Ⅱ-0603尊號眞像銘文[本] 『大无量壽經』(卷上)言、「設我得佛、十方衆生、至心信樂欲生我國、乃至十念、若不生者、不取正覺、唯除五逆誹謗正法。」[文] 「大无量壽經言」といふは、如來の四十八願をときたまへる經也。「設我得佛」といふは、もしわれ佛をえたらむときといふ御ことばなり。「十方衆生」といふは、十方のよろづの衆生といふ也。「至心信樂」といふは、「至心」は眞實とまふすなり、眞實とまふすは如來の御ちかひの眞實なるを至心Ⅱ-0604とまふすなり。煩惱具足の衆生は、もとより眞實の心なし、淸淨の心なし、濁惡邪見のゆへなり。「信樂」といふは、如來の本願眞實にましますを、ふたごゝろなくふかく信じてうたがはざれば、信樂とまふす也。この「至心信樂」は、すなわち十方の衆生をしてわが眞實なる誓願を信樂すべしとすゝめたまへる御ちかひの至心信樂也、凡夫自力のこゝろにはあらず。「欲生我國」といふは、他力の至心信樂のこゝろをもて、安樂淨土にむまれむとおもへと也。「乃至十念」とまふすは、如來のちかひの名號をとなえむことをすゝめたまふに、徧數のさだまりなきほどをあらはし、時節をさだめざることを衆生にしらせむとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかひたまへるなり。如來より御ちかひをたまはりぬⅡ-0605るには、尋常の時節をとりて臨終の稱念をまつべからず、たゞ如來の至心信樂をふかくたのむべしと也。この眞實信心をえむとき、攝取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらゐにさだまるとみえたり。「若不生者不取正覺」といふは、「若不生者」はもしむまれずはといふみこと也。「不取正覺」は佛にならじとちかひたまへるみのり也。このこゝろは、すなわち至心信樂をえたるひと、わが淨土にもしむまれずは、佛にならじとちかひたまへる御のり也。この本願のやうは、『唯信抄』によくよくみえたり。「唯信」とまふすは、すなわちこの眞實信樂をひとすぢにとるこゝろをまふすⅡ-0606也。「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはたゞのぞくといふことば也。五逆のつみびとをきらい誹謗のおもきとがをしらせむと也。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせむとなり。 又(大經*卷下)言、「其佛本願力 聞名欲往生 皆悉到彼國 自致不退轉」と。 「其佛本願力」といふは、彌陀の本願力とまふす也。「聞名欲往生」といふは、「聞」といふは如來のちかひの御なを信ずとまふす也。「欲往生」といふは、安樂淨刹にむまれむとおもへとなり。「皆悉到彼國」といふは、御ちかひのみなを信じてむまれむとおもふ人は、みなもれずかの淨土にいたるとまふす御こと也。「自致不退轉」といふは、Ⅱ-0607「自」はおのづからといふ、おのづからといふは衆生のはからいにあらず、しからしめて不退のくらゐにいたらしむとなり、自然といふことば也。「致」といふは、いたるといふ、むねとすといふ、如來の本願のみなを信ずる人は、自然に不退のくらゐにいたらしむるをむねとすべしとおもへと也。「不退」といふは、佛にかならずなるべきみとさだまるくらゐ也。これすなわち正定聚のくらゐにいたるをむねとすべしとときたまへる御のりなり。 又(大經*卷下)言、「必得超絶去往生安養國、橫截五惡趣惡趣自然閉、昇道无窮極、易往而无人、其國Ⅱ-0608不逆違自然之所牽。」[抄出] 「必得超絶去往生安養國」といふは、「必」はかならずといふ、かならずといふはさだまりぬといふこゝろ也、また自然といふこゝろ也。「得」はえたりといふ。「超」はこえてといふ。「絶」はたちすてはなるといふ。「去」はすつといふ、ゆくといふ、さるといふ也。娑婆世界をたちすてゝ、流轉生死をこえはなれてゆきさるといふ也。安養淨土に往生をうべしと也。「安養」といふは、彌陀をほめたてまつるみこととみえたり、すなわち安樂淨土也。「橫截五惡趣惡趣自然閉」といふは、「橫」はよこさまといふ、よこさまといふは如來の願力を信ずるゆへに行者のはからいにあらず、五惡趣を自然にたちすて四生をはなるゝを橫といふ、他力とまふす也。これを橫超といふ也。橫は竪にⅡ-0609對することば也、超は迂に對することば也。竪はたゝさま、迂はめぐるとなり。竪と迂とは自力聖道のこゝろ也、橫超はすなわち他力眞宗の本意也。「截」といふはきるといふ、五惡趣のきづなをよこさまにきる也。「惡趣自然閉」といふは、願力に歸命すれば五道生死をとづるゆへに自然閉といふ。「閉」はとづといふ也。本願の業因にひかれて自然にむまるゝ也。「昇道无窮極」といふは、「昇」はのぼるといふ、のぼるといふは无上涅槃にいたる、これを昇といふ也。「道」は大涅槃道也。「无窮極」といふはきわまりなしと也。「易往而无人」といふは、「易往」はゆきやすしと也、Ⅱ-0610本願力に乘ずれば本願の實報土にむまるゝことうたがひなければ、ゆきやすき也。「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは眞實信心の人はありがたきゆへに實報土にむまるゝ人まれなりとなり。しかれば、源信和尙は、「報土にむまるゝ人はおほからず、化土にむまるゝ人はすくなからず」(要集*卷下意)とのたまへり。「其國不逆違自然之所牽」といふは、「其國」はそのくにといふ、すなわち安養淨刹なり。「不逆違」はさかさまならずといふ、たがはずといふ也。「逆」はさかさまといふ、「違」はたがふといふ也。眞實信をえたる人は、大願業力のゆへに、自然に淨土の業因たがはずして、かの業力にひかるるゆへにゆきやすく、无上大涅槃にのぼるにきわまりなしとのたまへる也。しかれば、「自然之所牽」とまふすなり。Ⅱ-0611他力の至心信樂の業因の自然にひくなり、これを「牽」といふ也。「自然」といふは、行者のはからいにあらずとなり。 大勢至菩薩御銘文 『首楞嚴經』(卷五)言、「勢至獲念佛圓通、大勢至法王子、與其同倫五十二菩薩、卽從座起、頂禮佛足而白佛言、我憶往昔恆河沙劫、有佛出世名无量光、十二如來相繼一劫、其最後佛名超日月光、彼佛敎我念佛三昧W乃至R若衆生心憶佛念佛、現前當來必定見佛、去佛不遠不假方便自得心開、如染香人身有香氣、此則名曰香光莊嚴、我本因地、以念佛心入无生忍、今於Ⅱ-0612此界、攝念佛人歸於淨土。」W已上略出R 「勢至獲念佛圓通」といふは、勢至菩薩、念佛をえたまふとまふすことなり。「獲」といふはうるといふことばなり。うるといふはすなわち因位のときさとりをうるといふ。念佛を勢至菩薩さとりうるとまふすなり。「大勢至法王子與其同倫」といふは、五十二菩薩と勢至とおなじきともとまふす。法王子とその菩薩とおなじきともとまふすを「與其同倫」といふなり。「卽從座起頂禮佛足而白佛言」とまふすは、すなわち座よりたち、佛の御あしを禮して佛にまふしてまふさくとなり。「我憶往昔」といふは、われむかし恆河沙劫のかずのとしをおもふといふこゝろ也。「有佛出世名无量光」とまふすは、佛、世にいでさせたまひしとまふす御ことばなり。世にいでさせたまひし佛は阿Ⅱ-0613彌陀如來なりとまふす也。十二光佛、十二度世にいでさせたまふを「十二如來相繼一劫」とまふすなり。「十二如來」とまふすは、すなわち阿彌陀如來の十二光の御名なり。「相繼一劫」といふは、十二光佛の十二度世にいでさせたまふをあひつぐといふ也。「其最後佛名超日月光」とまふすは、十二光佛の世にいでさせたまひしおはりの佛を「超日月光佛」とまふすと也。「彼佛敎我念佛三昧」とまふすは、かの最後の超日月光佛の念佛三昧を、勢至にはおしえたまふとなり。「若衆生心憶佛念佛」といふは、もし衆生、心に佛を憶し佛を念ずれば。「現前當來必定見佛去佛不遠不假方Ⅱ-0614便自得心開」といふは、今生にも佛をみたてまつり、當來にもかならず佛をみたてまつるべしとなり。佛もとおざからず、方便おもからず、自然に心にさとりをうべしと也。「如染香人身有香氣」といふは、かうばしき氣、みにある人のごとく、念佛のこゝろもてる人に、勢至のこゝろをかうばしき人にたとえまふす也。このゆへに「此則名曰香光莊嚴」とまふすなり。勢至菩薩の御こゝろのうちに念佛のこゝろをもてるを、染香人にたとえまふす也。かるがゆへに勢至菩薩のたまはく、「我本因地以念佛心入无生忍今於此界攝念佛人歸於淨土」といへり。「我本因地」といふは、われもと因地にしてといへり。「以念佛心」といふは、念佛の心をもてといふ。「入无生忍」といふは、无生忍にいるとなり。「今於此界」といふは、Ⅱ-0615いまこの娑婆界にしてといふ也。「攝念佛人」といふは、念佛の人を攝取してといふ。「歸於淨土」といふは、念佛の人おさめとりて淨土に歸せしむとのたまへるなりと。 龍樹菩薩御銘文 『十住毗婆沙論』(卷五*易行品)曰、「人能念是佛 无量力功德 卽時入必定 是故我常念 若人願作佛 心念阿彌陀 應時爲現身 是故我歸命」[文] 「人能念是佛无量力功德」といふは、ひとよくこの佛の无量の功德を念ずべしとなり。「卽時入必定」といふは、信ずればすなわちのとき必定にいるとなり。必定にいるといふは、まことに念ずⅡ-0616ればかならず正定聚のくらゐにさだまるとなり。「是故我常念」といふは、われつねに念ずるなり。「若人願作佛」といふは、もし人佛にならむと願ぜば、「心念阿彌陀」といふ、心に阿彌陀を念ずべしとなり。念ずれば「應時爲現身」とのたまへり。「應時」といふはときにかなふといふなり、「爲現身」とまふすは、信者のために如來のあらわれたまふなり。「是故我歸命」といふは、龍樹菩薩のつねに阿彌陀如來を歸命したてまつるとなり。 婆藪般豆菩薩『論』(淨土論)曰、「世尊我一心 歸命盡十方 无㝵光如來 願生安樂國 我依修多羅 眞實功德相 說願偈總持 與佛敎相應 觀彼世界相 勝過三界道 究竟如虛空 廣大无邊際」と。 又(淨土論)曰、「觀佛本願力 遇无空過者 能令Ⅱ-0617速滿足 功德大寶海」 「婆藪般豆菩薩論曰」といふは、「婆藪般豆」は天竺のことばなり、晨旦には天親菩薩とまふす。またいまはいはく、世親菩薩とまふす。舊譯には天親、新譯には世親菩薩とまふす。「論曰」は、世親菩薩、彌陀の本願を釋しあらはしたまへる御ことを「論」といふ也、「曰」はこゝろをあらはすことばなり。この論おば『淨土論』といふ、また『往生論』といふ也。「世尊我一心」といふは、「世尊」は釋迦如來なり。「我」とまふすは世親菩薩のわがみとのたまへる也。「一心」といふは、敎主世尊の御ことのりをふたごゝろなくうたがひなしとなり、すなⅡ-0618わちこれまことの信心也。「歸命盡十方无㝵光如來」とまふすは、「歸命」は南无なり、また歸命とまふすは如來の敕命にしたがふこゝろ也。「盡十方无㝵光如來」とまふすはすなわち阿彌陀如來なり、この如來は光明也。「盡十方」といふは、「盡」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界をつくしてことごとくみちたまへるなり。「无㝵」といふは、さわることなしと也。さわることなしとまふすは、衆生の煩惱惡業にさえられざる也。「光如來」とまふすは阿彌陀佛なり。この如來はすなわち不可思議光佛とまふす。この如來は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。「願生安樂國」といふは、世親菩薩、かの无㝵光佛を稱念し信じて安樂國にむまれむとねがひたまへるなり。「我依修Ⅱ-0619多羅眞實功德相」といふは、「我」は天親論主のわれとなのりたまへる御ことば也。「依」はよるといふ、修多羅によるとなり。「修多羅」は天竺のことば、佛の經典をまふす也。佛敎に大乘あり、また小乘あり。みな修多羅とまふす。いま修多羅とまふすは大乘なり、小乘にはあらず。いまの三部の經典は大乘修多羅也、この三部大乘によるとなり。「眞實功德相」といふは、「眞實功德」は誓願の尊號なり、「相」はかたちといふことば也。「說願偈總持」といふは、本願のこゝろをあらはすことばを「偈」といふなり。「總持」といふは智慧なり、无㝵光の智慧を總持とまふすなり。「與佛敎Ⅱ-0620相應」といふは、この『淨土論』のこゝろは、釋尊の敎敕、彌陀の誓願にあひかなへりとなり。「觀彼世界相勝過三界道」といふは、かの安樂世界をみそなわすに、ほとりきわなきこと虛空のごとし、ひろくおほきなること虛空のごとしとたとへたるなり。 「觀佛本願力遇无空過者」といふは、如來の本願力をみそなわすに、願力を信ずるひとは、むなしくこゝにとゞまらずと也。「能令速滿足功德大寶海」といふは、「能」はよしといふ、「令」はせしむといふ、「速」はすみやかにとしといふ。よく本願力を信樂する人は、すみやかにとく功德の大寶海を信ずる人のそのみに滿足せしむる也。如來の功德のきわなくひろくおほきにへだてなきことを、大海のみづのへだてなくみちみてるがごとⅡ-0621しとたとへたてまつるなり。 齊朝曇鸞和尙眞像銘文 「釋曇鸞法師者、幷州汶水縣人也。魏末高齊之初、猶在。神智高遠、三國知聞、洞曉衆經、獨出人外。梁國天子蕭王、恆向北、禮鸞菩薩。註解『往生論』裁成兩卷。事出釋迦才三卷『淨土論』也。」[文] 「釋の曇鸞法師は幷州の汶水縣の人也」。「幷州」はくにのなゝり、「汶水縣」はところのなゝり。「魏末高齊之初猶在」といふは、「魏末」といふは晨旦の世のなゝり。「末」はすゑといふ也、魏の世のすゑとなり。「高齊之初」は齊といふ世のはじめといⅡ-0622ふ也。「猶在」は魏と齊との世になほいましきといふ也。「神智高遠」といふは、和尙の智慧すぐれていましけりと也。「三國知聞」といふは、「三國」は魏と齊と梁と、このみつの世におはせしと也。「知聞」といふはみつの世にしられきこえたまひきと也。「洞曉衆經」といふは、あきらかによろづの經典をさとりたまふと也。「獨出人外」といふは、よろづの人にすぐれたりと也。「梁國の天子」といふは、梁の世の王といふ也、蕭王のなゝり。「恆向北禮」といふは、梁の王、つねに曇鸞の北のかたにましましけるを、菩薩と禮したてまつりたまひける也。「註解往生論」といふは、この『淨土論』をくわしふ釋したまふを、『註論』とまふす論をつくりたまへる也。「裁成兩卷」といふは、『註論』は二卷になしたまふ也。「釋迦Ⅱ-0623才の三卷の淨土論」といふは、「釋迦才」とまふすは、「釋」といふは釋尊の御弟子とあらはすことば也。「迦才」は、淨土宗の祖師也、智者にておはせし人也。かの聖人の三卷の『淨土論』をつくりたまへるに、この曇鸞の御ことばあらはせりとなり。 唐朝光明寺善導和尙眞像銘文 智榮讚善導別德云、「善導阿彌陀佛化身。稱佛六字、卽嘆佛、卽懺悔、卽發願廻向。一切善根莊嚴淨土。」[文] 「智榮」とまふすは、震旦の聖人也。善導の別德をほめたまふていはく、「善導は阿彌陀佛の化身Ⅱ-0624也」とのたまへり。「稱佛六字」といふは、南无阿彌陀佛の六字をとなふるとなり。「卽嘆佛」といふは、すなわち南无阿彌陀佛をとなふるは、佛をほめたてまつるになると也。また「卽懺悔」といふは、南无阿彌陀佛をとなふるは、すなわち无始よりこのかたの罪業を懺悔するになるとまふす也。「卽發願廻向」といふは、南无阿彌陀佛をとなふるは、すなわち安樂淨土に往生せむとおもふになる也、また一切衆生にこの功德をあたふるになると也。「一切善根莊嚴淨土」といふは、阿彌陀の三字に一切善根をおさめたまへるゆへに、名號をとなふるはすなわち淨土を莊嚴するになるとしるべしと也と。智榮禪師、善導をほめたまへるなり。 Ⅱ-0625善導和尙(玄義分)云、「言南无者、卽是歸命、亦是發願廻向之義。言阿彌陀佛者、卽是其行、以斯義故、必得往生。」[文] 「言南无者」といふは、すなわち歸命とまふすみことば也。歸命は、すなわち釋迦・彌陀の二尊の敕命にしたがひて、めしにかなふとまふすことばなり。このゆへに「卽是歸命」とのたまへり。「亦是發願廻向之義」といふは、二尊のめしにしたがふて、安樂淨土にむまれむとねがふこゝろなりとのたまへる也。「言阿彌陀佛者」とまふすは、「卽是其行」となり。卽是其行は、これすなわち法藏菩薩の選擇本願也としるべしとなり。安養Ⅱ-0626淨土の正定の業因なりとのたまへるこゝろ也。「以斯義故」といふは、正定の因なるこの義をもてのゆへにといえる御こゝろ也。「必」はかならずといふ。「得」はえしむといふ。「往生」といふは、淨土にむまるといふ也。かならずといふは、自然に往生をえしむと也。自然といふは、はじめてはからはざるこゝろなり。 又(觀念*法門)曰、「言攝生增上縁者、如无量壽經四十八願中說。佛言、若我成佛、十方衆生、願生我國、稱我名字下至十聲、乘我願力、若不生者不取正覺。此卽是願往生行人、命欲終時、願力攝得往生、故名攝生增上縁。」[文] 「言攝生增上縁者」といふは、「攝生」は十方衆生を誓願におさめとらせたまふとまふすこゝろ也。「如无量壽經四十八願中說」といふは、如來Ⅱ-0627の本願をときたまへる釋迦の御のりなりとしるべしとなり。「若我成佛」とまふすは、法藏菩薩ちかひたまはく、もしわれ佛をえたらむにとときたまふ。「十方衆生」といふは、十方のよろづの衆生也、すなわちわれらなり。「願生我國」といふは、安樂淨刹にむまれむとねがへと也。「稱我名字」といふは、われ佛をえむにわがなをとなえられむと也。「下至十聲」といふは、名字をとなえられむことしもとこゑせむものと也。「下至」といふは、十聲にあまれるものも聞名のものおも、往生にもらさずきらはぬことをあらはししめすと也。「乘我願力」といふは、「乘」はのるべしとⅡ-0628いふ、また智也。智といふは、願力にのせたまふとしるべしと也。願力に乘じて安樂淨刹にむまれむとしる也。「若不生者不取正覺」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の實報土にむまれずは、佛にならじとちかひたまへるみのり也。「此卽是願往生行人」といふは、これすなわち往生をねがふ人といふ。「命欲終時」といふは、いのちおはらむとせむときといふ。「願力攝得往生」といふは、大願業力攝取して往生をえしむといへるこゝろ也。すでに尋常のとき信樂をえたる人といふ也、臨終のときはじめて信樂決定して攝取にあづかるものにはあらず。ひごろ、かの心光に攝護せられまいらせたるゆへに、金剛心をえたる人は正定聚に住するゆへに、臨終のときにあらず。かねて尋常のときよりつねに攝Ⅱ-0629護してすてたまはざれば、攝得往生とまふす也。このゆへに「攝生增上縁」となづくる也。またまことに尋常のときより信なからむ人は、ひごろの稱念の功によりて、最後臨終のときはじめて善知識のすゝめにあふて信心をえむとき、願力攝して往生をうるものもあるべしと也。臨終の來迎をまつものは、いまだ信心をえぬものなれば、臨終をこゝろにかけてなげくなり。 又(觀念*法門)曰、「言護念增上縁者、W乃至R但有專念阿彌陀佛衆生、彼佛心光、常照是人、攝護不捨、總不論照攝餘雜業行者、此亦是現生護念增上縁。」[文] Ⅱ-0630「言護念增上縁者」といふは、まことの心をえたる人を、このよにてつねにまもりたまふとまふすことば也。「但有專念阿彌陀佛衆生」といふは、ひとすぢにふたごゝろなく彌陀佛を念じたてまつるとまふす也。「彼佛心光常照是人」といふは、「彼」はかのといふ。「佛心光」は无㝵光佛の御こゝろとまふす也。「常照」はつねにてらすとまふす。つねにといふは、ときをきらはず、日をへだてず、ところをわかず、まことの信心ある人おばつねにてらしたまふと也。てらすといふは、かの佛心のおさめとりたまふと也。「佛心光」は、すなわち阿彌陀佛の御こゝろにおさめたまふとしるべし。「是人」は信心をえたる人也。つねにまもりたまふとまふすは、天魔波旬にやぶられず、惡鬼・惡神にみだられず、攝護不捨したまふゆへ也。Ⅱ-0631「攝護不捨」といふは、おさめまもりてすてずと也。「總不論照攝餘雜業行者」といふは、「總」はすべてといふ、みなといふ。雜行雜修の人おばすべてみなてらしおさめまもりたまはずと也。てらしまもりたまはずとまふすは、攝取不捨の利益にあづからずと也。本願の行者にあらざるゆへ也としるべし。しかれば、攝護不捨と釋したまはず。「現生護念增上縁」といふは、このよにてまことの信ある人をまもりたまふとまふすみこと也。「增上縁」はすぐれたる強縁となり。 皇太子聖德御銘文 御縁起曰、「百濟國聖明王太子阿佐禮曰、敬Ⅱ-0632禮救世大慈觀音菩薩、妙敎流通東方日本國、四十九歲傳燈演說。」[文] 「新羅國聖人日羅禮曰、敬禮救世觀音大菩薩、傳燈東方粟散王。」[文] 「御縁起曰」といふは、聖德太子の御縁起也。「百濟國」といふは、聖德太子、さきの世にむまれさせたまひたりけるくにの名なり。「聖明王」といふは、百濟國に太子のわたらせたまひたりけるときの、そのくにの王の名也。「太子阿佐禮曰」といふは、聖明王の太子のなゝり。聖德太子をこひしたひかなしみまいらせて、御かたちを金銅にていまいらせたりけるを、この和國に聖德太子むまれてわたらせたまふときゝまいらせて、聖明王、わがこの阿佐太子を敕使として、金銅の救世觀音の像をおくりまいらせしとき、禮しまいらすとⅡ-0633して誦せる文也、「敬禮救世大慈觀音菩薩」とまふしけり。「妙敎流通東方日本國」とまふすは、上宮太子、佛法をこの和國につたえひろめおはしますと也。「四十九歲」といふは、上宮太子は四十九歲までぞ、この和國にわたらせたまはむずると阿佐太子まふしけり。おくられたまへる金銅の救世菩薩は、天王寺の金堂にわたらせたまふなり。「傳燈演說」といふは、「傳燈」は佛法をともしびにたとえたる也。「演說」は、上宮太子佛敎をときひろめましますべしと阿佐太子まふしけり。 又新羅國より上宮太子をこひしたひまいらせて、日羅とまふす聖人きたりて、聖德太子を禮したⅡ-0634てまつりてまふさく、「敬禮救世觀音大菩薩」とまふすは、聖德太子は救世觀音にておはしますと禮しまいらせけり。「傳燈東方」とまふすは、佛法をともしびにたとえて、「東方」とまふすはこの和國に佛敎のともしびをつたえおはしますと日羅まふしけり。「粟散王」とまふすは、このくにはきわめて小國なりといふ。「粟散」といふは、あわつぶをちらせるがごとくちひさきくにの王と聖德太子のならせたまひたるとまふしける也と。 Ⅱ-0635尊號眞像銘文[末] 首楞嚴院源信和尙の銘文 「我亦在彼攝取之中、煩惱障眼雖不能見、大悲无惓常照我身。」(要集*卷中)[文] 「我亦在彼攝取之中」といふは、われまたかの攝取のなかにありとのたまへる也。「煩惱障眼」といふは、われら煩惱にまなこさえらるとなり。「雖不能見」といふは、煩惱のまなこにて佛をみたてまつることあたはずといゑどもといふ也。「大悲无惓」といふは、大慈大悲の御めぐみ、ものうきⅡ-0636ことましまさずとまふすなり。「常照我身」といふは、「常」はつねにといふ、「照」はてらしたまふといふ。无㝵の光明、信心の人をつねにてらしたまふとなり。つねにてらすといふは、つねにまもりたまふと也。「我身」は、わがみを大慈大悲ものうきことなくして、つねにまもりたまふとおもへと也。攝取不捨の御めぐみのこゝろをあらわしたまふ也。「念佛衆生攝取不捨」のこゝろを釋したまへるなりとしるべしとなり。 日本源空聖人眞影 四明山權律師劉官讚 「普勸道俗念彌陀佛、能念皆見化佛・菩薩。明知、稱名往生要術。宜哉源空、慕道化物、信珠在心、心照迷境、疑雲永晴、佛光圓頂。 建曆壬申三月一日」 「普勸道俗念彌陀佛」といふは、「普勸」はあまねⅡ-0637くすゝむと也。「道俗」は、道にふたりあり俗にふたりあり。道のふたりは、一には僧、二には比丘尼なり。俗にふたり、一には佛法を信じ行ずる男也、二には佛法を信じ行ずる女也。「念彌陀佛」とまふすは、尊號を稱念すると也。「能念皆見化佛菩薩」とまふすは、「能念」はよく名號を念ずと也、よく念ずとまふすはふかく信ずる也。「皆見」といふは、化佛・菩薩をみむとおもふ人はみなみたてまつる也。「化佛菩薩」とまふすは、彌陀の化佛、觀音・勢至等の聖衆なり。「明知稱名」とまふすは、あきらかにしりぬ、佛のみなをとなふれば「往生」すといふことを「要術」とすといふ。往生Ⅱ-0638の要には如來のみなをとなふるにすぎたることはなしと也。「宜哉源空」とまふすは、「宜哉」はよしといふ也。「源空」は聖人の御名也。「慕道化物」といふは、「慕道」は无上道をねがひしたふべしと也。「化物」といふは、「物」といふは衆生也、「化」はよろづのものを利益すと也。「信珠在心」といふは、金剛の信心をめでたきたまにたとへたまふ。信心のたまをこゝろにえたる人は、生死のやみにまどはざるゆへに、「心照迷境」といふ也。信心のたまをもて、愚癡のやみをはらひ、あきらかにてらすと也。「疑雲永晴」といふは、「疑雲」は願力をうたがふこゝろをくもにたとへたる也。「永晴」といふは、うたがふこゝろのくもをながくはらしぬれば安樂淨土へかならずむまるゝ也。无㝵光佛の攝取不捨の心光をもて信心をえたるⅡ-0639人をつねにてらしまもりたまふゆへに、「佛光圓頂」といへり。佛光圓頂といふは、佛心をしてあきらかに信心の人のいたゞきをつねにてらしたまふとほめたまひたる也、これは攝取したまふゆへなりとしるべし。 比叡山延曆寺寶幢院黑谷源空聖人眞像 『選擇本願念佛集』云、「南无阿彌陀佛往生之業念佛爲本」[文] 又(選擇集)曰、「夫速欲離生死、二種勝法中、且閣聖道門、選入淨土門。欲入淨土門、正雜二行中、且抛諸雜行、選應歸正行。欲修於正行、正助二業中、猶傍於助業、選應專正定。正定Ⅱ-0640之業者、卽是稱佛名、稱名必得生、依佛本願故。」[文] 又(選擇集)曰、「當知、生死之家以疑爲所止、涅槃之城以信爲能入。」[文] 「選擇本願念佛集」といふは、聖人の御製作也。「南无阿彌陀佛往生之業念佛爲本」といふは、安養淨土の往生の正因は念佛を本とすとまふす御こと也としるべし。正因といふは、淨土にむまれて佛にかならずなるたねとまふすなり。 またいはく、「夫速欲離生死」といふは、それすみやかにとく生死をはなれむとおもへと也。「二種勝法中且閣聖道門」といふは、「二種勝法」は、聖道・淨土の二門也。「且閣聖道門」は、「且閣」はしばらくさしおけと也、しばらく聖道門をさしおくべしと也。「選入淨土門」といふは、「選入」Ⅱ-0641はえらびていれと也、よろづの善法のなかにえらびて淨土門にいるべしと也。「欲入淨土門」といふは、淨土門にいらむとおもはゞといふ也。「正雜二行中且抛諸雜行」といふは、正雜二行ふたつのなかに、しばらくもろもろの雜行をなげすてさしおくべしと也。「選應歸正行」といふは、えらびて正行に歸すべしと也。「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」といふは、正行を修せむとおもはゞ、正行・助業ふたつのなかに助業をさしおくべしと也。「選應專正定」といふは、えらびて正定の業をふたごゝろなく修すべしと也。「正定之業者卽是稱佛名」といふは、正定の業Ⅱ-0642因はすなわちこれ佛名をとなふる也。正定の因といふは、かならず无上涅槃のさとりをひらくたねとまふす也。「稱名必得生依佛本願故」といふは、御名を稱するはかならず安樂淨土に往生をうる也、佛の本願によるがゆへなりとのたまへり。 またいはく、「當知生死之家」といふは、「當知」はまさにしるべしと也。「生死之家」は生死のいゑといふ也。「以疑爲所止」といふは、大願業力の不思議をうたがふこゝろをもて、六道・四生・二十五有・十二類生にとゞまると也。いまにひさしく世にまよふとしるべしと也。「涅槃之城」とまふすは、安養淨刹をいふ也、これを涅槃のみやことはまふすなり。「以信爲能入」といふは、眞實Ⅱ-0643信心をえたる人の、如來の本願の實報土によくいるとしるべしとのたまへるみことなり。信心は菩提のたねなり、无上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。 法印聖覺和尙の銘文 「夫根有利鈍者、敎有漸頓。機有奢促者、行有難易。當知、聖道諸門漸敎也、又難行也。淨土一宗者頓敎也、又易行也。所謂眞言・止觀之行、獼猴情難學、三論・法相之敎、牛羊眼易迷。然至我宗者、彌陀本願、定行因於十念、善導料簡、決器量於三心、雖非利智精進、專念實易勤、雖非多聞廣學、信力何不備。W乃至R然我大師聖人、爲Ⅱ-0644釋尊之使者、弘念佛一門、爲善導之再誕、勸稱名一行。專修專念之行、自此漸弘、無間無餘之勤在今始知。然則破戒罪根之輩、加肩入往生之道、下智淺才之類、振臂赴淨土之門。誠知、无明長夜之大燈炬也、何悲智眼闇、生死大海之大船筏也、豈煩業障重。」W略抄R 「夫根有利鈍者」といふは、それ衆生の根性に利鈍ありとなり。「利」といふはこゝろのとき人なり、「鈍」といふはこゝろのにぶき人なり。「敎有漸頓」といふは、衆生の根性にしたがふて佛敎に漸頓ありと也。「漸」はやうやく佛道を修して、三祇百大劫をへて佛になるなり。「頓」はこの娑婆世界にして、このみにてたちまちに佛になるとまふす也。これすなわち佛心・眞言・法華・華嚴等のさとりをひらくなり。「機有奢促者」といふは、機Ⅱ-0645に奢促あり。「奢」はおそきこゝろなるものあり、「促」はときこゝろなるものあり。このゆへに「行有難易」といふは、行につきて難あり、易ありと也。「難」は聖道門自力の行也、「易」は淨土門他力の行なり。「當知聖道諸門漸敎也」といふは、すなわち難行也、また漸敎也としるべしと也。「淨土一宗者」といふは、頓敎なり、また易行なりとしるべしと也。「所謂眞言止觀之行」といふは、「眞言」は密敎なり、「止觀」は法華なり。「獼猴情難學」といふは、この世の人のこゝろをさるのこゝろにたとえたるなり。さるのこゝろのごとくさだまらずとなり。このゆへに眞言・法華の行は、Ⅱ-0646修しがたく行じがたしと也。「三論法相之敎牛羊眼易迷」といふは、この世の佛法者のまなこをうし・ひつじのまなこにたとえて、三論・法相宗等の聖道自力の敎にはまどふべしとのたまへる也。「然至我宗者」といふは、聖覺和尙ののたまはく、「わが淨土宗は、彌陀の本願の實報土の正因として、乃至十聲一聲稱念すれば、无上菩提にいたるとおしえたまふ。善導和尙の御おしえには、三心を具すればかならず安樂にむまるとのたまへるなり」(唯信*鈔意)と、聖覺和尙ののたまへるなり。「雖非利智精進」といふは、智慧もなく精進のみにもあらず、鈍根懈怠のものも、專修專念の信心をえつれば往生すとこゝろうべしと也。「然我大師聖人」といふは、聖覺和尙は、聖人をわが大師聖人とあおぎたのみたまふ御ことばなり。「爲釋尊Ⅱ-0647之使者弘念佛之一門」といふは、源空聖人は釋迦如來の御つかいとして念佛の一門をひろめたまふとしるべしとなり。「爲善導之再誕勸稱名之一行」といふは、聖人は善導和尙の御身として稱名の一行をすゝめたまふなりとしるべしと也。「專修專念之行自此漸弘無間無餘之勤」といふは、一向專修とまふすことはこれよりひろまるとしるべしとなり。「然則破戒罪根之輩加肩入往生之道」といふは、「然則」はしからしめて、この淨土のならひにて、破戒・无戒の人、罪業ふかきもの、みな往生すとしるべしと也。「下智淺才之類振臂赴淨土之門」といふは、無智・無才のものは淨土Ⅱ-0648門におもむくべしとなり。「誠知无明長夜之大燈炬也何悲智眼闇」といふは、「誠知」はまことにしりぬといふ。彌陀の誓願は无明長夜のおほきなるともしびなり。なむぞ智慧のまなこくらしとかなしまむやとおもへと也。「生死大海之大船筏也豈煩業障重」といふは、彌陀の願力は生死大海のおほきなるふね・いかだ也。極惡深重のみなりとなげくべからずとのたまへるなり。「倩思敎授恩德實等彌陀悲願者」といふは、師主のおしえをおもふに、彌陀の悲願にひとしと也。大師聖人の御おしえの恩おもくふかきことをおもひしるべしと也。「粉骨可報之摧身可謝之」といふは、大師聖人の御おしえの恩德のおもきことをしりて、ほねをこにしても報ずべしとなり、身をくだきても恩德をむくうべしと也。よくよくⅡ-0649この和尙のこのおしえを御覽じしるべしと。 和朝愚禿釋親鸞「正信偈」文 「本願名號正定業  至心信樂願爲因 成等覺證大涅槃  必至滅度願成就 如來所以興出世  唯說彌陀本願海 五濁惡時群生海  應信如來如實言 能發一念喜愛心  不斷煩惱得涅槃 凡聖逆謗齊廻入  如衆水入海一味 攝取心光常照護  已能雖破无明闇 貪愛瞋憎之雲霧  常覆眞實信心天 譬如日光覆雲霧  雲霧之下明无闇 獲信見敬得大慶  卽橫超截五惡趣」[文] Ⅱ-0650「本願名號正定業」といふは、選擇本願の行といふ也。「至心信樂願爲因」といふは、彌陀如來廻向の眞實信心なり、この信心を阿耨菩提の因とすべしと也。「成等覺證大涅槃」といふは、「成等覺」といふは正定聚のくらゐ也。このくらゐを龍樹菩薩は「卽時入必定」(十住論卷*五易行品)とのたまへり、曇鸞和尙は「入正定之數」(論註*卷上意)とおしえたまへり。これはすなわち彌勒のくらゐとひとしと也。「證大涅槃」とまふすは、必至滅度の願成就のゆへにかならず大般涅槃をさとるとしるべし。「滅度」とまふすは、大涅槃也。「如來所以興出世」といふは、諸佛の世にいでたまふゆへはとまふすみのり也。「唯說彌陀本願海」とまふすは、諸佛の世にいでたまふ本懷は、ひとへに彌陀の願海一乘のみのりをとかむとなり。しかれⅡ-0651ば、『大經』(卷上)には、「如來所以興出於世欲拯群萌惠以眞實之利」とときたまへり。「如來所以興出於世」は、「如來」とまふすは諸佛とまふす也。「所以」といふはゆへといふみこと也。「興出於世」といふは世に佛いでたまふとまふすみこと也。「欲拯群萌」は、「欲」といふはおぼしめすとなり。「拯」はすくはむとなり。「群萌」はよろづの衆生をすくはむとおぼしめすと也。佛の世にいでたまふゆへは、彌陀の御ちかひをときてよろづの衆生をたすけすくはむとおぼしめすとしるべし。「五濁惡時群生海應信如來如實言」といふは、五濁惡世のよろづの衆生、釋迦如來のみことをふⅡ-0652かく信受すべしと也。「能發一念喜愛心」といふは、「能」はよくといふ。「發」はおこすといふ、ひらくといふ。「一念喜愛心」は一念慶喜の眞實信心よくひらけ、かならず本願の實報土にむまるとしるべし。慶喜といふは、信をえてのちよろこぶこゝろをいふ也。「不斷煩惱得涅槃」といふは、「不斷煩惱」は煩惱をたちすてずしてといふ。「得涅槃」とまふすは无上大涅槃をさとるをうるとしるべし。「凡聖逆謗齊廻入」といふは、小聖・凡夫・五逆・謗法・无戒・闡提、みな廻心して眞實信心海に歸入しぬれば、衆水の海にいりてひとつあぢわいとなるがごとしとたとえたるなり。これを「如衆水入海一味」といふなり。「攝取心光常照護」といふは、信心をえたる人おば、无㝵光佛の心光つねにてらしまもりたまふゆへに、Ⅱ-0653无明のやみはれ、生死のながきよすでにあかつきになりぬとしるべしと也。「已能雖破无明闇」といふはこのこゝろなり。信心をうればあかつきになるがごとしとしるべし。「貪愛瞋憎之雲霧常覆眞實信心天」といふは、われらが貪愛・瞋憎をくも・きりにたとえて、つねに信心の天におほえるなりとしるべし。「譬如日月覆雲霧雲霧之下明无闇」といふは、日月のくも・きりにおほはるれども、やみはれてくも・きりのしたあきらかなるがごとく、貪愛・瞋憎のくも・きりに信心はおほはるれども、往生にさわりあるべからずとしるべしと也。「獲信見敬得大慶」といふは、この信Ⅱ-0654心をえておほきによろこびうやまふ人といふ也。「大慶」は、おほきにうべきことをえてのちによろこぶといふ也。「卽橫超截五惡趣」といふは、信心をえつればすなわち橫に五惡趣をきるなりとしるべしと也。「卽橫超」は、「卽」はすなわちといふ、信をうる人はときをへず日をへだてずして正定聚のくらゐにさだまるを卽といふ也。「橫」はよこさまといふ、如來の願力なり、他力をまふすなり。「超」はこえてといふ、生死の大海をやすくよこさまにこえて无上大涅槃のさとりをひらく也。信心を淨土宗の正意としるべき也。このこゝろをえつれば、他力には義のなきをもて義とすと、本師聖人のおほせごとなり。義といふは、行者のおのおののはからふこゝろなり。このゆへにおのおのゝはからふこゝろをもたるほどおば自力といⅡ-0655ふ也。よくよくこの自力のやうをこゝろふべしとなり。 正嘉二歲戊午六月廿八日書之 愚禿親鸞W八十六歲R