Ⅱ-0763古寫消息 (一) 御ふみくわしくうけ給候ぬ。さてはこの御ふしんしかるべしともおぼえず候。そのゆへは、誓願・名號と申てかはりたること候はず候。誓願をはなれたる名號も候はず候、名號をはなれたる誓願も候はず候。かく申候も、はからひにて候也。たゞ誓願を不思議と信、又名號を不思議と一念信じとなへつるうへは、なんでうわがはからひをいたすべき。きゝわけ、しりわくるなんど、わづらはしくはおほせ候やらん。これみなひがごとにて候也。たゞ不思議と信じつるうへは、とかく御はからひあるべからず候。わうじやうのごうには、わたくしのはからひはあるまじく候也。あなかしこ、あなかしこ。如來にまかせまいらせおはしますべく候。あなかしこ、あなかしこ。 五月五日 親鸞(花押) Ⅱ-0764けうやうの御房へ このふみをもて、人々にもみせまいらせさせ給べく候。他力には義なきを義とは申候也。 (二) 御ふみくわしくうけ給候ぬ。さてはごほうもんのごふしんに、一念發起信心のとき、无㝵の心光にせふごせられまいらせ候ゆへ、つねに淨土のごふいん決定すとおほせられ候。これめでたく候。かくめでたくはおほせ候へども、これみなわたくしの御はからひになりぬとおぼえ候。たゞ不思議と信ぜさせ給候ぬるうへは、わづらはしきはからひはあるべからず候。 又ある人の候なること、 しゆつせのこゝろおほく、じやうどのごふいんすくなしと候なるは、こゝろへがたく候。しゆつせと候も、淨土のごういんと候も、みな一にて候也。すべ候て、これなまじゐなる御はからひとぞんじ候。佛智不思議と信ぜさせ給候なば、べちにわづらはしく、とかくの御はからひあるべからず候。たゞ人々のとかく申候はⅡ-0765んことをば、ごふしんあるべからず候。たゞ如來の誓願にまかせまいらせ給べく候。とかくの御はからひあるべからず候也。あなかしこ、あなかしこ。 五月五日 親鸞(花押) じやうしんの御ばうへ 他力と申候は、とかくのはからひなきを申候也。 (三) おほせられたる事、くはしくきゝてさふらう。なによりは、あいみむばうとかやとまふすなる人の、京よりふみをえたるとかやとまふされさふらうなる、返々ふしぎにさふらう。いまだかたちおもみず、ふみ一度もたまはりさふらはず、これよりもまふすこともなきに、京よりふみをえたるとまふすなる、あさましきことなり。又慈信房のほふもんのやう、みやうもくをだにもきかず、しらぬことを、慈信一人に、よる親鸞がおしえたるなりと、人に慈信房まふされてさふらうとて、これにも常陸・下野の人々は、みなしむらむがそらごとをまふしたるよしをまふしあはれてさふらえば、今は父子のぎはあるべからずさふらう。又母のあまにもⅡ-0766ふしぎのそらごとをいひつけられたること、まふすかぎりなきこと、あさましうさふらう。みぶの女房の、これえきたりてまふすこと、じしむばうがたうたるふみとて、もちてきたれるふみ、これにおきてさふらうめり。慈信房がふみとてこれにあり。そのふみ、つやつやいろはぬことゆえに、まゝはゝにいゐまどわされたるとかゝれたること、ことにあさましきことなり。よにありけるを、まゝはゝのあまのいゐまどわせりといふこと、あさましきそらごとなり。又このせにいかにしてありけりともしらぬことを、みぶのによばうのもとえもふみのあること、こゝろもおよばぬほどのそらごと、こゝろうきことなりとなげきさふらう。まことにかゝるそらごとどもをいひて、六波羅のへむ、かまくらなむどにひろうせられたること、こゝろうきことなり。これらほどのそらごとはこのよのことなれば、いかでもあるべし。それだにも、そらごとをいうこと、うたてきなり。いかにいはむや、往生極樂の大事をいひまどわして、ひたち・しもつけの念佛者をまどわし、おやにそらごとをいひつけたること、こゝろうきことなり。第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて、人ごとにみなすてまいらせたりときこゆること、まことにはうぼふのとが、又五逆のつみをこのみて、人をそむじまどわさるゝこⅡ-0767と、かなしきことなり。ことに破僧罪とまふすつみは、五逆のその一なり。親鸞にそらごとをまふしつけたるは、ちゝをころすなり。五逆のその一なり。このことどもつたえきくこと、あさましさまふすかぎりなければ、いまはおやといふことあるべからず、ことおもふことおもいきりたり。三寶・神明にまふしきりおわりぬ。かなしきことなり。わがほうもんににずとて、ひたちの念佛者みなまどわさむとこのまるゝときくこそ、こゝろうくさふらえ。しむらむがおしえにて、ひたちの念佛まふす人々をそむぜよと慈信房におしえたるとかまくらまできこえむこと、あさましあさまし。 五月廿九日 在判 同六月廿七日到來 建長八年六月廿七日註之 慈信房 御返事 嘉元三年七月廿七日書寫了 Ⅱ-0768(四) 有念無念   愚禿親鸞曰、 來迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆへに。臨終といふことは、諸行往生の人にいふべし、いまだ眞實の信心をえざるがゆへなり。また十惡・五逆の罪人のはじめて善知識にあふて、すゝめらるゝときにいふことなり。眞實信心の行人は、攝取不捨のゆへに、正定聚のくらゐに、信心のさだまるとき住す。このゆへに臨終をまつことなし、來迎をたのむことなし。信心のさだまるときに往生はさだまるなり。來迎の儀則をまたず。正念といふは、本弘誓願の信樂さだまるをいふなり。この信心をうるゆへに、かならず无上涅槃にいたるなり。この信心を一心といふ、この一心を金剛心といふ、この金剛心を大菩提心といふなり。これすなわち他力の中他力なり。また正念といふにつきて二あり。一は定心の行人の正念、二には散心の行人の正念あるべし。この二の正念は、他力中の自力の正念なり。定散の善は、諸行往生のことばにおさまるなり。この善は、他力の中の自力の善なり。この自力の行人は、來迎をまたずしては、胎生・邊地・懈慢界までもむまるべからず。このゆへに第十九の誓願に、「もろⅡ-0769もろの善をして淨土に回向して往生せむとねがふ人の臨終には、われ現じてむかへむ」とちかひたまへり。臨終をまつといふことと、來迎往生をたのむといふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。選擇本願は有念にあらず、無念にあらず。有念、すなわち色形をおもふにつきていふことなり。無念といふは、形をこゝろにかけず、色おもこゝろにおもはずして、念もなきをいふなり。これみな聖道のおしえなり。聖道といふは、すでに佛になりたまへる人、われらがこゝろをすゝめむがために、佛心宗・眞言宗・法華宗・華嚴宗・三論宗等の大乘至極の敎なり。佛心宗といふは、このよにひろまる禪宗これなり。また法相宗・成實宗・倶舍宗等の權敎、小乘等の敎なり。これみな聖道門なり。權敎といふは、すなわちすでに佛になりたまへる佛・菩薩の、かりにさまざまのかたちをあらはしてすゝめたまふがゆへに權といふなり。淨土宗にまた有念あり、無念あり。有念は散善の義、無念は定善の義なり。淨土の無念は聖道の無念にはにず。この聖道の無念の中にまた有念あり。よくよくとふべし。淨土宗の中に眞あり、假あり。眞といふは選擇本願なり、假といふは定散二善なり。選擇本願は淨土眞宗なり、定散二善は方便假門なり。淨土眞宗は大乘の中至極なり。Ⅱ-0770方便假門の中にまた大小・權實の敎あり。釋迦如來の御善知識者一百一十人なり。『華嚴經』にみえたり。 建長三歲W辛亥R閏九月廿日 釋親鸞W七十九歲R (五) 念佛する人々のなかよりうたがひとわるゝ事。 それ淨土宗のこゝろは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺の論家、淨土の祖師のおほせられたるところなり。まづ自力とまふすことは、行者のおのおのの縁にしたがふて、餘の佛號を稱念し、餘の善根を修行して、わがみをたのみ、わがはからひのこゝろをもちて、身口意のみだれごゝろをつくろい、めでたうしなして淨土へ往生せむとおもふを自力とまふすなり。 また他力とまふすことは、彌陀如來の御ちかひのなかに、選擇攝取したまへる第十八の念佛往生の本願を信樂するを他力とまふすなり。如來の御ちかひなれば、他力には義なきを義とすと、聖人のおほせごとにてありき。義といふことは、はからうことばなり。行者のはからいは自力なれば、義といふなり。他力は、本Ⅱ-0771願を信樂して往生必定なるゆへに、さらに義なしとなり。しかれば、わがみのわるければ、いかでか如來むかへたまふとおもふべからず。凡夫はもとより煩惱具足したるゆへに、わるきものとおもふべし。またわがこゝろよければ、往生すべしとおもふべからず。自力の御はからひにては眞實の報土へむまるべからざるなり。行者のおのおのの自力の信にては、懈慢邊地の往生、胎生疑城の淨土までぞ往生せらるゝことにてあるべきとこそ、うけたまわりたりし。第十八の本願成就のゆへに阿彌陀如來とならせたまひて、不可思議の利益きわまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は盡十方无㝵光如來とあらはしたまえり。このゆへに、よきあしき人をきらはず、煩惱のこゝろをえらばず、へだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。しかれば、惠心院の和尙は、『往生要集』(卷下意)には、本願念佛を信樂するありさまをあらはせるには、「行住座臥をえらばず、時處諸縁をきらはず」とおほせられたり。「眞實の信心をえたる人は攝取のひかりにおさめとられまいらせたり」(要集*卷下意)と、たしかにあらはせり。しかれば、无明煩惱を具して安養淨土に往生すれば、かならずすなわち无上佛果にいたると、釋迦如來ときたまへり。しかるに、「五濁惡世のわれら、釋迦一佛のみことを信Ⅱ-0772受せむことありがたかるべしとて、十方恆沙の諸佛、證人とならせたまふ」(散善*義意)と、善導和尙は釋したまへり。「釋迦・彌陀・十方の諸佛、みなおなじ御こゝろにて、本願念佛の衆生には、かげかたちにそえるがごとくしてはなれたまはず」(散善*義意)とあかせり。しかれば、この信心の人を釋迦如來は、「したしきともなり」(大經*卷下意)とよろこびまします。この信心の人を眞の佛弟子といえり。この人を正念に住する人とす。この人を攝取してすてたまわざれば、金剛心をえたる人とまふすなり。この人を上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人ともまふすなり。この人は正定聚のくらゐにさだまれるなりとしるべし。しかれば、彌勒佛とひとしき人とのたまへり。これは眞實信心をえたるゆへに、かならず眞實の報土に往生するなりとしるべし。この信心をうることは、釋迦・彌陀・十方諸佛の御方便によりたまはりたるとしるべし。しかれば、諸佛の御おしえをそしることなし。餘の善根を行ずる人をそしることなし。この念佛する人をにくみそしる人おも、にくみそしることあるべからず。あわれみをなし、かなしむこゝろをもつべしとこそ、聖人はおほせごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。佛恩のふかきことは、懈慢邊地に往生し、疑城胎宮に往生するだにも、彌陀の御ちかひⅡ-0773のなかに、第十九・第廿の願の御あわれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。佛恩のふかきこと、そのきわもなし。いかにいはむや、眞實の報土へ往生して大涅槃のさとりをひらかむこと、佛恩よくよく御按ども候べし。これさらに性信房・親鸞がはからいまふすにはあらず候。ゆめゆめ。 建長八歲丙辰四月十三日 愚禿親鸞W八十四歲剋作R (六) 「獲」字は、因位のときうるを獲といふ。 「得」字は、果位のときにいたりてうることを得といふなり。 「名」字は、因位のときのなを名といふ。 「號」字は、果位のときのなを號といふ。 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからいにあらず。しからしむといふことばなり。「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからいにあらず、如來のちかひにてあるがゆへに。「法爾」といふは、この如來のおむちⅡ-0774かひなるがゆへに、しからしむるを法爾といふ。法爾は、このおむちかひなりけるゆへに、すべて行者のはからひのなきをもて、この法のとくのゆへにしからしむといふなり。すべて、人のはじめてはからはざるなり。このゆへに他力には義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむといふことばなり。 彌陀佛の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南无阿彌陀とたのませたまひて、むかへむとはからはせたまひたるによりて、行者のよからむともあしからむともおもはぬを、自然とはまふすぞときゝて候。ちかひのやうは、无上佛にならしめむとちかひたまへるなり。无上佛とまふすは、かたちもなくまします。かたちのましまさぬゆへに、自然とはまふすなり。かたちましますとしめすときには、无上涅槃とはまふさず。かたちもましまさぬやうをしらせむとて、はじめて彌陀佛とぞきゝならひて候。みだ佛は自然のやうをしらせむれうなり。この道理をこゝろえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは佛智の不思議にてあるなり。 Ⅱ-0775愚禿親鸞八十六歲 正嘉二歲戊午十二月日、善法坊僧都御坊、三條とみのこうぢの御坊にて、聖人にあいまいらせてのきゝがき、そのとき顯智これをかくなり。