Ⅱ-1053歎異抄 竊廻愚案、粗勘古今、歎異先師口傳之眞信、思有後學相續之疑惑、幸不依有縁知識者、爭得入易行一門哉。全以自見之覺語、莫亂他力之宗旨。仍、故親鸞聖人御物語之趣、所留耳底、聊注之。偏爲散同心行者之不審也。W云々R ⊂一⊃ 一 彌陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて念佛まふさんとおもひたつこゝろのおこるとき、すなはち攝取不捨の利益にあづけしめたまふなり。彌陀の本願には、老少・善惡のひとをえらばれず、たゞ信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪惡深重・煩惱熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念佛にまさるべき善なきゆへに。惡をもおそるべからず、彌陀の本願をさまたぐるほどの惡なきゆへにと[云々]。 Ⅱ-1054⊂二⊃ 一 おのおのの十餘ケ國のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こゝろざし、ひとへに往生極樂のみちをとひきかんがためなり。しかるに念佛よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こゝろにくゝおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゝしき學生たちおほく座せられてさふらうなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、たゞ念佛して、彌陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念佛は、まことに淨土にむまるゝたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、總じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念佛して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう。そのゆへは、自餘の行もはげみて佛になるべかりける身が、念佛をまふして地獄にもおちてさふらはゞこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。彌陀の本願まことにおはしまさば、釋尊の說敎虛言なⅡ-1055るべからず。佛說まことにおはしまさば、善導の御釋虛言したまふべからず。善導の御釋まことならば、法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば、親鸞がまふすむね、またもてむなしかるべからずさふらう歟。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念佛をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと[云々]。 ⊂三⊃ 一 善人なをもて往生をとぐ。いはんや惡人をや。しかるを世のひとつねにいはく、惡人なを往生す。いかにいはんや善人をや。この條、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこゝろかけたるあひだ、彌陀の本願にあらず。しかれども、自力のこゝろをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、眞實報土の往生をとぐるなり。煩惱具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるゝことあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、惡人成佛のためなれば、他力をたのみたてまつる惡人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして惡人はと、おほせさふらひき。 Ⅱ-1056⊂四⊃ 一 慈悲に聖道・淨土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐゝむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。淨土の慈悲といふは、念佛して、いそぎ佛になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとをし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念佛まふすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にてさふらうべきと[云々]。 ⊂五⊃ 一 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念佛まふしたること、いまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に佛になりてたすけさふらうべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはゞこそ、念佛を廻向して父母をもたすけさふらはめ。たゞ自力をすてゝ、いそぎさとりをひらきなば、六道四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと[云々]。 Ⅱ-1057⊂六⊃ 一 專修念佛のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらうらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらう。そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念佛をまふさせさふらはゞこそ、弟子にてもさふらはめ。彌陀の御もよほしにあづかて念佛まふしさふらうひとを、わが弟子とまふすこと、きはめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるゝことのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念佛すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可說なり。如來よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさんとまふすにや。かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことはりにあひかなはゞ、佛恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと[云々]。 ⊂七⊃ 一 念佛者は无㝵の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障㝵することなし。罪惡も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆへなりと[云々]。 Ⅱ-1058⊂八⊃ 一 念佛は行者のために、非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆへに、行者のためには、非行・非善なりと[云々]。 ⊂九⊃ 一 念佛まふしさふらへども、踊躍歡喜のこゝろおろそかにさふらふこと、またいそぎ淨土へまひりたきこゝろのさふらはぬは、いかにとさふらうべきことにてさふらうやらんと、まふしいれてさふらひしかば、親巒もこの不審ありつるに、唯圓房おなじこゝろにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定おもひたまふなり。よろこぶべきこゝろをおさへてよろこばざるは、煩惱の所爲なり。しかるに佛かねてしろしめして、煩惱具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また淨土へいそぎまひりたきこゝろのなくて、いさゝか所勞のこともⅡ-1059あれば、死なんずるやらんとこゝろぼそくおぼゆることも、煩惱の所爲なり。久遠劫よりいまゝで流轉せる苦惱の舊里はすてがたく、いまだむまれざる安養淨土はこひしからずさふらふこと、まことによくよく煩惱の興盛にさふらうにこそ。なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておはるときに、かの土へはまひるべきなり。いそぎまひりたきこゝろなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じさふらへ。踊躍歡喜のこゝろもあり、いそぎ淨土へもまひりたくさふらはんには、煩惱のなきやらんと、あしくさふらひなましと[云々]。 ⊂十⊃ 一 念佛には无義をもて義とす。不可稱不可說不可思議のゆへにとおほせさふらひき。そもそも、かの御在生のむかし、おなじくこゝろざしをして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして、心を當來の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまはりしかども、そのひとびとにともなひて念佛まふさるゝ老若、そのかずをしらずおはしますなかに、上人のおほせにあらざる異義どもを、近來はおほくおほせられあふてさふらうよし、つたへうけたまはる。いはⅡ-1060れなき條々の子細のこと。 ⊂十一⊃ 一 一文不通のともがらの念佛まふすにあふて、なんぢは誓願不思議を信じて念佛まふすか、また名號不思議を信ずるかといひおどろかして、ふたつの不思議を子細をも分明にいひひらかずして、ひとのこゝろをまどはすこと。この條、かへすがへすもこゝろをとゞめて、おもひわくべきことなり。誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名號を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ彌陀の大悲大願の不思議にたすけられまひらせて、生死をいづべしと信じて、念佛のまふさるゝも如來の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆへに、本願に相應して、實報土に往生するなり。これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名號の不思議も具足して、誓願・名號の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。つぎにみづからのはからひをさしはさみて、善惡のふたつにつきて、往生のたすけ・さはり、二樣におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこゝろに往生の業をはげみてまふすところの念佛をも自行になすなり。Ⅱ-1061このひとは、名號の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、邊地懈慢・疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆへに、つゐに報土に生ずるは、名號不思議のちからなり。これすなはち、誓願不思議のゆへなれば、たゞひとつなるべし。 ⊂十二⊃ 一 經釋をよみ學せざるともがら、往生不定のよしのこと。この條、すこぶる不足言の義といひつべし。他力眞實のむねをあかせるもろもろの正敎は、本願を信じ念佛をまふさば佛になる。そのほか、なにの學問かは往生の要なるべきや。まことに、このことはりにまよへらんひとは、いかにもいかにも學問して、本願のむねをしるべきなり。經釋をよみ學すといへども、聖敎の本意をこゝろえざる條、もとも不便のことなり。一文不通にして、經釋のゆくぢもしらざらんひとの、となへやすからんための名號におはしますゆへに、易行といふ。學問をむねとするは聖道門なり、難行となづく。あやまて學問して名聞・利養のおもひに住するひと、順次の往生、いかゞあらんずらんといふ證文もさふらうべきや。當時、專修念佛のひとゝ聖道門のひと、法論をくわだてゝ、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりといふほどに、法敵もいできたり、謗法もおこる。これしかしなⅡ-1062がら、みづからわが法を破謗するにあらずや。たとひ諸門こぞりて、念佛はかひなきひとのためなり、その宗あさし、いやしといふとも、さらにあらそはずして、われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものゝ、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じさふらへば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします。たとひ自餘の敎法すぐれたりとも、みづからがためには器量およばざれば、つとめがたし。われもひとも、生死をはなれんことこそ、諸佛の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからずとて、にくひ氣せずは、たれのひとかありて、あだをなすべきや。かつは諍論のところにはもろもろの煩惱おこる、智者遠離すべきよしの證文さふらふにこそ。故聖人のおほせには、この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、佛ときおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。またひとありてそしるにて、佛說まことなりけりとしられさふらう。しかれば、往生はいよいよ一定とおもひたまふなり。あやまてそしるひとのさふらはざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんともおぼへさふらひぬべけれ。かくまふせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。佛の、かねて信謗ともにあるべⅡ-1063きむねをしろしめして、ひとのうたがひをあらせじと、ときおかせたまふことをまふすなりとこそさふらひしか。いまの世には、學文してひとのそしりをやめ、ひとへに論義問答むねとせんとかまへられさふらうにや。學問せば、いよいよ如來の御本意をしり、悲願の廣大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかゞなんどあやぶまんひとにも、本願には善惡・淨穢なきおもむきをもとききかせられさふらはゞこそ、學生のかひにてもさふらはめ。たまたまなにごゝろもなく、本願に相應して念佛するひとをも、學文してこそなんどいひをどさるゝこと、法の魔障なり、佛の怨敵なり。みづから他力の信心かくるのみならず、あやまて他をまよはさんとす。つゝしんでおそるべし、先師の御こゝろにそむくことを。かねてあはれむべし、彌陀の本願にあらざることを。 ⊂十三⊃ 一 彌陀の本願不思議におはしませばとて、惡をおそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。この條、本願をうたがふ、善惡の宿業をこゝろえざるなり。よきこゝろのおこるも、宿善のもよほすゆへなり。惡事のおもはれせらるゝも、惡業のはからふゆへなり。故聖人のおほせには、卯毛・羊毛Ⅱ-1064のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずといふことなしとしるべしとさふらひき。 またあるとき、唯圓房はわがいふことをば信ずるかと、おほせのさふらひしあひだ、さんざふらうと、まふしさふらひしかば、さらば、いはんことたがふまじきかと、かさねておほせのさふらひしあひだ、つゝしんで領狀まふしてさふらひしかば、たとへばひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべしと、おほせさふらひしとき、おほせにてはさふらへども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼへずさふらうと、まふしてさふらひしかば、さてはいかに親巒がいふことをたがふまじきとはいふぞと。これにてしるべし。なにごともこゝろにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこゝろのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべしと、おほせのさふらひしかば、われらがこゝろのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、おほせのさふらひしなり。そのかみ邪見におちたるⅡ-1065ひとあて、惡をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて惡をつくりて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこへさふらひしとき、御消息に、「くすりあればとて、毒をこのむべからず」と、あそばされてさふらふは、かの邪執をやめんがためなり。またく、惡は往生のさはりたるべしとにはあらず。持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきやと。かゝるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、げにほこられさふらへ。さればとて、身にそなへざらん惡業は、よもつくられさふらはじものを。また、うみ・かわにあみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまにしゝをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきなゐをし、田畠をつくりてすぐるひとも、たゞおなじことなりと。さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべしとこそ、聖人はおほせさふらひしに、當時は後世者ぶりして、よからんものばかり念佛まふすべきやうに、あるひは道場にわりぶみをして、なむなむのことしたらんものをば、道場へいるべからずなんどゝいふこと、ひとへに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虛假をいだけるものか。願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよほすゆへなり。Ⅱ-1066さればよきこともあしきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまひらすればこそ、他力にてはさふらへ。『唯信抄』にも「彌陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業のみなればすくはれがたしとおもふべき」とさふらうぞかし。本願にほこるこゝろのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてさふらへ。おほよそ惡業煩惱を斷じつくしてのち、本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよかるべきに、煩惱を斷じなば、すなはち佛になり、佛のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。本願ぼこりといましめらるゝひとびとも、煩惱・不淨具足せられてこそさふらうげなれ。それは願ほこらるゝにあらずや。いかなる惡を本願ぼこりといふ、いかなる惡かほこらぬにてさふらうべきぞや。かへりて、こゝろをさなきことか。 ⊂十四⊃ 一 一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと。この條は、十惡・五逆の罪人、日ごろ念佛をまふさずして、命終のとき、はじめて善知識のをしへにて、一念まふせば八十億劫のつみを滅し、十念まふせば十八十億劫の重罪を滅して往生すといへり。これは十惡・五逆の輕重をしらせんがために、一念・十念といへⅡ-1067るか。滅罪の利益なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。そのゆへは、彌陀の光明にてらされまひらするゆへに、一念發起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定聚のくらゐにおさめしめたまひて、命終すれば、もろもろの煩惱惡障を轉じて、无生忍をさとらしめたまふなり。この悲願ましまさずは、かゝるあさましき罪人、いかでか生死を解脫すべきとおもひて、一生のあひだまふすところの念佛は、みなことごとく如來大悲の恩を報じ、德を謝すとおもふべきなり。念佛まふさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜんは、すでにわれとつみをけして、往生せんとはげむにてこそさふらうなれ。もししからば、一生のあひだおもひとおもふこと、みな生死のきづなにあらざることなければ、いのちつきんまで念佛退轉せずして往生すべし。たゞし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また病惱苦痛をせめて、正念に住せずしてをはらん。念佛まふすことかたし。そのあひだのつみをば、いかゞして滅すべきや。つみきえざれば、往生はかなふべからざるか。攝取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、罪業をおかし、念佛まふさずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし。また念佛のまふされんも、たゞいまさとりをひらかんずる期のⅡ-1068ちかづくにしたがひても、いよいよ彌陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそさふらはめ。つみを滅せんとおもはんは、自力のこゝろにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてさふらうなり。 ⊂十五⊃ 一 煩惱具足の身をもて、すでにさとりをひらくといふこと。この條、もてのほかのことにさふらう。卽身成佛は眞言祕敎の本意、三密行業の證果なり。六根淸淨はまた法花一乘の所說、四安樂の行の感德なり。これみな難行上根のつとめ、觀念成就のさとりなり。來生の開覺は他力淨土の宗旨、信心決定の通故なり。これまた易行下根のつとめ、不簡善惡の法なり。おほよそ今生においては、煩惱惡障を斷ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、眞言・法花を行ずる淨侶、なをもて順次生のさとりをいのる。いかにいはんや、戒行・惠解ともになしといへども、彌陀の願船に乘じて、生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩惱の黑雲はやくはれ、法性の覺月すみやかにあらはれて、盡十方の无㝵の光明に一味にして、一切の衆を利益せんときにこそ、さとりにてはさふらへ。この身をもてさとりをひらくとさふらうなるひとは、釋尊のごとく、種々の應化の身をⅡ-1069も現じ、三十二相・八十隨形好をも具足して、說法利益さふらうにや。これをこそ、今生にさとりをひらく本とはまふしさふらへ。『和讚』(高僧*和讚)にいはく「金剛堅固の信心の さだまるときをまちゑてぞ 彌陀の心光攝護して ながく生死をへだてける」とはさふらうは、信心のさだまるときに、ひとたび攝取してすてたまはざれば、六道に輪廻すべからず。しかれば、ながく生死をばへだてさふらうぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかすべきや。あはれにさふらうをや。淨土眞宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひさふらうぞとこそ、故聖人のおほせにはさふらひしか。 ⊂十六⊃ 一 信心の行者、自然にはらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあひて口論をもしては、かならず廻心すべしといふこと。この條、斷惡修善のこゝちか。一向專修のひとにおいては、廻心といふこと、たゞひとたびあるべし。その廻心は、日ごろ本願他力眞宗をしらざるひと、彌陀の智慧をたまはりて、日ごろのこゝろにては往生かなふべからずとおもひて、もとのこゝろをひきかへて、本願をたのみまひらするをこそ、廻心とはまふしさふらへ。一切の事に、あⅡ-1070したゆふべに廻心して、往生をとげさふらうべくは、ひとのいのちは、いづるいき、いるほどをまたずしてをはることなれば、廻心もせず、柔和忍辱のおもひにも住せざらんさきにいのちつきば、攝取不捨の誓願はむなしくならせおはしますべきにや。くちには願力をたのみたてまつるといひて、こゝろにはさこそ惡人をたすけんといふ願、不思議にましますといふとも、さすがよからんものをこそたすけたまはんずれとおもふほどに、願力をうたがひ、他力をたのみまひらするこゝろかけて、邊地の生をうけんこと、もともなげきおもひたまふべきことなり。信心さだまりなば、往生は彌陀にはからはれまひらせてすることなれば、わがはからひなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあをぎまひらせば、自然のことはりにて、柔和忍辱のこゝろもいでくべし。すべてよろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして、たゞほれぼれと彌陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだしまひらすべし。しかれば、念佛もまふされさふらう。これ自然なり。わがはからはざるを自然とまふすなり。これすなはち他力にてまします。しかるを、自然といふことの別にあるやうに、われものしりがほにいふひとのさふらうよしうけたまはる、あさましくさふらう。 Ⅱ-1071⊂十七⊃ 一 邊地往生をとぐるひと、つゐには地獄におつべしといふこと。この條、なにの證文にみへさふらうぞや。學生だつるひとのなかに、いひいださるゝことにてさふらうなるこそ、あさましくさふらへ。經論・正敎をば、いかやうにみなされてさふらうらん。信心かけたる行者は、本願をうたがふによりて、邊地に生じて、うたがひのつみをつぐのひてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまはりさふらへ。信心の行者すくなきゆへに、化土におほくすゝめいれられさふらうを、つゐにむなしくなるべしとさふらうなるこそ、如來に虛妄をまふしつけまひらせられさふらうなれ。 ⊂十八⊃ 一 佛法のかたに、施入物の多少にしたがて、大小佛になるべしといふこと。この條、不可說なり、不可說なり。比興のことなり。まづ、佛に大小の分量をさだめんこと、あるべからずさふらうか。かの安養淨土の敎主の御身量をとかれてさふらうも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらひて、長短・方圓のかたちにもあらず、靑・黃・赤・白・黑のいろをもはなれなば、なにをもてかⅡ-1072大小をさだむべきや。念佛まふすに、化佛をみたてまつるといふことのさふらうなるこそ、「大念には大佛をみ、小念には小佛をみる」(大集經卷四三*日藏分送使品意)といへるが、もしこのことはりなんどにばし、ひきかけられさふらうやらん。かつはまた、檀波羅蜜の行ともいひつべし。いかにたからものを佛前にもなげ、師匠にもほどこすとも、信心かけなば、その詮なし。一紙・半錢も佛法のかたにいれずとも、他力にこゝろをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にてさふらはめ。すべて佛法にことをよせて、世間の欲心もあるゆへに、同朋をいひをどさるゝにや。 右條々は、みなもて信心のことなるよりことおこりさふらうか。故聖人の御ものがたりに、法然聖人の御とき、御弟子そのかずおはしけるなかに、おなじく御信心のひともすくなくおはしけるにこそ、親巒、御同朋の御なかにして御相論のことさふらひけり。そのゆへは、善信が信心も、聖人の御信心もひとつなりとおほせのさふらひければ、誓觀房・念佛房なんどまふす御同朋達、もてのほかにあらそひたまひて、いかでか聖人の御信心に善信房の信心、ひとつにはあるべきぞとさふらひければ、聖人の御智慧・才覺ひろくおはしますに、一ならんとまふさばこそひがごとならめ。往生の信心においては、またくことなることなし、たゞⅡ-1073ひとつなりと御返答ありけれども、なをいかでかその義あらんといふ疑難ありければ、詮ずるところ、聖人の御まへにて自他の是非をさだむべきにて、この子細をまふしあげければ、法然聖人のおほせには、源空が信心も、如來よりたまはりたる信心なり。善信房の信心も、如來よりたまはらせたまひたる信心なり。さればたゞひとつなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまひらんずる淨土へは、よもまひらせたまひさふらふはじとおほせさふらひしかば、當時の一向專修のひとびとのなかにも、親鸞の御信心にひとつならぬ御こともさふらうらんとおぼへさふらふ。いづれもいづれもくりごとにてさふらへども、かきつけさふらうなり。露命わづかに枯草の身にかゝりてさふらうほどにこそ、あひともなはしめたまふひとびと御不審をもうけたまはり、聖人のおほせのさふらひしおもむきをもまふしきかせまひらせさふらへども、閉眼ののちは、さこそしどけなきことどもにてさふらはんずらめと、なげき存じさふらひて、かくのごとくの義ども、おほせられあひさふらうひとびとにも、いひまよはされなんどせらるゝことのさふらはんときは、故聖人の御こゝろにあひかなひて御もちゐさふらう御聖敎どもを、よくよく御らんさふらうべし。おほよそ聖敎には、眞實・權假ともにあひまⅡ-1074じはりさふらうなり。權をすてゝ實をとり、假をさしおきて眞をもちゐるこそ、聖人の御本意にてさふらへ。かまへてかまへて、聖敎をみ、みだらせたまふまじくさふらう。大切の證文ども、少々ぬきいでまひらせさふらうて、目やすにして、この書にそえまひらせてさふらうなり。聖人のつねのおほせには、彌陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよと御述懷さふらひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪惡生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねにしづみつねに流轉して、出離の縁あることなき身としれ」(散善義)といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪惡のふかきほどをもしらず、如來の御恩のたかきことをもしらずしてまよへるを、おもひしらせんがためにてさふらひけり。まことに如來の御恩といふことをばさたなくして、われもひとも、よしあしといふことをのみまふしあへり。聖人のおほせには、善惡のふたつ、總じてもて存知せざるなり。そのゆへは、如來の御こゝろによしとおぼしめすほどにしりとをしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如來のあしとⅡ-1075おぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩惱具足の凡夫、火宅无常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、たゞ念佛のみぞまことにておはしますとこそおほせはさふらひしか。まことに、われもひともそらごとをのみまふしあひさふらふなかに、ひとついたましきことのさふらうなり。そのゆへは、念佛まふすについて、信心のおもむきをもたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとのくちをふさぎ、相論をたゝんがために、またくおほせにてなきことをもおほせとのみまふすこと、あさましくなげき存じさふらうなり。このむねをよくよくおもひとき、こゝろえらるべきことにさふらう。これさらにわたくしのことばにあらずといへども、經釋のゆくぢもしらず、法文の淺深をこゝろえわけたることもさふらはねば、さだめておかしきことにてこそさふらはめども、古親鸞のおほせごとさふらひしおもむき、百分が一、かたはしばかりをもおもひいでまひらせて、かきつけさふらうなり。かなしきかなや、さひはひに念佛しながら、直に報土にむまれずして、邊地にやどをとらんこと。一室の行者のなかに、信心ことなることなからんために、なくなくふでをそめてこれをしるす。なづけて「歎異抄」といふべし。Ⅱ-1076外見あるべからず。 後鳥羽院之御宇、法然聖人、他力本願念佛宗を興行す。于時、興福寺僧侶、敵奏之上、御弟子中、狼藉子細あるよし、无實風聞によりて罪科に處せらるゝ人數事。 一 法然聖人幷御弟子七人、流罪。又御弟子四人、死罪におこなはるゝなり。聖人は土佐國[番多]といふ所へ流罪、罪名藤井元彥男、W云々R生年七十六歲なり。 親巒は越後國、罪名藤井善信、W云々R生年三十五歲なり。 淨聞房 [備後國]  澄西禪光房 [伯耆國]  好覺房 [伊豆國]  行空法本房 [佐渡國]  幸西成覺房・善惠房二人、同遠流にさだまる。しかるに无動寺之善題大僧正、これを申あづかると。W云々R 遠流之人々、已上八人なりと。W云々R 被行死罪人々 一番 西意善綽房 二番 性願房 三番 住蓮房 Ⅱ-1077四番 安樂房 二位法印尊長之沙汰也。 親鸞、改僧儀賜俗名。仍非僧非俗、然間、以禿字爲姓、被經奏聞了。彼御申狀、于今外記廳に納と。W云々R流罪以後、愚禿親鸞令書給也。 右斯聖敎者、爲當流大事聖敎也。於無宿善機、無左右不可許之者也。 釋蓮如(花押)