Ⅱ-1020光明寺善導和尙言 「但有專念阿彌陀佛衆生、彼佛心光、常照是人、攝護不捨、總不論照攝餘雜業行者」(觀念*法門)といふ。この文のこゝろは、ひとすぢに阿彌陀佛をとなふる人は、かの佛の御こゝろのうちに、ところをきらはず、ときをへだてず、つねにてらし、おさめ、まもりて、すてたまはず、雜行雜修のものおば、てらし、おさめ、まもりたまはずとなり。 「彌陀の誓のゆへなれば  不可稱不可說不可思議の 功德はわきてしらねども  信ずるわがみにみちみてり」 「不可稱」とまふすことは、ことばにあらはしがたきことなり。 「不可說」とまふすは、彌陀の功德をときあらはしがたしとまふすことばなり。 「不可思議」とまふすは、佛の御ちかひ、大慈大悲のふかきことを、こゝろのおよばずとまふすことばなり。こゝろおよばずといふことは、凡夫のこゝろおよばずとまふすことにはあらず、彌勒菩薩のおむこゝろおよばずとなり。佛、佛とのみⅡ-1021ぞしろしめすべきなり、それをふかしぎとはまふすなり。 「南无阿彌陀佛ととなふるに  衆善海水のごとくなり かの淸淨の善みにえたり  ひとしく衆生に廻向せむ」 「衆善海水のごとし」とまふすは、彌陀の御名のなかには、よろづの功德善根をあつめ、おさめたまえることを、衆善とはまふすなり。「海水」といふは、うみのみづのごとく、ひろく、おほきにたとへたまへるなり。「淸淨の善みにえたり」といふは、彌陀の御名をとなふれば、かのめでたき功德善根をわがみにたまはるなり。このくどくをよろづの衆生にあたえて、おなじこゝろに極樂へまいらむとねがはせむとなり。 南无阿彌陀佛