Ⅱ-0777末燈鈔 本 本願寺親鸞大師御己證[幷]邊州所々御消息等類聚鈔 (一) 來迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆへに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ眞實の信心をゑざるがゆへなり。また十惡・五逆の罪人のはじめて善知識にあふて、すゝめらるゝときにいふことばなり。眞實信心の行人は、攝取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。このゆへに臨終まつことなし、來迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまるなり。來迎の儀式をまたず。正念といふは、本弘誓願の信樂さだまるをいふなり。この信心うるゆへに、かならず无上涅槃にいたるなり。この信心を一心といふ、この一心を金剛心といふ、この金剛心を大菩提心といふなり。これすなはち他力のなかの他力なり。また正念といふにつきてふたつあり。ひとつには定心の行Ⅱ-0778人の正念、ふたつには散心の行人の正念あるべし。このふたつの正念は、他力のなかの自力の正念なり。定散の善は、諸行往生のことばにおさまるなり。この善は、他力のなかの自力の善なり。この自力の行人は、來迎をまたずしては、邊地・胎生・懈慢界までもむまるべからず。このゆへに第十九の誓願に、諸善をして淨土に廻向して往生せんとねがふひとの臨終には、われ現じてむかへんとちかひたまへり。臨終まつことゝ來迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。選擇本願は有念にあらず、无念にあらず。有念はすなはちいろかたちをおもふについていふことなり。无念といふは、形をこゝろにかけず、いろをこゝろにおもはずして、念もなきをいふなり。これみな聖道のをしへなり。聖道といふは、すでに佛になりたまへるひとの、われらがこゝろをすゝめんがために、佛心宗・眞言宗・法華宗・華嚴宗・三論宗等の大乘至極の敎なり。佛心宗といふは、この世にひろまる禪宗これなり。また法相宗・成實宗・倶舍宗等の權敎、小乘等の敎なり。これみな聖道門なり。權敎といふは、すなはちすでに佛になりたまへる佛・菩薩の、かりにさまざまのかたちをあらはしてすゝめたまふがゆへに權といふなり。淨土宗にまた有念あり、无念あり。有Ⅱ-0779念は散善義、无念は定善義なり。淨土の无念は聖道の无念にはにず。またこの聖道の无念のなかにまた有念あり。よくよくとふべし。淨土宗のなかに眞あり、假あり。眞といふは選擇本願なり、假といふは定散二善なり。選擇本願は淨土眞宗なり、定散二善は方便假門なり。淨土眞宗は大乘のなかの至極なり。方便假門のなかにまた大小・權實の敎あり。釋迦如來の御善知識者一百一十人なり。『華嚴經』にみえたり。 南无阿彌陀佛 建長三歲W辛亥R閏九月廿日 愚禿親鸞W七十九歲R (二) かさまの念佛者のうたがひとはれたる事。 それ淨土眞宗のこゝろは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺の論家、淨土の祖師のおほせられたることなり。まづ自力とまふすことは、行者のをのをの縁にしたがひて、餘の佛號を稱念し、餘の善根を修行して、わが身をたのみ、わがはからひのこゝろをもて身口意のみだれごゝろをつくろひ、Ⅱ-0780めでたうしなして淨土へ往生せんとおもふを自力とまふすなり。また他力とまふすことは、彌陀如來の御ちかひのなかに、選擇攝取したまへる第十八の念佛往生の本願を信樂するを他力とまふすなり。如來の御ちかひなれば、他力には義なきを義とすと、聖人のおほせごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば、義といふなり。他力は、本願を信樂して往生必定なるゆへに、さらに義なしとなり。しかれば、わがみのわるければ、いかでか如來むかへたまはんとおもふべからず。凡夫はもとより煩惱具足したるゆへに、わるきものとおもふべし。またわがこゝろよければ、往生すべしとおもふべからず。自力の御はからひにては眞實の報土へ生ずべからざるなり。行者のをのをのの自力の身にては、懈慢邊地の往生、胎生疑城の淨土までぞ往生せらるゝことにてあるべきとぞ、うけたまはりたりし。第十八の本願成就のゆへに阿彌陀如來とならせたまひて、不可思議の利益きはまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は盡十方无㝵光如來とあらはしたまへり。このゆへに、よきあしきひとをきらはず、煩惱のこゝろをえらばず、へだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。しかれば、惠心院の和尙は、『往生要集』(卷下意)Ⅱ-0781に本願の念佛を信樂するありさまをあらはせるには、「行住坐臥をゑらばず、時處諸縁をきらはず」とおほせられたり。「眞實の信心をえたるひとは攝取のひかりにおさめとられまいらせたり」(要集*卷下意)と、たしかにあらはせり。しかれば、无明煩惱を具して安養淨土に往生すれば、すなはち无上佛果にいたると、釋迦如來ときたまへり。しかるに、「五濁惡世のわれら、釋迦一佛のみことを信受せんことありがたかるべしとて、十方恆沙の諸佛、證人とならせたまふ」(散善*義意)と、善導和尙は釋したまへり。「釋迦・彌陀・十方の諸佛、みなおなじ御こゝろにて、本願念佛の衆生には、かげのかたちにそへるがごとくしてはなれたまはず」(散善*義意)とあかせり。しかれば、この信心のひとを釋迦如來は、「わがしたしきともなり」(大經*卷下意)とよろこびまします。この信心のひとを眞の佛弟子といへり。このひとを正念に住するひとゝす。このひとは、攝取してすてたまはざれば、金剛心をえたるひとゝまふすなり。このひとを上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人ともまふすなり。このひとは正定聚のくらゐにさだまれるなりとしるべし。しかれば、彌勒佛とひとしきひとゝのたまへり。これは眞實信心をえたるゆへに、かならず眞實の報土に往生するなりとしるべし。この信心Ⅱ-0782をうることは、釋迦・彌陀・十方諸佛の御方便よりたまはりたるとしるべし。しかれば、諸佛の御おしへをそしることなし。餘の善根を行ずるひとをそしることなし。この念佛するひとをにくみそしるひとをも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこゝろをもつべしとこそ、聖人はおほせごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。佛恩のふかきことは、懈慢邊地に往生し、疑城胎宮に往生するだにも、彌陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにてさふらへ。佛恩のふかきこと、そのきはもなし。いかにいはんや、眞實の報土へ往生して大涅槃のさとりをひらかんこと、佛恩よくよく御案どもさふらふべし。これさらに性信房・親巒がはからひまふすにはあらず候。ゆめゆめ。 建長七歲[乙卯]十月三日 愚禿親鸞八十三歲書之 此御書者、自性信聖之遺跡、以聖人御自筆之本、寫與彼門弟中。W云々R Ⅱ-0783(三) 信心をえたるひとは、かならず正定聚のくらゐに住するがゆへに等正覺のくらゐとまふすなり。『大无量壽經』には、攝取不捨の利益にさだまるものを正定聚となづけ、『無量壽如來會』には等正覺とときたまへり。その名こそかはりたれども、正定聚・等正覺は、ひとつこゝろ、ひとつくらゐなり。等正覺とまふすくらゐは、補處の彌勒とおなじくらゐなり。彌勒とおなじく、このたび无上覺にいたるべきゆへに、彌勒におなじとときたまへり。さて『大經』(卷下)には、「次如彌勒」とはまふすなり。彌勒はすでに佛にちかくましませば、彌勒佛と諸宗のならひはまふすなり。しかれば、彌勒におなじくらゐなれば、正定聚のひとは如來とひとしともまふすなり。淨土の眞實信心のひとは、この身こそあさましき不淨造惡の身なれども、こゝろはすでに如來とひとしければ、如來とひとしとまふすこともあるべしとしらせたまへ。彌勒すでに无上覺にその心さだまりてあるべきにならせたまふによりて、三會のあかつきとまふすなり。淨土眞實のひとも、このこゝろをこゝろうべきなり。光明寺の和尙の『般舟讚』(意)には、「信心のひとは、この心すでにつねに淨土に居す」と釋したまへり。「居す」といふは、Ⅱ-0784淨土に、信心のひとのこゝろつねにゐたりといふこゝろなり。これは彌勒とおなじといふことをまふすなり。これは等正覺を彌勒とおなじとまふすによりて、信心のひとは如來とひとしとまふすこゝろなり。 正嘉元年[丁巳]十月十日 親鸞 性信御房 (四) これは經の文なり。『華嚴經』(晉譯卷六〇*入法界品意)にのたまはく、「信心歡喜者與諸如來等」といふは、信心よろこぶひとはもろもろの如來とひとしといふなり。もろもろの如來とひとしといふは、信心をえてことによろこぶひとを、釋尊のみことには、「見敬得大慶則我善親友」(大經*卷下)とときたまへり。また彌陀の第十七の願には、「十方世界无量諸佛不悉咨嗟稱我名者不取正覺」(大經*卷上)とちかひたまへり。願成就の文には、「よろづの佛にほめられ、よろこびたまふ」(大經*卷下意)とみえたり。すこしもうたがふべきにあらず。これは如來とひとしといふ文どもをあらはししるすなり。 Ⅱ-0785正嘉元年W丁巳R十月十日 親鸞 眞佛御房 (五) 「自然」といふは、「自」はをのづからといふ、行者のはからひにあらず。「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如來のちかひにてあるがゆへに法爾といふ。「法爾」といふは、この如來の御ちかひなるがゆへに、しからしむるを法爾といふなり。法爾は、この御ちかひなりけるゆへに、おほよす行者のはからひのなきをもて、この法の德のゆへにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆへに義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。彌陀佛の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南无阿彌陀佛とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とはまふすぞとききてさふらふ。ちかひのやうは、无上佛にならしめんとちかひたまへるなり。无Ⅱ-0786上佛とまふすは、かたちもなくまします。かたちのましまさぬゆへに、自然とはまふすなり。かたちましますとしめすときには、无上涅槃とはまふさず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに彌陀佛とまふすとぞ、ききならひてさふらふ。彌陀佛は自然のやうをしらせんれうなり。この道理をこゝろえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なを義のあるになるべし。これは佛智の不思議にてあるなり。 正嘉貳年十二月十四日 愚禿親巒W八十六歲R (六) なによりも、こぞ・ことし、老少男女おほくのひとびとの、しにあひて候らんことこそ、あはれにさふらへ。たゞし生死无常のことはり、くはしく如來のときをかせおはしましてさふらふうへは、おどろきおぼしめすべからずさふらふ。まづ善信が身には、臨終の善惡をばまふさず、信心決定のひとは、うたがひなければ正定聚に住することにて候なり。さればこそ愚癡无智のひとも、おはりもめⅡ-0787でたく候へ。如來の御はからひにて往生するよし、ひとびとまふされ候ける、すこしもたがはず候なり。としごろ、をのをのにまふし候しこと、たがはずこそ候へ。かまへて學生沙汰せさせたまひ候はで、往生をとげさせたまひ候べし。故法然聖人は、淨土宗のひとは愚者になりて往生すと候しことを、たしかにうけたまはり候しうへに、ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覽じては、往生必定すべしとて、えませたまひしを、みまいらせ候き。ふみざたして、さかさかしきひとのまいりたるをば、往生はいかゞあらんずらんと、たしかにうけたまはりき。いまにいたるまで、おもひあはせられ候なり。ひとびとにすかされさせたまはで、御信心たぢろかせたまはずして、をのをの御往生候べきなり。たゞし、ひとにすかされたまひ候はずとも、信心のさだまらぬひとは正定聚に住したまはずして、うかれたまひたるひとなり。乘信房にかやうにまふしさふらふやうを、ひとびとにもまふされ候べし。あなかしこ、あなかしこ。 文應元年十一月十三日 善信W八十八歲R 乘信御房 この御消息の正本は、坂東下野國おほうちの莊高田にこれあるなりと。W云々R Ⅱ-0788(七) 往生はなにごともなにごとも凡夫のはからひならず、如來の御ちかひにまかせまいらせたればこそ、他力にては候へ。やうやうにはからひあふて候らん、おかしく候。如來の誓願を信ずる心のさだまるとまふすは、攝取不捨の利益にあづかるゆへに、不退のくらゐにさだまると御こゝろえさふらふべし。眞實信心のさだまるとまふすも、金剛の信心のさだまるとまふすも、攝取不捨のゆへにまふすなり。さればこそ、无上覺にいたるべき心のおこるとまふすなり。これを不退のくらゐともまふし、正定聚のくらゐにいるともまふし、等正覺にいたるともまふすなり。このこゝろのさだまるを、十方諸佛のよろこびて、諸佛の御こゝろにひとしとほめたまふなり。このゆへに、まことの信心のひとをば、諸佛とひとしとまふすなり。また補處の彌勒とおなじともまふすなり。この世にて眞實信心のひとをまもらせたまへばこそ、『阿彌陀經』(意)には、「十方恆沙の諸佛護念す」とはまふすことにて候へ。安樂淨土へ往生してのちに、まもりたまふとまふすことにてはさふらはず。娑婆世界にゐたるほど護念すとまふすことなり。信心まことなるひとのこゝろを、十方恆沙の如來のほめたまへば、佛とひとしとはまふすこⅡ-0789となり。また他力とまふすことは、義なきを義とすとまふすなり。義とまふすことは、行者のをのをののはからふことを義とはまふすなり。如來の誓願は不可思議にましますゆへに、佛と佛との御はからひなり。凡夫のはからひにあらず。補處の彌勒菩薩をはじめとして、佛智の不思議をはからふべきひとは候はず。しかれば、如來の誓願には、義なきを義とすとは、大師聖人のおほせに候き。このこゝろのほかに往生にいるべきこと候はずとこゝろえて、まかりすぎ候へば、ひとのおほせごとにはいらぬものにて候なり。 二月廿五日 親鸞 淨信御房[御返事] (八) また五說といふは、よろづの經をとかれ候に、五種にはすぎず候なり。一には佛說、二には聖弟子の說、三には天仙の說、四には鬼神の說、五には變化の說といへり。このいつゝのなかに、佛說をもちゐてかみの四種をたのむべからず候。この三部經は釋迦如來の自說にてましますとしるべしとなり。四土といふは、一Ⅱ-0790には法身の土、二には報身の土、三には應身の土、四には化土なり。いまこの安樂淨土は報土なり。三身といふは、一には法身、二には報身、三には應身なり。いまこの彌陀如來は報身如來なり。三寶といふは、一には佛寶、二には法寶、三には僧寶なり。いまこの淨土宗は佛寶なり。四乘といふは、一には佛乘、二には菩薩乘、三には縁覺乘、四には聲聞乘なり。いまこの淨土宗は菩薩乘なり。二敎といふは、一には頓敎、二には漸敎なり。いまこの敎は頓敎なり。二藏といふは、一には菩薩藏、二には聲聞藏なり。いまこの敎は菩薩藏なり。二道といふは、一には難行道、二には易行道なり。いまこの淨土宗は易行道なり。二行といふは、一には正行、二には雜行なり。いまこの淨土宗は正行を本とするなり。二超といふは、一には竪超、二には橫超なり。いまこの淨土宗は橫超なり。竪超は聖道自力なり。二縁といふは、一には无縁、二には有縁なり。いまこの淨土は有縁の敎なり。二住といふは、一には正住、二には不住なり。いまこの淨土敎は、法滅百歲まで住したまひて、有情を利益したまふとなり。不住は聖道諸善なり。諸善はみな龍宮へかくれいりたまひぬるなり。思・不思といふは、思不思議の法は聖道八萬四千の諸善なり。不思といふは淨土の敎は不可Ⅱ-0791思議の敎法なり。これらはかやうにしるしまふしたり。よくしれらんひとにたづねまふしたまふべし。またくはしくはこのふみにてまふすべくも候はず。目もみえず候。なにごともみなわすれて候うへに、ひとなどにあきらかにまふすべき身にもあらず候。よくよく淨土の學生にとひまふしたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。 閏三月二日 親巒 (九) 御ふみくはしくうけたまはり候ぬ。さてはこの御不審しかるべしともおぼえず候。そのゆへは、誓願・名號とまふしてかはりたること候はず候。誓願をはなれたる名號も候はず、名號をはなれたる誓願も候はず候。かくまふし候も、はからひにて候なり。たゞ誓願を不思議と信じ、また名號を不思議と一念信じとなへつるうへは、何條わがはからひをいたすべき。ききわけ、しりわくるなど、わづらはしくはおほせ候やらん。これみなひがごとにて候なり。たゞ不思議と信じつるうへは、とかく御はからひあるべからず候。往生の業には、わたくしのはかⅡ-0792らひはあるまじく候なり。あなかしこ、あなかしこ。たゞ如來にまかせまいらせおはしますべく候。あなかしこ、あなかしこ。 五月五日 親鸞 敎名御房 このふみをもて、ひとびとにもみせまいらせさせたまふべく候。他力には義なきを義とはまふし候なり。 (一〇) 御ふみくはしくうけたまはり候ぬ。さては御法門の御不審に、一念發起信心のとき、无㝵の心光に攝護せられまいらせ候ゆへ、つねに淨土の業因決定すとおほせられ候。これめでたく候。かくめでたくはおほせ候へども、これみなわたくしの御はからひになりぬとおぼえ候。たゞ不思議と信ぜさせたまひ候ぬるうへは、わづらはしきはからひあるべからず候。またあるひとの候なること。 出世のこゝろおほく、淨土の業因すくなしと候なるは、こゝろえがたく候。出世と候も、淨土の業因と候も、みなひとつにて候なり。すべてこれ、なまじゐなⅡ-0793る御はからひと存じ候。佛智不思議と信ぜさせたまひ候なば、別にわづらはしく、とかくの御はからひあるべからず候。たゞひとのとかくまふし候はんことを、御不審あるべからず候。たゞ如來の誓願にまかせまいらせたまふべく候。とかくの御はからひあるべからず候なり。あなかしこ、あなかしこ。 五月五日 親鸞 淨信御房 他力とまふし候は、とかくのはからひなきをまふし候なり。 (一一) 四月七日の御ふみ、五月廿六日たしかにみさふらひぬ。さてはおほせられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆへは、行とまふすは、本願の名號をひとこゑとなへて往生すとまふすことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、うたがふこゝろのすこしもなきを信の一念とまふすなり。信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききてうたⅡ-0794がはねば、行をはなれたる信はなしときゝて候。また、信をはなれたる行なしとおぼしめすべし。これみな彌陀の御ちかひとまふすことをこゝろうべし。行と信とは御ちかひをまふすなり。あなかしこ、あなかしこ。いのち候はゞ、かならずのぼらせたまふべし。 五月廿六日 親鸞 (一二) たづねおほせられ候念佛の不審のこと。念佛往生と信ずるひとは、邊地の往生とてきらはれ候らんこと、おほかたこゝろえがたく候。そのゆへは、彌陀の本願とまふすは、名號をとなへんものをば極樂へむかへんとちかはせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候なり。信心ありとも、名號をとなへざらんは詮なく候。また一向名號をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候。されば念佛往生とふかく信じて、しかも名號をとなへんずるは、うたがひなき報土の往生にてあるべく候なり。詮ずるところ、名號をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは邊地にむまるべし。本願他力をふかく信ぜんとⅡ-0795もがらは、なにごとにかは邊地の往生にてさふらふべき。このやうをよくよく御こゝろえ候て御念佛さふらふべし。この身は、いまは、としきはまりてさふらふへば、さだめてさきだちて往生しさふらはんずれば、淨土にてかならずかならずまちまいらせさふらふべし。あなかしこ、あなかしこ。 七月十三日 親鸞 有阿彌陀佛[御返事] (一三) たづねおほせられてさふらふ攝取不捨のことは、『般舟三昧行道往生讚』(意)とまふすにおほせられて候をみまいらせ候へば、「釋迦如來・彌陀如來、われらが慈悲の父母にて、さまざまの方便にて、われらが无上の信心をばひらきおこさせたまふ」と候へば、まことの信心のさだまることは、釋迦・彌陀の御はからひとみえて候。往生の心うたがひなくなりさふらふは、攝取せられまいらせたるゆへとみえてさふらふ。攝取のうへには、ともかくも行者のはからひあるべからずさふらふ。淨土へ往生するまでは、不退のくらゐにておはしましさふらへば、Ⅱ-0796正定聚のくらゐとなづけておはしますことにて候なり。まことの信心をば、釋迦如來・彌陀如來二尊の御はからひにて發起せしめたまひ候とみえて候へば、信心のさだまるとまふすは、攝取にあづかるときにて候なり。そののちは正定聚のくらゐにて、まことに淨土へむまるゝまでは候べしとみえ候なり。ともかくも行者のはからひをちりばかりもあるべからず候へばこそ、他力とまふすことにてさふらへ。あなかしこ、あなかしこ。 十月六日 親鸞 眞佛御房[御返事] 康永三歲W甲申R仲春上旬第一日至輔時終漸寫微功訖 隱倫乘專[半白] Ⅱ-0797末燈鈔 末 (一四) 畏申候。 『大無量壽經』(卷下)に「信心歡喜」とさふらふ。『華嚴經』をひきて『淨土和讚』にも、「信心よろこぶそのひとを 如來とひとしとときたまふ 大信心は佛性なり 佛性すなはち如來なり」とおほせられてさふらふに、專修のひとのなかに、あるひとこゝろえちがへてさふらふやらん、信心よろこぶひとを如來とひとしと同行達ののたまふは自力なり、眞言にかたよりたりとまふしさふらふなるは、ひとのうへをしるべきにさふらはねどもまふしさふらふ。また、「眞實信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる 不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度をさとらしむ」(淨土*和讚)とさふらふ。「滅度をさとらしむ」とさふらふは、このたびこの身のおはりさふらはんとき、眞實信心の行者の心、報土にいたりさふらひなば、壽命无Ⅱ-0798量を體として、光明无量の德用はなれたまはざれば、如來の心光に一味なり。このゆへに、大信心は佛性なり、佛性すなはち如來なりとおほせられてさふらふやらん。これは十一、二、三の御ちかひとこゝろえられさふらふ。罪惡のわれらがためにおこしたまへる大悲の御ちかひのめでたくあはれにましますうれしさ、こゝろもをよばれず、ことばもたえてまふしつくしがたきこと、かぎりなくさふらふ。无始曠劫よりこのかた、過去遠々に、恆沙の諸佛の出世のみもとにて、大菩提心おこすといへども、自力かなはず、二尊の御方便にもよをされまひらせて、雜行雜修自力疑心のおもひなし。无㝵光如來の攝取不捨の御あはれみのゆへに、疑心なくよろこびまひらせて、一念にて往生さだまりて、誓願不思議とこゝろえさふらひなんには、きゝみさふらふにあかぬ淨土の聖敎も、知識にあひまひらせんとおもはんことも、攝取不捨も、信も、念佛も、ひとのためとおぼえられずさふらふ。いま師主の御をしへのゆへ、心をぬきて御こゝろむきをうかがひさふらふによりて、願意をさとり、直道をもとめえて、まさしき眞實報土にいたりさふらはんこと、このたび、一念聞名にいたるまで、うれしさ御恩のいたりにさふらふ。そのうへ『彌陀經義集』におろおろあきらかにおほせられさふらふ。しかるにⅡ-0799世間の悤々にまぎれて、一時もしは二時、三時おこたるといへども、晝夜にわすれず、御あはれみをよろこぶ業力ばかりにて、行住坐臥に時處の不淨をもきらはず、一向に金剛の信心ばかりにて、佛恩のふかさ、師主の恩德のうれしさ、報謝のためにたゞ御名をとなふるばかりにて、日の所作とす。このやうひがざまにやさふらふらん。一期の大事、たゞこれにすぎたるはなし。しかるべくは、よくよくこまかにおほせをかうぶりさふらはんとて、わづかにおもふばかりを記してまふしあげ候。さては京にひさしくさふらひしに、そうそうにのみさふらふて、こゝろしづかにおぼえずさふらひしことのなげかれさふらふて、わざといかにしてもまかりのぼりて、こゝろしづかに、せめては五日、みもとにさふらはばやとねがひさふらふなり。噫、かうまでまふしさふらふも御恩のちからなり。 進上 聖人の御所へ 蓮位の御房申させ給へ 十月十日 慶信上[在判] 追申上候。 念佛まふしさふらふひとびとのなかに、南无阿彌陀佛ととなへさふらふひまには、无㝵光如來ととなへまいらせ候ひともさふらふ。これをききて、あるひとのまⅡ-0800ふしさふらふなる、南无阿彌陀佛ととなへてのうへに、歸命盡十方无㝵光如來ととなへまいらせさふらふことは、おそれあることにてこそあれ、いまめがはしくとまふしさふらふなる、このやういかゞさふらふべき。 (一五) たづねおほせられてさふらふこと、かへすがへすめでたくさふらふ。まことの信心をえたるひとは、すでに佛になりたまふべき御身となりておはしますゆへに、「如來とひとしきひと」と『經』(晉譯華嚴經卷*六〇入法界品意)にとかれてさふらふなり。彌勒はいまだ佛になりたまはねども、このたびかならず佛になりたまふべきによりて、すでに彌勒佛とまふしさふらふなり。その定に、眞實信心をえたるひとをば、如來とひとしとおほせられてさふらふなり。また乘信房の、彌勒とひとしとさふらふも、ひがごとにてはさふらはねども、他力によりて信をえてよろこぶこゝろは如來とひとしと候を、自力なりとさふらふらんは、いますこし乘信房の御こゝろのそこのゆきつかぬやうにききさふらふこそ、よく御案あるべくやさふらふらん。自力のこゝろにて、わが身は如來とひとしとさふらはんは、まことにあしくさふⅡ-0801らふべし。他力の信心のゆへに、淨信房のよろこばせたまひさふらふらんは、なにかは自力にてさふらふべき。よくよく御はからひさふらふべし。このやうは、このひとびとにくはしくまふしてさふらふ。乘信御房にとひまいらせさせたまふべくさふらふ。あなかしこ、あなかしこ。 十月廿七日 親鸞 南无阿彌陀佛をとなへてうへに、无㝵光如來をまふすはあしきことなりとさふらふなるこそ、きはまれるひがごとときこえさふらへ。歸命は南无なり。无㝵光佛は光明なり、智惠なり。この智惠はすなはち阿彌陀佛なり。阿彌陀佛の御かたちをしらせたまはねば、その御かたちをたしかにたしかにしらせまいらせんとて、世親菩薩御ちからをつくしてあらはしたまへるなり。このほかのことは、少々文字をなをしてまいらせ候なり。 親鸞 慶信御房[御返事] Ⅱ-0802(一六) なによりも、聖敎のをしへをもしらず、また淨土宗のまことのそこをもしらずして、不可思議の放逸无慚のものどものなかに、惡はおもふさまにふるまふべしとおほせられさふらふなるこそ、かへすがへすあるべくもさふらはず。北の郡にありし善乘房といひしものに、つゐにあひむつるゝことなくてやみにしをばみざりけるにや。凡夫なればとて、なにごともおもふさまならば、ぬすみをもし、ひとをもころしなんどすべきかは。もとぬすみごゝろあらんひとも、極樂をねがひ、念佛をまふすほどのことになりなば、もとひがうたるこゝろをもおもひなをしてこそあるべきに、そのしるしもなからんひとびとに、惡くるしからずといふこと、ゆめゆめあるべからずさふらふ。煩惱にくるはされて、おもはざるほかにすまじきことをもふるまひ、いふまじきことをもいひ、おもふまじきことをもおもふにてこそあれ。さはらぬことなればとて、ひとのためにもはらぐろく、すまじきことをもし、いふまじきことをもいはゞ、煩惱にくるはされたる儀にはあらで、わざとすまじきことをもせば、かへすがへすあるまじきことなり。鹿嶋・なめかたのひとびとのあしからんことをばいひとゞめ、その邊のひとびとの、ことⅡ-0803にひがふたることをば制したまはゞこそ、この邊よりいできたるしるしにてはさふらはめ。ふるまひは、なにともこゝろにまかせよといひつるとさふらふらん、あさましきことにさふらふ。この世のわろきをもすて、あさましきことをもせざらんこそ、世をいとひ、念佛まふすことにてはさふらへ。としごろ念佛するひとなんどの、ひとのためにあしきことをもし、またいひもせば、世をいとふしるしもなし。されば善導の御をしへには、「惡をこのむひとをば、つゝしんでとをざかれ」(散善*義意)とこそ、至誠心のなかにはをしへをかせおはしましてさふらへ。いつか、わがこゝろのわろきにまかせてふるまへとはさふらふ。おほかた經釋をもしらず、如來の御ことをもしらぬ身に、ゆめゆめその沙汰あるべくも候はず。あなかしこ、あなかしこ。 十一月廿四日 親鸞 (一七) 他力のなかには自力とまふすことは候とききさふらひき。他力のなかにまた他力とまふすことはききさふらはず。他力のなかに自力とまふすことは、雜行雜Ⅱ-0804修・定心念佛とこゝろにかけられてさふらふ人々は、他力のなかの自力のひとびとなり。他力のなかにまた他力とまふすことはうけたまはりさふらはず。なにごとも專信房のしばらくゐたらんとさふらへば、そのときまふしさふらふべし。あなかしこ、あなかしこ。 錢貳拾貫文、慥々給候。穴賢、穴賢。 十一月廿五日 親鸞 (一八) 御たづねさふらふことは、彌陀他力の廻向の誓願にあひたてまつりて、眞實の信心をたまはりて、よろこぶこゝろのさだまるとき、攝取してすてられまいらせざるゆへに、金剛心になるときを正定聚のくらゐに住すともまふす。彌勒菩薩とおなじくらゐになるともとかれて候めり。彌勒とひとつくらゐになるゆへに、信心まことなるひとをば、佛とひとしともまふす。また諸佛の眞實信心をえてよろこぶをば、まことによろこびて、われとひとしきものなりととかせたまひてさふらふなり。『大經』(卷下)には、釋尊のみことばに、「見敬得大慶則我善親友」とⅡ-0805よろこばせたまひさふらへば、信心をえたるひとは諸佛とひとしととかれてさふらふめり。また彌勒をば、すでに佛にならせたまはんことあるべきにならせたまひてさふらへばとて、彌勒佛とまふすなり。しかれば、すでに他力の信をえたるひとをも、佛とひとしとまふすべしとみえたり。御うたがひあるべからずさふらふ。御同行の、臨終を期してとおほせられさふらふらんは、ちからをよばぬことなり。信心まことにならせたまひてさふらふひとは、誓願の利益にてさふらふうへに、攝取してすてずとさふらへば、來迎臨終を期せさせたまふべからずとこそおぼえさふらへ。いまだ信心さだまらざらんひとは、臨終をも期し、來迎をもまたせたまふべし。この御ふみぬしの御名は隨信房とおほせられさふらはゞ、めでたふさふらふべし。この御ふみのかきやうめでたくさふらふ。御同行のおほせられやうは、こゝろえずさふらふ。それをばちからをよばずさふらふ。あなかしこ、あなかしこ。 十一月廿六日 親鸞 隨信御房 Ⅱ-0806(一九) 御ふみたびたびまいらせさふらひき。御覽ぜずやさふらひけん。なにごとよりも明法御房の往生の本意とげておはしましさふらふこそ、常陸國うちの、これにこゝろざしおはしますひとびとの御ために、めでたきことにてさふらへ。往生はともかくも凡夫のはからひにてすべきことにてもさふらはず。めでたき智者もはからふべきことにもさふらはず。大小の聖人だにも、ともかくもはからはで、たゞ願力にまかせてこそおはしますことにてさふらへ。ましてをのをののやうにおはしますひとびとは、たゞこのちかひありときゝ、南无阿彌陀佛にあひまいらせたまふこそ、ありがたく、めでたくさふらふ御果報にてはさふらふなれ。とかくはからはせたまふこと、ゆめゆめさふらふべからず。さきにくだしまいらせさふらひし『唯信鈔』・『自力他力』などのふみにて御覽さふらふべし。それこそ、この世にとりてはよきひとびとにておはします。すでに往生をもしておはしますひとびとにてさふらへば、そのふみどもにかゝれてさふらふには、なにごともなにごともすぐべくもさふらはず。法然聖人の御をしへを、よくよく御こゝろえたるひとびとにておはしますにさふらひき。さればこそ、往生もめでたくしⅡ-0807ておはしましさふらへ。おほかたは、としごろ念佛まふしあひたまふひとびとのなかにも、ひとへにわがおもふさまなることをのみまふしあはれて候ひとびともさふらひき。いまもさぞさふらふらんとおぼえさふらふ。明法房などの往生しておはしますも、もとは不可思議のひがごとをおもひなんどしたるこゝろをもひるがへしなどしてこそさふらふしか。われ往生すべければとて、すまじきことをもし、おもふまじきことをもおもひ、いふまじきことをもいひなどすることはあるべくもさふらはず。貪欲煩惱にくるはされて欲もおこり、瞋恚の煩惱にくるはされてねたむべくもなき因果をやぶるこゝろもおこり、愚癡の煩惱にまどはされておもふまじきことなどもおこるにてこそさふらへ。めでたき佛の御ちかひのあればとて、わざとすまじきことどもをもし、おもふまじきことどもをもおもひなどせんは、よくよくこの世のいとはしからず、身のわろきことをおもひしらぬにてさふらへば、念佛にこゝろざしもなく、佛の御ちかひにもこゝろざしのおはしまさぬにてさふらへば、念佛せさせたまふとも、その御こゝろざしにては順次の往生もかたくやさふらふべからん。よくよくこのよしをひとびとに、きかせまいらせさせたまふべくさふらふ。かやうにもまふすべくもさふらはねども、なⅡ-0808にとなくこの邊のことを御こゝろにかけあはせたまふひとびとにておはしましあひてさふらへば、かくもまふしさふらふなり。この餘の念佛の義は、やうやうにかはりあふてさふらふめれば、とかくまふすにをよばずさふらへども、故聖人の御をしへをよくよくうけたまはりておはしますひとびとは、いまももとのやうにかはらせたまふことさふらはず。世かくれなきことなれば、きかせたまひあふてさふらふらん。淨土宗の義、みなかはりておはしましあふてさふらふひとびとも、聖人の御弟子にてさふらへども、やうやうに義をもいひかへなどして、身もまどひ、ひとをもまどはかしあふてさふらふめり。あさましきことにてさふらふなり。京にもおほくまどひあふてさふらふめり。ゐなかは、さこそ候らめとこゝろにくゝもさふらはず。なにごともまふしつくしがたくさふらふ。またまたまふしさふらふべし。 この明敎房ののぼられてさふらふこと、まことにありがたきことゝおぼえさふらふ。明法御房の御往生のことをまのあたりききさふらふも、うれしくさふらふ。ひとびとの御こゝろざしも、ありがたくおぼえさふらふ。かたがたこのひとびとののぼり、不思議のことにさふらふ。このふみをたれたれにもおなじこゝろによⅡ-0809みきかせたまふべくさふらふ。このふみは奧郡におはします同朋の御なかに、みなおなじく御覽さふらふべし。あなかしこ、あなかしこ。としごろ念佛して往生をねがふしるしには、もとあしかりしわがこゝろをもおもひかへして、とも同朋にもねんごろにこゝろのおはしましあはゞこそ、世をいとふしるしにてもさふらはめとこそおぼえさふらへ。よくよく御こゝろえさふらふべし。 善知識ををろかにおもひ、師をそしるものをば、謗法のものとまふすなり。親をそしるものをば、五逆のものとまふすなり。同座せざれとさふらふなり。されば北の郡にさふらふし善乘房は、親をのり、善信をやうやうにそしりさふらひしかば、ちかづきむつまじくおもひさふらはで、ちかづけずさふらひき。明法御房の往生のことをききながら、あとををろかにせんひとびとは、その同朋にあらずさふらふべし。无明の酒にゑひたるひとにいよいよゑひをすゝめ、三毒をひさしくこのみくらふひとにいよいよ毒をゆるしてこのめとまふしあふてさふらふらん、不便のことにさふらふ。无明の酒にゑひたることをかなしみ、三毒をこのみくふていまだ毒もうせはてず、无明のゑひもいまださめやらぬにおはしましあふてさふらふぞかし。よくよく御こゝろえさふらふべし。 Ⅱ-0810(二〇) 方々よりの御こゝろざしのものども、かずのまゝにたしかにたまはりさふらふ。明敎房ののぼられてさふらふこと、ありがたきことにさふらふ。かたがたの御こゝろざし、まふしつくしがたくさふらふ。明法御房の往生のこと、をどろきまふすべきにはあらねども、かへすがへすうれしくさふらふ。鹿嶋・なめかた・奧郡、かやうの往生ねがはせたまふひとびとの、みなの御よろこびにてさふらふ。またひらつかの入道殿の御往生のことききさふらふこそ、かへすがへすまふすにかぎりなくおぼえさふらへ。めでたさまふしつくすべくもさふらはず。をのをのみな往生は一定とおぼしめすべし。さりながらも、往生をねがはせたまふひとびとの御なかにも、御こゝろえぬこともさふらひき、いまもさこそさふらふらめとおぼえさふらふ。京にもこゝろえずして、やうやうにまどひあふてさふらふめり。くにぐににもおほくきこえさふらふ。法然聖人の御弟子のなかにも、われはゆゝしき學生などゝおもひあひたるひとびとも、この世には、みなやうやうに法文をいひかへて、身もまどひ、ひとをもまどはして、わづらひあふてさⅡ-0811ふらふめり。聖敎のをしへをもみずしらぬ、をのをののやうにおはしますひとびとは、往生にさはりなしとばかりいふをききて、あしざまに御こゝろえあること、おほくさふらひき。いまもさこそさふらふらめとおぼえさふらふ。淨土の敎もしらぬ信見房などがまふすことによりて、ひがざまにいよいよなりあはせたまひさふらふらんをききさふらふこそ、あさましくさふらへ。まづをのをのの、むかしは彌陀のちかひをもしらず、阿彌陀佛をもまふさずおはしましさふらふしが、釋迦・彌陀の御方便にもよほされて、いま彌陀のちかひをもききはじめておはします身にてさふらふなり。もとは无明のさけにゑひふして、貪欲・瞋恚・愚癡の三毒をのみこのみめしあふてさふらふつるに、佛のちかひをききはじめしより、无明のゑひもやうやうすこしづゝさめ、三毒をもすこしづゝこのまずして、阿彌陀佛のくすりをつねにこのみめす身となりておはしましあふてさふらふぞかし。しかるに、なをゑひもさめやらぬに、かさねてゑひをすゝめ、毒もきえやらぬに、なを毒をすゝめられさふらふらんこそ、あさましくさふらへ。煩惱具足の身なればとて、こゝろにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、くちにもいふまじきことをもゆるし、こゝろにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもⅡ-0812こゝろのまゝにてあるべしとまふしあふてさふらふらんこそ、かへすがへす不便におぼえさふらへ。ゑひもさめぬさきに、なをさけをすゝめ、毒もきえやらぬに、いよいよ毒をすゝめんがごとし。くすりあり毒をこのめとさふらふらんことは、あるべくもさふらはずとぞおぼえ候。佛の御名をもきき念佛をまふして、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、後世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるしもさふらふべしとこそおぼえさふらへ。はじめて佛のちかひをきゝはじむるひとびとの、わが身のわろく、こゝろのわろきをおもひしりて、この身のやうにてはなんぞ往生せんずるといふひとにこそ、煩惱具足したる身なれば、わがこゝろの善惡をばさたせず、むかへたまふぞとはまふしさふらへ。かくききてのち、佛を信ぜんとおもふこゝろふかくなりぬるには、まことにこの身をもいとひ、流轉せんことをもかなしみて、ふかくちかひをも信じ、阿彌陀佛をもこのみまふしなんどするひとは、もともこゝろのまゝにて惡事をもふるまひなんどせじとおぼしめしあはせたまはゞこそ、世をいとふしるしにてもさふらはめ。また往生の信心は、釋迦・彌陀の御すゝめによりておこるとこそみえてさふらへば、さりともまことのこゝろおこらせたまひⅡ-0813なんには、いかゞむかしの御こゝろのまゝにては候べき。この御なかのひとびとも、少々はあしきさまなることのきこえ候めり。師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんどしあはせたまふよしきき候こそ、あさましく候へ。すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず。『淨土論』(論註*卷上意)とまふすふみには、「かやうのひとは佛法信ずるこゝろのなきより、このこゝろはおこるなり」と候めり。また至誠心のなかには、「かやうに惡をこのまんにはつゝしんでとをざかれ、ちかづくべからず」(散善*義意)とこそとかれて候へ。善知識・同行にはしたしみちかづけとこそときをかれて候へ。惡をこのむひとにもちかづきなんどすることは、淨土にまいりてのち、衆生利益にかへりてこそ、さやうの罪人にもしたしみちかづくことは候へ。それも、わがはからひにはあらず。彌陀のちかひによりて御たすけにてこそ、おもふさまのふるまひもさふらはんずれ。當時は、この身どものやうにては、いかゞ候べかるらんとおぼえ候。よくよく案ぜさせたまふべく候。往生の金剛心のおこることは、佛の御はからひよりおこりて候へば、金剛心をとりて候はんひとは、よも師をそしり善知識をあなづりなんどすることは候はじとこそおぼえ候へ。このふみをもてかしま・なめかた・南のⅡ-0814莊、いづかたもこれにこゝろざしおはしまさんひとには、おなじ御こゝろによみきかせたまふべく候。あなかしこ、あなかしこ。 建長四年二月廿四日 (二一) 安樂淨土にいりはつれば、すなはち大涅槃をさとるとも、また无上覺をさとるとも、滅度にいたるともまふすは、御名こそかはりたるやうなれども、これみな法身とまふす佛のさとりをひらくべき正因に、彌陀佛の御ちかひを、法藏菩薩われらに廻向したまへるを、往相の廻向とまふすなり。この廻向せさせたまへる願を、念佛往生の願とはまふすなり。この念佛往生の願を一向に信じてふたごゝろなきを、一向專修とはまふすなり。如來二種の廻向とまふすことは、この二種の廻向の願を信じ、ふたごゝろなきを、眞實の信心とまふす。この眞實の信心のおこることは、釋迦・彌陀二尊の御はからひよりおこりたりとしらせたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。 Ⅱ-0815(二二) 『寶號經』にのたまはく、「彌陀の本願は行にあらず、善にあらず、たゞ佛名をたもつなり」。名號はこれ善なり、行なり。行といふは、善をするについていふことばなり。本願はもとより佛の御約束とこゝろえぬるには、善にあらず、行にあらざるなり。かるがゆへに他力とまふすなり。本願の名號は能生する因なり。能生の因といふはすなはちこれ父なり。大悲の光明はこれ所生の縁なり。所生の縁といふはすなはちこれ母なり。 康永元歲W壬子R七月十二日、終書寫筆功遂挍合勞見訖。凡斯御消息者、念佛成佛之咽喉、愚癡愚迷之眼目也。可祕可祕而已。 執筆釋乘專 願主釋□□