、時處諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善惡の人おもわかず、なに人かこれにもれむ。 「彼佛因中立弘誓  聞名念我總迎來 不簡貧窮將富貴  不簡下智與高才 不簡多聞持淨戒  不簡破戒罪根深 但使廻心多念佛  能令瓦礫變成金」(五會法*事讚) このこゝろか。これを念佛往生とす。龍樹菩薩の『十住毗婆沙論』(卷五易*行品意)の中に、「佛道を行ずるに難行道・易行道あり。難行道といふは、陸路をかちよりゆかむがごとし。易行道といふは、海路に順風をえたるがごとし。難行道といふは、Ⅱ-1088五濁世にありて不退のくらゐにかなはむとおもふなり。易行道といふは、たゞ佛を信ずる因縁のゆへに淨土に往生するなり」といへり。難行道といふは聖道門なり、易行道といふは淨土門なり。わたくしにいはく、淨土門にいりて諸行往生をつとむる人は、海路にふねにのりながら順風をえず、ろをおし、ちからをいれてしほぢをさかのぼり、なみまをわくるにたとふべきか。つぎに念佛往生の門につきて、專修・雜修の二行わかれたり。專修といふは、極樂をねがふこゝろをおこし、本願をたのむ信をおこすより、たゞ念佛の一行をつとめてまたく餘行をまじえざるなり。他の經・呪おもたもたず、餘の佛・菩薩おも念ぜず、たゞ彌陀の名號をとなえ、ひとえに彌陀一佛を念ずる、これを專修となづく。雜修といふは、念佛をむねとすといゑども、また餘の行おもならべ、他の善おもかねたるなり。このふたつの中には、專修をすぐれたりとす。そのゆへは、すでにひとへに極樂をねがふ。かの土の敎主を念ぜむほか、なにのゆへか他事をまじえむ。電光朝露のいのち、苞蕉泡沫の身、わづかに一世の勤修をもちて、たちまちに五趣の古郷をはなれむとす。あにゆるく諸行をかねむや。諸佛・菩薩の結縁は、隨心供佛のあしたを期すべし、大小經典の義理は、百法明門のゆふⅡ-1089べをまつべし。一土をねがひ一佛を念ずるほかは、その用あるべからずといふなり。念佛の門にいりながら、なほ餘行をかねたる人は、そのこゝろをたづぬるに、おのおの本業を執してすてがたくおもふなり。あるいは一乘をたもち三密を行ずる人、おのおのその行を廻向して淨土をねがはむとおもふこゝろをあらためず、念佛にならべてこれをつとむるに、なにのとがゝあらむとおもふなり。たゞちに本願に順ぜる易行の念佛をつとめずして、なほ本願にえらばれし諸行をならべむことのよしなきなり。これによりて善導和尙ののたまはく、「專をすてゝ雜におもむくものは、千の中に一人もむまれず。もし專修のものは、百に百ながらむまれ、千に千ながらむまる」(禮讚意)といへり。 「極樂无爲涅槃界  隨縁雜善恐難生 故使如來選要法  敎念彌陀專復專」(法事讚*卷下) といへり。隨縁の雜善ときらえるは、本業を執するこゝろなり。たとへばみやづかえをせむに、主君にちかづき、これをたのみてひとすぢに忠節をつくすべきに、まさしき主君にしたしみながら、かねてまたうとくとおき人にこゝろざしをつくして、この人、主君にあひてよきさまにいはむことをもとめむがごとし。たゞちⅡ-1090につかへたらむと、勝劣あらはにしりぬべし。二心あると一心なると、天地はるかにことなるべし。これにつきて人うたがひをなさて、たとへば人ありて、念佛の行をたてゝ每日に一萬徧をとなえて、そのほかはひめもすにあそびくらし、よもすがらねぶりおらむと、またおなじく一萬をまふして、そのゝち經おもよみ餘佛おも念ぜむと、いづれかすぐれたるべき。『法華』(卷六*藥王品)に「卽往安樂」の文あり。これをよまむに、あそびたはぶれにおなじからむや。『藥師』には八菩薩の引導あり。これを念ぜむは、むなしくねぶらむににるべからず。かれを專修とほめ、これを雜修ときらはむこと、いまだそのこゝろをえずと。いままたこれを按ずるに、なほ專修をすぐれたりとす。そのゆへは、もとより濁世の凡夫なり、ことにふれてさわりおほし。彌陀これをかゞみて易行の道をおしえたまへり。ひめもすにあそびたはぶるゝは、散亂增のものなり。よもすがらねぶるは、睡眠增のものなり。これみな煩惱の所爲なり。たちがたく伏しがたし。あそびやまば念佛をとなへ、ねぶりさめば本願をおもひいづべし。專修の行にそむかず。一萬徧をとなえて、そののちに他經・他佛を持念せむは、うちきくところたくみなれども、念佛たれか一萬徧にかぎれとさだめし。精進の機ならば、ひめもすにとⅡ-1091なふべし。念珠をとらば、彌陀の名號をとなふべし。本尊にむかはゞ、彌陀の形像にむかふべし。たゞちに彌陀の來迎をまつべし。なにのゆへか八菩薩の示路をまたむ。もはら本願の引導をたのむべし。わづらはしく一乘の功能をかるべからず。行者の根性に上・中・下あり。上根のものは、よもすがら、ひぐらし念佛をまふすべし。なにのいとまにか餘佛を念ぜむ。ふかくこれをおもふべし、みだりがはしくうたがふべからず。つぎに念佛をまふさむには、三心を具すべし。たゞ名號をとなふることは、たれの人か一念・十念の功をそなえざる。しかはあれども、往生するものはきわめてまれなり。これすなわち三心を具せざるによりてなり。『觀无量壽經』にいはく、「具三心者、必生彼國」といへり。善導の釋にいはく、「具此三心必得往生也、若少一心卽不得生」(禮讚)といへり。三心の中に一心かけぬれば、むまるゝことをえずといふ。よの中に彌陀の名號をとなふる人おほけれども、往生する人のかたきは、この三心を具せざるゆへなりとこゝろうべし。その三心といふは、ひとつには至誠心、これすなわち眞實のこゝろなり。おほよそ佛道にいるには、まづまことのこゝろをおこすべし。そのこゝろまことならずは、そのみちすゝみがたし。阿彌陀佛の、むかし菩薩の行をⅡ-1092たて、淨土をまうけたまひしも、ひとへにまことのこゝろをおこしたまひき。これによりてかのくににむまれむとおもはむも、またまことのこゝろをおこすべし。その眞實心といふは、不眞實のこゝろをすて、眞實のこゝろをあらわすべし。まことにふかく淨土をねがふこゝろなきを、人にあふてはふかくねがふよしをいひ、内心にはふかく今生の名利に著しながら、外相にはよをいとふよしをもてなし、ほかには善心あり、たうときよしをあらわして、うちには不善のこゝろもあり、放逸のこゝろもあるなり。これを虛假のこゝろとなづけて、眞實心にたがえる相とす。これをひるがへして眞實心おばこゝろえつべし。このこゝろをあしくこゝろへたる人は、よろづのことありのままならずは、虛假になりなむずとて、みにとりてはゞかるべく、はぢがましきことおも人にあらはししらせて、かへりて放逸无慚のとがをまねかむとす。いま眞實心といふは、淨土をもとめ穢土をいとひ、佛の願を信ずること、眞實のこゝろにてあるべしとなり。かならずしも、はぢをあらはにし、とがをしめせとにはあらず。ことにより、おりにしたがひてふかく斟酌すべし。善導の釋にいはく、「不得外現賢善精進之相、内Ⅱ-1093懷虛假」(散善義)といへり。ふたつに深心といふは、信心なり。まづ信心の相をしるべし。信心といふは、ふかく人のことばをたのみてうたがはざるなり。たとへばわがためにいかにもはらぐろかるまじく、ふかくたのみたる人の、まのあたりよくよくみたらむところをおしえむに、そのところにはやまあり、かしこにはかわありといひたらむをふかくたのみて、そのことばを信じてむのち、また人ありて、それはひがごとなり、やまなしかわなしといふとも、いかにもそらごとすまじき人のいひてしことなれば、のちに百千人のいはむことおばもちゐず、もときゝしことをふかくたのむ、これを信心といふなり。いま釋迦の所說を信じ、彌陀の誓願を信じてふたごゝろなきこと、またかくのごとくなるべし。いまこの信心につきてふたつあり。ひとつには、わがみは罪惡生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみつねに流轉して、出離の縁あることなしと信ず。ふたつには、決定してふかく、阿彌陀佛の四十八願、衆生を攝取したまふことをうたがはざれば、かの願力にのりて、さだめて往生することをうと信ずるなり。よの人つねにいはく、佛の願を信ぜざるにはあらざれども、わがみのほどをはからふに、罪障のつもれることはおほく、善心のおこることはすくなし。こゝろⅡ-1094つねに散亂して一心をうることかたし。身とこしなへに懈怠にして精進なることなし。佛の願ふかしといふとも、いかでかこのみをむかへたまはむと。このおもひまことにかしこきににたり、憍慢をおこさず高貢のこゝろなし。しかはあれども、佛の不思議力をうたがふとがあり。佛いかばかりのちからましますとしりてか、罪惡のみなればすくわれがたしとおもふべき。五逆の罪人すら、なほ十念のゆへにふかく刹那のあひだに往生をとぐ。いはむやつみ五逆にいたらず、功十念にすぎたらむおや。つみふかくはいよいよ極樂をねがふべし。「不簡破戒罪根深」(五會法*事讚)といへり。善すくなくはますます彌陀を念ずべし。「三念五念佛來迎」(法事讚*卷下)とのべたり。むなしくみを卑下し、こゝろを怯弱にして、佛智不思議をうたがふことなかれ。たとへば人ありて、たかききしのしもにありてのぼることあたはざらむに、ちからつよき人、きしのうへにありてつなをおろして、このつなにとりつかせて、われきしのうえにひきのぼせむといはむに、ひく人のちからをうたがひ、つなのよはからむことをあやぶみて、てをおさめてこれをとらずは、さらにきしのうえにのぼることうべからず。ひとへにそのことばにしたがふて、たなごゝろをのべてこれをとらむには、すなわちのぼることをうべし。佛力をうⅡ-1095たがひ、願力をたのまざる人は、菩提のきしにのぼることかたし。たゞ信心のてをのべて誓願のつなをとるべし。佛力无窮なり、罪障深重のみをおもしとせず。佛智无邊なり、散亂放逸のものおもすつることなし。信心を要とす、そのほかおばかへりみざるなり。信心決定しぬれば、三心おのづからそなわる。本願を信ずることまことなれば、虛假のこゝろなし。淨土まつことうたがひなければ、廻向のおもひあり。このゆへに三心ことなるににたれども、みな信心にそなわれるなり。みつには廻向發願心といふは、なのなかにその義きこえたり。くわしくこれをのぶべからず。過現三業の善根をめぐらして、極樂にむまれむと願ずるなり。つぎに本願の文にいはく、「乃至十念、若不生者、不取正覺」(大經*卷上)といへり。いまこの十念といふにつきて、人うたがひをなしていはく、『法華』(卷四*法師品)の「一念隨喜」といふは、ふかく非權非實の理に達するなり。いま十念といへるも、なにのゆへか十返の名號とこゝろえむと。このうたがひを釋せば、『觀无量壽經』(意)の下品下生の人の相をとくにいはく、「五逆・十惡をつくり、もろもろの不善を具せるもの、臨終のときにいたりて、はじめて善知識のすゝめによりて、わづかに十返の名號をとなえて、すなわち淨土にむまる」といへり。これさらにⅡ-1096しづかに觀じ、ふかく念ずるにあらず、たゞくちに名號を稱するなり。「汝若不能念」(觀經)といへり。これふかくおもはざるむねをあらはすなり。「應稱无量壽佛」(觀經)ととけり。たゞあさく佛號をとなふべしとすゝむるなり。「具足十念、稱南无無量壽佛、稱佛名故、於念念中、除八十億劫生死之罪」(觀經意)といへり。十念といえるは、たゞ稱名の十返なり。本願の文これになずらえてしりぬべし。善導和尙はふかくこのむねをさとりて、本願の文をのべたまふに、「若我成佛、十方衆生、稱我名號下至十聲、若不生者不取正覺」(禮讚)といへり。十聲といえるは、口稱の義をあらはさむとなり。 ⊂一⊃つぎにまた人のいはく、臨終の念佛は功德はなはだふかし。十念に五逆を滅するは、臨終の念佛のちからなり。尋常の念佛は、このちからありがたしといへり。 これを按ずるに、臨終の念佛は功德ことにすぐれたり。たゞしそのこゝろをうべし。もし人いのちおわらむとするときは、百苦みにあつまり、正念みだれやすし。かのとき佛を念ぜむこと、なにのゆへかすぐれたる功德あるべきや。これをおもふに、やまひおもく、いのちせまりて、みにあやぶみあるときには、信心おのづからおこりやすきなり。まのあたりよの人のならひをみるに、そのみおだしきとⅡ-1097きは、醫師おも陰陽師おも信ずることなけれども、やまひおもくなりぬれば、これを信じて、この治方をせばやまひいえなむといえば、まことにいえなむずるやうにおもひて、くちににがきあぢわいおもなめ、みにいたはしき療治おもくわう。もしこのまつりしたらば、いのちはのびなむといえば、たからおもおしまず、ちからをつくして、これをまつりこれをいのる。これすなわちいのちをおしむこゝろふかきによりて、これをのべむといえば、ふかく信ずるこゝろあり。臨終の念佛、これになずらえてこゝろえつべし。いのち一刹那にせまりて存ぜむことあるべからずとおもふには、後生のくるしみたちまちにあらわれ、あるいは火車相現し、あるいは鬼率まなこにさいぎる。いかにしてか、このくるしみをまぬかれ、おそれをはなれむとおもふに、善知識のおしえによりて十念の往生をきくに、深重の信心たちまちにおこり、これをうたがふこゝろなきなり。これすなわちくるしみをいとふこゝろふかく、たのしみをねがふこゝろ忉なるがゆへに、極樂に往生すべしときくに、信心たちまちに發するなり。いのちのぶべしといふをきゝて、醫師・陰陽師を信ずるがごとし。もしこのこゝろならば、最後の刹那にいたらずとも、信心決定しなば、一稱一念の功德、みな臨終の念佛にひとしⅡ-1098かるべし。 ⊂二⊃またつぎによの中の人のいはく、たとひ彌陀の願力をたのみて極樂に往生せむとおもへども、先世の罪業しりがたし、いかでかたやすくむまるべきや。業障にしなじなあり。順後業といふは、かならずその業をつくりたる生ならねども、後後生にも果報をひくなり。されば今生に人界の生をうけたりといふとも、惡道の業をみにそなえたらむことをしらず、かの業がつよくして惡趣の生をひかば、淨土にむまるゝことかたからむかと。 この義まことにしかるべしといふとも、疑網たちがたくして、みづから妄見をおこすなり。おほよそ業ははかりのごとし、おもきものまづひく。もしわがみにそなえたらむ惡趣の業ちからつよくは、人界の生をうけずしてまづ惡道におつべきなり。すでに人界の生をうけたるにてしりぬ、たとひ惡趣の業をみにそなえたりとも、その業は人界の生をうけし五戒よりは、ちからよわしといふことを。もししからば、五戒をだにもなほさえず。いはむや十念の功德をや。五戒は有漏の業なり、念佛は无漏の功德なり。五戒は佛の願のたすけなし、念佛は彌陀の本願のみちびくところなり。念佛の功德はなほし十善にもすぐれ、すべて三界の一切Ⅱ-1099の善根にもまされり。いはむや五戒の少善おや。五戒をだにもさえざる惡業なり、往生のさわりとなることあるべからず。 ⊂三⊃つぎにまた人のいはく、五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなえたらむことかたし。いかでか往生することをえむやと。 これまた癡闇にまどえるゆへに、いたづらにこのうたがひをなす。そのゆへは、宿善のあつきものは、今生にも善根を修し惡業をおそる。宿善すくなきものは、今生に惡業をこのみ善根をつくらず。宿業の善惡は、今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし。はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆おばつくらず、善根すくなしといゑどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり。いはむや盡形の稱念むしろ宿善によらざらむや。なにのゆへにか逆者の十念おば宿善とおもひ、われらが一生の稱念おば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといえる、まことにこのたぐひか。 ⊂四⊃つぎに念佛を信ずる人のいはく、往生淨土のみちは、信心をさきとす。信心Ⅱ-1100決定しぬるには、あながちに稱念を要とせず。『經』(大經*卷下)にすでに「乃至一念」ととけり。このゆへに一念にてたれりとす。徧數をかさねむとするは、かへりて佛の願を信ぜざるなり。念佛を信ぜざる人とておほきにあざけりふかくそしると。 まづ專修念佛といふて、もろもろの大乘の修行をすてゝ、つぎに一念の義をたてゝ、みづから念佛の行をやめつ。まことにこれ魔界たよりをえて、末世の衆生をたぶろかすなり。この說ともに得失あり。往生の業、一念にたれりといふは、その理まことにしかるべしといふとも、徧數をかさぬるは不信なりといふ、すこぶるそのことばすぎたりとす。一念をすくなしとおもひて、徧數をかさねずは往生しがたしとおもはゞ、まことに不信なりといふべし。往生の業は一念にたれりといゑども、いたづらにあかし、いたづらにくらすに、いよいよ功をかさねむこと要にあらずやとおもふて、これをとなえば、ひめもすにとなへ、よもすがらとなふとも、いよいよ功德をそへ、ますます業因決定すべし。善導和尙は、ちからのつきざるほどはつねに稱念すといへり。これを不信の人とやはせむ。ひとへにこれをあざけるも、またしかるべからず。一念といえるは、すでに『經』の文なり。これを信ぜずは、佛語を信ぜざるなり。このゆへに、一念決定しぬⅡ-1101と信じて、しかも一生おこたりなくまふすべきなり。これ正義とすべし。念佛の要義おほしといゑども、略してのぶることかくのごとし。 これをみむ人、さだめてあざけりをなさむか。しかれども、信謗ともに因として、みなまさに淨土にむまるべし。今生ゆめのうちのちぎりをしるべとして、來世さとりのまへの縁をむすばむとなり。われおくれば人にみちびかれ、われさきだゝば人をみちびかむ。生生に善友となりてたがひに佛道を修せしめ、世世に知識としてともに迷執をたゝむ。 本師釋迦尊  悲母彌陀佛 左邊觀世音  右邊大勢至 淸淨大海衆  法界三寶海 證明一心念  哀愍共聽許 草本云 承久三歲仲秋中旬第四日 安居院法印聖覺作 寛喜二歲仲夏下旬第五日 以彼草本眞筆 愚禿釋親鸞書寫之