Ⅱ-0467正像末和讚 康元二歲[丁巳]二月九日夜 寅時夢告云 Ⅱ-0468(一) 彌陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 攝取不捨の利益にて 无上覺をばさとるなり Ⅱ-0469正像末淨土和讚 愚禿善信集 (二) 釋迦如來かくれましまして 二千餘年になりたまふ 正像の二時はおはりにき 如來の遺弟悲泣せよ Ⅱ-0470(三) 末法五濁の有情の 行證かなはぬときなれば 釋迦の遺法ことごとく 龍宮にいりたまひにき (四) 正像末の三時には 彌陀の本願ひろまれり 像季・末法のこの世には 諸善龍宮にいりたまふ Ⅱ-0471(五) 『大集經』にときたまふ この世は第五の五百年 鬪諍堅固なるゆへに 白法隱滯したまへり (六) 數萬歲の有情も 果報やうやくおとろへて 二萬歲にいたりては 五濁惡世の名をえたり Ⅱ-0472(七) 劫濁のときうつるには 有情やうやく身小なり 五濁惡邪まさるゆへ 毒蛇・惡龍のごとくなり (八) 无明煩惱しげくして 塵數のごとく遍滿す 愛憎違順することは 高峰岳山にことならず Ⅱ-0473(九) 有情の邪見熾盛にて 叢林棘刺のごとくなり 念佛の信者を疑謗して 破懷瞋毒さかりなり (一〇) 命濁中夭刹那にて 依正二報滅亡し 背正歸邪まさるゆへ 橫にあだをぞおこしける Ⅱ-0474(一一) 末法第五の五百年 この世の一切有情の 如來の悲願を信ぜずは 出離その期はなかるべし (一二) 九十五種世をけがす 唯佛一道きよくます 菩提に出到してのみぞ 火宅の利益は自然なる Ⅱ-0475(一三) 五濁の時機いたりては 道俗ともにあらそひて 念佛信ずるひとをみて 疑謗破滅さかりなり (一四) 菩提をうまじきひとはみな 專修念佛にあだをなす 頓敎毀滅のしるしには 生死の大海きはもなし Ⅱ-0476(一五) 正法の時機とおもへども 底下の凡愚となれる身は 淸淨眞實のこゝろなし 發菩提心いかゞせん (一六) 自力聖道の菩提心 こゝろもことばもおよばれず 常沒流轉の凡愚は いかでか發起せしむべき Ⅱ-0477(一七) 三恆河沙の諸佛の 出世のみもとにありしとき 大菩提心おこせども 自力かなはで流轉せり (一八) 像末五濁の世となりて 釋迦の遺敎かくれしむ 彌陀の悲願ひろまりて 念佛往生さかりなり Ⅱ-0478(一九) 超世无上に攝取し 選擇五劫思惟して 光明・壽命の誓願を 大悲の本としたまへり (二〇) 淨土の大菩提心は 願作佛心をすゝめしむ すなはち願作佛心を 度衆生心となづけたり Ⅱ-0479(二一) 度衆生心といふことは 彌陀智願の廻向なり 廻向の信樂うるひとは 大般涅槃をさとるなり (二二) 如來の廻向に歸入して 願作佛心をうるひとは 自力の廻向をすてはてゝ 利益有情はきはもなし Ⅱ-0480(二三) 彌陀の智願海水に 他力の信水いりぬれば 眞實報土のならひにて 煩惱・菩提一味なり (二四) 如來二種の廻向を ふかく信ずるひとはみな 等正覺にいたるゆへ 憶念の心はたへぬなり Ⅱ-0481(二五) 彌陀智願の廻向の 信樂まことにうるひとは 攝取不捨の利益ゆへ 等正覺にいたるなり (二六) 五十六億七千萬 彌勒菩薩はとしをへん まことの信心うるひとは このたびさとりをひらくべし Ⅱ-0482(二七) 念佛往生の願により 等正覺にいたるひと すなはち彌勒におなじくて 大般涅槃をさとるべし (二八) 眞實信心うるゆへに すなはち定聚にいりぬれば 補處の彌勒におなじくて 无上覺をさとるなり Ⅱ-0483(二九) 像法のときの智人も 自力の諸敎をさしおきて 時機相應の法なれば 念佛門にぞいりたまふ (三〇) 彌陀の尊號となへつゝ 信樂まことにうるひとは 憶念の心つねにして 佛恩報ずるおもひあり Ⅱ-0484(三一) 五濁惡世の有情の 選擇本願信ずれば 不可稱不可說不可思議の 功德は行者の身にみてり (三二) 无㝵光佛のみことには 未來の有情利せんとて 大勢至菩薩に 智慧の念佛さづけしむ Ⅱ-0485(三三) 濁世の有情をあはれみて 勢至念佛すゝめしむ 信心のひとを攝取して 淨土に歸入せしめけり (三四) 釋迦・彌陀の慈悲よりぞ 願作佛心はえしめたる 信心の智慧にいりてこそ 佛恩報ずる身とはなれ Ⅱ-0486(三五) 智慧の念佛うることは 法藏願力のなせるなり 信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし (三六) 无明長夜の燈炬なり 智眼くらしとかなしむな 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ Ⅱ-0487(三七) 願力无窮にましませば 罪業深重もおもからず 佛智无邊にましませば 散亂放逸もすてられず (三八) 如來の作願をたづぬれば 苦惱の有情をすてずして 廻向を首としたまひて 大悲心をば成就せり Ⅱ-0488(三九) 眞實信心の稱名は 彌陀廻向の法なれば 不廻向となづけてぞ 自力の稱念きらはるゝ (四〇) 彌陀智願の廣海に 凡夫善惡の心水も 歸入しぬればすなはちに 大悲心とぞ轉ずなる Ⅱ-0489(四一) 造惡このむわが弟子の 邪見放逸さかりにて 末世にわが法破すべしと 『蓮華面經』にときたまふ (四二) 念佛誹謗の有情は 阿鼻地獄に墮在して 八萬劫中大苦惱 ひまなくうくとぞときたまふ Ⅱ-0490(四三) 眞實報土の正因を 二尊のみことにたまはりて 正定聚に住すれば かならず滅度をさとるなり (四四) 十方无量の諸佛の 證誠護念のみことにて 自力の大菩提心の かなはぬほどはしりぬべし Ⅱ-0491(四五) 眞實信心うることは 末法濁世にまれなりと 恆沙の諸佛の證誠に ゑがたきほどをあらはせり (四六) 往相・還相の廻向に まうあはぬ身となりにせば 流轉輪廻もきはもなし 苦海の沈淪いかゞせん Ⅱ-0492(四七) 佛智不思議を信ずれば 正定聚にこそ住しけれ 化生のひとは智慧すぐれ 无上覺をぞさとりける (四八) 不思議の佛智を信ずるを 報土の因としたまへり 信心の正因うることは かたきがなかになをかたし Ⅱ-0493(四九) 无始流轉の苦をすてゝ 无上涅槃を期すること 如來二種の廻向の 恩德まことに謝しがたし (五〇) 報土の信者はおほからず 化土の行者はかずおほし 自力の菩提かなはねば 久遠劫より流轉せり Ⅱ-0494(五一) 南无阿彌陀佛の廻向の 恩德廣大不思議にて 往相廻向の利益には 還相廻向に廻入せり (五二) 往相廻向の大慈より 還相廻向の大悲をう 如來の廻向なかりせば 淨土の菩提はいかゞせん Ⅱ-0495(五三) 彌陀・觀音・大勢至 大願のふねに乘じてぞ 生死のうみにうかみつゝ 有情をよばふてのせたまふ (五四) 彌陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく 南无阿彌陀佛をとなふべし Ⅱ-0496(五五) 聖道門のひとはみな 自力の心をむねとして 他力不思議にいりぬれば 義なきを義とすと信知せり (五六) 釋迦の敎法ましませど 修すべき有情のなきゆへに さとりうるもの末法に 一人もあらじとときたまふ Ⅱ-0497(五七) 三朝淨土の大師等 哀愍攝受したまひて 眞實信心すゝめしめ 定聚のくらゐにいれしめよ (五八) 他力の信心うるひとを うやまひおほきによろこべば すなはちわが親友ぞと 敎主世尊はほめたまふ Ⅱ-0498(五九) 如來大悲の恩德は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩德も ほねをくだきても謝すべし 已上正像末法和讚 五十八首 Ⅱ-0499(六〇) 不了佛智のしるしには 如來の諸智を疑惑して 罪福信じ善本を たのめば邊地にとまるなり (六一) 佛智の不思議をうたがひて 自力の稱念このむゆへ 邊地懈慢にとゞまりて 佛恩報ずるこゝろなし Ⅱ-0500(六二) 罪福信ずる行者は 佛智の不思議をうたがひて 疑城胎宮にとゞまれば 三寶にはなれたてまつる (六三) 佛智疑惑のつみにより 懈慢邊地にとまるなり 疑惑のつみのふかきゆへ 年歲劫數をふるととく Ⅱ-0501(六四) 轉輪皇の王子の 皇につみをうるゆへに 金鎖をもちてつなぎつゝ 牢獄にいるがごとくなり (六五) 自力稱名のひとはみな 如來の本願信ぜねば うたがふつみのふかきゆへ 七寶の獄にぞいましむる Ⅱ-0502(六六) 信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如來大悲の恩をしり 稱名念佛はげむべし (六七) 自力諸善のひとはみな 佛智の不思議をうたがへば 自業自得の道理にて 七寶の獄にぞいりにける Ⅱ-0503(六八) 佛智不思議をうたがひて 善本德本たのむひと 邊地懈慢にむまるれば 大慈大悲はえざりけり (六九) 本願疑惑の行者には 含花未出のひともあり 或生邊地ときらひつゝ 或墮宮胎とすてらるゝ Ⅱ-0504(七〇) 如來の諸智を疑惑して 信ぜずながらなをもまた 罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり (七一) 佛智を疑惑するゆへに 胎生のものは智慧もなし 胎宮にかならずむまるゝを 牢獄にいるとたとへたり Ⅱ-0505(七二) 七寶の宮殿にむまれては 五百歲のとしをへて 三寶を見聞せざるゆへ 有情利益はさらになし (七三) 邊地七寶の宮殿に 五百歲までいでずして みづから過咎をなさしめて もろもろの厄をうくるなり Ⅱ-0506(七四) 罪福ふかく信じつゝ 善本修習するひとは 疑心の善人なるゆへに 方便化土にとまるなり (七五) 彌陀の本願信ぜねば 疑惑を帶してむまれつゝ はなはすなはちひらけねば 胎に處するにたとへたり Ⅱ-0507(七六) ときに慈氏菩薩の 世尊にまふしたまひけり 何因何縁いかなれば 胎生・化生となづけたる (七七) 如來慈氏にのたまはく 疑惑の心をもちながら 善本修するをたのみにて 胎生邊地にとゞまれり Ⅱ-0508(七八) 佛智疑惑のつみゆへに 五百歲まで牢獄に かたくいましめおはします これを胎生とときたまふ (七九) 佛智不思議をうたがひて 罪福信ずる有情は 宮殿にかならずむまるれば 胎生のものとときたまふ Ⅱ-0509(八〇) 自力の心をむねとして 不思議の佛智をたのまねば 胎宮にむまれて五百歲 三寶の慈悲にはなれたり (八一) 佛智の不思議を疑惑して 罪福信じ善本を 修して淨土をねがふをば 胎生といふとときたまふ Ⅱ-0510(八二) 佛智うたがふつみふかし この心おもひしるならば くゆるこゝろをむねとして 佛智の不思議をたのむべし 已上二十三首、佛不思議の彌陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせるなり。 Ⅱ-0511愚禿善信作 皇太子聖德奉讚 (八三) 佛智不思議の誓願を 聖德皇のめぐみにて 正定聚に歸入して 補處の彌勒のごとくなり Ⅱ-0512(八四) 救世觀音大菩薩 聖德皇と示現して 多々のごとくすてずして 阿摩のごとくにそひたまふ (八五) 无始よりこのかたこの世まで 聖德皇のあはれみに 多々のごとくにそひたまひ 阿摩のごとくにおはします Ⅱ-0513(八六) 聖德皇のあはれみて 佛智不思議の誓願に すゝめいれしめたまひてぞ 住正定聚の身となれる (八七) 他力の信をえんひとは 佛恩報ぜんためにとて 如來二種の廻向を 十方にひとしくひろむべし Ⅱ-0514(八八) 大慈救世聖德皇 父のごとくにおはします 大悲救世觀世音 母のごとくにおはします (八九) 久遠劫よりこの世まで あはれみましますしるしには 佛智不思議につけしめて 善惡・淨穢もなかりけり Ⅱ-0515(九〇) 和國の敎主聖德皇 廣大恩德謝しがたし 一心に歸命したてまつり 奉讚不退ならしめよ (九一) 上宮皇子方便し 和國の有情をあはれみて 如來の悲願を弘宣せり 慶喜奉讚せしむべし Ⅱ-0516(九二) 多生曠劫この世まで あはれみかぶれるこの身なり 一心歸命たへずして 奉讚ひまなくこのむべし (九三) 聖德皇のおあはれみに 護持養育たへずして 如來二種の廻向に すゝめいれしめおはします Ⅱ-0517已上聖德奉讚 十一首 愚禿悲歎述懷 (九四) 淨土眞宗に歸すれども 眞實の心はありがたし 虛假不實のわが身にて 淸淨の心もさらになし Ⅱ-0518(九五) 外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ 貪瞋・邪僞おほきゆへ 奸詐もゝはし身にみてり (九六) 惡性さらにやめがたし こゝろは蛇蝎のごとくなり 修善も雜毒なるゆへに 虛假の行とぞなづけたる Ⅱ-0519(九七) 无慚无愧のこの身にて まことのこゝろはなけれども 彌陀の廻向の御名なれば 功德は十方にみちたまふ (九八) 小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ 如來の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき Ⅱ-0520(九九) 蛇蝎奸詐のこゝろにて 自力修善はかなふまじ 如來の廻向をたのまでは 无慚无愧にてはてぞせん (一〇〇) 五濁增のしるしには この世の道俗ことごとく 外儀は佛敎のすがたにて 内心外道を歸敬せり Ⅱ-0521(一〇一) かなしきかなや道俗の 良時・吉日えらばしめ 天神・地祇をあがめつゝ 卜占祭祀つとめとす (一〇二) 僧ぞ法師のその御名は たうときことゝきゝしかど 提婆五邪の法ににて いやしきものになづけたり Ⅱ-0522(一〇三) 外道・梵士・尼乾志に こゝろはかはらぬものとして 如來の法衣をつねにきて 一切鬼神をあがむめり (一〇四) かなしきかなやこのごろの 和國の道俗みなともに 佛敎の威儀をもとゝして 天地の鬼神を尊敬す Ⅱ-0523(一〇五) 五濁邪惡のしるしには 僧ぞ法師といふ御名を 奴婢・僕使になづけてぞ いやしきものとさだめたる (一〇六) 无戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 舍利弗・目連にひとしくて 供養恭敬をすゝめしむ Ⅱ-0524(一〇七) 罪業もとよりかたちなし 妄想顚倒のなせるなり 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき (一〇八) 末法惡世のかなしみは 南都北嶺の佛法者の 輿かく僧達力者法師 高位をもてなす名としたり Ⅱ-0525(一〇九) 佛法あなづるしるしには 比丘・比丘尼を奴婢として 法師・僧徒のたふとさも 僕從ものゝ名としたり 已上十六首、これは愚禿がかなしみなげきにして述懷としたり。この世の本寺本山のいみじき僧とまふすも法師とまふすもうきことなり。 釋親鸞書之 Ⅱ-0527(一一〇) 善光寺の如來の われらをあはれみましまして なにはのうらにきたります 御名をもしらぬ守屋にて (一一一) そのときほとをりけとまふしける 疫癘あるひはこのゆへと 守屋がたぐひはみなともに ほとをりけとぞまふしける Ⅱ-0528(一一二) やすくすゝめんためにとて ほとけと守屋がまふすゆへ ときの外道みなともに 如來をほとけとさだめたり (一一三) この世の佛法のひとはみな 守屋がことばをもとゝして ほとけとまふすをたのみにて 僧ぞ法師はいやしめり Ⅱ-0529(一一四) 弓削の守屋の大連 邪見きはまりなきゆへに よろづのものをすゝめんと やすくほとけとまふしけり 親鸞八十八歲御筆 「獲」の字は、因位のときうるを獲といふ。「得」の字は、果位のときにいたりてうることを得といふなり。「名」の字は、因位のときのなを名といふ。「號」の字は、果位のときのなを號といふ。「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。しからしむといふことばなり。「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如來のちかひにてあるがゆへに。「法爾」といふは、如來の御ちかひなるがゆへに、しからしむるを法爾といふ。この法爾は、御ちかひなりけるゆへⅡ-0530に、すべて行者のはからひなきをもちて、このゆへに他力には義なきを義とすとしるべきなり。 「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。彌陀佛の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南无阿彌陀佛とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とはまふすぞときゝてさふらふ。ちかひのやうは、无上佛にならしめんとちかひたまへるなり。无上佛とまふすは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆへに、自然とはまふすなり。かたちましますとしめすときは、无上涅槃とはまふさず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに彌陀佛とぞきゝならひてさふらふ。彌陀佛は自然のやうをしらせんれうなり。この道理をこゝろゑつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なを義のあるべし。 これは佛智の不思議にてあるなり。 Ⅱ-0531(一一五) よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこゝろなりけるを 善惡の字しりがほは おほそらごとのかたちなり (一一六) 是非しらず邪正もわかぬ このみなり 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり Ⅱ-0532已上 右斯三帖和讚幷正信偈四帖一部者末代爲興隆板木開之者也而已 文明五年[癸巳]三月日(蓮如花押)