Ⅲ-0783選擇本願念佛集W假字上本R 天台黑谷沙門源空作 南无阿彌陀佛W往生之業、念佛を本とすR (一)道綽禪師、聖道・淨土の二門をたてゝ、聖道をすてゝ正淨土に歸する文。 謹『安樂集』の上を按ずるに謂、「問云、一切衆生みな佛性あり。遠劫よりこのかた多佛に遇べし。なにゝよてか、今にいたるまでなほ自生死に輪廻して火宅をいでざるや。答いはく、大乘の聖敎によるに、まことに二種勝法をえて、もて生死を拂ざるに依也。爰もて火宅をいでざる也。何をか二つとする。一には謂聖道、二には謂往生淨土也。その聖道の一種は、今ときに證しがたし。もはら大聖を去こと遙遠なるによる。二に理深悟微なるによる。このゆへに『大集月藏經』にいはく、我末法時中億々衆生、行をおこし道を修せむに、いまだ一人としてうるものあらじと。當今は末法、これ五濁惡世也。たゞ淨土の一門のみあて通入すべきみち也。このゆへに『大經』に云、もし衆生あてたとⅢ-0784ひ一生惡をつくらむに、命終ときにのぞむで、十念相續して我名字を稱せむに、生ずといはゞ、正覺とらじと。また一切衆生すべて自はからず。もし大乘によらば、眞如實相・第一義空、かつていまだ心におかず。もし小乘を論ぜば、見諦修道に修入し、乃至、那含・羅漢、五下を斷じ五上をのぞくこと、道俗をとふことなく、いまだその分にあらず。たとひ人天の果報あれども、みな五戒・十善ためによくこの報をまねく。しかも持うるもの、はなはだ希也。もし起惡造罪を論ぜば、なむぞ暴風駛雨にことならむ。爰以諸佛の大悲、すゝめて淨土に歸せしむ。たとひ一形惡をつくれども、たゞよくこゝろをかけて專精につねによく念佛すれば、一切の諸障自然に消除して、さだめて往生することをう。何思量ずしてすべて去こゝろなきや」。 私にいはく、ひそかにおもむみれば、それ立敎の多少、宗に順て不同也。しばらく有相宗のごときは、三時敎をたてゝ一代の聖敎を判ず。謂有・空・中これ也。无相宗のごときは、二藏敎を立一代聖敎を判ず。謂菩薩藏・聲聞藏これ也。華嚴宗のごときは、五敎を立一切の佛敎を攝す。謂小乘敎・始敎・終敎・圓敎これ也。法華宗のごときは、四敎五味を立もて一切の佛敎を攝。Ⅲ-0785四敎と云は、謂藏・通・別・圓これ也。五味といふは、謂乳・酪・生・熟・醍醐これ也。眞言宗のごときは、二敎を立一切を攝す。謂顯敎・密敎これ也。今この淨土宗は、もし道綽禪師のこゝろによらば、二門をたてゝ一切を攝す。謂聖道・淨土門これなり。 問云、それ宗の名を立ことは、もと華嚴・天台等の八宗・九宗にあり。いまだきかず、淨土家におひてその宗の名を立ことは。然いま淨土宗と號、何の證據かあるや。答云、淨土宗の名、その證一にあらず。元曉の『遊心安樂道』にいはく、「淨土宗のこゝろ、もと凡夫のためにし、かねては聖人ため也」と。また慈恩『西方要決』に云、「この一宗よる」と。また迦才の『淨土論』(序)に云、「この一宗ひそかに要路たり」。その證かくのごとし。疑端にたらず。 たゞ諸宗の立敎は、まさしく今こゝろにあらず。しばらく淨土宗について略して二門を明ば、一には聖道門、二には淨土門也。初に聖道門と云は、これについて二あり。一には大乘、二には小乘。大乘の中について顯密・權實等の不同ありといへども、いまこの『集』のこゝろは、たゞ顯大および權大を存。かるがゆへに歷劫迂廻行にあたれり。これになぞらへてこれをおもふに、密大および實大を存べし。しかればすなわち、Ⅲ-0786今眞言・佛心・天台・華嚴・三論・法相・地論・攝論、これらの八家のこゝろまさしくこれにあり、しるべし。次小乘と云は、すべてこれ小乘經・律・論の中に明ところの聲聞・縁覺、斷惡證理、入聖得果の道也。大になぞらへて少を思、また倶舍・成實、諸部律宗を攝べし。凡この聖道門の大意は、大乘および小乘を論ぜず。この娑婆世界の中にして、四乘の道を修して四乘の果をうる也。四乘と云は三乘の外に佛乘をくわへたる也。次に往生淨土門と云は、これについて二あり。一には正往生淨土を明敎也、二には傍に往生淨土を明敎也。始に正往生淨土を明敎と云は、謂三經一論也。三經と云は、一には『无量壽經』、二には『觀无量壽經』、三には『阿彌陀經』也。一論といふは、天親の『往生論』これ也。或はこの三經をさして淨土の三部經と號する也。 問云、三部經の名またその例ありや。答云、三部經の名その例一にあらず。一には法華の三部と云は、『无量義經』・『法華經』・『普賢經』これ也。二には大日の三部、いはく『大日經』・『金剛頂經』・『蘇悉地經』これ也。三には鎭護國家の三部といふは、『法華經』・『仁王經』・『金光明經』これ也。四には彌勒の三部、謂『上生經』・『下生經』・『成佛經』Ⅲ-0787これ也。今はたゞこれ彌陀の三部也。かるがゆへに淨土の三部經と名也。まさに知べし、彌陀の三部經と云はこれ淨土の正依經也。 つぎに傍に往生淨土を明敎と云は、『華嚴』・『法華』・『隨求』・『尊勝』等もろもろの往生淨土を明諸經これ也。また『起信論』・『寶性論』・『十住毗婆沙論』・『攝大乘論』等のもろもろの往生淨土を明諸論これ也。 およそこの『集』の中に聖道・淨土の二門を立こゝろは、聖道をすてゝ淨土門にいらしめむがため也。これについて二のゆへあり。一には大聖を去こと遙遠なるによる。二には理ふかく證微なるによる。この宗の中に二門を立ことは、獨道綽のみにあらず。曇鸞・天台・迦才・慈恩等の諸師みなこのこゝろあり。しばらく曇鸞法師の『往生論の註』(卷上)に云、「謹龍樹菩薩の『十住毗婆沙』を按ずるに云、菩薩、阿毗跋致を求に、二種道あり。一には難行道、二には易行道也。難行道と云は、いはく五濁の世、无佛のときにして阿毗跋致を求を難とす。この難にすなわち多途あり。ほゞ五三をいふてもて義のこゝろを示。一には外道の相善、菩薩の法をみだる。二には聲聞の自利、大慈悲をさふ。三には无顧惡人、他の勝德を破。四には顚倒の善果、よく梵行をやぶる。五にはたゞこれ自力にしてⅢ-0788他力をまつなし。かくのごときらの事、目にふるゝにみなこれ也。たとへば陸路を步行すればすなわち苦がごとし。易行道と云は、いはくたゞ佛を信ずる因縁をもて淨土に生ぜむと願ず。佛の願力に乘じてすなわちかの淸淨の土に往生することをう。佛力住持して、すなわち大乘正定の聚に入。正定はすなわちこれ阿毗跋致也。たとへば水路に船に乘てすなわち樂がごとし」。聖道門也。易行道と云は、すなわちこれ淨土門也。難行・易行、聖道・淨土、そのことばことなりといへども、そのこゝろこれおなじ。天台・迦才これにおなじ、しるべし。また『西方要決』に云、「仰でおもむみれば、釋迦、運ひらけて有縁をひろく益。敎、隨方にひらけて幷に法潤にうるおふ。親聖化にあふものは、道を三乘に悟き。福薄、因おろそかなるものをすゝめて淨土に歸せしむ。この業をなすものは、もはら彌陀を念じ、一切の善根をめぐらしてかのくにゝ生ず。彌陀の本願誓て娑婆を度したまふ。上現在の一形をつくし、下臨終の十念にいたるまで、共よく決定してみな往生することをう」。またおなじき後序に云、「それおもむみれば、生像季居して、聖を去ことこれはるか也。道、三乘にあづかりて契悟するに方なし。人天の兩位は躁動してやすからず。Ⅲ-0789智ひろくこゝろひろくして、よくひさしく處するにたえたり。もし識おろかに行あさきものは、恐は幽塗におぼれむことを。必ずすべからくあとを娑婆にとおざかり、こゝろを淨域にすますべし」(西方*要決)。W已上Rこの中に三乘と云はすなわちこれ聖道門のこゝろ也。淨土いふはすなわちこれ淨土門のこゝろ也。三乘・淨土、聖道・淨土、そのなことなりといへども、そのこゝろまた同。淨土宗の學者、まづすべからくこのむねをしるべし。たとひさきに聖道門を學せる人なりと云とも、もし淨土門におひてそのこゝろざしあらむものは、すべからく聖道をすてゝ淨土に歸すべし。例せば、かの曇鸞法師は四論の講說をすてゝ一向に淨土に歸し、道綽禪師は涅槃の廣業をさしおきてひとへに西方の行をひろめしがごとし。上古の賢哲なほもてかくのごとし。末代の愚魯寧これにしたがはざらむや。 問云、聖道家諸宗におのおの師資相承あり。謂天台宗のごときは、惠文・南岳・天台・章安・智威・惠威・玄朗・湛然、次第相承せり。眞言宗のごときは、大日如來・金剛薩埵・龍樹・龍智・金智・不空、次第相承せり。自餘の諸宗、またおのおの相承の血脈あり。しかるにいまいふところの淨土宗におひて、師資相承の血脈の譜ありや。答云、聖Ⅲ-0790道家血脈のごとく淨土宗にまた血脈あり。たゞ淨土の一宗におひて諸家また不同也。門徒一にあらず。謂廬山の惠遠法師、慈愍三藏、道綽・善道等これ也。今しばらく道綽・善導の一家によりて、師資相承の血脈を論ぜば、これにまた兩說あり。一には菩提流支三藏・惠寵法師・道場法師・曇鸞法師・大海禪師・法上法師W已上、出『安樂集』R。二には菩提流支三藏・曇鸞法師・道綽禪師・懷感法師・少康法師W已上、唐宋出兩傳R。 (二)善導和尙、正雜二行を立、雜行をすてゝ正行に歸する文。 『觀經の疏』の第四(散善義)にいはく、「行について信を立と云は、しかも行に二種あり。一には正行、二には雜行。正行と云は、もはら往生の經によて行を行ずるもの、これを正行となづく。なにものかこれや。一心にもはらこの『觀經』・『彌陀經』・『无量壽經』等を讀誦し、一心にもはら思想をとゞめてかの國二報莊嚴を觀察・憶念する也。もし禮するにはすなわち一心にもはらかの佛を禮し、もし口に稱するにはすなわち一心にもはらかの佛を稱し、もし讚嘆供養せばすなわち一心にもはら讚嘆供養す。これをなづけて正とす。またこの正の中に、また二種あり。一にはもはら彌陀の名號を念じて、行住坐臥に時節の久近をとわずⅢ-0791念々にすてざるを、これを正定の業となづく。かの佛の願に順ずるがゆへに。もし禮誦等によらばすなわち名て助業とす。この正助二行をのぞいて已外の自餘諸善おば悉雜行となづく。もしさきの正助の二行を修するは、心つねに親近し憶念たえず、なづけて无間する也。もしのちの雜行を行ずるは、すなわち心つねに間斷す。廻向して生ずることをうべしといへども、悉疎雜の行となづくるなり」。 私に云、この文について二のこゝろあり。一には往生行相を明。二には二行の得失を判ず。 始に往生の行相を明といふは、善導和尙のこゝろによらば、往生の行多といへども多に分て二とす。一には正行、二には雜行。始に正行と云は、これについて開合の二義あり。始に開して五種、後には合して二種とす。始に開して五種すと云は、一には讀誦正行、二には觀察正行、三には禮拜正行、四には稱名正行、五には讚嘆供養正行也。第一に讀誦正行と云は、もはら『觀經』等を讀誦する也。すなわち文にいはく、「一心にもはらこの『觀經』・『彌陀經』・『无量壽經』等を讀誦する」也。第二に觀察正行と云は、專かのくにの依正二報を觀察する也。すなわち文に云、「一心に思想Ⅲ-0792し專注しかのくにの二報莊嚴を觀察・憶念する」これ也。第三に禮拜正行と云は、もはら彌陀を禮する也。すなわち文に云、「もし禮せばすなわち一心にもはらかの佛を禮する」これなり。第四に稱名正行と云は、もはら彌陀の名號を稱する也。すなわち文に云、「もし口に稱せばすなわち一心にもはらかの佛を稱する」これ也。第五に讚嘆供養正行と云は、もはら彌陀を讚嘆供養する也。すなわち文に云、「もし讚嘆供養せばすなわち一心にもはら讚嘆供養す、これを名て正とす」と云これ也。もし讚嘆と供養とを開して二とするには、六種の正行となづくべし。今合の義によるがゆへに五種と云。つぎに合して二種とすと云は、一には正業、二には助業。始に正業と云は、上の五種の中の第四の稱名をもて正定の業とす。すなわち文に云、「一心にもはら彌陀の名號を念じて、行住坐臥時節の久近をとはず念々にすてざるもの、これを正定の業となづく。かの佛の願に順ずるがゆへに」とこれなり。つぎに助業と云は、第四の口稱を除の外讀誦等の四種をもて助業とす。すなわち文に云、「もし禮誦等によるおばすなわち名助業とする」これ也。 問云、何ゆへぞ五種の中に獨稱名念佛をもて正定の業とするや。答云、かの佛の願に順ずるがゆⅢ-0793へに。こゝろのいはく、稱名念佛はこれかの佛の本願の行也。かるがゆへにこれを修するものは、かの佛の願に乘じて必ず往生をうる也。その本願の義、下にいたりてしるべし。 つぎに雜行と云は、すなわち文に云、「この正助二行を除ての外自餘の諸善を悉雜行となづくる」これ也。こゝろはいはく、雜行无量也、つぶさにのぶるにいとまあらず。たゞいましばらく五種の正行を翻對して、もて五種の雜行を明也。一に讀誦雜行、二に觀察雜行、三に禮拜雜行、四に稱名雜行、五に讚嘆供養雜行也。第一に讀誦雜行と云は、上の『觀經』等の往生淨土の經を除て已外の大少乘顯密の諸經を受持讀誦するは、悉讀誦雜行となづく。第二に觀察雜行と云は、上の極樂の依正をのぞいてのほかの大小、顯密、事理觀行、悉觀察雜行となづく。第三に禮拜雜行と云は、上の彌陀を禮拜するをのぞきて外の一切の諸佛・菩薩等およびもろもろの世天等におひて禮拜恭敬する、悉禮拜雜行となづく。第四に稱名雜行と云は、上の彌陀の名號を稱するを除てほかの自餘の一切の佛・菩薩等およびもろもろの世天等の名號を稱するを、悉稱名雜行となづく。第五に讚嘆供養雜行と云は、上の彌陀佛を除て已外の一切の諸餘の佛・菩薩等Ⅲ-0794およびもろもろの世天等におひて讚嘆供養するを、悉讚嘆供養雜行と名。このほかにまた布施・持戒等の无量の行あり。みな雜行のことばに攝盡すべし。 つぎに二行の得失を判ぜば、「もしさきの正助二行を修するは、心つねに親近して憶念たへず、名无間とする也。もしのちの雜行を行ずるは、すなわち心つねに間斷す。廻向してうまるゝことをうべしといへども、悉疎雜の行となづく」、すなわちその文也。このこゝろを按ずるに、正雜二行について五番の相對あり。一には親疎對、二に近遠對、三に无間有間對、四に不廻向廻向對、五に純雜對也。第一に親疎對と云は、まづ親と云は、正助二行を修するものは阿彌陀佛におひてはなはだもて親昵たり。かるがゆへに『疏』(定善義)の上の文に云、「衆生行を立口につねに佛を稱すれば、佛すなわちこれをきこしめす。身につねに佛を禮敬すれば、佛すなわちこれをみそなわす。心につねに佛を念ずれば、佛すなわちこれをしろしめす。衆生佛憶念すれば、佛衆生を憶念したまふ。彼此の三業あひ捨離せず。かるがゆへに親縁と名也」。つぎに疎と云は雜行也。衆生佛を稱せざれば、佛すなわちこれをきこしめさず。身に佛を禮せざれば、佛すなわちこれをみそなはさず。心に佛を念ぜざれば、Ⅲ-0795佛すなわちこれをしろしめさず。衆生佛を憶念せざれば、佛衆生を憶念したまわず。彼此の三業つねに捨離するがゆへに疎行となづくる也。第二に近遠對と云は、まづ近と云は、正助二行を修するものは阿彌陀佛におひてはなはだもて隣近たり。故に『疏』(定善義)の上の文に云、「衆生佛をみ奉と欣ば、佛卽念に應じて現じてめのまへに在。故に近縁と名也」。つぎに遠と云はこれ雜行也。衆生佛をみ奉と欣ざれば、佛卽念に應ぜず、めのまへに現じたまわず。故に遠と名なり。たゞし親近の義これ一ににたりといへども、善導のこゝろに分て二とすと。その旨『疏』の文にみへたり。故に今引釋するところ也。第三に无間有間對と云は、まづ无間と云は、正助二行を修ものは阿彌陀佛におひて憶念間斷せず。故に「名て无間とす」これ也。つぎに有間と云は、雜行を修するものは阿彌陀佛におひて憶念つねに間斷するがゆへに「心につねに間斷す」と云これ也。第四に不廻向廻向對と云は、正助二行を修するものは、たとひ別して廻向を用ざれども自然に往生の業となる。故に『疏』(玄義分)の上の文に云、「今この『觀經』の中十聲佛を稱すれば、すなわち十願十行具足せり。いかゞ具足する。南无と云はすなわちこれ歸命、またこれ發願廻Ⅲ-0796向の義也。阿彌陀佛と云は卽これその行也。この義をもてのゆへに必ず往生することをう」。W已上Rつぎに廻向と云は、雜行を修するものは、必ず廻向を用とき往生の因となる。もし廻向を用ざるときは往生の因とならず。故に「廻向して生ことをうべしといへども」と云これ也。第五に純雜對と云は、まづ純と云は、正助二行を修するは純也、これ極樂の行也。つぎに雜と云は、これ極樂の行にあらず。人天および三乘に通ず、また十方淨土に通ず。故に雜と云也。しかれば西方の行者、須雜行をすてゝ正行を修すべき也。 問云、この純雜義、經論中におひてその證據ありや。答云、大少乘の經・律・論の中におひて純雜二門を立、その例一にあらず。大乘には卽八藏の中におひて雜藏を立。正にしるべし、七藏はこれ純、一藏はこれ雜也。小乘には卽四含中おひて雜含をたつ。まさにしるべし、三含はこれ純、一含はこれ雜也。律には卽二十犍度を立もて戒行を明。その中にさきの十九はこれ純、後一は雜犍度也。論には卽八犍度を立、諸法の性相を明。さきの七犍度はこれ純、後一はこれ雜犍度也。賢聖集中に、唐宋兩傳に十科の法を立高僧の行德を明。その中のさきの九はこれ純、後一は雜科也。乃至、『大乘義章』に五聚法門あⅢ-0797り。先四聚はこれ純、後一はこれ雜聚也。また顯敎のみにあらず。密敎の中に純雜の法あり。山家『佛法血脈の譜』に云、一には胎藏界曼陀羅血脈の譜一首、二には金剛界の曼陀羅の血脈譜一首、三には雜曼陀羅血脈の譜一首。前二首はこれ純、後一首はこれ雜也。純雜義多といへども、今略して少分をあぐ耳と。まさにしるべし、純雜、法に順て不定也。これによりて今善導和尙こゝろに、しばらく淨土行におひて純雜を論ず。またこの純雜の義内典に限ず、外典中その例甚多。茲を畏出ず。たゞ往生の行におひて二行を分ことは、善導一師のみに限ず。もし道綽禪師こゝろによらば、往生の行多といへどもつかねて二とす。一には謂念佛往生、二にはいはく萬行往生なり。もし懷感法師義よらば、往生の行多いへどもつかねて二とす。一にはいはく念佛往生、二にはいはく諸行往生W惠心同之R。かくのごときの三師、各二行を立往生行攝す。甚その旨をえたり。自餘の諸師はしからず。行者これをおもふべし。 『往生禮讚』(意)云、「もしよく上のごとく念々相續して、命終期するものは、十は卽十生ず、百は卽百ながら生ず。何もてのゆへに。外雜縁なし、正念Ⅲ-0798をえたるがゆへに。佛の本願と相應するがゆへに。敎に違ざるがゆへに。佛語に隨順するがゆへ也。もし專をすてゝ雜業を修せむものは、百は時に希一二をう、千は時希三五をう。何もてのゆへに。雜縁亂動す、正念を失するがゆへに。佛の本願と相應せざるがゆへに。係念相續せざるがゆへに。憶想間斷せるがゆへに。廻願慇重眞實ならざるがゆへに。貪瞋・諸見煩惱きたりて間斷するがゆへに。慚愧・悔過心あることなきがゆへ也。また相續してかの佛恩を報ぜむことを念ぜざるがゆへに。心に輕慢をなして、業行をなすといへどもつねに名利と相應せるがゆへに。人我自おほふて同行善知識に親近せざるがゆへに。欣て雜縁近て、往生の正行を自のおもさえ、人のおもさふるがゆへに。何をもてのゆへに。余、このごろ自諸方道俗を見聞するに、解行不同にして專雜異ことあり。たゞこゝろを專してなすものは、十は卽十ながら生、雜を修して心をいたさゞるものは、千が中に一もなし。この二行の得失、さきにすでに辯がごとし。仰願は、一切の往生人等、よく自思量せよ。すでによく今身かの國生ぜむと願ぜむものは、行住坐臥必ず須心をはげまし、己を剋して晝夜にすたるゝことなかれ。命終を期して、上一形にあて少苦似ども、前念に命終Ⅲ-0799して後念に卽かの國生じて、長時永劫につねに无爲法樂をうけ、乃至成佛まで生死をへず。あにたのしみにあらずや。應知」。 私云、この文をみて、彌雜を捨專を修べし。あに百卽百生專修正行を捨、かたく千中无一の雜行を執せむや。行者よくこれを思量。 選擇本願念佛集W假字上本R 正元元歲九月朔日書之 愚禿親鸞W八十七歲R Ⅲ-0800選擇本願念佛集W假字下本R (八)念佛の行者かならず三心を具足すべき文。 『觀无量壽經』にのたまはく、「もし衆生ありてかのくにゝむまれむとねがはむものは、三種の心をおこしてすなわち往生す。なむらおか三とする。一には至誠心、二には深心、三には廻向發願心なり。三心を具すればかならずかのくにゝ生ず」。 同經の『疏』(散善義)にいはく、「一には至誠心。至は眞なり。誠は實なり。一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず眞實心の中になしたまへるをもちゐることをあかさむとおもふ。ほかには賢善精進の相を現ずることをえざれ、うちに虛假をいだければなり。貪瞋・邪僞・奸詐百端にして惡性やめがたし、事、蛇蝎におなじ。三業をおこすといへども名て雜毒の善とす、また虛假の行となづく、眞實の業となづけず。もしかくのごとく安心・起行をなさば、たとひ身心を苦勵して日夜十二時に急にもとめ急になして頭燃をはらふがごとくすとも、Ⅲ-0801すべて雜毒の善となづく。この雜毒の行を廻してかの佛の淨土に求生せむとおもはむものは、これかならず不可なり。なにをもてのゆへに。まさしくかの阿彌陀佛の因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業に修するところ、みなこれ眞實心の中になしたまひしによてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな眞實なり。また眞實に二種あり。一には自利の眞實、二には利他の眞實なり。自利の眞實といふは、また二種あり。一には眞實心中に、自他の諸惡および穢國等を制捨して、行住座臥に一切菩薩の諸惡を制捨するにおなじく、我もまたかくのごとくならむと。二には眞實心の中に、自他の凡聖等の善を勤修するにおなじからむとおもふ。眞實心の中の口業に、かの阿彌陀佛および依正二報を讚嘆し、また眞實心の中の口業に、三界六道等の自他の依正二報の苦惡の事を毀厭し、また一切衆生の三業所爲の善を讚嘆せむ。もし善業にあらずは敬しかもこれをとおざかれ、また隨喜せざれ。また眞實心の中の身業に、合掌禮敬して、四事等をもてかの阿彌陀佛および依正二報を供養し、また眞實心の中の身業に、この生死三界等の自他の依正二報を輕慢し厭捨し、また眞實心の中の意業に、かの阿彌陀佛および依正二報を思惟し觀察し憶念しⅢ-0802て、目のまへに現ずるがごとくにし、また眞實心の中の意業に、この生死三界等の自他の依正二報を輕賤し厭捨せよ。不善の三業おば、かならず眞實心の中にすてたまへるをもちゐべし。また善の三業をおこさむものは、かならず眞實心の中になしたまへるをもちゐて、内外明闇をえらばず、みな眞實をもちゐるがゆへに、至誠心となづく。二には深心なり。深心といふはすなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一には決定してふかく、自身は現にこれ罪惡生死の凡夫也、曠劫よりこのかたつねに沒しつねに流轉して、出離の縁あることなしと信ず。二には決定してふかく、かの阿彌陀佛、四十八願をもて衆生を攝受して、うたがひなくおもむぱかりなくかの願力に乘じてさだめて往生をうと信ず。また決定してふかく、釋迦佛この『觀經』の三福・九品の定散二善を說て、かの佛の依正二報を證讚して、人をして忻慕せしめたまふと信ず。また決定してふかく、『彌陀經』の中の十方恆沙の諸佛、證して一切の凡夫をすゝめて、決定してむまるゝことをうと信ず。またふかく信ずといふは、仰でねがはくは、一切の行者等、一心に佛語を唯信して身命をかへりみず、決定してより行じて、佛のすてしめたまふおばすなわちすて、佛の行ぜしめたまふおばすなわち行じ、佛Ⅲ-0803のさらしめたまふところおばすなわちさる。これを佛敎に隨順し、佛意に隨順すと名く。これを佛願に隨順すとなづく。これを眞の佛弟子となづく。また一切の行者、たゞよくこの『經』によてふかく信じ行ずるものは、かならず衆生をあやまたざるなり。なにをもてのゆへに。佛はこれ滿足大悲の人なるがゆへに。實語なるがゆへに。佛をのぞいて已還は、智行いまだみたず。その學地にあり、正習の二障あていまだのぞかず、果願いまだまどかならざるによりてなり。これらの凡聖はたとひ諸佛の敎意を惻量すれども、いまだよく決了することあたはず。平章ありといへども、かならずすべからく佛證を請じて定とすべきなり。もし佛意にかなえば、すなわち印可して如是如是とのたまふ。もし佛意にかなはざれば、すなわちなむだちが所說この義かくのごとくならずとのたまひて、印したまはざれば、すなわち無記・无利・无益の語におなじ。佛の印可したまふは、すなわち佛の正敎に隨順するなり。もし佛の所有の言說は、すなわちこれ正敎・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多、もしは少、おほく菩薩・人天等をとはず、その是非をさだめむや。もし佛の所說はすなわちこれ了敎なり、菩薩等の說はことごとく不了敎となづくるなり、しるべし。このゆへにⅢ-0804いまの時、あおいで一切の有縁の往生人等にすゝむ。たゞふかく佛語を信じて專註奉行すべし。菩薩等の不相應の敎を信用して、もて疑礙をなし、惑をいだき、みづから迷て往生の大益を廢失すべからざるなり。また深心ふかく信ずといふは、決定して自心を建立して、敎に順じて修行し、ながく疑錯をのぞいて、一切の別解・別行・異學・異見・異執のために、退失傾動せられざるなり。 問いはく、凡夫は智あさく、惑障ところふかし。もし解行おなじからざらむ人の、おほく經論をひききたりてあひこのむで難證して、一切の罪障の凡夫往生することをえずといふにあはゞ、いかゞかの難を對治して、信心を成就し、決定して直すゝむで、怯退を生ぜざらむや。答いはく、もし人あて、おほく經論の證をひいて、むまれずといはゞ、行者こたへていへ、仁者、經論をもてきたり證してむまれずといふといへども、我心のごときは決定してなむぢが破をうけじ。なにをもてのゆへに。しかも我また、これかの諸經論を信ぜざるにはあらず。ことごとくみなあふいで信ず。しかるを佛かの經を說たまふ時、ところ別に、時別に、對機別に、利益別なり。またかの經をときたまひし時、すなわち『觀經』・『彌陀經』等を說く時にあらず。しかも佛の說敎は、機にそなえし時まⅢ-0805た不同なり。かれはすなわち通じて人天・菩薩の解行を說く。いまの『觀經』の定散二善をとくは、たゞ韋提および佛滅後の五濁・五苦等の一切の凡夫のために、證して生ずることをうとのたまふ。この因縁のために、我いま一心にこの佛敎によりて決定して奉行す。たとひなむだち百千萬億むまれずといふとも、たゞ我往生の信心を增長し成就せむ。また行者さらにむかひて說ていへ。仁者よくきけ。我いまなむぢがためにさらに決定の信相を說かむ。たとひ地前の菩薩・羅漢・辟支佛等、もしは一、もしは多、乃至十方に遍滿して、みな經論の證をひきて生ぜずといはゞ、我またいまだ一念の疑心をおこさじ。たゞ我淸淨の信心を增長し成就せむ。なにをもてのゆへに。佛語は決定成就の了義にして、一切のために破壞せられざるによるがゆへに。また行者よくきけ。たとひ初地已上十地已來、もしは一、もしは多、乃至十方に遍滿して、異口同音にみな、釋迦佛、彌陀を指讚し、三界六道を毀呰し、衆生を勸勵して、專心に念佛せしめ、および餘の善を修して、この一身をおはりてのちに必定してかのくにゝうまるといはゞ、これはかならず虛妄なり、より信ずべからずとなり。我これらの所說をきくといふとも、また一念の疑心を生ぜじ。たゞ我決Ⅲ-0806定して上上の信心を增長し成就せむ。なにをもてのゆへに。すなわち佛語は眞實決了の義なるによるがゆへに。佛はこれ實知・實解・實見・實證にして、これ疑惑の心中の語にあらざるがゆへに。また一切の菩薩の異見・異解のために破壞せられず。もし實にこれ菩薩ならば、すべて佛敎にたがはじ。またこの事を置く。行者まさにしるべし。たとひ化佛・報佛、もしは一、もしは多、乃至十方に遍滿して、おのおの光をかゞやかして、みしたをはいて十方にあまねくおほふて、一々に說て、釋迦の所說をあひほめて、一切の凡夫を勸發して、專心に念佛し、および餘善を修して、廻願してかの淨土にむまるゝことをうといふは、これ虛妄なり。さだめてこのことなきなりといふとも、我これらの諸佛の所說をきくといふとも、畢竟じて一念の疑退のこゝろをおこして、かの佛國にむまるゝことをえざらむことをおそれじとなり。なにをもてのゆへに。一佛は一切佛也。所有の知見・解行・證悟・果位・大悲、等同にしてすこしの差別なし。このゆへに一佛の制したまふところは、すなわち一切の佛おなじく制したまふ。前佛の殺生・十惡等のつみを制斷したまふがごとく、畢竟じて犯せず行ぜずは、すなわち十善・十行、六度の義に隨順すとなづく。もし後佛ましましてⅢ-0807世にいでゝ、あにさきの十善をあらためて十惡を行ぜしむべけむや。この道理をもておしてかむがふるに、あきらかにしりぬ。諸佛の言行はあひ違失せず。たとひ釋迦一切の凡夫をおしえすゝめて、この一身をつくして專念し專修して、いのちをすておはてのち、さだめてかのくにゝむまるといふは、すなわち十方の諸佛もことごとくみなおなじく讚じ、おなじくすゝめ、おなじく證したまふ。なにをもてのゆへに。同體の大悲のゆへに。一佛の所化は、すなわち一切佛の化なり。一切佛の化は、すなわちこれ一佛の所化なり。すなわち『彌陀經』の中に說く、釋迦極樂の種種の莊嚴を讚嘆し、また一切の凡夫をすゝめて、一日七日、一心に彌陀佛の名號を專念して、さだめて往生することをう。次下の文にいはく、十方におのおの恆河沙等の諸佛ましまして、おなじく釋迦をほめて、よく五濁惡時、惡世界、惡衆生、惡煩惱、惡邪、无信のさかりなる時において、彌陀の名號を指讚して、衆生をすゝめはげまして、稱念すればかならず往生することをうといふこと、すなわちその證なり。また十方の佛等、衆生の釋迦一佛の所說を信ぜざらむことを恐畏して、すなわちともに同心同時におのおの舌相をいだして、あまねく三千世界におほふて、誠實の言をときたまふ。なむだちⅢ-0808衆生、みなこの釋迦の所說・所讚・所證を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近をとはず、たゞよく上百年をつくし、下一日七日にいたるまで、一心に彌陀の名號を專念すれば、さだめて往生をうること、かならずうたがひなきなり。このゆへに一佛の所說は、すなわち一切の佛おなじくその事を證誠したまふなり。これを人について信をたつとなづく。次に行について信をたつといふは、しかも行に二種あり。一には正行、二には雜行なりといへりWさきの二行の中にひくところの如し。しげきをおそれてのせず。みむ人こゝろうべしR。三には廻向發願心。廻向發願心といふは、過去および今生の身口意業に修するところの世出世の善根、および他の一切凡聖の身口意業に修するところの世出世の善根を隨喜して、この自他の所修の善根をもて、ことごとくみな眞實のふかき信心の中に廻向して、かのくにゝ生ぜむと願ずるがゆへに廻向發願心となづく。また廻向發願して生ずといふは、かならずすべからく決定の眞實心の中に廻向して、願じて得生のおもひをなすべし。この心ふかく信ずること、なほし金剛のごとくして、一切の異見・異學・別解・別行の人等のために動亂破壞せられず。たゞこれ決定して一心にとて、正直に進で、かの人のことばをきゝて、すなわち進退することあて、心に怯弱を生じて、廻顧して道Ⅲ-0809におちて、すなわち往生の大益をうしなふことをえざれとなり。 問いはく、もし解行不同の邪雜の人等ありて、きたりてあひ惑亂して、あるいは種種の疑難を說て、往生することをえずといひ、あるいはいはむ、なむだち衆生、曠劫よりこのかた今生の身口意業に、一切の凡聖の身のうえにおいてつぶさに十惡・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等のつみをつくりて、いまだ除盡することあたはず。しかるにこれらのつみは三界惡道に繫屬せり。いかむぞ一生の修福念佛にて、すなわちかの无漏无生の國にいりて、ながく不退のくらゐを證悟することをえむや。答いはく、諸佛の敎行、かず塵沙にこえたり。稟識の機縁、心にしたがふて一にあらず。たとへば世間の人の眼にみつべく信じつべきがごときは、明のよく闇を破し、空のよく有をふくみ、地のよく載養し、水のよく生潤し、火のよく成壞するがごとし。これらのごときの事、ことごとく待對の法となづく。すなわち目にみるべし。千差萬別なり。いかにいはむや、佛法不思議のちから、あに種種の益なからむや。したがふて一門をいづれば、すなわち一煩惱の門をいづるなり。したがふて一門にいれば、すなわち一解脫智慧の門にいるなり。これがために縁にしたがひ行をおこして、おのおの解脫をもとむ。Ⅲ-0810なんぢ、なにをもてかすなわち有縁の要にあらざる行をもて我を障惑する。しかるに我愛するところは、すなわちこれ我有縁の行也。すなわちなんぢがもとむるところにあらず。なんぢが愛するところは、すなわちこれなんぢが有縁の行なり。また我もとむるところにあらず。このゆへにおのおの所樂にしたがふて、しかもその行を修するものは、かならずとく解脫をうるなり。行者まさにしるべし。もし解をまなばむとおもはゞ、凡より聖にいたり、乃至佛果まで、一切さはりなくみなまなぶことをうるなり。もし行をまなばむとおもはゞ、かならず有縁の法によて、すこしき功勞をもちゐるにおほく益をうるなり。また一切の往生人等にまふさく、いまさらに行者のために一の喩を說て、信心を守護して、もて外邪異見の難をふせがむ。なにものかこれや。たとえば、人あて西にむかふて百千里をゆかむとするに、忽然として中路に二の河あり。一にはこれ火の河、南にあり。二にはこれ水の河、北にあり。二の河おのおのひろさ百步、おのおのふかくしてそこなし、南北にほとりなし。まさしく水火の中間に一の白道あり。ひろさ四、五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西のきしにいたるまで、またながさ百步、その水の波浪、まじわりすぎて道をうるおす。その火のほのお、Ⅲ-0811またきたりてみちをやく。水火あひまじはりてつねに休息することなし。この人すでに空曠のはるかなるところにいたるに、さらに人物なくして、おほく群賊・惡獸のみあり。この人の單獨なるをみて、きたりてころさむとす。この人死をおそれて直にはしりて、西にむかふ。忽然としてこの大の河をみて、すなわちみづから念言すらく、この河南北に邊畔をみず。中間に一の白道をみる。きわめてこれ狹少なり。二の岸あひさることちかしといへども、なにゝよりてかゆくべき。死せむことうたがはず。まさしくいたりかへらむとすれば、群賊・惡獸やうやくにきたりせむ。まさしく南北にさりはしらむとすれば、惡獸・毒蟲きおひきたりて我にむかふ。まさしく西にむかふて道をたづねてさらむとすれば、またおそらくはこの水火の二河におちむことを。時にあたて惶怖することまたいふべからず。すなわちみづから思念すらく、我いまかへるともまた死し、住すとも死し、さるともまた死せむ。一種として死をまぬかれざれば、むしろこの道をたづねてさきにむかふてさらむ。すでにこの道あり。かならずわたるべし。このおもひをなさむ時に、東の岸にたちまちに人のすゝむるこゑをきく。仁者、たゞ決定してこの道をたづねてゆけ。かならず死の難なかるべし。もしⅢ-0812住せばすなわち死しなむ。また西の岸のうえに人ありて、喚ていはく、なんぢ一心に正念にて直にきたれ。我よくなんぢをまぼらむ。ことごとく水火の難におちむことをおそれざれ。この人すでにこゝにつかはし、かしこによばふをきゝて、すなわちみづからまさしく身心にあたりて、決定して、道をたづねてたゞちにすゝむで疑怯退心をなさゞれ。あるいはゆくこと一分二分するに、東の岸に群賊等よばふていはく、仁者かへりきたれ。この道は嶮惡にしてすぐることえじ。かならず死なむことうたがはず。われら、もろもろの惡心をもてあひむかふことなしと。この人よばふこゑをきくといへども、またかへりみず。一心にたゞちに道を念じてゆけば、須臾にすなわち西のきしにいたりて、ながく諸難をはなれて、善友あひみて慶樂することやむことなきが如し。これはこれたとえなり。次にたとえを合せば、東の岸といふは、すなわちこの娑婆世界の火宅にたとふるなり。西の岸といふは、すなわち極樂の寶國にたとふる也。群賊・惡獸いつわりしたしむといふは、すなわち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大にたとふるなり。无人空迥の澤といふは、すなわちつねに惡友にしたがふて眞の善知識にあはざるにたとふるなり。水火の二河といふは、すなわち衆生の貪愛は水Ⅲ-0813のごとし、瞋憎は火のごとくなるにたとふるなり。中間の白道四、五寸といふは、すなわち衆生の貪瞋煩惱の中に、よく淸淨の願往生の心の生ずるにたとふるなり。すなわち貪瞋こはきによるがゆへに、すなわち水火のごとしとたとふ。善心は微なるがゆへに、白道の如とたとふる也。また水波つねに道をうるおすといふは、すなわち愛心つねにおこりて、よく善心を染汚するにたとふるなり。また火焰つねに道をやくといふは、すなわち瞋嫌の心よく功德の法財をやくにたとふるなり。人道のうえをゆきてたゞちに西にむかふといふは、すなわちもろもろの行業を廻して、直に西方にむかふにたとふるなり。東の岸に人のこゑあてすゝめつかはすをきゝて、道をたづねてたちまちに西にすゝむといふは、すなわち釋迦すでに滅して、のちの人みたてまつらず、なほ敎法のみあてたづぬべきにたとふるなり。すなわちそれをこゑのごとしとたとふるなり。あるいはゆくこと一分二分するに群賊等よびかへすといふは、すなわち別解・別行・惡見の人等の、みだりに見解してたがひにあひ惑亂し、およびみづからつみをつくりて退失すと說に喩なり。西のきしのうえに人あてよばふといふは、すなわち彌陀の願意にたとふるなり。須臾に西の岸にいたりて善友あひみてよろこぶといふⅢ-0814は、すなわち衆生ひさしく生死にしづみて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏て、解脫するによしなきにたとふるなり。あおいで釋迦發遣して、さして西方にむかへしむることをかうぶり、また彌陀の悲心をもて招喚したまふによる。いま二尊の心に信順して、水火の二河をかへりみず、念念にわするゝことなかれ。かの願力の道に乘じて、いのちをすておはりてのち、かのくにゝ生ずることをうるにたとふ。佛とあひみて慶喜すること、なんぞきはまらむや。また一切の行者、行住座臥の三業に修するところ、晝夜時節をとふことなく、つねにこのさとりをなし、つねにこのおもひをなす。かるがゆへに廻向發願心となづく。また廻向といふは、かのくにゝ生じおはりて、かへて大悲をおこして、生死に廻入して衆生を敎化す、また廻向なり。三心すでに具足すれば、行として成ぜずといふことなし。願行すでに成じて、もし生ぜずといはゞ、このことはりあることなけむ。またこの三心は、また通じて定善の義を攝すと知べし」。 『往生禮讚』にいはく、「問いはく、いま人をすゝめて往生せしめむとおもはゞ、いまだしらず、いかゞ安心・起行・作業して、さだめてかのくにゝ往生することをうるや。答いはく、かならずかの國土に生ぜむとおもはゞ、『觀經』にⅢ-0815說がごときは、三心を具すればかならず往生をう。なにおか三とする。一には至誠心、いはゆる身業にかの佛を禮拜し、口業にかの佛を讚嘆稱揚し、意業にかの佛を專念し觀察する也。凡そ三業をおこすに、かならず眞實をもちゐるがゆへに至誠心となづく。二には深心、すなわちこれ眞實の信心なり。自身はこれ煩惱を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流轉して、いまだ火宅をいでずと信知す。いま彌陀の本弘誓願は、名號を稱すること下十聲・一聲等にいたるにおよぶまで、さだめて往生をうと信知して、乃至一念も疑心あることなし。かるがゆへに深心となづく。三には廻向發願心、所作の一切の善根ことごとくみな廻して往生せむと願ず。かるがゆへに廻向發願心となづく。この三心を具して、かならず往生をうるなり。もし一心かけぬれば、すなわちうまるゝことをえず。『觀經』につぶさに說がごとし、知べし」。 私にいはく、ひくところの三心といふは、これ行者の至要なり。ゆへいかむとなれば、『經』(觀經)にはすなわち、「三心を具すればかならずかの國に生ず」といふ。あきらけし、しりぬ、三心を具してかならずむまるゝことをうべしと。釋にはすなわち、「もし一心かけぬればすなわち生ずることをえず」(禮讚)といふ。Ⅲ-0816あきらかにしりぬ、一心かけぬればこれさらに不可なりと。これによりて極樂に生ぜむとおもはむ人、またく三心を具足すべき也。その中に「至誠心」といふはこれ眞實の心なり。その相、かの文のごとし。たゞ「ほかに賢善精進の相を現ずることをえざれ、うちに虛假をいだければなり」、外は内に對することばなり。いはく外相と内心ととゝのはらざる心なり。すなわちこれ外は智、内は愚なり。賢は愚に對することばなり。いはく外はこれ賢にして、内はすなわち愚なり。善、惡に對することば也。いはく外はこれ善にして、内はすなわち惡也。精進は懈怠に對することば也。いはく外には精進の相をしめして、内にはすなわち懈怠をいたす心なり。もしそれ外をひるがへして内にたくはえば、まことに出要にそなえつべし。「内に虛假をいだく」とらいふは、内は外に對することば也。いはく内心と外相と不調のこゝろ也。すなわちこれ内はむなしく、外は實たるもの也。虛といふは實に對することば也。いはく内は虛、外は實なるもの也。假といふは眞に對することば也。いはく内は假にして、外は眞なり。もしそれ内をひるがへして外にほどこさば、また出要にたりぬべし。次に「深心」といふは、いはく深信の心なり。まさにしるべし、生死の家にはⅢ-0817疑をもてとゞまるところとす、涅槃の城には信をもて能入とす。かるがゆへに、いま二種の信心を建立して、九品往生を決定するものなり。またこの中に「一切の別解・別行・異學・異見」等といふは、これ聖道門の解・行・學・見をさす也。その餘はすなわちこれ淨土門の心なり。文にあてみるべし。あきらかにしりぬ、善導の心またこの二門をいでず。廻向發願心の義、別の釋をまつべからず。行者しるべし。この三心は、すべてこれをいはゞ、もろもろの行法に通ず。別してこれをいはゞ、往生の行にあり。いま通をあげて別を攝す。こゝろすなわちあまねし。行者よく用心して、あえて忽諸せしむることなかれ。 (九)念佛の行者四修の法を行用すべき文。 善導『往生禮讚』にいはく、「またすゝめて四修の法を行ぜしむ。なむらおか四とする。一には恭敬修。いはゆるかの佛およびかの一切の聖衆等を恭敬禮拜す。かるがゆへに恭敬修となづく。いのちおはるを期としてちかひて中止せざれ、すなわちこれ長時修なり。二には无餘修。いはゆるもはらかの佛の名を稱し、彼佛および一切聖衆等を專念・專想・專禮・專讚して、餘業をまじえず。かるⅢ-0818がゆへに无餘修と名く。いのちおはるを期としてちかひて中止せざれ、すなわちこれ長時修なり。三には無間修。いはゆる相續して恭敬し禮拜し、稱名し讚嘆し、憶念し觀察し、廻向發願、心心相續して餘業をもてきたしまじえず。かるがゆへに无間修となづく。また貪瞋煩惱をもてきたしまじえず。犯するにしたがふて、したがて懺せよ。念をへだて時をへだて日をへだてずして、つねに淸淨ならしめよ。また无間修となづく。畢命を期としてちかひて中止せざれ、これ長時修なり」。 『西方要決』にいはく、「たゞ四修を修してもて正業とす。一には長時修。初發心より乃至菩提まで、つねに淨因をなしてついに退轉することなし。二には恭敬修。これにまた五あり。一には有縁の聖人をうやまふ。いはく行住座臥に西方をそむかず、涕唾便痢、西方にむかはず。二には有縁の像敎をうやまふ。いはく西方の彌陀の像變をつくるなり。ひろくつくることあたはずは、たゞ一佛二菩薩をつくる。また敎をうといふは『彌陀經』等を五色の袋に入れて、みづからよみ他にもおしえよ。この經と像と室の中に安置して、六時に禮讚し、華香をもて供養し、ことに尊重をなせ。三には有縁の善知識をうやまふ。いはく淨土の敎をのⅢ-0819べむものは、もしは千由旬・百由旬よりこのかたは、ならびにすべからく敬重し親近し供養すべし。別學のものおばすべて敬心をおこせ。おのれとおなじからざるおば、たゞふかくうやまひをしれ。もし輕慢をなさば、つみをうることきはまりなし。かるがゆへにすべからくすべてうやまふべし。すなわち行のさわりおばのぞくべし。四には同縁の友をうやまふ。いはくおなじく業を修するもの、みづからはさはりおもしといへども、ひとり業は成ぜず。かならず良朋によりてまさによく行をなせば、あやうきをたすけもろきをすくひ、ちからをたすけてあひたすけ、同伴の善縁深あひ保重すべし。五には三寶をうやまふ。同體・別相ならびにふかくうやまふべし。つぶさに錄することあたはず。淺行のものゝために、はたしてより修せざらむや。住持の三寶といふは、いまの淺識のためにおほきに因縁をなす。いまほゞ料簡す。佛寶といふは、いはく檀をゑり、綺繡、素質金容、玉をちりばめ、かむばたにうつし、石にみがき、土を削、この靈像ことに尊承すべし。しばらくかたちを觀ずれば、つみきえて福をます。もし小慢をなせば、惡をまし善を亡す。たゞし尊容をおもふに、まさに眞佛をみたてまつるべし。法寶といふは、三乘の敎旨、法界の所流なり。名句の詮ずるとこⅢ-0820ろ、よくさとりを生ずる縁なり。かるがゆへにすべからく珍仰すべし。もて惠を發するもとゐ也。尊經を抄寫してつねに淨室に安ぜよ。箱䈄にいれたくはえて、ならびに嚴敬すべし。讀誦の時は、身も手も淸潔せよ。僧寶といふは、聖僧・菩薩・破戒のともがら等、心にうやまひをおこして、慢想を生ずることなかれ。三には无間修。いはくつねに佛を念じて往生の心をなすなり。一切の時において心につねにおもひたくめ。たとえば人あて他に抄掠せられて、身下賤となりてつぶさに艱辛をうく。たちまちに父母をおもふて國にはしりかへらむとす。行裝いまだ辨ぜず。なほ他郷にありて、日夜に思惟して、くるしきことたえしのばず。時としてしばらくもすてゝ耶孃をおもはずといふことなし。はかりごとをなすことすでに成じて、すなわちかへて達することをえて、父母に親近してほしきまゝに歡娛せむがごとし。行者もまたしかなり。往因の煩惱によて、善心を壞亂し、福智の珍財ならびにみな散失す。ひさしく生死にめぐりて、制して自由ならず。つねに魔王のために僕使となりて、六道に驅馳して、身心を苦切す。いま善縁にあふて、たちまちに彌陀の慈父の弘願にたがはず群生を濟拔することをきゝて、日夜におどろきいそぎて、心をおこしてゆかむと願ず。このゆへに精Ⅲ-0821懃ものうからずして、まさに佛恩を念ずべし。報じつくるを期として、心につねにはかりおもふべし。四には无餘修。いはくもはら極樂をもとめて彌陀を禮念せよ。たゞ諸餘の業行雜起せしめざれ。所有の業、日別にすべからく念佛・誦經を修すべし。餘課をとゞめざる而已」と。 私にいはく、四修の文をみるべし。しげきをおそれて解せず。たゞさきの文の中に、すでに四修といふて、たゞ三修あり。もしその文をぬけるか、もしはその心あるか。さらに文をぬけるにはあらず。そのふかきこゝろあり。なにをもてかしることをえむ。四修といふは、一には長時修、二には慇重修、三には無餘修、四には无間修なり。はじめの長時をもて、たゞこれ後の三修に通用するなり。いはく慇重もし退せば、慇重の行すなわち成ずべからず。无餘もし退せば、无餘の行すなわち成ずべからず。无間もし退せば、无間の修行すなわち成ずべからず。この三種の行を成就せしめむがために、みな長時をもて三修に屬して、通じて修せしむるところ也。かるがゆへに三修の下にみな結していはく、「畢命を期としてちかひて中止せざれ」といへり。すなわちこれ長時修これなり。例せばかの精進の餘の五度に通ずるが如し而已と。 Ⅲ-0822(十)彌陀の化佛來迎して、聞經の善を讚嘆せずして、たゞ念佛の行を讚嘆する文。 『觀无量壽經』にのたまはく、「あるいは衆生あてもろもろの惡業をつくりて、方等經典を誹謗せずといへども、かくのごときの愚人、おほく衆惡をつくりて慚愧あることなし。いのちおはらむとする時、善知識、ために大乘十二部經の首題の名字を讚にあはむ。かくのごときの諸經の名をきくことをもてのゆへに、千劫の極重惡業を除却す。智者またおしえて、たなごゝろをあはせ手をあざへて南无阿彌陀佛と稱す。佛の名を稱するがゆへに、五十億劫の生死のつみをのぞく。その時かの佛、すなわち化佛・化觀世音・化大勢至をつかはして、行者のまへにいたらしめて、ほめていはく、善男子、なんぢ佛の名を稱するがゆへに諸罪消滅すれば、我きたりてなんぢをむかふ」と。 同經の『疏』(散善義)にいはく、「所聞の化讚、たゞ稱佛の功をのべて、我來迎汝といひて、聞經の事を論ぜず。しかも佛の願意をのぞむには、たゞすゝめて正念にしてみなを稱するに、往生の義、ときこと雜散の業におなじからず。かくのごときの『經』および諸部の中に、處々にひろく嘆じて、すゝめて稱名せしむるを、まさに要益とするなり、知べし」と。 Ⅲ-0823私にいはく、聞經の善はこれ本願にあらず。雜業なるがゆへに化佛讚ぜず。念佛の行はこれ本願正業なるがゆへに、化佛讚嘆したまふ。しかのみならず、聞經と念佛と滅罪の多少不同也。『觀經の疏』(散善義)にいはく、「問いはく、なんがゆへぞ、經をきくこと十二部するには、たゞ罪をのぞくこと千劫、佛を稱すること一聲するには、すなわちつみをのぞくこと五百萬劫なるは、なにのこゝろぞや。答いはく、造罪の人さわりおもくして、加はるに死苦きたりせむるをもて、しばしば善人多經を說といゑども、餐受のこゝろ浮散す。こゝろ散ずるによるがゆへに、つみをのぞくことやゝかろし。また佛名はこれ一なり。すなわちよく散を攝してもて心を住せしむ。またおしえて正念にしてみなを稱せしむ。心おもきによるがゆへに、すなわちよく罪をのぞくこと多劫なり」。 (十一)雜善に約對して念佛を讚嘆する文。 『觀无量壽經』にのたまはく、「もし佛を念ぜむものは、まさにしるべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。觀世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となりて、まさに道場に座して諸佛の家に生ずべし」。 同經の『疏』(散善義)にいはく、「若念佛者といふより下、生諸佛家にいたる已來Ⅲ-0824は、まさしく念佛三昧の功能超絶して、實に雜善を比類とすることをうるにあらざることをあらはす。すなわちそれに五あり。一にはもはら彌陀佛のみなを念ずることをあかす。二には能念の人を讚ずることをあかす。三にはもしよく相續して念佛するものは、この人はなはだ希有なりとす。さらにものとしてこれにならぶべきことなきことをあかす。ゆへに分陀利をひきて喩とす。分陀利といふは、人中の好華となづく、また希有華となづく、また人中の上上花となづく、また人中の妙好華となづく。この花相傳して蔡華となづく。この念佛するひとは、すなわちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。四には彌陀の名を專念すれば、すなわち觀音・勢至つねにしたがふて影護したまふこと、また親友知識のごとくなることをあかす。五には今生にすでにこの益をかぶりて、いのちをすて、すなわち諸佛の家にいることをあかす。すなわち淨土これなり。かしこにいたりて長時に法をきゝて歷事供養し、因圓果滿す。道場の座、あにはるかならむや」。 私に問いはく、『經』(觀經)に、「若念佛者當知此人」等のたまふは、たゞ念佛者に約してしかもこれを讚嘆す。釋の家、なむのこゝろあてか、「實に雜善を比Ⅲ-0825類とすることうるにあらず」といふて、雜善に相對してひとり念佛を嘆ずるや。答いはく、文の中にかくれたりといへども、義のこゝろこれあきらかなり。知ゆへは、この『經』にすでに定散の諸善ならびに念佛の行を說て、しかもその中においてひとり念佛を標して芬陀利にたとふ。雜善に待するにあらずは、いかゞよく念佛の功、餘善諸行にこえたることをあらはさむ。しかればすなわち、「念佛者はすなわちこれ人中の好人」といふは、惡に待してしかもほむるところなり。「人中の妙好人」といふは、これ麤惡に待してしかも稱するところ也。「人中の上上人」といふは、これ下下に待してほむるところ也。「人中の希有人」といふは、これ常有に待してしかもほむるところ也。「人中の最勝人」といふは、これ最劣に待してしかもほむるところ也。 問ていはく、すでに念佛をもて上上となづくるは、なむがゆへぞ、上上品の中に說ずして下下品にいたりてしかも念佛を說や。答いはく、あにさきにいはずや。念佛の行はひろく九品にわたるとは、すなわちさきにひくところの『往生要集』(卷下)にいはく、「その勝劣にしたがふて九品をわかつべし」といへるこれなり。しかのみならず下品下生はこれ五逆重罪の人なり。しかもよく逆罪を除滅すること、餘行のⅢ-0826たえざるところ也。たゞ念佛のちからのみあて、よく重罪を滅するにたえたり。かるがゆへに極惡最下の人のために極善最上の法をとくところ也。例するに、かの无明淵源の病には、中道府藏の藥にあらずはすなわち治することあたはざるがごとし。いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念佛は靈藥の府藏なり。この藥にあらずは、なむぞこの病を治せむ。かるがゆへに弘法大師の『二敎論』(卷下)に、『六波羅蜜經』をひきていはく、「第三の法寶といふは、いはゆる過去の无量の諸佛の所說の正法、および我いまの所說なり。いはゆる八萬四千のもろもろの妙法縵、乃至有縁の衆生を調伏純熟して、阿難陀等の諸大弟子、ひとたび耳にきゝてみなことごとく憶持せしむるを攝して五分とす。一には素呾纜、二には毗奈耶、三には阿毗達磨、四には般若波羅蜜多、五には陀羅尼門。この五種の藏をもて有情を敎化するに、度すべきところにしたがふて、しかもためにこれをとく。もしかの有情、ねがふて山林に處し、つねに閑寂に居して靜慮を修せむには、しかもかれがために素呾纜藏を說。もしかの有情、ねがふて威儀をならひ、正法を護持し、一味和合して久住することをえしむ。しかもかれがために毗奈耶藏を說。もしかの有情、ねがⅢ-0827ひて正法をとき、性相を分別し、修環研覈して甚深を究竟す。しかもかれがために阿毗達磨藏を說。もしかの有情、ねがひて大乘眞實智慧をならひ、我法執著の分別をはなる。しかもかれがために般若波羅蜜多藏を說。もしかの有情、契經と調伏と對法と般若とを受持することあたはず。あるいはまた有情、もろもろの惡業、四重・八重・五无間罪・謗方等經・一闡提等の種々の重罪をつくりて銷滅することをえしむ。速に解脫して、頓に涅槃をさとる。かれがためにもろもろの陀羅尼藏を說。この五藏は、たとえば乳・酪・生蘇および妙醍醐のごとし。契經は乳の如し、調伏は酪のごとし、對法の敎はかの生蘇の如し、大乘般若は熟蘇のごとし、總持門といふはたとへば醍醐のごとし。醍醐の味、乳・酪・蘇の中に微妙第一なり。よく諸病をのぞく。もろもろの有情をして身心安樂ならしむ。總持門といふは契經等の中にもとも第一とす。よく重罪をのぞく。もろもろの衆生をして生死を解脫し、すみやかに涅槃安樂の法身を證せしむ」。W已上Rこの中の、五无間罪といふはこれ五逆罪也。すなわち醍醐の妙藥にあらずは、五无間の病はなはだ療しがたしとす。念佛もまたしかなり。往生の敎の中には念佛三昧はこれ總持のごとし、まⅢ-0828た醍醐のごとし。もし念佛三昧の醍醐の藥にあらずは、五逆深重の病はなはだ治しがたしとす、知べし。 問いはく、もししからば下品上生はこれ十惡輕罪の人なり。なにのゆへぞ念佛を說や。答いはく、念佛三昧は重罪なほ滅す。いはむや輕罪おや。餘行はしからず。あるいは輕を滅して重を滅せざるあり。あるいは一を消してしかも二をけさざるあり。念佛はしからず。輕重かねて滅す、一切あまねく治す。たとえば阿伽陀藥のあまねく一切の病を治するがごとし。かるがゆへに念佛をもて王三昧とす。凡そ九品の配當はこれ一往の義也。五逆の廻心、上上に通ず。讀誦の妙行、下下に通ず。十惡の輕罪、破戒の次罪、おのおの上下に通ず。第一義をさとり、菩提心をおこす、また上下に通ず。一法におのおの九品あり。もし品に約せば、すなわち九九八十一品なり。しかのみならず迦才のいはく、「衆生、行をおこすにすでに千殊あり。往生して土をみるにまた萬別あり」(淨土論*卷上)。一の文をみて封執をおこすことなかれ。その中に念佛はこれすぐれたる行なり。かるがゆへに芬陀利をひいて、そのたとえとす。喩の心しるべし。しかのみならず念佛の行者おば、觀音・勢至、かげとかたちとのごとくしばらくも捨離したまはず。餘行はしからず。Ⅲ-0829また念佛者は、いのちをすておはりてのち決定して極樂世界に往生す。餘行は不定なり。 おほよそ五種の嘉譽をながし、二尊の影護をかぶる、これはこれ現益なり。また淨土に往生し、乃至、佛になる、これはこれ當益なり。また道綽禪師、念佛の一行において始終の兩益をたてたまへり。『安樂集』(卷下)にいはく、「念佛の衆生おば攝取してすてざれば、いのちつきてかならず生ず。これを始益となづく。終益といふは、『觀音授記經』によるに、阿彌陀佛、世に住したまふこと長久にして、兆載永劫にまた滅度したまふことあり。般涅槃の時、たゞ觀音・勢至ましまして、安樂を住持し、十方を接引したまふ。その佛の滅度また住世と時節等同ならむ。しかもかの國の衆生、一切の佛を覩見するものあることなし。たゞ一向にもはら阿彌陀佛を念じて往生せるもののみあて、つねに彌陀現にましまして滅したまはずとみる。これはすなわちこれその終益なり」。W已上Rまさにしるべし。念佛はかくのごときらの現當二世の始終兩益あり、應知。 Ⅲ-0830選擇本願念佛集W假字下末R (十二)釋尊、定散の諸行を付屬せずして、たゞ念佛をもて阿難に付屬したまえる文。 『觀无量壽經』にのたまはく、「佛、阿難に告はく、なんぢよくこの語をたもて。この語をたもてといふは、すなわちこれ无量壽佛の名をたもてとなり」。 同經の『疏』(散善義)にいはく、「佛告阿難汝好持是語といふより已下は、まさしく彌陀の名號を付屬して、遐代に流通することをあかす。上來に定散兩門の益を說といへども、佛の本願をのぞまむには、こゝろ、衆生をして一向にもはら彌陀佛の名を稱するにあり」と。 私にいはく、『疏』の文を按ずるに二行あり。一には定散、二には念佛。 はじめに定散といふはまた分て二とす。一に定善、二に散善。はじめの定善について、それ十三あり。一には日想觀、二には水想觀、三には地想觀、四には寶樹觀、五には寶池觀、六には寶樓觀、七には華座觀、八には像想觀、九Ⅲ-0831には阿彌陀佛觀、十には觀音觀、十一には勢至觀、十二には普往生觀、十三には雜想觀。つぶさには『經』に說がごとし。たとひ餘の行なしといへども、あるいは一、あるいは多、そのたえたるところにしたがふて十三觀を修して往生をうべし。そのむね『經』にみえたり。あえて疑慮することなかれ。 次に散善について二あり。一には三福、二には九品。はじめに三福といふは、『經』(觀經)にのたまはく、「一には孝養父母、奉事師長、慈心不殺、修十善業。二には受持三歸、具足衆戒、不犯威儀。三には發菩提心、深信因果、讀誦大乘、勸進行者」。W已上經文R「孝養父母」といふは、これについて二あり。一には世間の孝養、二には出世の孝養なり。世間の孝養といふは『孝經』等の說の如し。出世の孝養といふは律の中の生縁奉事の法のごとし。「奉事師長」といふは、これについてまた二あり。一には世間の師長、二には出世の師長なり。世間の師といふは仁・義・禮・智・信等をおしふる師なり。出世の師といふは聖道・淨土の二門等をおしふる師なり。たとひ餘行なしといへども、孝養・奉事をもて往生の業とするなり。「慈心不殺修十善業」といふは、これについて二の義あり。一には、はじめに「慈心不殺」といふは、四无量心をもⅢ-0832て往生の業とするなり。次に「修十善業」といふは、一に不殺生、二に不偸盜、三に不邪婬、四に不妄語、五に不綺語、六に不惡口、七に不兩舌、八に不貪、九に不瞋、十に不邪見なり。二には、「慈心不殺」、「修十善業」の二句を合して一句とす。いはくはじめの「慈心不殺」といふは、これ四无量の中の慈无量にはあらず。これ十善のはじめの不殺をさす。かるがゆへにしりぬ、まさしくこれ十善の一句なり。たとひ餘行なしといへども、十善業をもて往生の業とするなり。「受持三歸」といふは歸依佛法僧なり。これについて二あり。一は大乘の三歸、二は小乘の三歸なり。「具足衆戒」といふは、これにまた二あり。一は大乘戒、二は小乘戒なり。「不犯威儀」といふは、これにまた二あり。一は大乘にいはく八萬あり。二は小乘にいはく三千あり。「發菩提心」といふは、諸師の心不同なり。天台にはすなわち四敎の菩提心あり。いはく藏・通・別・圓これなり。つぶさに『止觀』に說がごとし。眞言にはすなわち三種の菩提心あり。いはく行願・勝義・三摩地これなり。つぶさに『菩提心論』に說が如し。華嚴にまた菩提心あり。かの『菩提心義』および『遊心安樂道』等の說のごとし。三論・法相におのおの菩提心あり。つぶさにかの宗の章疏等の說のごとし。Ⅲ-0833また善導の所釋の菩提心あり。つぶさに『疏』にのぶるがごとし。發菩提心、その言一なりといへども、おのおのその宗にしたがふてその義不同なり。しかればすなわち、菩提心の一句ひろく諸經にわたり、あまねく顯密をかねたり。意氣博遠にして詮惻中邈なり。ねがはくは、もろもろの行者、一を執して萬を遮することなかれ。もろもろの往生をもとむる人、おのおのすべからく自宗の菩提心をおこすべし。たとひ餘行なしといへども、菩提心をもて往生の業とする也。「深信因果」といふは、これについて二あり。一には世間の因果、二には出世の因果。世間の因果といふは、すなわち六道の因果なり。『正法念經』に說が如し。出世の因果といふは、すなわち四聖の因果なり。もろもろの大小乘經に說がごとし。もしこの因果の二法をもてあまねく諸經をおさめば、諸家不同なり。しばらく天台によらば、いはく華嚴には佛・菩薩の二種の因果を說、阿含には聲聞・縁覺二乘の因果を說、方等の諸經には四乘の因果を說、般若の諸經には通・別・圓の因果を說、法華には佛因佛果を說、涅槃にはまた四乘の因果を說也。しかればすなわち、深信因果の言あまねく一代を該羅するなり。もろもろの往生をもとむる人、たとひ餘行なしⅢ-0834といへども、深信因果をもて往生の業とすべし。「讀誦大乘」といふは、わかちてすなわちこれ五種法師の中に、轉讀・諷誦の二師をあぐ、受持等の三師をあらはすなり。もし十種の法行に約せば、すなわちこれ披讀・諷誦の二種の法行をあげて、書寫・供養等の八種の法行をあらはすなり。「大乘」は、小乘をえらぶ言なり。別に一經をさすにはあらず。通じて一切の諸大乘をさすなり。いはく一切といふは、佛意ひろく一代の所說の諸大乘經をさす。しかるを一代の所說において、已結集の經あり、未結集の經あり。龍宮にかくれて、人間に流布せざる經あり、あるいは天竺にとゞまりて、いまだ漢地に來到せざる經あり。しかるをいま翻譯將來の經についてしかもこれを論ずれば、『貞元入藏の錄』の中に、『大般若經』六百卷よりはじめて『法常住經』におはるまで、顯密の大乘經すべて六百三十七部二千八百八十三卷なり。みなすべからく讀誦大乘の一句に攝すべし。ねがはくは、西方の行者、おのおのその意樂にしたがふて、あるいは法華を讀誦してもて往生の業とし、あるいは華嚴を讀誦して往生の業とし、あるいは遮那・敎王および諸尊法等を受持・讀誦して往生の業とし、あるいは般若・方等および涅槃等を解說・書Ⅲ-0835寫してもて往生の業とす。これすなわち淨土宗の『觀无量壽經』のこゝろ也。 問いはく、顯密のむねことなり、なんぞ顯の中に密を攝するや。答いはく、これは顯密のむねを攝すといふにはあらず。『貞元入藏の錄』の中に、おなじくこれを編してしかも大乘經のかぎりにいれたり。かるがゆへに讀誦大乘の一句に攝す。 問いはく、爾前の經の中になんぞ『法華』を攝するや。答いはく、いまいふところの攝といふは、權實・偏圓等の義を論ずるにはあらず。「讀誦大乘」のことば、あまねく前後の大乘の諸經に通ず。前といふは『觀經』已前の諸大乘經これなり。後といふは王宮已後の諸大乘經これなり。たゞ大乘といふて權實をえらぶことなし。しかればすなわち、まさしく華嚴・方等・般若・法華・涅槃等の諸大乘經にあたれり。「勸進行者」といふは、いはく定散諸善および念佛三昧を勸進するなり。 次に九品といふは、さきの三福を開して九品の業とす。いはく上品上生の中に「慈心不殺」(觀經)といふは、すなわち上の世福の中の第三の句にあたれり。次に「具諸戒行」といふは、すなわち上の戒福の中の第二の句の「具足衆戒」にあたれり。次に「讀誦大乘」といふは、上の行福の中の第三の句の「讀誦大乘」にあたれり。次にⅢ-0836「修行六念」といふは、すなわち上の第三の福の中の第三の句のこゝろなり。上品中生の中に「善解義趣」(觀經)といふは、すなわちこれ上の第三の福の中の第二・第三のこゝろなり。上品下生の中に「深信因果・發道心」(觀經)等といふは、すなわちこれ上の第三の福の第一・第二のこゝろ也。中品上生の中に「受持五戒」(觀經)といふは、すなわち上の第二の福の中の第二の句のこゝろなり。中品中生の中に「あるいは一日一夜受持八戒齋」(觀經)等といふは、また上の第二の福のこゝろにおなじき也。中品下生の中に「孝養父母行世仁慈」(觀經)等といふは、すなわち上のはじめの福の第一・第二の句のこゝろ也。下品上生といふは、これ十惡の罪人なり。臨終の一念につみ滅してむまるゝことをう。下品中生といふは、これ破戒の罪人なり。臨終に佛の依正の功德をきゝて、つみ滅してうまるゝことをう。下品下生といふは、これ五逆の罪人なり。臨終に十念してつみ滅してうまるゝことをう。この三品は、尋常の時たゞ惡業をのみつくりて往生をもとめずといへども、臨終の時はじめて善知識にあふてすなわち往生をう。もし上の三福に准ぜば、第三の福の大乘のこゝろ也。定善・散善、大概かくのごとし。文に、すなわち「上來雖說定散兩門之益」といふこれ也。 Ⅲ-0837次に念佛といふは、もはら彌陀佛の名を稱するこれなり。念佛の義つねのごとし。しかもいま、「まさしく彌陀の名號を付屬して遐代に流通することをあかす」といふは、おほよそこの『經』の中に、すでにひろく定散の諸行を說といへども、すなわち定散をもて阿難に付屬せずして後世に流通せしめず。たゞ念佛三昧の一行をもてすなわち阿難に付屬し遐代に流通せしむ。 問いはく、なむがゆへぞ、定散の諸行をもて付屬流通せざるや。もしそれ業の淺深によてきらひて付屬せずは、三福の業の中に淺あり深あり。その淺業といふは孝養父母・奉事師長なり。その深業といふは具足衆戒・發菩提心・深信因果・讀誦大乘なり。すべからく淺業をすてゝ深業を付屬すべし。もし觀の淺深によりてきらいて付屬せずは、十三觀の中に淺あり深あり。その淺觀といふは日想・水想これなり。深觀といふは地觀よりはじめて雜想觀におはるまで、すべて十一觀これなり。すべからく淺觀をすてゝ深觀を付屬すべし。なかづくに、第九は阿彌陀佛觀也。すなわちこれ觀佛三昧なり。すべからく十二觀をすてゝ觀佛三昧を付屬すべきなり。なかづくに、同『疏』の「玄義分」(意)の中にいはく、「この『經』は觀佛三昧を宗とす、また念佛三昧を宗とす」。すでⅢ-0838に二行をもて一經の宗とす。なむぞ觀佛三昧を廢して念佛三昧を付屬するや。答いはく、「佛の本願をのぞまむには、こゝろ衆生をして一向にもはら彌陀佛の名を稱するにあり」(散善義)といふ。定散の諸行は本願にあらざるがゆへにこれを付屬せず。またその中において、觀佛三昧は殊勝の行なりといへども、佛の本願にあらず。かるがゆへにこれを付屬せず。「佛の本願をのぞむ」といふは、『雙卷經』の四十八願の中の第十八の願をさすなり。「一向專稱」といふは、同『經』(大經*卷下)の三輩の中の「一向專念」をさすなり。本願の義、つぶさにさきに辯ずるがごとし。 問いはく、もししからば、なんがゆへぞ直に本願の念佛の行を說ずして、わづらはしく本願にあらざる定散の諸善を說や。答いはく、本願の念佛の行は『雙卷經』の中にくはしくすでにこれを說たまへるがゆへに、かさねて說ずならくのみ。また定散を說ことは、念佛の餘善に超過することをあらはさむがためなり。もし定散なくは、なんぞ念佛のことに秀たることをあらはさむ。例せば『法華』の三說に秀たるがごとし。上にもし三說なくは、なむぞ『法華』の第一なることをあらはさむ。かるがゆへにいま定散は廢のためにしかも說、念佛三昧は立のためにしかも說。 たゞし定散の諸善みなもⅢ-0839てはかりがたし。おほよそ定善は、依正の觀、かゞみをかけてしかも照臨す。往生の願、たなごゝろをさしてしかも速疾なり。あるいは一觀のちから、よく多劫の罪𠍴をしりぞく。あるいは具憶の功、ついに三昧の勝利をう。しかればすなわち、往生をもとむる人、よろしく定觀を修行すべし。なかづくに、第九の眞身觀はこれ觀佛三昧の法なり。行もし成就すれば、すなわち彌陀の身をみたてまつる。彌陀をみたてまつるがゆへに、諸佛をみたてまつることをう。諸佛をみたてまつるがゆへに、現前に授記せらる。この觀の利益もとも甚深なり。しかるにいま『觀經』の流通分にいたて、釋迦如來、阿難に告命して往生の要法を付屬・流通せしむるによりて、觀佛の法をきらひてなほ阿難に付屬せず、念佛の法をえらびてすなわちもて阿難に付屬す。觀佛三昧の法、なほもて付屬せず。いかにいはむや、日想・水想等の觀においてをや。しかればすなわち、十三の定觀はみなもて付屬せざるところの行なり。しかるに世人、もし觀佛等をねがふて念佛を修せずは、とおくは彌陀の本願にそむき、またこれちかくは釋尊の付屬に違するにあらずや。行者よろしく商量すべし。次に散善の中に、大小の持戒の行あり。世みなおもへらく、持戒の行者これ入眞Ⅲ-0840の要なり。破戒のものは往生すべからず。また菩提心の行あり。人みなおもはく、菩提心はこれ淨土の綱要なり。もし菩提心なくは、すなわち往生すべからず。また解第一義の行あり。これはこれ理觀なり。人またおもはく、理はこれ佛の源なり。理をはなれては佛土をもとむべからず。もし理觀なくは、往生すべからず。また讀誦大乘の行あり。人みないふならく、大乘を讀誦して往生すべし。もし讀誦の行なくは、往生すべからず。これについて二あり。一は持經、二は持呪なり。持經といふは、般若・法華等の諸大乘經をたもつなり。持呪といふは隨求・尊勝・光明・阿彌陀等のもろもろの神呪をたもつなり。おほよそ散善の十一人、みなたふとしといへども、その中においてこの四箇の行、當世の人ことに欲するところの行なり。これらの行をもてほとおと念佛をおさう。つらつら經のこゝろをたづぬれば、この諸行をもて付屬・流通せず。たゞ念佛の一行をもて、すなわち後世に付屬・流通せしむ。しるべし、釋尊の諸行を付屬せさせたまはざるゆへは、すなわちこれ彌陀の本願にあらざるがゆへなり。また念佛を付屬するゆへは、すなわちこれ彌陀の本願のゆへなり。いままた善導和尙、諸行を廢して念佛に歸するゆへは、すなわち彌陀のⅢ-0841本願たるうえに、またこれ釋尊付屬の行なり。かるがゆへにしりぬ、諸行は機にあらず、時を失せり。念佛往生は機にあたりて、時をえたり。感應あにむなしからむや。まさにしるべし、隨他のまへにはしばらく定散の門を開といへども、隨自ののちにはかへりて定散の門を閉。ひとたびひらいてのちながくとぢざるは、たゞこれ念佛の一門なり。彌陀の本願、釋尊の付屬、こゝろこれにあり。行者しるべし。またこの中に「遐代」といふは、『雙卷經』のこゝろによらば、とおく末法萬年ののち百歲の時をさすなり。これすなわち遠をあげて近を攝するなり。しかれば、法滅ののちなほもてしかなり。いかにいはむや末法おや。末法すでにしかり。いはむや正法・像法おや。かるがゆへにしりぬ、念佛往生の道は正像末の三時、および法滅百歲の時に通ずといふことを。 (十三)念佛をもて多善根とし、雜善をもて少善根とする文。 『阿彌陀經』にのたまはく、「少善根福德の因縁をもて、かの國に生ずることうべからず。舍利弗、もし善男子・善女人あて、阿彌陀佛を說をきゝて、名號を執持して、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もⅢ-0842しは六日、もしは七日、心を一にしてみだらずは、その人命終の時にのぞみて、阿彌陀佛もろもろの聖衆と現じて、そのまへにまします。この人おはらむ時に心顚倒せずして、すなわち阿彌陀佛の極樂國土に生ずることをう」。 善導この文を釋していはく、「極樂无爲涅槃の界なり、隨縁の雜善はおそらくは生じがたし。かるがゆへに如來、要法をえらむで、敎へて彌陀を念ぜしむ。もはらにしてまたもはらにせよと。七日七夜、心にひまなかれ。長時に行をおこすもますますみなしかなり。臨終に聖衆、花をもて現ず。身心踊躍して金蓮に坐す。坐する時にすなわち无生忍をう。一念にむかえて佛前にまさにいたる。法侶衣をもて、きおいきたりてきす。不退を證得して三賢に入る」(法事讚*卷下)と。 私にいはく、「少善根福德の因縁をもて、かの國に生ずることをうべからず」といふは、諸餘の雜行はかのくにゝむまれがたし。かるがゆへに「隨縁雜善恐難生」といふ。「少善根」といふは多善根に對することばなり。しかればすなわち、雜善はこれ少善根なり、念佛はこれ多善根なり。かるがゆへに『龍舒淨土文』(卷一)にいはく、「襄陽の石に『阿彌陀經』をゑれり。すなわち隋の陳仁稜が書するところなり。字畫淸婉にして、人おほくねがひもてあそぶ。一心不Ⅲ-0843亂といふより下にいはく、專持名號以稱名故諸罪消滅卽是多善根福德因縁と。いまの世につたわる本にこの二十一字をぬけり」。W已上Rたゞ多少の義あるのみにあらず。また大小の義ありといへり。雜善はこれ小善根なり、念佛はこれ大善根なり。また勝劣の義あり。いはく雜善はこれ劣善根なり、念佛はこれ勝善根なり。その義しるべし。 (十四)六方恆沙の諸佛餘行を證誠せず、たゞ念佛を證誠したまえる文。 善導『觀念法門』にいはく、「また『彌陀經』にのたまへるがごとし。六方におのおの恆河沙等の諸佛ましまして、みなみしたをのべてあまねく三千世界におほいて、誠實の言を說たまふ。もしは佛の在世にまれ、もしは佛の滅後にまれ、一切の造罪の凡夫、たゞ心を廻して阿彌陀佛を念じて、ねがふて淨土に生ず。上百年をつくし、下七日・一日、十聲・三聲・一聲等にいたるまで、いのちおはらむとする時、佛、聖衆とみづからきたりて迎接して、すなわち往生をう。上のごとき六方等の佛、みしたをのべて、さだめて凡夫のために證をなしたまふ、つみ滅して生ことをうと。もしこの證によりて生ずることえずといはゞ、六方の諸佛ののべたまへるみした、ひとたびみくちよりいでゝのち、ついにみくちにかへりいらⅢ-0844ずして、自然に壞爛せむ」と。 同『往生禮讚』に『阿彌陀經』をひきていはく、「東方恆河沙等の諸佛、おのおの本國にして、その舌相をいだして、あまねく三千大千世界におほふて、誠實のみことを說たまふ。なんだち衆生、みなこの一切の諸佛の護念したまふところの經を信ずべし。いかゞ護念となづくる。もし衆生あて阿彌陀佛を稱念して、もしは一日および七日、下十聲乃至一聲、一念等にいたるまで、かならず往生することをう。かるがゆへに護念經となづく」。 またいはく、「六方の如來みしたをのべて、もはら名號を稱して西方にいたることを證したまふ。かしこにいたりてはなひらけて、妙法をきゝて、十地願行自然にあらはる」(禮讚)と。 おなじく『觀經の疏』(散善義)に『阿彌陀經』をひきていはく、「また十方の佛等、衆生の釋迦一佛の所說を信ぜざらむことを恐畏して、すなわちともに同心同時に、おのおの舌相をいだしてあまねく三千世界におほふて、誠實のみことを說て、なんだち衆生、みなこの釋迦の所說・所讚・所證を信ずべし。一切の凡夫の罪福の多少、時節の久近をとはず、たゞよく上百年をつくし、下一日七日にいたるⅢ-0845まで、一心にもはら彌陀の名號を念ずれば、さだめて往生することをう。かならずうたがひなき也」。 同『法事讚』(卷下)にいはく、「心心に佛を念じてうたがひをなすことなかれ、六方如來の證むなしからず。三業專心にして雜亂せざれ、百寶の蓮花時に應じてみえむ」。 法照禪師の『淨土五會法事讚』(卷本)にいはく、「萬行の中に急要とす、迅速なること淨土門にすぎたるはなし。たゞ本師金口の說のみにあらず、十方諸佛ともにつたえ證し給ふ」と。 私に問いはく、なむがゆへぞ、六方の諸佛證誠して、たゞ念佛一行にかぎるや。答いはく、もし善導のこゝろによらば、念佛はこれ彌陀の本願なるがゆへにこれを證誠す。餘行はしからず。かるがゆへにこれなし。 問いはく、もし本願によりて念佛を證誠したまはゞ、『雙卷經』・『觀經』等に念佛を說たまふ時、なむぞ證誠したまはざるや。答いはく、解するに二の義あり。一に解していはく、『雙卷』・『觀經』等の中に本願の念佛を說たまふといへども、かねて餘行をあかす。ゆへに證誠したまはず。この『經』は一向にもはら念佛Ⅲ-0846を說たまふ。かるがゆへにこれを證誠す。二に解していはく、『雙卷經』等の中に證誠のみことなしといへども、この『經』にすでに證誠あり。これに例してかれをおもふに、かれらの『經』の中において說たまふところの念佛に、また證誠あるべし。文はこの『經』にありといへども、義はかの『經』に通ず。かるがゆへに天台の『十疑論』にいはく、「また『阿彌陀經』・『大无量壽經』・『鼓音聲陀羅尼經』等にのたまはく、釋迦佛、この經を說たまひしに、十方世界におのおの恆河沙の諸佛ましまして、それ舌相をのべてあまねく三千世界におほふて、一切衆生の阿彌陀佛を念じて佛の本願大悲願力に乘ずるがゆへに、決定して極樂世界に生ずることをうと證誠したまふ」と。 (十五)六方の諸佛、念佛の行者を護念したまふ文。 『觀念法門』にいはく、「また『彌陀經』に說たまふしがごとし。もし善男子・善女人あて、七日七夜および一生をつくして、一心に阿彌陀佛を專念して往生をねがふもの、この人つねに六方恆河沙等の佛、ともにきたりて護念したまふことをう。かるがゆへに護念經となづく。護念經のこゝろは、またもろもろの惡鬼神をしてたよりをえしめず、また橫病、橫死、橫に厄難あることなし。一切の災障Ⅲ-0847自然に消滅す。心をいたさざるおばのぞく」と。 『往生禮讚』にいはく、「もし佛を稱して往生するものは、つねに六方恆沙等の諸佛のために護念せらる。かるがゆへに護念經となづく。いますでにこの增上の誓願あり、たのむべし。もろもろの佛子等、なんぞこゝろをはげまさざらむや」。 私に問いはく、たゞ六方の如來のみましまして、行者を護念したまふはいかむぞ。答いはく、六方の如來のみにかぎらず。彌陀・觀音等またきたりて護念したまふ。かるがゆへに『往生禮讚』に云、「『十往生經』にのたまはく、もし衆生あて阿彌陀佛を念じて往生をねがはゞ、かの佛すなわち二十五の菩薩をつかはして、行者を擁護して、もしは行、もしは坐、もしは住、もしは臥、もしは晝、もしは夜、一切の時、一切のところに、惡鬼・惡神をしてそのたよりをえしめず。また『觀經』に言がごとし。もし阿彌陀佛を稱禮念して、かの國に往生せむとねがはゞ、かの佛すなわち无數の化佛、无數の化觀音・勢至菩薩をつかはして、行者を護念したまふ。またさきの二十五の菩薩等と、百重千重行者を圍遶して、行住坐臥をとはず、一切の時處、もしは晝、もしは夜、つねに行者をはなれず。いますでにこの勝益あり、たのむべし。ねがはくは、Ⅲ-0848もろもろの行者、おのおのすべからく心をいたして往生をもとむべし」。また『觀念法門』に云、「また『觀經』の下の文のごとし。もし人あて、心をいたしてつねに阿彌陀佛および二菩薩を念ずれば、觀音・勢至つねに行人のために勝友知識となりて隨逐影護したまふ」。またいはく、「また『般舟三昧經』の行品の中に說て言へるがごとし。佛ののたまはく、もし人もはらこの念阿彌陀佛三昧を行ずれば、つねに一切の諸天および四天大王・龍神八部の隨逐影護をう。あひみむことを愛樂して、ながくもろもろの惡鬼神、災障・厄難をもて、橫に惱亂を加することなし。つぶさに護持品の中に說るがごとし」(觀念*法門)。またいはく、「三昧道場に入るをのぞきては、日別に彌陀佛を念ずること一萬して、いのちおはるまで相續すれば、すなわち彌陀の加念をかぶりて罪障をのぞくことをう。また佛、聖衆とつねにきたりて護念することをかぶる。すでに護念を蒙ぬれば、すなわち年をのべ命を轉ずることをう」(觀念*法門)と。 (十六)釋迦如來、彌陀の名號をもて慇懃に舍利弗に付屬する文。 『阿彌陀經』にのたまはく、「佛この經を說たまふことおはりて、舍利弗およびもろもろの比丘、一切世間の天・人・阿修羅等、佛の所說をきゝて、歡喜信受して、Ⅲ-0849禮をなしてしかもさりにき」。 善導『法事讚』(卷下)に、この文を釋していはく、「世尊の說法の時まさにおはりなむとして、ねむごろに彌陀の名を付屬したまふ。五濁增の時には疑謗のものおほく、道俗あひきらいてきくことをもちゐず。修行するものあるをみては瞋毒をおこす。方便して破壞し、きおいてあだをなす。かくのごとき生盲闡提のともがら、頓敎を毀滅してながく沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三途の身をはなるゝことをうべからず。大衆同心にみな、あらゆる破法のつみの因縁を懺悔せよ」。 私にいはく、凡そ三經の心を按ずるに、諸行の中に念佛を選擇して、もて旨歸とせり。 まづ『雙卷經』の中に三の選擇あり。一には選擇本願、二には選擇讚嘆、三には選擇留敎。一に選擇本願といふは、念佛はこれ法藏比丘、二百一十億の中において選擇したまふところの往生の行なり。くわしきむね上にみえたり。かるがゆへに選擇本願といふ。二に選擇讚嘆といふは、上に三輩の中に菩提心等の餘行をあぐといへども、釋迦すなわち餘行を讚嘆せず、たゞ念佛において讚嘆して、「无上の功德」(大經*卷下意)とのたまへり。かるがゆへに選擇Ⅲ-0850讚嘆といふ也。三に選擇留敎といふは、またかみに餘行・諸善をあぐといへども、釋迦選擇してたゞ念佛の一法をとゞめたまへり。かるがゆへに選擇留敎といふ。 次に『觀經』の中にまた三の選擇あり。一には選擇攝取、二には選擇化讚、三には選擇付屬なり。一に選擇攝取といふは、『觀經』の中に定散の諸行をあかすといへども、彌陀の光明たゞ念佛の衆生をてらして、攝取してすてたまはず。かるがゆへに選擇攝取といふなり。二に選擇化讚といふは、下品上生の人、聞經と稱佛との二行ありといへども、彌陀の化佛、念佛を選擇して、「なんぢ佛名を稱するがゆへに諸罪消滅せり。我きたりて汝をむかふ」(觀經)とのたまへり。かるがゆへに選擇化讚といふなり。三に選擇付屬といふは、また定散の諸行をあかすといへども、たゞひとり念佛の一行を付屬したまへり。かるがゆへに選擇付屬といふなり。 次に『阿彌陀經』の中に一の選擇あり。いはゆる選擇證誠なり。すでに諸經の中においておほく往生の諸行を說といへども、六方の諸佛かの諸行においてしかも證誠せず、この『經』の中にいたて念佛往生を說たまふ時に、六方恆沙の諸佛、おのおのみしたをのべて大千におほいて、誠實のみことを說て、しかもこれを證誠したまふ。かるがⅢ-0851ゆへに選擇證誠といふなり。 しかのみならず『般舟三昧經』(一卷本*問事品意)の中にまた一の選擇あり。いはゆる選擇我名なり。彌陀の自說にのたまはく、「我國に來生せむとおもはむものは、つねに我名を念じて、休息せしむることなかれ」と。かるがゆへに選擇我名といふなり。本願と攝取と我名と化讚と、この四はこれ彌陀の選擇なり。讚嘆と留敎と付屬と、この三はこれ釋迦の選擇なり。證誠は六方恆沙の諸佛の選擇なり。しかればすなわち、釋迦・彌陀および十方のおのおの恆沙等の諸佛、同心に念佛の一行を選擇したまへり。餘行はしからず。かるがゆへにしりぬ、三經ともに念佛を選擇して、もて宗致とすならくのみ。 はかりみれば、夫生死をはなれむとおもはゞ、二の勝法の中に、しばらく聖道門をさしおきてえらびて淨土門に入れ。淨土門にいらむとおもはゞ、正雜二行の中に、しばらくもろもろの雜行をなげすてゝえらびて正行に歸すべし。正行を修せむとおもはゞ、正助二業の中に、なほ助業をかたわらにしてえらびて正定をもはらにすべし。正定の業といふは、すなわちこれ佛の名を稱する也。名を稱すれば、かならず生ずることをう。佛の本願によるがゆへに。 問いⅢ-0852はく、華嚴・天台・眞言・禪門・三論・法相の諸師、おのおの淨土法門の章疏をつくれり。なむぞかれらの師によらずして、たゞ善導一師をもちゐるや。答ていはく、かれらの諸師みな淨土の章疏をつくれりといへども、しかも淨土をもて宗とせず、たゞ聖道をもてしかもその宗とす。かるがゆへにかれらの諸師によらざる也。善導和尙はひとへに淨土をもてしかも宗として、聖道をもて宗とせず。かるがゆへにひとへに善導一師によるなり。 問いはく、淨土の祖師そのかずまたおほし。いはく弘法寺の迦才、慈愍三藏等これなり。なむぞかれらの諸師によらずして、たゞ善導一師をもちゐるや。答いはく、これらの諸師淨土を宗とすといへども、いまだ三昧を發せず。善導和尙はこれ三昧發得の人なり。道においてすでにその證あり。かるがゆへにしばらくこれをもちゐるなり。 問ていはく、もし三昧發得によらば、懷感禪師はまたこれ三昧發得の人なり。なむぞこれをもちゐざるや。答云、善導はこれ師なり、懷感はこれ弟子也。かるがゆへに師によりて弟子によらざる也。いはむや師資の釋、その相違はなはだおほし。かるがゆへにこれをもちゐず。 問いはく、もし師によりて弟子によらずは、道綽禪師はこれ善導和尙の師なり。そもそもまたⅢ-0853淨土の祖師なり。なむぞこれをもちゐざるや。答ていはく、道綽禪師はこれ師なりといへども、いまだ三昧を發したまわず。かるがゆへにみづから往生の得否をしらずして、善導に問いはく、道綽念佛して往生をえてむやいなやと。導、一莖の蓮花を辨ぜしめて、これを佛前におきて、行道七日せむに華萎悴せずは、すなわち往生をえてむ。これによりて七日、果然として萎きばまず。綽、嘆ずることはなはだし。まうでゝ請によりて、入定して觀ずべし、生ずることうべしやいなやと。導すなわち入定して、須臾に報じていはく、まさに三の罪を懺して、まさに往生すべしと。一は師、むかし佛の尊像を安じて、簷牖の下において、みづからは深房に處せり。二は出家の人を驅使・策役す。三は屋宇を營造して蟲の命を損傷す。師、よろしく十方の佛前にして第一のつみを懺し、四方の僧の前にして第二の罪を懺し、一切衆生の前にして第三の罪を懺すべしと。しづかにむかしのとがをおもふに、みなむなしからずといふ。こゝに心をあらひ、悔謝しおはりて、導にみえてすなわちいはく、師のつみ滅しぬと。のちにまさに白光あて照燭すべし。これ師の往生の相なりと。W已上、『新修往生傳』R こゝにしりぬ。善導和尙は行、三昧を發し、力、師の位にたえたⅢ-0854り。解行、凡にあらず、まさにこれあきらけし。いはむや、また時の人諺に云、「佛法東にゆいてよりこのかた、いまだ禪師のごときの盛德にあらず。絶倫の譽、えて稱すべからざるものか」。しかのみならず『觀經の疏』を條錄せしきざみ、すこぶる靈瑞を感じて、しばしば聖化にあづかる。すでに聖の冥加をかぶりて、しかも『經』の科文をつくる。世こぞてしかも證定の疏と稱す。人これをたうとむこと佛の經法のごとし。すなわちかの『疏』の第四卷(散善義)の奧にいはく、「敬て一切の有縁の知識等にまうさく、余すでにこれ生死の凡夫なり。智慧淺短なり。しかも佛敎は幽微なり。あえてたやすく異解を生ぜず。ついにすなわち心を標し願を結て、靈驗を請求して、まさにこゝろをいたすべし。盡虛空遍法界一切三寶、釋迦牟尼佛・阿彌陀佛・觀音・勢至、かの土の諸菩薩大海衆および一切莊嚴相等に南无し歸命したてまつる。某、いまこの『觀經』の要義を出して、古今を楷定せむとおもふ。もし三世の諸佛・釋迦佛・阿彌陀佛等の大悲願のおむこゝろにかなはゞ、ねがはくは夢の中において、かみのごときの所願の一切の境界諸相をみることをえむ。佛像の前にして結願し、おはりて日別に『阿彌陀經』三遍を誦し、阿彌陀佛三萬遍を念じ、至心Ⅲ-0855發願して、當夜において西方の空中をみるに、上のごときの諸相境界ことごとくみな顯現す。雜色の寶山百重千重にして、種種の光明あて、下、地をてらす。地、金色のごとし。中に諸佛・菩薩ましまして、あるいは坐し、あるいは立し、あるいは語し、あるいは嘿し、あるいは身手をうごかし、あるいは住して動ぜざるものあり。すでにこの相をみて、合掌して立ちみることやゝひさしくして、すなわちさめぬ。さめおはりて欣喜するにたえず。すなわち義門を條錄す。これよりのち、每夜の夢の中にひとりの僧あて、きたりて玄義を指授す。科文すでにおはりて、さらにまたみえず。のちの時に本をぬきおはりぬ。またさらに心をいたして七日を要期して、日別に『阿彌陀經』十遍を誦し、阿彌陀佛三萬遍を念ず。初夜・後夜、かの佛の國土の莊嚴等の相を觀想して、誠心に歸命したてまつること、一上の法のごとし。當夜にすなわちみらく、三具の磑輪みちのほとりにひとり轉ず。たちまちに一人あて、しろき駱駝に乘じてまへにきたりて、みえてすゝむらく、師、まさにゆめゆめ決定して往生すべし。退轉をなすことなかれ。この界は穢惡にしておほくくるし。いたはしく貪樂せざれ。答まふさく、おほきに賢者の好心の視誨をかうぶⅢ-0856りぬ。某、畢命を期として、あえて懈慢のこゝろを生ぜじと[云々]。第二夜に阿彌陀佛をみたてまつるに、身眞金のいろにして、七寶樹下の金蓮華の上にましまして座したまへり。十僧圍繞して、おのおの一の寶樹の下に坐せり。佛樹の上にはすなわち天衣あて、かゝりまつえり。面をたゞしくし西にむかふて、合掌して坐してみる。第三夜にみらく、兩の幢杆あり。大に高くあらはれて、幡かゝりて五色なり。道路縱橫にして、人みることさわりなし。すでにこの相をえおはて、すなわち休息して七日にいたらず。上來所有の靈相は、本心、ものゝためにす、己身のためにせず。すでにこの相をかぶれり。あえて隱藏せず。謹でもて義をのべあらはすのちに、末代にきこえられむ。ねがはくは、含靈をしてこれをきかしめて信を生ぜしめむ。有識のみむものをして西に歸せむ。この功德をもて衆生に廻施す。ことごとく菩提心をおこして、慈心をもてあひむかひ、佛眼をもてあひみて、菩提までに眷屬として眞の善知識とならむ。おなじく淨國に歸してともに佛道をならむ。この義すでに證を請てさだめおはりぬ。一句一字加減すべからず。うつさむとおもはむもの、もはら經法のごとくすべし。知るべし」。W已上R Ⅲ-0857しづかにおもひみれば、善導の『觀經の疏』はこれ西方の指南、行者の目足なり。しかればすなわち西方の行人、かならずすべからく珍敬すべし。なかづくに、每夜の夢の中に僧あて、玄義を指授せり。僧といふはおそらくはこれ彌陀の應現なり。しかればいふべし、この『疏』はこれ彌陀の傳說なり。いかにいはむや、大唐に相傳していはく、「善導はこれ彌陀の化身なり」。しからばいふべし、またこの文はこれ彌陀の直說なり。すでにいへり、「寫さむとおもはむものは、もはら經法の如くすべし」と。この言まことなるかなや。仰で本地をたづぬれば、四十八願の法王なり。十劫正覺のとなえ、念佛にたのみあり。ふして垂迹を訪へば、專修念佛の導師なり。三昧正受のみこと、往生にうたがひなし。本迹ことなりといへども、化道これ一なり。 こゝに貧道、むかしこの典を披閲して、粗素意をさとれり。たち所に餘行をとゞめてこゝに念佛に歸す。それよりこのかた今日にいたるまで、自行化他たゞ念佛を縡とす。しかるあひだ、まれに津をとふものには、しめすに西方の通津をもてす、たまたま行をたづぬるものには、おしふるに念佛の別行をもてす。これを信ずるものはおほく、信ぜざるものはすくなし。しるべし。淨土の敎、時機をⅢ-0858たゝいてしかも行運にあたれる也。念佛の行、水月を感じてしかも昇降をえたるなり。しかるにいま、はからざるに兼實博陸の高命をかぶれり。辭謝するにところなし。よていまなまじゐに念佛の要文をあつめて、あまさへ念佛の要義を述せり。たゞ命旨をかへりみて不敏をかへりみず。これすなわち无慚无愧の甚也。こひねがはくは、ひとたび高覽をへてのち、壁のそこにうづみて、まどのまへにのこすことなかれ。恐くは破法の人をして、惡道に墮せしめざらむため也。 選擇本願念佛集W假字下末R 正元元歲九月十日書之 愚禿親鸞W八十七歲R 正安第四W壬寅R十一月廿七日書寫之畢