Ⅲ-1117法然聖人御消息 (一) 御ふみくはしくうけたまはり候ぬ。かやうにまめやかに、大事におぼしめし候。返々ありがたく候。まことにこのたび、かまへて往生しなむと、おぼしめしきるべく候。うけがたき人身すでにうけたり、あひがたき念佛往生の法門にあひたり。娑婆をいとふこゝろあり、極樂をねがふこゝろおこりたり。彌陀の本願□□□□□□たゞ御こゝろにあるたひなり。ゆめゆめ御念佛おこたらず、決定往生のよしを存ぜさせたまうべく候。なに事もとゞめ候ぬ。 九月十六日 源空 九條殿北政所御返事 Ⅲ-1118(二) 法然聖人御消息 上野のおほごの女房の御返事 御ふみくはしくうけたまはり候ぬ。まづはるかなるほどに、念佛の事きこしめさむために、わざと御つかひをのぼせさせたまひて候條、まことに念佛の御こゝろざしのほど、かへすがへすあはれにこそ候へ。たづねおほせ候念佛の事、往生極樂のためには、たとひいかなる行なりといふとも、念佛にすぎたることは候はざるなり。そのゆへは、念佛はこれ彌陀の本願の行なるがゆへなり。本願とまふすは、阿彌陀佛のいまだ佛になりたまはざりしむかし、法藏比丘とまふしゝいにしへ、佛の國土をきよめ、衆生を成就せしめむがために、世自在王如來とまふしゝ佛のみまへにして、四十八の大願をおこしたまひしそのなかに、一切衆生を往生せしめむがために、一の願をおこしたまひける。これを念佛往生の大願とは申候なり。すなわち『无量壽經』上卷云、 「設我得佛、十方衆生、至心信樂欲生我國、乃至十念。若不生者、不取正覺。」[文] Ⅲ-1119善導和尙この願を釋して云、 「若我成佛、十方衆生、稱我名號下至十聲、若不生者不取正覺。彼佛今現在成佛。當知、本誓重願不虛、衆生稱念必得往生。」(禮讚)[文] 念佛は、佛の法身を觀ずるにもあらず、佛の相好を觀ずるにもあらず、たゞ心をひとつにして、もはら彌陀の名號を稱するを、これを念佛とは申なり。かるがゆへに稱名とはなづけて候なり。念佛のほかの一切の行は、これ彌陀の本願にあらず。かるがゆへに、たとひたえなる行なりといふとも、念佛にはおよび候まじきなり。おほかたそのくにゝむまれむとおもはむものは、その佛の誓願にしたがふべきものなり。しかればすなわち、彌陀の淨土にむまれむことは、かならず本願にあり。餘行はこれたくらぶべからず。かるがゆへに往生極樂のためには、念佛の行にすぎたることはさらに候はず。往生のみちにあらざる餘行、またおのおのかたどるかたもあり。しかるに衆生の生死をはなるゝみちは、佛の御おしへやうやうに候といへども、このごろのひとの三界をいで生死をはなるゝみちは、たゞ往生極樂ばかりなり。この宗のおほきなるこゝろなり。極樂に往生するに、その行やうやうにおほく候へども、われらが往生せむことは、たゞ念佛にあらずⅢ-1120はかなひがたく候なり。そのゆへは、念佛はこれ彌陀の本願の行なるがゆへに、本願にすがりて往生することいとやすく候。しかればすなわち、念ずるところ、極樂にあらずは生死をはなるべからず、念佛にあらずは極樂にむまるべからざるものなり。しかれば、ふかくこのむねを信じたまひて、一向に極樂をねがひ、ひとすぢに念佛を修して、このたび生死をはなれ極樂にむまれむとおぼしめすべきなり。また一一の願のおはりに、「若不爾者不取正覺」とちかひたまへり。しかるに阿彌陀佛は成佛したまひてよりこのかた、すでに十劫をへたまへり。まさにしるべし、本願むなしからず、みなことごとく成就したまへり。その中に念佛往生の大願、ひとりむなしかるべからず。しかればすなわち、衆生稱念すれば一人もむなしからず、みなかならず往生す。たれか成佛したまえること、信ぜざるべき。三寶滅盡のときなりといへども、一念すればかならず往生す。五逆深重の人なりといへども、十念すればまた往生す。いかにいはむや、三寶のましますよにむまれて、五逆おもつくらず。われら彌陀の名號をとなえむに、往生うたがふべからず。この願にあひたてまつることは、おぼろげの縁にあらず。たとひあえりといへども、信ぜざればまたあはざるがごとし。いまふかくこの願を信ぜⅢ-1121しめたまはゞ、往生のうたがひおぼしめすべからず。かならずかならず二心なく、よくよく御念佛候て、このたび生死をはなれ極樂にむまれむとおぼしめすべし。また『觀无量壽經』云、「光明徧照、十方世界、念佛衆生、攝取不捨」とは、この彌陀の光明、念佛のひとをのみてらして、餘の一切の行人おばてらさずといふなり。よの人のいはく、たゞし、餘行なりといふとも極樂をねがはむものおば、佛の光明てらして攝取したまふべきに、なんぞたゞ、かならずしも念佛の人ばかりをてらしたまはむや。善導和尙ののたまはく、 「彌陀眞色如金山  相好光明照十方 唯有念佛蒙光攝  當知本願最爲強」(禮讚)[文] 念佛はこれ彌陀の本願の行なるがゆへに、成佛の光明かへて本地誓願を信ずる眞實信心をえたる信者をてらしたまふなり。餘行はまた本願にあらざるがゆへに、彌陀の光明きらふててらしたまはず。かるがゆへに、いま極樂をもとめむ人は、本願の念佛を行じて、攝取の光明にてらされむとおもふべし。これにつけても念佛大切に候、よくよくまふしたまふべし。また釋迦如來、この行の中の定散の諸行をときてのち、まさしく阿難に付囑したまふしときは、かみにとくところⅢ-1122の散善三福の業、定善十三觀おば付囑したまはずして、たゞ念佛の一行を付囑したまへり。『經』(觀經)云、 「佛告阿難、汝好持是語。持是語者、卽是持无量壽佛名。」[文] 善導この文を釋云、「佛告阿難汝好持是語已下、正明付囑彌陀名號、流通於遐代。上來雖說定散兩門之益、望佛本願意、在衆生一向專稱彌陀佛名。」(散善義)[文] この定散の諸行は、彌陀の本願にあらざるがゆへに、釋迦如來、往生の行を付囑したまふしとき、餘の定善・散善おば付囑したまはずして、念佛はこれ彌陀の本願の行なるがゆへに、まさしくえらびて付囑したまふしなり。いま釋迦のおしえにしたがふて往生をもとめむもの、付囑の念佛を修して、釋迦の御こゝろにかなふべし。これにつけてもまたよくよく御念佛候て、佛の本願にかなひたまふべし。また六方恆沙の諸佛、みしたをのべて、三千大千世界におほひて、もはらたゞ彌陀の名號をとなえて往生すといふは、これ眞實なりと證誠したまふなり。これまた念佛は彌陀の本願なるがゆへに、六方恆沙の諸佛も證誠したまへり。餘行は本願にあらざるがゆへに、諸佛證誠したまはざるなり。これにつけてもなⅢ-1123ほなほよくよく御念佛候いて、六方の諸佛の護念をかぶりたまふべし。彌陀の本願、釋迦の付囑、六方の護念、一一にむなしからず。このゆへに、念佛の行は諸行にすぐれたり。善導和尙は彌陀の化身なり。淨土の祖師おほしといへども、三昧發得す。それおほきにわかちて二とす。一には專修、いはゆる念佛なり。二には雜修、いはゆる一切の諸行なり。かみにいふところの定散等これなり。『往生禮讚』云、「若能如上念念相續、畢命爲期者、十卽十生、百卽百生。何以故。无外雜縁。得正念故、與佛本願得相應故、不違敎故、隨順佛語故。若欲捨專修雜業者、百時希得一二、千時希得三五。何以故。乃由雜縁亂動、失正念故、與佛本願不相應故、與敎相違故、不順佛語故、係念不相續故。」[文] これは專修と雜修との得失なり。得といふは、往生することをうるなり。いはゆる念佛のひとは、十はすなわち十ながら生じ、百は百ながら生ずるこれなり。失といふは、いはゆる往生をうしなふなり。雜修のものは、百人の中にまれに一二人往生することをう。その餘は千人の中にわづかに五人むまる、のこりはむまれず。專修はみなむまる、なんがゆへぞ。彌陀の本願に相應するがゆへに、釋迦のⅢ-1124おしえに隨順するがゆへなり。雜業のものはむまるゝことのすくなきは、なんがゆへぞ。彌陀の本願にあひたがふがゆへに、釋迦のおしえにしたがはざるゆへなり。念佛を修して淨土をもとむるものは、釋迦・彌陀の御こゝろにあひかなへり。雜業を修して淨土をもとむるものは、釋迦・彌陀の御こゝろにそむけり。善導和尙、得失を判ずること、これのみにあらず。『觀經の疏』とまふす文のなかに、おほく得失をあげたり。おほくしげきがゆへにいださず。これをもちてしるべし。おほよそ念佛を謗ずるものは地獄におちて五劫苦をうくることきわまりなし、念佛を信ずるものは淨土にむまれて无量劫樂をうくることきわまりなし。このむねをふかく信じたまふて、二心なく御念佛を申させたまふべきものなり。くわしきことは、御ふみにまふして候うへ、この御使申あげ候べし。あなかしこ、あなかしこ。 南无阿彌陀佛 大子女房御返事 僧源空 建長W乙卯R五月廿三日書之