Ⅱ-0817親鸞聖人御消息集 (一) かたがたよりの御こゝろざしのものども、かずのまゝにたしかにたまはりてさふらふ。明敎坊ののぼられてさふらふこと、まことにありがたきことにさふらふ。かたがたの御こゝろざし、まふしつくしがたふさふらふ。明法御坊の往生のこと、おどろきまふすべきにはあらねども、かへすがへすうれしふさふらふ。鹿嶋・行方・奧郡、かやうの往生ねがはせたまふひとびとの、みなの御よろこびにてさふらふ。またひらつかの入道殿の御往生ときゝさふらふこそ、かへすがへすまふすにかぎりなくおぼえさふらへ。めでたさまふしつくすべくもさふらはず。をのをのいよいよみな往生は一定とおぼしめすべし。さりながらも、往生をねがはせたまふひとびとの御なかにも、御こゝろえぬことゞもゝさふらひき、いまもさのみこそさふらふらめとおぼえさふらふ。京にもこゝろえずして、やうⅡ-0818やうにまどひあふてさふらふめり。くにぐににもおほくきこえさふらふ。法然聖人の御弟子のなかにも、われはゆゝしき學生なむどゝおもひたるひとびとも、この世には、みなやうやうに法門もいひかへて、身もまどひ、ひとをもまどはして、わづらひあふてさふらふなり。聖敎のをしへをもみずしらぬ、をのをののやうにおはしますひとびとは、往生にさはりなしとばかりいふをきゝて、あしざまに御こゝろえたること、おほくさふらひき。いまもさこそさふらふらめとおぼえさふらふなり。淨土のをしへもしらぬ信見房なんどがまふすことによりて、ひがざまにいよいよなりあはせたまひさふらふらむときゝさふらふこそ、あさましくさふらへ。まづをのをの、御こゝろえはむかしは彌陀のちかひをもしらず、阿彌陀佛をもまふさずおはしましさふらひしが、釋迦・彌陀の御方便にもよほされて、いま彌陀のちかひをもきゝはじめておはします身にてさふらふなり。もとは无明のさけにえいふして、貪欲・瞋恚・愚癡の三毒をのみこのみめしあふてさふらひつるに、佛の御ちかひをきゝはじめしより、无明のえいもやうやうすこしづゝさめ、三毒をもすこしづゝこのまずして、阿彌陀佛のくすりをつねにこのみめす身となりておはしましあふてさふらふぞかし。しかるに、なを无明のえひもⅡ-0819さめやらぬに、かさねてえひをすゝめ、毒もきえやらぬに、なを三毒をすゝめられさふらふらんこそ、あさましくおぼえさふらへ。煩惱具足の身なれば、こゝろにもまかせ、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こゝろにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこゝろのまゝにあるべしとまふしあふてさふらふらんこそ、かへすがへす不便におぼえさふらへ。えひもさめぬさきに、なをさけをすゝめ、毒もきえやらぬものに、いよいよ毒をすゝめむがごとし。くすりあり毒をこのめとさふらふらんことは、あるべくもさふらはずとぞおぼえさふらふ。佛のちかひをもきゝ念佛もまふして、ひさしふなりておはしまさんひとびとは、この世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをいとひすてむとおぼしめすしるしもさふらふべしとこそおぼえさふらへ。はじめて佛のちかひをきゝはじむるひとびとの、わが身のわるく、こゝろのわるきをおもひしりて、この身のやうにてはいかゞ往生せむずるといふひとにこそ、煩惱具したる身なれば、わがこゝろのよしあしをば沙汰せず、むかへたまふぞとはまふしさふらへ。かくきゝてのち、佛を信ぜむとおもふこゝろふかくなりぬるには、まことにこの身をもいとひ、流轉せむことをもかなしみて、ふかくちかひをⅡ-0820も信じ、阿彌陀佛をもこのみまふしなむどするひとは、もとこそ、こゝろのまゝにてあしきことをもおもひ、あしきことをもふるまひなむどせしかども、いまはさやうのこゝろをすてむとおぼしめしあはせたまはゞこそ、世をいとふしるしにてもさふらはめ。また往生の信心は、釋迦・彌陀の御すゝめによりてをこるとこそみえさふらへば、さりともまことのこゝろをこらせたまひなんには、いかでかむかしの御こゝろのまゝにてはさふらふべき。この御なかのひとびとも、少々はあしきさまなることもきこえさふらふめり。師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなむどしあはせたまふよしきこえさふらふ、あさましくさふらふ。すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず。『淨土論』(論註*卷上意)とまふすふみには、「かやうのひとは佛法信ずるこゝろのなきより、このこゝろはをこるなり」とさふらふめり。また至誠心のなかには、「かやうに惡をこのまむひとにはつゝしみてとをざかれ、ちかづくことなかれ」(散善*義意)とこそをしへをかれてさふらへ。善知識・同行にはしたしみちかづけとこそときをかれてさふらへ。惡をこのむひとにもちかづき、善をせぬひとにもちかづきなんどすることは、淨土にまいりてのち、衆生利益にかへりてこそ、さやうの罪人にもしⅡ-0821たしみちかづくことはさふらへ。それも、わがはからひにはあらず。彌陀のちかひによりかの御たすけによりてこそ、おもふさまのふるまひもさふらはむずれ。當時は、この身どものやうにては、いかゞさふらふべからんとおぼえさふらふ。よくよく案ぜさせたまふべくさふらふ。往生の金剛心のをこることは、佛の御はからひによりをこりてさふらへば、金剛心をとりてさふらはむひとは、よも師をそしり善知識をあなづりなんどすることはさふらはじとぞおぼえさふらへ。この文をもちて鹿嶋・行方・南莊、いづかたにもこれにこゝろざしおはしまさんひとには、おなじ御こゝろによみきかせたまふべくさふらふ。あなかしこ、あなかしこ。 建長四年W壬子R八月十九日 親鸞 (二) この明敎坊のぼられてさふらふこと、まことにありがたきことゝおぼえさふらふ。明法の御坊の御往生のことをまのあたりにきゝさふらふも、うれしくさふらふ。またひとびとの御こゝろざしも、ありがたくおぼえさふらふ。かたがたこⅡ-0822のひとののぼり、不可思議のことにさふらふ。この文をたれたれにもおなじ御こゝろによみきかせたまふべくさふらふ。この文は奧郡におはします同朋の御なかに、おなじくみな御覽さふらふべし。あなかしこ、あなかしこ。としごろ念佛して往生をねがふしるしには、もとあしかりしわがこゝろをもおもひかへして、ともの同朋にもねんごろのこゝろのおはしましあはゞこそ、世をいとふしるしにてもさふらはめとこそおぼえさふらへ。よくよく御こゝろえさふらふべし。 (三) 御文度々まいらせさふらひき。御覽ぜずやさふらひけん。なにごとよりも明法の御坊の往生の本意とげておはしましさふらふこそ、常陸國中の、これにこゝろざしおはしますひとびとの御ために、めでたきことにてさふらへ。往生はともかくも凡夫のはからひにてすべきことにてもさふらはず。めでたき智者もはからふべきことにもさふらはず。大小の聖人だにも、とかくはからはで、たゞ願力にまかせてこそおはしますことにてはさふらふなれ。ましてをのをののやうにおはしますひとびとは、たゞこのちかひありときゝ、南无阿彌陀佛にあひまいらせⅡ-0823んことこそ、ありがたく、めでたくさふらふ御果報にてはさふらふなれ。をのをのとかくはからはせたまふこと、ゆめゆめさふらふべからず。さきにくだしまいらせさふらひし『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』なんどの文どもにて御覽さふらふべし。それこそ、この世にとりてはよきひとびとにてもおはします。またすでに往生をもしておはしますひとびとにてさふらへば、その文どもにかゝれてさふらふには、なにごともなにごともすぐべくもさふらはず。法然聖人の御をしへを、よくよく御こゝろえたるひとびとにておはしましさふらひき。さればこそ、往生もめでたくしておはしましさふらへ。おほかたは、としごろ念佛まふしあはせたまふひとびとのなかにも、ひとへにわがおもふさまなることをのみまふしあはれてさふらふひとびともさふらひき。いまもさこそさふらふらめとおぼえさふらふ。明法坊なんどの往生しておはしますも、もとは不可思議のひがごとをおもひなんどしたるこゝろをもおもひかへしなんどしてこそさふらひしか。われ往生すべければとて、すまじきことをもし、おもふまじきことをもいひなんどすることはあるべくもさふらはず。貪欲の煩惱にくるはされて欲もをこり、瞋恚の煩惱にくるはされてねたむべくもなき因果をもやぶるこゝろもをこり、愚Ⅱ-0824癡の煩惱にまどはされておもふまじきことなんどもをこるにてこそさふらへ。めでたき佛の御ちかひのあればとて、わざとすまじきことゞもをもし、おもふまじきことゞもをもおもひなんどせば、よくよくこの世のいとはしからず、身のわるきことをもおもひもしらぬにてさふらへば、念佛にこゝろざしもなく、佛の御ちかひにもこゝろざしのおはしまさぬにてさふらへば、念佛せさせたまふことも、その御こゝろざしにては順次の往生もかたくやさふらふべからん。よくよくこのよしをひとびとに、きかせまいらせたまふべくさふらふ。かやうにもまふすべくもさふらはねども、なにとなくこの邊のことを御こゝろにかけあはせたまふひとびとにておはしましゐてさふらへば、かくほどもまふしさふらふなり。この世の念佛の義は、やうやうにかはりあふてさふらふめれば、とかくまふすにはをよばずさふらへども、故聖人の御をしへをよくよくうけたまはりておはしますひとびとは、いまももとのやうにてかはらせたまふことさふらはず。世かくれなきことなれば、きかせたまひあふてさふらふらん。淨土宗の義、みなかはりておはしましあふてさふらふひとびとも、たゞ聖人の御弟子にてさふらへども、やうやうに義をもいひかへなんどして、身もまどひ、ひとをもまどはしあふてさふらⅡ-0825ふめり。あさましきことにてさふらふなり。京にもおほくまどひあふてさふらふめり。まして、ゐなかは、さこそさふらふらめとこゝろにくゝもさふらはず。なにごともまふしつくしがたふさふらふ。またまたまふしさふらふべし。 (四) 善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば、謗法のものとまふすなり。親をそしるものをば、五逆のものとまふすなり。同座をせざれとさふらふなり。さればきたのこほりにさふらひし善證坊は、親をのり、善信をやうやうにそしりさふらひしかば、ちかづきむつまじくおもひさふらはで、ちかづけずさふらひき。明法の御坊の往生のことをきゝながら、そのあとをおろかにもせんひとびとは、その同朋にあらずさふらふべし。无明のさけにえうたるひとにいよいよえひをすゝめ、三毒をひさしくこのみくふひとにいよいよ毒をゆるしてこのめとまふしあふてさふらふらん、不便のことにさふらふ。无明のさけにえうたるかなしみ、三毒をこのみくふていまだ毒もうせはてず、无明のえひもいまださめやらぬ身にておはしましあふてさふらふぞかし。よくよく御こゝろえられさふらふべし。なⅡ-0826にごともまふしつくしがたくさふらふ。またまたまふすべし。あなかしこ、あなかしこ。 親鸞 (五) なにごとよりは、聖敎のをしへをもしらず、また淨土宗のまことのそこをもしらずして、不可思議の放逸无慚のものどものなかに、惡はおもふさまにふるまふべしとおほせられさふらふなるこそ、かへすがへすあるべくもさふらはず。きたのこほりにありし善證坊といふしものに、つゐにあひむつるゝことなくてやみにしをばみざりけるにや。凡夫なればとて、なにごともおもふさまならば、ぬすみをもし、ひとをもころしなんどすべきかは。もとぬすみごゝろあらんものも、極樂をねがひ、念佛まふすほどのことになりなば、もとひがふたるこゝろもおもひなをしてこそあるべきに、そのしるしもなからんひとびとに、惡くるしからずといふこと、ゆめゆめあるべからずさふらふ。煩惱にくるはされて、おもはざるほかにすまじきことをもふるまひ、いふまじきことをもいひ、おもふまじきことをⅡ-0827もおもふにてこそあれ。さはらぬことなればとて、ひとのためにもはらぐろく、すまじきことをもし、いふまじきことをもいはゞ、煩惱にくるはされたる義にはあらで、わざとすまじきことをもせば、かへすがへすあるまじきことなり。鹿嶋・行方のひとびとのあしからんことをばいひもとゞめ、その邊のひとびとの、ことにひがふたることをば制したまはゞこそ、この邊よりいできたるしるしにてはさふらはめ。たゞしたからんことをばせよ、ふるまひなんどもこゝろにまかせよ、といへるとさふらふらん、あさましきことにさふらふ。この世のわるきをすて、あしきことをせざらんこそ、世をいとひ、念佛まふすことにてはさふらふに、としごろ念佛をするひとなんどの、ひとのためにあしきことをもし、またいひもせんは、世をいとふしるしもなし。されば善導の御をしへには、「惡をこのまんひとをば、うやまひてとをざかれ」(散善*義意)とこそ、至誠心のなかにはをしへをかせおはしましてさふらへ。いつかは、わがこゝろのわるきにまかせてふるまへとはさふらふ。おほかたは經釋の文をもしらず、如來の御ことをしらぬ身にて、ゆめゆめその沙汰あるべくもさふらはず。また往生はなにごともなにごとも凡夫のはからひならず、如來の御ちかひにまかせまいらせたればこそ、他力にてはさⅡ-0828ふらへ。やうやうにはからひあふてさふらふらん、をかしくさふらふ。あなかしこ、あなかしこ。 十一月廿四日 親鸞 (六) なにごとよりは、如來の御本願のひろまらせたまひてさふらふこと、かへすがへすめでたく、うれしくさふらふ。そのことに、をのをのところどころに、われはといふことをおもふてあらそふこと、ゆめゆめあるべからずさふらふ。京に一念多念なんどまふす、あらそふことのおほくさふらふやうにあること、さらさらさふらふべからず。たゞ詮ずるところは、『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』、この御文どもをよくよくつねにみて、その御こゝろにたがへずおはしますべし。いづかたのひとびとにも、このこゝろをおほせられさふらふべし。なをおぼつかなきことあらば、今日までいきてさふらへば、わざともこれへたづねたまふべし。また便にもおほせたまふべし。鹿嶋・行方、そのならびのひとびとにも、このこゝろをよくよくおほせらるべし。一念多念のあらそひなんどのやうに、詮なきⅡ-0829こと、論じごとをのみまふしあはれてさふらふぞかし。よくよくつゝしむべきことなり。あなかしこ、あなかしこ。 かやうのことをこゝろえぬひとびとは、そのことゝなきことをまふしあはれてさふらふぞ。よくよくつゝしみたまふべし。かへすがへす。 二月三日 親鸞 (七) 六月一日の御文、くはしくみさふらひぬ。さては鎌倉にての御うたへのやうは、おろおろうけたまはりてさふらふ。この御文にたがはずうけたまはりてさふらひしに、別のことはよもさふらはじとおもひさふらひしに、御くだりうれしくさふらふ。おほかたは、このうたへのやうは、御身ひとりのことにはあらずさふらふ。すべて淨土の念佛者のことなり。このやうは、故聖人の御とき、この身どものやうやうにまふされさふらひしことなり。こともあたらしきうたへにてさふらふなり。性信坊ひとりの沙汰あるべきことにはあらず。念佛まふさんひとは、みなおなじこゝろに御沙汰あるべきことなり。御身をわらひまふすべきことにはあⅡ-0830らずさふらふべし。念佛者のものにこゝろえぬは、性信坊のとがにまふしなされんは、きはまれるひがごとにさふらふべし。念佛まふさんひとは、性信坊のかたふどにこそなりあはせたまふべけれ。母・姉・妹なんどやうやうにまふさるゝことは、ふるごとにてさふらふ。さればとて、念佛をとゞめられさふらひしが、世にくせごとのをこりさふらひしかば、それにつけても念佛をふかくたのみて、世のいのりにこゝろにいれて、まふしあはせたまふべしとぞおぼえさふらふ。御文のやう、おほかたの陳狀、よく御はからひどもさふらひけり。うれしくさふらふ。詮じさふらふところは、御身にかぎらず、念佛まふさんひとびとは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため、國民のために、念佛をまふしあはせたまひさふらはゞ、めでたふさふらふべし。往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念佛さふらふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、佛の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念佛こゝろにいれてまふして、世のなか安穩なれ、佛法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえさふらふ。よくよく御案さふらふべし。このほかは、別の御はからひあるべしとはおぼえずさふらふ。なをなをとく御くだりのさふらふこそ、Ⅱ-0831うれしふさふらへ。よくよく御こゝろにいれて、往生一定とおもひさだめられさふらひなば、佛の御恩をおぼしめさんには、ことごとはさふらふべからず。御念佛をこゝろにいれてまふさせたまふべしとおぼえさふらふ。あなかしこ、あなかしこ。 七月九日 親鸞 性信御坊 (八) 護念坊のたよりに、敎忍御坊より錢二百文、御こゝろざしのものたまはりてさふらふ。さきに念佛のすゝめのもの、かたがたの御なかよりとて、たしかにたまはりてさふらひき。ひとびとによろこびまふさせたまふべくさふらふ。この御返事にて、おなじ御こゝろにまふさせたまふべくさふらふ。さてはこの御たづねさふらふことは、まことによき御うたがひどもにてさふらふべし。まづ一念にて往生の業因はたれりとまふしさふらふは、まことにさるべきことにてさふらふべし。さればとて、一念のほかに念佛をまふすまじきことにはさふらはず。そのやうは、Ⅱ-0832『唯信鈔』にくはしくさふらふ。よくよく御覽さふらふべし。一念のほかにあまるところの念佛は、十方の衆生に廻向すべしとさふらふも、さるべきことにてさふらふべし。十方の衆生に廻向すればとて、二念・三念せんは往生にあしきことゝおぼしめされさふらはゞ、ひがごとにてさふらふべし。念佛往生の本願とこそおほせられてさふらへば、おほくまふさんも、一念一稱も往生すべしとこそうけたまはりてさふらへ。かならず、一念ばかりにて往生すといひて、多念をせんは往生すまじきとまふすことは、ゆめゆめあるまじきことなり。『唯信鈔』をよくよく御覽さふらふべし。また有念・无念とまふすことは、他力の法文にはあらぬことにてさふらふ。聖道門にまふすことにてさふらふなり。みな自力聖道の法文なり。阿彌陀如來の選擇本願念佛は、有念の義にもあらず、无念の義にもあらずとまふしさふらふなり。いかなるひとまふしさふらふとも、ゆめゆめもちゐさせたまふべからずさふらふ。聖道にまふすことを、あしざまにきゝなして、淨土宗にまふすにてぞさふらふらん。さらさらゆめゆめもちゐさせたまふまじくさふらふ。また慶喜とまふしさふらふことは、他力の信心をえて、往生を一定してんずとよろこぶこゝろをまふすなり。常陸國中の念佛者のなかに、Ⅱ-0833有念・无念の念佛沙汰のきこえさふらふは、ひがごとにさふらふとまふしさふらひにき。たゞ詮ずるところは、他力のやうは、行者のはからひにてはあらずさふらへば、有念にあらず、无念にあらずとまふすことを、あしふきゝなして、有念・无念なんどまふしさふらひけるとおぼえさふらふ。彌陀の選擇本願は、行者のはからひのさふらはねばこそ、ひとへに他力とはまふすことにてさふらへ。一念こそよけれ、多念こそよけれなんどまふすことも、ゆめゆめあるべからずさふらふ。なをなを一念のほかにあまるところの御念佛を法界衆生に廻向すとさふらふは、釋迦・彌陀如來の御恩を報じまいらせんとて、十方衆生に廻向せられさふらふらんは、さるべくさふらへども、二念・三念まふして往生せんひとをひがごとゝはさふらふべからず。よくよく『唯信鈔』を御覽さふらふべし。念佛往生の御ちかひなれば、一念・十念も往生はひがごとにあらずとおぼしめすべきなり。あなかしこ、あなかしこ。 十二月廿六日 親鸞 敎忍御坊 御返事 Ⅱ-0834(九) まづよろづの佛・菩薩をかろしめまいらせ、よろづの神祇・冥道をあなづりすてたてまつるとまふすこと、このことゆめゆめなきことなり。世々生々に无量无邊の諸佛・菩薩の利益によりて、よろづの善を修行せしかども、自力にては生死をいでずありしゆへに、曠劫多生のあひだ、諸佛・菩薩の御すゝめによりて、いままうあひがたき彌陀の御ちかひにあひまいらせてさふらふ御恩をしらずして、よろづの佛・菩薩をあだにまふさんは、ふかき御恩をしらずさふらふべし。佛法をふかく信ずるひとをば、天地におはしますよろづのかみは、かげのかたちにそへるがごとくして、まもらせたまふことにてさふらへば、念佛を信じたる身にて、天地のかみをすてまふさんとおもふこと、ゆめゆめなきことなり。神祇等だにもすてられたまはず。いかにいはんや、よろづの佛・菩薩をあだにもまふし、おろかにおもひまいらせさふらふべしや。よろづの佛をおろかにまふさば、念佛を信ぜず、彌陀の御名をとなへぬ身にてこそさふらはんずれ。詮ずるところは、そらごとをまふし、ひがごとを、ことにふれて、念佛のひとびとにおほせられつけて、念佛をとゞめんと、ところの領家・地頭・名主の御はからひどものさふらふらⅡ-0835んこと、よくよくやうあるべきことなり。そのゆへは、釋迦如來のみことには、念佛するひとをそしるものをば名无眼人ととき、名无耳人とおほせをかれたることにさふらふ。善導和尙は、「五濁增時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壞競生怨」(法事讚*卷下)とたしかに釋しをかせたまひたり。この世のならひにて念佛をさまたげんひとは、そのところの領家・地頭・名主のやうあることにてこそさふらはめ。とかくまふすべきにあらず。念佛せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便におもふて、念佛をもねんごろにまふして、さまたげなさんを、たすけさせたまふべしとこそ、ふるきひとはまふされさふらひしか。よくよく御たづねあるべきことなり。つぎに、念佛せさせたまふひとびとのこと、彌陀の御ちかひは煩惱具足のひとのためなりと信ぜられさふらふは、めでたきやうなり。たゞしわるきものゝためなりとて、ことさらにひがごとをこゝろにもおもひ、身にも口にもまふすべしとは、淨土宗にまふすことならねば、ひとびとにもかたることさふらはず。おほかたは、煩惱具足の身にて、こゝろをもとゞめがたくさふらひながら、往生をうたがはずせんとおぼしめすべしとこそ、師も善知識もまふすことにてさふらふに、かゝるわるき身なれⅡ-0836ば、ひがごとをことさらにこのみて、念佛のひとびとのさはりとなり、師のためにも善知識のためにも、とがとなさせたまふべしとまふすことは、ゆめゆめなきことなり。彌陀の御ちかひにまふあひがたくしてあひまいらせて、佛恩を報じまいらせんとこそおぼしめすべきに、念佛をとゞめらるゝことに沙汰しなされてさふらふらんこそ、かへすがへすこゝろえずさふらふ。あさましきことにさふらふ。ひとびとのひがざまに御こゝろえどものさふらふゆへに、あるべくもなきことゞもきこえさふらふ。まふすばかりなくさふらふ。たゞし念佛のひと、ひがごとをまふしさふらはゞ、その身ひとりこそ地獄にもをち、天魔ともなりさふらはめ。よろづの念佛者のとがになるべしとはおぼえずさふらふ。よくよく御はからひどもさふらふべし。なをなを念佛せさせたまふひとびと、よくよくこの文を御覽じとかせたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。 九月二日 親鸞 念佛人々御中 Ⅱ-0837(一〇) ふみかきてまいらせさふらふ。このふみを、ひとびとにもよみてきかせたまふべし。遠江の尼御前の御こゝろにいれて御沙汰さふらふらん、かへすがへすめでたくあはれにおぼえさふらふ。よくよく京よりよろこびまふすよしをまふしたまふべし。信願坊がまふすやう、かへすがへす不便のことなり。わるき身なればとて、ことさらにひがごとをこのみて、師のため善知識のためにあしきことを沙汰し、念佛のひとびとのために、とがとなるべきことをしらずは、佛恩をしらず、よくよくはからひたまふべし。また、ものにくるふて死にけんひとのことをもちて、信願坊がことを、よしあしとまふすべきにはあらず。念佛するひとの死にやうも、身よりやまひをするひとは、往生のやうをまふすべからず。こゝろよりやまひをするひとは、天魔ともなり、地獄にもをつることにてさふらふべし。こゝろよりをこるやまひと、身よりをこるやまひとは、かはるべければ、こゝろよりをこりて死ぬるひとのことを、よくよく御はからひさふらふべし。信願坊がまふすやうは、凡夫のならひなれば、わるきこそ本なればとて、おもふまじきことをこのみ、身にもすまじきことをし、口にもいふまじきことをまふすべきやⅡ-0838うにまふされさふらふこそ、信願坊がまふしやうとはこゝろえずさふらふ。往生にさはりなければとて、ひがごとをこのむべしとは、まふしたることさふらはず。かへすがへすこゝろえずおぼえさふらふ。詮ずるところ、ひがごとまふさんひとは、その身ひとりこそ、ともかくもなりさふらはめ。すべてよろづの念佛者のさまたげとなるべしとはおぼえずさふらふ。また念佛をとゞめんひとは、そのひとばかりこそいかにもなりさふらはめ。よろづの念佛するひとのとがとなるべしとはおぼえずさふらふ。「五濁增時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壞競生怨」(法事讚*卷下)と、まのあたり善導の御をしへさふらふぞかし。釋迦如來は、名无眼人、名无耳人ととかせたまひてさふらふぞかし。かやうなるひとにて、念佛をもとゞめ、念佛者をもにくみなんどすることにてもさふらふらん。それは、かのひとをにくまずして、念佛をひとびとまふして、たすけんとおもひあはせたまへとこそおぼえさふらへ。あなかしこ、あなかしこ。 九月二日 親鸞 慈信坊 御返事 入信坊・眞淨坊・法信坊にも、このふみをよみきかせたまふべし。かへすがへⅡ-0839す不便のことにさふらふ。性信坊には、春のぼりてさふらひしに、よくよくまふしてさふらふ。くげどのにも、よくよくよろこびまふしたまふべし。このひとびとのひがごとをまふしあふてさふらへばとて、道理をばうしなはれさふらはじとこそおぼえさふらへ。世間のことにも、さることのさふらふぞかし。領家・地頭・名主のひがごとすればとて、百姓をまどはすことはさふらはぬぞかし。佛法をばやぶるひとなし。佛法者のやぶるにたとへたるには、「師子の身中の蟲の師子をくらふがごとし」とさふらへば、念佛者をば佛法者のやぶりさまたげさふらふなり。よくよくこゝろえたまふべし。なをなを御ふみにはまふしつくすべくもさふらはず。 (一一) 九月廿七日の御ふみ、くはしくみさふらひぬ。さては御こゝろざしの錢五貫文、十一月九日にたまはりてさふらふ。さてはゐなかのひとびと、みなとしごろ念佛せしは、いたづらごとにてありけりとて、かたがた、ひとびとやうやうにまふすなることこそ、かへすがへす不便のことにてきこえさふらへ。やうやうのふみⅡ-0840どもをかきてもてるを、いかにみなしてさふらふやらん。かへすがへすおぼつかなくさふらふ。慈信坊のくだりて、わがきゝたる法文こそまことにてはあれ、ひごろの念佛は、みないたづらごとなりとさふらへばとて、おほぶの中太郎のかたのひとびとは、九十なん人とかや、みな慈信坊のかたへとて、中太郎入道をすてたるとかやきゝさふらふ。いかなるやうにて、さやうにはさふらふぞ。詮ずるところ、信心のさだまらざりけるときゝさふらふ。いかやうなることにて、さほどにおほくのひとびとのたぢろきさふらふらん。不便のやうときゝさふらふ。またかやうのきこえなんどさふらへば、そらごともおほくさふらふべし。また親鸞も偏頗あるものときゝさふらへば、ちからをつくして『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力の文』のこゝろども、二河の譬喩なんどかきて、かたがたへ、ひとびとにくだしてさふらふも、みなそらごとになりてさふらふときこえさふらふは、いかやうにすゝめられたるやらん。不可思議のことゝきゝさふらふこそ、不便にさふらへ。よくよくきかせたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。 十一月九日 親鸞 慈信御坊 Ⅱ-0841眞佛坊・性信坊・入信坊、このひとびとのことうけたまはりさふらふ。かへすがへすなげきおぼえさふらへども、ちからをよばずさふらふ。また餘のひとびとのおなじこゝろならずさふらふらんも、ちからをよばずさふらふ。ひとびとのおなじこゝろならずさふらへば、とかくまふすにをよばず。いまはひとのうへもまふすべきにあらずさふらふ。よくよくこゝろえたまふべし。 親鸞 慈信御坊 (一二) さては念佛のあひだのことによりて、ところせきやうにうけたまはりさふらふ。かへすがへすこゝろぐるしくさふらふ。詮ずるところ、そのところの縁ぞつきさせたまひさふらふらん。念佛をさへらるなんどまふさんことに、ともかくもなげきおぼしめすべからずさふらふ。念佛とゞめんひとこそ、いかにもなりさふらはめ。まふしたまふひとは、なにかくるしくさふらふべき。餘のひとびとを縁として、念佛をひろめんと、はからひあはせたまふこと、ゆめゆめあるべからずさふⅡ-0842らふ。そのところに念佛のひろまりさふらはんことも、佛天の御はからひにてさふらふべし。慈信坊がやうやうにまふしさふらふなるによりて、ひとびとも御こゝろどものやうやうにならせたまひさふらふよし、うけたまはりさふらふ。かへすがへす不便のことにさふらふ。ともかくも佛天の御はからひにまかせまいらせさせたまふべし。そのところの縁つきておはしましさふらはゞ、いづれのところにてもうつらせたまひさふらふておはしますやうに御はからひさふらふべし。慈信坊がまふしさふらふことをたのみおぼしめして、これよりは餘のひとを強縁として念佛ひろめよとまふすこと、ゆめゆめまふしたることさふらはず。きはまれるひがごとにてさふらふ。この世のならひにて、念佛をさまたげんとせんことは、かねて佛のときをかせたまひてさふらへば、おどろきおぼしめすべからず。やうやうに慈信坊がまふすことを、これよりまふしさふらふと御こゝろえさふらふ、ゆめゆめあるべからずさふらふ。法門のやうも、あらぬさまにまふしなしてさふらふなり。御耳にきゝいれらるべからずさふらふ。きはまれるひがごとどものきこえさふらふ。あさましくさふらふ。入信坊なんども不便におぼえさふらふ。鎌倉にながゐしてさふらふらん、不便にさふらふ。當時、それもわづらふべくてⅡ-0843ぞ、さてもさふらふらん。ちからをよばずさふらふ。奧郡のひとびとの、慈信坊にすかされて、信心みなうかれあふておはしましさふらふなること、かへすがへすあはれにかなしふおぼえさふらふ。これもひとびとをすかしまふしたるやうにきこえさふらふこと、かへすがへすあさましくおぼえさふらふ。それも日ごろ、ひとびとの信のさだまらずさふらひけることのあらはれてきこえさふらふ。かへすがへす不便にさふらひけり。慈信坊がまふすことによりて、ひとびとの日ごろの信のたぢろきあふておはしましさふらふも、詮ずるところは、ひとびとの信心のまことならぬことのあらはれてさふらふ。よきことにてさふらふ。それを、ひとびとは、これよりまふしたるやうにおぼしめしあふてさふらふこそ、あさましくさふらへ。日ごろやうやうの御ふみどもを、かきもちておはしましあふてさふらふ甲斐もなくおぼえさふらふ。『唯信鈔』、やうやうの御文どもは、いまは詮なくなりてさふらふとおぼえさふらふ。よくよくかきもたせたまひてさふらふ法門は、みな詮なくなりてさふらふなり。慈信坊にみなしたがひて、めでたき御ふみどもはすてさせたまひあふてさふらふときこえさふらふこそ、詮なくあはれにおぼえさふらへ。よくよく『唯信鈔』・『後世物語』なんどを御覽あるべくさふらふ。Ⅱ-0844年ごろ、信ありとおほせられあふてさふらひけるひとびとは、みなそらごとにてさふらひけりときこえさふらふ。あさましくさふらふ、あさましくさふらふ。なにごともなにごとも、またまたまふしさふらふべし。 正月九日 親鸞 眞淨御坊 (一三) くだらせたまひてのち、なにごとかさふらふらん。この源藤四郎殿におもはざるにあひまいらせてさふらふ。便のうれしさにまふしさふらふ。そのゝちなにごとかさふらふ。念佛のうたへのこと、しづまりてさふらふよし、かたがたよりうけたまはりさふらへば、うれしふこそさふらへ。いまはよくよく念佛もひろまりさふらはんずらんと、よろこびいりてさふらふ。これにつけても御身の料はいまさだまらせたまひたり。念佛を御こゝろにいれてつねにまふして、念佛そしらんひとびと、この世・のちの世までのことを、いのりあはせたまふべくさふらふ。御身どもの料は、御念佛はいまはなにかはせさせたまふべき。たゞひがふたる世Ⅱ-08415のひとびとをいのり、彌陀の御ちかひにいれとおぼしめしあはゞ、佛の御恩を報じまいらせたまふになりさふらふべし。よくよく御こゝろにいれてまふしあはせたまふべくさふらふ。聖人の廿五日の御念佛も、詮ずるところは、かやうの邪見のものをたすけん料にこそ、まふしあはせたまへとまふすことにてさふらへば、よくよく念佛そしらんひとをたすかれとおぼしめして、念佛しあはせたまふべくさふらふ。またなにごとも、度々便にはまふしさふらひき。源藤四郎殿の便にうれしふてまふしさふらふ。あなかしこ、あなかしこ。入西御坊のかたへもまふしたふさふらへども、おなじことなれば、このやうをつたえたまふべくさふらふ。あなかしこ、あなかしこ。 親鸞 性信御坊へ (一四) 四月七日の御ふみ、五月廿六日たしかにたしかにみさふらひぬ。さてはおほせられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、Ⅱ-0846行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆへは、行とまふすは、本願の名號をひとこゑとなへて往生すとまふすことをきゝて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをきゝて、うたがふこゝろのすこしもなきを信の一念とまふすなり。信と行とふたつときけども、行をひとこゑするときゝてうたがはねば、行をはなれたる信はなしときゝてさふらふ。また、信をはなれたる行なしとおぼしめすべし。これみな彌陀の御ちかひとまふすことをこゝろうべし。行と信とは御ちかひをまふすなり。あなかしこ、あなかしこ。いのちさふらはゞ、かならずかならずのぼらせたまふべし。專信坊、京ちかくなられてさふらふこそ、たのもしふおぼえさふらへ。 五月廿八日 親鸞 覺信御坊 御返事 (一五) たづねおほせられてさふらふこと、かへすがへすめでたくさふらふ。まことの信心をえたるひとは、すでに佛にならせたまふべき御身となりておはしますゆへに、Ⅱ-0847「如來とひとしきひと」と『經』(晉譯華嚴經卷*六〇入法界品意)にとかれさふらふなり。彌勒はいまだ佛になりたまはねども、このたびかならずかならず佛になりたまふべきによりて、彌勒をばすでに彌勒佛とまふしさふらふなり。その定に、眞實信心をえたるひとは、如來とひとしとおほせられてさふらふなり。また淨信坊の、彌勒とひとしとさふらふも、ひがごとにはさふらはねども、他力によりて信をえてよろこぶこゝろは如來とひとしとさふらふを、自力なりとさふらふらんは、いますこし承信坊の御こゝろのそこのゆきつかぬやうにきこえさふらふこそ、よくよく御案さふらふべくやさふらふらん。自力のこゝろにて、わが身は如來とひとしとさふらはんは、まことにあしふさふらふべし。他力の信心のゆへに、淨信坊のよろこばせたまひさふらはんは、なにかは自力にてさふらふべき。よくよく御はからひさふらふべし。このやうは、このひとびとにくはしくまふしてさふらふ。承信御坊に、とひまいらせさせたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。 十月廿七日 親鸞 慶信御坊 御報 Ⅱ-0848(一六) 他力のなかには自力とまふすことはさふらふときゝさふらひき。他力のなかにまた他力とまふすことはきゝさふらはず。他力のなかに自力とまふすことは、雜行雜修・定心念佛・散心念佛とこゝろにかけられてさふらふひとびとは、他力のなかの自力のひとびとなり。他力のなかにまた他力とまふすことはうけたまはりさふらはず。なにごとも專信坊のしばらくはゐたらんとさふらへば、そのときまふしさふらふべし。あなかしこ、あなかしこ。 十一月廿五日 眞佛御坊 御返事 (一七) ひとびとのおほせられてさふらふ十二光佛の御ことのやう、かきしるしてくだしまいらせさふらふ。くはしくかきまいらせさふらふべきやうもさふらはず。おろおろかきしるしてさふらふ。詮ずるところは、无㝵光佛とまふしまいらせさふらふことを本とせさせたまふべくさふらふ。无㝵光佛は、よろづのものゝあさましⅡ-0849きわるきことにさはりなく、たすけさせたまはん料に、无㝵光佛とまふすとしらせたまふべくさふらふ。あなかしこ、あなかしこ。 十月廿一日 唯信御坊 御返事 (一八) 諸佛稱名の願とまふし、諸佛咨嗟の願とまふしさふらふなるは、十方衆生をすゝめんためときこえたり。また十方衆生の疑心をとゞめん料ときこえてさふらふ。『彌陀經』の十方諸佛の證誠のやうにてきこえたり。詮ずるところは、方便の御誓願と信じまいらせさふらふ。念佛往生の願は、如來の往相廻向の正業・正因なりとみえてさふらふ。まことの信心あるひとは、等正覺の彌勒とひとしければ、如來とひとしとも諸佛のほめさせたまひたりとこそきこえてさふらへ。また彌陀の本願を信じさふらひぬるうへには、義なきを義とすとこそ、大師聖人のおほせにてさふらへ。かやうに義のさふらふらんかぎりは、他力にはあらず、自力なりときこえてさふらふ。また他力とまふすは、佛智不思議にてさⅡ-0850ふらふなるときに、煩惱具足の凡夫の无上覺のさとりをえさふらふなることをば、佛と佛とのみ御はからひなり。さらに行者のはからひにあらずさふらふ。しかれば、義なきを義とすとさふらふなり。義とまふすことは、自力のひとのはからひをまふすなり。他力には、しかれば、義なきを義とすとさふらふなり。このひとびとのおほせのやうは、これにはつやつやとしらぬことにてさふらへば、とかくまふすべきにあらずさふらふ。また來の字は、衆生利益のためには、きたるとまふす、方便なり。さとりをひらきては、かへるとまふす。ときにしたがひて、きたるともかへるともまふすとみえてさふらふ。なにごともなにごとも、またまたまふすべくさふらふ。 二月廿五日 親鸞 慶西御坊 御返事