Ⅱ-0661一念多念文意 一念をひがごととおもふまじき事。 「恆願一切臨終時、勝縁勝境悉現前」(禮讚)といふは、「恆」はつねにといふ、「願」はねがふといふなり。いまつねにといふは、たえぬこゝろなり、おりにしたがふて、ときどきもねがへといふなり。いまつねにといふは、常の義にはあらず。常といふは、つねなること、ひまなかれといふこゝろなり。ときとしてたえず、ところとしてへだてずきらはぬを常といふなり。「一切臨終時」といふは、極樂をねがふよろづの衆生、いのちおはらむときまでといふことばなり。「勝縁勝境」といふは、佛おもみたてまつり、ひかりおもみ、異香おもかぎ、善知識のすゝめにもあはむとおもへとなり。「悉現前」といふは、さまざまのめでたきことども、めのまへにあらわれたまへとねがへとなり。 『无量壽經』(卷下)の中に、あるいは「諸有衆生、聞其名號、信心歡喜、乃至一念、Ⅱ-0662至心廻向、願生彼國、卽得往生、住不退轉」とときたまへり。「諸有衆生」といふは、十方のよろづの衆生とまふすこゝろなり。「聞其名號」といふは、本願の名號をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をきゝてうたがふこゝろなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらわす御のりなり。「信心歡喜乃至一念」といふは、「信心」は如來の御ちかひをきゝてうたがふこゝろのなきなり。「歡喜」といふは、「歡」はみをよろこばしむるなり、「喜」はこゝろによろこばしむるなり。うべきことをえてむずとかねてさきよりよろこぶこゝろなり。「乃至」は、おほきおもすくなきおも、ひさしきおもちかきおも、さきおものちおも、みなかねおさむることばなり。「一念」といふは信心をうるときのきわまりをあらわすことばなり。「至心廻向」といふは、「至心」は眞實といふことばなり、眞實は阿彌陀如來の御こゝろなり。「廻向」は本願の名號をもて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。「願生彼國」といふは、「願生」はよろづの衆生、本願の報土へむまれむとねがへとなり。「彼國」はかのくにといふ、安樂國をおしへたまへるなり。「卽得往生」といふは、「卽」はすなわちといふ、ときをへず、日おもへだてぬなり。また「卽」はつくといふ、そのくらゐにさだまりつくといふことばなり。Ⅱ-0663「得」はうべきことをえたりといふ。眞實信心をうれば、すなわち无㝵光佛の御こゝろのうちに攝取してすてたまはざるなり。攝はおさめたまふ、取はむかへとるとまふすなり。おさめとりたまふとき、すなわち、とき・日おもへだてず、正定聚のくらゐにつきさだまるを往生をうとはのたまへるなり。 しかれば、必至滅度の誓願を『大經』(卷上)にときたまはく、「設我得佛、國中人天、不住定聚、必至滅度者、不取正覺」と願じたまへり。また『經』(如來會*卷上)にのたまはく、「若我成佛、國中有情、若不決定成等正覺證大涅槃者、不取菩提」とちかひたまへり。この願成就を、釋迦如來ときたまはく、「其有衆生、生彼國者、皆悉住於正定之聚、所以者何、彼佛國中、无諸邪聚、及不定聚」(大經*卷下)とのたまへり。これらの文のこゝろは、たとひわれ佛をえたらむに、くにのうちの人天、定聚にも住して、かならず滅度にいたらずは、佛にならじとちかひたまへるこゝろなり。またのたまはく、もしわれ佛にならむに、くにのうちの有情、もし決定して等正覺をなりて大涅槃を證せずは、佛にならじとちかひたまへるなり。かくのごとく法藏菩薩ちかひたまへるを、釋迦如來、五濁のわれらがためⅡ-0664にときたまへる文のこゝろは、それ衆生あて、かのくににむまれむとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆへはいかんとなれば、かの佛國のうちにはもろもろの邪聚および不定聚はなければなりとのたまへり。この二尊の御のりをみたてまつるに、すなわち往生すとのたまへるは、正定聚のくらゐにさだまるを不退轉に住すとはのたまへるなり。このくらゐにさだまりぬれば、かならず无上大涅槃にいたるべき身となるがゆへに、等正覺をなるともとき、阿毗拔致にいたるとも、阿惟越致にいたるともときたまふ。「卽時入必定」(十住論卷*五易行品)ともまふすなり。この眞實信樂は他力橫超の金剛心なり。しかれば、念佛のひとおば『大經』(卷下)には「次如彌勒」とときたまへり。彌勒は、竪の金剛心の菩薩なり。竪とまふすはたゝさまとまふすことばなり。これは聖道自力の難行道の人なり。橫はよこさまにといふなり、超はこえてといふなり。これは、佛の大願業力のふねに乘じぬれば、生死の大海をよこさまにこえて、眞實報土のきしにつくなり。「次如彌勒」とまふすは、「次」はちかしといふ、つぎにといふ。ちかしといふは、彌勒は大涅槃にいたりたまふべきひとなり。このゆへに彌勒のごとしとのたまへり。念佛信心の人も大涅槃にちかづくとなり。つぎにといふは、釋迦佛のつぎに、Ⅱ-0665五十六億七千萬歲をへて妙覺のくらゐにいたりたまふべしとなり。「如」はごとしといふ。ごとしといふは、他力信樂のひとは、このよのうちにて不退のくらゐにのぼりて、かならず大般涅槃のさとりをひらかむこと、彌勒のごとしとなり。 『淨土論』(論註*卷下)曰、「經言、若人但聞彼國土淸淨安樂、剋念願生、亦得往生、卽入正定聚、此是國土名字爲佛事、安可思議」とのたまへり。この文のこゝろは、もしひと、ひとへにかのくにの淸淨安樂なるをきゝて、剋念してむまれむとねがふひとと、またすでに往生をえたるひとも、すなわち正定聚にいるなり。これはこれ、かのくにの名字をきくに、さだめて佛事をなす。いづくんぞ思議すべきやとのたまへるなり。安樂淨土の不可稱不可說不可思議の德を、もとめず、しらざるに、信ずる人にえしむとしるべしとなり。 また王日休のいはく、「念佛衆生便同彌勒」(龍舒淨土文*卷一〇意)といへり。「念佛衆生」は、金剛の信心をえたる人なり。「便」はすなわちといふ、たよりといふ。信心の方便によりて、すなわち正定聚のくらゐに住せしめたまふがゆへにとなり。「同」はおなじきなりといふ。念佛の人は无上涅槃にいたること、彌勒におなじきひととまふすなり。 Ⅱ-0666また『經』(觀經)にのたまはく、「若念佛者、當知此人是人中分陀利華」とのたまへり。「若念佛者」とまふすは、もし念佛せむひとゝまふすなり。「當知此人是人中分陀利華」といふは、まさにこのひとはこれ、人中の分陀利華なりとしるべしとなり。これは如來のみことに、分陀利華を念佛のひとにたとへたまへるなり。このはなは、人中の上上華なり、好華なり、妙好華なり、希有華なり、最勝華なりとほめたまへり。光明寺の和尙の御釋には、念佛の人おば、上上人・好人・妙好人・希有人・最勝人とほめたまへり。 また現生護念の利益をおしへたまふには、「但有專念阿彌陀佛衆生、彼佛心光、常照是人、攝護不捨、總不論照攝、餘雜業行者、此亦是現生護念增上縁」(觀念*法門)とのたまへり。この文のこゝろは、「但有專念阿彌陀佛衆生」といふは、ひとすぢに彌陀佛を信じたてまつるとまふす御ことなり。「彼佛心光」とまふすは、「彼」はかれとまふす。「佛心光」とまふすは、无㝵光佛の御こゝろとまふすなり。「常照是人」といふは、「常」はつねなること、ひまなくたえずといふなり。「照」はてらすといふ。ときをきらはず、ところをへだてず、ひまなく眞實信心のひとおばつねにてらしまもりたまふなり。かの佛心につねにひまなくまもりたまへば、彌Ⅱ-0667陀佛おば不斷光佛とまふすなり。「是人」といふは、「是」は非に對することばなり。眞實信樂のひとおば是人とまふす。虛假疑惑のものおば非人といふ。非人といふは、ひとにあらずときらひ、わるきものといふなり。是人はよきひととまふす。「攝護不捨」とまふすは、「攝」はおさめとるといふ。「護」はところをへだてず、ときをわかず、ひとをきらわず、信心ある人おばひまなくまもりたまふとなり。まもるといふは、異學・異見のともがらにやぶられず、別解・別行のものにさえられず、天魔波旬におかされず、惡鬼・惡神なやますことなしとなり。「不捨」といふは、信心のひとを、智慧光佛の御こゝろにおさめまもりて、心光のうちに、ときとしてすてたまはずとしらしめむとまふす御のりなり。「總不論照攝、餘雜業行者」といふは、「總」はみなといふなり。「不論」はいはずといふこゝろなり。「照攝」はてらしおさむと。「餘の雜業」といふは、もろもろの善業なり。雜行を修し、雜修をこのむものおば、すべてみなてらしおさむといはずと、まもらずとのたまへるなり。これすなわち本願の行者にあらざるゆへに、攝取の利益にあづからざるなりとしるべしとなり。このよにてまもらずとなり。「此亦是現生護念」といふは、このよにてまもらせたまふとなり。本願業力は、信心のひとのⅡ-0668強縁なるがゆへに、增上縁とまふすなり。信心をうるをよろこぶ人おば、『經』(晉譯華嚴經卷*六〇入法界品意)には「諸佛とひとしきひと」とときたまへり。 首楞嚴院の源信和尙のたまはく、「我亦在彼攝取之中、煩惱障眼雖不能見、大悲无惓常照我身」(要集*卷中)と。この文のこゝろは、われまたかの攝取のなかにあれども、煩惱まなこをさえて、みたてまつるにあたはずといゑども、大悲ものうきことなくして、つねにわがみをてらしたまふとのたまへるなり。 「其有得聞彼佛名號」(大經*卷下)といふは、本願の名號を信ずべしと、釋尊ときたまへる御のりなり。「歡喜踊躍、乃至一念」といふは、「歡喜」はうべきことをえてむずと、さきだちてかねてよろこぶこゝろなり。「踊」は天におどるといふ、「躍」は地におどるといふ。よろこぶこゝろのきわまりなきかたちなり。慶樂するありさまをあらわすなり。慶はうべきことをえてのちによろこぶこゝろなり、樂はたのしむこゝろなり。これは正定聚のくらゐをうるかたちをあらわすなり。「乃至」は、稱名の徧數のさだまりなきことをあらわす。「一念」は功德のきわまり、一念に萬德ことごとくそなわる、よろづの善みなおさまるなり。「當知此人」といふは、信心のひとをあらわす御のりなり。「爲得大利」といふは、无上涅槃をさⅡ-0669とるゆへに、「則是具足无上功德」とものたまへるなり。「則」といふは、すなわちといふ、のりとまふすことばなり。如來の本願を信じて一念するに、かならずもとめざるに无上の功德をえしめ、しらざるに廣大の利益をうるなり。自然にさまざまのさとりをすなわちひらく法則なり。法則といふは、はじめて行者のはからひにあらず、もとより不可思議の利益にあづかること、自然のありさまとまふすことをしらしむるを、法則とはいふなり。一念信心をうるひとのありさまの自然なることをあらわすを、法則とはまふすなり。 『經』(大經*卷下)に「無諸邪聚及不定聚」といふは、「无」はなしといふ。「諸」はよろづのことゝいふことばなり。「邪聚」といふは、雜行雜修萬善諸行のひと、報土にはなければなりといふなり。「及」はおよぶといふ。「不定聚」は、自力の念佛、疑惑の念佛の人は、報土になしといふなり。正定聚の人のみ眞實報土にむまるればなり。 この文どもは、これ一念の證文なり。おもふほどはあらはしまふさず。これにておしはからせたまふべきなり。 多念をひがごととおもふまじき事。 Ⅱ-0670本願の文に、「乃至十念」(大經*卷上)とちかひたまへり。すでに十念とちかひたまへるにてしるべし、一念にかぎらずといふことを。いはむや乃至とちかひたまへり。稱名の徧數さだまらずといふことを。この誓願は、すなわち易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまふなり。 『阿彌陀經』(意)に、「一日乃至七日、名號をとなふべし」と、釋迦如來ときおきたまへる御のりなり。この『經』は無問自說經とまふす。この『經』をときたまひしに、如來にとひたてまつる人もなし。これすなわち釋尊出世の本懷をあらわさむとおぼしめすゆへに、无問自說とまふすなり。彌陀選擇の本願、十方諸佛の證誠、諸佛出世の素懷、恆沙如來の護念は、諸佛咨嗟の御ちかひをあらはさむとなり。 諸佛稱名の誓願、『大經』(卷上)にのたまはく、「設我得佛、十方世界无量諸佛、不悉咨嗟稱我名者、不取正覺」と願じたまへり。この悲願のこゝろは、たとひわれ佛をえたらむに、十方世界无量の諸佛、ことごとく咨嗟して、わが名を稱せずは、佛にならじとちかひたまへるなり。「咨嗟」とまふすは、よろづの佛にほめられたてまつるとまふす御ことなり。 Ⅱ-0671「一心專念」(散善義)といふは、「一心」は金剛の信心なり。「專念」は一向專修なり。一向は、餘の善にうつらず、餘の佛を念ぜず。專修は、本願のみなをふたごゝろなくもはら修するなり。修は、こゝろのさだまらぬをつくろいなほし、おこなふなり。專はもはらといふ、一といふなり。もはらといふは、餘善・他佛にうつるこゝろなきをいふなり。「行住座臥、不問時節久近」といふは、「行」はあるくなり、「住」はたゝるなり、「座」はゐるなり、「臥」はふすなり。「不問」はとはずといふなり。「時」はときなり、十二時なり。「節」はときなり、十二月、四季なり。「久」はひさしき、「近」はちかしとなり。ときをえらばざれば不淨のときをへだてず、よろづのことをきらはざれば不問といふなり。「是名正定之業、順彼佛願故」といふは、弘誓を信ずるを、報土の業因とさだまるを、正定の業となづくといふ、佛の願にしたがふがゆへにとまふす文なり。 一念多念のあらそひをなすひとおば、異學・別解のひととまふすなり。異學といふは、聖道・外道におもむきて、餘行を修し、餘佛を念ず、吉日良辰をえらび、占相祭祀をこのむものなり。これは外道なり、これらはひとへに自力をたのむものなり。別解は、念佛をしながら他力をたのまぬなり。別といふは、ひとつなⅡ-0672ることをふたつにわかちなすことばなり。解はさとるといふ、とくといふことばなり。念佛をしながら自力にさとりなすなり。かるがゆへに別解といふなり。また助業をこのむもの、これすなわち自力をはげむひとなり。自力といふは、わがみをたのみ、わがこゝろをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。 「上盡一形」(法事讚*卷下)といふは、「上」はかみといふ、すゝむといふ、のぼるといふ、いのちおはらむまでといふ。「盡」はつくるまでといふ。「形」はかたちといふ、あらわすといふ。念佛せむこといのちおはらむまでとなり。「十念・三念・五念のものもむかへたまふ」といふは、念佛の徧數によらざることをあらはすなり。「直爲彌陀弘誓重」といふは、「直」はたゞしきなり、如來の直說といふなり。諸佛のよにいでたまふ本意とまふすを直說といふなり。「爲」はなすといふ、もちゐるといふ、さだまるといふ、かれといふ、これといふ、あふといふ。あふといふは、かたちといふこゝろなり。「重」はかさなるといふ、おもしといふ、あつしといふ。誓願の名號、これをもちゐさだめなしたまふことかさなれりとおもふべきことをしらせむとなり。 Ⅱ-0673しかれば、『大經』(卷上)には、「如來所以興出於世、欲拯群萌、惠以眞實之利」とのたまへり。この文のこゝろは、「如來」とまふすは諸佛をまふすなり。「所以」はゆへといふことばなり。「興出於世」といふは、佛のよにいでたまふとまふすなり。「欲」はおぼしめすとまふすなり。「拯」はすくふといふ。「群萌」はよろづの衆生といふ。「惠」はめぐむとまふす。「眞實之利」とまふすは彌陀の誓願をまふすなり。しかれば、諸佛のよよにいでたまふゆへは、彌陀の願力をときて、よろづの衆生をめぐみすくはむとおぼしめすを、本懷とせむとしたまふがゆへに、眞實之利とはまふすなり。しかれば、これを諸佛出世の直說とまふすなり。おほよそ八萬四千の法門は、みなこれ淨土の方便の善なり。これを要門といふ、これを假門となづけたり。この要門・假門といふは、すなわち『无量壽佛觀經』一部にときたまへる定善・散善、これなり。定善は十三觀なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな淨土方便の要門なり、これを假門ともいふ。この要門・假門より、もろもろの衆生をすゝめこしらえて、本願一乘圓融无㝵眞實功德大寶海におしへすゝめいれたまふがゆへに、よろづの自力の善業おば方便の門とまふすなり。いま一乘とまふすは、本願なり。圓融とまふすは、よろづの功德善根Ⅱ-0674みちみちて、かくることなし、自在なるこゝろなり。无㝵とまふすは、煩惱惡業にさえられず、やぶられぬをいふなり。眞實功德とまふすは名號なり。一實眞如の妙理、圓滿せるがゆへに、大寶海にたとえたまふなり。一實眞如とまふすは无上大涅槃なり。涅槃すなわち法性なり、法性すなわち如來なり。寶海とまふすは、よろづの衆生をきらはず、さわりなく、へだてず、みちびきたまふを、大海のみづのへだてなきにたとへたまへるなり。この一如寶海よりかたちをあらわして、法藏菩薩となのりたまひて、无㝵のちかひをおこしたまふをたねとして、阿彌陀佛となりたまふがゆへに、報身如來とまふすなり。これを盡十方无㝵光佛となづけたてまつれるなり。この如來を、南无不可思議光佛ともまふすなり。この如來を、方便法身とはまふすなり。方便とまふすは、かたちをあらわし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふをまふすなり。すなわち阿彌陀佛なり。この如來は光明なり、光明は智慧なり、智慧はひかりのかたちなり。智慧またかたちなければ不可思議光佛とまふすなり。この如來、十方微塵世界にみちみちたまへるがゆへに、无邊光佛とまふす。しかれば、世親菩薩は盡十方无㝵光如來となづけたてまつりたまへり。 『淨土論』曰、「觀佛本願力、遇无空過者、能令速滿足、功德大寶海」とのたまへり。この文のこゝろは、佛の本願力を觀ずるに、まうあふてむなしくすぐるひとなし。よくすみやかに功德の大寶海を滿足せしむとのたまへり。「觀」は願力をこゝろにうかべみるとまふす、またしるといふこゝろなり。「遇」はまうあふといふ。まうあふとまふすは、本願力を信ずるなり。「无」はなしといふ。「空」はむなしくといふ。「過」はすぐるといふ。「者」はひとといふ。むなしくすぐるひとなしといふは、信心あらむひと、むなしく生死にとどまることなしとなり。「能」はよくといふ。「令」はせしむといふ、よしといふ。「速」はすみやかにといふ、ときことゝいふなり。「滿」はみつといふ。「足」はたりぬといふ。「功德」とまふすは名號なり。「大寶海」はよろづの善根功德みちきわまるを海にたとへたまふ。この功德をよく信ずるひとのこゝろのうちに、すみやかにとくみちたりぬとしらしめむとなり。しかれば、金剛心のひとは、しらず、もとめざるに、功德の大寶そのみにみちみつがゆへに、大寶海とたとえたるなり。 「致使凡夫念卽生」(法事讚*卷下)といふは、「致」はむねとすといふ。むねとすといふは、これを本とすといふことばなり。いたるといふ。いたるといふは、實報土にいたⅡ-0676るとなり。「使」はせしむといふ。「凡夫」はすなわちわれらなり。本願力を信樂するをむねとすべしとなり。「念」は如來の御ちかひをふたごゝろなく信ずるをいふなり。「卽」はすなわちといふ、ときをへず、日をへだてず、正定聚のくらゐにさだまるを卽生といふなり。「生」はむまるといふ。これを念卽生とまふすなり。また「卽」はつくといふ。つくといふは、くらゐにかならずのぼるべきみといふなり。世俗のならひにも、くにの王のくらゐにのぼるおば卽位といふ。位といふはくらゐといふ。これを東宮のくらゐにゐるひとはかならず王のくらゐにつくがごとく、正定聚のくらゐにつくは東宮のくらゐのごとし。王にのぼるは卽位といふ。これはすなわち无上大涅槃にいたるをまふすなり。信心のひとは正定聚にいたりて、かならず滅度にいたるとちかひたまへるなり。これを致とすといふ。むねとすとまふすは、涅槃のさとりをひらくをむねとすとなり。「凡夫」といふは、无明煩惱われらがみにみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこゝろおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とゞまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。かゝるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづゝあゆみゆけば、无㝵光佛のひかりの御こゝⅡ-0677ろにおさめとりたまふがゆへに、かならず安樂淨土へいたれば、彌陀如來とおなじく、かの正覺のはなに化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。これを致使凡夫念卽生とまふすなり。二河のたとえに、「一分二分ゆく」(散善義)といふは、一年二年すぎゆくにたとえたるなり。諸佛出世の直說、如來成道の素懷は、凡夫は彌陀の本願を念ぜしめて卽生するをむねとすべしとなり。 「今信知彌陀本弘誓願、及稱名號」(禮讚)といふは、如來のちかひを信知すとまふすこゝろなり。「信」といふは金剛心なり。「知」といふはしるといふ、煩惱惡業の衆生をみちびきたまふとしるなり。また「知」といふは觀なり。こゝろにうかべおもふを觀といふ、こゝろにうかべしるを知といふなり。「及稱名號」といふは、「及」はおよぶといふはかねたるこゝろなり。「稱」は御なをとなふるとなり。また「稱」ははかりといふこゝろなり。はかりといふはものゝほどをさだむることなり。名號を稱すること、とこゑ・ひとこゑ、きくひと、うたがふこゝろ一念もなければ、實報土へむまるとまふすこゝろなり。また『阿彌陀經』(意)の「七日もしは一日、名號をとなふべし」となり。これは多念の證文なり。 Ⅱ-0678おもふやうにはまふしあらはさねども、これにて、一念多念のあらそひあるまじきことは、おしはからせたまふべし。淨土眞宗のならひには、念佛往生とまふすなり、またく一念往生・多念往生とまふすことなし。これにてしらせたまふべし。 南无阿彌陀佛 ゐなかのひとびとの、文字のこゝろもしらず、あさましき愚癡きわまりなきゆへに、やすくこゝろえさせむとて、おなじことを、とりかへしとりかへしかきつけたり。こゝろあらむひとは、おかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかへりみず、ひとすぢにおろかなるひとびとを、こゝろへやすからむとてしるせるなり。 康元二歲丁巳二月十七日 愚禿親鸞W八十五歲R書之