Ⅱ-0743親鸞聖人眞筆消息 (一) かさまの念佛者のうたがひとわれたる事。 それ淨土眞宗のこゝろは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺の論家、淨土の祖師のおほせられたることなり。まづ自力と申ことは、行者のおのおのの縁にしたがひて、餘の佛號を稱念し、餘の善根を修行して、わがみをたのみ、わがはからひのこゝろをもて身口意のみだれごゝろをつくろい、めでたうしなして淨土へ往生せむとおもふを自力と申なり。また他力と申ことは、彌陀如來の御ちかひの中に、選擇攝取したまへる第十八の念佛往生の本願を信樂するを他力と申なり。如來の御ちかひなれば、他力には義なきを義とすと、聖人のおほせごとにてありき。義といふことは、はからうことばなり。行者のはからひは自力なれば、義といふなり。他力は、本願を信樂して往生必定なるゆへに、さらⅡ-0744に義なしとなり。しかれば、わがみのわるければ、いかでか如來むかへたまはむとおもふべからず。凡夫はもとより煩惱具足したるゆへに、わるきものとおもふべし。またわがこゝろよければ、往生すべしとおもふべからず。自力の御はからいにては眞實の報土へむまるべからざるなり。行者のおのおのの自力の信にては、懈慢邊地の往生、胎生疑城の淨土までぞ往生せらるゝことにてあるべきとぞ、うけたまはりたりし。第十八の本願成就のゆへに阿彌陀如來とならせたまひて、不可思議の利益きわまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は盡十方无㝵光如來とあらわしたまへり。このゆへに、よきあしき人をきらはず、煩惱のこゝろをえらばず、へだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。しかれば、惠心院の和尙は、『往生要集』(卷下意)に、本願の念佛を信樂するありさまをあらわせるには、「行住座臥をえらばず、時處諸縁をきらわず」とおほせられたり。「眞實の信心をえたる人は攝取のひかりにおさめとられまいらせたり」(要集*卷下意)と、たしかにあらわせり。しかれば、无明煩惱を具して安養淨土に往生すれば、かならずすなわち无上佛果にいたると、釋迦如來ときたまへり。しかるに、「五濁惡世のわれら、釋迦一佛のみことを信受せむことありがたかるべしとて、十方恆沙の諸佛、Ⅱ-0745證人とならせたまふ」(散善*義意)と、善導和尙は釋したまへり。「釋迦・彌陀・十方の諸佛、みなおなじ御こゝろにて、本願念佛の衆生には、かげのかたちにそえるがごとくしてはなれたまはず」(散善*義意)とあかせり。しかれば、この信心の人を釋迦如來は、「わがしたしきともなり」(大經*卷下意)とよろこびまします。この信心の人を眞の佛弟子といへり。この人を正念に住する人とす。この人は、攝取してすてたまはざれば、金剛心をえたる人と申なり。この人を上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人ともまふすなり。この人は正定聚のくらゐにさだまれるなりとしるべし。しかれば、彌勒佛とひとしき人とのたまへり。これは眞實信心をえたるゆへに、かならず眞實の報土に往生するなりとしるべし。この信心をうることは、釋迦・彌陀・十方諸佛の御方便よりたまはりたるとしるべし。しかれば、諸佛の御おしえをそしることなし。餘の善根を行ずる人をそしることなし。この念佛する人をにくみそしる人おも、にくみそしることあるべからず。あわれみをなし、かなしむこゝろをもつべしとこそ、聖人はおほせごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。佛恩のふかきことは、懈慢邊地に往生し、疑城胎宮に往生するだにも、彌陀の御ちかひのなかに、第十九・第廿の願の御あわれみにてこそ、Ⅱ-0746不可思議のたのしみにあふことにて候へ。佛恩のふかきこと、そのきわもなし。いかにいはんや、眞實の報土へ往生して大涅槃のさとりをひらかむこと、佛恩よくよく御安ども候べし。これさらに性信坊・親鸞がはからひ申にはあらず候。ゆめゆめ。 建長七歲[乙卯]十月三日 愚禿親鸞八十三歲書之 (二) このゑん佛ばう、くだられ候。こゝろざしのふかく候ゆへに、ぬしなどにもしられ申さずして、のぼられて候ぞ。こゝろにいれて、ぬしなどにもおほせられ候べく候。この十日のよ、せうまうにあふて候。この御ばうよくよくたずね候て候なり。こゝろざしありがたきやうに候ぞ。さだめてこのやうは申され候はんずらん。よくよくきかせ給べく候。なにごともなにごともいそがしさに、くはしう申さず候。あなかしこ、あなかしこ。 十二月十五日 (花押) Ⅱ-0747眞佛御房へ (三) 四月七日の御ふみ、五月廿六日たしかにたしかにみ候ぬ。さてはおほせられたる事、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆへは、行と申は、本願の名號をひとこゑとなえてわうじやうすと申ことをきゝて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかいをきゝて、うたがふこゝろのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするときゝてうたがはねば、行をはなれたる信はなしときゝて候。又、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。これみなみだの御ちかいと申ことをこゝろうべし。行と信とは御ちかいを申なり。あなかしこ、あなかしこ。いのち候はゞ、かならずかならずのぼらせ給べし。 五月廿八日 (花押) 覺信御房 御返事 Ⅱ-0748專信坊、京ちかくなられて候こそ、たのもしうおぼえ候へ。 又、御こゝろざしのぜに三百文、たしかにたしかにかしこまりてたまはりて候。 (四) 畏申候。 『〔大无量壽〕經』(卷下)に「信心歡嘉〔喜〕」と候。『〔華嚴經』を引て『淨土〕和讚』にも、「信心よろこぶ其人を 如來とひとしと說きたまふ 大信心は佛性なり 佛性卽如來なり」と仰せられて候に、專修の人の中に、ある人心得ちがえて候やらん、信心よろこぶ人を如來とひとしと同行達ののたまふは自力なり、眞言にかたよりたりと申候なる人のうえを可知に候はねども申候。また、「眞實信心うる人は 卽定聚のかずの〔に〕入る 不退の位に入りぬれば 必滅度をさとらしむ」(淨土*和讚)と候。「滅度をさとらしむ」と候は、此度此身の終候はん時、眞實信心の行者の心、報土にいたり候ひなば、壽命无量を體として、光明无量の德用はなれたまわざれば、如來の心光に一味なり。此故、大信心は佛性なり、佛性は卽如來なりと仰せられて候やらん。是は十一、二、三のⅡ-0749御誓と心得られ候。罪惡の我等がためにおこしたまえる大悲の御誓の目出たくあわれにましますうれしさ、こゝろもおよばれず、ことばもたえて申つくしがたき事、かぎりなく候。自无始曠劫以來、過去遠々に、恆沙の諸佛の出世の所にて、自力の〔大〕菩提心おこすといゑども、さとり〔自力〕かなはず、二尊の御方便にもよをされまいらせて、雜行雜修自力疑心のおもひなし。无㝵光如來の攝取不捨の御あわれみの故に、疑心なくよろこびまいらせて、一念するに〔までの〕往生定て、誓願不思議と心得候ひなん〔む〕には、聞見る〔候〕にあかぬ淨土の御〔聖〕敎も、知識にあいまいらせんとおもはんことも、攝取不捨も、信も、念佛も、人のためとおぼえられ候。今師主の〔御〕敎によりて〔へのゆえ〕、心をぬきて御こゝろむきをうかゞひ候によりて、願意をさとり、直道をもとめえて、正しき眞實報土にいたり候はんこと、此度、一念にとげ候ひぬる〔聞名にいたるまで〕、うれしさ御恩のいたり、其上『彌陀經義集』におろおろ明におぼへられ候。然に世間のそうそうにまぎれて、一時若は二時、三時おこたるといえども、晝夜にわすれず、御あわれみをよろこぶ業力ばかりにて、行住座臥に時所の不淨をもきらはず、一向に金剛の信心Ⅱ-0750ばかりにて、佛恩のふかさ、師主の御とく〔恩德〕のうれしさ、報謝のためにたゞみなをとなうるばかりにて、日の所作とせず。此樣ひがざまにか候らん。一期の大事、たゞ是にすぎたるはなし。可然者、よくよくこまかに仰を蒙り候はんとて、わづかにおもふばかりを記して申上候。さては京に久候しに、そうそうにのみ候て、こゝろしづかにおぼへず候し事のなげかれ候て、わざといかにしてもまかりのぼりて、こゝろしづかに、せめては五日、御所に候ばやとねがひ候也。あゝ〔噫〕、かうまで申候も御恩のちからなり。 進上 聖人の御所へ 蓮位御房申させ給へ 十月十日 慶信上(花押) 追申上候。 念佛申候人々の中に、南无阿彌陀佛ととなへ候ひまには、无㝵光如來ととなへまいらせ候人も候。これをきゝて、ある人の申候なる、南无阿彌陀佛ととなへてのうへに、くゐみやう盡十方无㝵光如來ととなへまいらせ候ことは、おそれある事にてこそあれ、いまめがわしくと申候なる、このやういかゞ候Ⅱ-0751べき。 南无阿彌陀佛をとなえてのうへに、无㝵光佛と申さむはあしき事なりと候なるこそ、きわまれる御ひがごとゝきこえ候へ。歸命は南无なり。无㝵光佛は光明なり、智慧なり。この智慧はすなわち阿彌陀佛。阿彌陀佛の御かたちをしらせ給はねば、その御かたちをたしかにたしかにしらせまいらせんとて、世親菩薩御ちからをつくしてあらわし給へるなり。このほかのことは、せうせうもじをなをしてまひらせ候也。 この御ふみのやう、くわしくまふしあげて候。すべてこの御ふみのやう、たがはず候とおほせ候也。たゞし、一念するに往生さだまりて誓願不思議とこゝろえ候とおほせ候おぞ、よきやうには候へども、一念にとゞまるところあしく候とて、御ふみのそばに御自筆をもて、あしく候よしをいれさせおはしまして候。蓮位にかくいれよとおほせをかぶりて候へども、御自筆はつよき證據におぼしめされ候ぬとおぼえ候あひだ、おりふし御がいびやうにて御わづらひにわたらせたまひ候へども、まふして候也。またのぼりて候Ⅱ-0752し人々、くにゝ論じまふすとて、あるいは彌勒とひとしとまふし候人々候よしをまふし候しかば、しるしおほせられて候ふみの候。しるしてまいらせ候也。御覽あるべく候。また彌勒とひとしと候は、彌勒は等覺の分なり、これは因位の分なり。これは十四・十五の月の圓滿したまふが、すでに八日・九日の月のいまだ圓滿したまはぬほどをまふし候也。これは自力修行のやうなり。われらは信心決定の凡夫、くらゐ正定聚のくらゐなり。これは因位なり、これ等覺の分なり。かれは自力也、これは他力なり。自他のかわりこそ候へども、因位のくらゐはひとしといふなり。また彌勒の妙覺のさとりはおそく、われらが滅度にいたることはとく候はむずるなり。かれは五十六億七千萬歲のあかつきを期し、これはちくまくをへだつるほどなり。かれは漸頓のなかの頓、これは頓のなかの頓なり。滅度といふは妙覺なり。曇鸞の『註』(論註*卷下意)にいはく、「樹あり、好堅樹といふ。この木、地のそこに百年わだかまりゐて、おうるとき一日に百丈おい候」なるぞ。この木、地のそこに百年候は、われらが娑婆世界に候て、正定聚のくらゐに住する分なり。一日に百丈おい候なるは、滅度にいたる分なり。これにたとへて候也。これは他力のやうなり。松の生長するは、としごとに寸をすぎず。これはおそし、自力修行のやうなり。また如來とひとしといふは、煩惱成就の凡夫、佛の心光にてらされまいらせてⅡ-0753信心歡喜す。信心歡喜するゆへに正定聚のかずに住す。信心といふは智也。この智は、他力の光明に攝取せられまいらせぬるゆへにうるところの智也。佛の光明も智也。かるがゆへに、おなじといふなり。おなじといふは、信心をひとしといふなり。歡喜地といふは、信心を歡喜するなり。わが信心を歡喜するゆへにおなじといふなり。くはしく御自筆にしるされて候を、かきうつしてまいらせ候。また南无阿彌陀佛とまふし、また无㝵光如來ととなえ候御不審も、くわしく自筆に御消息のそばにあそばして候也。かるがゆへに、それよりの御ふみをまいらせ候。あるいは阿彌陀といひ、あるいは无㝵光とまふし、御名ことなりといゑども、心は一なり。阿彌陀といふは梵語なり。これには无量壽ともいふ、无㝵光ともまふし候。梵漢ことなりといゑども、心おなじく候也。そもそも、覺信坊の事、ことにあわれにおぼへ、またたふとくもおぼへ候。そのゆへは、信心たがはずしておはられて候。また、たびたび信心ぞんぢのやう、いかやうにかとたびたびまふし候しかば、當時まではたがふべくも候はず。いよいよ信心のやうはつよくぞんずるよし候き。のぼり候しに、くにをたちて、ひといちとまふししとき、やみいだして候しかども、同行たちはかへれなむどまふし候しかども、死するほどのことならば、かへるとも死し、とゞまるとも死し候はむず。またやまひはやみ候ば、かへるともやみ、Ⅱ-0754とゞまるともやみ候はむず。おなじくは、みもとにてこそおはり候はゞ、おわり候はめとぞんじてまいりて候也と、御ものがたり候し也。この御信心まことにめでたくおぼへ候。善導和尙の釋の二河の譬喩におもひあはせられて、よにめでたくぞんじ、うらやましく候也。おはりのとき、南无阿彌陀佛、南无无㝵光如來、南无不可思議光如來ととなえられて、てをくみてしづかにおわられて候しなり。またおくれさきだつためしは、あはれになげかしくおぼしめされ候とも、さきだちて滅度にいたり候ぬれば、かならず最初引接のちかひをおこして、結縁・眷屬・萠友をみちびくことにて候なれば、しかるべくおなじ法文の門にいりて候へば、蓮位もたのもしくおぼへ候。また、おやとなり、ことなるも、先世のちぎりとまふし候へば、たのもしくおぼしめさるべく候也。このあわれさたふとさ、まふしつくしがたく候へば、とゞめ候ぬ。いかにしてか、みづからこのことをまふし候べきや。くはしくはなほなほまふし候べく候。このふみのやうを、御まへにてあしくもや候とて、よみあげて候へば、これにすぐべくも候はず、めでたく候とおほせをかぶりて候也。ことに覺信坊のところに、御なみだをながさせたまひて候也。よにあわれにおもはせたまひて候也。 十月廿九日 蓮位 Ⅱ-0755慶信御坊へ (五) 閏十月一日の御文、たしかにみ候。かくねむばうの御事、かたがたあはれに存候。親鸞はさきだちまいらせ候はんずらんと、まちまいらせてこそ候つるに、さきだゝせ給候事、申ばかりなく候。かくしんばう、ふるとしごろは、かならずかならずさきだちてまたせ給候覽。かならずかならずまいりあふべく候へば、申におよばず候。かくねんばうのおほせられて候やう、すこしも愚老にかはらずおはしまし候へば、かならずかならず一ところへまいりあふべく候。明年の十月のころまでもいきて候はゞ、このよの面謁うたがいなく候べし。入道殿の御こゝろも、すこしもかわらせ給はず候へば、さきだちまいらせても、まちまいらせ候べし。人々の御こゝろざし、たしかにたしかにたまはりて候。なにごともなにごとも、いのちの候らんほどは申べく候。又おほせをかぶるべく候。この御ふみみまいらせ候こそ、ことにあはれに候へ。中々申候もおろかなるやうに候。又々、追申候べく候。あなかしこ、あなかしこ。 Ⅱ-0756閏十月廿九日 親鸞(花押) たかだの入道殿 御返事 (六) 如來の誓願を信ずる心のさだまる時と申は、攝取不捨の利益にあづかるゆへに、不退の位にさだまると御こゝろえ候べし。眞實信心さだまると申も、金剛信心のさだまると申も、攝取不捨のゆへに申なり。さればこそ、无上覺にいたるべき心のおこると申なり。これを不退のくらゐとも、正定聚のくらゐにいるとも申、等正覺にいたるとも申也。このこゝろのさだまるを、十方諸佛のよろこびて、諸佛の御こゝろにひとしとほめたまふなり。このゆへに、まことの信心の人をば、諸佛とひとしと申なり。又補處の彌勒とおなじとも申也。このよにて眞實信心の人をまぼらせ給へばこそ、『阿彌陀經』(意)には、「十方恆沙の諸佛護念す」とは申事にて候へ。安樂淨土へ往生してのちは、まもりたまふと申ことにては候はず。娑婆世界ゐたるほど護念すと申事也。信心まことなる人のこゝろを、十方恆沙の如來のほめたまへば、佛とひとしとは申事也。又他力と申ことは、義なきを義とⅡ-0757すと申なり。義と申ことは、行者のおのおののはからう事を義とは申也。如來の誓願は不可思議にましますゆへに、佛と佛との御はからいなり。凡夫のはからいにあらず。補處の彌勒菩薩をはじめとして、佛智の不思議をはからうべき人は候はず。しかれば如來の誓願には、義なきを義とすとは、大師聖人の仰に候き。このこゝろのほかには往生にいるべきこと候はずとこゝろえて、まかりすぎ候へば、人の仰ごとにはいらぬものにて候也。諸事恐々謹言。 无㝵光如來の慈悲光明に攝取せられまいらせ候ゆへ、名號をとなへつゝ不退のくらゐにいりさだまり候なむには、このみのために攝取不捨をはじめてたづぬべきにはあらずとおぼへられて候。そのうへ『華嚴經』(晉譯卷六〇*入法界品)に、「聞此法歡喜 信心无疑者 速成无上道 與諸如來等」とおほせられて候。また第十七の願に「十方无量の諸佛にほめとなえられむ」(大經*卷上意)とおほせられて候。また願成就の文に「十方恆沙の諸佛」(大經*卷下)とおほせられて候は、信心の人とこゝろえて候。この人はすなわちこのよより如來とひとしとおぼへられ候。このほかは、凡夫のはからひおばもちゐず候なり。このやうをこまかにおほせかぶり給べく候。恐々謹言。 Ⅱ-0758二月十二日 淨信 (七) いやおむながこと、ふみかきてまいらせられ候めり。いまだゐどころもなくて、わびゐて候なり。あさましくあさましく、もてあつかいて、いかにすべしともなくて候なり。あなかしこ。 三月廿八日 (花押)        …………………(切封) わうごぜんへ しんらん (八) たづねおほせられて候攝取不捨の事は、『般舟三昧行道往生讚』(意)と申におほせられて候をみまいらせ候へば、「釋迦如來・彌陀佛、われらが慈悲の父母にて、さまざまの方便にて、我等が无上信心をばひらきおこさせ給」と候へば、まことⅡ-0759の信心のさだまる事は、釋迦・彌陀の御はからいとみえて候。往生の心うたがいなくなり候は、攝取せられまいらするゆへとみえて候。攝取のうへには、ともかくも行者のはからいあるべからず候。淨土へ往生するまでは、不退のくらゐにておはしまし候へば、正定聚のくらゐとなづけておはします事にて候なり。まことの信心をば、釋迦如來・彌陀如來二尊の御はからいにて發起せしめ給候とみえて候へば、信心のさだまると申は、攝取にあづかる時にて候なり。そのゝちは正定聚のくらゐにて、まことに淨土へむまるゝまでは候べしとみえ候なり。ともかくも行者のはからいをちりばかりもあるべからず候へばこそ、他力と申事にて候へ。あなかしこ、あなかしこ。 十月六日 親鸞(花押) しのぶの御房の御返事 (九) たづねおほせられて候事、返々めでたう候。まことの信心をえたる人は、すでに佛にならせ給べき御みとなりておはしますゆへに、「如來とひとしき人」と『經』Ⅱ-0760(晉譯華嚴經卷*六〇入法界品意)にとかれ候なり。彌勒はいまだ佛になりたまはねども、このたびかならずかならず佛になりたまふべきによりて、みろくをばすでに彌勒佛と申候なり。その定に、眞實信心をえたる人をば、如來とひとしとおほせられて候也。又承信房の、彌勒とひとしと候も、ひが事には候はねども、他力によりて信をえてよろこぶこゝろは如來とひとしと候を、自力なりと候覽は、いますこし承信房の御こゝろのそこのゆきつかぬやうにきこへ候こそ、よくよく御あん候べくや候覽。自力のこゝろにて、わがみは如來とひとしと候らんは、まことにあしう候べし。他力の信心のゆへに、淨信房のよろこばせ給候らんは、なにかは自力にて候べき。よくよく御はからい候べし。このやうは、この人々にくはしう申て候。承信の御房、といまいらせさせ給べし。あなかしこ、あなかしこ。 十月廿一日 親鸞 淨信御房 御返事 (一〇) ひたちの人々の御中へ、このふみをみせさせ給へ。すこしもかはらず候。このふⅡ-0761みにすぐべからず候へば、このふみを、くにの人々、おなじこゝろに候はんずらん。あなかしこ、あなかしこ。 十一月十一日 (花押) いまごぜんのはゝに (一一) このいまごぜんのはゝの、たのむかたもなく、そらうをもちて候はゞこそ、ゆづりもし候はめ。せんしに候なば、くにの人々、いとをしふせさせたまふべく候。このふみをかくひたちの人々をたのみまいらせて候へば、申をきて、あはれみあはせたまふべく候。このふみをごらんあるべく候。このそくしやうばうも、すぐべきやうもなきものにて候へば、申おくべきやうも候はず。みのかなはず、わびしう候ことは、たゞこのことおなじことにて候。ときにこのそくしやうばうにも、申をかず候。ひたちの人々ばかりぞ、このものどもをも、御あはれみあはれ候べからん。いとをしう、人々あはれみおぼしめすべし。このふみにて、人々おなじ御こゝろに候べし。あなかしこ、あなかしこ。 Ⅱ-0762十一月十二日 ぜんしん(花押) ひたち人々の御中へ        …………………(切封) ひたちの人々の御中へ (花押) (一二) ゆづりわたすいや女事。みのかわりをとらせてせうあみだ佛がめしつかう女なり。しかるをせうあみだ佛、ひむがしの女房にゆづりわたすものなり。さまたげをなすべき人なし。ゆめゆめわづらいあるべからず。のちのためにゆづりふみをたてまつるなり。あなかしこ、あなかしこ。 寛元元年癸卯十二月廿一日 (花押)