Ⅱ-0683唯信鈔文意 「唯信抄」といふは、「唯」はたゞこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり。また「唯」はひとりといふこゝろなり。「信」はうたがひなきこゝろなり、すなわちこれ眞實の信心なり、虛假はなれたるこゝろなり。虛はむなしといふ、假はかりなるといふことなり。虛は實ならぬをいふ、假は眞ならぬをいふなり。本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを唯信といふ。「鈔」Ⅱ-0684はすぐれたることをぬきいだしあつむることばなり。このゆへに唯信鈔といふなり。また「唯信」は、これこの他力の信心のほかに餘のことならはずとなり。すなわち本弘誓願なるがゆへなればなり。 「如來尊號甚分明  十方世界普流行 但有稱名皆得往  觀音勢至自來迎」(五會法*事讚) 「如來尊號甚分明」、このこゝろは、「如來」とまふすは无㝵光如來なり。「尊號」とまふすは南无阿彌陀佛なり。「尊」はたふとくすぐれたりとなり。「號」は佛になりたまふてのちの御なをまふす、名はいまだ佛になりたまはぬときの御なをまふすなり。この如來の尊號は、不可稱不可說不可思議にましまして、一切衆生をして无上大般涅槃にいたらしめたまふ大慈大悲のちかひの御ななり。この佛の御なは、よろづの如來の名號にすぐれたⅡ-0685まへり。これすなわち誓願なるがゆへなり。「甚分明」といふは、「甚」ははなはだといふ、すぐれたりといふこゝろなり。「分」はわかつといふ、よろづの衆生ごとにとわかつこゝろなり。「明」はあきらかなりといふ。十方一切衆生をことごとくたすけみちびきたまふこと、あきらかにわかちすぐれたまへりとなり。「十方世界普流行」といふは、「普」はあまねく、ひろく、きわなしといふ。「流行」は十方微塵世界にあまねくひろまりて、すゝめ行ぜしめたまふなり。しかれば、大小の聖人・善惡の凡夫、みなともに自力の智慧をもてはⅡ-0686大涅槃にいたることなければ、无㝵光佛の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆへに、この佛の智願海にすゝめいれたまふなり。一切諸佛の智慧をあつめたまへる御かたちなり。光明は智慧なりとしるべしとなり。「但有稱名皆得往」といふは、「但有」はひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり。かるがゆへに稱名皆得往といふなり。「觀音勢至自來迎」といふは、南无阿彌陀佛は智慧の名號なれば、この不可思議光佛の御なを信受して憶念すれば、觀音・勢至はかならずかげのかたちにそえるがごとくなり。この无㝵光佛は觀音とあらわれ、勢志としめす。ある經には、觀音を寶應聲菩薩となづけて日天子としめす。これは无明の黑闇をはらわしむ。勢至を寶吉祥菩薩となづけて月天Ⅱ-0687子とあらわる。生死の長夜をてらして智慧をひらかしめむとなり。「自來迎」といふは、「自」はみづからといふなり。彌陀无數の化佛・无數の化觀音・化大勢至等の无量无數の聖衆みづからつねに、ときをきらはず、ところをへだてず、眞實信心をえたるひとにそひたまひてまもりたまふゆへに、みづからとまふすなり。また「自」はおのづからといふ。おのづからといふは自然といふ。自然といふはしからしむといふ。しからしむといふは、行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生・未來の一切のつみを轉ず。轉ずといⅡ-0688ふは、善とかへなすをいふなり。もとめざるに一切の功德善根を佛のちかひを信ずる人にえしむるがゆへに、しからしむといふ。はじめてはからはざれば自然といふなり。誓願眞實の信心をえたるひとは、攝取不捨の御ちかひにおさめとりてまもらせたまふによりて行人のはからひにあらず、金剛の信心をうるゆへに憶念自然なるなり。この信心のおこることも、釋迦の慈父・彌陀の悲母の方便によりておこるなり。これ自然の利益なりとしるべしとなり。「來迎」といふは、「來」は淨土へきたらしむといふ、これすなわち若不生者のちかひをあらはす御のりなり。穢土をすてゝ眞實報土にきたらしむとなり、すなわち他力をあらはす御ことなり。また「來」はかへるといふ。かへるといふは、願海にいりぬるによりてかならず大涅Ⅱ-0689槃にいたるを、法性のみやこへかへるとまふすなり。法性のみやこといふは、法身とまふす如來のさとりを自然にひらくときを、みやこへかへるといふなり。これを、眞如實相を證すともまふす、无爲法身ともいふ、滅度にいたるともいふ、法性の常樂を證すともまふすなり。このさとりをうれば、すなわち大慈大悲きわまりて生死海にかへりいりて、普賢の德に歸せしむとまふす。この利益におもむくを來といふ。これを法性のみやこへかへるとまふすなり。「迎」といふはむかへたまふといふ、まつといふこゝろなり。選擇不Ⅱ-0690思議の本願、无上智慧の尊號をきゝて、一念もうたがふこゝろなきを眞實信心といふなり。金剛心ともなづく。この信樂をうるときかならず攝取してすてたまはざれば、すなわち正定聚のくらゐにさだまるなり。このゆへに信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと金剛のごとくなるがゆへに、金剛の信心とはまふすなり。これを迎といふなり。『大經』(卷下)には、「願生彼國、卽得往生、住不退轉」とのたまへり。「願生彼國」は、かのくににむまれむとねがへとなり。「卽得往生」は、信心をうればすなわち往生すといふ。すなわち往生すといふは不退轉に住するをいふ。不退轉に住すといふはすなわち正定聚のくらゐにさだまるとのたまふ御のりなり。これを卽得往生とはまふすなり。「卽」はすなわちといふ。すなわちといふは、Ⅱ-0691ときをへず、日をへだてぬをいふなり。おほよそ十方世界にあまねくひろまることは、法藏菩薩の四十八大願の中に、第十七の願に、十方无量の諸佛にわがなをほめられむ、となえられむとちかひたまへる、一乘大智海の誓願成就したまへるによりてなり。『阿彌陀經』の證誠護念のありさまにてあきらかなり。證誠護念の御こゝろは、『大經』にもあらわれたり。また稱名の本願は選擇の正因たること、この悲願にあらわれたり。この文のこゝろはおもふほどはまふさず。これにておしはからせたまふべし。この文は、後善導法Ⅱ-0692照禪師とまふす聖人の御釋なり。この和尙おば法道和尙と、慈覺大師はのたまへり。また『傳』には廬山の彌陀和尙ともまふす、淨業和尙ともまふす。唐朝の光明寺の善導和尙の化身なり、このゆへに後善導とまふすなり。 「彼佛因中立弘誓  聞名念我總迎來 不簡貧窮將富貴  不簡下智與高才 不簡多聞持淨戒  不簡破戒罪根深 但使廻心多念佛  能令瓦礫變成金」(五會法*事讚) 「彼佛因中立弘誓」、このこゝろは、「彼」はかのとⅡ-0693いふ。「佛」は阿彌陀佛なり。「因中」は法藏菩薩とまふしゝときなり。「立弘誓」は、「立」はたつといふ、なるといふ。「弘」はひろしといふ、ひろまるといふ。「誓」はちかひといふなり。法藏比丘、超世无上のちかひをおこして、ひろくひろめたまふとまふすなり。超世は、よの佛の御ちかひにすぐれたまへりとなり。超はこえたりといふは、うえなしとまふすなり。如來の弘誓をおこしたまへるやうは、この『唯信鈔』にくわしくあらわれたり。「聞名念我」といふは、「聞」はきくといふ、信心をあらわす御のりなり。「名」は御なとまふすなり、Ⅱ-0694如來のちかひの名號なり。「念我」とまふすは、ちかひのみなを憶念せよとなり。諸佛稱名の悲願にあらわせり。憶念は、信心をえたるひとはうたがひなきゆへに本願をつねにおもひいづるこゝろのたえぬをいふなり。「總迎來」といふは、「總」はふさねてといふ、すべてみなといふこゝろなり。「迎」はむかふるといふ、まつといふ、他力をあらわすこゝろなり。「來」はかへるといふ、きたらしむといふ、法性のみやこへむかへゐてきたらしめかへらしむといふ。法性のみやこより、衆生利益のためにこの娑婆界にきたるゆへに、「來」をきたるといふなり。法性のさとりをひらくゆへに、「來」をかへるといふなり。「不簡貧窮將富貴」といふは、「不簡」はえらばず、きらはずといふ。「貧窮」はまづしく、たしなきものなり。「將」Ⅱ-0695はまさにといふ、もてといふ、ゐてゆくといふ。「富貴」はとめるひと、よきひとといふ。これらをまさにもてえらばず、きらはず、淨土へゐてゆくとなり。「不簡下智與高才」といふは、「下智」は智慧あさく、せばく、すくなきものとなり。「高才」は才學ひろきもの。これらをえらばず、きらはずとなり。「不簡多聞持淨戒」といふは、「多聞」は聖敎をひろくおほくきゝ、信ずるなり。「持」はたもつといふ。たもつといふは、ならいまなぶことをうしなわず、ちらさぬなり。「淨戒」は大小乘のもろもろの戒行、五戒、八戒、十善戒、小Ⅱ-0696乘の具足衆戒、三千の威儀、六萬の齋行、『梵網』の五十八戒、大乘一心金剛法戒、三聚淨戒、大乘の具足戒等、すべて道俗の戒品、これらをたもつを持といふ。かやうのさまざまの戒品をたもてるいみじきひとびとも、他力眞實の信心をえてのちに眞實報土には往生をとぐるなり。みづからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては實報土にはむまれずとなり。「不簡破戒罪根深」といふは、「破戒」はかみにあらわすところのよろづの道俗の戒品をうけてやぶりすてたるもの、これらをきらはずとなり。「罪根深」といふは、十惡・五逆の惡人、謗法・闡提の罪人、おほよそ善根すくなきもの、惡業おほきもの、善心あさきもの、惡心ふかきもの、かやうのあさましきさまざまのつみふかきひとを深といふ、ふかしといⅡ-0697ふことばなり。すべてよきひとあしきひと、たふときひといやしきひとを、无㝵光佛の御ちかひにはきらはずえらばれず、これをみちびきたまふをさきとしむねとするなり。眞實信心をうれば實報土にむまるとおしえたまへるを、淨土眞宗の正意とすとしるべしとなり。「總迎來」は、すべてみな淨土へむかへかへらしむといへるなり。「但使廻心多念佛」といふは、「但使廻心」はひとへに廻心せしめよといふことばなり。「廻心」といふは自力の心をひるがへし、すつるをいふなり。實報土にむまるゝひとはかならず金剛の信心のおこるを、Ⅱ-0698多念佛とまふすなり。「多」は大のこゝろなり、勝のこゝろなり、增上のこゝろなり。大はおほきなり。勝はすぐれたり、よろづの善にまされるとなり。增上はよろづのことにすぐれたるなり。これすなわち他力本願无上のゆへなり。自力のこゝろをすつといふは、やうやうさまざまの大小聖人・善惡凡夫の、みづからがみをよしとおもふこゝろをすて、みをたのまず、あしきこゝろをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、无㝵光佛の不可思議の本願、廣大智慧の名號を信樂すれば、煩惱を具足しながら无上大涅槃にいたるなり。具縛はよろづの煩惱にしばられたるわれらなり。煩はみをわづらはす、惱はこゝろをなやますといふ。屠はよろづのいきたるものをころし、ほふるものなり、これはれうしといふⅡ-0699ものなり。沽はよろづのものをうりかうものなり、これはあき人なり。これらを下類といふなり。「能令瓦礫變成金」といふは、「能」はよくといふ。「令」はせしむといふ。「瓦」はかわらといふ。「礫」はつぶてといふ。「變成金」は、「變成」はかへなすといふ。「金」はこがねといふ。かわら・つぶてをこがねにかえなさしめむがごとしとたとへたまへるなり。れうし・あき人、さまざまのものはみな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。如來の御ちかひをふたごゝろなく信樂すれば、攝取のひかりのなかにおさめとられまいらせて、Ⅱ-0700かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまふは、すなわちれうし・あき人などは、いし・かわら・つぶてなむどをよくこがねとなさしめむがごとしとたとへたまへるなり。攝取のひかりとまふすは、阿彌陀佛の御こゝろにおさめとりたまふゆへなり。文のこゝろはおもふほどはまふしあらはし候はねども、あらあらまふすなり。ふかきことはこれにておしはからせたまふべし。この文は、慈愍三藏とまふす聖人の御釋なり。震旦には惠日三藏とまふすなり。 「極樂无爲涅槃界  隨縁雜善恐難生 故使如來選要法  敎念彌陀專復專」(法事讚*卷下) 「極樂无爲涅槃界」といふは、「極樂」とまふすはかの安樂淨土なり、よろづのたのしみつねにして、くるしみまじわらざるなり。かのくにおば安養とⅡ-0701いへり。曇鸞和尙は、ほめたてまつりて安養とまふすとこそのたまへり。また『論』(淨土論)には、「蓮華藏世界」ともいへり、「无爲」ともいへり。「涅槃界」といふは无明のまどひをひるがへして、无上涅槃のさとりをひらくなり。「界」はさかいといふ、さとりをひらくさかいなり。大涅槃とまふすに、その名无量なり、くはしくまふすにあたはず、おろおろその名をあらはすべし。「涅槃」おば滅度といふ、无爲といふ、安樂といふ、常樂といふ、實相といふ、法身といふ、法性といふ、眞如といふ、一如といふ、佛性といふ。佛性すなわちⅡ-0702如來なり。この如來、微塵世界にみちみちたまへり、すなわち一切群生海の心なり。この心に誓願を信樂するがゆへに、この信心すなわち佛性なり、佛性すなわち法性なり、法性すなわち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こゝろもおよばれず、ことばもたへたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身とまふす御すがたをしめして、法藏比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらわれたまふ御かたちおば、世親菩薩は盡十方无㝵光如來となづけたてまつりたまへり。この如來を報身とまふす。誓願の業因にむくひたまへるゆへに報身如來とまふすなり。報とまふすは、たねにむくひたるなり。この報身より應・化等の无量无數の身をあらはして、微塵世界に无㝵の智Ⅱ-0703慧光をはなたしめたまふゆへに盡十方无㝵光佛とまふすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず、无明のやみをはらひ惡業にさえられず、このゆへに无㝵光とまふすなり。无㝵はさわりなしとまふす。しかれば、阿彌陀佛は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。「隨縁雜善恐難生」といふは、「隨縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこゝろにまかせて、もろもろの善を修するを極樂に廻向するなり、すなわち八萬四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆへに實報土にはむまれずと、きらわⅡ-0704るゝゆへに恐難生といへり。「恐」はおそるといふ、眞の報土に雜善・自力の善むまるといふことをおそるゝなり。「難生」はむまれがたしとなり。「故使如來選要法」といふは、釋迦如來、よろづの善のなかより名號をえらびとりて、五濁惡時・惡世界・惡衆生・邪見無信のものにあたえたまへるなりとしるべしとなり。これを選といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもはらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名號なり。「敎念彌陀專復專」といふは、「敎」はおしふといふ、のりといふ、釋尊の敎敕なり。「念」は心におもひさだめて、ともかくもはたらかぬこゝろなり。すなわち選擇本願の名號を一向專修なれとおしえたまふ御ことなり。「專復專」といふは、はじめの「專」は一行を修すべしとなり。「復」はまⅡ-0705たといふ、かさぬといふ。しかれば、また「專」といふは一心なれとなり、一行一心をもはらなれとなり。「專」は一といふことばなり。もはらといふはふたごゝろなかれとなり。ともかくもうつるこゝろなきを專といふなり。この一行一心なるひとを「攝取してすてたまはざれば阿彌陀となづけたてまつる」(禮讚意)と、光明寺の和尙はのたまへり。この一心は橫超の信心なり。橫はよこさまといふ、超はこえてといふ。よろづの法にすぐれて、すみやかにとく生死海をこえて佛果にいたるがゆへに超とまふすなり。これすなわち大悲誓Ⅱ-0706願力なるがゆへなり。この信心は攝取のゆへに金剛心となれり。これは『大經』の本願の三信心なり。この眞實信心を、世親菩薩は願作佛心とのたまへり。この信樂は佛にならむとねがふとまふすこゝろなり。この願作佛心はすなわち度衆生心なり。この度衆生心とまふすは、すなわち衆生をして生死の大海をわたすこゝろなり。この信樂は衆生をして无上涅槃にいたらしむる心なり。この心すなわち大菩提心なり、大慈大悲心なり。この信心すなわち佛性なり、すなわち如來なり。この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸佛とひとしきひととなづく。慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり。喜はこゝろのうちによろこぶこゝろたえずしてつねなるをいふ。うべきことをえてのちに、みにもこゝろにⅡ-0707もよろこぶこゝろなり。信心をえたるひとおば、「分陀利華」(觀經)とのたまへり。この信心をえがたきことを、『經』(稱讚淨*土經)には「極難信法」とのたまへり。しかれば、『大經』(卷下)には、「若聞斯經信樂受持、難中之難无過此難」とおしへたまへり。この文のこゝろは、もしこの經をきゝて信ずること、かたきがなかにかたし、これにすぎてかたきことなしとのたまへる御のりなり。釋迦牟尼如來は、五濁惡世にいでゝこの難信の法を行じて无上涅槃にいたるとときたまふ。さてこの智慧の名號を濁惡の衆生にあたえたまふとのたまへり。Ⅱ-0708十方諸佛の證誠、恆沙如來の護念、ひとへに眞實信心のひとのためなり。釋迦は慈父、彌陀は悲母なり。われらがちゝ・はゝ、種種の方便をして无上の信心をひらきおこしたまへるなりとしるべしとなり。おほよそ過去久遠に、三恆河沙の諸佛のよにいでたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恆沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことをえたり。他力の三信心をえたらむひとは、ゆめゆめ餘の善根をそしり、餘の佛聖をいやしうすることなかれとなり。 Ⅱ-0709「具三心者必生彼國」(觀經)といふは、三心を具すればかならずかのくににむまるとなり。しかれば善導は、「具此三心必得往生也、若少一心卽不得生」(禮讚)とのたまへり。「具此三心」といふは、みつの心を具すべしとなり。「必得往生」といふは、「必」はかならずといふ。「得」はうるといふ、うるといふは往生をうるとなり。「若少一心」といふは、「若」はもしといふ、ごとしといふ。「少」はかくるといふ、すくなしといふ。一心かけぬればむまれずといふなり。一心かくるといふは信心のかⅡ-0710くるなり、信心かくといふは本願眞實の三信のかくるなり。『觀經』の三心をえてのちに『大經』の三信心をうるを、一心をうるとはまふすなり。このゆへに『大經』の三信心をえざるおば、一心かくるとまふすなり。この一心かけぬれば、眞の報土にむまれずといふなり。『觀經』の三心は定散二機の心なり。定散二善を廻して、『大經』の三信をえむとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。眞實の三信心をえざれば、卽不得生といふなり。「卽」はすなわちといふ、「不得生」といふはむまるゝことをえずといふなり。三信かけぬるゆへにすなわち報土にむまれずとなり。雜行雜修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆへに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちにむまるべきゆへに、すなわちむまれずといふなり。もしⅡ-0711胎生邊地にむまれても五百歲をへ、あるいは億千萬衆の中に、ときにまれに一人、眞の報土にはすゝむとみえたり。三信をえむことをよくよくこゝろえねがふべきなり。 「不得外現賢善精進之相」(散善義)といふは、あらはに、かしこきすがた、善人のかたちをあらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆへは「内懷虛假」なればなり。「内」はうちといふ。こゝろのうちに煩惱を具せるゆへに虛なり、假なり。「虛」はむなしくして實ならぬなり。「假」はかりにして眞ならぬなり。このこゝⅡ-0712ろはかみにあらわせり。この信心はまことの淨土のたねとなり、みとなるべしと。いつわらず、へつらわず、實報土のたねとなる信心なり。しかれば、われらは善人にもあらず、賢人にもあらず。賢人といふは、かしこくよきひとなり。精進なるこゝろもなし、懈怠のこゝろのみにして、うちはむなしく、いつわり、かざり、へつらうこゝろのみつねにして、まことなるこゝろなきみなりとしるべしとなり。「斟酌すべし」(唯信鈔)といふは、ことのありさまにしたがふて、はからふべしといふことばなり。 Ⅱ-0713「不簡破戒罪根深」(五會法*事讚)といふは、もろもろの戒をやぶり、つみふかきひとをきらはずとなり。このやうは、はじめにあらわせり。よくよくみるべし。 「乃至十念若不生者不取正覺」(大經*卷上)といふは、選擇本願の文なり。この文のこゝろは、乃至十念のみなをとなえむもの、もしわがくににむまれずⅡ-0714は、佛にならじとちかひたまへる本願なり。「乃至」は、かみしもとおほきすくなき、ちかきとおきひさしきおも、みなおさむることばなり。多念にとゞまるこゝろをやめ、一念にとゞまるこゝろをとゞめむがために、法藏菩薩の願じまします御ちかひなり。 「非權非實」(唯信鈔)といふは、法華宗のおしえなり。淨土眞宗のこゝろにあらず、聖道家のこゝろなり。かの宗のひとにたづぬべし。 「汝若不能念」(觀經)といふは、五逆・十惡の罪人、不淨說法のもの、やまうのくるしみにとぢられて、こゝろに彌陀を念じたてまつらずは、たゞくちに南无阿彌陀佛ととなえよとすゝめたまへる御Ⅱ-0715のりなり。これは稱名を本願とちかひたまへることをあらわさむとなり。「應稱无量壽佛」(觀經)とのべたまへるは、このこゝろなり。「應稱」はとなふべしとなり。「具足十念、稱南无無量壽佛、稱佛名故、於念念中除八十億劫生死之罪」(觀經意)といふは、五逆の罪人はそのみにつみをもてること、と八十億劫のつみをもてるゆへに、十念南无阿彌陀佛ととなふべしとすゝめたまへる御のりなり。一念にと八十億劫のつみをけすまじきにはあらねども、五逆のつみのおもきほどをしらせむがためなり。「十念」といふは、たゞくちに十返Ⅱ-0716をとなふべしとなり。しかれば、選擇本願には、「若我成佛、十方衆生、稱我名號下至十聲、若不生者不取正覺」(禮讚)とまふすは、彌陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせむとおぼして十聲とのたまへるなり。念と聲とはひとつこゝろなりとしるべしとなり。念をはなれたる聲なし、聲をはなれたる念なしとなり。 この文どものこゝろは、おもふほどはまふさず、よからむひとにたづぬべし。ふかきことは、これにてもおしはかりたまふべし。 南无阿彌陀佛 ゐなかのひとびとの、文字のこゝろもしらず、あさましき愚癡きわまりなきゆへに、やすくこゝろえさせむとて、おなじことを、たびたびとりかへしとりかへしかきつけたり。こゝろあらむひとは、Ⅱ-0717おかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、おほかたのそしりをかへりみず、ひとすぢにおろかなるものを、こゝろえやすからむとてしるせるなり。 康元二歲正月廿七日 愚禿親鸞W八十五歲R書寫之