Ⅱ-0853御消息集 (一) 一 畏申上候。 『大無量壽經』(卷下)に「信心歡喜」と候。『淨土和讚』にも、「信心よろこぶその人を 如來とひとしとときたまふ 大信心は佛性なり 佛性すなわち如來なり」とおほせられて候に、專修の人のなかに、ある人こゝろえちがへて候やらむ、信心よろこぶ人を如來とひとしと同行たちののたまふは自力なり、眞言にかたよりたりと申候なる人のうえを可知に候はねども申候。また、「眞實信心うる人は すなわち定聚のかずにいる 不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度をさとらしむ」(淨土*和讚)と候は、このたびこのみのおわり候はむとき、眞實信心の行者の心、報土にいたり候なば、壽命無量を體として、光明無量の德用はなれたまはざれば、如來の心光に一味なり。このゆへに、大信心は佛性なり、佛性はすなわちⅡ-0854如來なりとおほせられて候やらむ。これは十一、二、三の御ちかひのとこゝろえられ候。罪惡のわれらがためにおこしたまえる大悲の御ちかひのめでたくあわれにましますうれしさ、こゝろもおよばず、ことばもたえてまふしつくしがたきこと、かぎりなく候。无始曠劫よりこのかた、過去遠々に、恆沙の諸佛の出世のみもとにて、大菩提心おこすといゑども、自力かなはず、二尊の御方便にもよをされまいらせて、雜行雜修自力疑心のおもひなし。无㝵光如來の攝取不捨の御あわれみのゆへに、疑心なくよろこびまいらせて、一念までの往生さだめて、誓願不思議とこゝろえ候ひなむには、きゝみ候にあかぬ淨土の聖敎も、知識にあひまいらせむとおもはんことも、攝取不捨も、信も、念佛も、人のためとおぼへられ候。いま師主の御おしえのゆへ、心ぬきて御こゝろむきをうかゞひ候によりて、願意をさとり、直道をもとめえて、正しき眞實報土いたり候はんこと、このたび、一念聞名にいたるまで、うれしさ御恩のいたり、そのうえ『彌陀經義集』におろおろあきらかにおぼへられ候。しかれば世間のそうそうにまぎれて、一時もしは二時、三時おこたるといへども、晝夜にわすれず、御あはれみをよろこぶ業力ばかりにて、行住座臥に時所の不淨をもきらはず、一向に金剛の信心ばかⅡ-0855りにて、佛恩のふかさ、師主の恩德のうれしさ、報謝のためにたゞみなをとなふるばかりにて、日の所作とせず。このやうひがざまにか候らむ。一期の大事、たゞこれにすぎたるはなし。しかるべくは、よくよくこまかにおほせをかぶり候はんとて、わづかにおもふばかりを記してまふし候。さては京にひさしく候しに、そうそうにのみ候て、こゝろしづかにおぼへず候し事のなげかれ候て、わざといかにしてもまかりのぼりて、こゝろしづかに、せめては五日、みもとに候はゞやとねがひ候なり。噫、かうまでまふし候も御恩のちからなり。 慶信上 進上聖人御所へ 蓮位御坊申させ給へ 追申上候。 念佛申候人々の中に、南无阿彌陀佛とゝなへ候ひまには、无㝵光如來とゝなへまいらせ候人も候。これをきゝて、ある人の申候なる、南无阿彌陀佛とゝなへてのうへに、歸命盡十方无㝵光如來とゝなへまいらせ候事は、おそれある事にてこそあれ、いまめがはしくと申候なる、このやういかゞ候べき。 御返事 Ⅱ-0856南无阿彌陀佛をとなへてのうへに、无㝵光佛と申さむはあしき事なりと候なるこそ、きわまれる御ひが事ときこへ候へ。歸命は南无なり。无㝵光佛は光明なり、智慧なり。この智慧はすなわち阿彌陀佛。阿彌陀佛の御かたちをしらせたまひ候はねば、その御かたちをたしかにたしかにしらせまいらせむとて、世親菩薩御ちからをつくしてあらはしたまへるなり。このほかの事は、せうせう文字をなほしてまいらせ候。 親鸞 (二) 一 无㝵光如來の慈悲光明に攝取せられまいらせ候ゆへ、名號をとなへつゝ不退のくらゐにいりさだまり候なむには、このみのために攝取不捨をはじめてたづぬべきにはあらずとおぼへられて候。そのうへ『華嚴經』(晉譯卷六〇*入法界品)に、「聞此法歡喜 信心无疑者 速成无上道 與諸如來等」とおほせられて候。また第十七の願に「十方无量の諸佛にほめとなえられむ」(大經*卷上意)とおほせられて候。また願成就の文に「十方恆沙の諸佛」(大經*卷下)とおほせられて候は、信心の人とこゝろえてⅡ-0857候。この人はすなわちこのよより如來とひとしとおぼへられ候。このほかは、凡夫のはからひおばもちゐず候なり。このやうをこまかにおほせかぶり給べく候。恐々謹言。 二月十二日 淨信 聖人御返事 如來の誓願を信ずる心のさだまるときと申は、攝取不捨の利益にあづかるゆへに、不退のくらゐにさだまると御こゝろえ候べし。眞實信心さだまると申も、金剛の信心のさだまると申も、攝取不捨のゆへに无上覺にいたるべき心のおこると申なり。これを不退のくらゐとも、正定聚のくらゐにいるとも申、等正覺にいたるとも申なり。このこゝろのさだまるを、十方諸佛のよろこびて、諸佛の御こゝろにひとしとほめたまふなり。このゆへに、まことの信心の人おば、諸佛とひとしと申なり。また補處の彌勒とおなじととも申なり。このよにて眞實信心の人をまぼらせ給へばこそ、『阿彌陀經』(意)には、「十方恆沙の諸佛護念す」とは申事にて候へ。安樂淨土へ往生してのちは、まもりたまふと申ことにては候はず。娑婆世界にゐたるほど護念すと申事なり。信心まことなる人のこゝろを、十方恆Ⅱ-0858沙の如來のほめたまへば、佛とひとしとは申事なり。また他力と申事は、義なきを義とすと申なり。義とまふすことは、行者のおのおののはからふことを義とまふすなり。如來の誓願は不可思議にましますゆへに、佛と佛との御はからひなり。凡夫のはからひにあらず。補處の彌勒菩薩をはじめとして、佛智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば如來の誓願には、義なきを義とすとは、大師聖人のおほせに候き。このこゝろのほかに往生にいるべきこと候はずとこゝろへて、まかりすぎ候へば、人のおほせごとにはいらぬものにて候也。諸事恐々謹言。 安樂淨土にいりはつれば、すなわち大涅槃をさとるとも、滅度にいたるともまふすは、み名こそかわりたるやうなれども、これはみな法身とまふす佛となるなり。法身とまふす佛をさとりひらくべき正因に、彌陀佛の御ちかひを、法藏菩薩われらに廻向したまへるを、往相の廻向とまふすなり。この廻向せさせたまへる願を、念佛往生の願とはまふすなり。この念佛往生の願を一向に信じてふたごゝろなきを、一向專修とまふすなり。如來の二種の廻向とまふすことは、この二種の廻向の願を信じ、ふたごゝろなきを、眞實の信心とまふす。この眞實の信心のおこることは、釋迦・彌陀の二尊の御はからひよりおこりたりとしらせたまふべⅡ-0859く候。あなかしこ、あなかしこ。 二月廿五日 親鸞 淨信御坊 御返事 (三) 一 この御ふみのやう、くわしくまふしあげて候。すべてこの御ふみのやう、たがはず候とおほせ候也。たゞし、一念するに往生さだまりて誓願不思議とこゝろえ候とおほせ候おぞ、よきやうには候へども、一念にとゞまるところあしく候とて、御ふみのそばに御自筆をもて、あしく候よしをいれさせおはしまして候。蓮位にかくいれよとおほせをかぶりて候へども、御自筆はつよき證據におぼしめされ候ぬとおぼえ候あひだ、おりふし御がいびやうにて御わづらひにわたらせたまひ候へども、まふして候也。またのぼりて候し人々、くにゝ論じまふすとて、あるいは彌勒とひとしとまふし候人々候よしをまふし候しかば、しるしおほせられて候ふみの候。しるしてまいらせ候也。御覽あるべく候。また彌勒とひとしと候は、彌勒は等覺の分なり、これは因位の分なり。これは十四・十五の月の圓滿Ⅱ-0860したまふが、すでに八日・九日の月のいまだ圓滿したまはぬほどをまふし候也。これは自力修行のやうなり。われらは信心決定の凡夫、くらゐ正定聚のくらゐなり。これは因位なり、これ等覺の分なり。かれは自力也、これは他力なり。自他のかわりこそ候へども、因位のくらゐはひとしといふなり。また彌勒の妙覺のさとりはおそく、われらが滅度にいたることはとく候はむずるなり。かれは五十六億七千萬歲のあかつきを期し、これはちくまくをへだつるほどなり。かれは漸頓のなかの頓、これは頓のなかの頓なり。滅度といふは妙覺なり。曇鸞の『註』(論註*卷下意)にいはく、「樹あり、好堅樹といふ。この木、地のそこに百年わだかまりゐて、おうるとき一日に百丈おい候」なるぞ。この木、地のそこに百年候は、われらが娑婆世界に候て、正定聚のくらゐに住する分なり。一日に百丈おい候なるは、滅度にいたる分なり。これにたとへて候也。これは他力のやうなり。松の生長するは、としごとに寸をすぎず。これはおそし、自力修行のやうなり。また如來とひとしといふは、煩惱成就の凡夫、佛の心光にてらされまいらせて信心歡喜す。信心歡喜するゆへに正定聚のかずに住す。信心といふは智也。この智は、他力の光明に攝取せられまいらせぬるゆへにうるところの智也。佛の光Ⅱ-0861明も智也。かるがゆへに、おなじといふなり。おなじといふは、信心をひとしといふなり。歡喜地といふは、信心を歡喜するなり。わが信心を歡喜するゆへにおなじといふなり。くはしく御自筆にしるされて候を、かきうつしてまいらせ候。また南无阿彌陀佛とまふし、また无㝵光如來ととなえ候御不審も、くわしく自筆に御消息のそばにあそばして候也。かるがゆへに、それよりの御ふみをまいらせ候。あるいは阿彌陀といひ、あるいは无㝵光とまふし、御名ことなりといゑども、心は一なり。阿彌陀といふは梵語なり。これには无量壽ともいふ、无㝵光ともまふし候。梵漢ことなりといゑども、心おなじく候也。そもそも、覺信坊の事、ことにあわれにおぼへ、またたふとくもおぼへ候。そのゆへは、信心たがはずしておはられて候。また、たびたび信心ぞんぢのやう、いかやうにかとたびたびまふし候しかば、當時まではたがふべくも候はず。いよいよ信心のやうはつよくぞんずるよし候き。のぼり候しに、くにをたちて、ひといちとまふししとき、やみいだして候しかども、同行たちはかへれなむどまふし候しかども、死するほどのことならば、かへるとも死し、とゞまるとも死し候はむず。またやまひはやみ候ば、かへるともやみ、とゞまるともやみ候はむず。おなじくは、みもとにⅡ-0862てこそおはり候はゞ、おわり候はめとぞんじてまいりて候也と、御ものがたり候し也。この御信心まことにめでたくおぼへ候。善導和尙の釋の二河の譬喩におもひあはせられて、よにめでたくぞんじ、うらやましく候也。おはりのとき、南无阿彌陀佛、南无无㝵光如來、南无不可思議光如來ととなえられて、てをくみてしづかにおわられて候しなり。またおくれさきだつためしは、あはれになげかしくおぼしめされ候とも、さきだちて滅度にいたり候ぬれば、かならず最初引接のちかひをおこして、結縁・眷屬・萠友をみちびくことにて候なれば、しかるべくおなじ法文の門にいりて候へば、蓮位もたのもしくおぼへ候。また、おやとなり、ことなるも、先世のちぎりとまふし候へば、たのもしくおぼしめさるべく候也。このあわれさたふとさ、まふしつくしがたく候へば、とゞめ候ぬ。いかにしてか、みづからこのことをまふし候べきや。くはしくはなほなほまふし候べく候。このふみのやうを、御まへにてあしくもや候とて、よみあげて候へば、これにすぐべくも候はず、めでたく候とおほせをかぶりて候也。ことに覺信坊のところに、御なみだをながさせたまひて候也。よにあわれにおもはせたまひて候也。 十月廿九日 蓮位 Ⅱ-0863慶信御坊へ (四) 一 たづねおほせられて候攝取不捨の事は、『般舟三昧行道往生讚』(意)と申におほせられて候をみまいらせ候へば、「釋迦如來・彌陀佛、われらが慈悲の父母にて、さまざまの方便にて、我等が无上信心をばひらきおこさせ給」と候へば、まことの信心のさだまる事は、釋迦・彌陀の御はからいとみえて候。往生の心うたがいなくなり候は、攝取せられまいらするゆへにとみえて候。攝取のうえには、ともかくも行者のはからいあるべからず候。淨土へ往生するまでは、不退のくらゐにおはしまし候へば、正定聚のくらゐとなづけておはします事にて候也。まことの信心をば、釋迦如來・彌陀如來二尊の御はからいにて發起せしめ給候とみへて候へば、信心のさだまると申は、攝取にあづかるときにて候也。そののちは正定聚のくらゐにて、まことに淨土えむまるゝまでは候べしとみえて候也。ともかくも行者のはからいをちりばかりもあるべからず候へばこそ、他力と申ことにて候へ。あなかしこ、あなかしこ。 Ⅱ-0864十月六日 親鸞 しのぶの御ばうの御返事 (五) 一 性信御坊   親鸞 信心をえたる人は、かならず正定聚のくらゐに住するがゆへに等正覺のくらゐとまふすなり。いまの『大无量壽經』に、攝取不捨の利益にさだまるを正定聚となづけ、『无量壽如來會』には等正覺ととき給へり。その名こそかわりたれども、正定聚・等正覺は、ひとつこゝろ、ひとつくらゐなり。等正覺とまふすくらゐは、補處の彌勒とおなじくらゐなり。彌勒とおなじく、このたび无上覺にいたるべきゆへに、彌勒におなじとゝき給へり。さて『大經』(卷下)には、「次如彌勒」とは申なり。彌勒はすでに佛にちかくましませば、彌勒佛と諸宗のならひは申なり。しかれば、彌勒におなじくらゐなれば、正定聚の人は如來とひとしとも申なり。淨土の眞實信心の人は、この身こそあさましき不淨造惡の身なれども、心はすでに如來とひとしけれ、如來と申こともあるべしとしらせ給へ。彌勒すでに无上覺にそⅡ-0865の心さだまりてあかつきにならせ給ふによりて、三會のあかつきと申なり。淨土眞實の人も、このこゝろをこゝろうべきなり。光明寺の和尙の『般舟讚』(意)には、「信心の人は、その心すでに淨土に居す」と釋し給へり。「居す」といふは、淨土に、信心の人のこゝろつねにゐたりといふこゝろなり。これは彌勒とおなじくといふことを申なり。これは等正覺を彌勒とおなじと申すによりて、信心の人は如來とひとしと申こゝろなり。 正嘉元年W丁巳R十月十日 親鸞 性信御坊 (六) 眞佛御坊   親鸞 これは經の文なり。『華嚴經』(晉譯卷六〇*入法界品意)に、「信心歡喜者與諸如來等」といふは、信心をよろこぶひとはもろもろの如來とひとしといふなり。如來とひとしといふは、信心をえてことによろこぶひとは、釋尊のみことには、「見敬得大慶則我善親友」(大經*卷下)ととき給へり。また彌陀の第十七の願には、「十方世界の无量の諸Ⅱ-0866佛不悉咨嗟稱我名者不取正覺」(大經*卷上)とちかひ給へり。願成就の文には、「よろづの佛にほめられ、よろこびたまふ」(大經*卷下意)とみえたり。すこしもうたがふべきにあらず。これは如來とひとしといふ文どもをあらわししるすなり。 正嘉元W丁巳R十月十五日 親鸞 眞佛御坊 (七) 一 或人云、 往生の業因は、一念發起信心のとき、无㝵の心光に攝護せられまいらせ候ぬれば、同一也。このゆへに不審なし。このゆへに、はじめてまた信不信を論じたづね申べきにあらずとなり。このゆへに他力なり、義なきがなかの義となり。たゞ无明なること、おほはるゝ煩惱ばかりとなり。恐々謹言。 十一月一日 專信上 おほせ候ところの往生の業因は、眞實信心をうるとき攝取不捨にあづかるとおもへば、かならずかならず如來の誓願に住すと、悲願にみえたり。「設我得佛、國Ⅱ-0867中人天、不住定聚、必至滅度者、不取正覺」(大經*卷上)とちかひ給へり。正定聚に信心の人は住し給へりとおぼしめし候なば、行者のはからいのなきゆへに、義なきを義とすと、他力おば申なり。善とも惡とも、淨とも穢とも、行者のはからひなきみとならせ給て候へばこそ、義なきを義とすとは申ことにて候へ。十七の願に、わがなをとなえられむとちかひ給て、十八の願に、信心まことならば、もしむまれずは佛にならじとちかひ給へり。十七・十八の悲願みなまことならば、正定聚の願はせむなく候べきか。補處の彌勒におなじくらゐに信心の人はならせたまふゆへに、攝取不捨とはさだめられて候へ。このゆへに、他力と申すは行者のはからいのちりばかりもいらぬなり。かるがゆへに義なきを義とすと申なり。このほかにまたまふすべきことなし。たゞ佛にまかせまいらせ給へと、大師聖人のみことにて候へ。 十一月十八日 親鸞 專信御坊 御報 Ⅱ-0868彌陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 攝取不捨の利益にて 无上覺おばさとるなり 願力成就の報土には 自力の心行いたらねば 大小聖人みなゝがら 如來の弘誓に乘ずなり